長月

夏休みが明けて最初の登校日だ。結局、長い夏休みの間でまともに外に出たのは天本に連れ出されたあの日だけだった。

四十日振りに登校し、自分の席に着く。

教室のざわざわとした雰囲気がいつもと少し違うのは、久しぶりに会う友人との間に少し距離が生じているから、だけではないようだ。

聞き耳を立てるわけではないが、何となく聞こえて来る会話の端々を拾い集めて考えるに、どうやら転校生が来るらしい。それもこのクラスに。

高校で転校生とはなかなか珍しい。もっとも、だからといって僕にどうという影響はないのだろうけど。

特に関わりのない数十人のクラスメイトが数十と一人に増える、だからどうしたと言いたい気分だ。

朝のHRの時に、担任からの紹介受けてからその転校生は教室の戸を開けて入ってきた。

「おはようございます!」

明朗快活な声が教室に響く。

転校生は、焼けた肌が健康的で百八十はありそうな高身長にしっかりと筋肉がついた短髪の似合う男子だった。

「今日から二年四組で過ごすことになりました、五十嵐拓人です!よろしく!!」

全ての文末に感嘆符が付いてきそうなハキハキとした声で五十嵐くんが言う。

その後、適当に空いた席に促された彼は案の定周りを囲まれて質問責めにあっていた。

僕も人生で二、三度見たことがある光景だ。

僕は中心の人間を囲んだことも、中心の人間を経験したこともないが。

五十嵐くんはその質問の一つ一つに、楽しそうに笑いながら答えていた。

賑やかなやつだ。

僕は机に突っ伏して寝たフリをしながら次の授業が始まるまでの時間を過ごした。

訪れた転校生は瞬く間にクラスの中心人物となったようだった。


それからしばらく経って、二学期が始まって最初の土曜日。

小雨が降る昼頃だった。

僕は適当に昼食を済ませようと思って近場のファミレスを訪れた。

扉を開けると、扉から音が鳴り店員さんたちの少し控えめな「いらっしゃいませー」が聞こえる。

店員さんのうちの1人が、席に案内しようと僕のところへ来る。

「いらっしゃいませ、お客様はなんめ……え!?」

「わ、びっくりした。天本?」

そこにいたのは、ファミレスで明らかに従業員側に属している天本だった。

「何でわざわざ、学校から遠いところを選んだのに……いや、先輩の家からは近いのか」

「知らなかった、バイトしてたんだね」

「お喋りするほど暇じゃないのでさっさと適当なテーブルにつきなさい、どうせ一人ですよね?」

実際一人だから言い返す言葉はない。

さっきまでは模範的な笑顔を浮かべて接客してたのに相手が僕だったら途端にこれか。

僕は促された通りに適当なテーブルについて、メニューを広げた。

昼食を食べに来たが、いざメニューに並ぶ写真に目を通すと美味しそうなパンケーキが僕を誘惑してくる。

欲望には忠実に生きるべきだ、ここはデザートオンリーでいこう。

僕は用意されていたベルを鳴らして店員さんを呼ぶ。

来たのは、天本だった。

「で、何にするんですか?」

「あ、このバター香るふわふわパンケーキとホットコーヒーを一つ」

こういう商品名をいざ口に出すとき、恥ずかしくて仕方がない。もっと硬派な名称にしてもらいたかった。

「何で私が先輩のためにコーヒーを?あ、熱々を頭からかけて欲しいという言葉足らずなおねだりでしたか?」

いつものようにヘラヘラしながら罵ってくる。

「勘弁してくれよ……」

天本は蠱惑的な笑みを浮かべてそこから去った。

その後しばらく経って、パンケーキとホットコーヒーが運ばれた。

「ふふ、先輩。特別に食べさせてあげましょうか?」

天本が楽しそうに言ってくる。

「は?何言って」

天本は立ったままパンケーキを一欠片慣れた手つきでフォークで刺してナイフで切り取る。

「はい、あーん」

「へあっ!?」

いつぞやのように声かどうかもわからない奇声をあげてしまった。

「あ、あーん」

混乱に流されるままに僕は戸惑いつつも口を開けてしまう。

しかし、そのフォークは僕の口に届く寸前に急遽として軌道を大幅に変更して天本の口へとドッキングされた。

「来栖先輩、今、世界一間抜けな顔でしたよ?」

天本は楽しそうにそう言ってから口元を拭い、そのまま軽い足取りで去っていく。

職務中に何をやってるんだ、彼女は。

その後食べたパンケーキは昼食と言えるのかどうかは怪しいが、文句なしに美味しかった。

背徳と甘美の味で天本を思い出したのは、このホットケーキを運んできたのが彼女だからという理由だけではないのかもしれない。

会計に行くと、天本が精算した。

従業員は数人いるが、今日僕の相手をしたのはことごとく天本だったな。

「先輩、傘持ってきてましたよね?」

「ん?そうだね」

無視しても良いくらいの小雨だったけど、少しの雨も気になる僕は傘を差してここまで来ている。

「雨、思ったより強くなっちゃったけど、私傘持って来てないんですよ。帰りに傘入れて欲しいので、シフト終わるまで待っててください」

「わがままだね、そういうことなら傘貸すよ。僕は家近いし走ればそうでもない」

天本の移動手段は分からないが、ここだと駅へ行って天本の最寄駅から家まで行くのにも大分距離はある。傘を差さずに行ったんじゃびしょ濡れだろう。

僕の家はここから歩いてすぐだから、濡れるのは嫌だけど天本に比べれば大したことないだろう。

「何言ってるんですか?そんなことしたら先輩濡れちゃいますよ。いいから私の言う通りにしてください、あと十分足らずで上がるので」

いつに無く優しさを見せる天本に嫌な予感を覚えつつも、言われた通りに待つことにした。

ソファに腰掛けてからしばらくして、唐突に自分が置かれた状況に緊張して来た。

え?相合傘をするってことだよね?

もし誰かに見られたらどうしよう、何で彼女はあんなに淡々とその提案ができたんだよ。

でも僕だけ意識してたら恥ずかしいな、ここは先輩として、男としての貫禄を見せなければならない、よし。

謎に気合が入ってきた頃に、ファミレスの制服から私服に着替えた天本がやってきた。

「お待たせしました」

「ううん、今来たとこ」

「は?キモ」

自分でもわかるくらい動揺丸出しで謎の返事をしてしまった。

「じゃあ行こうか」

店を出て、傘を差す。

僕が傘の右側にスペースをつくるように待っていると

「何してるんですか?」

きょとんとした顔で天本が尋ねる。

「え?な、何って」

「そんな差し方じゃ私の右肩が濡れてしまいます、先輩は私を守ることだけに専念してください」

この子は僕のことを何だと思ってるんだ。

「はぁ……はいはい。どうせこんなことだと思ったよ」

「こんなことだと思いながらも待ってくれたんですね、流石は従順な駄犬です」

割と痛いところを突かれる。

「せめて名犬と言ってくれよ」

「ようやく犬は認めたんですね?」

そんなくだらない事を話しながら僕らは歩き出した。

僕は彼女の方に傘を差してるからもちろんすぐにずぶ濡れになった。

「うちの学校、バイト禁止だよね?告げ口はしないけど、やめといたら?」

別にバイトが悪い事だとも校則が遵守すべきものだとも思ってないが、何となく会話しようと思って適当に言った。

しかし、しばらく経ってから天本はゆっくりと言う。

「別に、遊ぶ金が欲しくてバイトしてるわけじゃないですから」

深い事情がある事を否応なく理解させるような、重い一言のようだった。

でも僕はそのことを言及する気になれずに、スルーしてしまう。

その後は特に取り止めのない会話を、止めどなくしながら彼女を家まで送った。

そのせいで僕がとんでもない寄り道をさせられた上びしょ濡れになったのはいうまでもない。


月曜日、いつものように学校に行く。

いつものように授業を受けて、いつものように合間の休みを寝て過ごし、いつものように昼には図書館に行く。

しかし、そこにはいつもと違う光景が広がっていた。

いつものように天本がカウンターに座っている隣に、僕が座るべき椅子にすでに座ってる男がいた。

こんなことは初めてだった、軽く咳払いして存在をアピールしてみる。

「ごほんっごほんっ」

少し露骨過ぎたのか、すぐに二人はこちらの方を見た。

いいね、露骨くらいがちょうど良い。

僕の方を見た男が指を指して言う。

「お前か……雫だろ!どうした、本借りに来たのか?」

その男は、例の転校生だった。

呑気な表情で僕に尋ねてくる。

「いや、そういうわけじゃ……五十嵐くんはどうしてそこに?」

「俺?図書委員だから仕事だな」

は?彼は何を言ってるんだ。

図書委員は僕で、そこは僕の席だ。

「えと、あの、四組の図書委員は僕のはずなんだけど……」

「あー、雫がもう一人の図書委員か。ほら、俺転校してきたからどこの役職も埋まってたじゃん?だから適当なのに入れてもらったんだよ」

適当なのなら配布係とかにすれば良いのに。

何で委員会に入っちゃったんだよ。

「でも、今日はカウンター当番じゃないはずじゃ……」

僕はこの発言がそっくりそのまま自分に返ってくることを重々承知で、彼に言った。

「いや、とりあえず図書委員だから図書館来てみただけだわ。そしたら栞がいたからさ」

天本の方を目配せする、天本も満更でもない様子で微笑んでいる。

「天本、知り合いなんだ」

「あれ?雫も栞と知り合い?」

僕が天本に投げかけた質問に天本が答える前に、五十嵐くんが僕に質問してきた。

「え?あ、いや、一応同じ委員会……」

「あー、そっか!そっか!」

納得したように笑った。

よく見ると、五十嵐くんは弁当箱を広げていた。

何で委員会に入ったから何となく訪れる図書館に弁当箱持って来てたんだよ。

釈然としないけど、どいてくれと言うわけにも、他の席で食べるわけにもいかない。

僕は弁当箱を隠すようにしながらそこから立ち去ることにした。

「あ、来栖先輩。またね」

天本が僕の方を見て声を掛けてきた。

靡く髪から、柑橘系のシャンプーの香りがした。

以前はフローラルミントだったのに。シャンプー、変えちゃったんだな。

彼女の髪の香りが変わっただけで、彼女を失ってしまったような気がして、胸が苦しくなる。

もともと、僕のものなんかじゃないのに。

「じゃあな、雫!」

図書館に似合わない大きな声で、五十嵐くんは僕に声をかけた。

僕は何となく苛立ちながら、図書館を後にした。

昼食は、教室に戻って一人で食べた。

その日は放課後、図書館には行かなかった。


翌日、昼休みは教室で一人昼食を食べてからタヌキ寝入りをしてやり過ごす。

放課後は、図書館に行くことにした。

扉を開けると、そこには今までみたいに天本が1人カウンターで勉強をしていた。

僕は特に声を掛けず、静かにいつもの席についた。

「あ、来栖先輩……」

いつになくか細い声で、天本は言った。

薄々感づいてはいたが、天本は五十嵐くんとカウンター当番を務めるようになって明らかに様子が変わっている。

僕に対しての様子も。

そしてそれはきっと、人前だから猫を被っているというような類のものではない。

これは何となくだ、でもかなり確信のある何となくだ。

「拓人と話して、私なりに考えて……その、私……先輩に謝らないといけなくて」

拓人は五十嵐くんのギブンネームだ、二人がどういう関係かは分からないけど、図書委員の仕事仲間という訳ではなさそうだ。

やめてくれ、そんな声を出さないでくれ。

僕の胸に棘を刺すような優しい声で、天本は続ける。

「その、先輩が優しいから……私、それに甘えて、調子に乗っちゃっていつも先輩にひどいことを」

天本は僕の方を真っ直ぐに見て真剣に言っている。

「今まで本当にごめんなさい」

僕は目を合わせる事ができない。

こんな、こんな天本は見たくない。

「その、それで、わがままを言うと。これからは改めて仲良くしてくれると……」

「うるさいよ、黙って」

酷く冷たい声がした。

それは自分の声だった。

「……はい」

僕はそのまま立ち上がる。彼女は、俯いているようだった。

もうここには居られない、カウンターから去ることにする。

天本の後ろを通る時、彼女の髪からはいつものようなフローラルミントの香りがした。

彼女はシャンプーを変えたわけじゃなかったんだ。

昨日だけシャンプーが違ったんだ。つまり、一昨日は別の所に外泊してたということだ。

もう、もう何も考えたくない。


その後しばらくしたある日、僕が一人教室で昼食を食べようとした時のこと。

「おい、雫。ちょっと中庭で一緒にメシ食わねえ?」

僕を馴れ馴れしくギブンネームで呼ぶ男は1人しかいない。

「え、五十嵐くん、どうしてまた?」

「いいから、行こうぜ」

半ば強引に僕を引っ張って、五十嵐くんは僕を中庭に連れていった。

「なあ雫、折り入って話があるんだ」

中庭のベンチに腰掛けながら言う。

僕は彼の隣に座るのがなんとなく癪で、わざとらしくスペースを空けて端に座った。

「俺、栞とは幼なじみなんだよ。幼稚園から小学校、中学校まで。でも、高校は親の都合で別れちゃって、でもまた会えた」

僕は膝の上に購買で買ってきた弁当を広げる。

「だから俺、あいつのことよく知ってんだ」

手を合わせて、いただきますと唱える。

「あいつから聞いたんだよ、雫のこと」

米飯を箸で口に運ぶ。

「あいつさ、両親が離婚したんだよ。それを聞かされた時に、泣き出して家から飛び出たんだって。四月のことだ、酷い雨の日だったらしい」

米飯を静かにゆっくりと咀嚼する。

「そこで雫と会ったんだろ?だから、雫を見る度にその事を、その気持ちを思い出して……それで雫の前では、栞はあんな栞らしくない態度を取るようになっちゃったって。栞は本当は、明るくて優しい良い子なんだ」

米飯を飲み込む。

「それで、ここからはさ、俺の予想なんだけど……」

僕は黙々と弁当を食べる。

「お前さ、栞のこと好きなんだろ?」

箸を持つ手が一瞬止まる。

「そうじゃなきゃ、あんなに酷いことされ続けても雫が栞と一緒に居続けた理由が無い」

少し語気を強くして五十嵐くんが続ける。

「でもよ、そんなの間違ってねーか?栞は強がるために自分に嘘をついて、雫は栞のことが好きだから傷つけられながら我慢する。誰も幸せにならねーよ」

食事は喉を通らなくなってきた。

「だから、雫。悪いけど栞からは手を引いてくれ。栞を想ってるなら、栞のために。栞のことは俺に任せてくれ」

僕はまだほとんど食べられてない弁当の上に箸を置く。

「図書委員の仕事も今後は俺がやるから気にしなくて良い」

言いながら彼は立ち上がる。

「じゃあ、お前のこと信じてるからな」

五十嵐くんは一方的に言うだけ言って、そのまま去ってしまった。

僕は、何だか空っぽになった気分だった。


その日の夜は、眠れなかった。

課題にも手をつけられず、食事も喉を通らず、何をするにもやる気が起きないまま真夜中になってしまった。

僕はコーヒーを飲もうと、台所で手鍋に水を入れてからガスコンロを点火し、湯を沸かし始める。

思えば、僕は天本のことを何一つ知らなかったんだ。

バイトをしていたのは、両親が離婚したことと関係があったのかもしれない。

聞くチャンスは有った、でも僕は逃げていたんだ。

天本の弱い部分を見ることから。

そうだ、きっと五十嵐くんの言ってたことは正しい。僕は、彼女に恋していたんだ。

けどそれは五十嵐くんが言うところの「本当の栞」ではなくて、彼女が悩んで強がって苦しんで振る舞っていたサディスティックな天本になんだろう。

だから、天本には強くいてほしいと言う僕の気持ちの悪いわがままで、彼女から目を背け続けたんだ。

僕が目を背けていたのは天本だけじゃない、僕自身の気持ちにもだ。

毎度毎度適当な理由を付けなければ天本の言いなりになれなかった。

そんなことすらも、彼に言われるまで僕は気付けなかった。

僕は天本のことを知らなかったし、天本も僕のことを知らない。

そんな僕らが一緒に居ようとするのは間違ってるんだ。

手鍋を覗き込むと、煮沸してたっている湯気が僕の顔を火照らせた。

僕はマグカップにインスタントコーヒーの粉末を入れてから、湯を注ぎ、かき混ぜる。

でも、そんなことを考えても何だか納得できない。これは僕が彼女と一緒にいたいというだけのわがままなんだろうか。

違う。

僕は火傷しそうなほどに熱いコーヒーを流し込み、自分の頭の中にある何もかもを蹴散らす。

それでも残るもの。

それは、このまま終わってしまうのは僕が個人的に気に入らないという切実な思いだった。

彼女が、懸命に演じて創り出したもう一人の彼女を否定するな。

僕たちはもはやペルソナ無しでは生きられないんだ。

僕たちから痛みを奪うな。

五十嵐くんの話は自分が救うとのたまっておきながらその身自分に依存させて彼女を慰めているだけだ。

恋愛なんて、他者と向き合うことに他ならない。

でも天本は、自分と向き合ったんだ。

彼女が苦しんで強がって気丈に振る舞った姿を、僕が恋した天本を、嘘だとは言わせない。

言わせてなるものか。

僕は自分の中に沸沸と熱い何かが、炎が、滾っていくのを感じる。

途端に今日の疲れがどっと押し寄せて、僕はソファへと倒れ込んでそのまま眠ってしまった。

しかし翌朝、起きた時もその炎は消えていなかった。


放課後、僕は荷物も持たずに図書館に走った。

着くと、そこには既に天本がいる。

校舎の位置関係的に一年校舎の方が僕らの二年校舎よりも図書館に近いから、どうしても彼女より先に着いて待つことは出来なかった。

「天本、お願いがあるんだ聞いてくれ」

階段を駆け上がったせいで息が上がっている、喘ぎながらも僕は言った。

僕を見て、天本はあっと驚くような様子だ。

「来栖先輩、もう、来てくれないかと……お願いってなんですか?」

彼女は静かに、ゆっくりと言う。

僕は、彼女を取り戻すために、叫んだ。

「これからも、」

息を大きく吸う。

「これからも僕のご主人様でいて下さい!!」

大きな声と、訳の分からない内容だ。図書館が無人で助かったが、人がいれば視線が集まっていたに違いない。

「ちょ、何言ってるんですか!?先輩」

僕は事前に用意したどうでもいい言い訳を披露するため左手の甲を見せる。

「ほら、天本以前に首輪代わりのこの芯が刺さってるうちは僕が天本のペットだって言ってたでしょ。この芯、相当深く刺さっててもう刺青みたいになってるんだよね。だから未来永劫僕は天本のペットだし、天本は僕のご主人様だ。勝手に途中下車しないでよ」

天本はきょとんとした顔を浮かべた。

それからしばらく黙って、

「で、でも……私……」

彼女が何かを言おうとしたが、被せ気味に僕は言う。

「頼む、天本が必要なんだ」

僕は彼女を見つめる。

しばらく彼女も僕をじっと見つめた。

永遠みたいな一瞬だった。

そして。

そして、天本は急に笑い出した。

「上出来です」

大きく息を吸い込んでゆっくりと言う

「よく言えました」

それは雨の日に肩を震わせていたいたいけな少女でも、僕に今までのことを謝ろうとする素直な女の子でもない、僕の知ってる冷徹な女王様の声だった。

「誰もいないから踏んであげますよ?ほら、四つん這いになりなさい」

「助かる」

僕は言われた通りに四つん這いになった。

彼女は、上履きを履いたまま僕の背中を思い切り踏んづけて、体重を乗せてくる。

「ようやく犬の自覚が出てきましたね」

「お、おかげさまで……」

そんなことを言ってる時だった。

傍目に図書館の扉が空いて、五十嵐くんが顔を覗かせるのが見えた。

しかし彼は僕らの様子を見て、そのまま黙って扉を閉めた。

天本は気付いていないらしく、すこぶる機嫌が良いようだ。

「今度の休みは空けておいて下さいね、一日かけて従順な犬にしてあげます」


これからも僕らの日々は、こんな風に進んでいった。

でも時折、あの時の天本のか細い声が、僕に落胆したような五十嵐くんの表情が、脳裏をよぎって僕を責める。僕の選択が間違っていたんじゃないかと。

でも、後悔するわけにはいかない。

これはもうきっと、間違ってるとか正しいとかの問題じゃないんだ。

天本にはサディズムがあったから、辛い中でも強く生きることができた。

僕にはマゾヒズムがあるから、天本の傍にいられる。

それで良いじゃないか。

「私がいじめて、先輩が喜んで。私たち、良い関係ですね」

彼女がはにかみながら言ったその言葉を、僕は深く噛み締めた。

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