4 渉猟 (3)
ハッチャンはニックネームであるが、本名は誰も知らない。シノブが本人から聞いた話では、
――ハッカーだから、ハッチャンなどという安直なネーミングではない。
とのことだった。
ハッチャンがキーボードをかたかたと、音も高らかに叩く。シノブはその横に立って、画面を見つめる。トビタを横目でちらりとみると、おびえたような顔で、ソファーに腰をおろしている。いやどうせ、従順な面持ちをしながら、逃げだす機会をうかがっているのだろう。
この二日間、ベッドに寝ころび、暇をもてあましながら、シノブはいろいろと考えをめぐらせてみた。サバタファーマのウンノという社員からの連絡を待つだけでは、なんとも芸がない。ほかになにかできることはないだろうか。考えいたったのは、サバタファーマ内にあるであろう、モモサキ・ハルコの資料を手に入れることだった。だからといって、正面切って会社に行って、資料をみせてくださいと言って見せてくれるわけもないので、じゃあ、盗み出そうということになった。どうやって、盗み出すか――。
ハッチャンは、ふむふむ、とか、なるほど、とか、その程度なの、などとぶつぶつと独り言を口にしながら、キーボードを叩いたり、マウスを動かしたりしている。
シノブは右横に立って画面を見ながら、ケットカットミニ大入り袋を開け、食べはじめる。
「ハッチャンも食べる?」
「うん、ちょうだい」
「はい」
「あ~ん」
大きく開けたハッチャンの口に、ケットカットミニをつっこむと、ハッチャンはひと口でバリバリと食べてしまう。
そんな、リラックスムードでハッキングは続けられ、そして、ものの数分後、
「はい、サバタのサーバーに侵入できたわ」得意満面で報告するハッチャン。
「お、さすが仕事が早いね。天才ハッカーだね、やっぱり」心からの賛辞を贈るシノブ。
「そんな、見えすいたお世辞はいいわ」
「いや、ホントに感心してるから」
「で、なんて人だっけ、捜してる人は」
「モモサキ・ハルコ」
「モモサキ……、あった」
ハッチャンがモニターに表示させたのは、人の名前がならんでいる社員名簿のようなものだった。
モモサキ・ハルコの項目をクリックして画面が遷移すると、彼女の社員時代の住所や業績がつらねられている。
「う~ん……」
シノブは当てがはずれた、という顔になった。
「ここに書いてあることは、トビタが持ってきた資料に書かれていたのと大差ないなあ」
住所は、先日シノブが訪れた、あのアパート。それに入社年月日、退社年月日、退社理由は行方不明のため。業績には、シノブの聞いたことのない病気の特効薬の開発履歴がならんでいた。
「もうちょっと、探してみるわね」
ハッチャンがまた手を動かしはじめるが、
「うむむ、ダメね、たいした資料は出てこないわ」
「モモサキさんが、なんか表には出てこないような、裏プロジェクトに参加してた証拠とかは、ないの?」
「そういうのは、あったとしても、通常のサーバーには置いてないんじゃないかしら」
「というと?」
「紙の資料として保管してあるとか、スタンドアローンのPCに記録してあるとかね」
「じゃあ、こっからじゃ、調べられない?」
「無理ね、実はいま、コッソリ、ネタになりそうな薬の開発データとか探してるんだけど、まったく見当たらないのよ。ファイヤーウォールで保護されてるとかじゃなくて、一ビットすら存在してないのよ。ネットにつながっていない社内専用サーバとかあるのかしら。ありそうね、あんな大会社だもの」
「それを調べるとなると……」シノブは考えこむ。
「潜入するしか、ないわね」ハッチャンはあっさりと言ってのける。
「スパイ映画みたいに?」
「シノブちゃんだけに、忍びこんじゃう?」
「え?マジで?面倒なんだけど」
「まさか、ホントにやるんじゃないでしょうね」
「まさか、やらない……」
言ってシノブは振りかえり、横目でトビタを見る。あの男なら、やれと言いそうな気がする。
「おい、ちょっと、おい」
視線に気がついたか、トビタが呼ぶ。
「なんだよ」
シノブが面倒そうに答える。
「さっきから、ハッキングだのなんだのやってるけど、追跡とか大丈夫だろうな?オレは犯罪者になりたくないぞ」
半分犯罪者の刑事が懸念を口にする。それに答えてハッチャン、
「あら、大丈夫よ、どんだけ外国のサーバーを経由してると思ってるのよ。このネット回線だって、隣の漫画喫茶から拝借してるんだし、他にもいろいろと防御してるんだから。ナメないでちょうだい」
ハッチャンが心外そうに答える。
シノブはふたりの会話を聞きながら、考えをめぐらしている。めぐらしながら、ケットカットの小袋をあけ、中身を出そうとするが、うっかり指をすべらせてしまい、床に落としてしまった。
「あ、もう、もったいない」
言って、ケットカットを拾おうとしゃがんだ瞬間だった。
なにかが頭の上を横切った気がした。
ふと首をあげると……。
ハッチャンの首に一本スジがはいっている。その一直線に入ったスジから血が流れでた、と思うと、頭部がすべるようにしてずれる。
「!?」
ハッチャンの頭がごろりところがり落ちた。
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