3

 嘲笑うような夜風が、飢えた体を撫でていく。


 ちょうど近くに生えていた木の幹に手を付きながら、“それ”は荒々しく呼吸する。

 空気を吸い込んだところで、この飢餓感が満たされる訳ではない。むしろ呼吸をするだけであっても、ぽっかりと腹に空いた空間に住み着いた虫が血肉を求めて騒ぎ出す。


 ──何故、このようなことに。


 悔やんでも悔やみきれない。何故、と疑問に思いながらも、その原因はよく知っている。

 百年、経ったと聞いた。あの愚かな民が神として祀り上げられ、己が死したことになった日から、百年。

 そのような月日、苦もなく生きられるものだと思っていた。


(──いや、苦もなく生きられたのだ。こうして、再び目覚めるまでは)


 人の分際でありながら、この身を貫いた愚かな民を呪うことは出来ている。あれは最早人ではなくなった。人とも鬼とも言えぬ、おぞましい神へと変成した。


 ──人を喰らうことを咎めた者に、人の命を貪らせるのは心地がよい。


 報復ならば、既に始まっている。あれは人を好いているから、己が所業には血を吐くような思いでいることだろう。

 いや──そもそも、あれが人としての意識を保っている保障などないが。

 余計なことを考えていたとしても、空腹は収まってくれない。先日、数人神官を喰らわせたというのに、もう消化してしまったようだ。

 再び目覚めてからというもの、この身は一気に不自由に変わり果てた。

 常日頃から蔑んできた人と同等に落ちぶれて、おまけに太陽の出ていない夜間──しかも毎晩ではなく、ほぼ運任せのような形でしか意識を保つことか出来ない。眠っている間の記憶はなく、自分の周りで何が起こっているかすら把握することは出来ない。


(それもこれも、皆あの人間のせいだ……! 嗚呼、何とも憎らしい……!)


 ホフリの君と呼ばれる唯一の神を、心から恨む。あれさえいなければ、この村の最高位に座していたのは間違いなく自分だったのだ。

 人間というものは愚かだ。何時でも何処でも、すがり付けるものを欲している。定められた生を無為に生きることしか出来ないというのに、人以外にかしずくことはなく、あたかも自分たち人間という種族が最も優れているのだと言わんばかりの顔をして地を闊歩している。

 そんな人間が──好きではない。

 視線を動かす。眼前には、先日異形が襲った神域がある。


 ──此処を壊せば、あの憎たらしい神の核を砕くことは出来るだろうか。

 知らず知らずのうちに、口角が上がる。あの愚かな民に、報復したくて堪らないのだ。

 一歩、足を踏み出す。

 神官も、大巫とか名乗っていた老婆も、ホフリの君に神楽舞を捧げるのだという舞い手たちも──。全て全て喰らい尽くしたら、一体どうなってしまうのだろう?


「──みゃあ」


 それは、煩わしい鳴き声だった。

 足下を見る。其処には、何やら白い、小さい毛玉がいる。

 それは警戒心たっぷりに此方を見上げている。ただの猫である。

 だが──その首には、白銀に光る首輪がかけられている。


「──!」


 飛び退いた。それを視覚で捉えたからには、退かずにはいられなかった。


(何故、あのようなものを──!)


 記憶によれば、自分はこの島国で伝えられてきた鬼といっしょくたにされているようだった。当然、本来用いられるべき方法を目にすることはないはずなのだ。

 だが──あの猫の首輪は、銀で出来ている。

 それはすなわち──この小さな、そして鄙びた村に、己が正体を知る者がいるということだ。

 そうと知るや否や、足が勝手に動いていた。

 森を駆け抜け、目覚めた場所まで走る。あの猫は追ってきていないようだったが、それでも恐ろしくて足を動かし続ける他になかった。


(まさか──百年の間に、奴等が動き出したというのか……!? この島国にまで、魔の手を伸ばしてきたのだとでも……!? ──いや、奴等ならばやりかねない。あれらは貪欲で、私利私欲のためならばどのような土地であろうと蹂躙し、我が物とするような連中だ。だからこそ、私は此処まで逃げ延びたというのに──!)


 空腹など、最早気にしてはいられなかった。逃げる以外の選択肢など、それに存在してはいなかったのだ。

 猫はというと、同じ場所に佇んでいる。そしてみゃあ、ともう一度鳴いてから──何かを感じ取ったのか、くるりと背後を見た。


「──おう、まだ会えだにゃあ」


 神域の生け垣からひょっこりと顔を覗かせる訛りの強い少女を、猫は無言のままじっと凝視した。

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