その神奈備に、弔いを

硯哀爾

 ぴちょん、と水滴が頬を打つ。


 ゆっくりと、緩慢な仕草で、少女はその身を起こす。身体の節々が痛み、えもいわれぬ疲労感が全身に残っていたが、彼女は些事と切り捨てた。

 細く息を吐きながら、少女は自らの胸に手を遣った。とくりとくりと、心の臓が鼓動しているのがわかる。


 ──生きている。まだ生きているのだ、私は。

 

 安堵した訳ではなかった。ただ、純粋な歓喜のみが彼女の胸中を埋め尽くした。

 喉はずきずきと痛かったし、何よりもからからに渇いている。声を出すことさえも億劫に思える状況だったが、少女の唇からは密やかな笑い声が漏れた。笑うことを、我慢出来なかったのだ。


「っ、は──ははは、生きているのか、私は──」


 渇いた声音で、少女は笑う。──が、すぐにげほげほと咳き込んだ。

 致し方のないことだ。彼女は一度、生死の境をさ迷ったのだから。

 何度か咳き込み、呻いてから、少女は浅く深呼吸をする。

 呼吸を出来ているという事実だけで、こうも喜べるようになるとは。とうとう狂ってしまったか、と自嘲気味に少女は口角をつり上げた。


「──だが、これで良い。これで良いのだ」


 誰に言い聞かせるでもなく、少女は呟く。せり上がる己が感情を、止めることなど不可能だった。

 笑うだけで喉が痛む。動くだけで身体がきしむ。食に関して特別な拘りがある訳ではないから自覚はあまりないけれど、きっと空腹でもあるのだろう。下っ腹が締め付けられるような、快さとは正反対の位置にある感覚が、止めどなく少女を苛む。

 満身創痍まんしんそうい。その四文字が相応しい状況に置かれていながら、少女は喜びを抑えられない。嬉しくて、あまりにも嬉しくて、苦しみも痛みも甘い痺れに変わってしまう。


「嗚呼、これで。これでやっと、お前のところに行ける」


 ほの暗き洞窟の中にあれど、少女の瞳は爛々と輝いている。

 だが、それは希望ではない。希望からは遠く離れていながらも、絶望からも程遠い。

 前を向いていながらも後ろ向き、光をたたえているものの両の瞳は鬱々とした暗がりのごとし。少女の抱く感情は、矛盾をかき集めて出来ている。

 笑いながら、嗤いながら。少女は、何もない虚空に向かって手を伸ばす。何も掴み取れぬと知っていながらも、求めるものへ近付こうとするように。


「お前は必ず、私が殺そう。その首を落とし、息の根を止め、人として冥土に送ってやる」


 それは呪詛か、はたまた祝詞のりとか。

 殺意という名の火花を、両の眼窩がんかに揺らめかせながら。少女は喉が枯れることもいとわず、高らかに哄笑こうしょうした。

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