第七夜    浅き夢見し酔いもせず


 座頭橋先生によって作られたこの悪夢からの脱出を試みる僕らだったが――それよりも、この世界の崩壊が先だったようだ。空間がまるで卵の殻のように徐々に剥がれ落ち、その隙間から、それとはまた違った景色が顔を覗かせた。

 その隙間から見える景色は……、なんだか見たことがある。これはついさっき……、いや、正確にはどれくらい前なのか分からないが、まだまだ記憶に新しい景観だ。……至って普通の家並みに混じって、一軒だけ異様な雰囲気を放つすまいがあるこの場所は――僕が、座頭橋先生に刺された場所そのものだった。

 ――このままではまずい。頭で考えるよりも先に体が身の危険を察知して、自然と走るスピードが速くなる。

 聞けば、篠倉は昇降口からこの悪夢に這入ってきたらしい。それならば、おそらくそこがこの悪夢の出口となっていて、集団的無意識――他の夢へと繋がる入り口になっているはずだ。

 昇降口に向かって、一目散に駆ける僕ら。といっても、篠倉が全力疾走すれば僕など到底追い付けないので、ペースはある程度僕に合わせてくれてはいる。しかしそのおかげで、僕ら二人がこの世界から抜け出すのはほとんどギリギリになりそうだった。

「急げトミシ! ここに取り残されると……、おそらくヤバいぞ!」

 篠倉は僕の手を引いて走り、後ろを振り返って僕に声を掛ける。

 足場の悪い中、篠倉は器用にそのままの体勢で走り続けるが、僕の方には篠倉の声掛けに反応する余裕もなく、ただひたすらに足を動かすだけだった。

 僕らのあとから、雪崩の如く迫る悪夢の崩壊。それがついには僕らを取り囲み、逃げ場はパズルピースのように取り残された昇降口だけだ。

「くそっ……! 間に合えぇぇぇぇ!」

 篠倉は歯を喰いしばり、なんと僕を片手で持ち上げるようにして無理やり引っ張った。

 そして、玄関扉の取っ手を掴もうともう片方の腕を限界まで引き延ばす――が、彼女が手を握った瞬間、タッチの差で……扉は霧散してしまった。これで悪夢は完全に崩壊し、新たに姿を現した世界が、最期に残された床のタイル一枚までも浸食する。……どうやら、僕らは脱出に失敗したみたいだ。

「……すまん。あと一歩遅かった……」

 アスファルトで舗装された路地の上にペタリと座り込んで、篠倉は、その隣で仰向けに倒れている僕に詫びた。

「いや、お前は悪くないよ篠倉。むしろ……ある意味ではこの方が良かったのかもしれない」

「え?」

 僕はズボンについた砂利を払いながら、おもむろに立ち上がる。それから、辺りをざっと見回してみた。

 やはり間違いない。ここは、座頭橋先生の夢の中だ。「手元に置いておきたい」という先生の言葉の通り、彼女は自分の夢の中に悪夢を作り、そこに僕を閉じ込めたわけだ。

「お前のおかげで、今はもう覚悟ができている。状況的にもう後に引けないというのなら、このまま先生と最後の決着を付けようじゃないか」

 言うと、意外にも篠倉は、僕の提案を小さく笑って受け入れた。

「そう……か、まぁそれもいいだろう。それだけは誤魔化しも後回しにもできないことだからな。君がそう言うのなら、私に異論はないよ」

 正直篠倉には反対されるだろうなと僕は思っていたので、重ねて言うが、これは意外だった。

 僕ら二人だけで、どうやら相当な手練れらしい先生とまともに戦えるかといったら当然厳しいだろうし、覚悟ができているというのも、それはあくまで僕だけの話だ。篠倉には、まだ心の整理も踏ん切りもついていないだろうなと、僕はそう思っていたのだが……。

「トミシ。私はな、これでもかなり怒っているんだぞ」

「……へ? 怒ってるって……、僕にか?」

「違う違う。座頭橋先生に対してだよ」

 そう言って手を差し出す篠倉を、僕はよいしょと引き上げる。すると篠倉は「ありがとう」と一言礼を言ってから、続けた。

「私も君から実際に話を聞けるまでは実感が湧かなかったが……。彼女は私の大事な親友の傷を抉っただけでなく、那須美君や野々宮さんを初めとした、城野高のみんなの心を自分の思うままに弄んだ。……決して許されるべきことじゃない。いや……違うな。何が良くて何が悪くて、許すとか許さないとか――そういう倫理感は問題じゃない。トミシに那須美君に野々宮さん、それに……こんな私に声をかけてくれるクラスメイト、城野高のみんな。君たちは、今の私にとって全て、私がここに在る理由なんだ。過去に一度、それを失った私からまた奪おうとした彼女を、そのまま黙って見過ごしてやるはずがない。彼女に一発入れてやるまで、私の気は絶対に収まらん」

 篠倉は拳を強く握り締める。一見、彼女の表情はとても落ち着いているように見えるが、その瞳の奥で、静かな闘志がゆらゆらと燃えていた。焼きつくような怒りの感情、それは全身を駆け巡り、頭のてっぺんまで絶え間なく登ってくるはずだ。しかし篠倉はそれをすんでのところで抑えつけ、あくまで頭の中はクールなまま。そして湧き出る怒りの感情をコントロールして、自分のエネルギーに変換しているんだ。

 ……頼もしい限りだ。この様子なら、きっと篠倉が不足をとるようなことはまず無いだろう。あとは僕自身が、どれだけできるかだ。

「……じゃ、お互い決意を確かめあったところで、そろそろ行くか」

「そうだな。……しかしどうする? どうやら座頭橋先生はすでにこの場所から立ち去っているようだが」

 篠倉はくるりと体を翻し、辺りを見回して言った。

「何となくだけど、おおよその見当はつく。……たぶんこっちだ」

 別に根拠があるわけじゃないが、推測じゃない分、だからこそ信用に足る。

 どうしてそれを篠倉が知り得たのかは分からないけれど、彼女によれば、僕のビジョンは絆を作ることだと言う。絆とは、互いを繋ぐ綱だ。だったら片方がそれをたどっていけば、自然ともう片方と鉢合わせる。

 僕は先生にどれほどひどい仕打ちを受けたか分からないが、だけど絆ってのはそう良い意味ばかりでもないだろう。因縁や腐れ縁だって、立派な絆だと僕は思う。そういった意味では僕と先生は、もう十分なくらいに絆ができあがっているはずだ。

 ここ数ヶ月――あの特別教室での会話が、まるで意味をもたない空白の時間だったのなら、この先に先生はいない。しかし、それが例え欺瞞だったとしても、先生はただ僕のことを騙しているにすぎなかったとしても、それが少しでも僕らにとって意味のあるものだったのら、僕らは引かれ合うはずだ。……がんじがらめに纏わりついた因縁が、僕らをとって離さないだろう。



 見慣れない団地の中をしばらく歩くと、目の前に小さな公園が見えてきた。

 すっかり錆びきって茶色くなった鉄棒に、ところどころ色褪せた赤色の滑り台。そして公園の奥にある古ぼけたブランコには、こちらに背を向ける形で誰かが座っている。少し揺れるだけで痛々しく軋むそれを、小さく控えめにこぐ女性。後ろ姿ではあるが、もはや間違えようもない――座頭橋先生だ。

 先生は振り向きもしていないのに、公園に入ろうとする僕らの存在に気づいたみたいだった。そのままこちらを見もせずに、近付いてきた僕らに声を掛ける。

「……また来たんだ、君。しつこいね」

 まるで機械が喋っているかのような、極めて無機質な声音だった。

「どうやって私が作った悪夢から抜け出したのかは……、聞くまでもないか。きっと篠倉さんが君を連れ出したんだろうね、してやられたよ」

 小さくため息を吐きながら、先生はやれやれと立ち上がる。先生の反応が、僕が想像していたよりもずっと素っ気なかったので、それが逆に気味悪かった。

「座頭橋先生」

 ふいに、篠倉が先生の名を呼んだ。

 そして篠倉は、そのままつかつかと先生の元へと歩いて行く。

「おい篠倉、あまり不用意に近付くのは……」

 僕の制止も聞かずに、篠倉は無言のまま歩き続ける。そして先生の目の前でまでやって来ると、そこで立ち止まった。

「私はあなたに言いたいことがある」

「そう。私は別にあなたから聞きたいことなんてないけど」

 篠倉の、威圧のこもった眼差しを、先生はさらりと受け流す。まるであなたなんて相手にしていないとばかりに、余裕の表情で薄ら笑いを浮かべていた。

「……自分を慕ってくれている生徒たちで、憂さを晴らす気分はどうだった?」

「なんだそんなこと」

 先生は篠倉を嘲るように、はっと息を漏らす。まるで、そんなことは愚問だとでも言いたげに。

 そして――そして先生は、いたずらっぽい視線を僕に送る。僕にはそれが何の合図かいまいちピンとこなかったけれど、しかしその答えはすぐにはっきりした。

 先生は、彼女の篠倉の耳元でわざとらしく挑発するように、脳にねっとりと纏わりつく声で言ったのだ。

「胸がすくような気分だったよ、篠倉さん。……今ここであなたを殺して荻村君を奪い返せば、きっとそれ以上の快感が得られるでしょうね。想像するだけでゾクゾクしちゃう」

 先生が言い終えるのとほぼ同時に、篠倉が彼女の胸ぐらをがっと掴んだ。そして乱暴に前へ突き押すと、無言のまま拳を振り上げる。

 ――篠倉の鉄拳が先生の顔面に炸裂する寸前、先生の前髪がなびき、彼女の焼き爛れた肌が篠倉の目に入ったようだ。篠倉は思わず躊躇い、一瞬体が硬直してしまう。

 その隙を、先生は逃さなかった。

「――ぐっ」

 先生は篠倉の腹をまるでサッカーボールのように強く蹴り上げた。そしてそのまま勢いを殺さず、逆足での追撃。衝撃で頭の下がった篠倉の顔面を、先生は左回し蹴りで的確に狙った。

 右腕全体を上手く使って、辛うじてこれをガードすることができた篠倉だったが、後ろに大きくよろけてしまう。しかし今度は先生の追撃を許さぬように、すかさず篠倉は、斜め後ろに大きくバックステップして先生との間合いを取った。

 ……最初の一撃がよほど効いたようだ。見ると、篠倉は繰り返し小さくせき込みながら、片手で自分の腹を擦(さす)っている。

「いきなり殴りかかってきて恐いなぁ……。いくら私でもあなたに殴られたらただじゃすまないんだよ?」

「黙ってろ!」

 先生の軽口を一喝して、篠倉は彼女に向かって行った。

 ミサイルのような前傾姿勢から、全体重を乗せた正拳突きが繰り出される。しかし先生はそれを難なく躱すと、続く二撃目のフックも三撃目のアッパーカットも体を器用に捻ってゆらりと捌く。おまけに最後に放った上段蹴りは、後ろに一歩半ほど下がられたことにより紙一重で直撃を避けられ、空振って勢いの失ったところを掴まれてしまう。……もはや今の篠倉は、隙だらけだった。

「そんなに動きの大きな技使っちゃダメだよ。ほらね、簡単に捌けちゃうんだから」

 言いながら、先生は篠倉の足を握る力を強める。指の頭が半分ほど隠れてしまうぐらいに喰い込ませ、見ているだけでも痛々しい。

「……だから黙ってろと――」

 ――しかし篠倉は、その掴まれた右足を軸にして体を大きく回転させ、

「言っているだろうが!」

 そう叫ぶと同時に、先生の首の後ろ辺りに延髄切りを喰らわした。

 プロレスラーも顔負けなぐらいの美しいフォームに、篠倉持ち前の身体能力が重なって、

先生が数十メートル先にぶっ飛んでしまうぐらいに凄まじいものとなった。

「篠倉! 無事か?」

 衝撃で舞い上がった砂塵を掻き分けながら、僕は篠倉の傍へと駆け寄った。

「何、私は別にどうってことないよ。足を取られはしたけれど、反撃は受けていないから。……そしてたぶん先生も、たいしたダメージは負ってないと思う。あの身のこなし、少しやりあっただけでも分かる。彼女は相当な手練れだ。そう簡単にやり過ごせる相手でもないだろう」

 篠倉は、先生が飛ばされた方を見やった。公園の土壌が捲りあがり、そこに窪みができている。周囲の木々は倒れ、先ほど先生が座っていたブランコは、地震に呑まれたビルのように倒壊していた。

 いったいどれほどの力で蹴れば、こんなことになるのだろうか。これでまだ先生はKOされいないというのだから、戦いのレベルがとうとう化け物じみてきている。

 目を凝らしてもう一度、先生の様子を探ろうとするが、ちょうど窪みの影になっていてよく見えない。

 ――注視していると、視線の先で何かが光ったような気がした。

「っ……? 伏せろ篠倉?」

「きゃっ……!」

 咄嗟に僕は篠倉の肩を抱き、彼女を自分の体で庇うようなかたちで、真横へ大きく飛んだ。

 僕らの頭上ギリギリのところで、何かが猛スピードで通過する。跳躍から着地までの一瞬の間に、こちらへ迫るその物体の正体を、僕は確かに見て取った。

 それは――刃(やいば)だった。横幅四、五センチほどのカッターナイフの刃が、僕ら二人を貫こうとまるで槍のように伸びてきた。しかもこの場合の『伸びた』というのは、こちらへ向かってきたことの比喩表現でもなんでもなくて、カッターナイフの刃渡りが物理的に伸びたということだ。

 ――それは、僕たちを刺し損ねるとやがて収縮し、来た道を戻る。その動作を目で追った先には、先生が、こちらに向かってゆっくりと歩を進めていた。

 刃は左右へ暴れながら、先生の手元へパチンと収まる。その動きから掃除機のコードを連想したが、そんなくだらないことを考えている場合ではなかった。次なる一撃を加えようと、先生はすでにカッターを握ったその手を振り上げていたのだ。

「こっちだ篠倉!」

「お、おいちょっと!」

 僕は篠倉の腕を引っ張り上げ、ほとんど無理やりに立ち上がらせる。そして、公園の入り口に向かって思いっきり走り出した。

「トミシ、なんで逃げるんだよ! あの人から離れちゃ、こっちが攻撃できないだろ!」

「だからってこんな逃げ場の無いところで戦うことないだろ!」

 この公園は、ちょうど僕の背丈ぐらいのフェンスが四方を覆っている。おまけに遮蔽物も少ないから、遠距離攻撃ができる相手と戦うにはとてもじゃないが分が悪い。この理不尽なまでのリーチの差を覆すには、一度公園を出て住宅地に紛れ込み、上手く建物を利用して隠れながら先生に接近するしかないだろう。

 その為にはまず、ここでは回避に専念して先生の攻撃をかいくぐり、この公園たった一つの出入り口を目指す他にない。

「ええいちょこまかと……、逃がさないんだからぁ!」

 やろうと思えば公園の端から端までゆうに届くであろう刃を、先生は木々を薙ぎ倒しながらぶんぶんと振り回す。

 それを僕らはしゃがんだり飛び跳ねたりして何とか躱すのだが、それに精一杯でちっとも出口に近づけない。

「ああ……、もう! しゃらくさないな! 止まれトミシ!」

「……え? あっ、おい危ねぇ!」

 篠倉は、僕と繋いだ手を無理やり後ろに引っ張った。その所為でバランスを崩した僕は、足をとられ、危うく頭から転倒しそうになる。

 しかし次の瞬間に篠倉は――

「どりゃああああああ!」

 後ろに引く力の反動を利用して、今度は大きく高らかに『僕』を前へと振り上げ、そのまま手を離したのだ。

「――へ?」

 篠倉の怪力になすがままの僕は、当然空中に浮きあがる。

 高さにしておよそ五メートル強。重力をその身で真っ向から受けた僕は、突然のことに声も出ない。ただ自分が落下していることだけは理解し、手で頭を庇い受け身をとる。そして僕は目を瞑り、ある程度の痛みと負傷を覚悟した。

「あらよっ、と」

 どすっ、と。落下する僕の体を、何かが包んだ。おそるおそる目を開けると、目の前に、篠倉の顔がある。

 ……僕は、篠倉にお姫様だっこをされていた。

「よし! このまま行くぞ!」

 僕が腕の中にすっぽりと完全に納まるよりもちょっと先に、篠倉はその場から走り出す。そして後ろから迫りくる刃を小細工なしに速さだけで回避して、目指すは一点。真っすぐと公園の出口へ駆ける。

「おい篠倉……、いくらなんでもこの格好は……」

「この方がどう考えても効率がいいからな、仕方ない。君に気遣って走る必要もないしな」

 それはまぁ……、納得できるんだけど……。完全に男女逆となった今のこの状況は、情けないやら不甲斐ないやらで何ともやりきれない。

 それを誤魔化すために僕は、何とか自分にできることを探しだす。この状態の僕にもできることは、一つ。後方確認だ。篠倉が回避に専念する間、僕が彼女の目となろう。

 僕は背中を少し反らし首を傾け、篠倉の背中ごしに後ろを覗いた。

 後方では、先生が眼を血走らせて笑っている。

「逃げ足だけは速い……。だったら、まずはその足から切り落としてあげる!」

 今までよりも低い姿勢でカッターを水平に振り上げる先生。おそらくその言葉の通り、篠倉の両足を真一文字に両断するつもりなのだろう。

「篠倉、ローを狙われてるぞ!」

「りょーかい! しっかり掴まってろ!」

 篠倉は快活に返事をする。それと同時に、篠倉の足の回転が少し遅くなった気がした。

「いーち、にぃー、さーん、しぃー……」

 一歩ずつ、テンポよくリズムを刻んでく共に、篠倉の歩幅は段階を踏んで徐々に大きくなっていく。

 そして――五歩目。篠倉の右足が地面についた途端、その足が折りたたまれ、腰が深く落とされる。

「――ごっ!」

 掛け声とともに、篠倉の体がさながらロケットのように射出された。

 空気を切り裂きながら、僕らはほとんど真上に上昇する。さっき篠倉に投げられたときの何倍もの重力が僕の体にのしかかり、僕は顔を動かすこともできないぐらい全く身動きが取れない。急激な気圧の変化で耳が痛くなるほどだった。

 ただそのおかげで先生の斬撃は僕らの遥か下方を通過し、一瞬だけではあるが、彼女の視界から離脱する。そのまま公園の出入り口を跳び越えるのも容易だった。

 篠倉は自転車をこぐように空中を足でかきながら、向かい正面の家の屋根に着地する。

その衝撃で「おっと、っとと……」と少し前に倒れそうになり駆け足になるが、なんとか体制を持ち直した。そしてそのまま篠倉は足を止めずに、忍者のように家から家へと飛び移って先生と距離をとる。

「これだけ切り離せば、私達に追いつくことは容易ではないはずだ。あとは落ち着いてゆっくり作戦を練――」

 ――ろうと、篠倉が言おうとしたその矢先、足元が大きく振動した。僕を落とさないように両足で踏ん張りつつ、篠倉は何事かと後ろを振り返る。

 僕らの視線の先では――家々が、次から次へと倒壊していた。いや、この場合は切断されていたと言った方が正しいのだろうか。縦何列かに家屋が並んだこの住宅地。それがある動点を中心にして、前も後ろも右も左も関係なくその周りにあるもの全てが、まるで豆腐か何かみたいにすっぱりと両断されていく。

 そしてよぉく目を凝らして見てみると、その中心から、何本か触手のようなものが生え出ているように見えた。それは不気味にうねうねと蠢きながら、ムチの如くしなることで辺りを切り裂き散らす。おそらく僕らを探し出すために、辺り構わず攻撃しつくしているのだろう。

「ってか、あれ……僕の目がおかしくなければ、先生の体から生えてるように見えるんだけど……」

「奇遇だな、私にもそう見えるよ」

 僕らと先生の間にはまだ距離があったし、飛び散る瓦礫が邪魔してみえづらかったし、そもそもあれを先生の一部とするには――あまりにも不自然で、不気味だったから、いまいち自分の目を信じられなかった。しかし今篠倉と意見が合致したことで、やっと得心いった。

 ――おそらく先生は、自分自身の体に検閲の力を使っている。

 先生の背中からまるで別の生き物のように生えているそれは、よく見るとカッターナイフの刃。体の一部を変化させて触手を作り出し、彼女はそれを自由自在に伸縮させながら振り回しているのだろう。

 全部で八本の触手をバラバラに操る先生のその姿は……、もはや紛うことなき化け物だ。かつての先生の面影を残しながらも、人間離れしたその風貌――僕は、体の底から這い上ってくるような恐怖を隠し切れない。

 それを察してか、篠倉は僕に同調した。

「あそこまでなると……、もう夢魔と何ら変わりはないな。いったい何に憑りつかれればああなるのか……」

 篠倉の表情には恐怖よりや驚きよりも、どちらかというと憐れみの色が強かった。

 人の道を外し、人の姿を失った先生――彼女が何に憑りつかれているのかと言えば、それはもちろん悪夢に違いない。篠倉は先生の姿を夢魔と重ねたらしいが、それも無理はないだろう。夢魔は人の夢を壊し、貪り、支配する。それは今、先生がしているのと全く同じことだ。

「……思わず立ち止まってしまった。あの人に見つからない内に、さっさと身を隠そう」

 篠倉は先生から目を背けると、その場からいち早く立ち去ろうとする。しかし僕の方はそうともいかず、先生から未だに目を離せずにいた。

 ――おそらくそれがまずかったのだろう。たぶん先生は、そこから僕の気配のようなものを感覚的に受け取ったのだ。飛び交う刃、舞い散る瓦礫、僕らの間を防ぐ幾層もの網目をくぐり抜けて、僕らの視線が交わる。

 僕と先生の、目が合った。

「みーつけた♪」

 ――ゾクッと、体温が一気に下がったような気がした。

「走れ篠倉? 見つかった?」

 篠倉は僕の言葉に反応するよりも先に、先生が動いた。

 先生は、先生と僕らのちょうど中間くらいにある家に触手を二本射出した。そして屋根に突き刺さった触手をアンカーのように高速で巻き上げることで、屋根の上まで一気に飛び上がって近づいてきたのだ。

「速っ……! まずい、うかうかしているとすぐに追いつかれるぞ!」

 慌てて振り返り、走り出す篠倉。僕という錘を抱えているにも拘わらず、初速からトップスピードで疾走する。

 篠倉の足なら先生を切り離すことも難しくはないだろう。そう思っていたのだが、しかし後ろをみると、さほど距離感は変わっていない。それどころか、先生は射出と巻き上げを繰り返すことで篠倉同等の高速移動を行い、徐々にこちらとの距離を詰めている。

「ふふっ……、いつまでそうやって逃げていられるかなぁ?」

 先生は残り全ての触手を、僕らに向けて放った。六本の触手は螺旋を描き、まるで別の生き物のように僕らに襲い掛かる。

 高めの位置から斜めに突き下ろされる触手を、篠倉はとにかく全力で走りきることで躱す。一本――二本――三本――と、躱した触手が僕らの背後に突き刺さっていき、そして最後の六本目が僕らを仕留めようと伸びたのを見計らって篠倉は――

「舌を?まないように気を付けろ!」

 ――屋根の上から飛び降りた。

 全ての触手を伸ばしきった先生は、一度それらをある程度の長さに収縮させる。いくらなんでも屋根に突き刺さって固定された状態では、さっきのように触手を自由自在に振り回すことは困難だからだろう。

 その隙に篠倉は、向かいの住宅の庭の中へと駆けこむ。

 そしてその庭の塀をジャンプで越えて、僕らのいた場所から更にもう一本向こうの路地へと逃げた。

「追ってくる気配は……、無いな。まいたのか?」

 後ろを向いて確認するが、先生の姿は見当たらない。最初の作戦通り、建物の中に紛れ込んだことが功を成したのだろうか?

「よし! だったら今度はこっちの番だ。このまま上手く身を潜めながら後ろをとろう」

 篠倉がそう言った矢先、僕らの頭上から、声が聞こえてきた。

「――それで隠れたつもり?」

 見上げるとそこには――先生。先生は触手を地面に突き刺しそのまま天高く伸ばすことで、上空まで自分の体を持ち上げている。そうすることによって高所からこの住宅街を俯瞰し、僕らを見つけ出したのだ。

「鬼ごっこはもうやめにしましょう。……ここは私の夢の中なんだから、どこへ逃げようが同じことだよ」

 先生は冷めきった表情で言うと、支柱にしている触手を地面から引き戻す。そして先生は落下しながら、全ての触手を翼のように展開すると共に根元から枝分かれさせて、その数とと大きさを増大させた。

「じゃ……、さようなら」

 先生が小さく呟くと共に、刃の雨が、僕らの真上から降り注いだ――


 

 息を小刻みに吐きながら寝返ると、背中がやたらゴツゴツした――

 ゆっくり目を開けて、僕は何とか鉛のように重い身を起こす。額がやけにべとりとするのがうっとうしくて片手で拭うと、なんと手の平が真っ赤になってしまった。

 ……そう言えばさっき僕らは、辛うじて触手に切り裂かれることはなかったものの、頭上から崩れ落ちてくる瓦礫の残骸に呑みこまれてしまったんだった。致命傷を免れはしたが、少し体を動かすだけで全身に痛みが走る。体中、傷だらけだった。

 僕はすっかり瓦礫の山と化した辺りを見回し、篠倉の姿を探す。僕が瓦礫に呑みこまれたということは、当然僕を抱えていた篠倉もそのはずだ。きっと近くで倒れているに違いない……。

「あら、まだ生きてるんだ。君もいい加減しぶといねぇ」

 僕がその場から動こうとした途端に、後ろから誰かが声を掛けてきた。

「篠倉さんなら、ほら、ここだよ」

 その声の主は――案の定、座頭橋先生だった。そして先生が視線で示したその先には、篠倉が、先生によって足蹴にされている。

「……篠倉? てめぇ? 今すぐその足をどけろ?」

「わー怖い怖い。君でもそんな乱暴な言葉を使うんだねぇ。先生、思わずブルっちゃったよ」

 先生はわざとらしく身を竦め、おどけ調子で言ってみせる。

 それは――僕らなどまるで相手にならないと、嘲笑っているようでもあった。

「うぐぅ……。こ、このっ……!」

 篠倉は全身を使って必死にもがこうとするが、ビクともしない。篠倉のパワーを押さえ込むほどに先生の力が圧倒的なのか、それとも今の篠倉にはもはやそれほどの体力も残されていないのか――篠倉は成す術(すべ)も無く、地に伏せる。

「待ってろ、今助けてやる!」

 僕は足元に転がっていた細長い鉄くずを拾い、瞬時にそれを刀に変えて先生に向かって突進する。

 しかし先生は顔色一つ変えず、傍にあった巨大な瓦礫を触手で持ち上げると、それを僕に目掛けて投げ飛ばした。

「……! まずっ――」

 初めから直撃させるつもりはなかったのか、瓦礫が僕に直撃することはなかった。だけれどそれは僕の目の前に落下し炸裂したものだから、その衝撃と飛び散る破片よって足止めされてしまう。

「……思えば、この子には最初から最後まで随分と邪魔立てされたねぇ。荻村君の周りをずっとちょろちょろ……、不愉快ったらない」

 先生は、篠倉の頭をぐりぐりと、更に強く踏みつける。

「ぐあっ……! がっ……」

「……だけどそれも今回でお終い。あなたには、夢すら見ることのできない永遠の眠りに就かせてあげる」

 おもむろに、篠倉のうなじに触手をあてがう先生。そして、弄ぶように篠倉の肌を刃で撫でてから、一気に振り上げた――

「篠倉っ……?」

 ――思わず、目を伏せてしまった僕。

 できることならこのままずっと目を瞑ったままでいたかったが……、そうはいくまい。 嫌な想像は全く尽きることがないけれど、だからといってそれから目を背けてしまえは、篠倉にも背を向けることになる。それは危険を冒してまで僕のことを助けてくれた彼女への、一番の裏切り行為だろう。篠倉美鷹の『親友』として僕は、彼女がそうしてくれたように、例えいかなるときでも彼女と向き合う義務がある。

 僕は篠倉が何かの拍子で奇跡的に助かっていることを祈り、固く閉ざした瞼をゆっくりと、おるおそる開いていった――

 奇跡は――起きた。

 触手は振り上げられたまま、最初の位置から動いていない。篠倉の方も、全身のどこにも傷は見当たらなかった。

 僕はほっとして全身の空気が抜けるほど大きなため息をつくのだが、しかしそれと同時に、ある疑問がはたと浮かぶ。当然その疑問とは――なぜ篠倉は助かったのか、何が先生の行動を妨げたのか、だ。

 それによっては、この状況を打破するきっかけになるかもしれない――そう考えて僕は、視線を篠倉から先生の方へと移す。見ると先生の右手には、何と『矢』が握られていた。

 おそらく先生が篠倉を貫く直前に、あの矢が彼女を狙ってどこからか飛んできたのだろう。だがその気配を察した先生は、矢の命中よりも先にそれを掴みとって防いだ。その結果、先生の注意は篠倉から離れてしまったのだ。

 ――矢。この状況、このタイミングで矢といえば、その射手はもうあいつの他に考えられないだろう。

 先生は矢が飛んできた方向をじっと睥睨して、低い声で呟いた。

「野々宮……扇」

 掴んだ矢を片手でバキッと折ると、先生は随分と苛立った様子で舌打ちをした。

 短く納められた触手が少しずつ開いていき、その切っ先を野々宮の方に向ける。明らかな攻撃体勢だが、そのときにはすでに、野々宮は弓を引いていた。当然先生の初動よりもずっと先に、矢が放たれる。

 先生は咄嗟に攻撃を中止してそのまま素早く矢を斬り落とすのだが、無理に攻撃の構えから防御に移った所為で、物理的にも精神的にも窮屈になって少しの『ズレ』が起きた。体の重心が左前方に偏り、右足が少しだけ浮いてしまう。それによってバランスを崩した先生は、前に半歩ほどよろめいたのだ。

 篠倉の頭から――先生の足が離れた。

「もらった!」

 篠倉は俯せの状態からほとんど逆立ちするように両足を高く上げ、それで先生の首を挟み込む。そしてその状態から下半身を折り曲げ先生を持ち上げると――

「でりゃああああああ!」

 篠倉は両足を大きく旋回させて、その勢いで先生を思いっきり投げ飛ばした。

 無警戒な相手から無防備な状態を狙われて、先生はまるで抵抗なく吹っ飛ぶ。そしてその先にあった家屋に激突し、その衝撃で崩れ落ちる外壁に埋没した。

「篠倉さん! 大丈夫?」

 篠倉が先生から解放されると、野々宮は急いで彼女の元へ駆けつけた。僕もそれに続いて、篠倉の傍まで走って行く。

 未だに呼吸乱れている篠倉の肩を僕らは支えて、二人で彼女を立ち上がらせてやった。

「はぁ……はぁ……、はー……。……野々宮さん、君がなぜここに?」

 篠倉は息を落ち着かせながら、野々宮に尋ねた。

「白日さんに、あなたが無事、荻村君を悪夢から連れ戻したって聞いたのよ。でも今度は座頭橋先生に遭遇してしまって、二人が大変な目にあってるらしかったから……、いても経ってもいられなくて」

「でも野々宮さんは……、まだ気持ちの整理がついてないって」

 篠倉の言葉に、野々宮は黙って首を横に振る。

 それから、僕と篠倉の顔を見比べて言った。

「確かに初めはそうだったけど……、篠倉さんが荻村君を助けに行っている間、二人の寝顔を見ていたらふと思い出したの。あなたたちが、私を悪夢から救ってくれたとき――二人は、それまでたいして関わりの無かった私を、危険を冒してまで助けてくれた。余計な理屈は二の次三の次、ただ目の前にいる困った人を助けたいという一心で、私に手を差し伸べてくれた。だったら私も、それに報いるべき。……先生が一連の事件の犯人だったとか、白日さんが何者なのかとか――そんなものは、あなたたち二人を助けることに比べたら取るに足らないことよ。いつまでもうじうじと悩んで手をこまねくのは、馬鹿らしいわ。……今更だけどね」

 だから――と、野々宮は続ける。

「私も一緒に戦うわ。篠倉さん、荻村君」

「……そうか。分かった」

 篠倉は頷くと、先生が飛んでいった方を睨む。

 野々宮さんの覚悟を確かめたことで、自分の気合もより一層強まったのかもしれない。野々宮の眼力が、今まで以上に力強くなっていた。

「……来るわ。二人とも、準備はいい?」

 僕らが無言で応じるとすぐに、先生が自分に覆い被さる瓦礫を掻き分けて立ち上がってきた。それなりに距離があるのでよく聞こえないが、小声で何かを繰り返し呟いている。

「……ろす。……ころす、ころすころすころす殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す――」

 ――刹那、先生の周囲にあるいっさいのもの、電柱、街灯、車、その他残骸などが、一瞬にして細切れになった。

「――私をこんなに痛みつけて……許せない。あんたたちだけは絶対に……、殺してやる?」

 先生が手を振りかぶると同時に、先生の背中から全ての触手が飛び放った。

 こちらに向かって真っすぐに突っ込んでくる触手が、空中で絡まり合い一本の強靭な束となって、僕らの真正面から襲い掛かる。

 それが僕らにぶつかろうとする直前、先生は叫んだ。

「三人とも、ミンチにしてやるわ?」

 この大きさとスピードでは、もはや僕らに逃げ場などない。先生の言葉通り、触手が僕ら三人を切り刻むかのように思えた。

 しかし――

「どっこい、三人じゃないんだなこれが」

 突如、僕らの前にさっと人影が現れ、そいつは両腕を大きく広げて僕らを庇った。

 刃の束はそいつの体に傷一つ付けることなく全て弾かれ、その刀身をボロボロにして先生のところに戻っていく。

 先生の攻撃から僕らを守った人物――那須美誠一は、肩に担いだ金棒越しに僕の方を見流して、何とも軽い調子で声を掛けてきた。

「よっす荻村。すっかり元に戻ったみたいで安心したぜ」

「那須美……、なんでお前までここに……」

「何言ってんだよ、ここまできて俺だけ仲間外れはねぇだろ。俺たちは今までずっと一緒に戦ってきた仲間なんだから、四人いなきゃシマんねぇじゃねぇか!」

 那須美は快活に笑って、僕の背中をバシンと叩く。

「おいおい那須美……、分かってんのか? 事はそんなに甘くないんだぞ? 今までとは比較にならないぐらい危険だし、その上相手は座頭橋先生ときてる。お前はそれを理解して――」

「おうともよ。そんなことは百も承知だぜ」

 僕の言葉を遮って、那須美は言い切った。

 よく見ると、那須美の手は震えている。全身に冷や汗をかき、一見おどけているように見えてその眼差しはいつになく真剣だ。……こいつもこいつで、ここにくるまでの葛藤があったのだろう。それでもいつもの陽気な振る舞いを崩さないのは、心の底から湧き出てくる不安を抑えつけているからなのだろうか。

「……そうか。だったら、遅れた来た分を取り戻すぐらいの活躍はしてもらわないとな」「かっー、手厳しいな。その調子だとまだ余裕がありそうだ」

「お互い、な」

 言い合いを終えると、僕はスッと刀を構えた。あとのみんなもそれに続いて、それぞれ臨戦態勢に入る。

 これで役者はみんな揃った。ここからが、いよいよ……この長い夢のグランドフィナーレだ。

「………………まぁなんだ。この方がかえって都合が良かったかもしれないね」

 言いながら先生は、ボロボロに刃こぼれしたした触手を根元から全て落として、また新たな触手を背中から生やし再生させた。

「どいつもこいつも……、みんなまとめてバラバラにしてやる!」

 先生は半狂乱で叫ぶと、地面を強く蹴り、凄まじい速さで接近してきた。真新しくなった触手が左右に伸びて開き、またも翼のような形となる。そして、まずその内の右側の四本が大きくしなって薙ぎ払われた。

「みんな、俺の後ろに!」

 那須美は前へ出て自ら盾になると、両腕を胸の前でクロスさせて、先生の攻撃を受け止める。

 続いて、左側四本による二撃目――先生は那須美の防御力が厄介だったのか、一旦那須美をスルーして触手を真上に伸ばし、その後ろにいる僕らを上空から狙う。

「前へ避けて! それから二人は、先生のところまで一直線に走って!」

 ビジョンで触手の軌道を読んだ野々宮が、それから導いた最善手を僕らに伝える。僕と篠倉は彼女の言う通り前方に大きく跳んで躱し、そのまま左右の触手の中を真っすぐ抜けて直進した。

「トミシ、先行くぞ!」

 篠倉は言うと、走るスピードを上げて僕を追い抜いた。

 さすがの先生もその速さには反応しきれず、攻撃の際に伸ばして長くなった触手では、間合いをぐんぐん詰めてくる篠倉を止めることができない。

「いち、にの、さんっ!」

 篠倉は走る足を大股にして助走をつけ、先ほどのように上空に跳び上がった。そして空中で体を丸めて、落下しながらくるくると縦回転を始める。

「もらったあぁぁぁ!」

 掛け声と共に片足を開き、篠倉はそれを先生の頭上目掛けて振り下ろした――かかと落としだ。

 落下の勢いと遠心力が乗った強烈なかかと落としが、先生に直撃する。

 咄嗟に先生は腕を硬質化――つまり検閲で肘から手首にかけてを鋼のような硬さにして、それで篠倉の攻撃をガードした。先生には防がれてしまったがその威力は絶大で、先生の足場がまるで蜘蛛の巣のようにひび割れる。

「痛いって……、言ってるでしょう!」

 渾身の一撃だったが先生は耐えきった。

 そして腕を元の状態に戻すと、手首をくるりと返して篠倉の足を掴んだ。

「おわっ……!」

「さっきのお返しよ!」

 篠倉の片足を掴んだ状態で、ぐるりと一回転する先生。遠心力が振り回される篠倉の全身にのしかかり、ハンマー投げの要領で篠倉は投げ飛ばされる。

「……篠倉! 那須美、篠倉を頼む!」

「おうよ!」

 僕は後衛にいる那須美に指示を出し、篠倉が飛んでいく方向へ先回りさせる。

 凄まじい勢いで投げ飛ばされた篠倉を、那須美は全身で受け止めた。

「痛(つ)っー……。済まない那須美君、助かったよ」

「気にすんな。それより今は目の前の敵に集中だ」

 走りながら、那須美が篠倉をキャッチしたのを横目で確認して、それから僕は刀を八艘(はっそう)に構えた。

 先生との距離はおよそ十メートル。それにたいして先生の触手は、まだ完全には収縮しきっていない。僕の攻めを阻むのは二本の腕だけ――つまり、今の僕と先生は対等だ。

 先生に動きがないか見極めるため慎重に、それでいてこのチャンスを逃さないように素早く、僕は間合いを詰める。そして両者の間隔が十分に縮まったその瞬間――刀を右袈裟に斬り下ろし、相手の股の間を割っていくぐらいの勢いで、大きく一歩踏み込んだ。

 しかし――その決死の一太刀も、先生を捉えるには至らなかった。

 先生はすんでのところでスーツのポケットからカッターナイフ(おそらくさっきまで使っていた物だろう)を取り出し、それで僕の斬撃を防いだ。

 互いの刃が十字に重なり合って、火花を散らす。僕は限界まで踏ん張って組み合う力をさらに強めるが、貧弱なはずのカッターの刃はまるでビクともしない。僕が全身の神経を全て両腕に注ぐぐらいの気持ちで力んでいるのにも拘わらず、先生はそれを片腕だけで、しかも余裕の表情で凌いでいた。

「私がそう一筋縄ではいかない相手ってことを……、忘れてもらっちゃ困るよ荻村君」

「そんなこと……、嫌ってくらいに分かってますよ!」

 言うと、僕は左足から一歩下がって鍔迫り合いを解く。そして右足を引き付けるのと同時に、再び腕を振り下ろした。

 しかし――先生は頭を硬質化させることで、僕の斬撃を弾く。物打が滑って右下に流れてしまい、僕の上半身が釣られて少し傾いた。

 その隙に、先生は素早く僕の刀に手を伸ばし、刀身を鷲掴みにする。さらに、そこに自分の体重を乗せることで、僕の攻め手を封じたのだ。

「あれだけ迷ってたくせに……、随分と躊躇いなく斬りかかってくるんだね。それとも私のことなんて、もうどうでもよくなっちゃったのかな?」

「そんなはずありませんよ。あなたには……、いろんなことを教わりましたからね。こんなになってしまった今でも、これまでの先生の誰よりもずっと『先生』してたと思うぐらいです」

「へぇー、嬉しいこと言ってくれるじゃない」

 でも――と僕は続けて、顔を上げる。そして先生の目を、真っすぐ見つめ返した。

「あいつらと先生――僕の親友を命がけで守るのか、それを先生が傷つけるのを黙って見過ごすのか、そのどちらかを選ばなければいけないというのなら、僕は前者を取ります。その方が……、先生の荒んだ部分を見なくて済みますから」

 刀を持つ両腕に、僕は一層力を込める。徐々に力の偏りが傾き始め、先生に抑えられた刀身が少しずつ持ち上がってきた。

「先生があいつらに手を掛ける前に……、先生が僕にとって本当の悪者になる前に……、僕が先生を――斬り伏せます」

 僕の言葉に、先生は一瞬だけ動揺した。刀を掴む手が緩み、コンマ数秒分だけ気がどこかに逸れる――当然、僕はそれを見逃さない。刀を手前に引いて先生の手から抜き取り、その姿勢のまま形を変えずに両腕だけを伸ばして、先生の胸の中心に向けて突き上げた。

 反応が遅れた先生は胸部の硬質化が間に合わず、やむなく体を捻ってそれを躱す。切っ先が先生の腹を掠り、彼女はその傷口を指でなぞった。

 人差し指に着いた自分の血を見て、先生はしばらく硬直する。

「………………君がこんなに分かりやすく、私に対して敵意を剥き出しにするなんてね。以前の君からでは考えられないことだよ。……また私から一歩、遠ざかっちゃったんだね」

 先生が、指先をまじまじと見つめたまま、つまらなさそうに言った。それから人差し指と親指をすり合わせて血を拭うと、視線をこちらに戻す。

 その頃には伸ばされた触手のほとんどが先生の元まで帰っていたのだが、残された最後の一本だけは、ある程度の長さを保ったまま僕の足元をさながら蛇のように這いずっていた。

「……だったら、もういらないや。君も、何も――」

 先生は、小さくポツリと呟いた。

 ――と同時に、僕が言葉を返そうと口を開くよりも先に、足元の触手が僕を狙って飛びついてきた。

「うおっ!」

 大きく身を反らして何とかそれを躱すが、僕が体勢を立て直すよりも先に、二発目が飛んできた。

 片足が浮いた状態で、しかも身を捩ったままの窮屈な姿勢では、この二発目まで完全に避けきるのはどうあっても厳しい。僕は一瞬肝を冷やしたが、しかし心強いことに、それを黙って見過ごすみんなではなかった。

 野々宮が――予め先生の行動を先読みして、触手の軌道上に矢を放っていた。すると矢は見事にその触手の腹を捉え、伸長する触手を途中で分断する。

 いきなり視界の外から割り込んできた物の存在に、先生は瞬時に対応することができず、加えて気が野々宮に逸れてしまった。

 ここで僕が攻撃に転じることができれば勝負は決まっていたのかもしれないが、それがあまりにも短い間だった為に、前に出ることを躊躇ってしまった。結果、僕は後ろに下がって間合いを取り、守勢に回ってしまう。

「その棒切れ……、さっきからうざったいのよ!」

 先生の攻撃の対象が、僕から野々宮に移った。

 遠くから援護射撃をする野々宮に向けて、先生は触手を数本、そこから更に枝分かれさせて同時に放つ。篠倉は『察し』の力を使って触手を射ち落とし、それが間に合わなければ上手く建物の残骸に身を隠して防御、あるいは普通に避けることでやりすごす。

 しかしそれも、先生の多方向から数で攻める飽和攻撃に、徐々に対応しきれなくなってくる。いくら相手の打ち筋が分かったとしても、逃げ場がなければ同じことだ。このままいけば遅かれ早かれ、間違いなく野々宮は詰められるだろう。

 そうなる前に、僕ら三人は瞬時に動いた。先生を中心に三角形を作って取り囲み、三人同時に接近する。

 先生は手数こそ多いが、人数差ではこちらが圧倒している。だったらそれを利用しない手はない。前方の僕と那須美で注意を引きつけて、後方の篠倉がその隙に決定打を叩きこむ――この陣形なら、先生の注意と攻め手を分散させることができるし、なおかつこちらの攻撃の要(かなめ)である篠倉を先生の視界の外に置いて隠すことができる。おそらく最善手だろうと、僕は半ば確信していた――つまり、慢心だった。

 最初に狙われたのは――那須美。先生は野々宮を攻撃したまま一本の触手を、那須美に対して真っすぐに突っ込ませた。当然那須美は受け身をとってそれを防御するわけだが……、それがいけなかった。

 先生の攻撃は、那須美の体を刃で貫通させようとする――所謂『突き』ではなかった。

 那須美は、先ほどと同様に胸の前で腕を交差させて受け身をとる。そのガードに接触した触手は、案の定那須美の体の頑強さに弾かれてしまうのだが、今度はそれで終わりではなかった。

 弾かれた触手が素早く那須美の背後に回り込んで、一周する。そしてそれはそのまま勢いを殺さず那須美の体の周りを何度もぐるぐると周回して、最後に強く縛られた。

 那須美の体が、あっという間にがんじ絡めにされてしまったのだ。

「これでまずは一人――」

 呟くと先生は、後ろを振り返ながら勢いをつけ、向かってくる篠倉に触手で拘束した那須美を、斜め上から潰すようにぶつけた。

「ごっ――」

 不意の一撃に篠倉は反応しきれず、遠心力の乗った那須美の体重をもろに受けてしまう。

 篠倉は那須美と地面に挟まって、まるで身動きができない。いくら篠倉でも、うつ伏せに潰された状態では十分に抵抗できるほどの力が出せないからだ。

「これで二人目。チョロチョロ動かれると面倒だからあなたも縛ってあげる」

「くっ……、やめろ……。離せっ……!」

 それでも篠倉は諦めずにジタバタともがくのだが、新たに伸ばされた触手が素早く彼女を捕縛した。それはあっと言う間の出来事で、僕たちに手出しさせる隙すら与えない。

「っ……! 篠倉さんっ……!」

「他人の心配してる場合? 次はあなたよ」

 これまで何とか触手の波状攻撃を凌ぎきっていた野々宮だったが、捕まってしまった篠倉に気をとられ、ついに野々宮の回避に穴ができてしまった。

 先生は、野々宮が自分から目を離したその隙に、残った全ての触手で彼女を捕らえにかかった。

 ほんの一瞬だけではあるが、気が逸れていた野々宮はそれを先読みすることができず、察しの力無しで先生の攻撃を捌くことは、篠倉の際立った身体能力や那須美のような頑丈な体を持たない野々宮には到底できない。程なくして野々宮は、自分の死角から迫ってきた触手にあえなく捕まってしまった。

「――これで三人目。なんだ、案外最後はあっけなかったね」

 先生は捕まえた三人をそのまま触手で持ち上げ、僕に見せつけるように高く掲げる。

 三人は何とかそこから脱出しようと懸命にもがくのだが、もがけばもがくほど、自分の体を縛る刃が食い込み身を抉る。

「んぐぅ、ぐぐぐ……。こ、こんなものっ……!」

 篠倉は両腕に力を込めて踏ん張るのだが、触手はビクともしない。

 そんな様子を先生は、せせら笑った。

「ははっ、もう抵抗したって無駄なのにバカだなぁ……。それひょっとして、イタチの最後っ屁ってやつ? やめなよ往生際の悪い。余計に体が傷つくだけだよ?」

「……黙れっ! 私たちはまだ……、お前のように現実を諦めちゃいないんだ……! この夢から目を必ず覚まして……、いつもの日常を……絶対に取り戻してやる!」

 身を乗り出して、先生にそう喰って掛かる篠倉。そんな彼女の言葉に、他の二人は深く頷いた。

「……ええそうね、篠倉さんの言う通りよ。もちろんつらいことだって……目を逸らしたいことだってあったけれど……、でもそれ以上に、みんなと笑って過ごした日々がある」

「現実と向き合えるだけの強さがあって……、それをくれた仲間がいて……、そんだけ持ってんのに、そう簡単に全部台無しにされてたまるかよっ……!」

 野々宮と、那須美。篠倉が発破をかけてくれたおかげか、二人とも、こんな状況でもまるで心が折れていない。

 例え身動きを封じられようと――僕らの心までを抑えつけることは、いくら座頭橋先生でも不可能だ。そして心が無事ならば、思いや願いがあるのなら、夢世界はそれに応えてくれるだろう。

 だって夢世界は――人の〝夢〟だから。僕らの望みを叶えてくれる。

「………………あっそ」

 先生は努めて平静を装って、素っ気なく返した。しかし苛立ちの色を完全には隠せず、篠倉たちを更に強い力で縛り上げる。

「ぐあっ……あ……」「うっ……ううう……ぐっ」「あああ……があっ……!」

「お前らっ……! くそっ、三人を離しやがれ!」

 僕は三人を助けようとしゃかりきになって先生へ突っ込み、首筋を狙って一太刀浴びせる。しかし先生は片手で簡単に刀身を受け止めると、僕を力任せに振り払って、刀を無理やり奪い取った。

「こんなもの……、あなたには必要ないでしょ。どうせこんなちゃちなので私を殺すことなんてできやしないんだから」

 そして先生は、刀の刃を半分にへし折って捨てた。それから僕の顔を見て、「もう諦めたら?」と言わんばかりにニコリと笑う。

 それでも僕は素手のまま、先生に立ち向かった。もはや勝機とか危険とかそんなものはいっさいお構いなし、というか考えられなくなるまで意地になっていたのだろう。何が何でも篠倉たちを助ける――その一心で、僕の体は動いていた。

 そんな僕の拳を、先生は弄ぶように避けたり受け止めたりして軽くあしらう。

 そして、退屈そうに言った。

「……分からないかな。どうあっても君たちの負けなんだよ。……残念だけどね。遊びの時間も、もうお終い」

「――ぐっ……!」

 先生が、片手で僕の首を絞め上げた。

 堪らず僕は先生の腕を掴んで必死に振り解こうとするが、まるでコンクリートで固められているかのように全く微動だにしない。程なくして僕は四肢に力が入らなくなり、足元がふらついた。背中から地面に倒れてしまうが、それでも先生は手を離そうとしなかったので、そのまま僕に覆い被さる形で一緒に倒れた。

「ふふふ……、これでもう私の邪魔をする奴はいない……。まずはあなたを先に殺してから、他の奴らもみんなまとめて始末してあげる」

 先生が、首を絞めたまま体を起き上がらせて、僕の腹の上に跨って言った。

「私の作った悪夢から逃げ出したりしなけりゃ、そのまま生かしといてあげたのにさ……。ホント、こんなことになって残念だよ」

 先生は、カッターナイフが握られた右手をおもむろに上げた。

 その刃の先にあるのは僕の胸。僕の体は先生に押さえつけられ抵抗することができず、仲間はみんな拘束されていて助けてくれる者などいない。……今度こそ、命運尽きた。

「トミシ? お前っ……! 彼に手を出したら、私が絶対に許さないぞ?」

「そうだてめぇ! 荻村を離せ!」

「止めて先生! お願いだから……、お願い……」

 三人の声になど、まるで聴く耳を持たない先生。今の先生には、僕以外の何者も、脳が認識していないのかもしれない。

「それじゃあ荻村君、さようなら。現実ではもう会うこともないだろうけど……、君のこと、夢にぐらいは見るかもね」

 微笑んで、だけれどどこか悲しそうに、先生はカッターを振り下ろした――


 四


「ああああああああああああ?」

 辺り一面に、鼓膜を突き破らんばかりの悲鳴が轟いた――

 ただし、僕の悲鳴ではない。僕は確かに先生にカッターナイフで刺されたけれど、胸を刺されるすんでのところで手の平でそれを防いだ。無論、それによって僕の手は貫通されて猛烈な痛みを感じたけれど、しかし急所を庇うことはできたし、痛みに悶絶して唸り声を上げるものの、決してパニックを起こすほどではなかった。

 ではその悲鳴の主は、パニックを起こしたのは誰かというと――先生だった。

 見ると、先生の手の平と甲には大きな傷口ができていて、そこから止めどなく血が溢れている。……僕と同じだ。

「痛いぃ……! 痛い痛い痛い、痛いよ……。何がっ……どうなって……、なんで私の手が……。痛いたいたいたイたいたいたイタい――」

 先生は傷口を押さえながら、立ち上がって後ずさる。気が動転しているのか千鳥足ですぐにバランスを崩して後ろに倒れてしまい、そのまま蹲って身を捩る。深手を負った所為なのか触手が弱々しく砕け散り、篠倉たちが地面に投げ出された。

 僕はそれを横目で確認すると、深呼吸を繰り返して痛みを誤魔化しながら、先生に歩み寄る。

「っ……? く、来るなっ……?」

 先生は、さっき痛みに驚いて投げ捨ててしまったカッターを、傷口の無い左手で咄嗟に拾う。そしてそれを、ほとんど反射的に僕の太腿に突き刺した。

 それとほぼ同時に――

「――いいいいぃぃぃ痛いぃぃぃ? な、なんで……、どうして私がっ……?」

 またしても先生はガラスを引っ?くような奇声をあげて、這い蹲りのたうち回った。そして僕も、そのまま立っていられなくて立膝を突く。

 先生の、僕が刺された場所と同じ個所――右足の太腿の外側には、スーツの下から血が滲んでいる。……やっぱりそうだ、これはあのとき篠倉に教えてもらった僕のビジョン――絆だ。

「……驚いた。トミシ、そこまでされて君は……、まだ先生のことを……」

 篠倉が、体を起こしながら呟いた。

 確かにこれは、僕自身意外だ。僕は、あの悪夢から篠倉に助け出されたときに、さっぱり気持ちを切り替えたはずだった。これまでの先生は全て演じられた嘘の存在で、自分たちを手に掛けようとしている先生こそが、自分が今対峙している確かな敵なのだと、そう割り切ったはずだった。

 しかし実際には、まだ先生のことを心の奥底で慕っている部分があった、完全な敵意を向けることができていなかった。その証拠に、僕のビジョンによって、僕らの間には絆ができた。痛みや思い、感情を共有するのが絆――それによって僕の受けた傷が、先生と分かち合われた。

 ビジョンとは自分の思い描く理想の姿、言い方を変えれば、自分自身が望んでいるもの。先生との間に絆ができたということは、つまり僕はそれを望んでいるのだ。

「大丈夫か荻村? 今そっちに……」

「いや待て。ここは彼に任せよう」

 大怪我を負った僕を心配して加勢しようとする那須美だったが、篠倉はそれを制止した。

 すると、那須美に続こうとしていた野々宮が、篠倉に異議を唱えた。

「でも篠倉さん……、あんな状態の荻村君を放っておくわけには……」

「大丈夫だよ。……きっと大丈夫。彼なら心配ないさ」

 篠倉の根拠の無い自信に野々宮は物言いたげな顔をするが、僕の方をちらと見ると、最後には黙って引き下がった。絆によって僕の考えが彼女にも通じたのか、それともただ単に僕を信用してのことなのか、とにかく野々宮は僕に後(あと)を任せてくれたようだ。

 ありがたい。ここで他の誰かが手出しすれば、もう二度と先生は心を開いてくれないだろう。ここで先生と相対するのは、先生と絆を結んだ僕でなくてはならない。

 カッターが突き刺さったままの右足を引き摺って、激痛に息を震わせながら、僕は何とか先生の傍にまで近寄った。

「ひいぃぃぃぃ……! や、やめて……。おねがいだから……いたいのは……」

 僕に見下ろされて、先生は異常なほど怖がっていた。

 先生は倒れたまま体育座りをするように体を竦めさせて、顔を伏せて僕から目を逸らす。きっと僕に、かつて虐待を受けていた両親の姿を重ねているのだろう。

 先生は戦意喪失した。まだ余力はあるだろうが、心がすでに弱りきっている。今なら先生に、とどめを刺すことも簡単だ。

 ――だけれど、こんな状態の先生に刃を向けられるほど、やっぱり僕は残酷になりきれない。

「……先生。何も僕は、あなたをどうこうしようってつもりはありませんよ。そりゃあなたのしたことは簡単には許せませんし、これ以上無いってくらいの憤りを感じていますけれど、だからといって先生の事を憎んでいるわけじゃない」

 言うと、先生はおそるおそる顔をこちらに向ける。

 そんな先生の手を取ろうとすると、彼女は体をビクンと跳ねらせて、「ひっ……」と小さく悲鳴をあげた。

「……僕らの手、血で真っ赤になっちゃいましたね。当然ですけど……、ここで戦うのを止めなかったら、これじゃ済まないんだ……」

 先生の抉れた手の平に、僕は同じく傷ついた自分の手を重ねた。血が抜けすぎた所為か感覚が曖昧だが、少しだけ温かいような気がする。

「……先生、僕のビジョンは絆を結ぶことです。先生のこの傷は、僕らの間にできた絆によって共有されたもので、だからつまり僕らの絆の証ってことですね。……ちょっと血生臭いですけど」

「……だったら、何よ」

「あるでしょ、先生にもビジョン。ビジョンは自分の思い描く理想の姿、自分が最も求めているもの。つまるところ、先生の望みです」

「私が……、望んでいるもの……? 私のビジョン……」

 先生は体をゆっくり起こすと、一度僕の目を見た。そしてすぐに僕から視線を外すと、俯いて少し考えてから、先生が言う。

「それを知って、あなたはどうしたいの?」

 下を向いたまま、先生が消え入りそうな声で尋ねてきた。

「僕が知りたいんじゃない、あなたに知ってほしいんです。……今の先生は、世界の全てが憎くて仕方ないのかもしれない。でも自分の望みを自己理解した上で、それを叶えようと努力すれば、世界の見え方が変わってくるかもしれないでしょ?」

「……世界の見え方が? 無理よそんなの。だってその世界こそが、私のことを嫌っているのよ? 私の目に映る全て物に、私は否定され続けたの。何も、私の存在すら認めてなんてくれない。私はいつだって独りぼっちだったし、誰も助けてくれなかった。……だから私は――」

 間を開けてから、先生は続けた。

「……だから私は、こんな世界に、自分の味方になってほしかったんだと思う。いつだって私の為に都合よく動いてくれて、私の思うままに変わってくれる、そんな世界を――せめて夢の中でだけでも望んだの。……どう? 私の望み、叶うと思う? 無理でしょ。現実の私は、今までもこれからも、ずっとみんなに嫌われ続けるんだよ」

 先生が、それがさも当然のことであるかのように、無表情で言い切った。

 彼女の望みを聞いて僕は――先生と自分の境遇が、似ていることに気づいた。

 そりゃ僕は先生ほどの苦痛を味わったわけではないけれど、僕と先生は俗にいう『家庭の事情』ってやつに悩まされていた。その中で彼女が抱いた孤独というのは、僕が悪夢を見るに至った経緯と多く共通するものがある。

 僕も、篠倉たちと出会う前は、言い様の無い孤独を感じていたものだ。自分が大きな不安や悩みを抱えて参っているというのに、誰にも頼れない、誰も助けてくれないと、自分だけがこの世界でたった独り不幸なような気がしてくる。そして終いには、自分が世界から隔離されているような錯覚を受けるのだ。

 そう考えると、僕らにそうたいした違いは無いのかもしれない。思いを共感して心を共有する絆を求めた僕と、ただ皆に自分のことを愛してほしかった先生。厳密にいえば違うのかもしれないけれど、本質的には同じものだと思う。

 なるほど、僕が先生に目を付けられた理由が何となく分かってきた。先生は、自分と似た境遇を持った僕に、シンパシーを感じていたんだ。たった独りの世界の中で、先生はやっと自分の仲間を見つけた――それが僕だったんだ。

 だったら――

「だったら話は早いですよ、先生。……僕と先生は、結構似ています。先生の気持ちが理解できる僕なら、先生の一番の味方になることだってできるはずです。それと同じで、その逆だって有り得ます。先生なら、きっと僕の親友になってくれる。夢だけでなく、現実にも僕と絆を結べるんじゃないかと思うんです。そうなれば、先生の望みも僕の望みも、ちょっとだけですけど叶うでしょ? その方が、お互いがお互いを傷つけ合うよりよっぽど良いんじゃないかと。ずっと、ポジティブですからね」

「私が……、荻村君と? 無理よ……。だって私は、あなたみたいに強くはないもの。たった一人気を許せる人がいたとしても、それ以外はみんな私を嫌ってるのよ? 私のことが嫌いで、みんなして私を散々に虐めるの。……荻村君が支えてくれたら、ひょっとしたら私は、少しだけ立ち直れるかもしれない。頑張ろうと思えるかもしれない。でも、結局そんな世界じゃ、私の心は耐えきれずにすぐ壊れてしまうわ……」

「……そうですね。確かに僕一人が、先生の縁(よすが)になろうってのはちょっとおこがましいと思います。……でも、先生。先生を慕ってくれている人は、先生の力になろうって人は、きっと他にも大勢いるはずですよ」

 言って、僕は篠倉たちの方を見やった。

「ほら、ここに三人もいるじゃないですか」

「……面白いこと言うのね。私はみんなを騙したのよ? みんなの弱みに付け込んで、悪夢を見せて、最後には殺そうとした。そんな奴のこと、助けてくれるはずなんてないじゃん……」

 諦めきった感じで、自嘲気味に微笑む先生。それを受けて篠倉は、「はぁー……」と深くため息を吐く。

「確かに、あなたが私たちにしたことはそう簡単に許されることじゃありません。トミシはあなたのしたことに黙って目を瞑ってくれるかもしれないが、私はそういうわけにはいきませんよ」

 言いながら篠倉は、先生の傍にまでやって来た。

 先生は篠倉の脅すような言い方にひどく怯えて、座ったまま後ずさる。

「だからあなたには、その責任を取ってもらいます」

 篠倉は先生の目の前まで詰め寄ると、拳をゆっくりと振り上げる。それに先生は体をビクッと震わせて、両手で頭を庇い固く目を閉じた。

「えい」

 コツンと、先生の頭が軽く小突かれた。

「……えっ?」

 恐る恐る顔を上げる先生。篠倉の顔を上目使いで覗いて、不思議そうに彼女の様子を窺う。

 どうやら先生は、自分の想像とは違った制裁に呆気にとられているようだ。

「よし、今の一発でチャラだ! これで先生のしたことの全てを、いっさい水に流そうじゃないか」

 篠倉はニッと笑うと、しゃがんで先生と目線を合わせた。そうすることで、先生に圧迫感を与えないようにしているのだろうか。その姿は、子供を優しく諭す母親のようだ。

「放っておいたらあなたはまた悪さをするかもしれないけれど……。なに、何度だって止めてやるさ。そうだろみんな?」

 篠倉は振り返って、野々宮と那須美に尋ねる。それに那須美が「おう!」と快活に頷き返し、野々宮は「そうね」と優しく微笑んで応じた。

 思ってもみない反応に戸惑う先生。そんな先生に、篠倉は優しい声音で説いた。

「これはトミシも言っていたことだが……、私たちは何も先生のことを憎んでいるわけでもなければ、嫌っているわけでもない。単に、先生がしたことに対して怒(いか)っていただけだ。それでもって、こうしてあなたと話す内に先生のことを少しずつ知って、先生がなぜそんなことをしたのか分かった。それには複雑な理由と事情があって、だけど解決策がないわけじゃないということも明らかになった。……私たちが先生に協力すれば、私たちから一歩歩み寄れば、話は全て丸く収まる。実に簡単じゃないか。それをどうして拒む必要がある?」

「篠倉さん……」

 先生は、何か言いたげに口を開きかける。思いが溢れそうになってはそれを呑みこみ、逡巡してやっとのことで先生は、言葉を紡いだ。

「……でも、私がやったことは取り返しのつかないことだよ。いくらあなたたちが許してくれようとも、私が眠りに就かせた他の生徒たちは元には戻らない。その現実は変わらずそこにあって、あなたたちは私を見る度にそれを思い出す。そんな状態で、私との関係を修繕しようだなんて土台無理な話だよ……」

「――それはどうだろうか?」

 先生の嘆きに応えたのは――僕ら四人の誰でもなく、いつの間にかそこにいた、白日芙蓉その人だった。

「芙蓉? お前どうしてここに……」

 夢の中に突如として現れた芙蓉は、何故だか制服姿だった。彼女は僕の問いかけに答えることなく、つかつかとこちらにやって来る。そして、僕と先生の手の傷を一瞥すると、「派手にやったな」と一言。

「……取り返しのつかない、か。確かに現実でならそうだったろう。しかしな、これは夢だ。現実世界でそいつが生きている限り、夢ってのは決して途絶えることがないんだよ」

 言うと芙蓉は、座って僕と先生の手を取り、それを再び重ね合わせた。更に、そこに自分の手を乗せてギュッと握る。すると、手の平が焼けるように熱くなり、何と次の瞬間には傷が塞がっていた。

「な? すぐに元通りだ。……どれ、次は足を見せてみろ」

 驚く暇もないままに、僕らは言われた通り黙って傷ついた足を出す。

 今度は両腕を伸ばして僕らの足を同時に治しながら、芙蓉は先生に言った。

「眠っている生徒たちのことは僕に任せておけ。明日の朝には、全員がいつも通りの朝を迎えられるようにする。だから次こそは、例年通りの賑わいの文化祭が拝めるはずだぜ」

 僕らの足を治し終えると、芙蓉は「ほら、これで完璧だ」と、僕の足をバシンと叩いた。

 反射的に跳び上がりそうになる僕だったが、傷はすっかり完治していたのでさして痛みは感じなかった。

「……さ、もうすぐ目覚めの時間だ。結論は出せたか?」

 芙蓉は先生の目を見据えて、問いかける。それは先生だけに質問しているように見えて、その実、僕ら四人に確かめているようでもあった。

「………………ええ」

 その一言だけだったが、先生ははっきりと答えた。それに芙蓉は力強く頷いて、おもむろに立ち上がる。

「なら結構。……互いに傷つけ合い、腹を割って話し合い、思い悩んで出した答えだ。きっとそれは間違っちゃいない。これ以上、僕が口出しする必要もないだろうな」

 芙蓉がふっと微笑んで、空を仰いだ。

 空には亀裂が入り、空間が剥がれ落ちてきている。遠くの方から、建物が一斉に崩れ出すような音が聞こえてきた。

 先生の悪夢が崩壊する――先生の現実を忌み嫌う人生が、これで終わりを迎えたのだろう。その代わりにこれから先生が見る夢は、いったいどんなものだろうか? 

「そうだ。起きる前に、僕から一言あなたに言っておこう」

 すでに淡く消えかけている先生に、芙蓉が最後に言葉を贈る。

「あなたが生徒らに向けた気持ちは嘘だったかもしれないが、生徒らがあなたに向けた気持ちはその限りじゃない。そのつもりも意識もないかもしれないけれど、あなたには案外、慕ってくれている人がいるんだ。それをよく覚えておいてくれ」

 芙蓉が言い終えると同時に、僕ら四人も目覚め始める。夢世界に長らく滞在していた意識が、徐々に現実世界へ移行していく。

 芙蓉の言葉に先生は何と返したのか――薄れてゆく感覚の中では、はっきりと掴み取ることができなかった。


 五


 ――明後日。文化祭の最終日。

 昨日あれだけ壮絶な戦いを繰り広げた僕らは、さすがに精神力を使い果たしてしまって、目覚めたあと学校に行くだけの気力も残っていなかった。

 僕はみんながそれぞれの家に帰るのを見送ったあと、またすぐにベッドへと戻って泥のように眠った。今度は超明晰の力を使わず夢も見ないほどの眠りに就いて、丸一日中、心と体を休めていたのだ。

 そして今日、昨日一昨日とは打って変わって爽やかな陽気の中、僕は万全の体勢で文化祭へと臨んだ。

 去年はたいして気にも留めていなかった文化祭だが、今年は違う。せめて文化祭実行委員として最後の日ぐらいは、自分たちの作り上げた祭典をゆっくり見て回ることにしようと思って、僕は全校舎を練り歩いてみることにした。

 登校して、廊下に出た時点で僕はすぐに驚いた。廊下には生徒たちはもちろんのこと、OBや他校の生徒、周辺地域の住民などの一般客まで多く行き交っていたのだ。その人の多さたるや、歩く度に誰かしらの体に肩やら肘やら接触するので、人ごみの中を、平手を切って頭を下げながら進んでいく必要があるほどだった。

 初日、二日目と文化祭を休んだ僕は、その二日間の様子がどんなものだったか知らない。だけれど、きっと今日の賑わいには及ばなかったことだろう。そう思えるほどに学校中が活気に満ち溢れていて、どこへ行っても生徒たちの喧騒は絶えることがなかった。

 各教室を彩るポップボードや折り紙の輪繋ぎなどの装飾品が学校中に華を添え、放送部によるラジオ番組が群衆をより一層盛り上げている。体育館に行ってみると、中にはコスプレして客呼びをしている生徒もいたが、それは何というか宣伝自体が目的というよりも、この機に乗じて仮装を楽しんでいるだけのような気もするが。

 まぁとにかく、文化祭としてはこれ以上ないってくらいの大盛況。閉祭まで何があるか分からないとは言え、実行委員会による文化祭運営は大成功を収めたと言ってしまって構わないだろう。僕もその一端を担っている者として、鼻高々だ。

 二年生教室前の廊下を歩いていると、自然と二年二組の教室が目に入った。篠倉のいるクラスだ。

 せっかくなので少し覗いていこうかなと思って入り口の前まで行くと、そこでまた僕は驚く。

 教室の窓から、せっせと紙コップにコーヒーを淹れている篠倉の姿が見えた。いや、それだけならさして問題ない。生徒会だけでなく自分のクラスの仕事まで真面目にこなしているんだな感心感心ってなもんで、それで終わり。……しかし、しかしだ。今僕の目の前にいる篠倉は全く問題ないことなくて、メイド服を身に纏って仕事をしている。これは何故だ?

 ぼっーと立ちつくして外から眺めていると、ふとした拍子に篠倉と目がかち合ってしまった。

「あっ」

 聞こえてはしなかったが、仕草で篠倉が小さく声を上げるのが分かった。

 気づかれたからには無視するわけにもいかないので、僕は「……よっす」と軽く手を挙げて挨拶をする。すると、向こうは気まずそうに顔を赤らめたあと、近くのクラスメイトにコソッと内緒話をするように一言断って、僕のいる廊下まで出てきた。

「……やっ、トミシ。その……、あの……加減はどうだ? きっ、昨日は十分に休めたか?」

 何だか体をいじらしくもじもじさせながら、妙に上擦り気味で篠倉は声を掛けてきた。

「僕は別に大丈夫だけど……、お前はどうしたんだよ……その格好」

 言いながらじっと見つめると、篠倉は「ううっ……」と唸って、手に持った丸いトレーを盾にして体を隠す。

「これは……、無理やり着せられたんだよ……。私だけみんなと違うのは変じゃないかって進言したら、じゃあ篠倉さんもってこの格好を迫られて……。とんだ災難だ……」

 言われて教室の中をぱっと見渡して、僕はやっとこのクラスの出し物がメイド喫茶だということに気がついた。教室の入り口にも、やたら自己主張の激しいポップで、〝メイドカフェ?〟と書かれたスタンド式の黒板が立っていた。

「……ふーん。変な格好って……、初めはどんなだったんだよ?」

「それは……その……、もう! そんなの別に何だっていいだろ! それより何か言うことあるんじゃないか!」

 突然プンスカ怒りだす篠倉。よく分からんけど、メイド服姿の感想を言えってことだろうか? こういうときに何と言ってやれば正解かよく分からなかったので、とりあえず僕は思ったままを口にする。

「その……何だ。結構似合ってると思うぞ、そういうのも。たまにはそんな女の子っぽい格好でもいいんじゃいか? ほら、夢の中じゃお前、ほとんどジャージだから――」

「分かったもういい! 十分だ! やめてくれ! お願い! 恥ずかしい!」

 まだ途中だったのだが、篠倉に顔をトレーで遮られて続きを無理やり止められてしまった。

「周りにたくさん人がいるだろうがっ……!」

 篠倉は耳元まで真っ赤にさせて、周囲の人に聞こえないように小さな声で怒鳴った。

「お前が言えって言ったんだろ……。ってか、誰も僕らの会話なんて聞いてないと思うぞ?」

「それは間違いだ! 私たちが二年生の間でなんと噂されているか知らないのか?」

 言いながら、篠倉は教室内を気にしている。彼女の視線の先で二人の女子生徒が慌てて後ろを振り返った。

「なんて噂されてるんだよ?」 

「それは……、あれだ。あれだよ、うん。とにかく、良くないことだ」

 僕が聞くと、急に篠倉は曖昧に言葉を濁し始めた。気まずそうに唇をもごもごと動かして、ついには黙ってしまう。表情からは徐々に赤みが引いていくが、まだ頬にはほんのりと薄紅色が差している。そんな顔でちらっとこちらを上目使いに見られると、どうしていいか分からなくなる。次のセリフに困ってしまって、今度は僕も黙ってしまった。

 しばしの沈黙――耳に聞こえてくるのは周囲のざわめきと、篠倉の熱の籠った呼気。僕にはそれがどうにもむず痒くて、体がぞくっと緊張するのを感じた。

 そしてそれは、どうやら篠倉も同じらしかった。篠倉はごほんと咳払いをして妙な空気感のこの場を誤魔化すと、途切れ途切れに話を切り出し始めた。

「あっ……えっーと、そうだトミシ! せっかくだからちょっと寄っていかないか? これが意外と本格的なメイドカフェで結構人気なんだ。案外、新鮮で面白いと思うぞ」

 確かに店内には男女問わずに多くの客がいる。メイドカフェってだけで中々珍妙で入りにく感があるし、それを踏まえた上でのこの客入りはかなりのものだろう。

 できれば僕も篠倉の誘いを受けてやりたかったのだが、残念ながらこの後にちょっとした用事が入っている。

「や、遠慮しておくよ。実は芙蓉に呼び出されててな。急ぎの用じゃないんだけど、遅れてまたごちゃごちゃ文句言われても具合悪いし。それに、他に見て回りたい場所もあるしな」

 今朝、登校の直前になって芙蓉から僕のケータイにあるメールが届いた。そのメールには、『今日の午後三時、生徒会室に来てくれ。君との約束を果たそう』と、たったそれだけしか書かれていなかったのだが、芙蓉はそれでも伝わると思ったのだろう。確かに僕と芙蓉の間で約束といえば、あれしかない。そもそも僕が芙蓉の仕事を手伝うきかっけとなった、彼女の正体についてだった。

「ゴメンな、文化祭まともに付き合ってやれなくて。せめて今日だけでもとは思ったんだけど……」

 僕が謝ると、篠倉は「え?」と聞き返して、目を丸くして愕然とした。

「……なんだよ?」

「あ……いや、その……。君がそんなことを気にしていたというのが少し意外でな……。ちょっと驚いた」

 篠倉が、へへへとあどけなく笑う。そして、こう続けた。

「以前の君なら、きっとそんなことは考えもしなかったろうさ。とことん他人に興味の無い性格だったからな。……でも今の君は、そうじゃない。ちゃんと相手のことを気遣える人間だ。……そして、その変化がもし私と関係を築いたことでもたらされたものだったのなら――ちょっと傲慢かもしれないけれど、嬉しいなと思ったんだよ」

 と、篠倉はそんなことをなんの恥ずかしげも無く言うので、僕は微妙な表情になってしまう。何と返していいのか分からず、僕は逃げるように視線を宙に投げやった。

 それに気づいたのか篠倉は、そんな僕の制服の裾をくいっと指で摘まんで引っ張って、「なぁトミシ」と僕の名前を呼んで注意を引き戻すのだった。

「最近、思ったんだけどな。君と私が、あの日保健室で出会わなければ、きっと今こうして話していることもなかったんだろうな。……ううん、それどころか、この文化祭だってまともに開催できていたかどうか怪しい。那須美君や野々宮さんはずっと悪夢にうなされたままで私と友達になることなんて無かっただろうし、君もそうだ。一つ歯車が違(たが)えば、

先日の悪夢の続きを、君は現実に味わっていたかもしれない」

 悪夢の続き――か。もし篠倉が言う通りになっていたとしたら、きっと僕は今頃学校をサボって家にいるのだろうな。や、冗談じゃなくて。たぶん僕は、学校に行く気力などすでに失っているに違いない。何の意味も無く、何の変化も無い同じような日々を、ただいたずらに過ごすだけでは、僕の胸の中にある虚しさはより一層強くなっていたはずだから。

「だからこそ――な? トミシ」

 あの悪夢を思い返していた僕に、篠倉はまた呼びかけた。

「だからこそ、私たちの出会いはとても尊いものだったと思うんだ。いや、私だけじゃない。那須美君に野々宮さんに白日さん。ひょっとしたら煙草屋会長だってそうかもしれないし、もちろん……座頭橋先生も。一つ一つの出会いが――君自身を、そして周りのものを少しずつ変えていった。それを〝絆〟と呼ばずして何と呼ぶ? 君はすでに、自分の一番欲しいものを手にしていたんだよ」

「僕が……、絆を?」

 僕が確かめるように聞き返すと、篠倉はそれにニコッと笑って応じた。それがあまりに屈託のない笑顔だったものだから、僕も釣られて自然と笑みがこぼれてしまう。

 そしてつい僕は、思ったことをそのまま口にしてしまった。

「理想ってのは現実とかけ離れているように見えて……、案外身近なものなのかもな」

 手を伸ばせばすぐに届く距離だけど、まるで先の見えない暗闇に立たされている自分には、それがどこにあるのか分からない。見えない何かで傷つくのを恐れて、その手を引っ込めてしまうのだ。だから、自分の理想を叶えるのは難しい。

 だけど、自分の手を引いてくれる人がいれば、前を照らしてくれる人がいれば、理想を手にするのは簡単だ。知らず知らずの内にそれを拾い上げていたなんてことも、珍しくはないのだろう。あとは、それに当人が気づけるかどうかだ。

「そういう意味では……そうだな、お前の言う通りかもしれない。篠倉が懲りずに僕の傍にいてくれたおかげだ」

 言うと、篠倉はふっと微笑して、「そんなの当たり前だろ」と僕の胸をトンと拳で小突く。

 そして――

「私と君は親友同士なんだからな」

 と言葉尻に付け足して、篠倉はパッと僕の元から離れる。

 だけれど――篠倉の言った『親友』という言葉だけが僕の耳にしばらく残って、何だかとてもこそばゆい感じがした。

「さて、私はそろそろ仕事に戻るよ。本当はもっとこうしていたいけれど、あまり店を空けすぎると他のみんなに迷惑が掛かるからな」

「あ、ああ……。そうだな、僕も行くとするよ。……また放課後にでも、いつものメンバーで集まろうぜ。文化祭の打ち上げだ」

「そっか、そいつは楽しみだ。期待しておくぞ!」

 篠倉は後ろを振り返りながら、ぶんぶんと子供のように手を振って教室内へと戻る。

 さっき周りに人がいるとか言ってたくせに、こういうところはあけっぴろげだな。いくら何でもそういうのは、そこそこ仲の良い女子同士でもやらないと思うぞ。

 ……まぁでも、無視するのもちょっぴり可哀想なので、僕は殊更周りに見えないよう控えめに手を振り返したのだった。

 

 主にライブ系の催しが開かれている体育館――そこを少し覗いてみると、暗い会場内にひときわ目立つ存在。スポットライトに明るく照らされて、ステージ上ではちょうどバンド演奏が行われていた。

 ふと、その中に見た顔があることに気づく。ボーカルの彼……、確か菅原先輩だったか。以前、僕と野々宮の二人で、バンド出展のドタキャンの件で教室まで訪ねた先輩だ。

 彼によるとメンバーの一人、永山先輩が悪夢にうなされて眠ったままの状態になっていたはずだが……、こうしてご機嫌に演奏しているところを見る限り、どうやら寸前になって快復したらしい。それにも拘わらず、彼らの演奏は実に見事なものだ。会場内のテンションのボルテージは限界まで高まり喚声が凄まじい。きれいに並べてあったパイプ椅子はぐちゃぐちゃに跳ね除けられ、せっかく設営された座席などはもはや関係なしに皆立ち上がって盛り上がっている。体育館内が聴衆の熱気に包まれ、さらには皆が騒ぐ振動で体育館自体が少し揺れているような気さえした。

 文化祭特有のテンションというのもあるかもしれないが、ここまで会場を沸かせてくれる演奏が、復帰したばかりのメンバーと土壇場で仕上げたものというのがこれまた凄い。一週間のブランクなんて目じゃないほどに、入念に練習してきたということなのだろう。

 群衆の波に呑まれぬように、僕はなるべくステージから遠ざかる。熱狂した生徒らがどんどんステージ付近に集っていくものだから、ぼっーとしていると押し潰されそうになるからだ。

 何とか後ろの方に空いているスペースを見つけ、僕は壁にもたれかかってしばらく演奏に耳を傾けた。

「先輩らのバンド、結構良い感じだよな。『CASTLING』っていうんだっけ? 案外、将来有名になるかもな」

 ふいに横から声を掛けられた。

 何だこいつ馴れ馴れしいやつだな急に話しかけてくるなよビビるだろと思って隣を振り向くと、これまたよく知った顔がそこにあった。

「那須美……。お前もいたのか」

 那須美は、たぶんどこかの出店で買ったのであろうジュースを右手に、左手には我々実行委員会の広報部が発行したパンフレットを携えていた。おそらく、パンフレットに描かれた地図を見ながら、各教室の出店を回っていたのだろう。その証拠に、肘にはプラスチックパックや紙コップなどのゴミが詰まった小さなビニール袋をぶら下げている。どこかで買い物した際についてきた物を流用しているらしい。

 そんな那須美が、ストローでジュースをずずっーと啜りながら出し抜けに言ってきた。

「お前はこういう人の多い場所は嫌いだと思ってた」

「まぁ普段ならそうなんだけどな。事ここに限っては……、ちょっと特別だろ。せっかく、僕たちで運営した文化祭なんだからな。やっぱりこの目でその仕上がりを確かめたいじゃないか」

「違いないな」

 那須美は納得したように頷くと、ジュースの残りを一気に飲み干した。

 飲み終わった空きの容器をべコべコ潰してゴミ袋に詰め込んでいる那須美に、僕も聞き返す。

「そういうお前は、こんなところで一人でどうしたんだよ。お前だって、あまり一人で行動するようなタイプじゃないだろ。こういうイベントは誰かしらとグループ作ってはしゃぎ倒しそうなイメージだけどな」

「それはお前らが捉まらなかったからだよ」

 那須美は平手を横に振って、違う違うと異議を唱える。

「俺、一応みんなにメールしたんだぜ? 今日は登校したすぐにみんなで集まって文化祭一緒に回ろうぜって。そしたら篠倉さんからは午前中に店番があるらしいから遅れるって返信が来て、野々宮さんは弓道部と生徒会の両方の用事を片付けないといけないから同じじく遅れるってことだった。……んでお前は、そもそも返信が来なかった」

 じっと責めるような目つきで僕を睨む那須美。言われてケータイを見てみると、確かにメールが一件届いている。

 たぶん、芙蓉の呼び出しの件で頭が一杯になっていたのだろう。その所為で、二件目のメールが来たことにも気づかなかったようだ。

「ま、どのみちこの後には予定があるから、悪いけどお前には付き合えないんだけどな」

「そうかよ。そりゃ残念だ」

 僕が言うと、那須美ははっと苦笑して、思ってもないことを口にする。誰も捉まらなかったのと僕に無視されたのとで、すっかりふてくされてしまっているようだ。

「誰か他のやつを誘えばよかっただろ。別にお前は、僕らだけしか友達がいないってわけじゃないんだから」

 僕が指摘すると、那須美は痛い所を突かれたと言わんばかりに「うっ……」となる。

 そして、口ごもりながら曖昧な説明をした。

「そりゃお前……、なぁ? まぁ何つーか……、そんな気分でもなかったっていうかさ……」

「なんだそりゃ。さっぱり分からん」

「……まぁたぶん、お前と同じだよ。別に思い上がるつもりはねぇけど、この文化祭は俺ら四人がいたからこそ成り立ったようなもんだ。……ってことはつまり、逆に言えば俺らのうち誰か一人でも欠けていれば今のこの盛り上がりはなかったってわけだ」

 そう言って那須美は、聴衆を顎で差した。皆、一様に手を振り上げて音楽に乗っている。中にはヘッドバンキングをする者やただひたすらに甲高く叫ぶ者もいて、普段抑圧された自分を思うままに解放していた。

 確かに考えてみれば、このうちの何人かは悪夢の影響を受けた可能性が大いにある。今壇上でベースを弾いている永山先輩もその一人で、彼は悪夢にうなされたその日から今日までの間ずっと眠り続けていたはずだ。そんな人たちを救ったのは他でもない僕ら。僕と篠倉、那須美に野々宮がいなければ、今頃文化祭は閑古鳥が鳴いて開催自体危ぶまれていたことだろう。僕らは運営の立場からこの文化祭を切り盛りしてきたわけだが、また別の側面から、自分たちの作り上げた文化祭を自分たちの手で守っていたのだ。

「だからさ、最後はやっぱりその面子かなって思うじゃん。ま、結局集まらなかったわけだけどな、はは」

 那須美は笑い話にしようとするが、どこか笑みが渇いていて残念そうな感じが隠しきれていない。仕方がないので、ちょっとばかし慰めてやる。

「放課後、校門前に集合な」

「え? なんで?」

「僕もお前の言ったことには特に異論ないからな。やっぱり何もしないってのも少し寂しいし、さっき篠倉にも伝えたけど、無事文化祭を見届けたらみんなで打ち上げをしようと思うんだけど……、当然お前も来るよな?」

 まさか僕からそんな誘いを受けるとは思いもしなかったのだろう。那須美はきょとんと固まって、数秒後にやっとのことで再起動する。

「……あ、当ったり前だぜ! 俺がいなくちゃ始まんねぇだろ!」

 那須美は僕の肩をぽんと叩いて、嬉々として答える。

 さっきまでの意気消沈っぷりはどこへ消えたのやら。こうも分かりやすい人間などそうはいないだろう。まぁそれが那須美の良い所でもあるのかもしれないが。

 ともあれ、那須美は期限を取り戻すと、視線をステージに戻した。

 ステージでは、三年の面々が荒々しくビートを刻んでいる。拙いが、溢れんばかりの活力に満ちた若いリズム。聴衆がそれに呼応するように、両手を激しく打ち鳴らす。

 高校生活最後の文化祭――檀上から見える景色は、彼らにとってどのようなものだろうか。沸き立つ聴衆に、一つの夢を見出しているかもしれない。進みゆくメロディに、学校生活の終わりを感じているのかもしれない。はたまたその両方か。いずれにせよ、この瞬間が彼らにとって決して色褪せることのない思い出となることは確かだろう。

 ボーカルが燃え尽きるように全てを吐き出しきると、最後にアウトロがフェードアウトしてそれを締め括った。一瞬、静まり返る会場。音の残滓が会場内を響き渡り、その心地よい余韻が頭の中をくすぐる。

 ――誰からともなく、客席から拍手が湧き上がった。それが火種となって拍手の大きさはどんどん増していく。つかの間の静寂は、続く歓声と指笛の甲高い音にあっという間に打ち破られた。

「終わったみたいだな」

 僕も同様にステージへ拍手を送りながら呟く。

 すると那須美が、なぜか神妙な面持ちで言った。

「そうだな。俺らの……悪夢との戦いが、やっと終わった」

「……や、演奏がってことなんだけど」

 指摘すると、那須美は「ああなんだそうなのか」と少し気まずそうに笑う。

「いやさ、お前は知らないかもしれないけど……初日の人気(ひとけ)の無さを見てると、この盛況加減は、学校に活気が戻ったんだなって改めて実感するんだよ。そう考えるとほら、俺らいったい何人救ったんだよって話じゃん? そりゃあ、やりっきった気分にもなるって」

 長時間その場に立ちっぱなしだったので、体が少し窮屈になっていたのだろう。那須美は「んんー……」と伸びをして、溜まった息をゆっくり吐き出す。足首をぶらぶらとリラックスさせながら、那須美はふいにこんなことを言った。

「成り行きで手伝うことになった生徒会業務だけど……、俺、やってよかったよ」

 那須美は服を整えて居住まいを正すと、向かい合って、僕に手を差し出した。

 それが何を意味するものか、分からない僕ではない。

 だから――

「……そんなの、僕もだよ」

 それだけ言って応えると、その手をバシンと叩いてやった。


 ところ変わって旧校舎――

 芙蓉との待ち合わせ場所である生徒会室に行くためにここを訪れたのだが、やはりここでもどこかのクラス、あるいは部活かもしれないが、数多くの出店が出展していた。

 聞けば、今日まで続いていた大雨の所為で、校舎外での出展はその大部分がここへ移動してきたらしい。校舎外の出店は露店という形でいずれもテントを張ってそこを拠点としていたのだが、移動の際に一旦テントを崩してしまったのだとか。おそらく雨水の重さでテントが潰れてしまうのを考慮してのことだろが、濡れたテントのパーツをまた一から組み立て直すのは存外骨が折れるというのもあって、そのまま旧校舎に居座っているところがほとんどのようだ。

 クレープ屋、タピオカジュース店、美術部の作品展示等――旧校舎自体が木造建築というのもあって火を扱うものは避けられているようだが、その中に、緑色ベースに茶色がワンポイント入った、和風の飾り付けがされている一風変わった教室があった。

 お茶屋さん(by弓道部)――と、何枚かの半紙をちょうど僕の腰ぐらいの高さの長方形の板に張り付けて作られた看板には、黒々とした墨でそう書かれている。ただ、その文字がやけに女子女子した丸文字でその上おまけとばかりにハートマークまでるんるんふわふわ描かれているので、素人意見ではあるが墨書特有の良さが何だか損なわれているような気がした。

 それはさておき、この茶屋はどうやら弓道部の出展らしい。弓道部といえば、いつだったか、わざわざ弓道部が練習しているところへ出向いて出展の概要を確認したあのときのことが思い起こされるが、果たして弓道部員らはこの店を上手く回せているのだろうか? 

 生徒会室へ向かう途中ではあったが、気になって中へ入ってみる。入り口に掛けられた安っぽい暖簾が僕を出迎えた。

 ――するとそこは、意外にも味のある空間に仕上がっていた。

 店内は、向かって左側半分ほどがおそらく柔道部から借りたのであろう畳が敷き詰められた座敷スペースになっており、そこに昭和チックなちゃぶ台と真っ赤な座布団をいくつか並べて席が作られている。中央には誰に挿してもらったのか大きな活花が置いてあって、机や壁には折り紙の鶴やら椿が飾ってある。若干暗めの室内は、部屋の四つ角に設置された四角い和紙の照明で淡く照らされていた。

 ……とまぁこんな感じで、あくまで文化祭クオリティではあるのだが、上手いこと雰囲気を出せているので店のコンセプトはこちらにも十分伝わってくる。できは正直『それっぽい』止まりではあるが、その『ぽい』が大事なのだ。あまり雰囲気を本物に近づけすぎると、今度は逆に客が引いてしまうからな。「うわっ、何こいつらガチにやってんの……?」みたいなアレだ。

 店内に入って辺りを見回していると、折り畳みテーブルに鶯色のクロスが掛けられたカウンターを挟んで、店員に声を掛けられた。

「いらっしゃいませ。お一人様ですよね?」

「そうだけど、そうじゃないだろ……」

 その言い方だと、まるで僕が文化祭を一緒に回る友達もいないぼっちみたいに聞こえるんだけど……。まぁ実際にその通りだから何も言えないが。

 ――反射的に返してしまったが、そう声を掛けてきたのは野々宮扇。弓道着に臙脂のショートエプロンと、いかにもな出で立ちで応対する。

「冗談よ。意外な人が来たものだから少し意地悪したくなったの」

 野々宮はくすくす笑いながら、「こっちよ」と奥の席まで誘導する。靴を脱いで畳に上がり、席に着いて初めて分かった。旧校舎の教室は本校舎のそれよりも少し広めのようだ。茶店の内装を施した上でも、十分なスペースが取れている。

「これ、お品書き。おススメは水まんじゅうね。あそこの餅屋さんだとこれが一番おいしいから」

「やっぱりだけど手作りではないんだな……」

「あら失礼ね。もちろん手作りよ。松井のおばちゃんのね」

「いや知らんけど……。その店行ったことないし……、誰だよ松井さん」

 これもどうやらお手製らしい冊子のお品書きを受け取って、適当にパラパラ捲って一通り流し見た。実はこの地域には有名なお茶所が多く茶菓子の種類も豊富なので、それに詳しくない人であれば想像している物と名前が一致しないことがよくある。このお品書きも文字だけで写真がついていないので、あまりよく分からなかった。結局、僕は野々宮に勧められた水まんじゅうを注文する。

 注文を聞いた野々宮が、カウンターに戻って厨房(カウンターの中に、簀子で仕切られたスペースがあった)にそれを伝える。おそらくクーラーボックスから出してきただけなのだろう、ものの数秒でカウンターに水まんじゅうと湯のみが置かれ、野々宮がそれを盆に乗せて運んできた。

「お待ちどう様」

「言うほど待ってねぇけどな」

 たぶん一分も掛かってない。

「……で、何の用があってここに来たのかしら?」

 野々宮は給仕を終えると、僕に尋ねてきた。

「用がないと来ちゃいけねぇのかよ」

 目の前に出された湯のみを傾ける。入れられたばかりの緑茶は想像よりも熱く、思わず「あちっ……」と声に出してしまった。

「別にそういうわけじゃないけれど……、でもこのお店、旧校舎の奥まった場所にあるし、わざわざ私のいる時間にやって来たのだから、何かあったのかと思うじゃない」

「生徒会室に行く途中でたまたま目に入ったんだよ。弓道部の茶店っていったら色々あったからな。結局、上手くやれてるのか確認がてら立ち寄ったんだ」

「生徒会室? ああ……、白日さんに呼び出されたのね」

 特に説明したわけでもないが、いつものことなので野々宮は理解したようだ。それ以上深くは聞いてこなかった。

 代わって今度は僕が質問する。

「で、どうなんだよ実際。お前的な評価は?」

「……まぁ可もなく不可も無くといったところかしらね。皆もともと雰囲気だけを楽しめれば良かったみたいだから、手が込んでいるのは内装ぐらいのものだし……。だからこそ、メニューは全部既製品で済ませてるの。お菓子を全部一から手作りするとなると、かなりの手間と時間が掛かるから」

「なるほどな。……まぁ準備期間も決して長かったわけじゃないし、そもそもお前が茶店をするって話を聞いたのも途中からだもんな。それが妥当か」

 言いながら僕は、葉っぱの形をした器に乗った水まんじゅうを、添えられた田楽串で一口いただく。熱いお茶で温まった口の中に、ひんやりと涼しげな口当たり。つるりとしたのぞ越しが心地よい。

 全て平らげたあと、最後にほどよい温度まで冷めたお茶で締め括ってから、僕はふと思ったことを口にした。

「お前も大変だな、いろいろと振り回されっぱなしで」

「……? どういうこと?」

 要領を得なかったのか、小首を傾げる野々宮。

「どうせこの茶店も、ほとんどお前が動いてやっと形になったんだろ? 生徒会の仕事もあるのによくやるよ」

「……ああ、まぁでも仕方ないわよ。それが部長の役割なのだし。それもあと少しの間だから……」

「少しの間って……、どういうことだよ?」

 聞くと、野々宮は微笑みながら諦めるような口調で答えた。

「私ね、弓道部の部長、辞めることにしたの」

「……え? 辞める? 部長を? なんでって……聞くまでもないけど……、でもなんでだよ?」

「あなたの想像通りよ。私一人で弓道部を取り仕切るのがそろそろ重荷になってきたの。あとそれとは別に、生徒会業務に本腰を入れたいからっていうのもあるけれどね」

 野々宮はさしてたいしたことでもないふうに言ってのける。そして、こうも続けた。

「最初は弓道部自体止めてしまうつもりだったのだけれど……、まだ弓道への未練が残っているし、それにここで止めてしまえば他の部員たちに好き勝手言われそうで癪だからね。そこへいくと、部長だけ辞任するという形をとれば後継の人間にアドバイスという名目で実質的な指示を出せるから、権限を残したまま責任だけを別の者に押し付けることができる。好きなときに言いたいことを言えて、かつ非難の矛先を逸らすことができる理想的な立場に着けるわ」

「理屈は分かるけど何か釈然としないな……」

 そういう考え方は何というか……、野々宮よりも僕が好んでしそうな考え方だ。

 微妙な表情から僕の言いたいことが野々宮にも伝わったのか、彼女は釈明した。

「さっきも言ったけれど、今は弓道部のことよりも生徒会のことに集中したいの。……ほら、もうあと数ヶ月もしないうちに任期満了で役員が移り変わるでしょ?」

 ……あ、そうか。言われてみれば確かにその通りだ。

 今は六月の中旬。三年の受験の都合もあってこの学校では早めに世代交代されるから、次の生徒会発足は九月ごろ。選挙管理委員会の前準備と候補の募集、選挙演説の日取りや実際の投票を計算に入れると、七月の終わりには現生徒会の引き上げが済んでいることが望ましい。つまり、あと一か月ちょっとの猶予しか残されていないわけだ。

 だから野々宮は、残された任期を最後までまっとうしたいということなのだろうか?

 尋ねると、野々宮は小さくかぶりを振る。

「いや、むしろ逆ね。もちろん現生徒会も抜かりなく終えるつもりだけれど、私が見据えているのはその先。次の世代の生徒会よ」

「……は? 次の世代?」

 野々宮は無言で頷くと、期待を込めた眼差しでこちらを見る。

 や、そんなキラキラした視線を僕に向けられましても……。ってか野々宮のキャラにそういうの全然合ってないから怖いし不気味だしちょっとドキッとして困る。

 つい誤魔化すように目線を逸らしてしまう僕。それを知ってか知らずか、野々宮はそんな僕に追撃するように隣に座ってきた。女座りによって伸ばされた細長い足が妙に艶めかしい。袴で隠れているはずなのに。自然と鼓動が早くなる。

 それからしばらく黙って虚空を見つめていた野々宮が、ふいにぼそっと溢した。

「私ね……、みんなと生徒会の仕事やれて楽しかった」

「みんなってのは……」

「もちろん、篠倉さん那須美くん、それから白日さん、当然……あなたもよ」

 聞くまでもないでしょと言わんばかりに、野々宮はふふと苦笑する。

 最後に着け添えられた自分の名前が妙にむず痒く、思わず僕は「お……あ、おう……。そっ、そうか……」とキョドってしまって実にキモい。

 そんな僕がおかしかったのか、野々宮は更にくすっと笑った。

「そうよ。だから私は……、今度はあなたたちと一緒に、正真正銘の正規のメンバーとして生徒会をやっていきたいの」

「はぁ……? 僕らが生徒会……? そんな無理な話……ってわけでもないのか、よく考えてみれば」

 仰け反り気味に大袈裟に驚いてしまったが、しかしよくよく考えてみるとそれほど突飛な発想でもなかった。

 なぜなら僕らは、短期間とはいえ現に現生徒会に代わってその業務を完遂したのだ。そういった運営側の経験が無い者もいる中、別段余裕が無かったわけでもないし、不測の事態にも十分な対応ができた。ちょうど人数も揃っているわけだし、これだけの条件が揃えば現生徒会役員である野々宮が僕らを次の役員へと推すのは自然なことだろう。矛盾は無い。

「……ただ、想像はあまりできないけど」

 考えていると、思考が途中から声に出ていたらしい。野々宮が言い返してきた。

「想像も何も、正式な役職につくということ以外はほとんど変わりないわ。……そうね、経験と適正から考えて白日さんが会長、私が副会長で、篠倉さんと那須美君が書記、あなたは会計といったところかしら」

「どうして僕が会計なんだよ? 別に嫌じゃないけど」

「だってあなたが一番お金にうるさそうだもの。……いえ、お金にケチ……汚い。そう、お金に汚そうだもの」

「なんで言い直したんだよ」

 別に間違っちゃいないけどな。以前に各クラスの文化祭の企画書を確認していたときは、真っ先に予算に目が行っていたし。

 ……ってかだいたい、野々宮の言ったことには一つ大きな問題がある。

「お前がどうしてもそうしたいって言うんなら……僕も天邪鬼に反発したりしないけどさ、特に篠倉なんかは喜んで賛成するだろうし。……でも、芙蓉は別だろ」

 あいつは気まぐれで掴みどころのないやつだから、次の生徒会まで引き受けるかどうかまでは分からない。むしろこちらから誘えば、それこそ天邪鬼に『そのつもりだったけどやっぱりやーめた』となるまである。

「そうかしら? 彼女、案外真面目な性格よ。煙草屋会長のいない間は、誰に言われたわけでもなく彼女が進んでその代わりを務めていたし、指示もまめだったでしょ。出店外組の旧校舎移動も、彼女が教師陣に話をつけてそれで決定したらしいわ」

 はーん、あいつがね……。それを聞くと確かにそんなふうに思えなくもないな。

 普段は飄々としているけれど、こと生徒会行事に関しては真面目に取り組んでいた印象はある。僕らという生徒会の助っ人を探したり、弓道部の企画書の件やバンドグループのドタキャンの件など業務に何か支障をきたしそうなものがあれば即座に対応したりと、わりと副会長らしい活躍をしている。仕事も自ら進んですることが多かったし、それが生徒会にやりがいを感じていたからだとすれば、芙蓉が次の生徒会役員に立候補することもない話ではない。

「ま、これからちょうど芙蓉に会いに行くところだしそれも聞いといてやるよ。何にせよ話はそれからだ」

 壁に掛けられた時計を見やり、僕は席を立ち上がった。

 時刻は午後二時四六分――芙蓉との約束の時間まであと一五分もないので、もうそろそろここを出た方がいいだろう。

「あ、そうだ野々宮。お前放課後空いてるか?」

「別に予定は無いけれど……、それがどうか……あっ」

 空いた皿と湯呑を片付けていると、野々宮は突然ピタッと止まって何かに気づいたような素振りを見せた。しかし野々宮は咳払いをしてそれを誤魔化すと、いそいそとまたすぐに手を動かし始める。

「……こほん。それで、私の予定を聞いてどうしようというのかしら?」

 野々宮はこちらを向きもしないで、片手間に尋ねてくる。それが返って余裕がないように見えるというか、何だか答えを急かしているように思えた。

「いや何、別にそうたいしたことじゃないんだ」

「……へ?」

 僕が断ると、野々宮は珍しく気の抜けたような声を漏らした。

「篠倉との話の流れで……、放課後にみんなで文化祭の打ち上げをすることになったんだよ。篠倉は当然参加だとして、那須美も行くってことだった。んで、お前は来れんのかなって思ってさ」

「……そ、そう。そうなんだ……。みんなで……、ね。……と、当然よね! 私たちみんなが協力して成し遂げた文化祭なんだから……あはは……、はぁー……」

 なぜだか重いものが肩にずーんとのしかかったように顔を伏せる野々宮。口調も急にたどたどしくなって、見るからに気落ちしている。いったいどうしたというのだろうか?

「……あの、野々宮? 何か僕まずいことを……」

「別に何でもないわよ! 打ち上げもちゃんと行かせてもらうから心配しないで!」

 野々宮の顔を覗きこむ僕を、彼女は手で押しやって突っぱねる。

 どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。野々宮は満面を朱に染めて、ぷいっと僕から顔を逸らしてしまった。

 決まりが悪くなって、僕はぼりぼりと頭を掻く。これからここを出ようとしていたところなのに、何だか後味の悪い去り際になってしまった。

 このまま行ってしまうのもどうかと思って考え倦んでいると、野々宮がつんとぞんざいな態度で手を差し出してきた。

「……お代」

「え? ああ……、そうだったな。ほら」

 財布からちょうどの額を取り出して、伝票と一緒に野々宮に差し出す。野々宮は僕と目を合わせようともせずに、黙ってそれを受け取った。

「………………」

「えっーと……、もしかして足りなかったか?」

 決してそんなはずはないのだが、野々宮が料金を受け取っても突っ立ったままそこから動こうとしないので、まだ何かあるのかと僕もこの場を離れることができない。

 幾秒か経ち、こちらが口を開こうとした矢先、野々宮が小声で一言――

「………………じゃあ、また後でね。荻村君」

 と、ぽつりと呟いて小さく手を振ると、野々宮はすぐにカウンターの奥へそそくさと戻っていってしまった。

 何だかよく分からんけど……、とりあえず怒ってはいないらしい。じゃなきゃまた後でなんて言ってくれないだろうから。

 僕はほっと胸を撫で下ろして一息つくと、すぐに時計を確認し、茶店を後にする。

 ここから生徒会室までは目と鼻の先だ。今から行けば、ちょうど約束の時間に間に合うだろう。

 緑茶の渋くてちょっぴり甘い香りに後を引かれつつ、僕は生徒会室に向かった。


 六


「やあ富士。待ちくたびれたぞ」

 と、生徒会室に入るなり、向かい正面の会長の席に座った白日芙蓉にそんな言葉を掛けられた。

「別に遅刻はしてないだろ。約束の時間ちょうどじゃねぇか」

「何、さすがの生徒会副会長様も文化祭当日になるとすることがなくて暇でね、少し早めにここに来てお前を待ってんだよ」

 言いながら芙蓉は立ち上がると、僕の前までとことこやって来る。そして、「とりあえずここに掛けろ」と手前の長卓の椅子を引いた。

 立ち話もなんだし言われた通りそこに腰を掛けると、芙蓉もその正面の席に座った。

「そうだ、お茶でも入れようか?」

 再び立ち上がろうとする芙蓉を、僕は手で制して断った。

「や、僕は遠慮しておくよ」

「……そうか、なら僕も止めておこう」

 芙蓉は椅子に座り直すと、壁に掛けられたカレンダーに目をやる。

 そして、感慨深そうに頷いた。

「今日は六月の一七日。お前と最初に出会ったのが五月の中頃だったか? するとあれから一か月ほどが経ったわけだ。意外に短いな、お前とはもう少しばかり長い付き合いだと思っていたよ」

「そのたった一か月に山ほどの出来事が詰まってるからな。そう感じるのも無理はないかもな」

 芙蓉のことだけじゃない。僕が篠倉と出会ってから、僕が夢世界の存在を知ってからの毎日は、一日一日がとても重くて価値のあるものだった。これほど長い二か月間は、今までの僕の人生の中でも間違いなく経験したことがない。

 人間、楽しいときは時間を短く感じて、辛いときは時間を長く感じるものだというが、案外それは苦楽の問題じゃないのかもしれない。過ぎゆく日々に何も感じず意味を見いださなければ、そこに思い出はなく記憶には残らないだろう。たいして覚えてもいない普段通りの代わり映えのしない日常なら、そりゃ時間が早く過ぎていったようにも感じるはずだ。逆に自分の印象に強く残るような出来事さえあれば、その分だけ記憶にも多く残る。思い出の量が前者よりも多いのだから、過ぎ去った日々も長く感じるはずだ。

 数字にしてたった二か月――これから先の学校生活の方が遥かに長いが、これは僕の高校生という時期を象徴する思い出になるはずだ。楽しかったことも、苦しかったことも、全てが凝縮された二か月間だった。

 ――これまでのことを回想していると、そこに芙蓉が「おいおい、ちょっと待て」と口を挟んできた。

「感傷に浸るのも構わないけれど、区切りを付けるにはまだ早いんじゃないか? あと一つ、最後に片付けなければいけないことが残っているだろう」

 片付けなければいけないこと――確かに当初の懸念事項である文化祭運営はひとまず落着し、かねてからの命題であった悪夢騒動の主犯、座頭橋先生とも決着をつけた。

 大仰な言い方をすれば、僕の使命はこれで全て果たしたように思える。しかし実際には、僕の目の前にはまだやりのこしたことが残されているらしかった。

 ――白日芙蓉との、けじめ。

「……生徒会の仕事を手伝えば、お前の正体について質問に答えてくれる。そういえばそんな約束だったな」

「正確には、何でも好きな質問に答えてやる、だがな。……ま、とにかくお前はよくやってくれたよ。突拍子もない頼み事だったにも拘わらず、お前は見事に私の期待通りの働きをしてくれた。改めて礼を言おう」

 そこで芙蓉は、意外にもペコリと軽く頭を下げた。彼女から礼の言葉を聞くだけでも珍しいのに、そんな素直な態度をとられると逆に調子が狂ってくる。

「別に……、それはいいんだけどさ。もともとそういう条件でこっちにも対価があるわけだし。それにお前だって端々で僕らの助けをしてくれてたじゃねぇか。昏睡状態の生徒たちが今日こうして無事文化祭に出席できてるのも、お前が昨日何かしたからなんだろ? ほら、あのとき座頭橋先生に言ってただろ。明日の朝には、全員がいつも通りの朝を迎えられるようにするって。まぁ実際にお前が何をどうしたのかよく分からんけど」

「……そうだな。ではそれも含めて、全ての種明かしといこうか」

 芙蓉は静かに瞑目する。まずはどれから説明したものかと考えているのだろうか。瞬時にこの教室いっぱいに静寂が広がり、僕の視界には芙蓉の姿のみ映る。まるで僕と彼女が向き合ったその空間だけが生徒会室から切り離されたように、僕らの意識は互いに相手へと集中していた。

「……では、順を追って」

 沈黙を破り、芙蓉が口を開いた。

「考えてみたがお前の疑問視している点はそう多くないはずだ。大まかにまとめてしまえば、根源的には一つと言ってもいいだろう」

 芙蓉はおもむろに開眼すると、人差し指を立てて示した。

「僕の正体は何か――畢竟これに尽きる」

「……ま、それには違いないな」

 何でも幾らでも好きな質問に答えてもらえるとの約束ではあったが、あのときの僕が気になっていたこと、聞きたかったことは、本来そのたった一つだけなのだ。

 芙蓉との初対面――僕が初めて彼女に抱いた感想はただひたすらに『不気味』。芙蓉の得体の知れなさ底の知れなさが、気味悪かった。どうしてこうも、彼女は自分のことについて知り得ているのか、核心を突くようなことを言うのか。その理由を明らかにしなければ、いつまでもその気味の悪さは後に残るような気がしたのだ。

 だからこそ、がらじゃない生徒会の手伝いまでやってのけた。

「誤魔化さず率直に言おう。私の正体はな、お前らの『夢』だ」

「……えっ、は?」

 芙蓉の言っている意味が分からない……わけではないが、あまりに信じがたいというかイメージしていたものとスケールが違い過ぎたので、僕は思わず聞き返してしまった。

「正確には、夢のバックアップと言った方が正しいかな。要は身を守るための保険だ」

 説明を付け加えられたところで全く意味不明だ。こっちから質問したのにも拘わらず、こいついきなり何わけの分からんこと言ってんのと思っているまである。

 疑問は尽きないが、しかしそこに僕が口を挟んだところで余計にややこしくするだけだろう。とりあえず最後まで黙って話を聞いてみることにする。

「始まりは今から二か月前――この学校の生徒たちに大きく影響を与えることになる出来事が起きた。……それが何か分かるか?」

 今から二か月前と言えば……四月。ちょうど新年度を迎えたばかりで、周囲の環境ががらりと一変するころだ。一口に影響を与える出来事といっても、むしろそうじゃないことの方が少ないくらいで……。

「思いつかないか? まさかそんなはずはないだろう。お前自身、その時期が分水嶺となったから今ここでこうして僕と会話しているんじゃないか」

「……僕に影響を与えた出来事って言えば、あの日保健室で篠倉と邂逅したことだけど……、いやでもやっぱり違うか? それって僕に限った話だもんな」

「や、でも惜しいよ。さらに、そのきっかけとなったことを考えてみるんだ」

 きっかけ、か。あの日確か僕は――

「……あ」

「思い出せたか?」

「あの日確か僕は、授業中に居眠りをしていて……それで悪夢を見たんだった。それで体がだるくて気乗りしなかったから……、保健室で次の授業をサボることにしたんだった」

「そうそれだ。〝悪夢〟なんだよ富士」

 軽快にパチンと指を鳴らして、「それがキーワードだ」と芙蓉は言う。そして、こう続けた。

「四月当初――この学校にある人物が教育実習生という名目でやって来た。その人物はこの学校の生徒の夢を無差別に荒して回り、その人物の元ある夢を破壊して強制的に悪夢を見せた。それが君も知っての通り――」

「……座頭橋先生か」

「ご名答。ついで教えてやると、あの時期に悪夢にうなされていたのはお前だけじゃないんだ。気づかれなかっただけで実は他にもいた。それに座頭橋瑠璃がこの学校に来る以前のものも含めると、彼女による悪夢の被害は結構な規模になる。お前が想像していたよりも遥かにな」

 言われてみれば確かにそうだ。僕は最近になって悪夢が何者かの手によって引き起こされたものだと気づき、その被害は僕らだけでなくこの学校の生徒らにも広がっているのだとそのとき初めて知った。しかし考えてみれば、それは僕らが認知していなかっただけの話で、四月五月の早い段階で僕らと同様に悪夢にうなされていた者が他にもいたかもしれないし、おそらく座頭橋先生は城野高校の教育実習生として就く以前からもその所業を繰り返し行っていただろう。そう考えると、被害者は城野高校内に留まらず、先生の関わった様々な場所で存在していることになる。

 ……今更だが、本当に末恐ろしい話だ。その責任を先生に取らせるどころか、逆に彼女へ手を差し伸べた僕が言うのも何だけど。

「でもそれが、お前の出自といったい何の関係があるんだよ?」

「バカ、大ありだよ」

 芙蓉は呆れるように僕の疑問を一蹴すると、ようやく話の本筋に戻る。

「彼女が作り出した悪夢によってあらゆる人の夢がどんどん破壊され、夢世界は大きなダメージを負った。このままでは近いうちに夢世界は崩壊し、人々の精神に多大な影響を及ぼすことになる。そうならない為に夢世界は、現実世界に夢の複製を保存したわけだ。たとえ座頭橋瑠璃によって夢を破壊されたとしても、欠けた部分を複製からコピーすることで修復する――バックアップを作り出した。それこそが……、この僕なんだよ。悪夢に侵されて寝たきりの生徒たちが突然快復したのは、そのバックアップから夢を復元したからだ」

 ………………なるほど、理屈はおおよそ分かった。分かったのだが……、そんなことを容易く受け入れられるほど僕は聡くない。夢世界が現実世界に干渉しただけでなく、こんな捻くれた可愛げのない女の子を生み出してしまうことなんて、そんな荒唐無稽な話が有り得てしまっていいのだろうか? 超明晰の力や夢魔なんかはまだ夢で起きている出来事だからと納得することはできたが、今芙蓉が説明したのはあくまで現実世界でのこと。夢とは違い、万物には道理と法則がありそれを無視することは決して許されない。

「お前が言う通りだとすれば……、夢が現実に働きかけて影響を及ぼしたってことだろ? やっぱり素直に納得はできないな」

「そう言われてもな……。あくまでそれは現象だから説明のしようがないし。ほら、リンゴが気から落ちるのは引力の所為だと分かっても、引力によってなぜリンゴが気から落ちるのかは分からないだろ? 突き詰めるとなんでも哲学的で抽象的な説明に頼らざるを得なくなる。これはそういう話なのさ」

 それに――と、芙蓉は続けた。

「それに現実世界でも、目覚めているときでも夢の影響を受けることはあるんだぞ? 例えば――白昼夢とかな」

「白昼夢? 白昼って……、あっ? お前の苗字ってもしかして――」

「おっ、察しがいいな。まさにその通り。白日は、白昼夢からとった苗字だ」

 白昼夢――日中に見る夢のことで、主に幻など非現実的な体験を指す。白昼は白日(はくじつ)と言い換えることができ、読みが変わって白日(しらくさ)だ。夢が形となって現実に現れた彼女は、まさに白昼夢そのもの。名は体を表すとはよく言うが、彼女の場合はそれが逆で、体が名を表しているのだ。

「ちなみに、下の名前のにもちゃんと意味があるんだが……分かるか?」

「下の名前というと……、『芙蓉』ってのにもか? 芙蓉って……確か花の名前だっけ? 名前ぐらいしか聞いたことないからよく知らんけど」

「その通りだ。そしてその花の美しさから転じて、古くから芙蓉は美しい女性の例えとしても用いられる」

「それだとお前がまるで美人みたいに聞こえ――って痛い!」

 机越しに脛を蹴られ、思わず仰け反ってしまい椅子ごと倒れそうになる僕。芙蓉ったら顔色一つ変えず何の前触れもなしに手もとい足を出してきやがった。……さすがに悪ふざけがすぎたかな?

 僕が居住まいを正して聞く体勢に戻ると、芙蓉はふんと鼻を鳴らしてからまた話し始めた。

「僕が言いたいのは、つまり芙蓉という言葉は美しい物を表現するための美称としても扱われるということだ。例えば『芙蓉峰』――これはある山の別名だが、その二つとない気高き美しさに準えてそう呼ばれるようになったらしい」

 ……ん? 二つとない……気高くて美しい山? なんかそんな山を知っているような気がしなくもない。

「それってたぶん日本の山だよな?」

「そうだよ。日本のシンボルと言っても過言ではない。標高3776メートル。その優雅な景観はかつての歌人たちも多く歌に残したほどだ。……田子の浦ゆ、打ち出でて見れば、白妙の――」

 富士の高嶺に雪は振りつつ――山部赤人。小学生でも知っているやつは知っている、百人一首の有名な詩だ。

 富士。なるほど、つまり芙蓉峰とは、どうやら富士山のことらしい。 ……ん? いや、ちょっと待てよ……? 僕の名前も富士でトミシなんだけど……、これはどういうことなのだろうか? 偶然か?

「どうやら理解し始めたようだな」

 僕の背後から、くくっと不敵な笑い声が聞こえてきた。

 振り向くと、芙蓉がいつの間にか僕の背後に立っている。そして彼女はいつかのように――僕の肩にそっと手を添えると、耳元で囁いたのだ。

「……そう。私の芙蓉という名前は、トミシ――お前の対として、お前のドッペルとしての僕を意味するものなんだよ」

「僕の……対? ドッペル……? お前いったい何を言って――」

「僕が夢世界のバックアップだということは今話したな?」

 意味が分からず狼狽える僕の言葉を遮って、芙蓉は説明を続ける。

「そもそも私がなぜ人の形をしているのか? これは、現実世界にただ形として物として保存するだけでは、何かの拍子でそれが破壊されてしまうかもしれないからだ。ただの物体では考える力も無ければ自己防衛することすらできないからな。しかし人間を媒体にすれば、それらの事項は全て解決される。それで僕は、現実世界に人間として姿を成しているのだ」

 芙蓉は僕の肩から手を離すと、隣の席に腰掛ける。そして背もたれに肘を突き体を僕の方に向けると、その無駄に長くて細いすらりとした足を組んだ。

 どう見ても、彼女が僕らのような普通の人間ではないだなんて信じられない。その容姿や仕草の何一つとっても、芙蓉の言を聞いた今でさえ特異な点を見つけるなどできず、彼彼女はとても人間らしい。

 芙蓉の話を聞く限り、その人間らしさも外敵から身を守るカムフラージュなのかもしれないが。

「……僕の話が信じられないか? それはそうさ。さっきも言った通り、僕はお前のドッペルだ。僕の人間らしさを否定することは、とりもなおさずお前自身を否定することになる」

 人差し指を僕の胸に突きつけて、そう指摘する芙蓉。

 彼女が先ほどから繰り返しているドッペルとは――複製あるいはコピー、写しのことだ。

つまり彼女の言う通りならば、白日芙蓉は荻村富士をコピーした模倣品だとそういうことになる――が、それも知っている言葉の意味をそれぞれ繋げただけで、理解とはほど遠い。

芙蓉が口にしたことをそのまま直訳しているだけで、結局それが何を意味するのか結論づかないまとまらない。

 前情報と新事実で頭の中がこんがらがって、僕の頭はぽかーんだ。

「まぁそう言わずに考えてもみてくれ。……現実世界に人間を媒体としてバックアップをとるにしても、何も無いところから一つの個を生み出すのは難しいだろ? 例えば駆け出しの漫画家なんかでも、最初から全くのオリジナルのストーリーやキャラを作り出すのはナンセンスだ。例えそれが何かの模倣品だとしても、最初は誰かの真似事から入ることが一番イメージを掴みやすい。画家のデッサンとかも同じだ。それと一緒で僕の場合も、現実世界に僕をかたどるベースが必要だった。それがお前なんだ」

「だからなんでそこで僕が出てくるんだよ」

「そりゃもちろん、お前が座頭橋瑠璃に目を付けられていたからだよ」

「はぁ?」

 何がもちろんなのかさっぱり分からない。

 そんな僕の様子を受けて、芙蓉がさらに言葉を噛み砕く。

「彼女は当初から自分と似た境遇のお前に興味を抱いていた。だからこそお前を目にかけていたし色々とちょっかいを出していたわけだが、言うなれば、僕はそれをデコイにしていたんだ。座頭橋瑠璃の気に入っている荻村富士に性格や容姿を似せてキャラを被せることで、逆に彼女の目に目立たなくなるという寸法だ。木を隠すには森の中ということだな。僕とお前で性別が異なっているのはその辺りの調整だろう。あまり似すぎていても具合が悪いからな」

「……僕の影に隠れていたってことか? でも目立たないってだけなら、先生が全く興味の抱かないようなどっかそこらの平凡な人間でもよかったんじゃないか?」

「ところがそうもいかないんだよ。座頭橋瑠璃は極めて不安定な人間だからな。お前のように気に入ったやつをターゲットにすることもあれば、有象無象から無作為に選んで手を出すこともある。バックアップがそんなデタラメな抽選で呆気なく壊されてしまってはかなわないだろ? さっきも言った通り、標的にならないためには彼女の目をデコイで逸らすのが最善の塩梅なんだよ。それに、お前の性格は何かと都合が良い」

「性格?」

「ああ。お前は賢く自己理解に優れ、さらに他人に対してひどく臆病だからな。自分の身を他人から守るのに、これほど都合の良い性格はない」

 賢くて、臆病か。後者はともかくとして自分の分身にそういった評価をされると何だか変な気分だ。ダイナミック自画自賛って感じ。

 ――そう、目の前にいるのは他でもない僕の分身なんだ。そりゃ彼女が僕のことを何でもお見通しでもおかしくはない。だって芙蓉が考えることは、そのまま僕が考えることでもあるのだから。彼女の見透かしたような話し方は、そこからくるものだったわけだ。

 またそれと同時に、彼女は皆の夢そのものでもある。夢世界で起きていることの全貌を把握していたって、何ら不思議ではないのだ。夢と意識には深い関わりがある――だとすれば、皆の記憶を少しいじって生徒会に潜り込むことも可能だろう。彼女が生まれた時期と、生徒会設立の時期にズレがあるのは、おそらくそういうことだ。

「……それでもって生徒会に入ったのは、会長の動きを近くで監視するためか。あいつなら元凶じゃない分接近してもさほど問題ないってことか……? その元凶の座頭橋先生が直接生徒会に介入してきたことまでは、さすがのお前も読み切れなかったわけだ」

「まさしくその通りだ。しかしそれもお前を生徒会に引き込んでいたおかげで、うまく注意を逸らすことができた。もちろん、それでも彼女との接触は最低限避けるようにしていたけれど」

「確か先生本人も文化祭の前準備のときにそんなことを言ってたな。近寄りがたいとか何とか」

 芙蓉の名前を思い出すのにも時間を少し掛けていたし、彼女はあまり先生の印象には残っていない様子だった。芙蓉の狙いは当たっていたわけだ。

「それにしても、お前の正体がまさか……僕自身だったなんてな。一応話の筋は通ってるし否定はできないけれど……、なんつーか複雑な気分だ」

 言いながら僕は、芙蓉の顔を改めてよく見てみる。言われてみると芙蓉の表情や雰囲気は、やはり僕と似通っている。二重瞼のたれ目と彼女の脱力感からくる眠そうな顔つきは、まさしく僕のそれだ。一見寝癖に見える襟足のくせ毛まで共通している。

「……言ってみれば妹ができたようなもんか」

 僕がぼそっと呟くと、芙蓉は手を顎にやって「んー……」としばらく考えてから、真顔で返した。

「正直、キモいぞ」

 その鋭すぎる物言いにう打ちのめされそうになる僕。しかし何とか僕は気を持ち直して、弁明する。

「いや思ったんだけどさ。ドッペルって言い方だと何か、お前が僕のクローンみたいじゃん? 確かに僕とお前は限りなく似ているかもしれないけれど、まるっきり一緒ってわけじゃないだろ」

「……? それはどう違うんだ?」

「大違いだよ」

 不得要領とばかりに首を捻る芙蓉に、僕は言う。

「さっきああは言ったけど、普通なら生徒会に入るなんてリスクリターンの少ないことは多分できないはずだ。だって立場的に目立ちすぎるからな。僕というデコイがあるからとはいえ、徹底するならそもそも委員会にすら入らないはずだ。もっと言うと、この学校に近づかないのが一番簡単で安全だ」

 ぽかーんと口を開け、呆けた表情で目をぱちくりさせる芙蓉。よほど意外だったようで、どうやら僕の言ったようなことは考えもしなかったらしい。僅かな間、芙蓉はまるで頭脳がフリーズしたかのように固まっていた。

 ややあって、芙蓉ははっ我に返ってからなぜだか少し慌てて釈明した。

「いや、だからそれはだな。座頭橋瑠璃を止められる可能性のあるお前たちとコンタクトをとる必要があったからで、自然にその流れや状況を作るためには同じくこの学校の生徒として振る舞うのが一番手っ取り早かっただけだ。生徒会に入ったのも、元よりお前たちを引き込むつもりだったからだ。コミュニケーションの場を楽に用意できるし、生徒会業務としての名目で指示を出せば、悪夢を見ている者や見せている者に対しての行動を誘導できる。監視以外の目的もまた大きい」

「そうか? 僕には、また別の理由に思えるけどな」

「はぁ? どういうことだ?」

 おもむろに腕を組み、訝しげな視線を僕に送る芙蓉。

 よくよく考えてみると、芙蓉は飄々とした態度をとって人をからかうことはっても、邪険な態度をとることはそうそうないことなのでちょっと珍しい。見透かしたふうにされるのが気に喰わないのだろうか? 相手に話の主導権を握られるのはあまり得意じゃないようだ。

 不躾な表情を崩さぬ芙蓉に、僕は一つ咳払いをしてから切り出した。

「お前が生徒会に入ったのはたぶん――自分の存在価値を探してたんだ」

 芙蓉と僕は二アリーイコールだ。芙蓉に僕の想いや考えが分かるというのなら、その逆もまた同じことが言える。僕には、白日芙蓉の心持ちが分かる。

 僕が彼女の立場なら、きっとこんな感情を抱くはずだ。

「夢世界のバックアップとして生まれたお前は、その使命を終えたとき自分がどうなるのか怖かったんだよ。目的を果たしたとき、具体的には座頭橋先生との決着がついたとき、それと同時に自分の生きる意味を失うから。存在価値が無くなるから。だからお前は、自分に『生徒会副会長』っていう別の役目を与えたんだ」

 白日芙蓉は、ひどく曖昧な存在だ。現実世界に存在するにも拘わらず、その実体は夢世界のデータによって成り立っている。夢と現実、両方の性質を持っているがゆえに、彼女は純粋ではないし、そのどちらでもなく、そこに存在しているのかどうかも怪しい存在だ。僕に問われて自分の正体を明かした芙蓉だが、ある意味では自分自身が一番その答えを求めていたのかもしれない。

 だから芙蓉は――生徒会副会長として、城野高の生徒として、ただの現象としてではなく、人間として生きることを選んだ。そうすることで彼女は、自分の存在価値を見出し証明しようとしていたのだ。コミュニティに属し、その中での役割を遂行し、人の生き方を模倣することで――彼女は現実世界との繋がりを強めていった。近い未来自分の本当の目的が果たされたとき、二つの世界から振るい落とされてしまわないように。曖昧な存在では、誰に気づかれることもなくいつ消えてもおかしくはないから。

「――結局お前も僕と一緒で、『孤独』を感じてたんだと思う。自分がどこにいるかも分からず、考えを共有できる人間もいない。ただ与えられた使命のために、使い捨ての自分がたった一人で奮闘するのが虚しく思えたんだ。だからお前はあえて僕らと関係を持ち、そして絆を深めようとした」

 だから白日芙蓉は――彼女と唯一似た存在の、荻村富士の元までやってきたのだ。自分のルーツであり、自分と同じ意識を持った、この僕に会いに来た。

 芙蓉も僕と同じで、独りでは闘えなかったから。

「そんなお前を、軽々しくドッペルとかクローンとかただの複製みたいに呼べるか? そうじゃないだろ。僕とお前はかなり似ているけれど、やっぱり少し違う所があって、それぞれ個性がある。だから兄妹なんだ、僕らは。そう言った方が人間らしくて良い」

「……兄妹、か。……ぷっ、くく……」

 あははははは――と、芙蓉は甲高く哄笑した。

「ふふっ……、なるほどな。そんなふうには一度も考えたことがなかった。確かに言い得て妙だ。夢から生まれた僕にそれがあるはずもなし、お前だって両親には恵まれていなかったからな。お互いに、『家族』というものを欲していたわけだ……」

 ふぅと一呼吸置いて、芙蓉は笑みを落ち着かせる。そして、椅子に正しく座り直した。

 ふいに芙蓉は、天井を仰いだ。背もたれにしな垂れ掛かっているせいで、椅子が斜めを向いている。沈みこむように椅子からずり落ちる彼女を、いったい何をしているのかと横から顔を覗いてみれば、彼女は生徒会室じゅうに視線を巡らせていたのだった。

 ここで過ごした僕らの日々を、その目でまた思い出しているのだろうか。

「――ガチャーン?」

 不安定な姿勢のままで保てるはずがなく、芙蓉は椅子ごと頭から後ろに倒れた。床に頭をぶつけ、こっちがぞっとするような鈍い音がしたので心配になったが、当の本人は頭を擦りながら何食わぬ顔でいる。

 そして芙蓉は、彼女を起こそうと立ち上がっていた僕と目が合うと、また小さく微笑んだ。

「役目を終えた僕にまた役割を与えてくれるとはな……。恐れ入ったよ、さすがは僕のお兄ちゃんだ」

「……いや、その呼び方も十分きめぇから。普通に今まで通りでいいって」

「ははっ、そうか? だったらお前の言う通りにしよう、富士」

 言うと芙蓉は、よっと腹筋の要領で上半身を起こし、パイプ椅子を手でどかしてから立ち上がる。乱れた制服をパンパンと払いながら、もう片方の手で投げるようにしてパイプ椅子を元ある位置へと横着に戻した。

「あんまり雑に扱うなよ。また来期、お前が使うかもしれないものなんだから」

「来期? いや僕は次の生徒会には立候補するつもりはないぞ。たしかに生徒会での活動は悪くなかったが、続ける理由が特に無いしな」

 素気無く否定する芙蓉に、僕は「や、そうじゃないんだよ」と制する。

「野々宮が次期生徒会にみんなで立候補しようって言ってるんだよ」

「だったらお前らで勝手にやっとけばいいじゃないか」

「いやだからみんなってのは僕ら四人だけのことじゃなくて……、野々宮は会長をお前にやってほしいんだと」

「会長を……僕に?」

 芙蓉はピクリと眉を上げて、聞き返しながら少し驚いたような表情を見せた。

「ああ。そんで副会長は野々宮、書記二人が篠倉と那須美、会計が僕だって。僕が会計なのは金勘定にうるさそうだからってことらしい。……ひどいだろ?」

 いやほんとあいつの言葉には、ときどき本気で僕をめげさせようとしているんじゃないかって思えてくるくらいに悪意がある。その上的確でこっちが納得してしまうほどだから、全く何も言い返せないのだ。困った。

 自分で言って気落ちしている僕がおかしかったのか、芙蓉が「そうだな」とやや呆れたようにふっと笑った。

「また僕と生徒会がやりたいだなんて……、彼女もとんだ酔狂人だ」

「別に酔狂ってこともないだろうぜ。野々宮はお前のこと結構高く買ってるみたいだし」

 言ってやると、芙蓉は急に黙って鼻の頭をぽりぽりと掻く。もしや照れているのかと思って顔を覗こうとすると、彼女はそっぽを向いて顔を伏せた。

「やればいいじゃん。せっかく誘われてるんだからさ。生徒会での活動は悪くなかったんだろ?」

「……まぁそうだが。しかし僕が生徒会長か……」

「今回の文化祭でよく働いた分お前なら人望もあると思うし、前のより全然マシだろ。そこに野々宮や篠倉のサポートが付いてくるんだから無敵だ。那須美は知らんけど」

 後押ししてやると、自分のことはさておきと、芙蓉は僕のことを聞いてきた。

「……お前はどうするんだよ? 僕との約束と違って今度は正式な役員だ。仕事はもっと多いし任期は長くなるし、途中で放り出すこともできないし、当然見返りも無い。正直、肩身はかなり狭いと思うぞ」

 芙蓉の真っ当な疑問に、僕はうーんと首を捻る。

 僕としては正直、絶対めんどくさいだろうしいつもなら野々宮の誘いに対して速攻でノーと返していたところなのだけれど、これが意外とやってみてもいいという気持ちもある。

 芙蓉、野々宮、篠倉、那須美、そして僕。この全員が揃うのであれば、めんどくさいことには違いないが、代わり映えのしない日常にまた一つ変化をもたらしてくれるかもしれない。そう思うと、ちょっとそれも悪くないような気がしてくるのだ。

 まあだから結局、つまりどういうことなのかといえば――

「「お前がやるなら僕もやる」」

 と、僕ら二人は全く同時に全く同じことを口にした。それに驚いた僕らは、お互い相手の言ったこと理解するのに時間が掛かり、一瞬だけ硬直してしまう。

 少し間を置いてから、芙蓉が堪えきれず吹き出すように笑って一言。

「……考えることは一緒だな」

 芙蓉がつかつかと僕の目の前まで歩いて来た。僕らの距離は鼻の頭が触れ合ってしまいそうなほどだ。照れて顔を逸らそうとする僕の頬を、芙蓉は両手で挟んで逃げられないようにしてから、そっと告げる。

「僕はとっくにこの世界での役目を終えて……、今は君の家族で妹だ。家族だから、やっぱり傍にいないといけないよな?」

「……そう、かもな」

 芙蓉は納得したように瞑目し頷くと、僕からぱっと離れる。芙蓉の言葉から察するに、たぶん彼女は次期生徒会にも立候補するだろう。であれば僕も、せっかく妹が奮起しているというのだから、それを応援してやらねばなるまい。

「さて、僕らもずいぶん話し込んだな。あれから結構経ったように思うが、今何時だ?」

 篠倉が時計を見上げると同時に――教室のスピーカーにザッーとノイズが流れた。そして次の瞬間、文化祭閉会式の予鈴が校舎に響く。時刻は午後四時五〇分――三日間に渡る学生の祭典も、いよいよこれで終わりを迎える。

「おっと、もうそんな時間か。僕は閉会式での挨拶を任されているからな、もう行かないとダメだ。お前も遅れないよう定刻に出席するんだぞ、いいな?」

「あっ、ちょっと待ってくれ。最後に一つ」

 早々に生徒会室から立ち去ろうとする芙蓉を、僕は引き止めた。

「今日の放課後にみんなで文化祭の打ち上げをすることにしたんだ。せっかくだし、お前も来てくれよ」

「なんだ、そのことか。それならさっき野々宮さんからメールで連絡が回ってきたよ。歩放課後すぐに校門前で待ち合わせだとさ」

 足を止めて振り向くと、芙蓉は自身のケータイを示しながら答えた。

 校門前で待ち合わせ……、企画しておいてなんだが僕はそこまで細かくは伝えていなかったし決めてすらいなかった。こういった約束事にはきっちりしている野々宮だ、きっと僕が後のことを何も考えていないのを見越して気を利かせてくれたのだろう。

「僕がお前らを生徒会に巻き込んだんだ。その労いをしてやるのは当然の義務だよ」

 大仰に自分の胸をバンと叩く芙蓉に、僕は言う。

「そうかい。そりゃ殊勝なこった」

「当たり前だ。……何てったって僕は、次期生徒会長様だからな」

 芙蓉は最後にそんな捨て台詞を残すと、「じゃな」と手を上げて挨拶してから踵を返した。    

 閉会式まであと五分ちょっと。ここから近い体育館で行われるとはいえ、芙蓉の立場上のんびりしていられるはずもなく彼女は速足気味でここを去る。

 そういう責任感とか、何だかんだ次期生徒会にやる気になっているところとか、それはやっぱり僕にはない芙蓉だけのものだ。彼女だけにしかない、立派な特長で個性だ。

 僕よりも、芙蓉の方が優れている部分は多くある。じゃなきゃあの野々宮に、生徒会長に抜擢されたりなんてしないだろう。芙蓉のみが持つ『アイデンティティー』――きっとそれは、彼女が現実世界で生きるにあたって強い味方になるだろう。それは兄である僕が、絶対に保証する。


 七


 ――閉会式が閉式し、クラスでのショートホームルームも終了。終わりを知らせる終わりの式が無事終わり、これにて僕らの文化祭は閉幕と相成った。一年で最も大きなイベントがこの瞬間確かに終了したのだと、クラスのみんなが夕日交じりに微妙な寂寥感を醸し出す中、僕はそそくさと職員室に向かった。

 うちのクラスは他と比べて早くにショートホームルームが終わったのだろう。廊下にはまだそれほど人の姿が見られないし、他のクラスの教室は未だ扉が閉ざされ教師が話をしている途中だった。この分だと校門前にみんなが集合するまで時間が掛かるだろうから、今のうちに、最期にもう一つだけ済ませておこう。

 職員室の前までやってくると――僕はまず、人の多さに驚いた。そして意外なことに、その人というのが教師ではなく生徒。この時間、本来なら自分のクラスのショートホームルームに参加しているはずの生徒らが、なぜか職員室に集中しているのだ。それもあらゆる学年の、人数にしてざっと五〇人はくだらないほどの生徒らが――決して広くはない職員室の中に飽和状態だ。

 そしてその生徒たちの中心には、なんとあの座頭橋先生。彼女はほとんど祀り上げられるように取り囲まれ、やれ花束だのやれ寄せ書きだの定番の贈り物を手渡されている。

 行く道阻まれて中心地まで近づけない僕は、隅の方でつま先立ちして背伸びをしながらその様子を傍観する。……どうやら、僕と同じ考えの者は少なくなかったようだ。

 ――今日は、教育実習生の研修最期の日だ。つまり座頭橋先生はいまこの時点を以てして先生でなくなった、実習生としての任期を満了したのだ。

 なるほど、だから本来であれば未だ教室で自分の席に座っているはずの生徒らが大人数で職員室を占拠しているのにも拘わらず、何のお咎めも無しなのだろう。特別慕われていた彼女のために、こうして最後の別れの時間を取ることを許したのだ。

 先生の元に寄り集う生徒らが、思い思い彼女に感謝の言葉を述べる。

 ――「先生今までありがとう!」「先生がいてくれてホント楽しかった!」「私の悩みを聞いてくれたのは先生だけでした!」「また学校以外の場所でも会いましょう!」「俺、先生に言われた通り受験頑張るよ!」……etc。そこかしこで、先生へのメッセージが飛び交っていた。

 それは先生にとっても予想外のことだったのだろうか。普通の人ならそこで涙を流して生徒らへ思いの丈をぶつけ、教師を目指す意思はより一層確かなものとなるのだろうが、座頭橋先生といえばただただ驚き戸惑うばかり。目の前で起きていることがよほど信じられないのか、それともただ理解できないのか、おそらくそのどちらかなのかあるいは両方だ。群衆の熱気や感涙のムードにすっかり呑まれてしまった先生は、「ぁぅ……あっ……ううっ……」と言葉を詰まらせて碌な反応ができずにいる。

 そんな座頭橋先生を見兼ねてなのか、ある一人の年輩男性教師が生徒らの中に割って入り、「みんなして詰め寄っちゃ先生も話にくいだろう」と助け舟を出す。しかしそれがある意味キラーパスともなって、窘められ場が静まったことで、今度は逆に先生が何か話さないといけない空気になってしまった。

 皆からの注目を一身に浴び、緊張から先生の体はぶるぶると震えだす。頭の中が白で埋め尽くされそうになりながらも、それでも何とか先生は当たり障りのないセリフを記憶の底から引っ張り出してきて、たどたどしくも口にした。先生の声はか細い上にもごもごとはっきりしないから、僕の位置からでは上手く聞き取れない。しかしそれがかえって先生を懸命に、いかにも別れを惜しんでいるふうに見せたのだろう。生徒らの感謝の言葉はしだいに彼女への激励へと代わっていった。

 その激励のだいたいは、先生が教育実習生ではなくて本当の教師になることを応援するものだった。

「私も受験頑張りますから、先生も夢に向かって突っ走しって!」――先生とは関係なしに受験は頑張れ。

「必ずこの学校に帰って来てください。待ってますから!」――その頃にはお前はとっくに卒業している。

「教員試験の勉強、頑張ってください!」――身も蓋も無い。

 というか、教育実習たってたんに単位を取得しているだけにすぎないし、それを経験したからといってみんながみんな教師を目指しているというわけでもない。……もちろんそりゃあ僕だって、僕らと過ごした日々があったからこそ私は教師になれましたって方が嬉しいに決まってるし、できればそうなってほしいと願っているけれど。でも先生の素性を知っている僕には、彼女がその期待に応えてくれることなど無いように思えた。

 そうしているうちに、先生の曖昧模糊な挨拶が終わったらしい。先生が最後に「皆さんありがとうございました」と締め括ると、生徒らや教師陣は手向けに大きな拍手を送った。

 先生とのお別れ会が一旦の幕引きとなり区切りがついたここらで、先ほどの年輩教師が職員室からの退室を促す。あくまで今はショートホームルームの時間であって、文化祭を終えて得た感動をクラスメイトたちと共有することも大事だからと、各自自分のクラスのことを優先させる。生徒らはしぶしぶそれに従い、「先生また後でね!」とか「メアド教えてください! 連絡しますから!」とか言って、また後で改めてお別れの挨拶に来ることを約束しながらその場から各々立ち去って行った。

 僕を遮る壁が消えたことで、先生が僕の視線に気がついた。すると先生は年輩教師に何やら一言断ると、僕の方まで歩いて来る。そしてすれ違い様に僕の肩をぽんと叩いて、言外に着いて来いと示した。

 成すがままに職員室を退室すると、先生は「こっちよ」と隣の特別教室に僕を誘導した。

 特別教室は三日前の様子とは打って変わってすっきりしている。文化祭に使われる備品を全てそれが必要な場所へと移動させたからだろう。しかしここ数日間物置として使用されていたがために、椅子とテーブルは畳まれて隅の方へと除けられている。だから僕らは、腰を据えて話すことはせずに、そのまま自然と立ち話になるのだった。

「文化祭、ちゃんと楽しめた?」

 先生の第一声が、それだった。

「……ええ。出席したのは今日一日だけでしたけど、去年より断然充実してました」

「そ、なら良かった」

 先生は素っ気なく言うと、またすぐに口を閉ざしてしまった。このまま放っておくと何となくずっと黙っていそうな雰囲気だったので、こちらから話題を振る。

「あれだけの人数が先生にお別れのサプライズとは……、先生ってやっぱり生徒たちに慕われていたんですね。……あのとき芙蓉が言った通りだ」

「……ああ、白日さんね。確かにそんなことも言っていたかしら。……あのときは全く意味が分わからなかったけれど、今こうして初めて理解できたわ」

 カツカツとヒールを鳴らして、先生は特別教室のさびれた黒板に歩み寄った。ほこりの被った表面を、先生は名残惜しそうにそっと撫でる。

「……もう私がこうして教卓の前に立つこともなくなるわけだ」

 意外にも未練がましく呟く先生に、僕は尋ねた。

「教師を目指すつもりはないんですか?」

「……どうだろうね。私の場合、教師になろうと思った理由が理由だから……。あんなに応援してくれて悪いけれど、やっぱり胸張って教師にはなれないよ」

 振り向いて、寂しく言い放つ先生。教師になることを望んではいるが、今までしてきたことを負い目に感じているようだ。

「そう……ですか。分かってはいましたけど……、やっぱり残念です。せっかくこっちはやる気になったっていうのに」

「やる気……?」

 ポケットから二つ折りにした一枚の紙を取り出す僕。先生は、それを不思議そうに見つめる。

「何それ?」

「進路調査票ですよ。……前回渡したときは適当に周辺の国立大学書いてやっつけただけですからね。また新しいの貰ってきて真面目に考えたんですよ」

 すっと差し出すと、先生はそれを黙って受け取って紙面に書かれた進路希望に目を通す。 

 先生は無言のままだったが、でも少し目が見開いたというか、ちょっと驚いたような顔をした。

「N教育大学の国語教育専修……第一希望。私と同じだね……」

 先生が調査票と僕とを見比べて、そう呟いた。

「何……? 君、ひょっとして教師になりたいの?」

「ええ、そうですよ」

 戸惑い混じりに確かめる先生に、僕は首肯した。

「学費はどうするのさ? 以前君は、両親のことがあって進学を決め兼ねてるみたいな感じのことを言ってたけど」

「奨学金を借りて……在学中はバイトして補って、それでも足りない分は父親に頭下げてどうにかします。……父親だけじゃなく母親ともちゃんと話をして、この件はかたをつけるもりです」

「決意は固いってこと? いったいどういう風の吹き回しなのさ……」

 先生が眉を下げて頗る怪訝そうな顔をしたので、僕はその動機を明かす。

「無自覚だったのかもしれませんが、先生は僕ら生徒に信頼されています。それはさっき集まった生徒たちを見れば分かると思いますが。……だから、僕もそうなりたいんですよ。あれだけ多くの人間と関わりをもって、お互い信頼関係を結んで絆を築き上げる職業なんて、そうそうありません。もちろん、他人の人生を左右する分責任の重い職業でもありますが、だからこそ僕にはそれが尊いものに思えて、えらく理想的なんです」

「……それで、私に触発されていよいよその気になったっていうの?」

「そういうことになりますかね。……いろいろありましたけれど、結局僕の中で一番先生らしかったのは、あなたでした」

「……そう、なの」

 先生はたったの一言返事をすると、調査票を奇麗に畳み直して大事にスーツの胸ポケットにしまう。そしてそのまましばらく胸に手を当てながら、先生は「これが最後の仕事だね」と静かに笑った。

「教師って大変だよ? 君みたいな意地の悪い生徒相手にしなくちゃなんないし」

「あなたも大概でしょ。……ってか、先生まだ半人前だし。今はただの大学生じゃん。結論づけるのはまだ早いって」

「相変わらずの減らず口だね。君こそ分かったようなことを言うにはまだ若すぎるよ」

 先生はふふっと微笑むと、ふいに視線を窓の外に向けた。何げなく近寄って窓を開け放つと、そこから校舎を一望する。

 瞬間――先生の表情が、微妙に柔らかくなったような気がした。いや正確には、先生の後ろに立っている僕には彼女の顔が見えない。しかし、肩の力が抜け、先生の体全体の緊張が解けたような気がしたのだ。

「……でもまぁ、その通りなのかもね」

 先生が窓辺から見下ろした景色がどんなものだったのかは、僕には分からない。

 だけれど、その所為で先生の胸中で〝未練〟が膨らんでいるのが、僕には一目瞭然だった。

「考え直してみるのも……、ありだよね?」

「はい。是非そうしてみてください」

 ……いや、僕が後押しする必要も、本当はないのかもしれない。

 理由がどうあれ、彼女は一度教師になることを夢見たのだ。人は、たとえ夢から目覚めたとしても、眠りさえすればまた繰り返し夢を見る。一度夢見た自分の理想は、簡単には諦めがつかないものだ。

 僕が余計なことを言わなくとも彼女は、今度は正規の教師として、いずれまたこの学校で教鞭をとることになったのかもしれない。だけれど僕は、座頭橋瑠璃の一番の味方となることを約束した。彼女が路(みち)に迷ったときは、僕が導いてやらなければならない。僕の先生として、彼女がそうしてくれたように――

「……そろそろ行かなきゃ。この後にまだ職員会議が残っているからね。そこでも挨拶しないといけないし」

 先生は腕時計を確認すると、振り向いて僕の目を真っすぐに見つめ返した。

「ねぇ、最後に一つ聞いてもいい?」

「いいですよ、何でしょう?」

 ぐっと居住まいを正して、僕は質問を促す。

「君が教師としての路を選んだ理由は分かったけれど、わざわざこの大学を選んだ理由は何なんだろう?」

「……? 別に特に無いですよ。ただ自分の力に見合ってて、家から一番近い教育大がそこだったって話です」

「……そ、ならいいんだ」

 先生はぽつりと溢し頷くと、視線を教室の出口に移した。別れの挨拶もこれで終わりということらしい、先生は歩き出す。それが少し名残惜しく感じられたが、ここで引き止めてしまっては逆に先生に悪い気がして、僕は言葉を呑みこんだ。

 すれ違いざま――背後から、先生に肩をとんとんと叩かれた。たぶん、振り向き際に人差し指を頬に突き立てるあれだろう。ほんとにこの人は、最後の最後まで懲りずにちょっかいを出してくる。まぁでも最後くらいは付き合ってやろうと、僕は黙って釣られてみた。

 しかし――僕の頬が感じた感触は、もっと柔らかいものだった。

 先生の顔が、想像よりもずっと近い。横目で先生の顎がゆっくりと引かれていくのが見える。背伸びをしていたのだろう、両足のヒールがコツンと床を鳴らした。

 温かく湿っぽい梅雨の風が、僕らを煽る。

「私もう先生じゃないんだし……、いいよね?」

 口角を上げ、眉を垂らし、いらずらっぽく無邪気に、先生は満面の笑みを湛えた。

 僕は先生の笑窪を初めて見た――彼女が笑うところを見たのは決して少ないわけでは無いが、しかし彼女の、今まで隠れていた幸福が一気に爆ぜるような笑顔を見たのは、これが初めてのことだった。

「受験頑張れよ、後輩君」

 それだけ残して、彼女は僕に背を向ける。風に吹かれて揺れる異様に長い前髪が、振袖のように翻った。

 僕は、はっとした――彼女が隠した地肌には、傷はもう無い。それが何を意味するものなのかは、至極明白だった。先生との決着はついた――だからといって、決別するわけじゃないけれど。

 先生が立ち去ったあと、無意識に彼女の気配をどこかに求めて、ほどなく自然と足が窓辺まで動いた。そして僕は、先ほど先生が見ていたのと同じ景色を見下ろす。

 校内を行き交う生徒、そこらじゅうで弾ける笑い声、畳まれたテントや剥がされたポスターなどの――文化祭の残滓。灯りの落ちた教室、紅い光を纏う校舎の壁、伸びきった無数の細長い影、なんとこれから練習を始めるらしい野球部の準備運動。その全てが――僕に得も言われぬノスタルジーを誘う。今間違いなく、彼女は卒業した。

 東の空は、瑠璃色だった。

 

         ×        ×        ×


 ――ガタンゴトン、ガタンゴトン。規則的な音を立てて、電車は揺れる。

 打ち上げの帰り道、すっかり疲れ果ててしまった僕は電車の座席で船を漕いでいた。

 うつらうつらと瞬く視界。電車の振動に合わせて、僕の意識は静かに波立つ……。

 そのとき、誰かが言った。

「――どこに行く気だ」

 声のした方を向くと、そこには輪郭の曖昧な男がいた。男は僕の向かい側の席に立って、こちらを見下ろしている。僕はおぼろげな感覚で、それをただ座ってぼっーと眺めていた。

 僕はまだ電車の中だった。トンネルを通っているのだろうか、窓の外は真っ暗で何も見えない。車内も薄暗く、蛍光灯の頼りない光だけが僕を照らす。男の顔は、真っ黒に塗り潰されて見えない。

「――逃げられるとでも思っているのか?」

 男の声は若く、しかし妙に重たかった。

「――どこへ行こうとお前は、今までと何も変わらない。ずっと独りのままだ」

 見回してみると、確かに車内には僕一人だけだった。他には誰もいない。僕に声を掛けるのは、真っ暗な車窓に映った僕自身だった。

「――孤独からは逃れられない。いつでもお前の後ろを付きまとう」

 顔の見えない僕が、水面から這い出るように、僕に向かってその手を伸ばした。向かいの車窓とこちらの座席には距離があって届きはしないと思ったが、何といつのまにか車両の横幅が縮んでいるのだ。腹の辺りまで出てきた男が、ついに僕の腕を掴んだ。ざらりとした冷たい感触が肌に走る。

「――あの部屋に戻ろう」

 男の背景が、窓の向こうが、フラッシュが焚かれたように鮮明になった。男が僕を連れ込もうとしているのは、あの忘れもしない白い部屋。何も無い、ただ広いだけの虚空。僕が見た悪夢だ。

「――ずっと逃げ続けるのも疲れたろう。だから、お休み」

 吸い寄せられるように簡単に引っ張られる僕の体。男は再び車窓の中へと沈んでいき、掴まれた僕の腕が今まさに虚空に呑まれようとしている。

「……悪いけど、そっちはもうこりごりだ」

 僕は――空いている右手を、白に混じる黒にぶつけた。

 その瞬間、車窓には大きな穴が空き、さながらテレビの電源を切ったときのように、表面から映っていたものがパっと消える。ひび割れた車窓から一斉に風が吹き込んだ。

「とっくに僕は、目覚めてる」


「次は――○○駅。○○駅でございます。お忘れ物のないように――」

 車内アナウンスの声で、僕は目が覚めた。

 どうやら僕は、夢を見ていたらしい。周囲にはまばらではあるが普通に人がいるし、車窓にはまばらな星空に混じって見慣れた景色が流れている。さきほどのように感覚も曖昧ではないし、目に映るものに誤魔化しはいっさい無い。

 ふと――自分で考えていて気がついた。そう言えば、今の夢は超明晰の力が作用しなかった。普段なら僕が特別意識をしなければ、超明晰の力が作用して夢世界へと誘われるのだが、今回はそうじゃなかった。理想と現実のギャップによって生まれる現象が、今回は現れなかった。ということは、僕の意識でその二つがピタリと一致したということだ――僕の願いは、確かに叶えられたということなのか。

 僕と親友たちを繋ぐきっかけとなったものが消えたのは、やはり少し寂しい気もするが、しかし前に進むには必要なことだ。夢を叶えられるやつってのは、現実に生きているやつだけだから。

 さて、あと少しで僕の下りる駅に着く。その前に少し電話をしておくかな……、父さんに。また休日にでも、受験のことについて話し合いをするために。

 電車がゆっくりと速度を落とし、駅のホームが近づいてくる。プラットホームに人は少なく、派手な看板を掲げた売店だけが一際目立っていた。僕は鞄を持ち上げ立ち上がると、慣性で少し体が傾く。やがて電車は完全停車し、自動扉がプシューと空気を鳴らして開いた。

 あても無く彷徨っていた僕は、行先を見つけて途中下車をする。見つけた夢へと進むため、新たな切符を手に入れるために。

 夢を背負った夢負い人が、夢から目覚めて夢を追う。僕の経験した不思議な出来事はこれにて終わりを迎え、新たな僕が始まる。

 夢世界は、夢のまた夢――


                                       了

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