中編

「じゃあ行ってきます」

「行ってらっしゃい、気を付けてね」


 なんて会話をした時から、短い針が一周した。つまり半日が経った。

 ここでの生活もだいぶ慣れたと思う。だって、引っ越してきた時はセミが鳴いていたのに、今じゃすっかり静かになり、代わりに鈴虫が鳴く季節になったのだから。

そうして慣れてきたはずなのに。

おかしい。帰ってくる時間がとても遅い、すごく遅い。とっくに完成しているご飯はもうすっかり冷めてしまっている。楓花には出来立てを食べてほしかったのに。今日はせっかく新しいメニューにしてみたのにな。楓花が帰ってきた時もふもふできるようにしっぽのお手入れだって、いつもよりすっごく念入りにしたのに。

 はぁと狭い箱庭にわたしのため息が響く。この時間はもう布団に横になっているはずだ。そのせいで、さっきからくらりと意識が彷徨う。だめだめ、楓花まだ帰ってきてないから。

 意識がもうろうとすると、あることないことを考え出してしまう。昔のこととか、今のこととか、未来のこととか。まどろみは性格からか、悪い方向へ向かう。

 引っ張られる耳に、殴られるしっぽ。痛いといってもだれも助けてくれなかった、昔。

 二人きりの箱庭から一歩も出ずに過ごす毎日。大好きで信頼できる楓花しかいないから息がしやすく感じる。でも、見つかるのが怖くて、人の目が怖くて。小さく物音がしただけで、車の音が聞こえただけで、心臓が嫌な音を立てる、今。

 このままの生活がずっと続けられるなんて思ってない。思えない。いつかはきっと捕まる、痛いことされる、さらし者になる。殺される。未来のことなんて考えたくない。

「こわいよ、ふーか」

 それは音になったのか、ならなかったのか。ずっと我慢していたのに、夢の世界にまっさかさまに落ちていく。

 いつもはあったかいはずの身体は、ひんやりと冷えていた。




「んぅ……」

 沈んでいた意識が戻る。見慣れた壁が視界に広がる。

「いった……」

 どうやら布団も敷かず、ぐっすり寝ていたみたいだ。窓から差し込んでいたはずのお日さまは、もう沈んでいた。柔らかくない畳で寝ていたせいか、体のあちこちが痛い。足がしびれていて、上手く動けない。

「ふーか……」

 口から思わず零れ落ちたのは、大好きで、大切で、ここに帰ってくるはずの人の名前。

いつもは感じる体温が近くにない。呼吸をする息が感じられない。ゆっくり体を起こしてあたりを見渡したけれど、人の気配はない。時計は、いつも起きる時間より遅い時を指していた。

 楓花は帰ってきたのだろうか。一度帰って寝てるわたしを見て、また仕事に行ったのかもしれない。それならまだよかった。

「……かえって、きてないの、かも」

 一人だと静かすぎる部屋にぽつりと声が響いた。

 ぽつんと置かれたちゃぶ台の上には、昨日作ったご飯がそのままきれいに残っていた。もちろん、わたしの分も、楓花の分も。きっちり二人分。

 楓花は昨日から帰ってきていない。そう気が付いた時、背中を冷たい汗が伝った。しっぽの毛が逆立つのを感じる。帰ってくるのが少し遅いなんて話ではもう済まされないくらい時は流れていた。

 なにかあったに違いない。そう思った。わたしたちは追われている身なのだから、なにかよくないことは起きて当たり前なのかもしれない。もしかしたら、楓花は捕まってしまったのかも。痛いこと、されてるのかも。まさか、ころされ……

「……ううん、そんなことないよ、きっと」

 最悪のシナリオが頭をよぎった時。そんなこと考えたくなくて、思わず声に出して自分の思考を遮った。

 いやいや、きっとあの楓花のことだ。酔いつぶれて、クロさんに介抱してもらってるに違いない。そのまま寝ちゃって、家に帰ってこられなかっただけなんだと思う。きっとそうだ。楓花が働いてる場所からここは少しだけ距離がある。トラブル防止のためってクロさんは言っていた。その距離を移動しきれないくらいきっと、あのわんこは熟睡していたのだろう。うんうんそうに違いない。

 心の底に湧き上がるどうしようもない不安と黒い影に無理やり蓋をして、滲んだ涙をぬぐって、ぱちりと頬を叩いた。

「さ、ご飯食べてお掃除でもしよっと」

 空元気でもなんでも、ちょっとだけ前を向きたかった。暗闇にとらわれると、抜け出すのが難しいことをよく知っている。だって、なんども繰り返してきたのだから。

 ほんとは楓花と二人で食べたかったご飯を渋々一人で食べることにした。彼女の分は捨てずに冷蔵庫へいれた。きっと、食べてくれると、帰ってくると信じているから。信じていたいから。

 二人で食べるはずだったものを一人で食べるのは、なんだかとっても味気なく、さみしく感じた。

「ふうか、はやく、かえってきてよ……」

 目の前がじんわり滲んだ。涙がこぼれていることに気が付いていたけど、ぬぐうのはおっくうでそのままにした。ひんやりとした感覚が頬を滑り落ちる。大声をあげて泣きだしたかったけど、それはできなかった。だって、この箱庭で大きな音を立てることはタブーなのだから。ただ、重力に従って落ちるしずくをそのままにしばらく泣いた。

かたん。

静かな部屋に物音が響いた。ぴたりとこぼれていた涙が止まる。外に、近くに誰かいる……?

(見つかったら、きっと捕まって、殺される)

 ぞわりと背中を嫌なものが駆け抜けた。握っていたお箸が、小さな音を立てて床に落ちる。その物音を立ててしまったのが、余計に怖くて、思わず口を手で覆った。呼吸音ですらも、奏でるのが怖い。もう片方の手は、無意識に自らのしっぽをぎゅうとつかんだ。

 時すらも止まった気がした。数秒か、数分か。大した時間は流れていないはずなのに、無性に長く、重く感じる。


たんたんたん。


 こちらに近づいてくる、足音。もう頭の中はぐちゃぐちゃだった。ぎゅうと強く目をつぶって、次に起きるなにかをじっと待つ。


「しーちゃん?」


 かちゃりと扉が開く音がして、聞きなれた声が響いた。嗅ぎなれた匂いがした。

「え、しーちゃん、どうしたの? 大丈夫? そんな丸まって」

「ふーか……?」

「ん? そうだよ、楓花だよ」

 さも当然だという顔で、楓花は笑った。

 嫌な動きをしていた心臓がふっと、もとに戻っていく。凍った空気がじんわりほどける。楓花が、楓花は無事だったのだ。ちゃんと帰ってきてくれた。うれしくてたまらないし、安心したはずなのに、なぜだか泣いてしまった。

「え、え、しーちゃん?」

「ふーか、ふーかなの?」

「泣かないでよ、しーちゃん」

 わたしよりも大きな体が、ぎゅっと包みこんでくれた。彼女からは嗅ぎなれない外の匂いが少しだけした。

「ふーか、ふーか」

「うん、私はここにいるよ」

 くしゃりと頭を撫でられて、体が少し密着して。楓花の鼓動が感じられる。

「しんぱい、したんだからね」

「そうだよね。ごめん」

「ほんっと、ふーかのばか」

「ごめんって」

 ぽんぽんともう一度頭を撫でられて、そのまま顔を覗きこまれる。

「ああ、こら、そんなこすったら痛いよ」

 ぐしぐしと目元を乱暴にこすった手を取られ、そのままぎゅっと握られた。

「ただいま、しーちゃん」

「……おかえり、ふーか」

 まだまだ言いたいことはあったけど、とりあえず楓花がここに帰ってきてくれたことがうれしくてたまらない。だからもう、不満なんて後回しでいいや。とりあえず。

「ふーか、ご飯できてるよ。食べるでしょう?」

「……もちろん!」

 一瞬驚いた顔をした楓花だったけど、それはすぐに笑顔になった。




「で、なにがあったの」

「あーうん、えっと、なんのこと?」

 お風呂上がりの楓花に、後ろからしっぽのグルーミングをされる。普段は嫌がるんだけど、今日は特別。おねだりしてくる楓花についつい折れてしまった。

「ごまかさないで、ばか」

 いい機会だからと、家を空けた理由を聞いてみることにした。すっごく心配したし、不安になったんだからね、まったく。

「えー。しーちゃんはきっと知らない方がいいよ」

「……意地悪しないで」

「ほんとほんと、楽しい話なんかじゃないし」

 なかなか話そうとしてくれない楓花に、ぶうと頬を膨らませて不満をアピールする。もうここには二人しかいないのだ。ふたりぼっちなのに。

「隠し事なんて、しないでよ、ふーか」

「でも、」

「ふーか、一人で抱えなくていいよ。わけっこしよ」

 残酷な世界での話だ。一人で持つにはきっと重すぎるなにかがあったんだろう。

「ふーか、ね? 話して」

「……しーちゃんはずるいなぁ」

 楓花の声は少し震えていた。振り返って、慰めてあげたくて。そちらを向こうとしたけど、彼女はそれを許してくれなかった。

「しーちゃん、このまま聞いてよ」

「……わかった」

 やわらかかった空気に少し緊張が走る。

「クロさんがね、教えてくれたの」

「うん」


「ここ数日で、獣人の捕獲数が増えたって。私が働いてるとこにもチェックがはいったみたい。監視が厳しくなってるの。」


「え……?」

「危ないから、しばらくしーちゃんのとこで引きこもれって言われた」

「……そんなに厳しい状況なの」

「うん、そうだよ。私たちを狙う人の数もぐんと増えた、みたい」

 わたしの肩に触れている、楓花の手が震える。

「ねぇ、どうしよう、しーちゃん」

「ふーか……?」

「私。私、こわいよ、しーちゃん」

「……」

「まだ、まだ死にたくなんてないよ」

 震える声で話す楓花。泣いて、いるのだろうか。そう思ったら、体が少し硬くなった。楓花が泣いているところなんて見たことないから。

 でも、そのままにしておくこともできなくて。さっき、どうやって慰めてくれたのかを必死に思い出した。

「ふーか」

 肩に乗った、自分より少し大きな手。それにそっと、触れてみた。見た目が大事だからと整えられた、綺麗な手。水仕事でぼろぼろな自分の手とはまた違った意味の、働き者の手であることをわたしは知っている。

「だいじょうぶ、わたしがいるよ」

 思ったより、楓花の手には力が入っていなかった。ずっと背中を向けていた方へ、くるりと振り返る。

 やっぱり、楓花は泣いていた。音もなく、ただ静かに。彼女の整っていて、大人っぽくて、でもどこかあどけなさの残る綺麗な顔が少し悲しげにゆがむ。

「かっこわるいから、みないでよ、しーちゃん」

 ぱちりと合った目をすぐそらされながら、そんなことを言われた。

「私が、しっかりしなきゃなのに。ごめん、ごめんね、しーちゃん」

 うつむかれてしまったから、彼女の綺麗な顔は見えなくなった。でも、しばらく涙が止まらないことはなんとなくわかった。

「ふーかは、かっこわるくないよ」

「ううん、今更、死ぬことを怖がって泣いて、子供みたい」

「いいよ、子供でも」

 さっき楓花がしてくれたように、そっと抱きしめてみた。ピクリと肩が揺れたのを感じたが、抵抗せずにおとなしく収まってくれるようだ。

 考えてみれば、こんなこと自分からするのはたぶん初めてだと思う。いつも、スキンシップは楓花からだし、不安になってぐずっちゃうのもわたしの方が多いから。

「ふーか、いつもわたしのこと守ってくれてたんだもんね」

「違うよ、守り切れてない。だから、危ない目に合わせるかもしれない」

「いや、守ってくれてたよ。だからわたし、ふーかがいないとすごく不安なの」

「しーちゃん……」

「だからわたしも、守ってあげる。ふーかのこと」

「……ん、ありがとう」

「いいえ、だからこれからもわたしのこと守って」

「うん、しーちゃんは私が守るよ」

 しばらくただ二人、抱きしめ合っていた。お互いの体温と心音が心地よくて。ゆっくりと時間が流れる。昔は、自分を守ることでいっぱいいっぱいだった。でも、今は違う。わたしのことを守ってくれる人がいて、わたしもその人を守りたいと思った。

 こわばっていた肩から少し、力が抜けた気がした。

 知らないうちにわたしも少し泣いていたようだ。そっと目じりをぬぐわれて初めて知った。

「泣き虫だね、しーちゃんは」

「ふーかだって泣いてたでしょう?」

「うん、そうだね」

 思わず二人で顔を見合わせて笑った。


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