第36話 大理石の館 2

 サンデーの乳房に当てられた鋸に力が込められた、その時。


 ぞわり。


 吸血鬼の手に、違和感が広がった。


 見れば、サンデーに触れていた手が黒い靄のようなものに包まれている。


「何よこれ……!?」


 咄嗟に手を引こうとするが、万力で固定されたようにびくともしない。鋸を持った方の手も同様だ。

 見る間にその靄が手を伝い、腕までぞわぞわと這い登ってくる。


「ふふふ……」


 笑みを絶やさないサンデーの身体も同じように靄に包まれていく。


「くっ、何だ! 何をしているの!?」


 吸血鬼が叫びながら、逃れようと必死に体を揺さぶるが、離れるどころかますます飲み込まれる一方だった。


「何、何なの!? 貴方……貴様は一体何だ!!」

「只の観光客だとも」


 完全に余裕をなくした吸血鬼に向け、サンデーの口が大きく弧を描く。その顔も、やがて靄に沈んでいく。

 同時に吸血鬼の全身にも一気に靄が広がって行き、両者とも完全に真っ黒な人影と化した。


 しばし二つの人型をした闇の塊が、表面を揺らめかせながら立ち尽くす。


 やがて。


 闇の表面にびしりと亀裂が走り、一息にがらがらと剥がれ落ちていった。


 そして現れたのは、枷に繋がれた吸血鬼と、その眼前に優雅に立つサンデーの姿であった。


「な……何をした……いや、位置を入れ替えた……?」


 混乱しつつも、現状の把握に努めようと吸血鬼が呻く。


「そんな……有り得ない!! 枷の魔術遮断を打ち破るなんて……そもそも、こんな魔術は聞いた事が無い!」

「この広い世界には、誰も知らない事なんていくらでも有るとも」


 入れ替えるついでに着替えたのだろう、いつもの黒いドレスに戻ったサンデーが微笑む。


「くっ……しまった、変化ができない……!」


 吸血鬼と言えば、身体を霧に変えたり蝙蝠に変身したりという特殊能力を持つものだが、自らが語った通り、魔封じの枷によって魔力と共に封じられてしまったようだ。


 だとすれば、今目の前の女がやってみせたのは魔力による物ではないのか。手品だとでも言うのか。

 吸血鬼の顔が焦りに染まって行く。


「先程君は、自分でもその枷は壊せないと言っていたね。試してみたらどうかね?」


 吸血鬼はそう指摘されてはっとなり、両腕に力を込めて鎖を引っ張り始めた。

 ジャラジャラと鎖の擦れる音が響くが、自らが豪語した通りにびくともしない。


「うう……うああああああ!!」


 必死の形相で腕を引き絞る吸血鬼。


「ふふ、よく見れば可愛らしい顔をしている」


 その様子をサンデーが微笑ましいものであるかのように眺める。


「ほらほら、早く抜け出さないと、悪戯してしまうよ?」


 藻掻き続ける吸血鬼に、ゆっくりとサンデーが近寄って行く。


「くううう! 来るな! 寄るな!! 触るなぁぁ!!」


 吸血鬼の顔に怯えが浮かび始める。

 今や責める側から、責められる側に立った恐怖によって、美しい顔が無残に歪んでいた。


「君がいじめてきた娘達も同じように懇願したのだろう? 自分だけ逃れようとするのは虫が良くはないかね?」


 叫び続ける吸血鬼の顔へ手を伸ばすサンデー。


「ほうら、捕まえた」


 吸血鬼は下顎をがっちりと掴まれ、身動きが取れなくなる。


「君にはこれが一番効くだろうね」


 舌舐めずりをしたサンデーは、吸血鬼の顔を上向かせると、その唇に自分の唇を重ね合わせた。


「んん~!?」


 吸血鬼の目が限界まで見開かれる。

 次いで、唇を割り開かれ、サンデーの舌が侵入してきた刹那、彼女の脳髄から背筋にかけて電流が迸った。


 彼女の何百年にも及ぶ時間の中で、初めてもたらされる強烈な快感だった。

 生娘の血を啜る歓喜とも、獲物をいたぶる愉悦とも、そして性交の快楽とも違う。


 全く未知の猛烈な悦楽。


 それが流し込まれると同時に、彼女の身体から大事な何かが抜け出て行くような奇妙な感覚を得る。それすらも心地良い。


 サンデーの舌が口内を蹂躙する間、快楽の波は果てが無いかのように大きくなり続けて行った。


 どのくらいの時間が経っただろうか。

 サンデーがゆっくりと唇を離すと、一筋の涎が顎を伝っていった。


「ふふふ……ご馳走様」


 それを舌で舐め取ると、今まで唇を貪っていた相手を見下ろした。


 先程の美女はどこにもいない。そこには白髪を振り乱した、搾りかすのような醜い老婆が項垂れていた。


「君が貯め込んでいた命と魔力は貰い受けたよ。あのワインにも勝るとも劣らない、なかなかの美味だった」


 ハンカチを取り出して改めて口元を拭い、サンデーは言葉を続ける。


「今君の中にある命は一つ。君自身の物だけだ。つまり、ただの人間に戻った訳だ」


 その言葉を受けて老婆の目に絶望が浮かぶ。もごもごと口を動かすが、言葉にならないようだ。


「さて、君の処遇は後で考えるとしよう。まずは助手君を迎えに行かなければね」


 そう言い置くと、サンデーは踵を返し、老婆には目もくれずに部屋を後にした。


 後にはみすぼらしい老婆が嗚咽を漏らすばかりであった。

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