第3話 母の悲しみと理子の愛情





「お父さんはね、お母さんが通う学校の先生だったのよ」

 さやかが亡くなる一ヶ月ほど前の事だった。

 総合病院の個室で、さやかは見舞いに来た慎司にそう話してくれた。

 父・良助が先生で、母・さやかがその生徒だったのは知っていたが、めについて詳しく聞いた事はなかった。

「お母さんはまだ十六歳で、高校二年生。お父さんは新米の社会科の先生でお母さんのクラスの副担任だったの」

 ところが新学期が始まって間もない頃、担任が交通事故で入院する事になり、良助は担任も任されるようになったという。

「お母さんはクラス委員だったから、先生だったお父さんのお手伝いをすることが多くてね、まだ慣れないお仕事を一生懸命頑張っているお父さんを見ていると、放っておけなくって、いつもそばに寄り添って手伝っていたわ」

 大卒間もない新任教諭の良助に、さやかは恋をしてしまったらしい。

「卒業式の日にね、思い切ってお父さんに告白したの。あなたが好きですって」

 さやかは夢見心地でそう話した。

「そしたらね、お父さんもお母さんのこと好きだって言ってくれて…泣いて喜んだわ」

「それでお父さんと恋人になったんだね」

 慎司の言葉にさやかはニコリと頷いた。

「卒業後お母さんは大学の教育学部に入ったの……教育学部って、先生になるための学校のことよ。だけど、大学二年生の時に、お腹に赤ちゃんが出来たのよ」

「それってぼく?」

「そうよ」

 さやかは慎司の頭を撫で、いつものように指を髪の中に絡ませてきた。

「お母さんは大学在学中に結婚と出産をしたけど、それでもちゃんと卒業して、学校の先生の資格を取ったのよ。お父さんと同じ学校の先生になりたかったから」

 だけど、元々心臓が弱く虚弱体質だったさやかは、教師にはなれなかった。

 それでも教育に携わる仕事がしたいと、自宅で出来る小規模な塾を始める事にした。

「学校の先生にはなれなかったけど、いつも慎ちゃんの傍にいられるこの仕事を選んで、よかったと思っているわ」

「ぼくもお母さんの傍にいられて嬉しいよ。ぼく、お母さんのこと大好きだよ」

「まあ、嬉しいわ。お母さんも慎ちゃんのことが大好きよ」

 言いながら慎司を抱きしめた。

「ぼくのことはお父さんの次に好きなんだよね」

 慎司はこの時、大した思いもなくそんな事を口走ったが、意外にもさやかは顔色を変え、そして涙ぐんだ。

「違うわ。お母さんが一番好きなのは、慎ちゃんよ」

「お母さん、どうしたの?」

 慎司はいつもと違う母の異変に動揺した。

「お母さんが好きなのは…慎ちゃんだけよ」

 肩を震わせて力強く慎司を抱きしめてきた。

「お母さん、どうしたの? 痛いよ」

「ごめんなさいね、慎ちゃん」

「お母さん、どうしたの?」

 慎司はもう一度聞いたが、さやかは首を横に振るだけだった。



 その時の母の涙の意味が、中学に入る頃には慎司にも理解できた。

 慎司の家は四人家族になっていた。

 愛理が産んだ妹の詩音しおんは幼稚園に通っていた。


 詩音が生まれたのは十二月だ。

 妊娠から出産まで十月十日とつきとおかと聞いている。

 つまり逆算して考えると、さやかが病床にある時、すでに愛理は身ごもっていた事になる。

(許せない)

 性について無知だった頃から抱いていた、漠然とした嫌悪の正体は、これだったのだと、慎司は確信した。

(お母さんは、お父さんに見捨てられたんだ)

 慎司の隣りで無邪気な笑顔を見せる詩音は、母への裏切りの証だと思った。

(お母さん…辛かったよね。悲しかったよね)

 詩音に罪がない事は分かっている。

 だけど、妹として愛でる事は出来なかった。

 慎司はいつも詩音と距離を置いていた。

 詩音が憎いと思い詰める瞬間が稀にあったからだ。

(こいつの身代わりに、お母さんが死んだんだ)

 そんな時、自分の自制心に自信が持てなかったのだ。



 中学に入ってからも理子はいつも隣りにいた。

 さすがに胸に顔を埋めたりはしなくなったが、慎司が最も信用を置ける人間である事に変わりはなかった。

「ねぇ、大丈夫じゃないでしょ?」

 理子が慎司の顔を覗き込んた。

 青アザが出来た慎司の腕をめくりあげた。

「葉山君達、だんだんエスカレートしているよね。わたし先生に相談してくる」

「よせよ。いいんだ。あいつらには何言っても通用しない」

 中学二年になると慎司は不良グループに目を付けられるようになっていた。

 仲間も少なく、小柄で脆弱に見える慎司は、格好の標的だったのだろう。

 素直に悪事に加担していれば痛い目にあう事はなかったが、見下した連中に従属するには嫌だった。

 しかもリーダーの葉山の親は教育委員会の上役だったから、学校側も手をこまねいているだけだった。

 


 ある時、教室で慎司が葉山グループの五人に囲まれていると、クラスの違う理子が間に割って入ってきた。

「何だよお前。怪我したくなかったら、どっか行けよ」

「卑怯者!」

「何だと!」

「親の権力をカサにして、たった一人を大勢で取り囲むなんて、卑怯者の極みだわ」

 葉山の顔色が変わった。

 いつもなら目立たない部分に危害を加えるのだが、頭に血が上った時の葉山は正気ではなかった。

「よせ、理子」

「慎ちゃんは下がって!!」

 強い口調で慎司にそう言うと、理子は両手を広げて葉山の前に対峙した。

「自分一人では何にもできないのに、強がっているんじゃないわ!! この、卑怯者!!」

 理子がそう言い終わるいなや、理子の顔面に葉山のこぶしが食い込んだ。

 何かが折れたような鈍い音が鳴った。

「理子!!」

 理子は両手を広げて立ったまま葉山の拳を顔で受けていた。

 理子の鼻から血が溢れだしていた。

「葉山、なにやってんだよ」

「やばいよ、それは」

「おれは知らないぞ」

 葉山の仲間たちに動揺が広がった。

 殴られた理子の左頬が大きく腫れあがっていた。

 葉山は自分の仕出かした事の重大さを自覚したのか、青ざめた顔で床に座り込んだ。

 慎司の怒りは頂点に達していた。

「てめぇ、コノヤロー!!」

 葉山の前に飛び出そうとする慎司の腕を理子の手が掴んだ。

「だめよ。慎ちゃん……」

「理子!!」

 意識を失い倒れこむ理子を慎司は抱きとめた。

 そこへ教師たちが駆け込んで来た。

「何があったんだ。これはどういうことだ」

 教師の言葉に周りにいたクラスメイト達は有りのままを告げた。

 意識を失った理子は救急車で病院に運ばれ、葉山たちは職員室へ呼ばれた。

 慎司は理子に付き添った。 

 殴られた理子の頬が青黒く変色していた。

「理子、ゴメン。おれを助けるために……」

 理子が治療を受けている間に、病院に付き添った教頭先生と慎司は警察官から質問を受けた。

 教頭は理子の心配より、表沙汰になった暴力事件の後始末に苦慮しているのは明らかだったが、慎司は包み隠さずすべてをさらけ出した。


 白日の下に晒されたこの暴力事件は、最早隠ぺいなど出来なかった。

 そして、黙らされていた者が次々と口を開きだした。

 万引きやカツアゲなど数えきれないくらいの悪事が表面化し、葉山の父は教育委員を辞職し、葉山と主だった関係者は、更生施設に送られる事になった。

 一連の結末はきっと理子の狙い通りだったに違いない。

 このまま放って置いたら、慎司への攻撃はもっとエスカレートしていた筈だし、悪の片棒を担がざるを得なかったかもしれない。

 おおやけに出来ないものを公にするために、理子はみずからを犠牲にしたのだ。

 すべては慎司を守るために。



 理子の左上顎は骨折していた。

 ベッドに横たわる理子を慎司は毎日見舞っていた。

 右目と口元以外白い包帯を巻かれた理子は、慎司を見て微かに笑った。

「馬鹿だよ、お前……」

 涙する慎司の頬を、理子の左手が触れた。

「大丈夫よ。すぐに良くなるから」

「あのな、よくなると言ったって……お前の顔は…」

 言いかけて慎司は言葉を切った。

 回復はするが傷は残るかもしれない、と医者は言っていた。

 理子はそこそこ美形だった。男子の間からの人気もそれなりにあった。

 だけど理子は、一生消す事の出来ない傷を顔に負ってしまったかもしれないのだ。

「慎ちゃん、わたしの顔の傷は、完全には治らないんでしょ?」

 笑みを浮かべながら聞く理子に、慎司は次の言葉が見つからなかった。

「傷が残ったら、慎ちゃんはわたしのこと、嫌いになる?」

「そんなことで、嫌いになるわけないだろ」

「だったらいい。わたし慎ちゃんにさえ嫌われなかったら何の問題もないわ」

「理子…」

「責任取ってお嫁さんにして、なんて言わないわよ」

 理子はクスクスと笑った。

「そんな顔しないの。慎ちゃんはわたしの大切な弟みたいなものよ。それと、一番の親友かな? 恋愛感情はないから気にしないでいいわ」

「分かったよ」

 慎司は理子の気遣いに甘えた。

「でもさ、おれのこと男として見てないってことだよな。それって何か、複雑な気持ちだな?」

「じゃあ、わたしを彼女にしてみる?」

「えっ?」

「何よ、変な顔して。冗談よ、冗談」

 理子は軽く頬を押さえ、イタタタタと言いながら笑った。

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