9 想望
イサミは、サバタ・ファーマのトイレでひとしきり胃の中のものを吐き出すと、手洗いで口をゆすぎ、顔を洗う。
――どうして……。
どうして僕はこんなに苦しまなくてはいけないのだろう――。
先ほどは、SRシリーズのリーダーであるクラウンに無理矢理に口を犯された。口内に出されたものを吐き出そうとしたら張りとばされ、さらにもう一度犯され、次に出されたものをすべて飲まされた。
――僕は……、僕たち姉弟は、こんなことのために生まれてきたのだろうか。
イサミとキヨミの姉弟は、男たちの玩具にされるだけの存在だった。そのためだけに生まれてきたようなものだった。毎日のように犯され、惨苦と絶望のなかで生きてきた。
今日は口だけだったから、まだいい。この間は、クロスの時の失敗の
――もういやだ、こんなの、もういやだ。
洗面台に腕をつき、うつむいて、自分の人生を呪った。
その背中に温かみを感じた。
いつのまにか近づいていた姉のキヨミが、両手をイサミの背にあて、そして頬をよせてささやく。
「彼女がこちらに向かってきてるわ」
キヨミは静かに、そして感慨深そうに言った。
「もうすぐ……、もうすぐ救済の女神が来てくれる」
ナツキ鉄道の線路脇の道。
コンクリートの柱に細く薄い鉄の板が渡してあるだけの、粗末なフェンス。柱は長年の風雪により劣化し、黒ずみ、角がとれたようになってしまっていて、渡してある板は青い塗料がところどころ剥げて、錆が浮いている。
黒いコートを着た長髪の男が、その腰ほどの高さのフェンスに腰かけ、タバコをひとくち吸う。吸うと顔をあげて、煙を空に向かって吐き出す。
タバコを吸うのはいつ以来だろうか。
――
男は夕焼け空に吸い込まれるように消えていく煙をみながら、苦笑した。
少女が、社に向っているという。
この男、クラウンが、正面きって少女と戦おうとしているのは、単なる意地にすぎなかった。
サバタ・ファーマの敷地内に入る前に倒そうというのも、ただの意地だ。
当初クラウンは少女をあなどった。
皆の調整の都合もあったが、チームメンバーをひとりずつ、少女と対決させた。戦力の逐次投入などという、まったくの素人のような愚行を犯し、チームを瓦解に導いてしまった。こんなことなら、調整など待たず、多少調子が悪かろうとも最初から全員で襲撃すればよかったのだ。
ここまできたらクラウンは、もはや正面きって少女を倒すしかない、と思いを極めていた。
場所はどこでもよかった。街なかで突然襲いかかってもよかった。だが、その少女とは、落ち着いた場所で戦いたかった。
それも、単なる意地なのだろうか。
目の前は、マンションの建築中で、薄い鋼板の向こうで、しきりになにかゴンゴンとやっている。支柱を地面に打ちつけてでもいるのだろうか。壁は防音の役になどまったく立っていず、近隣住民の迷惑もかえりみず、凄まじい轟音が一帯に鳴り響いている。
クラウンの左手、――三十メートルほど南にある踏切の警報機が鳴りだす。遮断機が下り、しばらくしてナツキ鉄道の、ナツキスカーレットと呼ばれる真紅の電車が通りすぎる。
ここから五百メートルほど南に駅があり、少女が今の電車に乗っていたとすれば、もうじき、その踏切に到達するはずだ。
ガラにもなく、不安が心をよぎる。
戦場で、何年も戦い、何十人、何百人も殺傷したクラウンの、タバコを持つ手が震えている。
その手を見つめて、クラウンは思う。これは武者震いというヤツだ。俺をこれほど震えさせる敵がすぐそこまで来ている。この俺を倒せるかもしれない敵ともうすぐ戦えるのだ、これほどの悦楽があろうか――。
視界の端に、白いものが入ってきた。
目を動かすと、制服を着たショートカットの少女が立ちどまり、こちらを認め、見つめている。襟とスカートが水色のさわやかな雰囲気のセーラー服、夕日に照らされピンク色にみえるほど明るい赤毛、跳ねた襟足。
クラウンはフェンスから立ち上がり、タバコを地面に落とすと、神経質そうに、丁寧に火を踏み消した。
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