8 勁風 (4)

 シノブは走った。

 さっきからスマートフォンで救急車を呼ぼうとしているが、まったくつながらない。

「ちくしょう、ちくしょう、どうしてなんだ、なんなんだこれは、このクソ野郎」

 どこの誰ともわからない者をののしりながら、トビタのもとに走る。

 オブジェの台座のすみからトビタの脚がみえる。

「トビタ、トビタっ」

 叫んで走りより、横たわるトビタの側にひざまずく。

 トビタの口に耳をよせる、気息が聞こえない。手首の脈をさわる、心臓が止まっている。

「そんな、そんな」

 心肺蘇生をしなくては。どうやるんだったか。保健体育の時間に習った記憶はある。だがうろ覚えだった。それでも、とにかくやってみるしかない。

 シノブは、トビタの胸に両手を重ねて置き、腕をのばした姿勢で胸を圧迫する。何度も、何度も、圧迫をくりかえす。

「動け、動け、死ぬんじゃない、トビタ、死ぬな」

 ある程度圧迫を続けると、鼻をつまみ、唇を重ね、二回息を吹き込む。

 ふたたび、心臓マッサージに移る。

「生きてくれ、お願いだから、生きて。私をひとりにしないで」

 そして人工呼吸。

 それらの行為の何度も反復する。

「トビタ、トビタっ」

 じょじょに涙声になる声。

「生き返れっ!トビタっ!」

 悲鳴のように叫びながら、心臓を圧迫していると、

「あぐっ」

 うめき声をあげて、トビタが息を吹き返す。

「トビタ、トビタっ」

 シノブはおおいかぶさるようにして、トビタの顔をみつめる。

「い、いたい、撃たれたところより、お前にあばらを折られ……」

 トビタは目覚めた直後に悪態をついて、げほげほとむせる。

「トビタ、このクソ野郎、心配かけんじゃねえよ」

 目じりから流れ落ちそうになる涙を指でふきながら、シノブも悪態をつく。

 安堵すると、ふと、周囲で人が動いているのに気づいた。

 シノブが体を起こし、台座の横から首をだして様子をうかがうと、グレーのつなぎを着た男たちが、兵士の遺体を運んだり、地面を洗浄したりしている。

 そして、その中心で作業を統括しているのは、あの黄色いブレザーを着た女子高生。

 シノブは少女を呆然とみやる。

 少女は視線を感じたわけでもないだろうが、ゆっくりとシノブの方にふりむく。

 少女は、シノブを優し気な目でみつめると、ほんのごくわずかな笑みを浮かべた。

 そのほほ笑みに、何の意味があったのか。

 少女は振り返ると、清掃員たちに向けて手をあげて大きく振った。おそらく撤収の合図だろう。男たちがいっせいに、二台のウォークスルーバン――兵士たちが運ばれてきたものだろうか――に乗りこみ、最後に少女が助手席に乗ると、すぐさま去っていった。

 シノブは、彼らのあまりの手際のよさに唖然となって、車を見送った。

 げほげほと、ひざもとで聞こえ、シノブはトビタに目をもどす。

 トビタのまぶたが今にも閉じそうに、ふるえている。

「寝るな、トビタ。寝たら死ぬパターンだぞ」

「もういいよ。ありがとう」トビタがかすれた声で、つぶやくように言う。

「バカ、がらにもないこと言うんじゃねえ。それも死ぬパターンだ」

「俺、お前と出会えて、ほんと、よか……」

「喋るな、寝るな、死ぬな、死なないでくれ。お前がいなくなったら、私はどうすればいいんだ。たのむよ、死なないでくれ」

「いいかげん、楽に、してくれ……」

「いやだ、楽になんてしてやるもんか」

 シノブはせいいっぱいの笑顔をつくる。だがそれは引きつったような変な笑みにしかならなかった。

「生きてくれ。生きてくれれば……、そうだ、一回くらい、やらせてやるよ。な、いいだろ、楽しみだろ。だから、死ぬんじゃない。あ、でも、一回だけだからな」

 トビタはそれに答えるように、ちょっとほほえんだ。そして、その茶色の瞳を、まぶたがゆっくりとおおってゆく。

「トビタ……」

 シノブの目から流れる涙が、トビタの頬をぬらす。涙は彼の頬をつたい、目に流れ、耳に流れ、唇を濡らす。

 シノブはトビタの頬を両手で優しくつつみ、口づけをした。

 長く、いつまでも――。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る