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あまりにも突然のことであった。その場にいた者たちの全てが、すぐに何が起こったのか理解出来ずにいた。
冬は喰われた。あの異形に、喰われたのだ。
「あ……ああ……用心棒さん……」
顔面蒼白になって、呆然と眼前の光景を見つめているしか出来ないのはかよである。彼女は泣き出すことはなかったが、目の前で起こった惨たらしい光景を前にして、半ば放心しているように見えた。
篝でさえも、状況の把握には幾らかの時間を有した。まさかこのような事態に陥るなど、想像だにしていなかったのだ。
異形はしばらくの間動きを止めていた。見たところ冬が中で暴れているようには思えなかったが、何やら手間取っているようだった。
「お……終わりだ……」
その呟きが誰のものだったのか──篝にはわからない。
だが、陣を組む神官の一人が、諦念にまみれた言葉を放ったのは確かな事実であった。
「終わりだ! もう駄目だ、おしまいだ! 山から下りてくる獣を倒せるのは間ノ瀬の用心棒だけだったというのに、その用心棒が喰われては一巻の終わりだ……!」
「よ、止さないか、まだ確実なことは──」
「確実だろう! あの用心棒は喰われたんだ。もう二度と、戻っては来ないんだ! あれほどの逸材など、もう手に入れられないだろうに……!」
別の神官が宥めようとしたようだったが、悲痛な叫びは止まらなかった。むしろ、その叫びに込められた恐怖と諦めは、陣を形成する神官たちに伝播したかのようにさえ思えた。
何処からか、嗚咽が聞こえてくる。もう駄目だ、殺される、などといった神官たちの呟きは、静かな水面に投じられた小石のように波紋を広げていく。
「──馬鹿者! そのような調子でどうする!」
じわりじわりと広がる不穏に一喝したのは、陣の中心にいる大巫であった。
彼女は額に玉の汗を光らせながら、神官一同をぐるりと見渡す。
「此処は神域じゃ! それはお前たちもよう知っておろう! 神域を守り清めるが我等の役目、たかが獣に臆したか!」
「しかし、大巫様……!」
「もとより村人の手に余る相手じゃ、民の犠牲が出るよりかは我等で食い止める方がましというもの。事の次第は既に連絡を入れておる、増援が来るまで何とか辛抱を──」
辛抱をせよ、と口にしようとしたらしい大巫だったが、言葉の途中ではっと目を見開いた。
それもそのはず──混乱する陣中から突如飛び出した者がいたのだ。
「っ、はあっ、はあっ、はあっ……」
壁のように陣を組んでいた神官の群れをを縫って飛び出した篝は、息を弾ませながら眼前の異形を睨み付ける。
「篝兄ちゃん!」
「篝、何をしておる! 早う戻れ!」
陣中より、かよと大巫の声が聞こえる。彼女らの表情までは見えないが、その言葉の意味するところまで理解出来ぬ程篝も愚かではなかった。
異形は、ゆっくりとおもむろに鎌首をもたげる。突然自らの前に躍り出てきた篝を捕捉するのに、ある程度の時間がかかっているようだった。
恐らく、この異形は冬を飲み込んだ直後のために動きが鈍っているのだろう。完全に動きを封じているとは言えないが、素早く動き回られるよりはずっと良い。
(……やるしかない──か)
篝とて、無策で異形の前に飛び出した訳ではない。状況を鑑みて、何をすべきか考えた上での行動である。
だが、それでも──不安は拭いきれない。成功が保証された策ではないのだ。下手をすれば、此処で異形に喰い殺されてしまうかもしれない。
(此処で俺が殺されれば、事の次第をお伝えするべき者が全滅する。それだけは避けなければ)
ぐ、と唇を噛む。失敗は許されない。
後方から聞こえてくる声には耳を貸さず、篝は異形を見据える。そして、すぅ、と静かに息を吸った。
「『泰山の 安きに置けば 入り日なす 隠るるものの 声やきこゆる』」
それは、静謐とした夕暮れに染み渡る歌であった。
何処からともなく吹き付けてくる風が、篝の髪の毛を揺らす。ざわり、ざわりと木々がざわめく。さながら、生き物であるかのように。
異形は緩慢だった動きを止めた。首のない姿のまま、オォオ、と苦しげに呻いた。何かを絞り出すかのような──内に無理矢理秘めたるかのような呻きだった。
『オォ、オ、オオ──。────カ──ガリ──』
「──! こやつ、言葉を……!?」
呻き声は、やがて人の言葉として聞き取れるまでの精度を保つ。そして、たしかに篝の名を呼んだ。
大巫が目を剥くのも無理はない。異形とも取れる獣が人語を口にしたのだから。
篝は何も言わずに、黙って異形の行く末を見守る。息をする余裕さえなかった。
『──ゲ──テ──レ、カ、ガリ──。──ハ、モウ──ヲ──』
しばらく喘ぐように呻いていた異形だったが、苦しげなその声は紡ぎきることなく途切れる。その代わりに、一等凄まじい咆哮を響かせた。
「……っ、何だ……!?」
その迫力に何歩か後退りし、篝は再び異形の方を向く。──そして驚愕した。
──異形の中で、何かが
暴れたり、一ヶ所だけぽこりと目立ったりしている訳ではない。うねうねと、何やら細長いものが、異形の中にいる。
異形が苦しんでいるのも、その体内でうねる何物かが原因なのだろう。壮絶な叫びを上げながら、異形はじたばたとのたうち回った。
(一体、何が起こっている……!? あの異形の中にいるのは、一体何だというんだ……!?)
異形は冬を飲み込んだ。余所者の篝が冬について知っていることは極めて少ないが、それでもただで飲み込まれるような人間ではないと確信している。きっと、最期の最期まで諦めることはないのだろう──と。
しかし、それにしても現在の状況は不自然だ。
仮に冬が異形の中で抵抗しているにしても、目視出来る範囲では異形の中で蠢いているそれが人には見えない。うねうねと流動しながら蛇行するなど、人間に出来るはずがない。
出来るとすれば、蛇のような爬虫類や、
(──もしや──いや、まさか、そのようなことが──)
篝の中に、ひとつの憶測が生まれる。だが、それは篝にとって都合の良いものではなく、すぐにでも否定したい代物だった。
そうこうしている間にも、異形は地にどうと倒れる。あまりの苦痛に立っていられなくなったのだろう。
篝も、大巫も、神官たちも。その場にいる誰もが、固唾を飲んでその様子を見守る。余計な手出しをしてはならないと、直感が告げていた。
──ぶしゅり。
厭な音だった。聞いていて心地の良いものでないことだけは、はっきりとわかった。
異形の腹から、口から。おびただしい量の血が流れる。体内の何かを大幅に傷つけられたのだろう。地でのたうち回っていた異形は、びくり、びくりと何度か痙攣してから──もう二度と動くことはなかった。
「……死んだ……のか……?」
篝としては様子を見たいところだったが、万が一のこともある。その場から動けぬまま、ただ呆然と異形の遺骸を見つめていることしか出来なかった。
──と、此処で出血していた異形の腹から、ずるり、と何かが這い出てくる。
「……っ、お前──!」
先程まで篝の行動を抑制していた警戒心は、この時四方八方に飛び散った。篝は時折転びそうになりながらも、異形の腹から這い出てきたもののもとへと駆け寄る。
それは上から下まで血で赤黒く染まってはいたが、動きに支障はないようで、おもむろに篝の方を向く。
「……何だ、貴様か。どうした、それほど慌てて」
「どうしたもこうしたもないだろう、冬! お前がどうなったか、気が気ではなかったんだぞ! 無事か、無事なんたな!?」
「見ればわかるだろう」
相変わらずつっけんどんで無愛想な冬だったが、それすらも篝にとっては安堵の材料となり得た。
自らの手が血で汚れるのも厭わずに、篝は冬の両手を握る。ひんやりとした、作り物めいた手であった。
これには、冬も少なからず驚いたらしい。ぱちぱち、と何度か瞬きをしてから、おい、と冬にしては控えめに声をかけてくる。
「離した方が良い。汚れる」
「知るか、そんなこと。お前が死ぬかもしれないと、不安で仕方がなかったんだ。今更手が汚れたところで、何を思う必要がある」
「……物好きめ」
それ以上、冬が篝に苦言を呈することはなかった。冬にしては珍しく、篝に折れたようだった。
「……間ノ瀬の狩人殿」
此処で、後方から声がかかる。ずっと冬の方ばかり向いていた篝は、その声を機に後ろを振り返った。
冬に声をかけたのは、此処まで近付いてきた大巫だった。相変わらず陣は組まれたままだが、それを形成する神官たちの顔には安堵の色が浮かんでいる。一度は諦めかけた相手だ、安心感もひとしおだろう。
夜霧とかよはどうしているだろうか、と視線を移ろわせると、夜霧が篝の目をほっそりとした手で塞いでいた。危険がなくなったとは言え、凄惨な光景を彼女に見せるのには気が引けたのだろう。もしかしたら、篝が気付くよりもずっと前からそうしていたのかもしれない。
大巫は冬に向けて、恭しく一礼する。厳格な彼女のことだ、己にも厳しいに違いない。
「貴殿のお働きには、感謝のしようもございませぬ。自ら危険を冒してまでこの獣を討伐くださったこと、神官一同心より感謝致します」
「……これが私の仕事だ。そのように畏まられる程のことはしていない」
「貴殿ならそうおっしゃると思っておりました。一先ず、そのままお帰しする訳にもゆきませぬ故、此方で身をお清めなさりませ。礼と言ってはささやかなものになりますが、お食事も用意させましょう」
とにもかくにもお上がりくだされ、と大巫は拱手する。間ノ瀬家とは対立関係にあると聞いていたが、受けた恩を返さぬ程に冷えきってはいないようだ。
こうも感謝の意を示されるとは思っていなかったのか、冬は戸惑ったようにきょろきょろと所在なさげに視線をさ迷わせる。
「こういう時は厚意に甘えておけ。お前の尽力で助かった者もいるのだから」
さすがに放っておけず、篝は冬の背を軽く押してやる。下手をすれば、大巫の申し出を断ってしまいかねない。
冬はきょとんとして篝を見つめていたが、その真意を理解するのにそう時間はかからなかったらしい。わかった、とうなずいて、大巫に向けて小さく一礼した。
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