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 ──丑の刻。

 草木も眠る──と形容される時刻。だというのに、腹の虫は眠ってくれない。

 

 腹が減った。

 

 水では渇きが満たされぬ。穀物では飢えが満たされぬ。

 人のように暮らしていたとて、それは所詮その場しのぎ。人の食らうものなどで、腹が満たされるはずもない。


 ──今すぐにでも、人の肉が食いたい。人の血をすすりたい。


 以前ならば、我慢出来ていたはずだった。数年に一度の祭祀で与えられる供物──いわゆる生贄があったから、それを食らって生き延びれば良い話だった。

 もとより、この身は一度死んだようなもの。生者と同じように、毎日何か食らわねば腹が満たされぬという訳でもない。

 そもそも不死者の肉体は、最低限の生命活動だけで機能するように構成されている。

 半端者であれば、毎夜耐え難き空腹に苛まれることもあるのだろう。人を捨てた結果が、人以上の苦しみだとは、何とも皮肉なものだ。

 そんな半端者たちのことを、かつては蔑み、格下と嘲笑うことが常であった。たかだか後付けされただけの連中が、良いように喚くものだ──と。


(──だが、その苦しみを今になって受けることとなろうとは)


 飢えが、渇きが、我が身を甚振いたぶる。

 思わず胸を押さえてうずくまる。ただ立って、歩いているだけだというのに、それすらも一種の拷問のように身体を、そして精神を追い詰めていく。


(何たる、屈辱──!)


 あってはならない。このようなこと、決してあってはならない──!

 そのためには、食らわなければ。人を、人の血肉を、この身に蓄えなければ。

 幸い、この屋敷には少なからず使用人が住み込みで働いている。一人くらいつまみ食いしたところで、上手く隠せば誤魔化しがきくだろう。

 唾液が垂れそうになるのをぐっと堪えて、暗闇を歩く。人間であれば暗闇の中を移動するのは少なからず困難なものだと聞いているが、己のような不死者であればそのようなことを悩む必要はない。むしろ不死者は夜間に活動することが主なので、夜目がきくのは当然の理なのだ。


(……そもそも、人と同等に暮らしている時点で納得がいかぬのだが……)


 こうして不死者として目覚めたのは、つい一月前のことである。

 ──いや、不死者として生まれたのは数百年も前に遡るのだが、様々な事情があってつい最近まで眠っているような状態だったのだ。しかも不死者として起きていられるのは夜間だけ。夜目がきくのは、あくまでも夜間しか行動することが出来ないからに過ぎない。

 それもこれも、あの忌まわしき人間のせいだ。唇を噛みたくなる衝動を、何とか理性で押し込める。

 憎き人間は、己を倒したと錯覚したらしい。たしかにその武は不死者である己を圧倒するだけの実力であり、並の人間と比較すれば並外れたものと評価して良かった。


(だが、どれだけ優れていても所詮は人間。いずれ死に絶えるものと、そう思っておったというに──!)


 あろうことか、件の人間は神となったのだ。本来なら己があるべき立ち位置に、人間ごときが座したのだ。

 考えるだけでも虫酸が走る。あの人間の顔は、今でもはっきりと、鮮明に想起することが出来て恨めしい。

 憎悪も、怨念も、今は全て空腹感に還元される。苛立ちだけが募り、今すぐにでも柔らかな肉に歯を立てたい衝動に駆られる。

 ふらふらと、覚束ない、虚ろな足取りで不死者は歩む。今は空腹を満たすことしか考えたくなかった。


 ──その背中を、悲しげな目で見る者がいるとも知らずに。

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