4

 気付いた時には、桐花の意識は洞窟ではない──いや、金峰村ですらない場所にあった。


(……此処は……?)


 尋常ならざる憎悪の奔流を押し流されて、いつの間にか意識を失っていた。其処までは桐花にもわかる。

 だが、今彼女が立っている場所──見たところ誰かの家なのだろうか──には、全く見覚えがない。

 家と言っても、桐花が住んでいるものとは全く異なる様式をしている。第一、屋内を土足で歩いているのだ。大抵の建物では、中に上がる際に履き物を脱ぐはずだというのに。

 それに、身に付けている衣服も見慣れたものではない。裾が末広がりになった、貫頭衣かんとういのようなものを着ている。履き物も草履や下駄ではなく、足全体を覆うような形状をしていた。

 金峰村から出たことのない桐花にもわかる。今自分が触れているのは、金峰村の──いや、日ノ本のそれとは違う異文化であった。


(どうして、こんなところに……)


 しかし、浮かんだ疑問もすぐに解消される。自分の体が、勝手に動いたからだ。


(……? 祈りを捧げているのかしら)


 自分──の意識が乗り移ったらしい人物──恐らくそう年齢の変わらない少女であろう──は、部屋の奥に設置された祭壇に向かってぶつぶつと何事かを唱えている。薄暗く、閉めきられた室内では、何やら後ろめたい行為に及んでいるような気がしてならなかった。

 いや──きっと、後ろめたいのだろう。桐花が意識を共有している、この人物にとっては。


(異教──なのかしら)


 桐花も詳細なところまで知る訳ではないが、かつては日ノ本でも異教徒を頻繁に取り締まっていた時期があったという。確か、江戸に幕府が開かれて間もない頃か──はたまた、それよりも前であったか。とにもかくにも、時の権力者たちは遥か西より来る者たちが、宗教という手段を用いて日ノ本を侵食していくことに恐れを抱いたのだろう。

 閑話休題。それよりも、今は目の前の光景に集中しなければならない。

 祈りを捧げ終えるか終えないかのところで、閉めきられていた室内に突如として喧騒がもたらされる。何かしら、と桐花が疑問に思うよりも早く、部屋の中に複数人の男たちがどやどやと流れ込んできた。


(な、何……!? 一体どういうこと!?)


 桐花が混乱する中、押し掛けてきた男たちは彼女が意識を共有する人物──恐らく若い女性だろう──に詰め寄り、何事かを怒鳴り散らす。何人かが祭壇に目を遣ったことから、彼女の信仰に関して物申しているのだとわかった。

 言葉はわからない。異国の言葉なのだろう。だが、彼らの言わんとするところは不思議と理解出来る。

 桐花としても何か言い返してやりたかったが、意識は保たれているもののそれ以外の体を動かすことは出来ない。視線も、体の持ち主が動かすままだ。さしずめ、意識のみが縛り付けられている状態である。

 宿主である女性は泣きながら何事かを叫ぶが、男たちは意に介した様子もなく家内を荒らしていく。祭壇は倒され、家捜しによって室内の物という物は散乱し、乱入者の靴底についた泥や土が部屋を汚していく。見るに堪えない状況であった。


(や──やめて──!)


 桐花の意識が宿った女性も、きっと同じように思っていたことだろう。痛切な悲鳴を上げながら、彼女は側にいた男に追い縋ろうとする。

 しかし、彼らは女性を乱暴に突き飛ばした。背中を強かに打ち付けて、彼女の唇からは苦悶の声が漏れる。間髪入れる間もなく、横っ面も殴り飛ばされる。


(嫌……! 殺される……!)


 誰も助けになど来てくれないことは、頭の何処かで理解していた。それでも、桐花は恐怖に叫び出したい気持ちを抑えることが出来なかった。

 男たちは悪びれる様子もなく、女性にあらゆる暴力を加えていく。傷付けられ、犯され、蹂躙される痛みに、女性は悲鳴を上げ続けるが、彼女に救いの手を差し伸べる存在など此処にありはしなかった。


(私は……この人と共に、死んでしまうの……?)


 今までに体感したことのない、とめどなく襲い掛かる痛みに抵抗することすら億劫になった桐花は、霞む視界の中でぼんやりと思う。

 この女性が、一体何をしたというのだろう。何を以て、このような暴力を受けなければならないのだろう。

 死にたくない、と思うことも忘却する程の苦痛だった。この女性は自分ではないとわかっていても、到底耐えられない痛みであった。

 もう──いっそのこと、死んでしまいたい。


 ──急転。


 桐花の視界は、一瞬何も存在しない闇へと還り──そして、書物の頁を捲るかの如く切り替わる。


(……? どういう、こと……?)


 先程まで、桐花の意識──そして宿主は、彼女の家にいたはずだった。

 しかし、現在彼女は屋外にいる。──かつ、棒に体を固定され、身動きが取れない状態にある。

 僅かに視界が移ろう。宿主が周囲の状況を確認しようとしているのだろう。

 眼前には、多くの人々が詰めかけている。好奇の目で見る者、敵意を露にしている者、憐れみを含んだ顔をしている者など──一概に形容することは出来ないが、恐らく群衆なのであろう人々が、此方を見上げていた。

 宿主である女性の付近には、同じように棒に縛り付けられ、拘束されている。人によってまちまちではあったが、事前に暴行でも加えられていたのだろうか、負傷している者が多く見受けられた。


(嗚呼──私たち、処刑されるのね)


 此処で、桐花は理解してしまった。自分たちは罪人で、これより処刑されるのだと。

 恐怖よりも疑問が勝った。あの宿主の女性は、捕縛されるような悪事を起こしてはいないはずだ。むしろ突然男たちに押し掛けられ、家を荒らされ犯された、被害者ではないか。

 桐花はこの女性のことを知らない。彼女がこれまでどのような行いをして生きてきたのか、知る由もない。

 だが──この時だけは、この名前も知らぬ女が民衆の大意によって理不尽に殺される立場にあることを、瞬時に理解出来た。

 ざわめく民衆の中から、罪状を手にした老齢の男が現れる。手にしているそれを読み上げるようだ。

 異国の言葉である。日ノ本では語られない、海を隔て、遠く離れた地の言葉。

 ──だというのに、桐花には彼の語る言葉の意味を、徐々に理解しつつある。


(異端──呪術──魔女──神の教えに背く者──焚刑ふんけい──鉄槌──)


 わからなかったはずだ。ただ、流されるがままに情景を眺めるしか出来なかったはずだ。

 それなのに、桐花の脳内には単語の意味がとめどなく流れ込んでくる。まるでもともと知っていたことを唐突に思い出したかのように、桐花の頭は急速に情報を獲得していく──。


(そう──そうだわ、“私”、私は──皆の信じる神ではなく、古くからの地霊を崇めていたから──だから、村の者たちに密告されて、それで──)


 ──魔女として、焚刑に処せられることとなった。

 そう気付いた瞬間には──既に、足下の藁が燃え始めている。


(燃えてしまう。燃えて燃えて燃えて灰になって、私は、私の魂は、神の国へ往くことも出来ずに、此処で消える──)


 その場は阿鼻叫喚の地獄絵図──と形容するのが適切であった。

 周囲から響く苦悶の声に、肉の焼ける厭な臭い、そして次々と連なる断末魔。燻した煙が鼻や喉を突き刺しわ己の体も徐々に燃えてゆき、確実に迫る死の足音に、絶叫しながら怯える他にない。


(あつい、いたい、くるしい、もえるもえるもえてしまう! 私が、私の体がッ、灰になって、燃え尽きてしまう──!)


 ごほごほと咳き込みながら、桐花は苦痛に悶絶する。水が欲しくて堪らない。

 どうして──どうしてこのような目に遭わなくてはならないのだろう。

 自分は何か悪いことをしただろうか。罪を犯したのだろうか。

 信じたいものを信じることの、何がいけないというのだろう。この信仰を貫いたとて、誰にも迷惑などかけないし、誰かを傷付けることもないというのに。

 全ては勝手な──あまりにも傲慢な、人間のおごりなのだ。我こそが最も優れていると主張したいがために、少数の人々を弾圧する。あることないことを織り混ぜて大義名分をでっち上げ、他人の命をいとも簡単に摘み取ってしまう。


 そんな人間共を──死の間際に、憎悪した。


 何が正義だ。何が正道だ。多くの人を殺しておいて、神の国など笑わせる。神の国への道は、弾圧された人々の血が形作るとでも言うのか。

 憎い。憎い。人が憎い。自らこそが常識で、それ以外は異端なのだと決め付けて、仮初めの正義を振りかざす人間が、憎い。


(嗚呼──これが、あの声の──鬼女の、憎しみなのね──)


 自らの心が人ではないものに変成していくのを感じ取りながら、桐花の意識は薄れていく。もうじきこの女性という一人の人間は死に、金峰村の命運を握るであろう鬼女が生まれるのだと予感しながら。


(私──鬼になってしまうのかしら。だってこんなにも憎らしい。人間が憎くて堪らない。私はもう一度、人に戻ることが出来るのかしら)


 ──もしも人に戻れないというのなら。


(篝さんには──あの美しい人にだけは、こんな醜い私の姿や心を、見せたくはない──)


 それは、誰にも聞かされることのない、たった一人の少女の切望。


 ──暗転。

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