第4話 母とのつながり





 二週間の入院の後、理子は復学した。

 理子の頬の腫れは引いていた。

 だが、左頬の手術の痕はかなり生々しかった。

 慎司は理子に申し訳ない気持ちで一杯だった。

「気にすることないのよ、慎ちゃんは何にも悪くないんだから。こんなのわたし平気よ。それに夏休みに入ったら形成手術を施すし、ある程度は元に戻るらしいから」

 慎司に負担を掛けまいと、明るく喋る理子だった。

(口では弟のようだと言っているが、きっと、おれのこと好きなんだよな)

 思春期を迎えた慎司は、自分に対する理子の気持ちを、そのように捉えていた。

 慎司も理子の事は好きだ。それは間違いない。

 だけど理子が思っている好きと、慎司が思っている好きは、交わらないところにあると感じていた。

 幼馴染という姉弟のような関係で育ってきた二人だ。

 理子は気にならないのかもしれないが、慎司にしてみれば、異性を意識するにはあまりにも近過ぎた。



 夏・春・冬と学年末に三回に及ぶ形成手術を施したものの、左頬の傷痕は、完全に消去するには至らなかった。

 理子の傷痕が目立つと学校側も困ると考えたのだろう、理子には化粧品の使用許可が下りていた。

 だけど理子はみんなと同じ素顔で登校を続けた。

「わたしだけ特別なんて嫌よ。わたしはこんな傷痕、気にならないわ」

 理子はそう言って笑い飛ばした。

 確かに、一見しただけでは分からない。

 だけど、お喋りする距離にいると、ふとした瞬間に気付く、そんな傷痕だった。

 後は、それを本人がどう捉えるかである。

 理子は笑って受け止めていた。



 理子は学力上位者だった。

 慎司は理子に引っ張られる形で悪くない位置にはあるが、理子との学力差は歴然たるものがあった。

 三年に上がると、理子は進学校に、慎司は中堅どころの公立高校を目指すよう担任の指示があった。

 その頃慎司には、秘かに想いを寄せるさかき志乃しのというクラスメイトがいた。

 榊の志望校は理子と同じ県内屈指の進学校だった。

 それでも慎司は榊と同じ高校に行きたいと思った。

 慎司が唯一理子に秘密にしている事だった。

 しかし……。

「おれ、理子と同じ高校を目指そうと思うんだ。勉強に付き合ってくれるか?」

 理子はニヤリと笑った。

「わたしじゃなくて、榊さんと同じ高校に行きたいんでしょ?」

「えっ? なんで?」

「分かるわよ、慎ちゃんの思っていることぐらい」

 そう言って可笑しそうに笑った。

「いいよ。頑張りましょう。慎ちゃんならきっと大丈夫よ」

「ゴメン」

 慎司が申し訳なさそうに謝ると理子はまた笑った。

「なんで謝るのよ。わたしは慎ちゃんの味方だから、慎ちゃんこと応援するわ。頑張ろうね」

「ああ……ありがとう」

 慎司は肩すかしを食らったような気分だった。

 理子の笑みは爽やかそのものだった。

(本当に、おれのことは弟のように思っているのだろうか)

 腑に落ちない部分を残しながらも、自身も理子を恋の相手と考えてない事を思えば、納得せざる得なかった。


   

 頑張った甲斐あって、慎司は目指していた進学校に合格した。

 そしてその勢いで、体育館裏に呼び出した榊志乃に、人生初の告白を試みた。

 が……。

「ごめんなさい。わたし、彼氏がいるの」

 そう言い残して榊志乃は走り去った。

 敢え無く玉砕した慎司はしばらく呆然と立ち尽くしていた。

 視線を感じて横を向くと、理子がいた。

 慎司は苦笑しながらバンザイして見せた。

 理子は笑みを浮かべて慎司に近づいて来た。

「振られちゃったね」

「あ~あ。おれは何のためにこの学校に来たんだろうな」

「よく頑張ったね、慎ちゃん」

 言いながら理子は慎司の手を取ると、体育館非常口の段差に腰を下ろした。

 慎司も促されるまま理子の隣りに座った。

 理子は慎司の頭に両手をやると、自分の胸に包み込んだ。

「大丈夫よ、慎ちゃん」 

 何年ぶりだろうか。

 小学生以来だった。

 髪に指を絡ませる理子の仕草は、昔と何も変わらなかったが、その胸のふくらみだけは明らかに違っていた。

「お、おい…理子、やめろよ、それ」

「懐かしいでしょ?」

「何言ってるんだ! あの頃は、胸なかったじゃないか。全然違うよ」

「いいの、いいの。気にしないの」

「気にするよ。ちょっと止めろよ」

「何照れてるのよ」

「もお、理子ったら…」

 あらがいながらも、慎司は笑っていた。

 その顔を見て理子も笑った。

「また、新しい恋を見つければいいのよ。わたしはいつでも手伝ってあげるから」

「そうだな……。ありがとう、理子」

 たった今振られたというのに慎司は不思議なくらいすっきりしていた。

 慎司は以前とは違う理子の胸のふくらみに顔を預けた。

(柔らかくて暖かいや)

 思春期の少年なら当然抱くであろう欲望も、不思議と理子には発動しなかった。

 久しぶりに安らぎの時を得た思いだった。

 理子に抱かれながら、慎司はずっと疑問に感じていた事を訪ねてみた。

「あのさ、理子…。あの時なんで、初めて会ったというのに、こんな風におれを抱きしめてくれたんだ?」

「あの時って、九年前のこと?」

「ああ」

 理子の手が慎司の頬に触れた。

「わたしね、体を壊して入院していた時があるの。その時、ある人との出会いがあったの」

「もしかして、理子が入院したのは、市立病院じゃないのか?」

「そうよ」

「それじゃ、出会った人というのは…」

「そう。慎ちゃんのお母さんよ」

(やっぱり、お母さんと繋がっていたんだ…)

 理子の仕草や言葉の中に母の面影を感じていのは、そういう事だったのかもしれない。

 限りない信頼とは別に、慎司にとって理子は『謎』だった。

 謎の一つが理子に感じる母の面影である。

「慎ちゃんのことばかり話していたわ。お母さんは慎ちゃんのことが心配で仕方なかったのよ。慎ちゃんを思うお母さんの思いに、幼いわたしは、すっかり心打たれちゃって、何とかしてやろうと、思い詰めてしまったのよね」

「それで、あの日、おれの所に来て、抱きしめてくれたってわけか?」

「そうよ。わたしがいなくなったら慎ちゃんを抱きしめてやって欲しいって言っていたの」

「理子はそれに抵抗はなかったのか?」

「なかったわ。わたし弟が欲しかったんだもの。慎ちゃんの写真見せてくれたら、可愛くってキュンって胸が高鳴ったのよ」

 慎司は十二月生まれで、理子は十月生まれだから確かに理子の方が二ヶ月お姉さんだった。

「だからね、慎ちゃんのこと、ずっと守ってあげたい思ったの。今もその思いに変わりはないのよ」

 理子は明るく答えたが、慎司の胸には釈然としない何かが引っ掛かっていた。

(感化されたとしても、それだけの理由で体を張っておれを守ろうとするだろうか)

 中学二年の時、葉山の拳を顔面で受けた理子の決死の形相を、慎司は思い返した。

(きっと理子は、まだ隠していることがある)

 それは分かっているが、これ以上聞いてはいけない気がした。

 母との繋がりを知ってもなお、理子が謎である事に変わりはなかった。

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