3 記憶 (1)

 数年前のその日――。

 ハルハラ市は全域、霧につつまれ手探りでないと道を歩けないほどの、真っ白な闇がおおっていた。

 少女は、ふと気がつくと、夜の繁華街にたたずんでいた。

 これからなにをするべきか、自分が何者なのかもわからぬまま、霧のたちこめる街をさまよった。

 お金もない、身分を証明するものもまったくない。

 警察へ行って庇護をもとめるということは、なぜか念頭になかった。記憶をなくしていたためか、なにかしら忌避したい気持ちがあったからなのか、後年になって考えてもわからないことだった。

 やがて、空腹を覚えた。

 疲労も感じた。

 少女が意識を失いそうになり倒れかけた時、ひとりの中年の男が声をかけてきた。おなかの出っ張った、ずいぶんと頭の薄くなった中間管理職のサラリーマンとみえる、人よさげに微笑むそのおじさんは、少女の話をきくと、ファミリーレストランにつれていって食事をごちそうしてくれ、ひと晩の宿の手配までしてくれた。

 だが、男は帰らなかった。

 そのままビジネスホテルの一室に、少女といっしょに入ってくる。

 あたりまえという顔をして、行為を要求してきた。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう。

 少女は泣いた。顔ぜんたいを涙でぬらし、ゆるしをこうた。

 中年は、舌打ちしながらも、少女の肉体からだだけはあきらめたが、手で男のモノを慰撫することを要求した。

 少女は従った。

 それは、記憶をなくして隙間だらけの脳細胞に、一種の刷り込みのような効果をあたえたのだった。

 翌日から、少女はみずから男たちに声をかけるようになった。

 食事とひと晩の寝床とひきかえに、数分の奉仕。

 誘いかけた男たちのなかでただのひとりも、取り引きを断るものはなかった。たとえ最初は、そんなことはしなくていい、と毅然とした態度をとっていた男でも最後には結局、少女の行為を受け入れた。

 チンピラタイプの男やひどく泥酔した者は何をされるかわかったものではないので、マジメそうなサラリーマンや大学生を狙い声をかけた。時には同じ年齢くらいの学生も相手にした。

 数日、数週間とそういう生活を続けてくうちに、少女もだんだんと欲がでてきた。

 慰撫にプラスして、ひと晩の添い寝で五千円、お風呂で体を洗ってあげて五千円、胸をさわらせて五千円――。

 場合によっては数人を相手にして、たった数分、数十分でいい稼ぎを得ることもあった。


 その生活がまともだとは思わなかったが、かといって、不幸だとも思わなかった。

 少女に記憶がないといっても、厳密には断片的な記憶はあった。

 おそらく父や母であろう人の笑顔、ペットの犬との戯れ、学校での授業の光景。

 だが、それらの記憶がいつのものなのか、どこでのものなのか、まったくわからない。幸せだったという思いもない。くらべるものがないから、今が幸せなのか不幸なのかもわからない。

 過去を振り返ろうにも記憶がなく、未来にたいして胸をふくらませる希望も持たず、ただ、今を生きているだけの空虚な日々だった。


 そんなことを何カ月も続けていれば、街の人々・・・・の目にもとまる。

 ある日、あきらかにヤクザとわかる男たち数人に繁華街の真ん中で囲まれた。男のひとりが、よくもワシらの島で、とか、大目にみていたら調子にのりやがって、などと恫喝しながら、少女を数発、コブシで殴る。その男は、そんなに稼ぎたければウチの店で働いてもらおうか、とドスを利かせた声で言い、少女は男たちにひきずられるように連行された。

 少女は覚悟した。

 これからこの男たちに犯されるのだと。どんなに困窮しても守りつづけた純潔な部分を失うときがきたのだと。犯されて命が助かるなら、それもしかたないのだろう、と。

 男たちの真っ黒なリムジン車に連れ込まれそうになった時、ひとりのスーツ姿の青年が近寄ってきた。

 通りすぎる人々は、目をそらし、素知らぬ顔で歩き去るなかで、たったひとり、その青年だけが近寄ってきた。

 青年はふところから警察手帳をとりだすと、ヤクザたちを見くだすように微笑む。

 ヤクザたちは少女を青年刑事にむかって突き飛ばすと、車に乗って去っていった。

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