4

 ──月日は流れる。さながら水のように、止まることなく過ぎていく。


 佐知が金峰村へやって来てから、二年の歳月が過ぎた。

 相変わらず佐知はテクラを信奉し、彼女の下僕として村とは一線を画していた。福寿からは何度か村に住んでみないか、と誘いをかけられたものの、そもそも佐知にテクラの側から離れるという思考はない。どのように誘われようとも、彼女は頑として今の立場を譲ることなく、テクラの側に仕え続けていた。

 福寿に悪気がないことは理解している。彼なりに気を遣っているのだろうということも。

 それでも、佐知はテクラの下僕という立場を失いたくはない。

 テクラがいなければ、今の自分はいないのだ。恩人ではなく恩鬼たる彼女の、一番近くで支えていたい──。それこそが、佐知の願いであった。

 ──だというのに。


(最近、テクラ様は私をお避けになられる)


 どういった経緯かは不明だが、テクラは佐知のことを自身の側に近付けなくなっていた。

 佐知が違和感を覚え始めたのは、半年程前のことだった。佐知を見るや否や、テクラは一瞬形の良い柳眉を潜めて──そっと袖で口元を隠しながら、すまぬ、とだけ告げてそそくさと洞に入ってしまった。

 初めこそ、佐知は自分に非があったのだろう──と深く後悔し、見苦しくないように身だしなみにも幾分か気を遣った。テクラの前で粗相そそうをしないようにと、細心の注意を払いながら彼女の側に仕えた。

 しかし、テクラは理由を告げることなく佐知を避け続け、今では彼女の前に姿を見せることすらなくなった。


(何があったのだろう……。これはさすがに可笑しい)


 テクラを信奉する佐知ですら、違和感を覚える始末である。それだけ、テクラの行動は理由が知れなかった。

 しかし、本人が表に出てこないのだから理由を問うことは出来ず、佐知も佐知でテクラの寝所に飛び込む度胸や勇気はない。気まずく思いながら日々を過ごしているうちに、金峰村の住民となって二年が過ぎていたという訳だ。

 この日も、茹だるような暑さに辟易としつつ、佐知は汲んできた湧水でばしゃばしゃと顔を洗っていた。金峰村は山中にあるため朝夕は涼しいが、日が昇っている時間帯はやはり暑い。暑さが苦手な佐知にとっては、なかなか辛いものである。


「佐知」


 ばしゃり、と顔に冷水をかけている最中、背後から声がかかる。聞き慣れた声なので、佐知は振り返らずに答える。


「何か用、福寿? お前が来るには微妙な頃合いだと思うのだけれど」


 いつも福寿が夕飯を届けに来る時間にはまだ早い。佐知は疑問を覚えつつ、手拭いで顔を拭きながら彼に向き直る。

 そして──異変に気付いた。


「……何、どうしたの、お前。私のことなんて言えないくらいのしかめっ面じゃない」


 普段ならば佐知の頬を持ち上げて、相変わらずのしかめっ面だなあ、なんて苦笑いしている福寿が、この時は何の表情もなく其処に佇んでいる。不思議に思うよりも、不気味だ──と佐知は直感的に思った。

 ぎょっとして立ち竦んでいる佐知を、福寿の視線がゆらりと絡め取る。言い様のない感覚に、佐知の背筋が粟立った。


「……佐知。この村を出よう」

「…………は?」


 福寿が発した言葉。その短い言の葉に、佐知は瞠目する。

 村を出る。その意味がわからない程、佐知も愚かではない。

 呆然として言葉も発せぬ佐知に、福寿は一歩近付く。


「突然のことで驚かせたかもしれないな。でも俺は本気だ。この村をいっしょに出て、外の世界に行かないか、佐知」

「なっ……何故いきなりそんなことを……」

「……この村は、もう駄目だ。じきに、君の居場所もなくなるだろう。君は素直で飾ったところがないから、尚更孤立するに違いない。佐知が辛い思いをするところなんて、俺は見たくないんだ」

「待って、意味がわからない……! お前、一体何のつもりなの? 村を出るって、そんな唐突に……。第一、私の居場所がなくなるってどういうこと?」


 全てをわかりきっている風な福寿とは対照的に、佐知には話の流れがさっぱりわからない。福寿が何か話す度に、佐知の混乱と疑問は深まるばかりだ。

 当惑している佐知を余所に、福寿は憂いを含んだ眼差しで続ける。


「きっと、皆にも悪気があった訳じゃあないと思うんだ。それでも、彼らは──この村の人々は歪んでしまった。信仰という垣根を超えて、傲慢にも神におもねようとした」

「神……って、もしかしてテクラ様のこと?」

「ああ。村人たちは皆、テクラ様に取り入ろうと必死だ。彼らは最早村としての協調すら忘れかけている。隣人を愛することもなく、他者を食い物にすることしか考えられないまでに落ちぶれてしまった。──そうなれば、真っ先に狙われるのは君だ」


 がっ、と福寿の大きな掌が佐知の肩を掴む。


「お願いだ、佐知。俺は、君が傷付く姿なんて見たくはない。こんな村は出て、貧しくとも穏やかに暮らそう」

「そ──そんなの、無理に決まってるでしょう!」


 いつになくほの暗い表情をした福寿に、佐知は恐怖を抱かずにはいられなかった。

 精一杯福寿を睨み付けてはみるものの、彼が怯む気配はない。喜怒哀楽どの表情もなく、翳った瞳で佐知を見つめてくる。

 目の前にいるのは──一体、誰なのだろう。


「わ、私は、テクラ様の下僕なの。それはお前だってわかっているはず。私は何があろうとテクラ様と共にいなければならないし、この村を出るなんて絶対に駄目! 何があったのかは知らないけれど、出ていきたいなら一人で行けば良いじゃない!」

「……俺だって、君を此処から引き剥がすような真似はしたくなかった。だが……俺一人では、もうどうにもならない。この村から逃げるしか方法はないんだ。此処に──テクラ様のお側にいれば、君はきっとろくな目に遭わない」

「だから、それはどうしてかと聞いているの! テクラ様は金峰村の守り神なのでしょう? それなら、村人の揉め事くらいどうにだって出来るはず。あのお方を見くびらないで!」

「君こそ、事の重大さを何もわかっちゃいないッ!」


 福寿の叫びは、佐知の肌をびりびりと突き刺した。

 普段ならば声を荒らげることなどない福寿から怒鳴り付けられて、佐知は思わず口をつぐんだ。吐き出そうとしていた言葉の全てが、彼の一喝によって霧散し、消え失せた。

 福寿は苦しげに顔を歪めて、荒く呼吸を繰り返す。絞り出される声は、先程の叫びとはうって変わってか細かった。


「……神としてテクラ様を崇めるのなら、まだ良かったのかもしれない。だが、村人たちはもうテクラ様を神として見てはいない。彼らにとってテクラ様という存在は、神から君主のようなものへと変わってしまった」

「何、それ……。一体どういうこと」

「そのままの意味だよ。村人たちは自分たちの利しか考えられなくなってしまった。競争が生まれたんだ。それもこれも、全て俺のせいで」


 福寿は泣き出しそうなのを堪えるような表情で続ける。


「かつて、俺はテクラ様のお姿を見ただろう。それまで村人の前に出ることのなかった彼女のお姿を──だ。それはもう、大層な美しさで、俺は誰かに伝えられずにはいられなかった」

「……福寿、お前は」

「ああ、そうさ。俺はテクラ様のことを間ノ瀬の人々に伝えた。ただ、その美しさを伝えたい、共有したいだけだったんだ。──それが、いけなかったのかもしれないな」


 福寿いわく──テクラの姿について聞かされた村人たちは、彼女に気に入られようと必死になったという。

 それまで、テクラは神だった。人前に姿を現すことのない、村人にとっては不可視の存在。その姿を見たという者が現れたのだから、彼らの認識はがらりと変わったのだろう。

 偶像から、人の形をしたモノへ。変遷した村人たちの認識は、彼らの思考をも狂わしてしまった。


「テクラ様に気に入られたい村人たちは、どうにかして彼女の機嫌を取ろうと考えた。テクラ様のお求めになるものを、誰よりも多く捧げよう──と」

「それって、まさか」

「そのまさかだよ、佐知。村人たちは、同じ村に住まう人々を殺し──テクラ様の養分として地中に埋め続けている」


 人が死ぬことに対してあまり忌避感のない佐知ではあるが、こればかりは戦慄せずにはいられなかった。

 村人が、隣人を殺害している。テクラに取り入ろうとするためだけに。

 かつてテクラは、生贄だけではなく地中に埋められた遺体をも糧とすることが出来ると語った。テクラの肉体は、金峰村周辺と繋がっているから──と。

 あれは心配する佐知を安心させるための話だったのだろう。それゆえに、このような形で思い出したくはなかった。


「でも、でも……! 人を殺せば、長が咎めるのではないの? 揉め事に発展したら、一体どうするつもり?」


 二の腕を擦りながら、佐知は青ざめた顔で問いかける。想像などしたくはなかったが、聞かずにはいられなかった。

 福寿は、諦めの混じった笑みを浮かべる。彼のこのような笑顔を見たくなどなかった。


「……無駄だよ。だって、村長が主体となって人を葬らせているのだから。間ノ瀬と折り合いの悪い家や、力のない百姓から狙われている。テクラ様の恩恵を、我が物にするためにな」

「村長が……」

「……本当に、どうしてこうなってしまったんだろうな。テクラ様が人語も解せぬ、人からかけ離れたお方だったのなら、たかだか収穫ごときで争うことはなかったのかな」

「やめて」


 ずっと怯えていた佐知だったが、この時の福寿の言葉だけは聞き捨てならなかった。


「村人たちのとがを、テクラ様のせいにするのはお門違いだ。テクラ様は何も悪くない。あのお方は被害者だ」

「……そう、そうだな。たしかに、彼女は被害者だ。村人たちの傲りによって、毒を盛られているようなものだから」

「毒……!?」


 突然飛び出した物騒な単語に、佐知は身を震わせる。

 福寿は一瞬、しまった、とでも言いたげな顔をしたが、後には退けないと思ったのか口を閉じることはなかった。


「鬼はいわしを嫌うという。それゆえに、村人たちは鰯の臭気をわざとテクラ様の神域に向けて流し、かつ畑の肥料には干鰯ほしかを用いている。加えて、神域付近に鬼の目を突くと言われる柊も植え始めた」

「それでは──村人たちがテクラ様を傷付けようとしているようなものじゃない! どうしてテクラ様がそのような目に遭わなくてはならないの!?」

「間ノ瀬は気に入らない連中にこれらの所業をなすり付けて、あたかも自分たちがテクラ様を助けたかのように演出したいんだ。……近いうちに、佐知──君もその犠牲になるかもしれない」


 此処でやっと──佐知は福寿の言わんとしていたところを理解した。

 村人たちは、最早餌となるものならば何を使ってでもテクラに取り入るための材料にしようとする。テクラに近しいところにいる佐知は、まさにかっこうの餌であろう。

 福寿はそれを予見したのだ。それゆえに、村を出ようと持ち掛けてきた。佐知を守るために、金峰村の暮らしを捨てる覚悟まで決めている。


(私は──どうするべきなのだろう)


 福寿と共に外界へ逃げれば、平穏な暮らしが出来るかもしれない。しかし、恩人であるテクラを置いて逃げるような真似はしたくない。

 佐知は悩んだ。葛藤に葛藤を重ねて、歯を食い縛りながら黙考した。

 決めない訳にはいかない。此処で有耶無耶にしようものなら、福寿が危険な目に遭う可能性だって吝かではないのだ。


「……福寿、私は──」


 悩み抜いた末に、佐知は答えようとする。福寿の覚悟に応えようと、口を開き──。


 瞬間、佐知の細い体は力一杯突き飛ばされる。


 何、と疑問を露にする前に。佐知の体が、地面に倒れ込むのとほぼ同時に。

 ばん、ばん、と。何かの爆発するような音が、佐知の耳をつんざいた。


「ふ……福寿……?」


 どう、と。自分の目の前に、何かが倒れる。

 それが、おびただしい量の血を流した福寿の体だと理解した瞬間に──佐知は、喉が嗄れんばかりに絶叫していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る