4【朝顔の冬】

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「なんで、あんたと二人で行かないといけないのよ!」 

「いや、こっちが聞きたいわ!」

「半径10mでも近づいたら、海に突き落とすわよ!」

「ここから10m離れたら、自動的に海に落ちるわ!」

 本土行きの定期船の上。何故かスミレと二人っきり。

 最初はこんなことを話していたが、次第におたがい無口になっていくという…こんな空気耐えられない。

 この場から逃げ出したい。本当に海へ落ちてしまおうか…。

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 事の発端は冬晴れの正月から始まる。

「朝顔さん、あけましておめでとうございます。」

「おめでとうございます!敦子さん今年も色々と宜しくお願いします。」

「あなた!朝顔さんよ!あれ…いないわ。裏山に行ったのかな?旦那を呼んで来ますので、ちょっとお待ちくださいね。」

 松葉の家に来たのは島に戻った日にお詫び行脚あんぎゃして以来2回目。昔はよく遊びに行っていて、そのついでにご飯を一緒に食べさせてもらっていた。俺は母が早くに亡くなったから、松葉のお母さんが俺にとっては母のような存在だった。でも今はお母さんと敦子さんに海香ちゃんの三世代が同居している上、来夢来島に居候いそうろうさせてもらっている俺が出入りするのはさすがに図々しいかなと感じ、松葉の家に近づかないようにしていた。

「あら朝顔君、よお来たね!さあ上がって上がって!そんな外におったら寒いじゃろうけ。」

「お母さん、大丈夫ですよ!今日は年始のご挨拶で伺っただけですから…」

 松葉のお母さんは、お孫さんがいるとは思えないくらい若々しい。一方、松葉は山男みたいな風貌なので、お母さんが松葉のお姉さんと言われても全然違和感がない。松葉のお母さんは来夢来島の隣にある田村商店を切り盛りしている一人だ。といっても今は2人しか働き手はいないが…俺が小学生の時は本土の品物が手軽に手に入るような島のコンビニ的な役割を担っていた。しかし今はそれだけではなく、大豆島産の野菜や島の銅で出来たペンダントや陶器を売ったり、島の広報誌を作って無料で配布したり、観光客へのPRも独自で行っている。この観光活動も松葉のお母さんのバイタリティーの賜物たまものだ。

「はい、お茶。」

「すいません、結局上がらせていただいて…」

ストーブに一番近い掘り炬燵こたつに入らせていただき、有難く暖をとる。今日は海からの風が強く一段と寒かった。島に戻った時は炎天下だったことを思うと、時の流れの早さを肌で実感する。さすがに半そで短パンを貫くのは辛い季節だ。

「朝顔君、あんた嫁さんは貰わんのね!?」

「いや、俺はそんな相手いないですから。」

「スミレさんがおるやない!」

「ぶっっっ!」

 口に含んだお茶を炬燵にぶちまけてしまった。

「ははははは!いやっ、あんた、なにしてんの!?」

 お母さんが笑いながら慌ててティッシュ箱に手を伸ばす。

「急に変な事言うからですよ!そもそもスミレは俺なんかとは不釣り合いですから。」

「あら、そうかしらね…そんなことないわよ。スミレさんはしっかりしとるから絶対お似合いじゃと思うわよ。」

 それは俺がしっかりしていないから釣り合うってことだろうか…

「お母さん、ドラマの見過ぎじゃないですか?朝顔さんとスミレさんは生徒と先生の関係ですから。それは禁断の愛になりますよ。」

 隣の台所でおせちを作っている敦子さんが鍋の様子を伺いながら口を挟む。敦子さんも松葉と同じく大柄で広背筋がたくましく見える。松葉が学生時代に部活に入っていた登山部で出会ったと聞いた。

「でも、そろそろ卒業なんでしょ?」

 そう、牧田校長とスミレの協力で冬休みを補講に充ててもらったので計画より少し前倒しで授業数をこなすことができている。今のところ2月中頃には義務教育未了者特別受講制度が修了、つまり小学校を早めに卒業できる見通しなのだ。

「朝顔君が戻ってきてくれて本当に嬉しかったのよー。あとは朝顔君とスミレさんが結婚してくれたら、もう私、天国に行ってもいいわ。」

「困りますよ、海香のこともみてもらわないといけないのに。」

「そうね、海香が成人するまでは見届けたいわ。朝顔君、あと20年位は死ねないみたい。」

 海香ちゃんは松葉の長女、来週で1歳になる。来夢来島が繁忙期の時は、敦子さんは厨房に立ち、お母さんがこの家で海香ちゃんの面倒を見ている。今はベビーベッドの中ですやすやと寝ている。

「武史わるいわるい。裏山で野生の熊と出くわして、瀬戸内海で鮭が獲れるかどうかってワイワイ井戸端会議をしよったわ!」

「何やその独特な世界観は!?」

泥が媚びり付いている青いつなぎの大男が掘り炬燵にのっそりと入り込む。

「たははははは!まあそんなことはどうでもいいんじゃ!そういえば武史宛てに年賀状が届いてた。これ。」 

「年賀状??」

 来夢来島への郵便は、留守であったら松葉のお宅に転送されることになっている。しかし、俺はこの島に来て住所変更のお知らせのハガキも出していないし、親しい相手にも今の住処について教えてもいない。そもそも仮住まいだから、住所変更を伝えるのもおかしいと思っていた。だから前住んでいた社宅からの転送届すら提出していない。

「あらっ、これ草野さんからだわ。」

 門松に挟まれて真ん中に華やかな鶴が描かれている。その絵の空白部分に『師匠、今年も色々学ばせてください!』と筆ペンでメッセージがあった。

あの学芸会での借金での揉め事。取り立て屋があれだけ劇を荒らしてくれたのだが、行政書士で元新聞記者の父上が色々調査してくれた結果、町工場の借金はやはり清算されていたことが分かった。後日あの取り立て屋は取り立て詐欺として逮捕された。どうやら借金を返済していると承知の上の取り立て行為だったらしい。学芸会に乗り込み騒ぎを立てれば、俺がおくしてお金を出すとでも考えたのだろうか…これらの一連の話はこれ以上島を騒がせたくなかったので、全く口外していない。

「これはどちら様ですか?『近々、大豆小学校に伺います』って書いてありますよ。」

「株式会社パキーラ…笠原さん!?」

 久しぶりに聞く名前に、鼓動が早まった。



 霧雪きりゆきが舞っている。突き刺さるような寒さを感じる日、最後の学期が始まった。

 体育室の全校集会にて、牧田校長が体育座りをしている生徒の前に立つ。パンチパーマをあて眉毛を剃った風貌が相変らず極悪人のように見えるが、今日は余計に顔つきが引き締まっていておどろおどろしい。

「えーんえーん…」

 小学生2年生の生徒の一人が声をあげて泣き出す。他の生徒も顔が引き攣っている。どんだけ威圧感があるんだ!今日は腰の調子が悪いのか?根はいい人過ぎる位いい人なので、見た目とのギャップにいつも驚きを感じる。前世はマフィアでもやっていたのだろうか?

「あわわわわ、泣かないで泣かないでねぇ~。大丈夫だよー、全然怖くないからねぇ~。ただの校長だよー。私は普通の校長だからねぇ~。」

自分で普通の校長と言っているところを見ると更に怪しく感じる。

「ごほん、うん、ごほん…。生徒の皆さん、あけましておめでとうございます。冬休みが終わってみなさんの元気な顔を見れて嬉しいです。去年の終業式でお約束させていただきましたが、みなさんは今年の目標を決めてきたでしょうか。」

 どこでも聞くような年始の挨拶が10分あった後、校長はまた咳払いをして、額の汗をハンカチでぬぐった。そして、何か言いにくそうな仕草をしながら、再び話を始めた。

「えー…えー…えーっと…皆さんに…大切なお話があります。」

 なんだ?怖い顔がもじもじしているので、少しだけ愛嬌を感じる。一瞬、フレンチブルドッグのようにも見えた。

「既にご自宅にお葉書が届いていたと思いますが、ご覧になったでしょうか?大豆小学校は今年度をもって、本土の友ノ宮小学校と合併することになりました。」

 つ、ついに決まってしまったのか!?

「えー!」「いやだー?」

 さっきまで静かに聞いていた生徒達が声を上げはじめた。体育室が一気にざわつきだす。

「皆さんを驚かせてしまい、本当にごめんないさい。」 

「校長先生…今年度ということは今年3月までということですか?」

「草野君、その通りだよ。6年生は3月で卒業になります。1年生から5年生の皆さんは、来年の4月から友ノ宮小学校に通学することになります。」

 もともと大豆島には小学校しかないから、中学生になれば本土に通うことになっている。中学校に通うタイミングで寮がある学校に行く生徒もいれば、家族で島を離れ本土に引っ越すこともあると聞いている。しかし、本土の小学校に合併されるのであれば、小学課程の残りがある生徒達も本土に通わなければならない。

 この島はますます過疎化が進むのだろうか?120年培ったこの学び舎はどうなるのだろうか?

「まだ皆さんから質問があると思いますが、詳しくは教室に戻ってから担任の先生からお話しさせていただきますので、その時に…」

 

 教室に戻り、宗助から『大豆小学校廃校のお知らせ』の案内を見せてもらった。

「師匠、おととい、僕の家にこの手紙が届いたんです。」

「こういうのって事前に手紙が届くもんなんだなあ…」

 俺宛ての郵便物は来夢来等には届かないので、当然この手紙は初めて見るものだった。

 内容もそうだが、「廃校」っていう字にびっくりした。校長は「合併」って言っていたので…大豆小学校は「廃校」なのか?ということは、噂通りにこの校舎は取り壊されるということなのか?「お知らせ」の手紙には校舎やグラウンドの存続については何も説明がない。さっき校長が説明していた以上の事が何も書かれていなかった。


「みなさん、ごめんなさい。私たちの力不足もありこんなことになってしまいました…」

「いや、スミレ先生が悪い事なんて全然ないでしょ!」

 俺の発言に「そうだよ!そうだよ!」と生徒達から声があがる。

「いえ、この件は私達教職員にも少なからず責任があります。実は牧田校長をはじめ私たち教職員は去年の春から、緑御池市の教育委員会と話合いを進めておりました。」

生徒達がスミレの一言一句を聞き逃さないよう耳を傾けている。

「小学生のみなさんには少し難しい話かもしれませんが…学校を運営することは、設備の維持や人件費など様々な面で行政の税金がかかるのです。生徒の数が減少して今後増える見込みがなければ、小学校を減らす方向で検討されてしまいます。」

「じゃあ、この大豆小学校はこれから生徒数が増えることがないので、税金の負担になるから廃校になるってことですか?」

「そうです。その通りです…皆さんの学校を守れなくて申し訳ございませんでした!」

 スミレが俺達に頭を下げている。見たことがないスミレの姿にいつも騒がしい生徒達は何も声を出せない、スミレの言葉もそれ以上繋がることはなかった。いつも賑やかな教室が、閉め切った窓に冬の寒々しい風が吹き付ける。

 

 

 瀬戸内国際芸術祭が大盛況に終わり、島の観光シーズンもオフになったので年明けの来夢来島は閑古鳥かんこちょうが鳴いている。

 秋は厨房が居場所で松葉と一緒に切り盛りしていたが、冬になるとカウンターに並ぶ7つの丸椅子のセンターが定位置になっていた。

「母校が無くなるのは胸が痛いわ…」

「だよなー、地元に戻っても帰れる家がなくなるようなもんじゃなあ…って武史はまだ現役じゃけ母校っ言い方おかしいじゃろ?」

「母校って卒業生しか使えん言葉だったか?いや、在校生でも母校って言ってもいいはずでしょ。」

「そうじゃったか?いや、やっぱり違うって。卒業生しか駄目じゃって!」

「よーし、松葉がそこまで言うなら、今日のお酒代を賭けてもいいぜ?」

「いっつもタダ呑みしよるじゃろが!ツケにしとったら金額どえらいことなっとるけの!」

「悪い悪い、出世払いするから許してくれ。」

「なんじゃ出世って!会社クビになったくせによく言うわ!」

「松葉それは言うなって…言葉に悪意を感じるぞ。」

「たははははは、悪い悪い。楽しい酒をいっつも呑めるのは相手があってからやけな。武史ちょっと待ってくれ…」

 レジの横に接続しているノートパソコンでカチカチと検索を始めた。

 学校から廃校発表があったその夜、外は瀬戸内海からの風が強く凍てつくような寒さだった。スミレを来夢来島に誘ったが「今日はそういう気分じゃないわ。」とさくっと断られた。

「たははははは!武史悪い!オイが間違っていたわ!母校って言葉は卒業生でも在校生でも使える言葉じゃって。」

「そうだろ!やっぱりな!じゃあもう1杯ヨロシク。」

「今日は呑むな~。スミレにふられたからってやけになるなって!」

「やかましいわ!今日のスミレの落ち込み方は凄かったから、ここで色々話をしたかったのになあ。」

 スミレの涙の謝罪があって、その後の通常授業は気丈に振る舞っていたのでさすがだと思った。その後の授業はほぼいつも通り、わいわいがやがやいつものアットホームな雰囲気で進んでいった。

 だけど、幼馴染には分かる。スミレはずっと心で泣いていた。平然を装っていても度々唇を噛む癖は、33歳になっても変わっていない。

 

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「スミレ、今日はごめんね…」

「大丈夫!しょうがないもん!」

「だって、俺があそこでちゃんとボールをキャッチしていたら、本土のチームに勝てていたのに…」

「しょーがないって!それ以上私の前でウジウジしていたら蹴りとばすわよ!」

「だって今日のドッチボール大会まで一番練習してたのはスミレだったし…試合終わってからさ、ずっと変な顔しているから…痛っ!そんなバシバシ蹴らないでって…」

「もう!うるさい!」

「スミレってば!おーい!船が来てるからって桟橋は走っちゃだめだって。濡れているから滑っちゃうよ!」

「こらこら…朝顔君、駄目だよ。女子が悔しがっている時は、励ますより寄り添って話を聞いてあげるのが一番なのさ。」

「石橋先生…そうなんですか?僕は男の子なんで女の子の気持が良く分かりません…先生は女の子の気持ちも分かるのですか?」

「先生という生き物は海千山千うみせんやません、何でも分かってしまう職種なんだよ。」

「さすが石橋先生!」

「冗談だよ冗談。マイケル=ジョーダンだよ!ふっはっはっはっ!」

「…」

「まあ、今日のことは、ドッチボールの試合以上の事を学んだと思って、朝顔君が今日感じたことを忘れないうちにノートに書いておきなさい。それが今日家に帰ってからの宿題だね。」

「えー?今日も宿題あるんですか?疲れてるのになあ…」

「勉学も社会の事も女の子の心についても日々学習!大人になるまでの僅かな時間を有意義に使わないと、私みたいな人間になってしまうよ。」

「それは嫌だなあ…」

「そこは否定でよかったのだが…ところで朝顔君、空を見上げてご覧なさい。」

「空ですか?」

「回りより明るく輝いているアレとアレとアレ、3つの星を結ぶ何と呼ばれているか分かるかな?」

「えーと、冬の大三角形です!」

「正解!じゃあ、何で冬の星空は一年で一番綺麗に見えるか知っているかな?」

「冬は一等星が多いからです!」

「そうだね。それと冬の上空は空気の流れが早くて、様々な色の星が見えるというのもあるから知っておいたほうがいいよ。」

「分かりました!」

「それと女子に答える時は最後にささやくようにこう言うんだ。『でも結局、どの星も君の輝きには敵わないよ』ってね。」

「…」

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 瀬戸内海からの打ち付けるような強風が来夢来人を襲う。ピューピュー言う隙間風が寒さを増長させている。

「大丈夫かこの建物は?もう古いんだよな?」

「古さという良さを残しながら、中も外もイノベーションしとるから大丈夫じゃから。」

 松葉にとっくりを差し出しお猪口に日本酒を注ぐ。

「武史、どうなるんじゃ?あの校舎は取り壊されるのか?」

「それはまだ決まってないみたいで…でも学び舎としての機能は無くなったらどうなるんだろう?校舎があるだけで維持費はかさんでいくだろうし…今のところは取り壊しの方向って噂は聞くけど。」

「うーん…せめてあの校舎だけでも残すことできたら、島民の想いが救われるんじゃけどなあ…」

「だよなあ、あの学び舎は大豆島のシンボルだもんなあ。あの校舎が無くなったら、やっぱり寂しくなるよな…」

寂寥せきりょう感に苛まれてるせいか、日本酒が心身に染み渡る。

「そうじゃ!島民が集まる集会所とかに改修したらどうじゃろか?あそこやったら島民全員が集まれる!」

「集会所か…こないだみたいな学芸会規模の人数だったら活用価値がありそうだけど、島民の人口規模だったらどうだろう…そんなしょっちゅう集会する訳でもないからなあ…」

「だったら、宿泊所は?芸術祭の時とかさ、島の民宿だけじゃ全然足らん。そしたら夜中も観光客で島は活気づく!」

「宿泊所…いいね!いやっ待てよ。でも今みたいなオフシーズンはどうするの?芸術祭だって3年に1回しかないし。オフシーズンだらけだったら維持費が更にしんどくないか?」

「そうじゃなあ…」

「校舎の活用方法って、こう考えると結構難しいもんだなあ…」

「スミレはもう去年の春から教育委員会と交渉していたんじゃったら、俺らが思いついたことをとっくに考えとるかもしれん。」

「まあ、こうやって考えることが校舎を残すきっかけに繋がるかもしれんからな。」

「それじゃ武史!いいこと言うじゃないか!島民の総意はこの校舎を残したいということは間違いないやろうから、島民を巻き込んでいったらもっと沢山のアイデアを出るじゃろ!」

 スミレは去年の春から市の教育委員会と戦っていた。大豆小学校の卒業生として、そして在校生を受け持つ教職員として、俺達が考えている以上に苦悩していたはずだ。松葉や俺にも言えなかったことも多くあったと思う。だから今はその背負っている重荷を少しでも軽くしてあげたいという気持ちになっていった。

「武史!武史!テーブルに置いている携帯鳴ってるぞ!」

「わるいわるい、ボーっとしていた。誰だろうこんな時間に…おろっ!?」

 


 寒さが少し和らいだ1月末、放課後の校長室。牧田校長の許可をいただき、部屋を借りた。この校長室が、島で準備できる最大のおもてなしが出来る接客ルームだからだ。歴代の校長先生の写真をバックに、対に置いてある黒皮のソファーの片方に浅く座ってその人を待つ。

「あんたさー緊張しすぎなんじゃない?授業中から溜息ばっかり付いてるし。今も膝の上の握りこぶし作っちゃって、力みすぎよ!」

スミレが珍しく俺に茶茶を入れてくる。

「だって久しぶりだからさ、ソワソワしちゃうんだよ。一体何を言われるか気になって…」

「少しは話をしたんでしょ?おとといの電話。」

「その時は、会う場所と時間を決めただけで、たいした話はしていなんだ。」

「その人、暇な訳?こんな平日にわざわざ関東からあんたに会いにくるなんて。」

「暇な人ではないって!だからそれも気になって。確かにお世話になった人だけど。なんでわざわざ俺に会いに大豆島に来るのか…」

「港まで迎えに行ったらよかったじゃない?」

「港から小学校まで一人で歩いて行きたいんだってさ…」

「変わった人ね…もう来るんでしょその人。校門の前で出迎えてあげるわ。こんな寒い中来てもらっているんだから、温かいお茶位準備するわ。」

「スミレいいのか?授業の準備もあるんだろ?」

「いいわよそれくらい。あんたが働いていた会社の人がどんな人なのか少し気になるから。」

「どうして気になるの?」

「そんなの知らないわよ!」

「わっ、分かったって、ありがと、ありがとう。そうだ、明後日土曜の石橋先生のお見舞い。松葉と話して10時10分の便で本土に行くことにしたから。」

「分かったわ。10時には港に着くように準備するわ。」

 ピンポンパンポーン♪

「スミレ先生、緑御池市教育委員会の渡さんから連絡がありました。至急折り返しのご連絡をお願いします。」

 ピンポンパンポーン…放送室から連絡があった。

「じゃあ、松葉君にもよろしく伝えておいてね。電話終わったら、その人を出迎えにいくから。」

 スミレが部屋を出て行った後、膝の震えが止まらなくなった。去年の初夏以来になる再会。あの時の瞬間が脳裏をよぎるからか?はっきり言ってしまえばあの瞬間はトラウマだ。おそらく一生忘れることはできないはず。人生が大きく変わってしまった瞬間だったから、今回もまた何かが起こるのではないかと考えると自然と体が硬直こうちょくしてしまう。

 扉がノックされ、ビクッと思わず立ち上がり、扉方面に向かってお辞儀した。

「おっ、おっ、お久しぶりっで、ごごございます!」

「えっ?いや師匠、1時間ぶりでございますよ。」

 体を戻すと、宗助が目を丸くしていた。年期が入ったロボットみたいな俺を見つめている。

「おおっ、宗助か!?ごめん、びっくりさせて…」

「いや、こちらこそびっくりさせてすいません。師匠の忘れ物があったので、職員室に届けに行ったら校長室にいると聞いたので、それを届けに来ました。」

「忘れ物?」

「はい、算数のノートです。今日の宿題は、このノートがないとできないと思いまして。」

 宿題は毎日のように出ている。当然33歳の俺も毎日のように宿題をやって提出している。それをスミレが赤ペンで採点して、ノートの下の余白部分に『昨日は咳をしていたようですが、お身体大丈夫ですか?家に帰ってからもうがい手洗いはしてくださいね。』とか『明日から球技大会の練習始まりますね。今年こそは本土のチームに勝ちましょうね!』とか何かしらコメント付で返答しているようなのだが、俺には今の今まで一度もコメントなし!たまには何か書いてくれてもいいのに…と期待してノートを見るのだが、いつも淡々とした添削だけ。たまに答案の間違いがあるものなら、これでもかと言うくらいの大きな『バッテン』が付けられ返却される。「ふざけんな!33歳がこんな問題まちがえるなや!」っていう意味なんだろうな。スミレが俺を罵倒ばとうしていることは伝わってくる。

「宗助有難う!宗助の顔見たら緊張がほぐれたわ。」

「ここで誰かとお会いするんですか?」

「前に勤めていた会社でお世話になった人事部長だよ。」

「え?師匠、元の会社に戻っちゃうのですか?」

宗助の目がまた丸くなった。

「違うよ、違う。俺に会って話をしたいってさ。」

「でも、会社に戻ってほしいって言われるんじゃないですか?」

「多分そんなことはないと思うけどなあ…」

 でも、そんな気もしない訳ではなかった。俺は2月末には大豆小学校を卒業できる。それを見込んで「株式会社パキーラに戻ってほしい」とお願いされても不思議な話ではない。クビになったことは俺の落ち度があるとはいえこのまま小学課程が修了すれば、労働の権利を再び手に入れることができる。義務教育が修了しておらず【義務教育未了者特別受講制度】を活用していたが、別に犯罪者になっていた訳ではないから、誰にも文句を言われることなく社会人に復帰するのは当然の流れである。しかも俺は株式会社パキーラを14年近くも勤務していたのだ。株式会社パキーラからすれば即戦力中の即戦力だ。

 だた、これからの自分の進路をどうするか、まだ決めかねていた。このまま大豆島に残っていくことが良いのか…それとも社会人として復帰した方が良いのか…一体俺は何をやりたいのだろう…

「あれ?草野君?」

 その言葉で我に返ると扉にスミレが立っていた。

「あっ、スミレ先生すいません…もう出ますので…」

「ああー、申し訳ないですねえ。取り込んでいるところお邪魔しちゃって…」

「笠原部長!?ご無沙汰してます!」

 高級感を感じる黒に近い栗毛色のスーツで、コートとハットを片手に抱えて、ジェントルマンの雰囲気をプンプンにかもし出しながら、俺の前に手を差し出してきた。

「朝顔、元気にしてたかね?」

「はっ、はい!元気に小学生をやっています!」

「こんなに外は冷えているのに、半袖半ズボンの大人なんて日本広しと言えど朝顔以外いないだろうからな。パキーラに居た時より、顔色良さそうで安心したよ。」

「そうですか!?部長こそ、お元気そうで何よりです!」

 久しぶりに顔を見合わせたとはいえ、長い付き合いがあるから、この会話のテンポにはすぐに慣れた。相変らず飄々とした口ぶりだが、笑った時に左右の頬に無数にできるしわを見るとホッとした気分になる。


 スミレ先生と宗助に席を外してもらった後、俺の小学生ライフの奮闘ぶりを一から話を聞いてもらった。笠原部長の聞き上手っぷりは今も健在なので、心地よい相槌と癒される笑顔についつい話が止まらなくなってしまう。

 あの突然クビ宣告事件があったとはいえ、そのことを関係なしに俺は心から笠原部長を信頼しているのだなあと思う。笠原部長とは休日でもよく飲みに誘ってもらっていた。コネ入社だった俺の風当りの悪さや下積みの苦労を、今みたいに何も言わずうんうんと話を聞いてくれたのだった。

「しかし部長、わざわざ島まで来てもらって恐縮です。どうして私がここにいることが分かったのですか?」

「はっはっはっはっ!朝顔、本当に分からないのか?」

「だって大豆島にいることを、営業課長だって部下にだってパキーラの方には誰一人として伝えていませんでしたから…」

「学習履歴国家プロファイリング制度を使って朝顔の履歴書を閲覧したのさ。そしたら『緑御池市立大豆小学校に在校中』と記載されていたからのぉ。」

 そういえば、小学校に復帰する直前に、義務教育未了者特別受講を大豆小学校で受けるという手続きを役所で行ったっけ…在学中の学校も第三者からバレる時代になったのか。

「じゃあ部長、どうして私が来夢来島に住んでいることが分かったのですか?年賀状が届いたのでびっくりしました。」

「そりゃあ、大豆小学校をWEBで検索をしたら、朝顔が取材を受けている記事がいっぱいでているからさ。朝顔の写真の後ろにはだいだい大豆小学校か来夢来島っていうお店が映っていたから。正月は小学校が冬休みだろうから、とりあえずお店の方にハガキを送ったら誰かが朝顔に届けてくれるだろうって思ってな。」

「そうだったんですか…島に来てから取材を沢山受けたのですが、ネットにもそんな俺の名前が出ていたなんて。」

「なんだ、自分の記事を見ていないのか…どんな事を書かれているか気にならないのか?」

「僕は電話機能しか付いていない携帯を使っていますし、ネット環境なんて手元にないんで…新聞社からは記事が出来上がったものを見させてもらったりしましたが…」

 部長がバックからノートを取り出す。そのノートには新聞やネットに掲載されたもの俺の記事をスクラップしたものだった。

「すごい…部長に僕なんかの記事を切り取って保存してもらっているなんて、なんか感激です!」

「記事、どれも良く書かれていたよ。わしはそれを見て元気を貰えた。あの時、会社のエントランスで叫んでいた朝顔が、こんなに元気にやっているのだから、わしも頑張ろうという気になったんじゃ。」

「あの時、叫んだ?」

「ああ…朝顔が会社を去ることになった日、わしらと面談した後『義務教育のバッキャロー!!』って延々とエントランスで叫び続けておったわ。」

「ひいいい!そっ、それは恥ずかしすぎます。発狂していたところを部長に見られていたとは…。」

「見られるもなんも、一緒に会社を出て社宅まで送ってあげたじゃないか!」

「あの時、部長が送ってくれたのですか!?」

「本当に何にも覚えてないんだなあ…『営業課長や部下に挨拶していくんだぞ』って言って小会議室から別れたのに、すぐに警備員から『お宅の会社の社員さんががエントランスでわーわー叫んでいる』って連絡があって…急いで駆け付けたら、やっぱり朝顔やったから、こりゃまいったって大変だったわ。はっはっはっはっ!」

 ひたいに汗が噴き出してきて、顔が紅潮してきた。ハンカチを持ってきていて良かった。

「はっ、恥ずかしい限りです。あの時は気が動転してしまい、ご迷惑をおけしてしまい申し訳ございませんでした…」

「いや、あれは朝顔を守れなかったわしが悪かったんじゃ。こちらこそ、申し訳なかった!」

 部長が黒ソファーから立ち上がって頭を下げる。

「部長!やっ、止めてください。私が悪いことなんです!私が履歴書の記載を誤っていたので、会社に迷惑をかけてしまった話なんです!だから、笠原部長は何一つ悪くないじゃないですか!?」

「いや、朝顔、わしが悪かった!すまんかった!」

 心からの恩人だと思っている人に謝られる、こんなに辛いことはない。それと同時に、会社を去った俺の事をこれほど想ってくれているのかという嬉しい気持ちも感じていた。激しくほつれていた糸が優しい手縫てぬいで一目ずつ丁寧に修復されていくような気分だ。

 清々すがすがしい気分になった俺は、部長に相談しないつもりだった事をつい口走ってしまう。

「部長、実は悩んでいることがあります。」

 部長が目の色を変え重むろに俺の顔を覗き込む。

「なんじゃ?」

「僕はこの小学校を卒業した後どうすればいいんでしょうか?島に残っていくことも考えていますし、またサラリーマンとして一からやり直すことも考えています。自分がどういう進路をとればいいかまだ決断ができていません。」

「これから朝顔はどういう人間になりたいのかね?」

「そうですね…自分の生き方を胸張って堂々と話せる人間になりたいです。」

「そうか。だったら朝顔が一番思い入れの強い事にこだった方がいい。」

「思い入れ…ですか。」

「朝顔、君が一番大事にしているものは何かね?最初に思いついたものを私に言ってごらんなさい。」

 それを思いつくのに考える間もいらなかった。

「この島のことが思い浮かびました。」

「はっはっはっはっ!思い付くものがそれだけ早いんじゃったら、迷う必要はない。それに従えばいいだけじゃ。君の心の通り、あるがままに生きなさい。」

 部長の言葉がズブっと刺さった。



 おとといの話なのにまだボーっとしていた。部長との別れ際、肩をポンと叩かれながら「君が困った時、僕が必ず助けになるから。いつでも連絡しておいで。」と言われた。かっこいいなあ、ああいうセリフが似合う歳の重ね方をしたいと思う。

 9時になっていたので、クビになった日以来のネクタイを結び始める。普通のネクタイがお久しぶりすぎて、なかなか形が整わない。ようやく上手くできたのは9時40分だった。ネクタイを結ぶだけでクタクタだ。やっぱり蝶ネクタイの方が良かったな…


 革靴を履いて来夢来島から外に出ると、隣の田村商店で松葉のお母さんが倉庫の片づけをしていた。

「お母さんおはようございます!」

「あら、朝顔君!?やっぱり似合うじゃない!?その紺色のスーツ!いつもの半袖短パンとは違って新鮮だわ!」

「本当ですか?このスーツ、松葉が今日の為に準備してくれまして…ネクタイも今日は普通のネクタイをしてこいって言うもんだから…」

「そのスーツもネクタイも私が選んだのよ!」

「えっ?お母さんが選んでくれたんですか!?何か申し訳ないです…俺の為にこんな高いスーツを…」

「いいのよ!松葉家は朝顔君のファンだから!」

「恥ずかしいですよ、ファンだなんて…お店に居候させてもらって、さらに毎晩ご飯までご馳走になっているのに…」

「いいのいいの!朝顔君がいてくれると私も嬉しいしこの島が明るくなるからいいのよ!これ見てよ、今月の島の季刊誌ができたから。」

 松葉のお母さんが中心となって発行している島の広報誌。

 毎回、大豆島で収穫した野菜の話や採石場の跡地など大豆島の見所を島外の観光客に紹介している。

「わっ!俺の扱い、なんか大きくないですか!?」

『特集…33歳の小学生 朝顔奮闘記』と題名が付けられた記事は表も裏も中もびっしりと俺のことばっかり。表面は俺が校舎をバックにグラウンドでピースしている写真。スポーツ新聞の1面みたいに誌面の3分の2は写真を使っている。裏面は牧田校長との対面インタビューが記載されている。中の紙面には『学芸会最高でした!また大豆島に来ます』『朝顔さんの力で島を盛り上げえください!』『Thank you Asagao!!』とか多くの人から寄せられた声が記載されている。

「お母さん、この中の誌面のコメントは一体?」

「それは、来島(らいとう)ノートに書かれていたあなたに対するメッセージよ。」

「なんですか、来島ノートって?」

「来島ノート知らない?」

「うーん…聞いたこともないかも…」

「ちょっと待っててよ!持ってくるから。」

 お母さんがそそくさと田村商店の中に戻っていく。

「え!?あんたなの!?」

 振り返ると、外行そとゆきの恰好をしたスミレが驚いた顔をしている。普段、学校では長い髪を後ろに結んでジャージ姿が多い。でも今日は俺が見た中で一番ドレスアップをしている。髪も降ろしていて、グレイのダブルボタンのロングコート。そして水色のプリーツスカートを履いている。スミレがスカートを履いていることなんて、昔の記憶を辿っても今までなかった気がする。化粧もしっかりしていて先生感がない。同じ生物なのにこんなにも変わるものなのか…

「あんたさ、振り返って何固まっているのよ。なんか言葉を発っしなさいよ。」

「…いや、びっくりしたから…なんか雰囲気がいつもと違うし。」

「当たり前でしょ!石橋先生に会いに神戸まで行くのに、いつもの恰好で行けるわけないでしょ!」

「まあ、そうか…」

「ってあんたこそ、スーツなんて着ているから松葉君のお母さんと話している人があんただって近くに来るまで分からなかったわ。」

 お母さんが田村商店から小走りで戻ってきた。

「あら、スミレちゃん!普段の恰好もいいけどスーツ着るとまた凛々りりしく見えるわねー」

「お母さん、おはようございます!今日はお見舞いなのでちゃんとした恰好でご挨拶したかったんです。」

「今日は神戸楽しんでおいでね!」

「ええ、出来るだけ笑顔で先生と会話してきます。」

「スミレちゃんがしっかりしているから安心だわ!あっそうそう朝顔君、これよ来島ノート。」


★★Oomameshima Message Book★★

 ―大豆島での楽しい思い出や島の人たちへのメッセージなどご自由にお書きください。

 Pleasa feel to write your mesasage for Oomameshima

 手渡された水色のノートには、英語と日本語が織り交ざった言葉がカラフルなマーカーで書かれていた。瀬戸内国際芸術祭では海外から来られる観光客も多いからであろう。ノートをめくると、これまた色んな国の言葉でメッセージが寄せられていた。英語、中国語、アラビア語、ドイツ語、フランス語…初めて見たような文字もあった。もちろん一番多いのは日本語。

 ある人は丸文字で「大豆島初上陸!!芸術祭最高でした」。

またある人は綺麗な明朝体のような字で「見知らぬ土地で緊張でしておりましたが、少し歩くと『精錬所跡地ならこっちだよ!』と軽トラに乗っている島の方に声をかけていただきました。とても嬉しい一言で優しさいっぱいの大豆島が大好きになりました。From東京」

 またある人は本土と瀬戸内海と四国の地図を書いていて大豆島と瀬戸内海の島々を線で結びつけて、移動した証を書き残した絵付きのメッセージもあった。

 ページを捲る度に、大豆島への想いがあふれてきて読むだけでジーンときた。この大豆島が、日本国内や海外から来島した人達に何らかの想いを抱かせている。もしかしたらこの大豆島に来ることはその人にとってみては生きているうちに1回きり、それも2時間位の滞在なのかもしれない。人は忘れる生物だから、1週間経ったら島に来た事も記憶が薄れていくだろうし、1か月後には「大豆島」という島の名前も思い出せないかもしれない。1年もしたら大豆島に行ったことすら思い出せなくなるかもしれない。

 でもこのノートにその時感じた大豆島への想いを書き込んでくれることで、それらが色褪いろあせないメッセージとして記録に残ることになる。このノートに記載される一文字一文字が大豆島で暮らしている方々の応援メッセージのように見えて、島暮らしで苦労されている方々が報われたような気持ちになった。

「おーい、母ちゃん!武史、スミレまで何を覗き込んでいるの?」

 声の方向に顔をやると、松葉と敦子さんと、松葉の腕の中でこっちを見て微笑んでいる海香ちゃんの3人が立っていた。

「おはようございます!海香ちゃん大きくなったねえ!」

 スミレが海香ちゃんの頭をでると、「きゃっ!きゃっ!」と笑い方は違うが松葉に似た笑顔になる。

「お母さん、先に倉庫の片づけを始めてもらってすいません…私達も今からやりますので。」

「いいのよいいのよあなたは。あなたは海香ちゃんだけ見てたらいいんだから。」

「お母さんいつも有難うございます。助かります。でも出来る限りは手伝いさせていただきますね。」

 松葉ファミリーの服装を見ると、どうしても解せないことがあった。海香ちゃんも含めてみんなお揃いの青いつなぎを着ている。お母さんも一緒の恰好だ。3世代の仲が良いのはそれだけで十分伝わったが…

「おい、松葉?そんな作業着コーデで石橋先生に会いに行くのか?泥とかペンキの跡ぎっしり付いてるけど、そんな汚い恰好だったら病院に迷惑かからないか?」

「たははははは!武史何言っとるんじゃ?おいは今から母上様の手伝いをしないといけないから。春に備えてレンタサイクル事業の準備をここで始めるけの。おいはその準備があるから、神戸には行かん。」

「はっ!?」「はっ!?」

 俺とスミレの声が重なる。

「いやいやいやいや、松葉、今日は3人で石橋先生のお見舞いで神戸に行くって約束したよな?」

「武史、こないだ来夢来島で言ったこと覚えてないのか?おいは行けなくなったから、お詫びに武史のスーツを買ってきたんじゃって。」

「まったく聞いてないわ!そんなこと!」

松葉ファミリーがしらを切っているのが伝わった。全員鼻の穴が膨らんでいたから。こいつら嘘つくの下手くそだろ!

 ブ―――――、本土行きの定期船が大豆港到着の汽笛を鳴らしていた。

 


「いってらっしゃい!」と松葉ファミリーに手を振られスミレはそそくさと定期船に乗り込んでいった。

 船体内部は二層構造となっており、入口の扉を屈んでくぐると船頭の方面に3段程の上りと下りの階段がある。上りは小さな運転席に繋がるのだが、下ると室内は広く長椅子が5列左右に設置されいる。収容人数は50人くらいだろうか…しかし今日の便は、島のご老人夫婦が座っているだけで、あとは空席になっている。

 スミレは3段の下り階段を下らず、船尾にある左右3席並んでいる席に座っていた。ここは屋根と柵しか付いておらず瀬戸内海がよく見える。スミレは右手をクルクル回しながら俺に顔を背けている。

 とりあえず俺から話をかけるのはやめておこう…


 大豆港を出発して5分程、先に口を開いたのはスミレだった。

「なんで、あんたと二人で行かないといけないのよ!」

「いや、こっちが聞きたいわ!」

「半径10mでも近づいたら、海に突き落とすわよ!」

「ここから10m離れたら、自動的に落っこちるわ!」

 ああ、やられた。このシチュエーションは松葉ファミリーが仕組んだものだ。松葉達にしてみれば、お節介な千載一遇のチャンスを作ってくれたのだろうが、俺にとってはただの恐怖である。島に戻る前はスミレに会うことを楽しみにしていたが、授業中のスミレの冷たい目線と生徒達とは明らかに違った態度をとられることに怖れを為しているからだ。

 船内の階段下からお爺さんがスミレも座っている椅子斜め向かいにあるお手洗いに向かおうと階段を上ってきた。最後の段に左足をかけたところで、船の柵を握って立っている俺と目が合う。

「あらら、これはこれは…朝顔さんですよね?」

「どうも…こんにちは。」

「今日はまた綺麗な方と…岡山にデートにでも行かれるのですか??」

「いや!違います、違います!」

 スミレの前で変な事を言われて焦る。スミレの機嫌が更に悪くなるかもしれない。

「去年の学芸会は本当に良かった。あんなに盛り上がったのは、学芸会で劇を始めた以来、一番かもしれない。」

「そうですか!有難うございます。」

「広報誌も見ましたよ。島のことも宣伝してくれて本当に良かった。大豆島の島民はあなたの応援をしていますから、これからも島のことを宜しくお願いします。」

「はい!お任せください!」

 そう言うと、お爺さんお手洗いに入っていった。お爺さんとの会話を聞いていたスミレがどんな顔しているのか怖くて顔を見れなかった。

 スミレとは離れようと階段を下って船内の席に移動しようとしたその時、「あんたさあ…」と凍てつく声が聞こえてビクっとなった。

「なっ、なに?」

 スミレの方を振り向く。

「私さ、まだあんたのことを心から許せないのよ。」

「え?ちょっとちょっと、何か悪い事した?」

「あんたが、島を出て行った日。私や松葉君にもなんにも言わず、黙って去っていってしまって。あんたのお父さんは学校に連絡をしていたみたいだけど、あんたからは20年も音信不通で。」

「それは本当に悪かったよ…でも俺はもう二度とこの島に戻れないと思っていたし、スミレにも松葉にも二度と会えないと思ったから…」

 スミレが船のポールを掴んで席を立ちあがり、俺の目を睨む。

「あんたが連絡を寄越さなかったのは、あんたなりの優しさだったのかもしれないけど、私は故郷の島をこんなに簡単に捨てれるんだって失望しちゃったのよ。」

「そんな、島を捨てたなんて考えた事ないよ!」

「でもあんたが島を去ってから20年の間、あんたはこの島のことを何度考えた?島について何を考えていた?」

「いやっ、それは…」

「どうせ島の事なんか忘れていたんでしょ?私や松葉君のようにずっとこの島のことを考えることがなかった訳でしょ?」

「それは…そうだけど…」

「あんたが島に戻ってきて、島の為に色んな事をしてくれていることは分かったけど…でもね、私が積み重ねた想いはあんたの一時の想いとは全く違うのよ!」

 スミレは席に座り直し、船が作る波しぶきに目を向けた。

 スミレが俺の何に怒っているのかを、やっと理解できた。俺が島に戻ってきてからの恩返ししたいという想いは、島に長くいるスミレや松葉にしてみれば積み重ねた時の分だけ重みが違うと言われても、それはそれで仕方がないかもしれない。

 でも、俺にだって島への強い想いがある。

 ひょんなことで大豆島に戻ってこれたとはいえ、今は島の人達と島を想う気持ちの強さは一緒だ。過去を帳消しにすることなんてできないから、今出来ること一生懸命やるだけだ。

 スミレはありのままに想いを俺にぶつけた後、ハンカチで目を拭いていた。こういう時どうすればいいんだ?とりあえずスミレの肩をそっとさすってみようかと手を差し出した時、

「あらら、これはこれは…若いお二人には色々物語がありますからねえ。」

 お手洗いのドアが開きおじいさんが満面の笑みで立っている。

「えっと、えっと…はは、ははは、ははははは…」。

 俺はこの状況が気まずすぎて、差し出した手をスーツのポケットに入れて、とりあえず笑って何もかもごまかそうとしていた。

 


「看護師さんお久ぶりです。」

「朝顔さんですね?草野さんの息子さんからご面会に来られることは聞いています。」

「今日は俺達だけなんですが、宜しくお願いします。」

「今日は奥様とですか?」

「違いますって!」

 頼むからスミレの前で変なことを言わないでほしい。あの後、スミレと一言も交わすこともなく、病院前の花屋さん経由で三宮大学付属病院の8階の病棟に到着した。

「おじいちゃんの部屋こちらでしたよね?」

「いや、草野さん少し部屋が変わったんですよ。」

「えっ?体調悪くなって部屋が変わったとか?」

「違うんです。ボーとはしてますが、屋上に行かなくても海が見える部屋がいいと聞かなくて…以前その部屋を使っていた患者さんが退院されたんで、そちらに草野さんの部屋を移したのです。」

 看護師さんに案内され、以前の部屋とは逆側にある部屋に入った。

「立派な部屋だな…」

 以前入院していた部屋より1.5倍あるような広い空間になっていた。床より底上げしている畳まであって小さな炬燵まで完備されているではないか…遮る建物がなく、確かにここなら海を一望できる。この病室に一体いくら代金がかかっているのか?と要らない心配までしてしまう。

 ベッドの周りだけは白いカーテンで囲まれており、そこに石橋先生がいると思われる。どうしようか?寝ているところを起こしては申し訳ない。

「看護師さん、おじいちゃん寝てますかね?」

「わたしがカーテン開けますね。」

「キャー!!」「わっ!」

 スミレと俺が驚く。横たわっている石橋先生の顔に白い布切れが掛っていたからだ。

「草野さん!いい加減にしてください!」

 看護師さんが白い布切れをサッと速やかに回収する。

「草野さん、お孫さんが来る時によくやる悪戯いたずらなんですよ。」

「そっ、そうでしたか…」

 縁起でもないからシャレにならないドッキリはやめてほしい。

 それではと、看護師さんは石橋先生をベッドから上体を起こした後、部屋を退出した。スミレが先生の顔を見て、嬉しそうにしているのが分かる。

「石橋先生、お久しぶりです!大豆小学校で石橋先生が担任をしているクラスで生徒だった今村スミレです!私の事分かりますか?」

「…」

「今、私は大豆小学校で職員をしています。石橋先生と同じ教壇に立っているんです。」

「…」

 スミレが先生の石橋先生の両手を包むように掴んで喋りかけたが、全く反応がない。しかもスミレが喋りかけても目は海に向いている。仏様のような顔つきでずっと窓の方向を眺めており、人生の達観度合いに大きな差を感じる。

「おじいさん、俺のことは分かりますか?去年宗助君とお見舞いにきた朝顔です。朝顔武史です!」

「…」

「俺もスミレの同級生で、おじいさん…いや石橋先生が僕の担任だったんです!」

「…」

「石橋先生。僕が6年生の時、黙って島を抜け出したりしてすいませんでした!」

「…」

 だっ、ダメなのか?何にも伝わっていないのか?

 そうだ!宗助と来た時にコミュニケーションの取り方を教えてもらっていたんだった。宗助から借りて持ってきスケッチブックとマジックペンを先生に渡した。そうすると先生の目に生命が宿りスケッチブックを激しく捲り始めた。横書きの文字を精を込めて書きおろし、スケッチブックを俺達の方に向けた。

『こんにちは』

「こ、こんにちは…」

 スミレが独特なコミュニケーション方法にびっくりしている。スミレとはバッドコミュニケーション中の為、石橋先生との会話の仕方を伝えることができていなかった。

「先生、実は大豆小学校が…」と言いかけた時、スケッチブックの空白のページにササっと書道の達人のように達筆で文字を映し始めた。

『空は晴れましたね』

「そっ、そうですね…」

 その後もつらつらペンを走らせていく。

『いつも空の下の方にいる虫は?』

「え?なんですか?虫…ですか?」

 病院の窓の外に虫でもいるのかと探そうとしたと同時に、スミレの右手がスッと上がった。

「はい!ハエです!」

「うわっ、ハエいたの?スミレどこにいた?気付かなかったなあ…」

 先生が満足そうな顔をしてスミレを見ていた。

『あたり』

「え?あたり?石橋先生もハエに気づいていたのか…」

「あんた、『空』という漢字、ウカンムリの下、どうなっているか分からない訳?」

 右手をサッと下したスミレが嬉しそうに俺に話かけてくる。

「ちょっと何言ってるのか俺にはよく分からないんだけど。」

「だから、この『空』って漢字をよ~く見てみなさいよ。」

スミレが得意気な顔で先生の書いた『空』を指差した。

「え?あっ、本当だ…って先生からなぞなぞを出されていたの?」

 更に石橋先生の筆が進む。

『イスはイスでも、辛くておいしいイスは?』

 スミレの右手がスッと上がる。

「はい!カレーライスです!」

『あたり』

「いやいやいや…先生もスミレもさっきから一体何やってるの?」

 更に石橋先生の筆が止まらなくなる。

『表しかない本は何の本?』

「はい!占いの本です!」

『あたり』

「すっ、すごいな、何でスミレもすぐ回答できるんだ?」

「うるさいわ。集中しているから、あんたは黙ってて。」

「は、はい。静かにしておきます…」

 どういう訳か、神戸にお見舞いに来たはずが石橋先生とスミレのなぞなぞ合戦が開戦してしまったらしい…

『文字に間違いがある手紙、何時にとどいた?』

「はい!五時です!」

『切れないのこぎりの刃を使うと、よく切れるようになるものって?』

「はい!息です!」

『天使のくせに人を騙す、悪い天使は?』

「はい!ペテンシです!」

『サッカー部のキャプテンは、スパイクをいつもどこで履いている?』

「はい、スパイクは足で履きます!」

『氷の問題、水の問題、雪の問題、とけない問題はどれ?』

「はい、氷と雪は溶けますが、水は溶けません!」

 その後も石橋先生からの出題が止まらない。そして何故かスミレが即答していく。突然始まった謎のつば迫り合いに俺は全くついていけない。

「はあ、はあ、はあ…」

 スミレも先生もさすがに心身を消耗しているのか。お互いの息が荒い。

 しかし、二人とも顔が晴れやかだ。さっきまでムスっとしていたスミレと窓の外をぼんやりと見つめていた先生がどちらとも同一人物とは思えないほど生き生きしており、至高の幸福を感じている…ようにも見えなくはない。

 俺はこの応酬にうんざりしていたはずだが、目の前の二人が尊くも見え始め、止めるのがもったいないような気さえしてきた。

 

 そして…30問目の時だった。

『ノーノーに3ばかりを書く人の定規は?』

「三角定規です!」

 んっ???体がビクっと反応した。

「ちょっと待った!ちょっと待った!二人ともちょっと待ってくれ!」

 両手をぶんぶん上横反復させながらスミレと先生の間に入る。被弾覚悟で身をていして流れを止めた。

「スミレ!何で今の分かったんだ!?」

「あんた答え聞いても分からなかったの?『3ばかりを書く』定規だから『さんかく定規』でしょ!?」

「違う!違うって!そこじゃなくて『ノーノー』って先生は書いてただろ!?」

 スミレが先生の書いた字を目を細めて凝視する。先生も心なしか「おめえ、一体、なに言っとるんだ?」と思っていそうな迷惑そうな表情になっている。

「何、ノーノーって?」

「え?」

「どこにノーノーって書いてんのよ?」

「いやっ、だから『ノーノーに3ばかり書く人の定規は?』って。」

「これのこと?」

 スミレが『ノーノー』と横書きしている文字を指さす。

「そう、それだよ。」

「これ普通に『ノート』って書いてるでしょ。」

「はあああ??ノートだって??」

 変な経緯いきさつからノーノーの正体が分かった。



 本土から大豆港行の定期船に乗った時には、すっかり日が暮れていた。帰路の船には、本土から帰宅している人がちらほら乗っており、スミレも室内の椅子に座っている。

 俺は今日の一連の出来事と着慣れないスーツに疲れ切ってしまった。船頭の室外に設置されている椅子に座って、首を椅子の上部にもたれかけながら夜空を眺めていた。

「見上げてごらんー夜の星をーボクらのようなー

 名もない星がーささやかな幸せをー祈ってるー」

 ああ、新月か。月が明るくない。雲も風もなく空が澄んでいる。星空観測には最高の夜だな。オリオン座の小三ツ星の真ん中にはM42オリオン大星雲が見える。おうし座の背中部分には「すばる」も肉眼で確認できた。

 父ちゃんとキャンプしていた時もこれくらい星いっぱいの夜空を眺めていた気がするなあ。

「では朝顔君。星は星でも紙でできた星はなーんだ?」

 夜の星にどっぷり浸っていたら船内と外が繋がる扉方面からスミレの声が聞こえてきた。

「またなぞなぞか…もうお腹いっぱいだって…それで答えは?」

「あんたね、ちょっとは自分で考えるって事を学びなさいよ。答えはポスター。」

「ポスター?どうして?…あーそっかそっか。星だからスターね。ふうん…」

「あんたはなぞなぞに全く興味ないのね。」

 立ち上がって船の柵に両手で捕まり、船が作るしぶきで揺れている新月を見つめる。

「何であんなに答えることが出来たんだ?」

 スミレも柵を伝って俺の隣に立つ。

「石橋先生とやり取りしていなかったの?宿題ノート。」

「宿題ノートか…その日に起こったことや感じたことを書いていたような記憶があるけど…もしかして、スミレは石橋先生と毎日なぞなぞのやり取りをしていたのか?」

「あたり!あんたにしては勘がいいわね。」

 宿題ノートとはその日に出題された宿題の回答を記入するノートのことだ。ある時、宿題を解いたページの下の余白部分に何かしらメッセージを書いて朝の授業前に提出すると、返却される夕方には石橋先生から面白いコメントが返ってくると噂になった。その後、クラスのほぼ全員が石橋先生宛てにメッセージを書くようになった。宿題ノートはいわゆる先生と生徒の交換日記みたいな役割も兼ねるようになった。

「じゃあ、石橋先生はスミレだと認識できていたってこと?それでなぞなぞを出していたのか?」

「答えている時にそうじゃないかと感じたわ。なぞなぞを出していた時の石橋先生の顔は、当時担任をしていた時の明るい表情と変わらないなと思えたから。」

「確かに、あの一重がニュッて潰れるニンマリした顔、当時を少し思い出したよ。」

「だから、あなたも投げかけたのでしょ?ノートのなぞなぞを。」


 ------------------

 

「先生!じゃあ俺からもなぞなぞを出します。『学校に埋まる、ノートをさがして』…大豆小学校で探してほしい『ノート』って何のことですか?その『ノート』はどこに埋っているんですか?」

 

 -------------------

 

「あれはなぞなぞではなくて、ただの質問だったわ。」

「いいの、いいの。あそこはなぞなぞって言わないと答えてくれないと思ったから。今まではノーノーって何かって宗助や宗助の父上が聞いていたはずだから、そりゃ反応ないなって。だからノーノーがノートの事だと分かったことは石橋先生から聞き出す重要な鍵だったんだよ。」

「結局、あんたの見間違いだった訳ね。」

「いや、違うって!あの先生のメモは誰が見ても『ノーノー』って書いてるって思うはずだって!」

「ふうん…私だったら『ノート』って書いている事をすぐに分かったはずだわ。あんたやっぱり観察力ないんじゃない?」

「スミレは生徒の色んな個性ある字を普段から見ているから解読できたんじゃないか?」

「ふふふ、そうかもしれないわね。」

 スミレが笑みを浮かべ、風に流される長い髪をかき上げる。吐く息は白い。

「『ノーノー』と書かれていたノートの正体も、そのノートが埋ってる場所も分かったから神戸まで行った甲斐があったよ。宗助にすぐに教えてあげたいけど、どうしようかなあ。」

「勿体ぶらずに、早く伝えてあげなさいよ。」

「いや、サプライズで何か企画しても面白いかなって…その方が宗助も父上も喜んでくれるかなあって…あっ!?あれ!」

 回りの星とは異なる、段違いに明るい星が目に入った。向かい風が体に吹き付けるが、背伸びをして柵から懸命に体を乗り上げる。

「何?どうしたの?」

「水平線上だよ!見てあれっ!あの星!」

 出色しゅっしょくに輝いている星を慌てて指さす。

「あれって何よ?」

「だからあの星のことだって!カノープスだよあれ!」

「カノープス?」

「おおいぬ座のシリウスってあるだろう?そのシリウスより低くて海の上ギリギリに見える赤っぽい光があるでしょ?あの光がカノープスなんだよ!」

「それがどうしたの?」

「カノープスを見れることは稀なんだって!カノープスはこの時期の南の低い場所で見えるんだけど、開けていて遠くまで見渡せる場所でしか見ることができないんだ。あの星を見ると長生きできるって言われているくらい珍しい星なんだ!」

「へえ…」

「写真や本でしか見たことなかったから、まさか自分の目で見れるなんて…」

ああ、父ちゃんにも見せてあげたかったなあ…

「あんた…星のことになると何でそんなに饒舌じょうぜつになるのよ?」

「カノープス見たら誰でも興奮するって!」

「何でそんなに星に詳しいわけ?」

「え?やっぱり父ちゃんの影響かな。夜になったら空に見える星座をおもしろ可笑しく解説してくれていたし。」

「ふーん。」

「あとさ、俺こう見えて17歳の時あの『ジャパンSSSコンテスト』で優勝したんだ!」

「何よ、ジャパンエスエスエスコンテストって?」

「まじか!『SSS』知らないのか?」

「知らないわよ!」

「ショート・スピーチ・スターコンテストのこと。3分でいかに星について熱く美しく語れるかを競い合う、国内で5年に1回行われる天体好き憧れの大会なんだ!」

「やっぱり聞いたことないわよ。そんなコンテスト初めて聞いたわ。」

「星好きが一同に集まる夢の祭典。また出場してみたいなあ…」

 スミレが呆れた表情になっている。

「じゃあ『NNN』は知っている?」

「なにそれ?聞いたことないけど…まさか?『なぞなぞなぞ』?」

「何そのヒネリのない答え。まああんたにしたらいい線だったわ。『NNN』は『ナイスなぞなぞ』のことよ。出題者から面白いなぞなぞを聞いたとき『NNN!』って回答者が言うの。まあ出題者を称える言葉よね。」

「そうなんだ!」

 スミレが口を右手に柵を掴んで、左手は口を抑えて笑いをこらえている。

「何で笑ってるんだよ?」

「嘘よ。ないわよ。そんな『NNN』なんて。ホント信じるなんてあなたやっぱり愉快な人だわ。」

「嘘かよ!生徒に嘘つくなって!ひどいぞ!」

「あんた…こういう時だけ小学生ぶるのね。」

 今日は幸運の日なんだろうか?『ノーノー』のことも解明できたし、カノープスも見ることができた。

スミレと笑いながら話をできたことにもホッとしている。島に帰ってから、一度もまともに会話ができなかったことを考えると、この機会をくれた松葉にも感謝しないといけないかもしれない。いや…松葉、やっぱり嘘はよくないぞ。来夢来島に帰ったら一杯おごってもらうからな。

「そういえば、スミレは生徒と宿題ノートみたいなやり取りしているだろ?あれは石橋先生の影響なのか?」

「そうだと思うわ。でも当時の事を鮮明には覚えていないから、頭の何処かに記憶が残っていたのかもね。じゃあ、あんたは宿題ノートで当時どういうやりとりをしていたの?」

「んー、その時も確か星のことを書いていたような気がずる…」

「どんな星の話をしていたの?」

「うーん覚えているのは、『冬の上空は空気の流れが早くて色んな色の星が見える』とか、『宇宙の温度は絶対零度マイナス273度』とか、『一度に見れる星の数は4000個』だとか…」

「石橋先生は空を見上げて空のことを話するのが好きだったもんね。」

「そうだったんだ。だから病院でも外ばっかり見ているのか。」

 風が一段と寒くなった。スミレは風に飛ばされないように柵を両手に持って、夜空を見ている。

「今日は空一面に星が広がっていてとってもキレイだわー。」

「『でも結局、どの星も君の輝きには敵わないよ』って石橋先……ちょっ!えっ?うわあぁぁぁー―――……」

 

 ぼっちゃーーーーーんん!!

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