第三章 覚醒
1 静息
ハルハラ駅前にある、もう老舗といっても大仰な表現ではけっしてない、全体的に彩度の落ちた感じのする洋食店「ホシノ亭」。窓はうっすらとくもっているし、その脇のレースのカーテンは日に焼けて、ずいぶん茶色く変色してしまっている。テーブルもイスもいろあせて、掃除、手入れは毎日かかしていないはずなのに、経年によるくすみがいたるところにしみついている。雑居ビルに挟まれた日当たりの悪い立地の、間口五、六メートルの奥ゆき十メートルくらいの小さな二階建て家屋の一階が店になっている。
ほとんど表には出てこない愛想の悪いおやじさんと、気立ても愛想もいいおばちゃんと、ふたりで長年いとなんでいて、肉汁たっぷりのハンバーグ定食が絶品の、知る人ぞ知る良店だった。
シノブは、一年ほど前にふらりとこの店にはいって以来、気に入って足しげく通いつづけていた。普段店で客の応対をしているおばちゃんだけでなく、ほとんどの常連客がみたことがないおやじさんとも顔なじみになっているほど通いつめているのだった。
今日も、シノブはお気に入りの窓際の席にすわり、通りすぎる車のヘッドライトをながめている。
「あら、シノブちゃん、今日は彼氏といっしょじゃないの?」
ほほえみながらコップの水を置き、実年齢はもう六十をとうに越えているはずなのに、まだまだ若々しい声でおばちゃんが話しかけてくる。
「いや、彼氏じゃないし」無愛想に否定しながら、いつものハンバーグ定食を注文する。
「あらそう。お似合いにみえるけど」おばちゃんの、かつて美人であったであろう――今も充分美人だが――整った顔にある大きな目が綺麗なアーチを描いて笑う。
「いやいやいや」
似合ってない似合ってない、と顔の前で手をふり苦笑しながら、シノブが否定していると、入口のドアベルが心地よく店内に響きわたる。
「あら、彼氏きたじゃないの」
「だから、彼氏じゃないって、おばちゃん」
いらっしゃいませ、とおばちゃんが言うのと同時にトビタが入ってき、奥にもどるおばちゃんとすれ違いざまに、おばちゃん、いつものね、と声をかけて、こちらに向かってくる。はい、シノブちゃんといっしょのね、といたずらっぽく笑いながら、おばちゃんは調理場へ入っていく。
客は奥のほうにサラリーマンがひとりいるだけで、時分どきなのにずいぶん閑散としていた。静かな店内には、静かな曲調のバイオリンソナタが流れている。
「ああ、疲れた疲れた」
言いながらトビタはシノブの前にすわり、注文したあとなのに、なぜかメニューを見始める。
水を持ってきたおばちゃんに、トビタは、アメリカン追加ね、と言ってまたメニューを見る。おばちゃん、お水おかわり、と奥の客が呼ぶのに、はあい、と答えておばちゃんは立ち去る。
「今日は一日じゅう聞き込みだよ、足が棒だよ、クタクタだよ」
メニューから目をはなさずにトビタが愚痴を言いはじめる。
聞き込み先のおやじがとか、刑事は嫌われ者だとか、あいも変わらず同じ内容の愚痴を聞かされるのが常なので、シノブはもう、自然と聞き流す癖がついている。だが、今日はシノブの耳にひとつの言葉がとどいた。
「でさ、彼女が言うんだよ、もう危ないことはやめたら……」
「おい」
「なに?」
「なんだと?」
「なにが?」
「今、彼女がなんとか言わなかったか?」
「言ったよ」
「お前、彼女なんているのか?」
「いるよ。あれ?言ってなかったっけ」
シノブはちょっと複雑な気持ちになった。なんだろう、この口では言いあらわせない不可解な感情は。
「ははん、さては……」トビタが不審がるシノブの顔を見ながらいう、「シノブちゃん、嫉妬してる?」
「は?なに言ってんの?違う、マジで違うから、ただお前みたいな、ぐうたら刑事に彼女がいるのが不思議なんだ。よっぽどの物好きだな、その女」
「え?ホントかな?」
ニタニタといやらしい笑みを浮かべながら、トビタは、彼女は美人だとか、今度会わせてやる、とか話を続ける。
そのうちに、おばちゃんがハンバーグ定食をふたつ運んできてくれ、じゃあごゆっくり、と笑顔で言って去っていく。
シノブは話を切りかえようと、
「潜入したいと思う」唐突に言った。
「どこへ」トビタはハンバーグを切り分けながら、感心なさげに返す。
「サバタに決まってるじゃないか」
「バカ」
「なんだと?」
「そう簡単に、あんなセキュリティー厳重な大会社に潜入できるわけがないだろ」
「だから、お前に相談してるんだろう。なんかあるだろ」
「ないよ」
言葉がとぎれる。シノブは窓のそとに目をやる。トビタはハンバーグを口にいれる。バイオリンソナタは静かに流れる。
「社員証の偽造とか」
シノブが思いつきを口にするのへ、トビタはにべなく、
「できねえよ」と言う。
ふたたび会話がとぎれる。シノブもハンバーグを食べはじめる。ひと口ふた口食べたところで、トビタが、
「お前がそういうんならやってやってもいい」いささかためらいがちに話しはじめた。「だけどもう終わりだ。今回かぎりでお前はもう、俺の仕事には関わらせない、約束する。だから、お前がこの仕事をやりとげたいなら、そうすればいい」
トビタはライスを食べる。
「なにがそんなにお気に召したのかね、こんな人さがしに」
「だってよ」
シノブはトビタの言う、もう終わりという言葉は信用せずに受け流し、自分の思いを口にした。
「だって、くやしいじゃないか。あんだけ死にそうな目に合わされて。もう、とことんやってやろう、って気になるじゃないか」
「ふうん、そんなもんかね」
トビタはスープを飲む。
店はまた静かな時にかえる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます