4 記憶 (2)

 青年の刑事は、トビタ、と名乗った。

 トビタに連れられていったのは、マンションの一室で、そこにはすでにひと通りの家具もそろえられていた。

 ――結局はこうなるのか。

 と少女は暗澹あんたんたる気持ちになった。

 この刑事が私を助けたのは、しょせん、私の肉体からだを独り占めにするためだったのだ。純潔を奪うのがヤクザではなく刑事になっただけのことだ。きっとこれからずっと、私はこの刑事をなぐさめつづけなくてはならないのだろう。

 だが、トビタは、少女に何も要求しなかった。

 ――今日からここが君の家だ。

 と優しく言い、ベッドを指さしてささやく。

 ――さあもうおやすみ。これからは、なにも心配しなくていいんだよ。

 その夜、少女は熟睡した。あの日めざめて以来、はじめての深い眠りだった。

 トビタはその後、どこでどうしたのか住民票も手に入れ、女子高校にも入学させてくれ、保護者となって少女の面倒をみてくれた。

 名前もつけてくれた。


 キリュウ・シノブ。


 名前のない少女に名前ができた。

 それはまるで、青虫が蝶に変化するように、人でなかったものが人として生まれ変わった瞬間だった。


 シノブの生活が一変した。

 学校に通い、クラスメイトと世間話をしたり、下校途中にすれ違う男子高校生に熱っぽい視線を送られたり。

 コンビニでアルバイトもはじめた。愛想が悪いと店長に怒られたり、態度の悪い客に腹を立てたりするのも、なんだか楽しかった。

 トビタも時々様子を見に来てくれた。いっしょに食事にいったり、学校や職場での出来事を話しあったり。

 何気ない人との会話。何気ない人とのふれあい。

 人間の生活とはこういうものかと思った。その前の悲惨な一年が過去となり、光に照らされた未来ができた。

 シノブはトビタに感謝した。

 この人にだったら、すべてをささげてもおしくはない、と思った。

 が、思ったのが間違いだった。


 やがてトビタは自分の仕事にシノブを利用しはじめた。


 最初のうちは街での聞き込みや尾行の手伝い程度のものだった。刑事相手では警戒するような者でも女子高生相手ならば気もゆるめる。そこにはシノブが働くに値する必然性があった。

 しかしそれは、だんだんとエスカレートしはじめた。

 潜入捜査や囮捜査などの、違法すれすれの、いや完全に法規から逸脱した行為をシノブにおこなわせはじめた。キャバクラや闇カジノに潜入し情報収集をし、麻薬の売人の家に家出少女のふりをして転がりこみ証拠を探す。

 シノブがさんざん危険なめにあい、どれほど辛苦をかさねても、最後には、手柄だけを自分のものとする。

 友達と交際する時間もなくなり、アルバイトも辞め、シノブはだんだんと孤独になっていった。


 数ヵ月たち、トビタのために働かされ続けていたある日、シノブは泣いた。

 もうこんな仕事はしたくない。もう嫌だ、勘弁してほしい。

 涙をながして、シノブは懇願した。

 だが、トビタはにべもなく言う。

 ――もう一度、あんな生活に戻りたいのか。

 と。トビタに良心の呵責かしゃくなどという殊勝な感情などはない。ただシノブを下僕のように、ひたすらこき使うつもりなのだ。

 シノブはそのひとことを聞いた瞬間、なにかふっきれた気持ちになった。

 それならそれでいい。

 私もトビタを利用してやろう。この男が私の人生を食いつくそうというのなら、私もこの男の人生を食いつくしてやろう。


 探偵――という名称のなんでも屋もこのころはじめたことだった。

 トビタはだんだんと生活費をわたさなくなってきたので、働かなくてはならなくなった。

 マンションの家賃はいらなかった。

 これもこのころ発覚したことだが、トビタはマンションの大家の弱みをにぎり、恐喝するようにしてあの部屋を手に入れたのだった。住民票や高校の入学許可もそのような手段で入手していたとわかった。

 なので必要なのは、食費と光熱費と高校の授業料。

 いつトビタからの指示がくるかわからないので、会社や店では働けない。個人でなにかをするしかない。

 そこで思いついたのが、探偵だったのだ。


 そして、一年あまりのつきひが流れた。

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