9 隘路 (3)

 シノブは目をひらいた。

 さっきまでいたラブホテルではない。

 隠れ家、――トビタが勝手に隠れ家として利用している廃工場にいた。

 はるかな高所にある、むき出しの鉄骨とスレート板の屋根。首をひねると段ボールの裁断機と印刷機が圧迫感をともなって鎮座している。

 体じゅうが痛い。

 コンクリートの床にベニヤ板を敷いてあり、その上にシノブは寝かされていて、体にはうすいシーツがかけられているだけだった。

 シノブはシーツをはぎとると、おもむろに立ちあがる。頭が痛い。体の節々が痛い。足がおぼつかない。

 目のまえには、後ろ手に縛られ椅子に座らされたウンノと、その前におかれた椅子にはトビタがすわっている。

「おう、お目覚めか」

 トビタが軽薄に言う。

 シノブはこめかみを指でおさえつつ、

「どれくらい寝てた?」

「七時間ぴったり」

「じゃあ……」

「今は夜中の二時だ」

「もう、そんな時間か」

「まったく、だから俺が無謀な作戦だって言っただろう。うまくいくわけないって、あんだけ口を極めて忠告したのに、言うこときかないからこうなるんだ。いつまで待ってもここにこないもんだから、さんざんさがしたんだ。GPSが停止してたら、今頃お前はコイツの餌食になってたんだぞ」

 トビタは、腹のなかにため込んでいるものを一息に吐き出すように叱責する。

「ああ、うるせえな。頭痛いんだからよ、黙ってろよ」

 よろけながら、ふたりに近づくシノブにむけて、トビタがアルコールティッシュの袋を投げてよこす。

「そんなもんしかないけど、体ふいとけ」

 そうだった、とシノブは思い出した。私は、ウンノに体じゅう舐めまわされたのだ――。

 シノブはふたりに背をむけると、アルコールティッシュをセーラー服のスソからつっこんで体をふきはじめた。七時間もたってからふいても、ウンノの唾液が肌にしみこんでいるような気がして、その不快さまではぬぐいとれはしないが、ふかないよりは、よっぽどましな気分だ。

「心外だなぁ、そんなにボクの口は汚くないよ」

 ウンノの、笑いぶくみの言葉を聞いた瞬間、シノブは髪が天空を貫くほど逆上した。

「てめぇっ」

 叫んで振り返ると、ウンノの頬を殴る。それだけではとてもあきたらず、続けて殴る。頬とはいわず、顔面すべてを怒りにまかせて殴りつづける。鼻の骨は折れ、前歯が飛び、それでもシノブは殴るのをやめない。

「おっとそこまで、そこまで」

 トビタがシノブの手首をつかんだ。

「それ以上やったら、死んじゃうよ。こんな殺しかた、正当防衛じゃすまないよ」

 シノブは、舌打ちし、腕をさげる。

「さあ、ウンノ君」

 言ってトビタはまた椅子にすわる。

「ああいう凶暴熊女だからね、オレもいつまで抑えていられるか、わからないよ」

「はに、わはったひよ」

 ウンノは血でまみれた口を開けてなにか言う。

「さあ、そろそろ話してくれないかな。モモサキ・ハルコさんのこと。なんか知っているんでしょ?」

「しょのまえに、トイレ行かせてくれはいかは」

 あれから七時間、ずっとしばられたままだったのだから、そうとう排泄物がたまっているのだろう。だが、この状況をなめているとしか思えない言動に、シノブはふたたび腹がたった。

「知るか、もらせ。スマホで撮っておいてやるよ。もらせ、ションベン野郎!変態、レイプ魔!てめえ、今までいったい何人の女を犯してきやがった。ションベンたらして恥をかくくらい、みんなの苦痛にくらべれば優しいもんだ。たらせ、ちびれ!チンカス!」

 シノブの悪罵に、しかし、ウンノは微笑をかえす。

「いや、みんな終わったあとは、よかったっていうよ。ボクは、女性を気持ちよくさせるコツを知っているからね」

「んだと、クソが」

 ふたたび殴りかかろうとするシノブを、トビタが飛びついてとめる。

「落ち着け、落ち着け」

 トビタはなだめるようにシノブの背中をたたきながら、顔をウンノに向け、

「おまえも、はやく話せ。話せば、すぐに開放してやるから。そのあとでオシッコでもウンチでもゆっくりしてくれ」

「知っていると言っても……」ウンノは顔を苦痛にゆがめた。それは殴られた痛みなのか、意に反して喋らされる苦悩なのか。「三年前に警察に話した以上のことは、なにもないよ。彼女とはただの同僚。いや、彼女は研究チームのリーダーだったから、上司と言ったほうが正しいか」

「で、その先は?」トビタがちょっと刑事らしい口ぶりで、話をうながす。「手柄を横取りしたくて、彼女を殺したか?」

「違う。ボクはなにもしていない。彼女が失踪したことには、いっさい関与していない。本当だ。それにボクは彼女のことは嫌いじゃなかった。そりゃ、見た目も暗くて喋り方も陰気で、あんな女はボクの好みじゃないけど、研究者としては、彼女はさほど悪くはなかった。利用する価値もまだあったしね。殺すなんてありえない。」

 ゆくえのしれない女性を気に掛ける気持ちを微塵も感じさせない言動に、シノブは心底腹がたってき、トビタの手がゆるんだ瞬間、

「このクソがっ」

 ウンノの顔をまた殴った。

 と――。

 ウンノの右側頭部が爆発した。

 脳漿が飛び散り、目玉が跳ね飛び、鼻腔がぽっかりと穴をあける。

 ――なんだ?

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