水無月

梅雨、嫌な季節になった。今日も今日とて当然のように降りづける雨は登下校中にはストレスとなり、昼間は低気圧で頭痛をもたらし、そして常時何となく気分を落ち込ませる。

こんな憂鬱な日には、誰かにこの気持ちを蹴散らして欲しくなる。

例えば、自分の好き放題なわがままや嫌がらせに僕を巻き込んで、他の事なんかどうでもよく思わせてくれるような子に。

僕は今日もいつものように、昼休みに図書館に行った。

しかし、そこにはいつもと違い天本はおらず、二つあるカウンターの席の両方が虚しく空いているだけだった。

今日は、いないのか。

天本がここに来るようになってから、彼女は毎日カウンターに座って待っていた。今考えると、二ヶ月間くらい毎日昼休みと放課後は天本と過ごしていたことになる。そう考えるとちょっと不思議な感じがした。

今日は欠席でもしているのだろうか。

もしかしたら体調でも崩してしまったのかもしれない、明日会ったら少しは労ってやろう。

今日は一人で昼食を済ませ、そのまま適当に本を読んで過ごした。

二人で過ごすことに慣れてしまったせいか、大好きだったはずの一人で過ごす時間はどことなく空虚に、ゆっくりと過ぎていった。

そうしてただ、翌日会えるかもしれないのを少しばかり楽しみにしていたかもしれない。


しかし翌日も、天本は図書館には来なかった。

何か用事でもできたのか、それとも図書館通いに飽きてしまったのだろうか。

考えてわかるようなことじゃない。

もし今後二度と図書館に来ることがなくたって、彼女は僕にそれを伝えるようなことはないだろうから。彼女はそんな律儀な人間ではないし、僕にそんなことをする義理もない。

なんて事は無い、戻るだけだ。

一人、図書館で過ごす毎日に。

僕は自分の左手の甲を見つめる。

そこにはまだ、彼女から刺された芯が肌の内部の表面の方にくっきりとある。

首輪があるうちはペットなんじゃないのかよ。

胸の中で独りごちて、また本を読んで昼休みを過ごした。

そうして午後の授業、帰りのホームルームも終わり、下校の時間となった。

僕は荷物をまとめてそのまま学校を出て家へと歩いていく。

いつもなら放課後は図書館に行って、適当に暇をつぶしてから帰っていたがなんだか今日は気分じゃない。

雨は小雨で、傘を差せばなんて事ないくらいだったがそれでも僕の心は憂鬱そのものだった。

なんとなく重い両足を、交互に前へと繰り出して歩いて行く。

すると、スマートフォンが僕に着信を知らせようと場違いに軽快な音楽を鳴らした。

取ると、それは天本からの連絡だった。

自分でも驚くほどの様々な考えや感情が、一瞬のうちに僕の頭を巡る。

でも僕は、それを自分の中で飲み込む前に電話を取っていた。

「もしもし」

「もしもし、来栖先輩ですか?私……ゴホッ……天本、です」

電話越しにも分かるくらいには、彼女は気怠く苦しそうだった。

「もしかして体調不良?」

「えぇ…図書委員の仕事、先輩に二日も任せちゃって……すみません」

「そんな事は気にしないで良いって、それより大丈夫なの?」

僕は不安で彼女に尋ねた。

しかし、数秒経っても返事は帰ってこない。

「……すみません、何か言いました?ちょっと頭がボーッとしてて……」

「いや、大丈夫かなって」

僕は改めて尋ねる。

「平気ですよ、食事くらいは作れます」

「もしかして、親御さん家にいないの?」

「はい……母が出張なので1人です」

こんなに体調が悪そうなのに家で1人だなんて。

僕はなけなしのお節介精神を振り絞って言った。

「あの、僕に何かできることある?」

するとしばらくの沈黙の後、弱々しい天本の声が聞こえた。

「……おねがい、していいですか?」


そうして、彼女に頼まれて僕はお見舞いに行くことになった。

頼まれたものは、風邪薬と常温のスポーツドリンクとお粥。

彼女の家は、以前デパートでたまたま会ったときに送って行ったので覚えてはいる。

中に入ったことこそなかったが。

僕は相当緊張しながら彼女の家の呼び鈴を鳴らした。しばらくして、家の中からではなくスマートフォンで、返事があった。

チャットアプリにて「郵便受けの中に鍵が入ってるのでそれを使って入ってください」とのこと。

女の子が家で一人でいるのにセキュリティが緩すぎることに若干不安になりつつ、指示通りに鍵を開けて家に入った。

「来栖です、おじゃまします」

僕はそろりと家に入ってそのまま天本を探す。

天本は、2階の自室のベッドで苦しそうにうなされていた。はだけたパジャマ姿で汗をかいている。

「天本、僕だよ、お見舞いに来た」

「くる……す……せんぱい?ほんとに来てくれたんだ……嬉しい」

彼女は弱々しく微笑んだ。

平常時の彼女ならまず見せないだろう素直で弱っている雰囲気に、かなり緊張してしまう。

「これ、スポーツドリンクと風邪薬と冷却シート。僕はお粥作ってこようと思うんだけど、台所借りて良いかな?」

ゆっくりと彼女に伝える。

「ありがとうございます……お金、そこに財布があるのでとっていってください」

彼女は財布を指差した。

「そんな、これくらいは僕が持つよ。貸しにしとく」

「そんな……ごめんなさい。いつか……精いっぱい返させてもらいますね?」

彼女はうっすらと開いた目で僕を見つめて言う。

「じゃ、じゃあお粥作って来るから何かあったら呼んでね」

僕は緊張で吃りながら言って足早に彼女の部屋を出た。

おかしい、おかしすぎる。今日で何度も会話してるのに一度も罵倒されてない。

弱った天本があまりにもしおらしすぎる。

駄目だ、病人相手に何を考えてるんだ僕は、落ち着け。お粥を作るんだ。

僕は台所で用意してきた食材を準備する。

鍋に包装米飯を温めずにパックから出して入れ、六百ミリリットルの水と市販のスープの素を加えて火にかける。沸騰してきたら火を弱めの中火にし、菜箸でご飯をほぐしながら八分ほど煮詰める。その後は溶き卵を回し入れてたっぷり十秒待ってから混ぜる。

適当な器を選んで盛り付け、小葱を散らして完成。

僕はお盆を探してお粥とれんげを載せて、階段を上がり彼女の部屋をノックする。

「どうぞ……」

扉を開けて中に入る。

スポーツドリンクの量は減ってたし冷却シートを額に貼っていたので、ほんの少しだけ安心した。

「これ、頼まれてたお粥」

「ああ、ありがとうございます……わがまま言って……ごめんなさい」

「いや、いいって。天本のわがままは僕のご褒美みたいなとこあるから」

「ふふっ……何言ってるんですか……おかしな先輩」

おかしいのは君だぞ天本、珍しく僕から助け舟を出したのに一切罵ってこないなんて。

天本の調子が違うとこっちも調子が狂う。ただでさえ初めて入る女の子の部屋に緊張して本調子じゃないのに。

「このおかゆ、とってもおいしいです……先輩すごい」

「まあ市販の素は偉大だからね」

適当に誤魔化す。

「ほんとにすっごくおいしいんです……来栖先輩も食べてください、ほら…あーん」

「へあっ!?」

予想外すぎてもはや声がどうかも怪しい奇声を発してしまった。

しかし困惑している間にも刻一刻と天本はお粥を乗せたれんげを僕の口へと近づけていく。

そして結局、彼女からの「あーん」を受け入れてお粥を一口食べた。

「おいしいでしょ?」

「え?あぁ、まあ普通だね」

正直ドキドキして味なんか分からなかった。

「ふふ……素直じゃないですね」

今日の君が素直すぎるんだよ。

しかしもう駄目だ、これ以上は耐えられない。僕の理性が瓦解する前に逃げよう。

「じゃあ、これで失礼するよ、お大事に」

「ねぇ……まって……」

彼女は僕の袖を弱々しく掴んで引き留める。

「一人にしないで……一緒にいて……」

やばいやばいやばい。

「わ、わかったよ。天本が寝るまでここにいるから」

どうしたんだ天本、もしかして双子の妹か誰かか?とにかくこれはまずい非常にまずい。

よし、こんな時は素数を数えて落ち着こう。

「先輩の顔見てると、落ち着きます」

天本は僕を見つめて言った。

2,3,5,7,11,13,17,19,23,29,

「もっと、近くで見ても、良いですか?」

天本が、僕が動けば触れ合ってしまいそうなくらいに顔を近づけて来る。

31,37,41,43,47,53,57,59,61,

「は…はっくしょん!!」

「うわぁ!」

目の前で思い切りくしゃみをされた。

「ふう…私の使ったれんげでお粥を食べさせたましたし、くしゃみも引っ掛けましたし、これだけすれば風邪もうつったでしょう」

「え?」

「もう用は済んだのでさっさと帰ってください。私の部屋を先輩の呼気の微粒子が飛んでるだけで不快です」

淡々といつものような口調で言われる。

「何だよそれは…」

やはり弱っても鬼は鬼、さっきまでのしおらしさはどうやら演技だったみたいだ。

僕はがっかりしたような安心したような奇妙な気分のまま、彼女が食べ終わったお粥を持って台所に行き、使った食器を洗ってから家を出た。

せめてお金は貰っとくべきだったなあ。

微妙なポイントを後悔しながら帰宅する。


翌日、何となく体調が悪くて熱を測ると三十七度六分、しっかり風邪をうつされていた。

まったくなんて奴だ、人の善意を悪用するだなんて。

他の人にうつしたら悪いし、そもそも行く体力もないので学校は欠席した。

部屋で独りベッドで寝ていると、お昼から夕方に差し掛かるくらいに電話が掛かってくる。天本からだった。

「もしもし?」

「あーもしもし先輩?大丈夫ですか?わたしはおかげさまですっかり元気ですよ」

「天本、僕を煽るためだけに電話したのか?趣味悪すぎるよ」

僕は体調不良の苛々に身を委ねて悪態をつく。

「まさか。今日は私が看病してあげますよ」

そっちの方がまさかなんだが。

「ほら、貸しにしとくって先輩言ってたじゃないですか。先輩相手に借りがあるの癪なんで、さっさと返したいんですよね」

「じゃあ貸し借りなんか忘れてしまいなよ。僕も何を貸したか覚えてないし」

正直ありがた迷惑だ。きっと天本が来ても僕に嫌がらせだけして帰って行くに決まってる。そもそも、弱ってる姿を晒したくない。

「いいから住所教えなさいよ」

でも結局、天本に押し切られる形で住所を教えてしまった。

まったく困ったものだ。

ふと、自分の部屋を見渡す。ここに今から天本が来るのか。

僕は弱り切った体力を振り絞って部屋の掃除を始める。というか、汗かいてるしもしかして僕臭かったりしないだろうか。どこかに制汗剤があったはずだ、それを。いや、そもそも寝巻きなの恥ずかしい。でも部屋で寝巻きじゃないのおかしいでしょ、学校行こうとして断念したってことにして制服着るか?

色々な考えが頭を回ったがやはり風邪をひいているので思考がスローだ、そのまま意識を失ってしまった。

ちなみにその日、天本が来ることはなかった。


結局二日休んだのち、無事登校できるくらいには治った。まだ微妙に病み上がりなのは否めないが。

昼休みに図書館に行くと、ニヤニヤした天本が僕を見てきた。

「お久しぶりです、先輩」

「色々言いたいことはあるけど、とりあえず久しぶり」

僕はカウンターに腰を掛けて、購買で買った弁当を広げながら話しかける。

「別にお見舞い来てとは言わないけどさ、最初から来るって言わないでよ」

「ふふっ、貸し借り忘れて良いって言ったのは先輩の方でしょ?」

「まあそうだけど」

天本が来ると思ってバタバタしてたら風邪をこじらせたなんで言えるわけはないが。

「間抜けな先輩のことですし、私が来ると思って慌ただしくしてたんじゃないですか?」「そ、そんなわけないよ!」

完全にお見通しだった。

いつまでたっても僕は天本の掌の上で転がされているんだろう。

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