2 陰火 (1)

 静か。

 あまりに閑寂かんじゃくな室内。

 二十五メートルプールくらいの広さの部屋に、何十人もの社員がいて、皆が自分の務めに励んでいるはずなのに、人の気配というものがまるでない。

 サバタリアン・ファーマスティカルほどの大会社になれば、社員はみな活気にあふれ、人が休む間もなく右に左に走りまわり、電話のコールは鳴りやまず、連絡や報告の声が飛び交うような、喧騒のなかで働いていると思っていた。

 それとも、それらはすべてはシノブの妄想にすぎず、どこでも大会社の社員とは心を無にして働かざるをえないものなのだろうか。

 シノブが、トビタに無理を言って手に入れさせた身分証は、派遣社員のものだった。

 部署は製造部。

 仕事は、製品の受注、発送などのデータ管理。といっても、紙の書類をパソコンに打ち込んだり、逆に注文書や受注書などをプリントアウトして別の部署に届けたり、といった、言ってみれば高校生でもできる雑用係だった。

 シノブは化粧を濃いめにほどこし、眼鏡をかけ、スーツを着、実年齢(推定年齢)よりも大人っぽく装っている。

 シノブがサバタリアン・ファーマに潜入して、すでに八日がすぎた。

 その間、ずっと同じ机でキーボードをたたき、書類を製造現場に持っていったりするだけの、そんな単調な毎日が過ぎていた。

 シノブは今まで知らなかった。大人の仕事というものは、こういう作業の繰り返しなのだろうか。みな、生きがいをもとめて汗水ながして働いているのではなかったのか。現実を目の当たりにし、シノブは「大人になりたくない願望」が急激に湧きあがってくるのを抑えきれないのだった。

 仕事の合間を見計らい、ビル内をあちらこちらと見回ってみたが、これといって、捜索に役立ちそうなものは見当たらなかった。

 一度、仕事の用事といつわって、資料室に入り込んで、棚にぎっしりと並んだファイルを調査してみたのだが、モモサキ・ハルコに関しては、以前調べた程度のことしか見つけられなかった。

 今日も今日とてパソコンに向きあっていると、ちょっとイシカワさん、とお局様の声がする。

 シノブは、自分の偽名にもすっかり慣れ、反射的に横を向く。するとお局様、

「もう、出荷予定表は持って行ったの?」

 とすでにシノブがミスをしていると決めてかかって、憤然としたようすで仁王立ちである。

「あ、すみません、今からです」

「まったく、なにやってるの」

 世の中カワイイだけじゃやっていけないのよ、ちやほやされるのも若いうちだけよ、などと、仕事には関係なさそうな、容赦のない苦言をていし続けるお局様。

 シノブは、すぐ持っていきますと、席をたち、お局様のわきをすりぬける。急ぎ足に部屋を出、廊下に出ると足どりをゆるめる。

 これほどの大会社というのに、細かいところではIT化が進んでおらず、いまだに紙の書類を手渡ししなくてはならない。面倒ではあったが、仕事を抜け出して調査をするには、都合がよかった。

 窓から下をのぞくと、トラックがひっきりなしに何台も出入りしており、ここで製造された医療品、薬品の数々を、――大仰な言い方ではなく、地球の裏側まで送り出している。

 サバタリアン・ファーマは、ほとんどの業務をこのビルに集約させており、開発から製造、販売まで、すべての工程がこの敷地内で済むようになっていた。

 シノブのいるC棟は、ビルの中央塔から北に突き出した社屋で、製造棟と呼ばれていた。

 窓からみえる南西にある別棟、――研究開発をしているB棟を、シノブは見やる。

 ――あそこに行けば、きっとなにか見つかる。

 おそらくモモサキ・ハルコの仕事場があそこだったはずだ。

 この巨大なビルをくまなく調査することなど不可能なことで、調査範囲を絞りこまなくてはいけない。

 とすれば、一番調査対象として期待が持てるのがあそこだ。

 だがそこは、セキュリティーが一番厳重な場所でもあった。

 B棟に入室するためには、ちょっと調べただけでも、指紋認証に社員証認証、パスコードの入力など、幾重にもセキュリティーがかけられていた。医薬品の研究開発という、最重要機密を扱っている部署とも言えるので、当然といえば当然なのだろう。

 ――さて、知恵のしぼりどころだな。

 あそこに入るための手段を、とにかく考え出さなくてはいけない。

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