ふたりぼっちの箱庭で
やえなずな
前編
さわやかな朝の光が今日もまた、この狭い部屋にもうっすら差し込んできた。世間の目から遠ざけるようにひっそりと建つこのアパートは決して日当たり良好とは言えないが、それでもぼんやりと差し込む小さな光がわたしは好きだった。
「うん、なかなかいい出来だと思う」
出来立てごはんのいい匂いが漂う静かな部屋にぽつんとわたしの声が響く。この小さな箱庭に引っ越してだいたい三週間。未だ元の生活に戻れる目途はちっともたっていない。
ぴょこんと頭の上に生えたもふもふの耳が跳ねて、ゆらりと背中で大きなしっぽが揺れる。自らの身体の半分くらいの大きさを占めるそれは同居人のために、いつもきれいに手入れされている。リスであるこの部分は昔、ただのサンドバックでしかなかったはずなのに。今じゃすっかり触り心地のいい抱き枕。といった感じだろうか。
時計をちらりと確認してからゆっくりフライパンを火から下げる。ちょっと早く作りすぎちゃったかもしれない。冷めないうちに帰ってきてくれるといいのだけれど。
軽く伸びをして地面に腰を下ろすと途端に眠気が襲ってくる。まだまだ昼夜逆転の生活に慣れていない証拠だ。どうせまだあの人は帰ってこないんだ。少しくらい寝たって罰は当たらないだろう。ぼんやりとした意識は宙に浮いた。
夢でみたのは、今までの日常が全部崩れ落ちてぐちゃぐちゃになったあの日のことだった。
がつん、頭を思いっきり鈍器で殴られたかのような衝撃。ぶわりとしっぽの毛が逆立つ。それでも無情に時は進む。表情の変わらないアナウンサーが流れるように読み上げたニュースは自身の終わりを示していた。
『人口が増えすぎたので減らしたいと思います』
そちらが増やせといったくせに、今度は減らせ。自身の保身のことしか考えられない能無し政府が打ち出したくだらなくも、絶対的力を持つ政策。
『まずは、獣人。普通ではない人を削りましょう』
ターゲットはわたしたち異端者。敵はこの日本すべて。
元から報われない不幸ばかりの人生だった。決まっていたのだ。この世界に産み落とされた瞬間から。このリスの耳としっぽの存在のせいで、すべてはおかしかった。
昔はそんなことなかったはずなのに、日本中に広がった獣人差別。周りからの白い目。いじめられ、虐げられる日々。差し伸べられる手にはいつも黒い影が見え隠れしていた。そんな最低最悪な世界に生まれてしまったのが運の尽き。このまま、どん底の日々を送り続けると思っていた。
(まだ十四年しか生きてないのに生命活動を維持することすら、許されない世界になってしまうとは)
逃げなきゃ。そんなことが頭をよぎった。このままではとらえられ殺されることは目に見えている。死ぬのは怖い。でもこのまま生きるのは? ただでさえ息がしにくかった世界がさらに窮屈になることは間違いない。生き、抜けるのか……? 苦しむくらいならいっそ、殺されたほうが楽だなんて、考えるのはいけないことなのだろうか。
その時、ふいに鳴ったインターホンの音に、考え込んでいた意識がぼんやり元に戻る。なにも考えずとも勝手に体は動き、誰がきたのかもろくに確認しないまま家のドアを開けた。
「しーちゃん、しーちゃん!」
「ふーか?」
息を荒げながらも、家を訪ねてきたのは楓花だった。唯一仲がいい獣人の知り合いで親友。年が離れているからと姉のようにわたしを可愛がってくれる大事な人。
「ど、どうしたの? そんなに慌てて」
彼女の頭から覗くもふもふの耳がぴんと立っている。
「逆になんでしーちゃんは、落ち着いているのさ、ほら! 早く行くよ?」
「え? なに? なにをする気なの?」
「なにをするって」
まっすぐな楓花の瞳と目が合う。
「逃げるんだよ、この世界から」
もう一度、頭を殴られたかのような衝撃が走った。
こんこんこここん。意識の片隅で鳴り響いたノック音にふと目を覚ます。この叩き方はクロさんだろうか。
クロさん、というのはこの長い逃避行の手助けをしてくれている、人だ。獣人ではないから、本来は敵であってもおかしくないはずなのに彼はいつもなにかと世話を焼いてくれる。チャラくてクズそうな見た目に反して中身は意外といい人だ。
「いらっしゃい、クロさん」
「しおちゃん、おはよ。調子はどう?」
人に見られてはいけないからと早々に玄関まで上がってもらってドアを閉める。
「なんとかやってますよ、それよりふーかは?」
クロさんの肩にぐったりと寄りかかる同居人であり恩人でもある楓花に目を向ける。どうやらまた無理をさせられてしまったらしい。
「あーなんかまた無茶な飲まされ方したみたいでさ、おーい楓花? 家ついたぞ?」
「んう………」
「こーら、ふーか? クロさんに迷惑かけないの。ご飯できてるよ」
わたしより高い位置にある楓花の頭をぐりぐりと撫でる。手にあたるふさふさの犬耳がぬくくて心地いい。
「ん? しーちゃん?」
「そうだよ。しおだよ。ふーか、おかえりなさい」
ゆっくりとうなだれていた頭が持ち上がってわたしを見つける。ゆるゆるとクロさんにまわされていた腕をそっとほどいてこちらに手を伸ばしてきた。
「しーちゃん、しーちゃん、ただいま」
きゅうと大きな腕に捕まえられてそのまま抱きつかれる。身長差があるせいで、楓花がわたしを抱きしめると、すっぽり腕の中に収まってしまうのだ。大きなしっぽをもふもふされ、いつもの抱擁にそっと身体の力を抜いた。
「相も変わらず仲がいいことで。もう今日は一回吐いてきてるから、だいぶ体調はましなはずだよ」
「んークロさんありがとうございます」
「クロさんおつかれさまーまた明日ねー」
「はいはい、お疲れ。せいぜいしおちゃんといい夢みろよ。じゃあな」
ひらりと片手をあげて、クロさんはさっさと帰っていった。ぎーっと音をたててドアが閉まる。完全に二人きりの小さな箱庭。
「しーちゃん、きょうも、いいにおいするね」
「そうかな? ふーかと使ってる石鹸変わんないけど?」
「ちーがーう、そーゆんじゃなくて、しーちゃん自身のにおいがすきなの」
頭のてっぺんの匂いを嗅いで、次はしっぽとそのまま手をのばされる。これはいつもの流れで、今更抵抗する気なんてない。楓花の服の裾からはみ出たしっぽが横に揺れているのがちらりと見えた。
「ふーん、そっか」
「うん、これからも嗅ぎたい」
「えーなんか気持ち悪い」
いつもよりしつこい楓花の頭をぺしりと軽くたたく。
「ほら、ご飯出来てるよ。食べる?」
「うん、もちろん」
わたしのしっぽにうずめていた顔を上げて楓花はうれしそうに笑った。
玄関から数歩の距離にぽつんと置かれたちゃぶ台。そこに並ぶ軽めのご飯。狭いワンルームのぼろマンションだけど、二人で暮らす分にはそんなに気にならない。
「うわー、やっぱりしーちゃん段々料理上手になってない?」
「褒めてもなにも出てこないよ」
思わず上がりそうな口角をごまかすためにふいとそっぽを向く。
今まで自炊なんてほとんどしたことなかったけれど、この生活が始まってするようになった。生活のために、夜の仕事をする楓花。忙しい楓花のために家事をするのはわたしの仕事。楓花はいつも大変そうだから、少しでも力になれないかなと思って。
美味しいと笑う楓花につられて思わずわたしもうれしくなる。よかった、今日のはやっぱり上手にできていたみたい。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
ぱちりと手を合わせた楓花を見つめながら自分も最後の一口を頬張る。そのまま食後の片づけをしようとする楓花をお風呂へ押し込み、自分は皿洗いを始めた。まったく、家事くらいは任せてっていつも言ってるのに。
楓花がほかほかしながら戻ってくるのと布団が敷き終わるのはほぼ同じくらいだった。
ごろりと横になって、いつもどおり楓花の腕の中。ふわりとしっぽまで抱きしめられる。
しんと静まり返る部屋とは裏腹に、外ではちちちと鳥がさえずる声が聞こえる。世界は目を覚ましたばかりなのに、わたしたちはその逆。今、目を閉じようとしている。
それがなんだかやっぱりむず痒い。
「しーちゃん? ねれそ?」
ぱっちり目を開けたままだったからだろうか。瞳の中をとろりと溶かした、楓花がそっと心配してくれた。
「ううん、大丈夫。おやすみ、ふーか」
「ん」
ふにゃりと笑った楓花はそのままふっと目を閉じる。穏やかな呼吸音と、軽く触れ合う肌から確かな鼓動を感じた。
そのまましばらくぼんやりと楓花の顔を眺めていたが、とろりと自身の意識がまどろむのがわかる。まだまだ彼女の顔を見ていたかったがその睡魔には勝てなかった。
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