第5話 愛理と詩音





 家に帰ると、玄関口でバッタリ詩音と合った。

「お兄ちゃん。お帰りなさい」

 小学二年生になった詩音が硬い表情でペコリと頭を下げた。

「慎司君、お帰りなさい」

 台所にいた愛理が慎司を出迎えた。

 二人そろって慎司を気遣っているのが分かる。

 そういうのはあまり好きじゃなかった。

「ただいま」

 知らない顔をすると変な気を回されるので、挨拶はする事にしているが、いつもため息が出てしまう。

「気を遣うのはもう止めようよ。互いに疲れるだけだからさ」

「そうよね。ごめんなさい」

 愛理は何かにつけてそう言って謝る。

 愛理が謝ると、詩音が悲しい顔で愛理を見つめて、その手を握る。

 それを見るたびに、慎司は自分が悪者にされている気がして遣り切れなくなるのだ。

「愛理さん、おれはもう何とも思ってないから、普通に接してくれないか。詩音だって、ピリピリしていて可哀そうだよ」


 慎司だって子供ではない。

 母から父を奪った事で敵視してきたが、九年も接していれば、彼女がどういう人間なのかも分かってきた。

 二階建て4LDKの大きくない家だが、どの部屋に入ってもホコリ一つ落ちていない。

 雨の日に泥水のしみ込んだ慎司の体操服も、シミひとつ残さず洗ってくれていた。

 黙ったままにしていた破れた服も、次に着る時は、キレイに縫い合わされていた。

 父の帰りがどんなに遅くとも愛理は起きて待っている。

 決して作り置きなどはせず、帰ってきた父が入浴している間に調理して、作り立ての料理を用意するのだ。

 愛理の人となりはよく分かっている。

 後はお互いのわだかまりをどうするかだけだ。


 それに本当に悪いのは父・良助の方だと思う。

 最近良助の帰りが遅い。

 学年主任になった良助は進路指導で忙しいと言っているが、慎司は本当の理由を知っていた。きっと愛理も。


 それは偶然だった。

 学校帰りの寄り道で、良助が若い女の人と並んで歩いている所を、偶然にも見止めたのだ。

 後をついて行くと、二人はホテル街へと足を運ばせた。そしてホテルに入って行くところを慎司は見届けた。


「愛理さんだって辛いんだろ? もう、おれに気を使わなくていいよ」

 慎司は彼女も被害者だと思った。

 愛理とちゃんと話し合った事はなかったが、言葉巧みな良助にそそのかされてこの家に嫁いで来たのではないだろうか。

 愛理が、重篤の妻がいるの事を知った上で、良助と契りを結べる程無神経な女性とは思えなかった。

 或いは、間もなく逝くさやかを見越して、妻はいないとでも良助が嘘を言ったのかもしれない。

 ともあれ、西岡家に来てからの愛理は、良助はもとより慎司に対しても

献身的だった事は間違いなかった。

 普段の生活態度を見る限り、愛理はいい加減な事の出来る女性ではなかった。



 理子に久しぶりに抱かれたせいか、慎司は心に少しばかりの余裕が出来ていた。

(おれも、少しは心を開くべきだろうな)

 慎司はこれまで出来なかった行動を思い切って試みた。

 愛理の隣りにたたずむ詩音の頭に、慎司はそっと手を置いた。

「詩音も普通に接してくれたらいいよ。おれは……兄ちゃんは二人のこと怒ってなんかいないから」

 詩音の顔がパッと咲いた。

「お兄ちゃん…。うん、分かったわ」

 詩音は、少し硬いが、笑顔を見せてくれた。

「慎司君…」

 愛理は涙声で慎司を抱きしめてきた。

「愛理さん…?!」

「ありがとう、慎司君。詩音を認めてくれて、ありがとう…」

 慎司に寄り掛かる愛理は、まさに娘を思う一人の母親の姿だった。

(お母さんもきっとこんな気持ちで、おれのこと思ってくれていたんだよな)

 慎司は初めて愛理と理解し合えた気がした。

 愛理の頭の位置は165センチしかない慎司の鼻の高さくらいしかなかった。

(愛理さんってこんなに小さかったんだ)

 ここ一年で身長が10センチ以上伸びた事もあるが、今まで愛理を避けていた事の結果を改めて思い知った。

 詩音をいたわる愛理の心に接して、慎司はもう少し詩音を妹といて可愛がってやりたいと思った。

(理子もこんな気持ちだったのだろうか)

 慎司を思うさやかの気持ちに理子は共感したのかもしれない。


 ともあれ、いつまでも愛理と密着しているのは変な気分だった。

「愛理さん…ちょっと」

 慎司が一歩後退すると、それに気付いたのか、愛理はハッとした顔で抱きしめていた腕をほどいた。

「ごめんなさい」

「いや…今まで、おれの方こそ、ゴメン」

 不思議な感覚だった。

 九年間わだかまっていた物が、たった一歩踏み出しただけで、いとも簡単に解けてしまった。

 慎司はもう一度詩音の頭を撫ぜた。

 詩音は大きく目を目開いて微笑み、愛理はまた泣いた。




「もう、大丈夫ね」

 翌日学校で、昨日の愛理たちとの事を話すと、理子も喜んでくれた。

「あの人なりに慎ちゃんのこと、頑張っていたからね。わたしも愛理さんはいい人だと思うわよ。よかったじゃないの、若いお母さんに抱きしめられて」

 理子の言葉に小さなトゲを感じた。

「なんか変だよ、理子」

「そうかしら?」

「やっぱり変だよ」

「愛理さんに抱かれてどんな気分だった?」

 と慎司と目を合わせないですねねたように言った。

 こんな理子は初めてだった。

「もしかして、妬いてる?」

「知らないわ」

 フンっと顔を背ける理子が妙に可笑しかった。

(やっぱり、おれのこと好きなのかな?)

 そう思った。

 でも、

「ねぇ、二組の倉田望さんって可愛くない? この前話したんだけと、すごくいい娘よ。慎ちゃんはどう思う?」

 なんて話を持ち掛けてくるのだ。

(やっばりよく分からない)

 理子はやはり『謎』だった。

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