第九章 夜行
1
「娘が──帰って来ないのです」
その声はあまりにも痛切に過ぎて、たまたま顔を覗かせた篝には少なからず衝撃を与えた。
村祭りを二日後に控えた昼過ぎ。昼食を食べ終えた舞い手たちは神楽の稽古に戻る最中──であったのだが、唐突な訪問者によって稽古の再開は延びる──最悪中止されるかもしれない事態に直面した。
「……何があった?」
訪問者に応対するのは、怪訝そうな顔をした大巫である。彼女は眉間に皺を寄せて、普段よりもより厳しい表情を浮かべている。
神域を訪問したのは、伴──相変わらず仏頂面で此方を睨み付けている用心棒こと冬である──を連れた、妙齢の女性だった。黒髪を一つにまとめて後ろに垂らし、楚々とした佇まいが控えめながらも美しい。しかしその面立ちは憂いに翳り、薄暗く沈んでいる。
女性はそれが、と呟いてから視線をさ迷わせる。一瞬大巫の後ろにいる舞い手たち──その中でも篝を一等強く見た気がしたが、思い違いであろうか。すぐに大巫の方へと向き直った。
「昨日、娘がホフリの君の御神体へ、村祭りの成功を祈願しに行ったのですが──それきり、屋敷に帰って来ないのです。伴って連れていったはずの若い衆たちによると、御神体の側で見失ってしまったとかで」
「御神体に……? あれは禁足地のはずだが」
「……はい。それは、私も重々承知しております。ですが、お義父様──失礼、村長がご許可を出されたのです。ですから、娘もこれ幸いと意気込んで向かったようなのですが……」
「──村長?」
何となく不穏な空気を察してはいたが、その一言で篝はさっと顔を青ざめさせた。
村長が直々に許可を出し、それをすぐに聞ける状況にあるということは──まさか、その娘というのは──。
「──つかぬことをお聞きして申し訳ないが……あなたの娘というのは、間ノ瀬桐花で間違いないか?」
「これ、篝」
いてもたってもいられず、篝は来訪者たる女性へと問いかける。一度気になってしまうと、どうしてもそのままにしてはおけなかった。
大巫が窘めたが、女性ははっと目を見開き、こくこくとうなずいた。どうやら図星だったようだ。
「ええ──その通りでございます。行方が知れなくなったのは、この村の長たる間ノ瀬の一人娘です」
「──何と」
「波分様、とおっしゃいましたか。あなたは、桐花とも仲良くなさられていたようですからね。このようなことをお聞かせしてしまい、申し訳ございません」
驚愕を隠しきれない篝に、女性は深々と頭を垂れる。
──ならば、この婦人は桐花の母親ということか。
(……似ていないな)
初日の寄り合いにも同席していたのかもしれないが、桐花とは似通った部分があまり見受けられないので、一目で親子だと理解することは出来ないだろう。
眼前の女性は、彫りが浅く、髪の毛はぬばたまのように黒々としていて、典型的な大和撫子といった風貌をしている。これに対して桐花は、どちらかと言えば色素の薄い茶髪に、はっきりとした目鼻立ちの少女だ。色白という点は同じなのだろうが、そもそも顔の造形からして大きく異なる。
まあ、娘は父親に似ることが多いというし、一概に判断するのは無粋というものだ。今は桐花に何があったのかを聞き出さなければ。
「部外者が差し出がましい真似をして申し訳ないのですが──捜索のための人員は出したのですか?
此処で口を挟んだのは、篝と並ぶような形で佇んでいた夜霧だった。言葉を発してはいないものの、彼女に隠れるようにしてかよも話を聞いている。
たしかに彼女の言う通りだ。わざわざ対立しているという大巫のもとにやって来てまで事情を説明せずとも、村長の権限なり何なりを用いて桐花の捜索を行うべきではないのか。
桐花の母親は、そっと目を伏せる。悲哀に満ちた眼差しであった。
「それが──村長は、ホフリの君の御神体付近は禁足地であるから、無闇に立ち入ってはならぬ──とおっしゃるばかりで」
「なっ──」
これにいち早く反応したのは大巫であった。彼女は目を三角にしたかと思うと、何ということじゃ、とわかりやすく憤りを露にした。
「禁足地だと言うのならば、桐花殿の立ち入りはどうなるというのじゃ。全くもって腹立たしいわ! そもそも、あの御神体に関しては村全体の合意で決定する手筈となっておろうに、村長一人の独断で物事を決めてしまうとは──何という傲慢よ!」
「……申し訳ございません、大巫様。私の方で何とか止めることが出来ていれば、このような事態を招くことは避けられたはずですが……」
まるで我が責任とも言いたげな女性の態度に、気色ばんでいた大巫も冷静さを取り戻したらしい。はっとした顔をしてから、否、と先程よりは柔らかい口調で切り出す。
「何も小百合殿の責任とまでは言うておらぬ。起こってしまったことに対して、過去の行動ばかりを追及しても詮なきこと。今は、一刻も早く桐花殿を見つけ出すことが先決じゃ」
「協力して──くださるのですか」
「当然よ。こればかりは看過出来ぬ。すぐにでも此方の神官たちを出そう。村祭りの前に、災いを起こしてはならぬからな」
女性──小百合は、目尻にうっすらと涙を浮かべながら、ありがとうございます、と掠れた声で感謝の言葉を述べた。
恐らく彼女は、娘の行方が知れなくなったと聞いてから気が気ではなかったのだろう。傍らにいる冬程とまでにはいかないが、顔色も悪く、目元には隈が浮かんでいる。桐花のことを思い、まともに眠れていなかったに違いない。
(……しかし、あの村長が捜索に乗り気でないとは……)
小百合の話を思い起こしつつ、篝は首を捻る。
村長──桐花の祖父である間ノ瀬伝三は、孫娘を外に出すことそのものを忌避しているような男だった。間ノ瀬の跡を継げる人間が彼女しかいないからなのだろうと篝は勝手に判断していたが、それにしても過保護というか──最早軟禁にも近い形でしか桐花を守れないのかと、一言物申してやりたくなる状態であった。そのような環境に置かれているものだから、桐花も外界に対する憧憬を募らせていたのだろう。
その村長が、外出を──しかも禁足地へ赴くことを許したという。どのような心変わりがあったのかは知れないが、桐花も驚いたに違いない。
「──冬」
篝は、小百合の後ろでむすりとしている冬に視線を向ける。
冬はぎろりと篝を睨み付けながら、なんだ、と短く問いかけた。愛想がないのは平常運転というべきか。
「冬、お前は禁足地の──ホフリの君の御神体がおわす地に明るいか? 赴いたことがなくとも構わない。情報があれば教えて欲しい」
冬は顎に手を添える。考え込んでいるようだった。
「……彼処は獣も出ないから、私も他の村人と同じように立ち入ることを禁じられているが……。この神域と同じように──いや、それ以上に木々の根が地面に張り出している。足場が良いとは言えない」
「此処以上か……」
今思い出すことではないのだろうが、篝は神域に向かう途中で冬が派手に転倒したことを思い出した。あれには篝もひどく驚かされたものである。冬としては語られたくないだろうから、面白おかしく口にすることはないが。
冬は己の記憶の糸を手繰り寄せているのか、普段の即断即決という風が似合う口調とは正反対のそれで続ける。
「彼処はほぼ山中のようなものだ。以前は鬼女が住んでいたというから、その住み処があっても可笑しくはないが……。民家のようなものはひとつもないと聞いている」
「現在は、誰も住んでいないんだな?」
「そのはずだ。山だから、洞窟やら洞穴やらは残っているかもしれんが……おおよそ、何かしらの手を加えなければ人が定住出来るような土地ではない。山狩りをするにあたっても、複数人で向かわなければ危険な土地だ」
なるほどな、と篝はうなずく。わかりきっていたことだが、篝一人でどうにか出来る問題ではなさそうだ。
小百合は冬が語り終わったところを見計らって、深々と大巫に頭を下げる。
「大巫様、お手を煩わせて申し訳ない限りではございますが──どうか、どうかよろしくお願いいたします。桐花は、あの子は……決して失ってはならない、大切な存在なのです」
「わかっておる。我々も可能な限り尽力しよう。幸い、禁足地の付近は獣が出ぬ。獣に襲われることはなかろう」
はい、と力なく答えて、小百合は今度こそ冬を伴って去っていった。その後ろ姿は物寂しかったが、初めに見た時よりは幾分か力が抜けたようにも見えた。
──桐花は無事だろうか。
何とも言えぬ、漠然とした不安が篝を襲う。大巫に促されて稽古に向かう際も、胸に
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