葉月

夏休みに入ってからしばらくが経った。気怠い暑さの中でクーラーもついてない自分の部屋にこもる毎日。部活動にも入ってなく、特に遊ぶような友達もいない僕はこの日差しに当てられるようなこともない、不幸中の幸いなのだろうか。

長期休暇は退屈だ。世間一般ではお盆の里帰りや部活動の大会、友達とのレジャーなどで煌びやかな期間なのかもしれないが、僕はそんな風に過ごしたことはただの一度もない。

毎日毎日、ベッドに沈んで惰眠を貪る。気が向いたら本を読む、学校から与えられた課題をする。それだけだ。

昨日と今日との区別がつかなくなるくらい、惰性で生きている。この先思い出すこともない、何の記憶にも残らない何にもない日を重ねることを果たして人生といえるのか。

でも、この日に限っては、きっとこの先思い出すことがあるくらい鮮明に記憶に残る日だった。

納得がいくまで二度寝三度寝を繰り返し、昼前にようやく目を覚ます。顔を洗い、シャワーを浴びてから朝食なのか昼食なのかいまいち分からない食事の支度をして、それを平らげる。

そうして、食後の満腹感に身を委ねてそのままお昼寝しようかと考えていた時だった。

ピンポーン

自宅のチャイムが鳴る。

宅配だろうか、地区の人間だろうか、宗教の勧誘だろうか。何にせよ、今家には僕一人だから僕が出ざるを得ない。

のそのそと玄関まで歩いて扉を開けると、そこにいたのは僕の予想していた誰でもない。

天本だった。

「こんにちは、先輩。食べて寝てを繰り返す生活で少しは肉が付いてるかと思いましたが、相変わらず風が吹けば飛んでいきそうな細身ですね」

天本は上下ジャージ、上は長袖で下は短パン、スポーツシューズという格好だった。

スポーティな雰囲気なのに、なんだか艶を感じるのは身に纏っているのが天本だからなのだろうか。

いや、そんなことはどうでもいい。僕の頭からは大量の疑問符が噴火の如く噴出している。

「天本?何でここに?ていうかなんで僕の家を?」

しどろもどろになりながら天本に質面責めする。天本は、呆れたようにわざとらしく肩を竦めた。

「先輩が風邪でくたばってた時に教えてくれたじゃないですか?そんなことも思い出せないんですか?」

「そういえば……にしてもくたばったとは酷いな、くたばらせたのは天本でしょ」

「さあ?何を言ってるんですか?」

しらばっくれてやがる。

「ほら、さっさと行きますよ。手ぶらで良いんで着替えてください」

「え?行くってどこに?」

「質問は禁止です、私の命令にはイエスかはいで答えなさい。じゃ、五分間だけ待ってあげます」

いきなり押し掛けて目的も告げずに連れ出すのに五分間はいささか短過ぎやしないだろうか。僕が戸惑っていると

「300、299、298、……」

彼女がカウントダウンで急かしてくる。

「分かった分かった!すぐに着替えてくるから」

僕は扉を閉めて階段を上がり、自室のクローゼットを開ける。何しに行くのか分からないのに着替えるの、どれ着れば良いかわかんなくて困るな。結局適当に、外に出れるくらいのTシャツとジーンズに着替えた。

玄関を開けると、さすがにカウントダウンはもうやめていた天本が待っていた。

「じゃ、行きますよ。荷物、持ってください」

「え?あ、うん」

僕は自宅の鍵を閉めてから天本のバッグを受け取る。

「結構大きめだね、何入れてるの?」

「黙って運びなさい、じゃあ行きましょう」

天本が走り始める。

「ちょっと待ってくれって、何でそんなに急いでるの?」

「急いでるんじゃないです、ジョギングですよ。運動不足な先輩のために誘ってあげたんです」

なるほど、ジョギングか。

確かに天本はジャージ姿だし、少し考えれば察しがついたかもしれない。

でも、休日に後輩が突然呼び鈴を鳴らしてから五分間のカウントダウンが始まった中で少し考えることができる人なんてなかなかいない、少なくとも僕はできない。

「そういうことなら着替えさせて。僕、靴も運動靴じゃないし」

「ちょっとだからそんなに気にしなくて良いですよ、ほら、さっさと走る」

天本が僕を置いてどんどん進む。

天本に荷物を持たされている僕は彼女とはぐれるわけにはいかないので、慌てて追いかけた。

「はあ、はあ」

「気持ち悪い息あげて追いかけないでください。通報しますよ?」

「いくらなんでも理不尽すぎるでしょ」

そんな調子で二人でジョギングをした。

しかし、天本はちょっとと言っていたが既に走り始めて大分経つ。もはやちょっとの域は超えてるような気がする。

「ふう、ここらで休憩しますか。鞄、よこしなさい」

「はいはい」

僕が彼女に鞄を渡すと彼女はそれを受け取り、中からミネラルウォーターを取り出した。

「あれ、先輩は何も飲まないんですか?」

「いや、そんなこと言われても」

僕は水を持ってきてない。

「ああ、準備する間も無く急かしちゃったせいで水も持ってきてないんですか。うっかり自販機が一台もないルートを選んじゃったのもごめんなさい」

「そこまで意図してたのか、計画が綿密過ぎるよ」

暑い、喉が渇いた、フラフラする。完全に天本の思惑通りの状況だ。

天本が喉を鳴らして水を飲む。

「ぷはぁ!やっぱり運動の後の水は格別ですね。疲れた身に染み渡るというか、体が本能で欲しているというか」

本当に美味しそうに水を飲みやがる、実際、相当美味しいんだろうな。

僕はじっと天本の水を眺める。

「あれ、じっと見つめてどうしました?もしかしてこの水が欲しいんですか?私が口をつけて飲んだこの水が。さすがは変態図書委員ですね」

「いや、別に我慢できるよ。あとちょっとくらい」

ここから折り返すんなら、ギリギリ家に着くまでは倒れないで済むだろう。

「あ、ちなみに今はただ休憩してるだけで折り返しでも何でもないですよ?目的地はもっと先です」

「なんだって!?」

それはもう完全にちょっとの範疇じゃない。水も飲まずにまだまだ走らされるなら、途中でいつ倒れてもおかしくない。

「先輩のおねがいなら断らなくもないですけど、いいんですか?飲み終わっちゃいますよ?」

「ください」

背に腹は変えられない、プライドで喉は潤せない。ここはどんなに遜ってでも水をもらうべきだ、僕の本能がそう告げている。

「女王様お恵みを、と言ってみなさい」

「いや、いくらなんでも……」

「飲んじゃいますよ、これ」

五百ミリリットルのペットボトルにはあと半分足らずの水しか残っていない。彼女の機嫌を損ねたらすぐになくなってしまいかねない量だ。

「……女王様お恵みを」

「よろしい、どうぞ」

彼女は僕にペットボトルを渡す。

「ありがとう生き返るよ」

僕は受け取ったペットボトルを口のちょっと上に構えて滝飲みしようとする。

「口を付けずに流し込むのは行儀が悪く不快なので禁止です」

「えぇ……」

「没収して欲しいんですか?」

仕方なく、僕はペットボトルに口を付けて水を飲んだ。

美味しい、美味し過ぎる。視界が鮮明になっていくのを感じる。

運動の後の水はなんで素晴らしいんだ!

「ありがとう、助かった」

「そうですか、そんなに良かったですか。私との間接キスは」

僕が意図して思考から除外していた単語を出されてちょっとむせそうになったけど、動揺したら思う壺だ。僕は適当にあしらう。

「この際そういうことでも良いよ、ほら、さっさと行こう」

「ふふっ、ついに開き直っちゃいましたね」

水を飲んで元気になって、水がなくなった分荷物が軽くなって、僕はかなり調子良く走ることができた。


そうしてしばらく走ると……

「着きましたよ」

「ここって」

着いた場所は、海だった。夏真っ盛りなので家族や恋人同士や陽気な男女で溢れ返っている。

「バッグの中に先輩の水着も入ってます、着替えてください」

いくら何でもバッグが重すぎると思ったら、タオルやら水着やらが入っていたからなのか。

「いや、僕の水着ってどういうこと?お兄様か誰かの?普通に嫌なんだけど」

「違います、先輩はどうせダサい水着しか持っていないでしょうから、私の隣にいても許される程度のやつを選んであげたんです」

わざわざこのために買ったらしい。

色々言い訳を並べてはいるけど結局のところ、海で遊びたかったということか。可愛いところもある。

僕は天本からバッグの中に入っていた袋を受け取る。中には、タオルと水着が入っていた。学校の授業でしか水泳をすることがない僕にとって、このズボンみたいな水着も、ゴーグルとキャップがないのも、かなり違和感があった。

更衣室で荷物をロッカーにしまい、水着に着替えてから外で天本を待つ。

「お待たせしました」

天本が後ろから声をかけてきた。

振り返ると、白い肌で太陽を眩しく反射した天本が水着姿で佇んでいた。

スクール水着でもビキニでもない絶妙な水着。長袖だかしっかりとおへその部分は露出するような格好で、短パンのような下の方は細いながらも豊かさのあるボディラインを強調している。

眩しい、眩し過ぎる。発光少女だ。

「こっちを見ないでください、今の先輩、この世のありとあらゆる生物の中で群を抜いてキモいですよ」

一瞬にして理性を取り戻す。こんなのに見惚れかけていた数秒前の自分を呪う。

「で、何しようか。泳ぐ?砂遊び?サンオイル塗って日焼け?ナンパ?」

「先輩がナンパして通報されても庇ってあげませんよ」

「その場合、多分通報したのは天本だろうしね」

天本が、よくわかってるじゃないかと言わんばかりに微笑む。

「私がしたいのは、スイカ割りです。準備しましょう」

「スイカ割り?スイカはどこ?」

というかあの遊び、2人でやって楽しめるのかな。まあ僕は何人でやっても楽しめないだろうけど。

「いいから、先輩は先輩の身長程度の長さの穴を掘ってください」

そう言って天本は小さいスコップを僕に渡す。

なんかもう暑さと、気づいたらいつの間にかビーチで水着を着ているこの状況への混乱で何が何だか分からなくなって、言われるがままに穴を掘った。

そうして、僕の身長大の穴を掘り終える。

「じゃあ、先輩その穴の中に寝転がってください」

「え……」

嫌な予感がしてきた。予感というか、もはや確信に近いものだ。

「いいからさっさと、その水着誰が買ってきたと思ってるんですか?いうこと聞けないなら脱がしますよ?」

公然猥褻の罪を背負うわけにはいかないので、諦めて言われた通りにする。

僕が穴の中に寝転がると、天本はその上に砂を大量に被せて僕を埋める。僕は、首から上だけが出た状態になってほとんど身動きが取れない。

「じゃあ、始めますよー?」

彼女はスイカ割り用の棒を準備して僕に言った。

「え!?まって、やめて、話せばわかる、僕が悪かった、だから」

鬼に金棒、何となくそんな慣用句が僕の頭を掠める。

天本は僕の頭に容赦なく棒を叩きつけた。

「痛い!痛いって!」

これじゃあスイカ割りじゃなくて僕の頭割りじゃないか。


それからしばらく、彼女は僕を叩くだけ叩くと満足して帰っていった。

埋められたまま放置された僕は相当な時間と体力を注いで何とか自力で抜け出し、一人で帰ることになった。

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