2

 鬼を名乗る美女──テクラは、どうやら村では神の如く崇められているようだった。


「君みたいな人なんて、今までいなかったんだからな」


 テクラの住まいに食膳を運んできた少年は、呆れたように溜め息を吐きながらそう言った。

 彼はこの村を治める一族──間ノ瀬家に仕えている使用人で、名前を福寿ふくじゅといった。やけに縁起の良さそうな名前だな、と思いこそしたものの、少女は彼に対して特段どうこう思うことはなかった。元来、他人への興味が希薄なのだ。

 福寿の方はというと、同年代の少女のことが気になっているらしく、食膳の受け渡しをする際には多少無駄話をしてから戻っていく。いわく、間ノ瀬の屋敷に戻っても、こき使われるばかりでつまらないらしい。


「テクラ様は崇高なお方だから、ご自分の周りに人間を置くことなんてほとんどなかったんだ。いつもこの、神域──大樹のほらの中にいらっしゃって、必要最低限の受け答えしかしなかった。それなのに、今や君を側に置いている。一体どういうことなんだ?」

「気になるのならば、テクラ様に直接お聞きすれば良いじゃない」

「それが出来れば、こんなまどろっこしい真似してないってば」


 そうは言いつつも、福寿は少女と話すことをまどろっこしく思っていないように見える。むしろ、少女の姿を見かけるや否や、そのつぶらなくりくりとした瞳を輝かせて駆け寄ってくるくらいだ。

 しかし、福寿に何を問いかけられても、少女はそれに答えることが出来ない。


「なあ、本当に何も聞かされてないのか?」

「うるさい。何も知らない。テクラ様は私のことを小鬼と呼ぶけれど、私は小鬼じゃないし」

「うーん、何なんだろうなあ。一目惚れ?」

「あのお方が、そのような下世話な感情で私のような小汚い餓鬼を拾うと思っているの?」


 側に置いている──といっても、少女は四六時中テクラと共にいる訳ではない。

 昼間は決して洞に入ってはならないと言われているので、周辺の掃除をしているか、テクラの衣類を洗濯するくらいしか出来ないのだ。雨の日は裏側の洞に入っているように──と言われはするものの、テクラの様子を窺うことは許されない。

 ──きっと、自分ごときには想像も出来ない、素晴らしいことをしていらっしゃるのだろう。

 彼女に拾われて以来、少女はテクラを信奉するようになった。それは村人たちのように、ぼんやりとした偶像としてではなく、テクラという一人の女を心から崇め奉り、彼女のためならば命を擲っても惜しくはないと思えるだけの、ある種の忠誠心であった。

 福寿はわかったわかった、と投げやりに言って肩を竦めた。


「まあ、気まぐれだったのかもしれないしな。俺たちだって、此処に村がなければ、テクラ様の恩恵を受けられなかったかもしれないのだし」

「どういうこと?」

「そのままの意味さ。俺たちは──いや、金峰村は、テクラ様に生かされているんだよ」


 首をかしげる少女に、福寿は向き直る。彼女が自分の話に食い付いてくれたことが嬉しかったのか、その声は軽やかに弾んでいる。


「君だって、疑問に思わない訳じゃあないだろう? こんな山の奥深くにあるのに、どうして俺たちは飢えることを知らないのか──ってさ」

「別に。運と間が良かっただけのことでしょう」

「君、つれないにも程があるぞ。そういう、単純な問題じゃあないんだって」


 福寿は瞳を煌めかせながら説明する。

 少女としては金峰村の沿革を聞くつもりは毛頭なかったが、福寿が楽しそうだというのに此処で止めるのもどうかと思い、とりあえず彼の話を聞いてみることにした。つまらなければ途中で帰れば良い。


「良いか、金峰村はもともと、落人おちうどが寄り集まって形成された村らしいんだ」

「おちうど?」

「戦に負けた側の人々のことさ。ほら、落武者とかって言葉、聞いたことないかい? 彼らはいわば罪人のようなものだから、公からは追い払われたり、あるいは皆殺しにされたりするような立場にある訳だ。でも、好きで殺されたい人なんてそうそういないだろう? そういった立場の人々が、何とか命からがら逃げ延びて、この出雲の山奥で生活し始めたのが村の始まりなんだって」


 だから役人が来ることもないんだよ、と福寿は得意気に言った。

 たしかに、役場がないらしいことは少女としても気になっていた。基本的に少女は神域を出ないため、実際に確認したことはないが、今のところ村人たちが税を取り立てられているようには見えない。少女の故郷では、嫌になるくらい徴収されたというのに。


「けれど、人里離れたところで暮らしていてはいずれ立ち行かなくなる。そんな中で現れたのが、テクラ様だった」


 少女が何も言わないのを良いことに、福寿は話し続ける。


「テクラ様はすごいんだ。俺たちはこれまで飢えたことがないんだぞ。テクラ様のおかげで、俺たちは豊かに暮らせる」

「対価などなくとも、私はテクラ様が素晴らしいお方だということを知っている。今更知っていることを伝えられても困るだけ」

「うーん、君は本当に愛想がないなあ。せっかくテクラ様みたいな素敵な方の側にいるんだからさ、もっとにこやかに振る舞ってみたらどうだ? テクラ様だって、むすっとしてる子よりはにこにこしてる子の方が好きだと思うけれど」

「何を言っているの。お前ごときがテクラ様のことを知ったように語らないで。不愉快だ」


 福寿に悪気がないことはわかっているものの、テクラを免罪符に物を言われるのはやはり腹立たしい。それはテクラを侮辱されているように感じる、ということもあったし、自分のことをテクラの名前さえ出しておけば何でも肯定する単純な人間と思われているようで嫌だった。

 後者の理由に気付いていないらしい福寿は、悪かったって、と苦笑する。


「君は本当にテクラ様のことが好きなんだな。そんなに慕える方がいるって、なかなかないことだぞ。誇っても良い」

「揚げ足を取ろうったって無駄。そうやってすぐに誤魔化そうとしないで」

「おや──では小鬼、貴様は私のことが嫌いなのか?」

「──っ!」


 むっとして言い返した少女だったが、背後からかかった第三者の声に、直ぐ様地面へと平伏した。


「て──テクラ様!」

「随分と仲良く話していたようではないか。私よりも、その童の方が好きか?」

「い、いいえ、決してそのようなことは……!」


 地面に額を擦り付けながら顔を真っ青にしている少女を見て、テクラは困ったように眉尻を下げた。少女が畏まっていると、いつも彼女はこういった顔をするのだ。


「小鬼、別に私は怒っていないよ。少し冗談を言って、貴様を揶揄からかっただけだ。そう畏まらずとも良い。貴様が誰を好こうが、私は構わないから」


 だから顔をお上げ、とテクラは優しく言った。

 口調こそ尊大だが、テクラは少女を見下し、蔑むような素振りは一切見せない。懐の深い方なのだ──と福寿は語るが、全くもってその通りだと少女も思う。でなければ、自分のような小汚い童子を拾って側に置くことなどありはしまい。

 ありがとうございます、と礼を言ってから、少女は面を上げる。──が、すぐに血相を変えた。


「お前! 何をぼうっと突っ立っているの。テクラ様の御前だというのに」


 少女が睨み付けた先には、ぼうとして熱に浮かされたような顔をした福寿がいる。彼は少女のように平伏すことはなく、ただぼんやりと突っ立っていただけのようだった。

 礼を欠いた彼に少女は憤懣ふんまんやるかたないといった様子だったが、彼女とは対照的に、テクラはふっと微笑んだだけだった。そして淀みのない足取りで福寿のもとまで歩を進めると、自分とほぼ同じ背丈の彼を真っ直ぐに見つめる。


「間ノ瀬の使用人だな? 良い、良い。礼儀作法を重んじるのは美徳だが、この小鬼はどうにも堅苦しすぎるところがある。それに、貴様は初めて私に拝謁はいえつするのだろう? 多少戸惑うのも無理はない。咎め立てする理由などありはせぬ」

「は──はい。ありがとう、ございます」

「今後とも、私に供物くもつを与えるが良い。さすれば、私はこの村に豊穣と安寧を与えよう。等価交換、という奴だ」


 微笑みを崩すことなく、テクラはその視線を少女へと移ろわせる。


「小鬼にも、同じような年頃の知り合いがいるのだな。いやはや、喜ばしきことだ。私のような古くさい者とばかり接していては、貴様も張り合いがなかろう」

「そ、そのようなことっ、夢にも思いません……!」


 焦って声を上擦らせた少女に、テクラはくすくすと笑みを溢した。微笑ましげに二人の顔を見遣ってから、彼女はそうそう、と付け加える。


「私にとって此奴は小鬼だが、貴様はそうもゆかぬだろう。せっかくの機会だ、呼び名でも決めておくと良い」

「て、テクラ様?」

「ではな。日が沈みきるまでには戻ってこい」


 ひらひらと手を振りながら、テクラは食膳を片手で持つとさっさと身を翻した。後ろ姿も様になる。

 彼女が洞にその身を滑り込ませるのを見届けてから、少女は福寿へと向き直る。福寿はというと、気まずそうにもじもじとしていた。


「情けない顔」

「き、君なあ……。テクラ様のお姿を拝謁したら、誰だってこうなるって」

「……たしかに、それは同感」


 少女も、初めてテクラを前にした時には、旋毛に落雷を喰らったかのような衝撃を覚えた。それだけ、テクラは美しいのだ。

 そういえばあの時の自分も、福寿と同じように突っ立っているだけだった──と思うと、彼を責める気持ちはすっと消え失せる。

 うんうん、とうなずいていると、福寿がなあ、と声をかけてきた。


「テクラ様もおっしゃっていたけれどさ。君の呼び方、ちゃんと決めておいた方が良いんじゃないか? 此処に来るのが俺だけとは限らないだろ」

「いや、お前くらいのものでしょう」

「はい、そうやって端から一刀両断しない」


 やれやれ、と福寿は肩を竦める。とはいえ、少女の言動には慣れっこのようで、傷付いた様子はなかった。


「まあ、俺としてもさ。君と出会ってからもうすぐ半月になるし、いつまでも君、君とばかり呼んでいるのはどうかと思う。それに、テクラ様も直々にお許しをくださった訳だし。──という訳で、君の名前を教えてくれ」


 ずい、と瞳を輝かせながら近付いてくる福寿に、少女はむっと仏頂面になった。

 福寿のことは嫌いではない。しかし、少女には名前を伝えられない理由があった。


「かつての、名を持っていた私は死んだ。テクラ様と出会って、私の人生は変わったの。だから、今の私はテクラ様の小鬼。名前なんてない」


 少女にとって、かつて村で暮らしていた自分というのは過去の残影に過ぎない。あの頃の自分など、もう何処にも居はしないのだ。

 今の自分は、テクラと共にある。そう眼差しで伝える少女に、福寿はうーん、と腕組みをして思案した。


「そっかあ。それなら、名前を聞く以前の話だな。君がそう言うのなら、かつての名前なんて聞き出せない」

「ふうん、案外物わかりが──」

「──だから、俺が君の呼び名を作っても良いか?」


 案外物わかりが良いじゃない、と告げようとした矢先、福寿から飛んできた言葉がこれである。

 これには少女も呆気に取られているしか出来ない。予想外の展開に、彼女はぱちぱちと何度か瞳を瞬かせた。


「……私の名を、お前が?」

「そうだ。悪い話じゃあないと思うけどな。テクラ様だって、呼び名を作るなとは仰せにならなかっただろう?」

「お前は私の何でもないじゃない」

「じゃあ今決める。俺は君の友だ。金峰村に来てから、君はテクラ様以外と接したことなんてないだろう? 初めての友なのだから、呼び名を作っても差し支えはないと思うが?」


 ふふん、と福寿は胸を張る。

 何がそれほど誇らしいのかはわからないが、テクラの提案ということもあって少女は特に反論することはなかった。好きにすれば、とだけ素っ気なく告げれば、福寿はにっこりと満面の笑みを浮かべる。


「それなら──さち、という名前はどうだ? 幸福のさち。俺の名前と合わせたら、とても縁起が良いと思うぞ」


 字は読めるか、と問いかけつつ、福寿は指で地面に幸、という文字を記す。間ノ瀬の使用人ではあるものの、読み書きは出来るようだ。

 少女も読み書きが出来ない訳ではなかったが、福寿の記した文字には眉根を寄せる。


「……幸という字は、どうかと思う。何だか、お前と対みたいで好きじゃない」

「何だよ、照れてるのか?」

「照れてない。ただ、別の字にした方が良いと思うだけ。さちという響き自体は嫌いじゃないから」


 わかったわかった、と福寿は言うが、本当に理解しているのかは定かではない。何となくだが、自分が無理矢理に我儘を押し通したようで、少女としては面白くなかった。

 福寿は少し考える素振りを見せてから幸の字を消し、新しくさらさらと地面に文字を書き付ける。


「佐知──なんて字はどうだ? 知で助ける、という意味だ」

「知で──助ける」

「ああ。君の知識で、テクラ様を助ける。どうかな?」


 こてん、と福寿が首をかしげる。その仕草は何処か幼げで、少女はそっと目を逸らした。

 福寿に名付けられるというのは些か複雑なものだが、テクラを助けられる立場を示す名であるのならばこれほどまでに嬉しいことはない。少女としても、異論はなかった。


「……それじゃあ、お前の言った通りにする。言っておくけれど、お前に名付け親面する権利はないから」

「わかってるって。俺と君はあくまでも友人だからな。──でも、君の初めての友人なのだから、少しは特別扱いしてくれよ?」


 そう言ってから、福寿は右手を差し出す。握手をしよう──と言いたいらしい。

 ──厄介な男。

 むっと唇を真一文字に引き結び、少女──佐知はやや乱暴に福寿の手を握る。その掌は節くれ立って硬く──そして、ほんのりと温かかった。

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