第5話 エシレ姉の巣立ちを見守る
「おおー、ようこそ、いらっしゃいました」
木柵で守られた村の小さな広場で、キルシュ一行は馬から降りた。
篝火と村人の出迎え、声なく母にすがる子供たち。
大男は、両腕をひろげる村長の下へ向かう。
挨拶から、状況説明に耳を傾けて。
——いつの間にか、奴らは峡谷の向こうに棲みついた。
——丸々太った猪を差し出しても満足せず、女と子供を寄越せと言ってきた。
——緑子鬼の群れをなす頭数は、わからない。
大男は、ひとつ頷く。
「わかった。次の使いが来るのはいつだ」
「今夜になりますが——」
言いさして、村長の笑みが消える。
「大変失礼と存じますが、いくら筋骨隆々のあなたさまでも、たった一人では立ち向かうこと敵いますまい」
村長の目に、夕闇に溶ける黒衣の二人は映らなかった。
大男は苦笑い。
「荷物持ちのオレでは、緑子鬼の群れ退治は両手に余る」
「はぁ? では、あなたさまは何のためにいらしたのですか」
キルシュは前に出た。不安に彩られた顔を見回し、
「姉さまが緑子鬼の群れを殲滅します」
幼さが残る声の高さに、村人たちは動揺を隠せず。
——あんな子供らで、大丈夫なのか。
——大男に若い衆と猟犬をつけて、数で追い込まねぇと。
大男は両手で不安の声を制した。
「案ずるな。こちらの嬢ちゃんは、一騎当千の言葉でも足りない」
小さく沸いた村人たちの歓声を、薄暮の風がさらってゆく。
篝火に囲まれた広場の真ん中で、キルシュとエシレは丸太に腰掛けた。
星降る夜空を見上げ、亡き父の思い出をぽつりぽつりと語るエシレ。
——でも、お父さまの剣術は、キィくんが受け継いだし。きっと、天国で喜んでるよ。
——姉さまもですよ。
——わたしはいいの。キィくんがいれば、それで。
涼しい夜風に混じる獣の臭いに、二人は立ち上がった。
「姉さま、とにかく、剣の自由を奪われないように。突き刺すのは駄目ですよ」
「うん、わかってる」
闇の帳から、蛮刀を手にする四頭の緑子鬼が現れた。
「ぐへへ、うまそうだな」
醜悪な顔がはっきり見えて、エシレは剣を抜いた。
一瞬で熾した魔力を爪先に込めて、大地を蹴る。
「やぁあああーっ」
甲高い声を残し、黒影が緑子鬼に襲いかかる。
エシレは、大振りの蛮刀をかわし一閃。
宙を舞う醜悪な笑み。
首を失った胴を蹴って、追撃の二頭を転がし。
慌てて立ち上がった緑子鬼に銀閃が走り、絶叫。
逃げ出した最後の一頭、エシレは風より速く先回り。
鋭く踏み込んで一閃。
緑の手に握られた蛮刀が、月光を弾いて輝いた。
おっとり追いついたキルシュは、血と苦鳴をまき散らす緑子鬼を見下ろす。
エシレは一振りで剣の汚れを落とし、弟に寄り添い。
ただ、緑子鬼がのたうち回るさまをみつめる。
残った左手で肘を止血しながら、醜悪の緑が立ち上がり、
「ウルォオオオー」
ビリリと月夜を震わせる咆哮を残し、よろめく足が遠ざかる。
キルシュは、並び立つ姉をみやった。
血の気を失った唇がひくひく——僕もそうだった。
「姉さま、頑張りました。我慢しない、吐き出して」
エシレは剣を放り両膝をついて——。
キルシュは姉の背をさすり続けた。
嘔吐に混じる呪詛は聞き流し——姉さまは頑張った、と励まし続け。
エシレは袖口で口元を拭い、
「うぅ……キィくんも、最初は吐いた?」
「うん、父さまの手引きで、野盗の一団を斬って、吐いた」
「そっか、キィくんでも吐いたの。よかったぁー」
キルシュは姉を立たせた。
無詠唱——宙からひねり出した水で袖口を濡らし、青ざめた白貌の乾いた涙に汚れた口元を拭う。
「ありがと、わたしのキィくん」
エシレの大きな目が、やわらかにしなる。
広場に戻り、キルシュは姉を休ませることにした。
生気のないエシレは丸太に腰掛け、弟にもたれ。
大男は手早く煉瓦の釜戸を組み上げる。
鍋を火にかけ、ぐつぐつぐつ。
「冒険者の荷物持ちで十年、オレのキノコ粥は絶品ですよ」
エシレは差し出された椀を両手にふうふう。一匙を口元に運ぶ。
「あ、おいしい」
「あっ、てなんですか。そろそろ、オレのこと信用してくださいよ」
小さく笑みを交わし、粥をすする。
体が温まり、吹き出す汗を夜風がさらってゆく。
おかわりを三杯して、エシレは吐息をついた。
「ごちそうさま」
大男は満足げに頷いて、雇い主の顔をうかがう。
「うん、おいしかった。少し休みたいから、下がって」
わかりました——大男は、広場の向こうの闇へ消えた。
少しだけ、と寝息を立てる姉の半身を胸に抱くキルシュも小さく欠伸。
猟犬の唸り声が聞こえて、懐の蔓薔薇の杖を手にする。
一瞬で腹底に満ちる魔力——眠気は吹き飛び。
「姉さま、起きてください」
村の奥から、引きずる音が近づいてくる。
闇の紗から現れた焦げ茶の髪は、頭に包帯を巻くハルツァー・アウスレーゼだった。
その足元に、縄で縛られた村人たちが転がり。
「くくく、平民。会いにきてやったぞ」
家臣らしき白服の男たちが散開し剣を構えた。
ハルツァーは指先で包帯を指し、
「この傷が疼くのだよ。わかるだろ」
「かすり傷だと思うけど」
「受けた辱めは貴様の命でも足りないが、わたしは寛大だ。貴様とエシレの編入辞退で許してやろう」
「断る」
ハルツァーは前髪をかきあげた。
「ああ、残念だよ。貴様の傲慢のせいで、罪ない村人が無意味に死んでゆく。ああー、死を目前にした一瞬の魂の輝き、じつに美しい」
「彼らは関係ないし、あんたの貴族の誇りとやらは、どこに消えたの?」
「くくく、無学の平民に教えてやろう。領民は領主の物なのだよ。その命さえも」
白服のひとりが、地に転がる村人の喉に剣を突きつけた。
キルシュは、腹底の魔力を解放。
幾重もの氷杭を泡立たせ。
「一人でも傷つけたら、生まれたことを後悔するよ」
ハルツァーは剣を振り下ろした。
「前へ! 領内を荒らす野盗をぶち殺せ!」
丸太に腰掛ける黒衣の少女を守るように煌めく無数の氷杭に、白服どもは後退り。
——無理だ、命がいくつあっても足りない。
——無詠唱、普通じゃない。
——あれは人ならざる者、俺たちでは勝てない。
「いいから、やれーっ!」
弟の腕の中で、エシレは目覚めた。
体を起こし、寝ぼけ眼をこすり、
「わっ、なに」
キルシュは丸太から腰を上げた。
エシレも慌てて立ち上がり、目を見開いた。
「あーっ、食堂でいきなり斬りつけてきた頭がおかしい人!」
「頭がおかしいのは貴様らだ。貴族の神聖な庭を汚す平民め、二人揃って編入を辞退しろ!」
エシレは、すらりと剣を抜く。
魔力を爪先に込めて、大地を蹴った。
風切り音を残して、黒影がハルツァーの懐に飛び込む。
銀閃が走り、宙を舞った剣が地に突き刺さった。
エシレは、尻餅のハルツァーの喉に剣尖を突きつけて、
「帰って。次はあなたの首が飛ぶわ」
ハルツァーは、ゆっくりと両手を上げて降参。
村人を解放し、白服どもは夜闇に消えた。
姉さまの勇気を讃えます——キルシュは小さく拍手。
エシレは弟に抱きついて、
「えへへ、頑張ったわたしに、ご褒美が欲しいな」
「……ご褒美」
「うふー、キィくんの心がこもった、ご、ほ、う、び」
顔が近い——キルシュは姉を押しやった。
「まだ、最終試験は終わってないですから」
「むぅ、キィくんのいじわる」
緑子鬼の血の臭いを追って野道を歩き続け、紫黒の夜空。
鼻息荒い猟犬が吠えだし、森を抜けると野原にざわめく人の声。
「誰だ」
向けられた明かりに、キルシュは目を眇めた。
頭に二本の角が生えた人影がずらり。
その奥に、鳥竜を何頭も侍らせて。
「ま、魔族だ、殺される」
猟師は猟犬を抱えて逃げ出した。
魔王国との百年戦争が休戦して十年、敵意に怯えも不要とキルシュは前へ。
「僕らは村を荒らす緑子鬼を追ってきた」
「くっくっく。たった二人でか。面白い奴じゃ」
魔族の一塊を割って、黒衣の少女が現れた。
黒髪に精緻の白貌、夜明けの薄闇に映える紫の瞳。
他とは違う角なしだった。
「姫さま、子供といえど蛮人は危険です。お下がりください」
少女は従者と思しき声を無視して、悠然の歩みからキルシュの前へ。
両指で裾をつまみ上げ、典雅な挨拶。
「わらわは、フェネトラ・シルヴァーナ。この辺りを治める当主代行じゃ。われらがここに集まったのも、そなたと同じ目的。悪さをする緑子鬼を討伐するためじゃ」
敬意に応じて、黒の小さな魔女は目深の黒衣を払った。
「僕はキルシュ。後ろは姉のエシレ」
「これも何かの縁、一緒に緑子鬼を討伐といこうかの」
——姫さま、なりません。
振り向かずに、フェネトラは片手でざわめきを沈めた。
エシレは弟の影から出て、
「いいわ、わたしは剣を使える。キィくんは何でもできるの」
「ほう、何でもとは」
「雪を降らせることだってできるの。すごいでしょ」
「ふむ……討伐の前に、そなたの力の片鱗を見たいぞ」
まぁ、少しならいいか——キルシュは懐に手を滑らせ魔杖を握った。
ずん、と腹底に満ちる魔力を絞りながら解放。
白魔——しゅるしゅると練り上げた氷の細剣を手に。
フェネトラは目を見開いた。
冷気を放つ細剣ではなく、闇色の瞳に滲む帝王紫の底光りに——この子がもしや、わらわの。
ごつい影が、主の前に滑り込んだ。
「姫さまに何をする!」
キルシュは氷の細剣を野原に放った。
「お姫さま、緑子鬼の討伐を始めましょう」
一行は不気味な声を吐く坑道に入った。
廃鉱に棲みついた緑子鬼、巣の規模は相当らしく。
魔族の杖で小さな襲撃を焼き払い、奥へと水音滴る斜坑を下りてゆく。
坑木で天井を支える坑道の岩壁に、青緑の光が滲む。
待て——フェネトラは隊列を止めた。
「この先の開けた採掘場で、かなりの数の待ち伏せじゃ」
作戦を練り始めたフェネトラの家臣たち、キルシュも思案する。
——大規模な鉱山なら、地下水脈を通じて深部に魔物がいても不思議ではない。
——魔物がやっかいなのは、斬って体液を浴びたら火傷ではすまない。理性が蒸発、魔物化してしまう。
——鋭い一撃の長い槍が必要、斬撃を放てる聖剣、あるいは魔剣がなければ。
「——聞いておるか、キルシュ。そなたらは後衛じゃ」
キルシュは、ゆるく首を横に振った。
「姉さま、剣術の最終試験は合格です。僕から教えることは何もありません」
「え、やったぁ」
エシレは弟に飛びついた。
姉にされるがまま、キルシュは続ける。
「お姫さま、廃鉱の底に魔物が潜む可能性は」
フェネトラの紫の瞳が、わずかに揺れた。
——そうじゃ、その手があった。
「わらわの千里眼で底を視るとしよう」
フェネトラは視線を下げた。
紫の瞳が血赤に染まり、虚空をさまよう。
「そなたの懸念は当たりじゃ。凶悪な魔物の大百足がおる」
持ち上がった愁眉の顔に、キルシュは頷いた。
「全てを凍らせます。みんなを僕の側に集めて」
——姫さま、はしたない。
従者の声を無視して、フェネトラはキルシュの胸に抱きついた。
エシレは弟の背に抱きつき。
三人を囲むように背を預け、ひしめく魔族たち。
キルシュは、懐の蔓薔薇の杖を握りしめた。
ずん、と腹底に雪崩れる魔力を練り上げていく。
しびれを切らしたのか、坑道に轟く緑子鬼の蛮声。
キルシュは魔力を指先まで滴らせ、
白魔——黒の一塊の縁から、絶死の冷気がひろがった。
軋むように、雪波が駆ける緑子鬼の軍勢を呑んでゆく。
フェネトラは、たぎる帝王紫の瞳に魅入り、息を呑み。
——わらわと同じ黒髪に紫の瞳、そして禁呪の白魔。きっと、そうじゃ、生き別れの。
フェネトラの唇からこぼれた忘れかけの名は、白く砕けて。
「皆のもの、地上で待つのじゃ。わらわはキルシュと廃鉱の底で魔物を討つ」
凍てつく坑道に、凛とした声が通った。
フェネトラの家臣の片膝をつく一人が、悲壮の顔を持ち上げる。
「姫さま、なりません。わたくしめが、代わりに討って参ります」
「わらわの千里眼と、キルシュの全てを凍らせる魔術、そなたの炎は足手まといじゃ」
「姫さま、われらの中から、せめて護衛の一人を——」
「いらないのじゃ」
姫さま——泣き出しそうな家臣に、フェネトラは白の手を差し出した。
「そなたの忠義、見上げたものじゃ。これからも、わらわを守ってほしい」
家臣は、白の手にすがり涙をこぼした。
フェネトラは家臣たちを見回し、
「寒いぞ。凍えて死ぬ前に、冷気を弾く魔術を唱えよ」
淡い光を浴びて爪先まで温まり、エシレはいつものように弟の手をとった。
「キィくん、わたしもいくよ」
慌てたフェネトラは、一歩を踏み出した姉弟の前に回り込む。
「エシレ、わらわの令を聞いたであろ。そなたも地上で待つがよい」
「あなたに従う必要はないし」
フェネトラは地団駄を踏み始めた。
「駄目じゃ、駄目じゃ、だめじゃー」
「べぇーっ」
迫る弓なりの角、角、角。
「姫さまに不敬であるぞ!」
「な、なによ、わたしを脅してるつもり」
フェネトラのすがるような眼差しに、キルシュは唇をひらいた。
「姉さま、地上でお待ちください」
「え、なんでよ」
「ここに聖剣がありません」
魔物との戦いは長い槍で勝負するしかない——炎球、氷槍、そして聖剣の斬撃。
エシレはうつむいた。
「やっぱり……わたしは、いらない子なんだ」
はぁ、また始まった、欲しがりの姉さまだな——キルシュは、姉をやさしく抱きしめた。
姉さま、大好き、地上で待ってて欲しいな——甘いささやきに、エシレの唇から吐息がもれて、
「うん、待ってる。はやく戻ってきてね。わたしのキィくん」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます