第四夜    学びの城の王


 六月――

 前線がこの町を覆い、しばしば降り続けていた雨が本格化する。文化祭はあと一週間というところまで差し迫っていた。

 僕は会議室の窓から、豪雨の所為でほとんど見えない外を見やる。聞けば、台風のように大きい低気圧がこの町に近づいているそうだ。天気予報では一応晴れということにはなっていたはずなのだが、このままいけば予定通りに文化祭を開催できるかどうかはかなり怪しい。

 梅雨のジトッとした嫌な空気が蔓延するこの会議室。なぜそんなところに僕がいるのかと言えばもちろん文化祭の定例会議に参加しているからに他ならないのだけれど、しかし白日芙蓉副会長殿は、「部外者にいきなり重要な業務を任せられるわけがないだろ」と確かそう言っていたはずだ。であれば、なぜ僕はこんなところにすき好んでいるのだろうか……?

「……ちょっと、あなたちゃんと会長の話聞いてた? 何をぼけーっと呆けているのかしら?」

 隣に座っている野々宮が、周りに聞こえない程度の声でそう言って、僕を睥睨する。

 そうだった。しばらく生徒会を休んでいた野々宮の業務のフォローを、芙蓉に任されたんだった。

 しかし実際には、野々宮は一人でも全く問題がないくらいによく働いている。少なくとも、このまま野々宮に全て任せて僕は帰ってしまってもいいんじゃないだろうかと思えてくるぐらいには。

「あー……悪い。で、何の話だっけ?」

 思っていることをそのまま口にして野々宮の機嫌を損ねても具合が悪いので、一応僕は真面目に取り組む姿勢をアピールする。ま、こんなことを聞き直している時点で真面目も何もあったものじゃあないのだけれど。

「やっぱり聞いていなかったのね、呆れた……」

 野々宮はやれやれとばかりに歎息して、自分の手元にあったプリントをこちらによこした。

「……文化祭当日のタイムスケジュールのことよ。有志団体の一組が今になって急にキャンセルしたいと言ってきたの。おかげでその後の日程が大幅にズレてしまうから、帳尻合わせをしないといけないって話」

 そう言って野々宮は、プリントにある予定表を指差した。予定表には生徒会役員含む実行委員の活動予定の他に、体育館で行われるイベント内容も表記されているのだが、その一部分には大きく斜線が引かれている。

「ああそう言えばさっき会長が、当日の予定の組み直しを各団体に連絡するようにとか何とか言ってたな」

 前の黒板を使いながら、会議の議長を務める会長。そしてその傍らには、僕ら生徒会役員が会議室の前の方に座っている。文化祭の運営は生徒会役員が主導ということで、僕らが会議の進行役を担っているからだ。

 しかし肝心の実行委員たちと言えば、ちらほらと虫食いのように空席が散見されて、出席率は芳しくなかった。さらに、僕ら生徒会には会長の他に二人の先輩がいるのだが、加えてその二人も会議を欠席している。

 僕は今日初めて文化祭の定例会議に参加したわけだが……、いくらなんでもひどすぎないだろうか? それとも普段からこんな感じで、役員全体のモチベーションが低いのだろうか?

 僕は手持無沙汰に頬杖をついて、その空席を黙って見やる。

 それを察した野々宮が、少し考えてからこそっと耳打ちした。

「……みんな、クラスの方を手伝っているのかしらね?」

「どうだろうな? 確かにこの時期になってくると文化祭ってのがいよいよ現実味を帯び始めてきて焦り始めるんだろうけど」

 実際、今頃になって模擬店の準備に取り掛かっているクラスもあるらしいしな。各クラス二人いる実行委員のうちの一人がクラスの作業に駆り出されていてもなんら不思議ではない。

「それより……、何であの人がここにいるんだよ」

 会議室の奥に座って、後ろからことの成り行きを見守っている――座頭橋先生。

 二人そろって彼女の方を見ると、それに気づいた先生はニコリと笑って小さく手を振ってきた。

「さぁ……どうしてかしら? いつの間にかしれっと会議に加わっていたけれど……」

 野々宮がそこまで言ったところで、会長がわざとらしく咳払いをした。先ほどからぼそぼそと無駄話をしている僕らを、とうとう見兼ねたらしい。

「……気は済んだか?」

 クイッとメガネを中指で持ち上げて、会長は皮肉る。その様子がおかしかったのか、そこかしこからクスクスと笑い声が聞こえてきた。

「すいません……」

 野々宮は顔を真っ赤にして、ぼそっと謝る。それから、「あなたの所為よ……」とこちらをキッと睨んだ。……が、俯き気味に赤面しながらだったので、正直全然怖くない。

「えーっと……、それで、どういう話でしたっけ?」

 僕がへへへ……と恐縮そうに聞くと、会長はやれやれと眉根を押さえた。


 いつもより少し長引いた定例会議が終わると、実行委員たちは早々に散会する。このあとクラスの作業に合流しなければならないので急いでいるのか、あるいはくじ引きか何かでたまたま実行委員に選ばれてしまっただけでたいしてやる気もないのか、とにかく実行委員たちは皆、逃げるように会議室を去っていった。

 しかしまぁ……、それも仕方のないことではある。定例会議なんてだいたいが退屈で詰まらないものだし、実行委員は基本的に発言権が無く上からの命令を黙って聞いているだけだし、議長は陰険堅物傲慢野郎だし……最後は関係ないか。いや、ある。

「なぜ先生が文化祭の会議に参加しているんですか?」

 別にそれまで待っていたというわけでもないのだけれど、僕がそう尋ねたときには会議室からもすっかり人気(ひとけ)が無くなって、未だ残っているのは僕らと依然パイプ椅子に掛けたままの先生だけだった。

 先生が、キョトンと不思議そうな顔をして言った。

「あれ? 荻村君は聞いてなかった?」

 僕が黙って首を振ると、先生は野々宮に視線を移す。

「野々宮さんは……、ここ最近ずっと生徒会を休んでいたから当然知らない……よね?」

「ええ、何も聞かされていなかったのでずっと不思議に思っていました」

 野々宮がそう言うと、先生は「あちゃー……」と額を押さえた。

「あー……そうだよね。君たちには直接言っておくべきだったよね。ごめんごめん。一応、煙草谷君には事情を説明していたんだけど……」

 はははと笑って詫びると、先生は続けた。

「生徒会がどういうお仕事をしているのか興味あってね。生徒会顧問の先生に頼みこんで、少し前からみんなの会議を見学させてもらっていたの」

 なるほど、生徒のお目付け役というわけではなく単純に会議を見学していただけなのか。それなら、僕のような臨時の助っ人や、長らく学校を休んでいた野々宮に何ら事情が伝わっていないのも頷ける。

 その程度のことをいちいち伝える必要もない、と会長は思ったに違いないからだ。

「それにしても……、会議に参加してる子、日に日に少なくなってるね」

 先生は、入り口近くの机に置かれているプリントを見つめながらそんなことを呟く。

 欠席している役員の分のプリントが、余って取り残されてしまっているのだ。

「日に日にってことは……、前々から会議を欠席している生徒がいたんですか? それも数多く」

 僕も同じことを質問しようとしたのだが、僕よりも先に野々宮が尋ねた。

 すると先生は、先ほどまでの調子はどこへやら、一転して心配そうな表情で答えた。

「……この会議だけじゃないの。ここ最近、厳密には実行委員が集められて少し経ったぐらいから、学校を休んでいる生徒が急増しててね……。風邪でも流行ってるのかな? 大事じゃなければいいんだけど……」

 それを聞いた僕ら二人は、驚きの表情を隠せなかった。

 その理由に多少の違いこそあれど、欠席しているやつらは皆サボりだとばかり思っていた。それがまさか、学校そのものを休んでいたとは……。

「今日の欠席者の人数は十余名。ここまでくると偶然というよりも何がしかの近因を疑いたくなるわね」

 プリントの横に一緒に置かれている出席簿に目を通しながら呟く野々宮。何か考え事をしているようで、目を細めて難しい表情をしている。

 声を掛けても邪険にされそうなので、僕は僕で気になることを先生に質問した。

「……で、そいつらは学校に何て連絡してきたんですか? まさか無断で学校を休んでるってわけじゃあないでしょ」

 通常、生徒が学校を休む際には、学校に一報を入れなければならないシステムになっている。市だか県だかが病気のデータを取っているそうで、その症状を事細かに説明しなければならないのだ(もちろん、生徒のサボりを抑止する目的も多少はあるのだろうが)。

「さぁどうだろう……、それはちょっと私にも分からないわ。担任の先生なら何か聞いてるかもしれないけれど……」

 まぁ、確かにもっともな話だ。座頭橋先生は教師の仕事に意欲的で、生徒とも積極的に付き合っているからつい忘れそうになるが、この人はあくまで実習生という立場。

 そりゃあ聞けば無下に返されることはないのだろうが、わざわざ教えてくれることもなければその必要もないだろう。それは分かっていたのだが、座頭橋先生の性格上、欠席している生徒たちが気になって仕方がないだろうから、担任陣から何か事情を聞いていてもおかしくはないと思ったのだけれど……見当違いだったか。

「ま、さして心配するようなことでもないと思うわ」

 今の今までずっと出席簿とにらめっこしていた野々宮が、その堅い口を開いた。

「どういうことだよ?」

 野々宮の言うことが分からなかったので、僕は聞く。

「これを見て」

 野々宮がすぐ隣に寄ってきて、出席簿を横から見せてきた。

 出席簿には実行委員の名前が学年順に羅列されており、その隣にレ点やら丸印やら好き勝手に様々なマークがつけられている。まぁつまりは、出席を示す印しなわけだ。

 しかしよく見てみると、その印しがごっそりと抜けてしまっている場所があった。

「気づいた?」

「……三年の出席率が異常に悪いな」

 三年生の名簿欄のほとんどが空白のままで、印しが打たれていなかった。

 なぜこんなことにと僕が聞く前に、野々宮が答える。

「ここ最近はずっと雨が降っていたし気温も低かったから……、さっき先生がおっしゃったように、その所為で三年の間で風邪が流行ってしまったとか……そんなところじゃないかしら?」

 風邪、か。まぁ野々宮が言ったようなことは確かに有り得なくもない。環境や気象のちょっとした変化で体調を崩すなんてことは珍しくもない話だ。その所為で風邪が流行するなんてことも無きにしも非ずだろう。

 ――が、しかしだ。どうにも腑に落ちないというか、得に言われぬ違和感のようなものが拭いきれない。その正体は僕には分からないが、これで話を簡単に済ませてしまってはいけないような気が何となくするのだ。

 そんな僕の思考を遮って、座頭橋先生はおもむろに立ち上がった。

「じゃ、私そろそろいくね。……あんまり大きな声じゃ言えないけど、まだ仕事が残ってるんだよ」

「あっ……、すいません。特に用も無いのに呼び止めてしまって……」

 恐縮する野々宮を、先生は「いいのいいの」と宥める。

「そこまで切羽詰ってるってわけでもないしね。ただ、今日中に終わらせておきたいってだけ」

 言いながら、先生は片手で前髪を弄る。

 また何か考え事でもしているのだろう。先生のこの癖にも慣れたものだ。

「それじゃあ僕らもここらで失礼します。……待たせてるやつらもいるもんで」

「そ、篠倉さんたちによろしくね」

 誰を、とは言わなかったはずだが、先生は去り際にそんな言葉を残して会議室を出て行った。

「さて、僕らもそろそろ行くか」

「……そう、ね。早くしないと篠倉さんがうるさいから……」

 そう軽口を叩く野々宮だが、その表情は神妙で、会議室をあとにするその直前までずっと出席簿を見つめていた。


 ――生徒会室に入ると、紅茶の甘い香りが僕にそっと触れた。

 見ると、無骨なデザインの折り畳みテーブルにはおよそ似つかわしくない、小洒落たティーポッドがその上で湯気を立てていた。そこには、いつだったか篠倉が言っていたお菓子類も一緒に並べられており、その包み紙が机の上に転がっている。

 そしてその机を、篠倉と那須美、そして芙蓉の三人が囲んでいた。

「……お、やっと帰ってきたか。お帰り」

 篠倉の挨拶に僕は軽く手を上げて応じる。那須美も口の中にものを入れながら何やらもごもご言っていたが、ちょっとよく分からないのでこちらは無視をした。

「野々宮さんも、久しぶりのお仕事お疲れ様」

「ありがと。おかげさまで滞りなく進んだわ」

 篠倉にそう礼を言って、野々宮は彼女の隣に座る。

 声に出して言うことはできないけれど、他にも席は空いているのに迷わず篠倉の隣に座る辺りこいつもすっかり篠倉に懐柔されてしまったなと、そう思った。

「確かにその通りだったな。篠倉の言う通り、野々宮はしばらくの間生徒会に来られない日々が続いていたからな。万が一のことを考えて富士を補佐に付けたが……、とんだ杞憂だったらしい」

 言いながら、芙蓉は僕らの分の紅茶を淹れる。ティーカップの中に紅茶が注がれると、なお一層、辺りにふわっと香りが広がった。

「で、お前らだけなのか? 会長は?」

「先に帰ったよ。元々あの人は一人で仕事をするタイプの人間だからな。あまり生徒会室には居座ることがないんだ。自宅に持ち帰って、一人で業務をこなしているらしい」

 芙蓉は紅茶の入ったティーカップを僕らに手渡す。野々宮は礼を言いつつそれを受け取ると、芙蓉の言葉の先を継いだ。

「そうね。だから同じ生徒会役員と言っても、あまり顔を合わせることはないし、一緒に仕事に取り組むことも滅多に無いわ。先の会議だとか、学校行事のときぐらいね」

 野々宮は会長のデスクに目線を落としながら、紅茶を一口あおる。それから、「それが良いことかどうかは分からないけどね」と、苦笑しながら呟いた。

「……ふーん。そういや、芙蓉。お前もいつの間にかいなくなってけど……、何か急ぎの用事でもあったのか?」

「言われてみれば確かにそうね。普段なら荻村君にちょっかいを出しにいくのに……」

 児童に対する小学校の先生みたいな言い方だが、野々宮の言はあながち間違ってもいないから困る。こいつ、会うたびに僕のことをおちょくってくるからな。僕は芙蓉に遊ばれるために生徒会の仕事を手伝っているのかと錯覚するまである。

 だと言うのに、今日は会議のときでさえ静かだった気がする。発言が控えめで、悪目立ちしないように意識をしていたような……、そんな気配があった。

「何、単純な話さ。それができない理由があそこにはあったんだよ」

 ……それができない理由? はて? 何か、普段僕らと接しているときと違っていたことがあっただろうか?

「ま、そんなことはどうでもいいさ。それより……、ちょうどお前たち全員が揃ったところで頼みたいことがあるんだけれど……構わないかな?」

 構わないかな? と聞かれればおおいにに構うのだが、どうせそれも生徒会業務の範疇なんだろう。あんまり……、というか決して全然いっさい気が遠くなるくらいに頗る気が進まないのだが、これも仕事の内。大甘に甘んじて受け入れよう。

「で、なんだよ? その頼みたいことってのは」

 僕が聞くと、芙蓉はやや間を置いてからまるで焦らすようにして、お得意の回りくどい言い方で頼み事の内容を告げた。

「会議でも俎上に上がっていたと思うが、有志団体への計画変更の通知だ。特にお前たちには、今回その計画変更の原因となった三年のバンドグループ――えーっと……、『CASTLING』? そいつらに報告、そして最終確認をしてもらいたいんだ。……まぁ早い話が、問責をしろということだよ」

 キャスリングってチェスのあれか。たぶん、城野高校の『城』とかけているんだろう。実際に、この近くには城があるしな。それにこの辺りは昔、兵農分離の影響で侍と農民の住居区画が縦横にキレイに分けられていたそうで、街並みがチェス盤のマス目のように区分されている。偶然かもしれないが、だからそのネーミングは結構言い得て妙だと思う。

 しかし、プリントをよく読んでいなかったから知らなかったが、急にキャンセルが入った団体ってのはバンドグループだったのか。いくら素人の演奏とはいえ、奏者含め楽しみにしていたやつらも少なからずいただろうに、本人たちも残念だろう。

 まして、高校生活最後の文化祭なわけだからな。それを急にキャンセルするってことは、何かやむにやまれぬ事情があったのだろう。

「それだよ。それを、お前たちには確認してきてほしいんだ。そのキャスリングだかリスニングだかいうバンドグループは、突然、『すいませんけど今回はナシの方向でお願いします……』とか言ってきて、詳しい事情のいっさいを説明しなかったからな。キャンセルするのにも細かい手続きがいるというのに全く……」

 芙蓉は呆れながら言うと、生徒会室に唯一存在するデスクの引き出しからまた新たにプリントを一枚取り出して、こちらにバサッと放り投げた。

「それ、そいつらが有志団体の申請をしたときの書類。そいつに名前とそれぞれのクラスが書いてあるから、明日中に事情を聞いてきてくれ」

 明日中か。またえらく急な話だなと思ったが……、よくよく考えてみると、もう文化祭の日程はすぐそこまで迫ってきている。のんびりやっている暇はなさそうだ。

「それじゃ、明日の昼休みにでも行ってくるか。どうする? 別にこれだけのことなら僕一人で済ませられるけど。ってかむしろ、僕としては那須美に全部押し付たいところなんだが……」

 冗談めかして言うと、那須美は「や、それ笑えないから」と半ば引き気味な顔をする。

「お前が言うと冗談に聞こえないんだよ……」

 うん、半分以上は本気だったからな。

 辟易する那須美をよそに、野々宮はしばらく考えてからあることを提案した。

「それじゃあ、こうしましょう。じゃんけんで負けた二人がその人たちを訪ねる、これで構わないかしら? これなら一応、表面上は平等よ」

 『表面上は』というワードに納得してしまう辺り、僕も野々宮と同様にひねた性格の持ち主なのだろうが、世の中うまいことできている。こういうときは、得てしてそんな性格のやつらが損をするようにできているのだ。

「いくぞ! じゃん、けん、ぽん!」

 篠倉の発声とともに、僕ら四人は拳を繰り出す。

 勝負は最初の一回でけりがついた。

 チョキが二人に、パーが二人。那須美がガッツポーズをとり、野々宮が苦笑して僕は深いため息をつく。

 そんな中、勝ったはずの篠倉が自分の手と野々宮の手を見比べて、何やら残念そうな面白くなさそうな、煮え切らない表情を浮かべて黙っていた。 


 二


 翌日――昼休み。

 予定通り僕と野々宮の二人は、三年の教室を訪ねる。

 ただ、いちいちバンドメンバー全員の教室を回っていくのは、たいした意味も無ければめんどくさいことこの上ないので、そのバンドのリーダー――菅原(すがわら)というらしいが、そいつだけを訪ねることにした。

 校舎の三階にずらりと並ぶ三年の教室。僕らは慣れない空気感が漂う廊下を練り歩きながら、彼がいるという教室を目指す。

「……ここだったよな?」

 僕は表の『三年五組』の室名札を見上げながら、野々宮に確認をとる。

 すると野々宮は「そうね、間違いないわ」と返事しながら、教室の中の様子を窓から覗く。と言ってもその窓というのはすりガラスなので、中の様子を確認することは難しいのだが。

「まだ授業が終わってそう時間も経ってないし……、教室に人がまだ残っているわね。今のうちにさっさと呼び出してしまいましょう」

「そうだな。もたもたしているうちにどっか行かれても困るし」

 野々宮に言われて、僕は一応教室の扉をノックしてから中へと入る。その瞬間、教室中の生徒の視線が一気にこちらへと集まった。

 一瞬ギョッとしてしまったが、僕は一つ咳払いをしてから努めて事も無げに挨拶をする。

「えー……、失礼します。生徒会の者ですけど、菅原さんはいらっしゃいますかね?」

 僕らに集中していた視線が、今度は教室の後ろの方に流れる。その先には、教室の隅の席で友人たちと昼飯を食っている男子生徒がいた。

「お前、なんか呼ばれてるみたいだぞ」

「生徒会だってさー。お前、何やらかしたんだよ」

 友人たちに茶化されるのを「うるせ」とあしらいながら、そいつはこちらに小走りでやっ来る。

「えーっと、俺がそうだけど……」

 遠慮気味に、言葉尻すぼめながら、自分が菅原だというその男子生徒。おそらく彼も、僕らが何の用でここを訪ねたのか分かっているのだろう。バツが悪そうな顔をしていた。

 そんな先輩とは裏腹に、野々宮はいたって堂々と、いつもの調子で名乗り返した。

「どうも。私は生徒会書記の野々宮扇といいます。それで、こっちが訳あって私たちの手伝いをしてもらっている――」

「荻村富士です」

 黙っていると僕の自己紹介まで勝手にされてしまいそうだったので、僕は慌てて名を名乗った。そして野々宮が、矢継ぎ早に続ける。

「分かっているとは思いますが、今回私たちは文化祭の有志の件でお伺いしました.」

「ああ……、やっぱりそうか。まぁそろそろ来るころかなとは思っていたけどな……」

 あまり気乗りしなさそうな顔をしながら頭を掻く菅原先輩。そして、深く小さなため息をついた。

 それを受けて野々宮は、呆れたような同情するような、微妙な面持ちをする。規模の違いこそあれど、同じリーダーとして感じ入ることがあったらしい。

 しかしそれとこれとは話は別。野々宮は冷めきった表情で本題を切り出した。

「……文化祭への有志団体としての参加。これを突然キャンセルされましたよね? それ自体は別に構いませんが、こうも直前にとなってくるといろいろと面倒な部分がでてきます。一度やろうと決めたことはやり通せとまでは言いませんが、その責任は最後まで果たしてください。つまり、失礼な言い方をすれば――」

 野々宮がそこまで言ったところで、僕は「もう十分だよ!」と遮る。周りの空気が瞬時に凍てつくのを肌で感じた。

 ここで野々宮の公開処刑を止めておかなければ、菅原先輩の後生にまで影響がでてしまいかねない。それこそ、今夜辺り野々宮の悪夢を見てもおかしくないくらいだ。

「すいません先輩。こいつ、他人に遠慮のない性格で……悪気はないんです」

「あ、いや……、別にホントのことだしな。ぐうの音も出ねぇよ」

 菅原先輩はそう言って「ハハハ……」と苦笑するが、内心穏やかではないだろう。野々宮との距離感が半歩ほど遠のいているような気がする。物理的にも心情的にも。

「とりあえず、ここじゃなんですから場所を変えましょう」

 いくらなんでも、教室の真ん前じゃ人目に触れすぎて落ち着かない。もっと静かな場所に移動した方が先輩も話しやすいだろう。

 確か三年五組の教室からさほど遠くないところに、人の出入りが少ない教室があったはずだ。そこまで移動しよう。


 一応自習室という名目にはなっているが、今はほとんど使われていないこの空き教室。中途半端に汚れた黒板に、半分に折れたチョーク。机の中には菓子パンのゴミが詰め込まれていて、真面目に掃除されているのかどうかも疑わしい。

 僕らはそこの椅子に腰かけて、向かい合って話を始めた。

「でも何でまた急に……、参加を見送ったんですか? 今年で最後の文化祭ですし、気合いも入ってたんじゃ……」

 僕が聞くと、菅原先輩はどこか陰りを帯びたような顔になった。

 そして、どこか諦めるような口調で、投げやりに言い放つ。

「そりゃそうさ。高校生活最後の文化祭で最高の思い出を残そうって、ここ数ヶ月必死になって練習してたんだからな。俺だって、最後にみんなで演奏したかったさ。悔やんでも悔やみきれねぇよ……」

「だったらどうして……」

 悲痛な表情の菅原先輩に、さしもの野々宮もそれ以上は言えないし聞けなかった。

 彼女のそんな気持ちを察してか、菅原先輩はどこか自嘲するように笑って、そしてその重い口を開いた。

「……起きねぇんだよ」

 何が、と聞く前に菅原先輩は続ける。

「うちのメンバーの一人、永山ってんだけどさ。そいつが急に学校に来なくなったんだ。で、心配になってメンバー全員でそいつの家に見舞いに行ったら――寝てたんだよ、そいつ」

「寝てた?」

 さっぱり意味が分からなかったので、僕は言葉をそのまま繰り返えしてしまう。

「……そのまんまの意味だよ。永山のやつ、三日ほど前に眠ったきりもうずっと起きてこないらしいんだ」

 菅原先輩にそこまで説明されても、僕はいまいちその言葉の意味がよく分からなかった。

 先輩が言ったことを頭の中で何度も何度も反芻させて、僕はようやく理解に至る。

「えっとつまり……、その永山さんって人がここ何日間か学校を休んでいたのは、ずっと寝たきりだったからってことですか? 本当ならいつもの時間に起床して、いつもと同じように登校するはずが、三日前のその日はそうならなかったと?」

「まぁ、だいたいそれであってる」

 話を整理すると、どうやらこういうことらしい。

 三日前の朝――永山先輩は、通学に利用している電車の時刻をとっくに過ぎても自分の部屋から下りてこなかった。

 まだ寝ているのかと呆れた永山母は、一階から大声で彼を呼ぶのだが、一向に返事がない。そのまま放っておくわけにもいかないので、遅刻を心配した母親は彼を起こしに行く。彼の部屋に入ってみると、案の定、彼は未だベッドの上で夢の中だったわけだが――ところが、母親はすぐに異常に気がついた。

 まず、いくらこちらがアクションを起こしてもまるで起きる気配がないのだ。声を掛けても体を揺すっても、果ては多少乱暴な方法を試みても、なんのレスポンスも返ってこない。まさに、死んだように眠っていた。

 何らかの病気を疑った母親は、すぐに眠ったままの彼を病院へ連れて行く。しかしどこの病院を訪ねても、彼の病名や症状は明らかにはならなかった。どこの医者も「……私には分かりかねます。こんなことは初めてです」と、口を揃えてそう言ったそうだ。それもそのはずだ。何しろ彼の体は健康そのもので、どこを調べても異常など見つからなかったのだから――

 この話を聞かされたバンドメンバーらは、ひどく困惑したようだ。

 当然だろう。そんな突飛な話をいきなり聞かされて信じろという方が、土台無理な話だ。しかしメンバーらは、病院で点滴を打たれている寝たきりの永山先輩の姿を見て、信じざるを得なくなったらしい。久々に見る彼はひどくやつれ、その表情はまるでうなされているようだったそうだ。

「その顔見てるとさ、一気に冷めちまったつうか……、永山がこんな状態なのに俺らこんなことやってる場合じゃねぇなってみんな思えてきてさ。それで自然消滅したってのが正直な話だ」

 菅原先輩は、いろいろな感情が交錯するそんな状態で、彼の容体を生徒会にどう伝えていいのか分からなかったそうだ。考え倦ねいているうちに、詳しい経緯を説明する機会を失っていったらしい。

 そして、今に至るというわけだ。

「……話はだいたい分かりました」

 しばらくの間、あごに手をやって無言で考えていた野々宮がその沈黙を破った。

「ご友人の突然の病臥……と言えば語弊があるかもしれないけれど、心中お察しします。しかし、先ほど指摘させていただいた通り、例えどんな状態にあっても自分の責任はしっかりと果たしてください。でないと、その所為で迷惑を被る人が二次的にも三次的にも波及することになります。そしてそれらは全て、遠からず永山先輩の所為だということにもなりかねません。……それではさすがに、彼が気の毒でしょう?」

 野々宮の鋭い諌言に、菅原先輩はただただうな垂れる。返す言葉も見つからないようだった。

 きっと野々宮の言ったようなことは、菅原先輩自身が一番理解していることなのだろう。それだけに、彼女の言葉は耳に痛いのだ。

 菅原先輩はどこか虚空を見つめるような遠い目をして、ただ一言、「……そうだな」とだけ呟いた。

「………………」

 そんな先輩の様子を受けて、野々宮は黙って彼を見つめる。

 それから、特に表情も変えずに言った。

 野々宮も鬼じゃなかったようだ。

「……とはいえ。とはいえです。菅原先輩の動揺する気持ちも分かります」

 先ほどとはまるで違う柔らかな言葉に、菅原先輩は伏せるようにしていた顔をおもむろに上げる。

「私にも病弱な友人がいます。彼女は少し前までずっと入退院を繰り返していたような子で……、今もたまに検査入院で学校に来られないときがあるような、そんな子です。……こんなことを言えば、身も蓋もないどころか彼女のご家族に怒られてしまうかもしれませんが、はっきり言って、いつ容体が悪化して倒れ込んでしまっても決しておかしくはありません」

 菅原先輩は、先ほどとはまた違った意味で黙り、そして野々宮の話に聞き入っていた。無論、僕もだ。

「彼女は私の――価値観を変えてくれた人です。彼女のおかげで私は世界の見え方がまるで変わって――悪い夢から覚めたような気分でした。……なんて、そんな言い方をすればなんだか大袈裟ですけれど。でも、私にとって彼女たちはそれくらい大切な人です」

 そこまで言い切って、野々宮は照れたような顔でこちらをチラリと見た。

 そして目が合うと、野々宮は慌てて菅原先輩に向き直る。

「これは私の勝手な想像ですが、菅原先輩にとってバンドメンバーの方々はそんな存在だったんだと思います。そんな人が急に原因不明の症状で唐突に寝たきりになってしまったら私は……、きっと今のように冷静ではいられないでしょう」

「野々宮……」

 野々宮は理屈っぽいやつだ。何事に対してもまず自分なりの答えを出して、それを周りの人間に遠慮することなく伝える。

 だがしかし、それがゆえに野々宮は、感情の部分でものを語ることがまずない。感情を理屈で抑圧するからだ。おそらくそれも、弓道部員たちと関係を悪くした要因の一つだろう。理屈で感情をセーブする彼女は、感情をそのまま吐き出す人間のことが理解できないし、その心情を察せないのだ。

 そんな野々宮が、菅原先輩の心持ちを忖度し、今はっきりと自分の感情を語ったのだ。相変わらず理屈っぽい口調ではあったけれど……、これは確かな進歩だろう。――悪夢の一件以来、彼女は着実に変わってきている。

 自分では気づかなかったが、そんなことを考えながら僕はずっと野々宮の方を見ていたらしい。また野々宮と視線が触れ合って、すすす……と彼女の顔が逸らされた。

 それから一呼吸おいて、野々宮はまたいつもの鋭いトーンで話を再開した。

「……だからというわけじゃないですけれど、あとの処理は全てこちらで請け負います。そのような状態で事後処理を任せてもままならないでしょうから。……ただ、次回の定例会議には必ず参加してください。会議の前に五分程度の時間を作りますから、そこでご迷惑をかけた皆さんにはきちっとした謝罪をするのを約束すること。……いいですね?」

「……分かりました。そういうことでよろしく頼みます」

 やけにへりくだった態度で、平身低頭に礼を言う菅原先輩。

 構図的には先輩が後輩にペコペコ頭を下げていることになるのだが、まるで違和感ないのが野々宮の凄いところだ。

「……悪いな、さんざん面倒かけちまったうえに後片付けまでさせちまって」

「全くです」

 野々宮にバッサリと切り捨てられた菅原先輩は「容赦ねぇな……」と小さく笑った。しかし、その笑みは今までのように自嘲的なものではなく、ただ痛快そうだった。

「それじゃあ長くなってしまったし、そろそろ行きましょうか」

 野々宮が椅子から立ち上がるのを見て、菅原先輩も同様に立ち上がり、それから大きくのびをする。

 二人はすっかり解散のムードだが……、だがちょっと待ってほしい。これで終わってしまってはいけない。

 このタイミングで切り出すのもなんだか恐縮だけれど、菅原先輩の話を聞いて――僕にはやらなければいけないことがいくつかできた。

「菅原先輩、最後に聞きたいことがあるんですけど構いませんか?」

「別にいいけど……、何?」

「永山先輩の特徴を聞いておきたいんです。写真か何かがあれば、なおいいんですけど――」


 三


 夜――夢の中。

 僕は菅原先輩から聞いた話を元に、永山先輩の夢の中に向かっていた。

 どうしてそんなことをと、今さら言うまでもないだろう。ここまでくれば大体の人間が勘づくはずだ。そうでなくとも、どこかで引っかかりのようなものは感じているとは思う。

 それでも一応、僕がここに来た理由を説明させてもらうのであれば、やはり悪夢のことが気になったからだった。

 ここ最近、どうにも学校を休んでいる人間が多すぎる。それは永山先輩もだし実行委員もだし、野々宮だってその一人だ。初めは僕も何かの偶然かと思っていたのだが、座頭橋先生や菅原先輩から話を聞く内にその疑念はどんどんと膨らんでいった。

 次々と欠席する生徒。眠ったままの永山先輩。加えて菅原先輩が見たという、彼のうなされているような表情。彼らと同様、つい最近まで学校を休んでいた野々宮。

 それらをまるで無関係なものだとしてしまうには、些か無理がありすぎると僕は思う。

 いつだったか僕は、悪夢は誰かの手によって悪意的にもたらされたものではないかと、そう邪推した。そのときは、そんなものは陰謀論にすぎないと、我ながら馬鹿げていると思っていたのだが、案外それも完全に的外れだとは言い切れなくなってきた。

 少なくとも、礼に上げた三者には何かしらの因果関係があるはずなのだ。それを確かめるために、今夜僕は永山さんの夢へとお邪魔する。

「……さ、そろそろ行くかな」

 僕は目の前の扉を開け、一歩、永山先輩の夢の中に脚を踏み入れた。

 

 永山先輩の夢は、一言で言うと大きく歪んでいた。

 ベースとなっているのは古い記憶。おそらく、永山さんが四才か五才くらいのころの記憶だろう。幼稚園か保育園のような雰囲気の場所だった。

 ただ、あちこちに物が散乱し、目に映る物のほとんどが大なり小なり歪んでいて、混沌としている。まるで暗色系の濁ったクレヨンを画用紙に塗りたくったような有様だった。

 その中でも一際目を引く物のは――車。車が、壁や床に何の脈略も無く突き刺さっているのだ。それも、無数に。

「確か……、永山先輩の父親は交通事故で亡くなってるんだったな……」

 これは菅原先輩から苦労して(デリケートな話題なので、そうとう出し渋られた)聞き出したことだが、永山さんは五才のときに父親を亡くしているらしい。

 その日――たまたま会社をいつもより早くあがった永山父は、幼稚園へ永山さんを迎えに行った。

 父親からその連絡を受けてその話を聞いた永山さんは、普段滅多に遊べないぶんたいそう喜んだそうだが……、ところがその途中――交差点で信号無視の車と衝突。すぐに病院へ搬送されたが、間もなく息を引き取ったそうだ。

 そして永山さんは、来るはずもない父親を一人でずっと待ち惚けていたらしい。

「それで幼稚園と車ってことか……、なるほどな」

 辺りを軽く見回してから、僕は歩を進めた。

 ぞう組やらきりん組やらの部屋がある廊下を適当に歩いて数分、僕はふと異変に気がつく。

 幼稚園というものはあまり大きい建物ではないはずだが、廊下の先がやたら遠くに感じるのだ。実際にそんなことはあるはずないのだが、歩いても歩いてもまるで先へ進んでいる気がしない。同じところをぐるぐると回っているような気さえする。

 さっきから妙に息の詰まったような感じもするし、なんだかちょっとおかしい。

 いや、おかしいというだけなら悪夢そのものが元来そういうものかもしれないのだけれど、そうじゃないんだ。今まで僕らが体験した悪夢のそれとは趣が異なる――そういうことだ。

 少なくとも僕らの悪夢は、城野高、中学校、市立体育館と、現実の風景をある程度トレースしたものにはなっていた。しかしこの悪夢はというと、さっきも少し触れたように混沌としていて、その姿を辛うじて保っていると言った方が正しいくらいだ。

「とりあえず……、何かあったときのために武器は持っておくか」

 僕は、表に『リス組』と書かれた教室に入る。ここもまた、書いて字の如くおもちゃ箱をひっくり返したような有様で、足元には玩具が散乱していた。

 その中にマジックハンドのような棒が一つ落ちていたので、僕はそれを拾い上げようとしゃがんだ。例によって、検閲の力でそのマジックハンドを刀に変えるのだ。

 このとき僕は――何の警戒も無く隙だらけの行為をとったことにひどく後悔した。

 ただでさえ何が起こるか分からない悪夢の中だ。いつもと様子が異なるのであれば、より一層の注意をはらって然るべしだった。だというのに僕は……、周囲を確認することを怠り、視線を床に落としたまま頭を下げ、まるで無防備な体制をとった。これでは敵の接近に気づくこともできず、敵の攻撃に反応することもできない。よしんばそれが何とかなったとしても、この無茶な体制では回避行動をとることさえもできないだろう。それほどまでに、危険な行為だった。あとから思い出しても肝が冷えてゾッとした。

 だって現にそこには、深淵に溶けこむように陰に隠れた――一人の男が立っていたのだから――


 頭を上げて、僕は驚愕する。

 教室の奥、園児らのロッカーの前に、サーベルを持った男が立っていた。

 いや、厳密に言うと、暗くて顔がよく見えないので男かどうかは分からない。そいつの体躯と、城野高の学ランを羽織っていたことからそう判断しただけだ。

 城野高の制服……ってことは、一番可能性として高いのは那須美だ。どこからか永山先輩の情報を耳にして、それで気になって僕と同じように……とそこまで考えて、僕は自分でその可能性を否定する。

 那須美は普段、胸元を第二ボタンまで開け、Tシャツをはみ出させて着崩している。座頭橋先生や野々宮にそれが見つかるたび注意を受けるのだが、本人にその気がないのか無意識のうちに身だしなみが乱れてしまうのか、とにかくまるで直る兆しが見えない。それが原因で、例の特別教室に一度呼び出しをくらったことがあるくらいだ。

 ところが今僕の目の前に立っている男は、学ランのボタンはホックまでビッチリとめられていて、その下には学校指定のカッターシャツを着ている。これが那須美なら、その窮屈さに五秒と耐えられずに全裸になっていることだろう。

 ……まじかよあいつ、マジで変態だな。これからは極力近づかないようにしよう。プリント回すときも英語のペアワークのときもできるだけ距離を保つように心がけよう。

 ……などと言っている場合ではない。この男が那須美でないならいったい誰なのか? 敵なのか味方なのか? 夢魔という可能性も十分に考えられる。ひょっとして鏡を見ているだけなのかも(まず持っている武器からして違うのでそれは有り得ないが)? とにかく、迂闊に動くことはできない。

「………………」

 僕があれやこれやと思考している間、男はずっと僕を注視していた。それは、例え顔が見えなくともはっきりと感じられるほどに、纏わりつくような嫌な視線だった。

 ――それから、どれほど時間が経過しただろうか。実際にはそれほど時間は経っていないのだろうけれど、緊張した空気感が時間の間隔を何倍にも錯覚させた。

 そして男は――おもむろに、ついに動き出した。カランカランとサーベルを引きずりながら、こちらへ一歩一歩近づいてくる。依然、暗くて顔はよく見えない。

「……何をするつもりだ?」

 問いかけるが、男の反応はない。男はその歩みを止めることなく、なおもこちらとの間合いを詰める。

「僕はお前に危害を加えるつもりは毛頭ない。だからそう身構えなくとも――」

 ――ヒュン。空気を切るような音が鳴った。

「……あ」

 頬に小さな痛みが走った。そして、何かが顔を伝っていくのが分かった。それをそっと撫でるように拭うと、指先が赤く染まる。……血だ。

 どうやら僕は……斬りかかられたらしい。

「お前っ……、いったい何を……!」

 戸惑う僕をよそに、男は黙ったままサーベルを振るう。

 斜めに振り下ろされる刃を、僕は半歩後ろに下がりつつ躱す。こちらも応戦するために腰の刀に手を触れるのだが、僕が抜刀するよりも先に男は二太刀目を振るっていた。

 何とかそれを紙一重のところで避けるが、男は攻撃の手を休めない。次々に斬撃が、右に左に上から下から繰り出される。それを捌くたびに姿勢がどんどん窮屈になって、バランスを崩して倒れてしまいそうになる。

 刀を抜き、こちらから攻撃をしかける余裕なんてあるはずもなかった。

 ――ただ。

 いくらサーベルが片手で用いる軽い武器とはいえ、金属の塊をぶんぶん振り回せばそれなりにしんどい。男の顔にも、だんだんと疲労の色が見えてきた。いや、あいかわらず顔は見えないままなのだけれど、呼吸が乱れているのが分かった。

 やがて男の斬撃は、その勢いと鋭さを失っていく。この隙をみすみす見逃すわけにはいかなかった。

 飛び交う刃の隙間を縫って、僕は思い切って男の懐に入り込み、

「いい加減に……、しろっ?」

 そう叫んで――刀の柄頭で相手の脇腹を強く打った。

「っ……!」

 急所への一撃が効いたのか、わずかに息を漏らし、その場にくずおれる男。脇腹を押さえて悶えてはいるが、しかし決して声をあげない。声を出すのを必死に堪えているようにも見えた。そうまでして僕に正体をバラしたくないのだろうか? 

 とりあえず、僕はこの隙に男からサーベルを取り上げる。そして、男の首にそれをあてがった。無論これは男へのけん制であって、そのまま首を掻っ切るようなマネはしないが。

「僕にはいきなり襲われるようなことをした覚えはないし、なぜこんなところにいるんだとかお前はいったい何者なんだとかいろいろと疑問は尽きないが……、とにかく。お前への質問は後にしてまず顔を拝ませてもらうぞ」

 そう言って僕が男の顔を覗こうと姿勢を低くした、途端。男の手が僕の腹に触れた。

 そして――僕の体は大きく跳ね上がった。

「……は?」

 あまりに突然なことで僕は受け身も取れず、そのまま、物が散乱した床の上に落下する。

 床との衝突とほぼ同時に肺の中の空気が全て吐き出され、角の突き出た玩具が僕の背中を抉る。刺さってこそいないが、息苦しさと鋭い痛みに今度は僕が身悶える。

 腹と背中の痛みに耐えながら、僕は霞む目で男を探す。――が、いない。どこかに消えてしまっていた。

 その代わりといってはなんだけれど、本当になんだけれど、いかにも重厚で巨大な西洋甲冑に身を包んだ――まるで銅像のような重騎士がいた。

 大剣を胸の前で掲げるように携えて、凄然と僕の目の前に直立している。

「痛(つ)っー……。な、何なんだこいつ……」

 大きさからして中にさっきの男が入っているということはないだろうが、だとすると、なぜいきなりこんなところに現れたのだろうか? 

 まるで意味が分からず、倒れたままの体勢でまじまじと見上げる僕。

 ふと――ガガッ……と、その甲冑の腕が詰まるように動いた気がした。

「……まずいっ!」

 僕が転がるようにしてその場を離れたのとほぼ同時に、大剣が僕の頭の真横に振り下ろされた。あともう少し遅ければ、僕の頭は真っ二つに割れていたことだろう。

 凄まじい勢いで振り下ろされた大剣は床に深く突き刺さり、甲冑はそれを引き抜くのに難儀する。その間に僕は、四つん這いで、慌ててその場から逃げさった。非常に情けない絵面ではあったが、まだ立ち上がれる程に痛みは引いていなかったので、仕方がなかった。

 ある程度離れてから、僕はよろよろと手を付いて、それでも慌てて立ち上がる。やっとのことで体制を立て直し、僕は後ろを振り返って背後を確認した。

 ――何と、すでに甲冑は攻撃体勢をとっているではないか。頭より高く持ち上げられた大剣が、さぁこれから僕に目掛けて叩きつけるられるぞという目前のところだった。

 驚いた僕は再びバランスを崩し、その場に尻もちをついてしまう。

 いつの間にか彼我の間合いは、甲冑の方があと一歩大きく踏み出せば詰められてしまうほどの距離間になっている。見た目の割には、スピーディな動きが可能なようだ。

 しかし、当然そんなことを落ち着いて分析している暇は全くなかった。その合間にも、僕の頭上には大剣の切っ先が迫ってきている。

 南無三。もうどうにもならない。

 鋭く光る刃が僕を照らす。その煌めきの中に、今までの思い出が走馬灯のように映し出された。

 残念、僕の冒険はここで終わってしまったようだ。

 ――ガラガラガシャーン? と、何かが倒れるような大きな音がして、僕はおそるおそる目を開ける。

 s僕は驚愕した。さっきまで僕に斬りかかろうとしていた甲冑が、僕の足元に転がっていたのだ。しかもよく見てみると、胸元の鎧の隙間に矢が一本、ちょうどきれいに刺さっている。

 この土壇場でこんな芸当ができるのは――

「……間一髪だったわね。さすがの私もヒヤヒヤしたわ」

 ――野々宮扇だけだった。

 と言えば野々宮が颯爽と袴を翻しその場に現れるところを想像するかもしれないが……、実は全くそんなこともなく、いつか見た部屋着姿の彼女は、はぁはぁ言いながら甲冑の横に倒れていた。

 どこにも弓が見当たらないので、彼女はおそらく手で直接矢を刺したのだろう。    案外、余裕は無かったらしい。

「よかった……。直感……信じてよかった……」

 彼女が息絶え絶えに呟いた『直感』という言葉の意味を――そのときの僕は、彼女自身のビジョンのことを言っているのだろうと、そう勘違いしていた。

 

 とりあえず、疲弊した野々宮をこんな散らかった部屋の床にそのまま寝転がせておくわけにもいかないので、僕は教室の隅にあった椅子を持ってきて、そこに彼女を座らせた。

 しかしここは幼稚園なので、当然その椅子も園児の体に合わせて作られている。そのためサイズ的に少々無理があったけれど、座ることには問題ないのでそこは許してほしい。

 彼女が落ち着くのを待って、僕は話を切り出した。

「それで、なんだってお前がこんなところにいるんだよ? ……ひょっとして、僕のことをつけていたのか?」

「そんなわけないでしょ、と言いたいところだけど……全部は否定できないわね」

 ちんまりとした椅子に、腰をかけているというよりスポッとはまっている野々宮が、いたって真面目な表情で答える。それでちょっと笑いそうになってしまう僕だったが、すんでのところでなんとか堪えた。

「昼間、菅原先輩と話をしていたときに荻村君、やたらと永山さんの話を聞いていたでしょ? あの他人に全く興味がない荻村君がなぜそこまで根掘り葉掘りと永山さんのことをしつこいくらいに質問するのかと不思議に思って……、最初は男色を疑いかけたけれど、ふとあの会議のときのことを思い出してある別の考えが浮かんだわ。……残念だけど」

 いや、僕としてはまず初めからその考えが浮かんでいて欲しかったところなんだけど……。男色疑惑とマジで勘弁してほしい。

 ってか、最後の小声の一言の所為で僕の方でも野々宮に対するある疑惑が浮上したのだが……。

 まぁそれはあえて言う必要もないので置いておくにしても……、はて? 会議のときのこと、とは何を指してのことだろうか?

「三年生の集団欠席の件よ。あなたもそれが気になって、わざわざ永山先輩の夢を訪れたんじゃないの?」

「あなたも……、ってことはお前もそうなのか。でもお前、あんときはそんなの別に心配するようなことじゃないって言ってたじゃないか。風邪がどうのとか」

「呆れた……、あんなでまかせをバカ正直に信じていたの? そんなの座頭橋先生を不安にさせないための方便に決まっているじゃない。あの場で悪夢や夢魔の話をしても先生をいたずらに混乱させてしまうだけでしょう?」

「そりゃあ確かにそうかもしれないけど……、だったら会議が終わってからでも僕に言えばよかったじゃないか」

「それはだから、その時点ではまだ確信を持てなかったのよ、あなたと同様にね。それが菅原先輩の話を聞いて余計に疑問が大きくなって、あなたが永山先輩の話を聞き出しているのを見て、あなたも私と同じ疑念を抱いているのかもと思った。一人で行かせて万一のことがあってもいけないし、それで私も永山先輩の夢を訪れたのよ」

「で、いろいろと調査しているうちに僕があの甲冑に襲われているところに遭遇したってわけか」

「そういうこと。……私がここに来たときにはすでにあなたはあの甲冑に追い回されて情けなく地べたを這いつくばっていたから、柄にもなく全力で走って大慌てであなたを助けてあげたの。感謝なさい」

 僕を助けるため必死になっていたところを見られて恥ずかしいのか、野々宮は殊更にふてぶてしい態度をとる。でも正直言って誰を助けたとか助けられたとかそんなの今更だったし、現に野々宮がいなければ僕は今頃どうなっていたか分からないので、別に気にならなかった。

 だから僕は、純粋に、心からの感謝の言葉を、

「ありがとう。お前のおかげで本当に助かったよ」

 真っすぐに目を見て、そう伝えたのだ。

「っ……! そ、そうね。素直なのは良いこと……よ、うん」

 満面に朱を注ぎながら狼狽える野々宮。その言葉尻はもじもじとはっきりしない。

 ……なんだろう。野々宮の弱点が少し分かってきたような気がする。

「そ、そんなことより! あなたからの事の説明がまだよ! どうしてあの甲冑が荻村君を襲っていたのか、その経緯を話しなさい!」

 野々宮は誤魔化しで話題を変えたようにも思えたが、確かに僕からは何も状況説明をしていなかったので、今回永山先輩の夢に這入ってからのこと、それを野々宮に報告した。

「……ふーん。にわかには信じられないことだけれど……、私たちの他にもこの夢の中に人が、ね。確認だけど荻村君、その謎の男って永山先輩じゃないの?」

 ……あ、そうか。その発想は無かった。

 悪夢とはいえここは永山先輩の夢なのだから、永山先輩本人がどこかにいなければおかしいのだ。それはつまり、僕を襲ったあの男が永山先輩だったということも可能性として十分に有り得る。

 ――と、思ったのだがよくよく考えてみると、

「……いやぁ、やっぱりその線は薄いだろうな」

「どうして?」

「まずあの男が持っていたサーベルだけど、あんな物がこの幼稚園に元からあったとは考えにくい。ってことは検閲の力で元からあった何かをサーベルに変えたってことになる。検閲の力が使えるってことは、その男は超明晰の状態だったってことだ」

 僕がそこまで言うと、野々宮は納得したように頷いた。

「なるほどね。もしその男が永山先輩だったと仮定するとして、超明晰の状態だったならこの悪夢の根源となる母体がすでに出現していなければおかしい――そういうこと」

「簡単に言えばそうなる」

 これはおさらいになるが、超明晰の力を得てその恩恵を受けるには、自分の理想と現実とのギャップを自覚する必要がある。そして母体の出現する条件だが、悪夢を見ることになったきっかけを知ることと、両者はある部分で共通しているとも言える。だからこそ、今まで超明晰の力と母体の出現がほぼ同時に発生していたのだ。

 つまり、永山先輩がすでに超明晰の力を有しているというのなら、いつもと同じように悪夢が収束して母体になっていなければおかしい。この幼稚園のような場所や風景はとっくに母体へと変化していなければならないのだ。

「それがそうじゃないということは、男の正体は永山先輩ではない。一応、理にかなった反証ではあるわね。……もっとも、篠倉さんやあなたが唱えるその『条件』が正しければの話だけれど」

「それはまぁ……、確かにそうなんだけどな。何ぶん、僕たちには確かめるすべがないから……」

 くどいようだけれど(これも何回使った断り文句か分からないが)、夢世界の摂理やルールの話をしだすと本当にキリが無いので、とりあえず今はその可能性を排除して考える他に無い。そこは目を瞑ってほしいところだ。

「――とにかくだ。これで分かったことがある」

「……そうね。今更確認するまでもないことなのでしょうけど」

 あの男が永山先輩に悪夢を見せた犯人で、ひいてはこの集団欠席を招いた張本人であるということだ。

 それに関しては、こうかもしれないとかその可能性が高いとか、そんな曖昧な言葉を使わずにはっきりと断言できる。

 

 四


「……なるほどな。二人は私に内緒でそんな面白そうなことをしていたのか」

 翌日の放課後――生徒会業務もそこそこに切り上げ、僕らは本校舎の外にある図書館に集まっていた。

 今は文化祭の準備でここには人がいないから、誰にも聞かれることなく安心して話せる場所ということでここが選ばれた。

 文庫本が並べてある小さな本棚の前に、低めのテーブルを挟んで向き合うように置かれている二つのソファ。僕らはそこに腰掛けているのだが、篠倉だけはその上で胡坐をかき、口をとんがらせてなぜだかふて腐れている様子だった。

 篠倉はこちらを見もせずに、ずっと窓の外の景色を遠目に眺めている。しかしここは一階なので、校舎を出入りする生徒ぐらいしか見えない。

「そうは言うけどな。僕だって別に遊んでいたわけじゃないんだ。あともうちょっとのところでやられていたかもしれないんだぞ……」

「そうよ篠倉さん。私だってこんな男を助けるハメになってえらく不本意だわ」

 不本意どころかお前あのときものっそい必死になって僕を助けてくれたじゃねぇかと思ったのだが、それを言いかけた途端に隣からキッと睨まれるのを感じた。

 どうやらあれは野々宮にとって黒歴史のようなものになりつつあるようだ。

「なぁ、ちょっといいか?」

 那須美が控えめに手を挙げる。それから、僕たちにこんなことを言ってきた。

「その謎の男に襲われたから永山って人に悪夢を見せたのはそいつだ、って言いたいのはまぁ分かるんだけどさ、だからって集団欠席の全てをそいつの仕業にしてしまうのは、話がちょっと飛びすぎてないか?」

 那須美の疑問は、至極当然のものだった。

 篠倉含めて彼ら二人は、僕らが三年の集団欠席に不信感を抱いた現場(定例会議や菅原先輩への問責等)に居合わせていたわけではないし、永山先輩の夢での出来事にしたって聞いた話でしかない。だから僕らがそのとき感じた引っかかりを、彼らと共有することは極めて難しいのだ。

 しかしそれは、当初から予測していた流れではあったので、さして意外でもなかった。

「まぁその時点では勘みたいなもんだったからな。お前の言う通り確証はなかったよ。……確信はあったけどな。だからもっと、そう言い切れるような材料がないもんかって今日はずっと探していたんだ」

「今日? そんな時間の余裕あったのか?」

 那須美は首を傾げているが、他の二人はその意味を理解したらしい。呆れた様子で深いため息をついていた。

「ひょっとしてあなた……、いつもそんな感じなの? 単位、落としても知らないわよ……」

 野々宮がそう言うのを聞いて、那須美は「……どういうことだ?」と不思議そうに呟く。

 未だ要領を得ないらしい那須美に、野々宮は教えてやった。

「荻村君の、今日一日の授業の様子を思い出してみなさい。彼、ずっと居眠りをしていたはずよ」

「……そういえば、今日はいつも以上に爆睡していた気がするな。授業中の居眠り自体はいつものことだから今まで気づかなかったけど」

「たぶん荻村君は、その間に欠席している人たちの夢まで足を運んでいたのよ。それで、永山先輩の悪夢のようなことになっていないか、確認していたんだわ」

「その通り。さすが、察しが良いな」

 僕が冗談めかして言うと、野々宮は「これくらいバカでも分かるわ」とツンと突き放したような態度をとった。しかしそれで一番傷つくのは、他でもない那須美だと僕は思う。

「でも、集団欠席の大半は三年生が占めているんだろう? ということは君とは何の接点も無い人たちばかりだから、彼らと関連があるものや彼の特徴といったものは何も分からないはずだ。それじゃあ、いつもと同じように『検索』をかけることができないから、永山先輩とやらの夢を見つけ出すことはできなかったんじゃないのか?」

 篠倉がもっともなことを指摘するので、他の二人も「ああ確かにそう言えばそうだ」といった感じで頷くのだが、しかし僕はあっさりと答える。

「それはだから、僕が知っている人の夢に行ったんだよ。生徒会の先輩二人や、僕がまだ剣道部だったころの先輩とか……あとは中学が一緒だったやつとかな」

 ちなみに、欠席者の中にそれらの先輩が含まれているのを知ったのは、定例会議のときだ。出席簿を確認した際に見慣れた名前が載っているのを見つけて、それで気がついた。

 補足部分についてはさして重要でもなかったのか、篠倉は「……ふーんそうなのか」と曖昧な返事をして聞き流す。納得できる回答を得られたことで、篠倉の思考はすでに別のものに向いているらしかった。

「それでどうだったんだ……と、わざわざ聞くまでもないか。そこまで言うからには、何か得られたものがあったんだろう?」

「ま、得られたってわけでもないけどな。ただ僕の勘が正しいか確認しただけっていうか、根拠をすっとばして感覚だけで出してしまった回答をあとから証明したみたいな感じだ」

 僕の物言い、というか言い回しを煩わしく感じたのか、篠倉はさして聞いてもいないふうで、「その辺りは別にどうでもいいよ」と切り捨てた。

「君は筋道の通った考え方ができるタイプだが、なかなかどうして勘も鋭いところがあるからな。君のその感覚は十分に信用たりえるものだ。今更、疑っちゃいない。……とどのつまり彼らの夢はどうなっていたのか、ただ結果だけを教えてくれればいい」

 と、真っすぐ僕に向かって、至って真面目な顔で言い切った篠倉。

 しかしそれからすぐに自分が今拗ねている体だったことを思い出したのか、篠倉はハッとしてまた元のふて腐れたような表情に戻ると、ついでとばかりに頬を膨らませた。……なんかもう何がしたいのかよく分からんやつだった。

 だがまぁそういうことであれば、面倒な説明は割愛させてもらおう。その方が、僕としても話が早く進んでくれて都合がいいからな。

「結果から言えば――今日僕が見て回った全ての夢が悪夢だったよ」

 それもだ。そのほとんどが永山先輩の悪夢のようにひどく歪んだものばかりで、僕ら今まで経験した悪夢とはやっぱり様子が違っていた。

 それほど数を見て回れたわけでもないが、標本調査をしたうちの全てがそうだったというのだから、永山先輩と同じような症状だとみてほぼ間違いないだろう。それはつまり、あの謎の男が彼らの夢の中にも現れていたということにも繋がる。あの男が何らかの方法で彼らに悪夢を見せ、その結果彼らは昏睡状態へと陥ったと考えるのが自然だ。

 ――と、僕が調査の結果とそれから導き出した結論を伝え終えると、三人の表情が一気に難しくなったのを感じた。話の流れからある程度予測できたこととはいえ、実際に事実を伝えられるのとそうでないのとでは、やはり重さが全然違うようだ。

 今まで途切れることなく交されていた会話が、その所為でピタリと止まってしまう。しばしの間、皆一様に考えをまとめる時間を取っていた。

 ややあって、その沈黙を破ったのは那須美だった。

「……それでお前、結局その人らはどうしたんだ?」

「……どうしたって何が?」

 いきなりよく分からないことを聞かれて、僕は質問を質問で返してしまう。

「だから、永山先輩や今日お前が調べてきた人らはみんな悪夢を見てたんだろ? だったら、それをそのままにしておくわけにもいかねぇじゃん」

「ああ……それか。それも話そうとは思っていたんだが……」

 何と言ったらいいものか、僕だけでは上手く説明できそうにない。そう思って僕は野々宮の方を見るのだが、彼女もまた苦い顔をして首を横に振った。

 そのことに関してはどうやら、彼女にもまだ整理がついていないらしい。

 野々宮が答えられないなら仕方がない。とりあえず僕が、ありのまま伝えることにした。

「……永山先輩、どこを探しても見つからなかったんだよ」

「見つからなかったって……、どういうことだ?」

「どういうことも何も、そのままの意味だ。永山先輩だけじゃなく、今回僕が出向いたどの夢の中にも、その夢を見ているはずの本人がいなかったんだ」

 そう。永山先輩は――永山先輩の夢の中の、そのどこにもいなかった。あの混沌とした幼稚園の隅から隅までを、僕と野々宮の二人で手分けして探し回ったのだが、彼の姿は影も形も見当たらなかった。

 これもまた、というか、これがもっとも僕らの悪夢とは異なっている点だった。

「いやいやいや、そんなはずないだろ。永山先輩の夢なんだから、そこには永山先輩がいて当たり前じゃん。お前、自分が出てこない夢を見たことあるか?」

 そんなことはもちろんない。だからこそ僕も混乱している。

 永山先輩が見ているはずの夢から、永山先輩自身が除外されている――矛盾。

 悪夢を見ているはずの彼らが、その悪夢に存在しない――矛盾。

 これらをどう説明付けたものだろうか? 僕にはさっぱり見当もつかない。

「実は永山先輩は眠っていなかったとか」

「じゃあいったい、私たちは誰の夢の中に這入ったというのよ。人は眠っているときにしか夢を見ないはずでしょ? 存在しない場所に行くことなんてできないわ」

 那須美が思いつきで言ったことを、野々宮はすぐに否定した。

 彼女の反論が的確すぎてぐうの音も出ない那須美をよそに、野々宮は続ける。

「ついでに補足しておくと、見当たらなかったのは永山先輩だけではなく、夢魔もそうだったわ」

「そう言えば……、確かにそうだったな。今日も散々調べて回ったわりには、夢魔を一回も見てないし」

 思い出しながら呟くと、野々宮が意外そうな顔でこちらを見てきた。

「……あなた、気づいてなかったの? 永山先輩をあちこち探して歩き回っても、全く夢魔と遭遇しなかったじゃない」

「それはそうなんだけどさ、あの男に襲われた所為でその気になってしまってたっていうか……、すっかり夢魔と戦った気でいたよ」

 それに今日は今日で、その男のこととか集団欠席のこととか色々と頭がいっぱいだったしな。言い訳になるけれど、夢魔のことまで気を回している余裕がなかった。

「……そうだ! こうとも考えられるぞ」

 唐突に、篠倉は何か思いついたように指を立てると、それからその指をズビシとこちらに向けて指摘してきた。

「その男が夢魔だったとしたらどうだ? 君の言うことは間違っていないということになる。というかそもそも、その男の正体を考えたとき、真っ先に疑うべくもなく疑うべきなのは夢魔じゃないか。なんで今の今までそのことに誰も触れなかったんだ?」

 それを聞いて僕らは、「なるほど、それは盲点だった。さっすが篠倉だ頼りになるぜ!」――とはならない。いや、正確には約一名そうなっていたやつがいるのだがそこはどうでもいいとして、だ。

 僕は篠倉に言う。

「それも確かに考えたんだけど、どうしたっておかしいんだよ」

「何がだ? 極めて理にかなったスマートな回答だと私は思うが。……ははーん。トミシ、ひょっとして君、むきになっているな? 私が君よりも先に男の正体を暴いちゃったものだから、悔しがっているんだろう?」

 ははーん、じゃねぇよ。それはこっちのセリフだ。お前、ひょっとしてまだ拗ねてんのか。

 何かもう逆に面白くなってきたので、僕は殊更に煽るような口調で諭してやった。

「まず、サーベルをもった高校生ってのが永山先輩の悪夢に馴染まないだろ。彼の過去のトラウマからして、そんなやつが幼稚園に出てくるのは明らかにおかしい。今までの夢魔や母体は現実には有り得ないような姿かたちをしていたけれど、脈略やそれにふさわしい理由はちゃんとあった」

「ぐ……」

「第一、よしんばお前の言う通りその男が夢魔だったとしても、永山先輩の悪夢以外でも夢魔が現れないことまでは説明できないだろ? だいたい、それだと永山先輩が悪夢をみている理由にはなるかもしれないけれど、他のやつらまで一緒に悪夢を見ている理由にはならない」

「ぐぐぐ……」

「那須美はともかく、篠倉ならこんなことは言うまでもないことだと思っていたんだけどな……。だからこそ、わざわざ選択肢にまで入れて今更議論するようなことはしなかったんだけど……」

「ぐぬぬぬ……」

「那須美はともかくってなんだよ」

 悔しそうに唇を噛む篠倉に追い打ちをかけてやろうと思ったが、野々宮に「それぐらいになさい」と窘められたのでこれで勘弁してやった。そう、あくまで勘弁してやっただけであって、結構シャレにならない感じで睨まれたのでビビッてしまったとか、決してそんなことはない。はずだ。たぶん。

 あと、那須美も何か言っていたような気がしたけれど、そっちはたぶん空耳だと思う。

「……と、話が脱線してしまったな。僕ら、何の話をしてたんだっけ?」

 話題を元に戻そうとする僕だったが、続く言葉が見当たらない。それはみんなも同じだったようで、図書室には先ほどよりも長い二回目の沈黙が訪れた。

 窓から見える外の景色はいつの間にか薄暗くなっている。それに比例して、校内からは段々と人気(ひとけ)が失われつつあった。

「……なんだかもう、分からなくなってきたわね。こうして議論しても可能性を一つずつ消していくことにしかならないし……、消去法とはいってもその数が茫洋で曖昧だから、一向に答えが見えてこない……」

 何か言わねばと思ったのだろう、野々宮が静寂とした空気を割った。

 しかし野々宮の言はあまりに正鵠を得ていて、正しかった。

 それだけに、僕らの口は余計に重たくなる。

 

「答え――か。そもそもお前たちは、いったい何のために答えを求めているんだ?」


 ふいに――誰かの声がした。

 それはまるで耳元で囁かれるような甘い声だったが、それと同時に、虫が全身を這うような薄気味悪さを感じた。

 声のした方を振り向いてみると――そこには白日芙蓉がいた。彼女は図書館入り口付近のカウンターに腰を掛け、組んだ脚に頬杖をつきながら、ニヤリと愉快そうに笑って、僕たちの様子を観察していたのだ。

「白日っ……? お前いつからそこに……?」

 驚いて、思わず立ち上がり彼女を指さす僕。些かリアクションがオーバー過ぎるのではないかと思うかもしれないが、音も気配も無く、彼女は何の予兆も無しに現れたので、それも無理からぬ話だった。

 それを受け、白日は「うーん……」と唸って頭を掻き、カウンターからヒョコッと下りた。そしてそのまま、こちらまでトコトコとやって来る。

 僕のほぼ目の前まで歩いてくると、彼女はそこでピタッと止まった。

「白日、ではないだろう? 僕のことは芙蓉と呼べと何度も言っているじゃあないか」

 と、僕の指を片手で優しくのけながら、肌が触れ合うほどの距離まで顔を近づけ、今度こそ確かに囁いた。

「っ……?」

 咄嗟のことに、思わず僕は体を仰け反らせてたじろいでしまう。

 外野が何やら騒いでいるような気がしたが、そんなものはまるで気に止まらなくなるほどに、僕の意識は遠くに行ってしまっていた。

「どうした? 熱でもあるのか?」

 わざとらしく微笑みながら、あざとく顔を寄せる芙蓉。僕と彼女の額が重なる寸前で、篠倉が僕らを引き離した、というか引き剥がした。

「なっ、ななななな何なんだ君はっ……? いったいどこからっ? いきなりトミシに何をして……?」

 その行為に、僕よりもいっそう篠倉が混乱していた。彼女は早口でまくし立てるのだが、支離滅裂な上に噛みまくっているので、セリフの後半はほとんど聞き取れない。

 芙蓉はそんな篠倉を軽くあしらいながら、そ知らぬ顔で僕の座っていたところにぼすっと腰を下ろす。おかげで、僕が立たされるハメになってしまった。

「話の腰を折ってしまってすまなかったな。どうぞ、続けてくれ」

 そう言われても、普通の人間(?)の前で夢世界関連の話をするわけにもいかないし、何より、芙蓉の突然な加入によって場が大きく乱されてしまった。今までの雰囲気を保ったまま、議論を続けることはちょっとできそうにない。

「気を遣うことはないぞ? どの道、僕の前で隠し事をしても無駄だからな」

「……そ「それはどういう意味かしら?」

 篠倉を座らせて宥めていた野々宮が、僕よりも先に、責めるような口調で問うた。

 一見、彼女は平静を装っているようだが、芙蓉に向ける視線がジッと睨むようなものだったので、内心穏やかでないのが分かった。

「残念だけど、それに答えられるのは文化祭が終わってからだ。……理由は富士に聞いてくれ」

「いっ?」

 突然の無茶振りにひどく動揺する僕。そして考える暇も無く、野々宮がこちらを向いた。

 擬音にするとギュルン? って感じだ。

「理由は何?」

 芙蓉を睨むよりさらに鋭い視線で、野々宮は僕に答えを求める。

 求めるどころか強要されているような気さえした。あわや強奪といったところだった。

「話すと長いし……何よりまず意味が分からないと思うけど……、それでも聞くか?」

「はやくいえ」

「はい」

 ここで本当のことを全て明らかにしてしまってもよかったのだけれど、ただそれだと余計に話が面倒になってしまうだろうと思って、要点だけをかいつまみ余計な部分は省略してみんなに説明した。

「――で、要はこういうことか? 文化祭が終わるまで生徒会業務を手伝う代わりに、初対面のはずの白日さんが自分のことについてやけに知っているふうだったわけを、答えてもらう約束をしたと」

 空気を読んだ那須美が、二人の代わりに話をまとめた。

 正直、肉を削ぎ落しすぎて輪郭しか残っていないような申し開きだったけれど、そこは那須美が勝手にいい感じでフォローしてくれたので助かった。

「……つまりさっき白日さんが言い渋ったのは、それに答えてしまえばその『わけ』とやらに触れかねないから、ということかしら?」

「おおよそ、それでいい」

 芙蓉のはっきりしない返答に、野々宮は何やら物言いたげに渋面を浮かべる。

「……やめとけ野々宮。こいつにつっかかっても煙に巻かれるだけで良いことなんて一つもないぞ」

「………………そのようね。荻村君がその条件を呑んだ理由が分かる気がするわ」

 やれやれとばかりにため息を吐いて、野々宮は一旦そこで引き下がる。

 しかしそれが篠倉には面白くなかったようで、こちらは余計に反抗心をあらわにした。

「不躾にもいきなり会話に入ってきたのはそっちだろう? せめて、最初の質問の真意ぐらいは教えてくれたっていいんじゃないか?」

 篠倉は目も合わせず、近くの本棚から取った本をさして興味なさげに捲りながら、明らかにムッとした顔で言った。

 最初の質問というのは、あの答えがどうのこうのってやつか。正直、芙蓉の登場に驚きすぎて何も聞いちゃいなかったので、今から考えてもまるで意味が分からない。

 篠倉の様子を見て、芙蓉はクスクスと笑う。口元を片手で隠してはいるが、肩が上下して声まで出ているので丸わかりだ。

「済まないな、確かにお前の言う通りだよ。一旦本題に戻りかけた話を、僕がまた逸らしてしまった」

 まだ少しの微笑みを表情に残しながら、芙蓉は詫びた。

「僕が聞きたかったのは――君たちはいったい何が目的でその男の正体を調べあげ、あまつさえ集団欠席の問題解決にまで取り組もうとしているのか、だ。君たちの議論を観察していて、それがあまりに不思議だったものだから質問させてもらった」

 問われて――僕ら四人は皆一様に黙り込んでしまった。

「お前たちには彼ら彼女らを助けてやる理由もなければ義理もないし、それどころかそいつらの名前や顔もよく分からないぐらいの関係性だ」

 芙蓉が言ったようなことは再三話題に上がってきたことだけれど、それは全くその通りだった。

 他の三人はどうだか知らないが、少なくとも僕には、そいつらを助けてやりたいと思えるほどの材料がまるで無い。

 いつもの偽善と言ってしまえばそれまでかもしれないが、芙蓉の言った通り今回は顔も名前もよく知らない。言ってしまえばほとんど概念みたいなやつらだ。形の無いものは、さすがに可哀想とすら思えない。

「その上、今回富士は故意的に命を狙われている。夢魔のような無作為の暴虐ではなく、突発的なものだとはいえ明らかな殺意が向けられていた。それは今までの夢魔とはわけが違う。これ以上この件に関わってしまえば、君に何がしかの危険が及ぶことは自明だろう」

 ――なぜ夢魔のことを知っているのか? とは、誰も聞けなかった。

 というより、たとえ聞いたとして芙蓉がそれに答えるはずがないのは言うまでもないし、何より、彼女が夢世界のことやここ最近の悪夢関連の事件について何か重要なことを知っているということは、皆薄々気づいていることではあった。あえてそれを口に出すことこそなかったけれど、あれだけ意味深な態度をとられてはむしろ気づかない方が難しいぐらいだ。

 それに、芙蓉はわざとそういう態度をとっている節があったしな。一々核心に迫るようなことを言って図星をつき、相手が狼狽える様子を楽しんでいたのだろう。

 現に、今だってそうだ。見透かしたようなことを言って――こちらを試すようなことを言って――僕たちを弄んでいる。本当に趣味の悪い女だ。

 悔しいことに、それが僕には分かっていても、どうしようもなく言い返せない。

「――野々宮」

 芙蓉にいきなり名前を呼ばれて、野々宮の肩がビクッと跳ねた。そして、黙ったまま芙蓉の方を向く。

 どうしてかは分からない。だけどその動作が、彼女にしては珍しくビビッているように見えた。

「野々宮。確かにお前には、富士たちに助けられた恩がある。しかしだからといって、別に彼らの行為に付き合ってやる必要はないだろう? お前が今助けてやろうとしているのは、お前が知らない赤の他人だ。彼らではない。……ひょっとしてお前、他人の想いを分かろうとするあまり、それに呑まれてないか? 流されちゃあいないか? お前は他人の心を独りよがりに、自分勝手に、都合の良いように、理解しようとしてないか? 勘違いするな、誰もお前なんかに助けを求めちゃいないんだ」

 野々宮は何も答えない。ただただ唇を噛んだ。

「那須美――お前は、自分を良く見せたいだけだ。他人を助けることで自分を美化して、過去の行いの償い……、いや違うな。その行いを帳消しにしようとしているんだ。他人に流されないようにと望んだお前は、それ以上に自分の目を気にするようになってしまった。

お前は、自分を助けるために人を助けるんだ」

 那須美は黙って目を伏せる。拳がギュッと音を立て握られた。

「篠倉――お前は、夢魔退治をスポーツ程度にしか思っていない。お前がかつて熱を燃やしたスポーツ――その感覚は、現実世界ではもう二度と味わえないものだ。だからその代用品として、夢世界で夢魔を相手に暴れ回っているんだよ。現実世界で自分が受けている理不尽を、夢魔にぶつけてやることでストレス発散しているだけだ。やつあたりとも言えるな」

 篠倉は何かを言いかけて、止めた。目線が芙蓉からゆっくりと外されこちらに逃げてくる。消えた言葉の先を、そこに求めているかのようだった。

「そして――富士」

 芙蓉の口元が、いやらしく歪む。僕を呼ぶその声が、えらくゆっくりに聞こえた。

「お前が夢魔を退治し悪夢にうなされる人々を助けているのは、偽善でもなんでもない。単に、お前はごっこ遊びをしたいだけだ。……この意味が分かるか?」

「……いや」

「お前は仲間と協力して『悪』を倒すという一つのストーリーに、カタルシスを感じているんだ。何せそこには、友情に、信頼に、非日常と、お前の求めていた全てのものがあるからな。今まで悲惨で退屈な毎日を送っていたお前には、それはさぞ魅力的で刺激的なものだろう」

 言いながら芙蓉はおもむろに立ち上がる。それから、僕の胸にそっと手をあてがうと、僕の目を見て微笑んだ。

 それが、心の中をじっと覗かれているような気がして、ひどく気持ち悪かった。

「つまるところお前は、過去の自分、いや、現実世界での自分の物語から逃げ出して、まるで絵空事のような夢物語の主人公を演じたいだけなんだよ。……重ねて言うが、それは決して偽善なんかじゃない――独善だよ」

 ――独善。

 僕はただ、現実の出来事から目を逸らしていただけなのか。

 他人を助けることを言い訳にして、偽善を理由にして、自分が今直面している厄介事を投げ出して、現実を誤魔化していただけなのか。

 それじゃあ確かにごっこ遊びで……、独善だ。

「そして独善というのなら、お前たちもそうだ」

 芙蓉は振り返って、篠倉たちにそんな言葉を浴びせる。

 芙蓉の目線が彼女らよりも高いからか、見下しているようにも見えた。

「お前たちは、揃いも揃って自分のことしか考えていない身勝手な独善主義者なんだよ。なぜ、男の正体を調べ上げあまつさえ集団欠席の事件まで解決しようとするのか……、その問いの答えは――他でもない自分のためだから、じゃないか?」

 僕は、僕は……、僕は何だろう? 

 何か言い返したいのは分かる。何か言い返さないといけないのも分かる。でも――何を言えばいいのか分からない。

 芙蓉にさっぱりそのまま僕の心裏を代弁されてしまったように思えて、悔しいが妙に納得してしまった。僕自身その通りだと思ってしまったから、僕は何も言えなかった。

「……独善でもいいじゃないか」

 僕の代わりに、ずっと沈黙を守っていた篠倉がそんなことをぼそっと口にした。

「偽善でも独善でも善は善だ。悪よりもよっぽどいい。キレイ言でも汚いよりはずっとマシだ。中身が腐っていることを開き直ってしまうよりよっぽど救いようがある」

 立ち上がり、芙蓉の眼を見つめ返して、篠倉は一言一言噛みしめる。

 まるで、自分自身に言い聞かせているようだった。

「君の言うことは確かに間違っていない。私が、トミシや那須美君、野々宮さんを助けたのは、確かに自分自身のためだったかもしれない。君の言う通り、現実世界での不満を夢で解消して、やつあたりをしていたのかもしれない。……今もそうだ。私は私のために、私の居場所である学校を――私の大切な人を――そして、私に優しい嘘をつき続けてくれた夢世界を、守るために戦うんだ」

 そこまで言うと、篠倉はため込んでいたものを全て吐き出したかのような清々しい顔になった。

 そして、大きくを息を吸うと、割れんばかりの大声で叫ぶ。

「君たちもそうだろう? トミシが遭遇したその男は、私たちの大事なものを奪おうとしている。だから、その男をつきとめて灸をすえてやるんだ?」

 水をうったような静けさだった図書館に、篠倉の声がビリビリと響く。篠倉の気合いにきつけられ、僕は目が覚めたような気分だった。

 ――そうだ。

 僕があの男を見つけだす理由は、やっと勝ち得た有り触れた日常を――仲間を――絆を――守るためだ。

 別にごっこ遊びでも構わない。現実から目を背けていると言われても仕方ない。

 ただ――目を背けた先の世界まで壊される筋合いはない。

 手を伸ばし続けてやっと触れられたものを、握り潰される謂れはない。

「……それに、だ。学校を休んでしまうほどに症状が進んでいたってのと、生徒会っていう共通点から僕は野々宮以降の悪夢はその男の手によるものだと睨んでいるけれど、別にそうとも限らないだろ? 篠倉は期間が空きすぎているから何とも言えないけれど、僕や那須美の悪夢については何か知っているかもしれない。……今更、現実見せられた理由があるってんなら僕はそれを知りたいし、それがあの男の手によるものだったのなら……、一言、現実なんて僕が一番よく分かってるよって言ってやりたいんだよ」

 取って付けた理由だけど。

 全ては後付けで、行動のあとから考えた理屈だけど。

 ものぐさな僕がわざわざ動くわけは何だと聞かれたら、やっぱり僕はそう答える。

「……お前らはどうだ?」

 言いながらも芙蓉は、那須美らの方を見もしない。わざわざそうせずとも、彼らの返答は分かっているようだった。

 そしてその通り、二人は固く頷く。

「便乗するようで悪いけど、俺もそれだ。……見て見ぬフリで人間関係壊すのは一回やれば十分。むざむざと同じ轍を踏んでしまうのはごめんだぜ」

「あら、私はちょっと違うわね。私に人生の大切な教訓を授けくれた犯人にお礼を言いたいの。……お礼参りをね」

 ――僕たちはみんな、今までずっと独りで闘ってきた。

 独りで部員たちと闘い。

 独りでいじめと闘い。

 独りで病気と闘い。

 独り、と闘ってきた。

 そんな僕らには、みんながみんなのために闘うチームプレーはできないかもしれない。だけれど、みんなで自分のために闘うことぐらいならできる。

 みんなが自分の大切なものを守るために、自分の大切なみんなを守るために、みんなで闘うのであれば、それはみんながみんなのために闘うのと同じことだ。

 なんだか禅問答みたいでややこしいけれど、こういうのは理屈で考えるもんじゃない。        

 あえて言うなら僕お得意の……、そう、屁理屈だろうな。

「……そうか。そうかそうか、なるほどな……」

 僕らの決意を、芙蓉は、けたけたとさぞおかしそうに笑う。

 それまで自分の雰囲気に呑まれてしまっていた僕らが、篠倉の一括によってあっという間に熱を取り戻したことがたまらなく愉快だったのだろう。何となくそれが分かった。

「くくっ……くくくっ……、そうか、なら仕方ないな。そこまで決心がついたのなら、私も何も言わないよ。いやむしろ、お前たちにヒントをあげようじゃないか」

「……ヒント?」

 まだ何か言いたいことがあるのかと僕は警戒するのだが、それを芙蓉は「違う違う。言葉通りの意味だよ」と弁解した。

「悪いね。今までのは……、少し意地悪をしていたんだよ。何せ、これからお前たちが首を突っ込もうとしていることには、それ相応の覚悟が必要だからな。半端な気持ちのままで前に進んでほしくなかったんだよ。だからお前たちには、一度立ち止まってゆっくり考えてもらったんだ」

「……どういうことだよ? 別に自分は邪魔をしていたわけじゃないって言いたいのか?」

「まさしくその通り。お前たちがあいつを倒すことは、僕にとってもそれはそれは都合の良いことだからな。邪魔をする理由がない」

 なんだか意味深な言い方に、僕たちはなお一層警戒の色を強くする。

 それを受けて芙蓉は、「おっと、口が滑ってしまったよ」とわざとらしく口元を両手で押さえた。

「お前たちは賢しいからな。何でも物事の裏を読もうとしてしまう。あまり余計なことを言うべきではないなぁ」

「いいからそのヒントっての、聞くだけ聞いてやるから早くよこせ」

「……やれやれ、せっかちなんだから。まぁいいよ、教えてあげよう」

 芙蓉は胸元からメモ帳を取り出すと、それを一ページだけちぎりとった。

 そしてそこに、鼻歌まじりで生徒会メンバーの名前とその似顔絵を描いていった。特徴をよく捉えていて結構似ているなと感心していると、それぞれの似顔絵が線のようなもので繋がれているのに僕は気がついた。

「なんだこれ?」

 芙蓉の作業を脇から覗くようにしながら、那須美が尋ねた。

「生徒会メンバーの相関図だよ。推理小説なんかの謎解きをするときは一度書いてみるといい。案外、あっさりと犯人を見つけられるぞ。……ま、今回は謎解きというほどのことでもないけれど」

「ふーん……」

 分かったような分からないような曖昧な返事をする那須美をよそに、野々宮は手を進める。

 芙蓉は生徒会メンバー全員を書き終わると、今度は永山先輩の名前をそこに書き始めた。

 それを不思議に思ったのか、今度は野々宮が質問する。

「生徒会メンバーだけじゃなかったの?」

「そうだな、訂正しよう。これは生徒会メンバーを中心にした相関図だ。生徒会はあくまで主軸というだけで、それ以外の、例えば文化祭実行委員の連中なんかもここに書き表していく」

 そう言ってから彼女は、ただ生徒会と関わりのあるもの全てを書いていくとキリが無いからと、悪夢にうなされている人間だけをピックアップしてそこに記した。

 その中には、というかそのほとんどが、僕の知らない名前だった。

「ふー……。これでとりあえず完成だ。直接面識の無い相手も多いから、実行委員たちの似顔絵は勘弁してくれ」

「や、別にそれはいいんだけどさ。……ホントにこの人ら全員、悪夢を見ているのか? 結構な量あるけど……、これ全部お前一人で調べ回ったのかよ?」

「なに、単なる風の噂だよ。……ついでに僕が夢世界のことについて詳しいのも、今はそういうことにしておいてくれ」

 今は、という言葉が引っかかったが、それを指摘しても答えてくれそうになかったのであえて僕はスルーした。

「一応確認にしておくけど、なぜ生徒会の相関図を書き出したかは分かっているよな?」

 芙蓉は図をペンの頭でトントンと叩きながら、僕らに問いかけた。

「集団欠席が起こり始めたのが、生徒会が運営する文化祭実行委員会の設立とほぼ同時期だから、か?」

「そういうことだ。野々宮を初めとした欠席者が出始めたのは五月の中ごろから。そして、君の言う通り実行委員会の発足もだいたいそれと同じ時期だ。加えて、欠席者の多くは生徒会関連の人間だというのだから、犯人は生徒会もしくは実行委員の中にいると考えて間違いない」

 芙蓉は赤いサインペンで相関図をキュッと囲む。その音が不快だったのか、野々宮が顔を小さくしかめた。

「……で、だ。男はお前らと同じ力を持っている可能性が高い。なぜなら、人に悪夢を見せているということは、他人の夢に何かしらの悪影響を与えたということだからだ。そうするためには、自分の夢から他人の夢に移動する必要がある。そしてその能力を使うためには、お前たちが超明晰と呼ぶ状態にならないといけないからだ。……ここまでは分かるな?」

「ああ」

「ならいい、続けるぞ。……さて、先ほども少し話題に上っていたが、他人の夢の中に行くためには相手のことについてよく知っておかなければならない。そうしなければ、相手の夢の中への入り口を見つけ出すことができないからだ。では相手のことを知るためにはどうするか? 簡単だ。篠倉の言っていた『接点』さえあればどうということはない。どうということはないが……、逆に言えばそれは、男と欠席者たちには少なからず何かしらの接点があったということ」

「それで?」

 那須美はもうごちゃごちゃ考えるのを止めてしまったのか、結論だけを促す。

 その様子に呆れてため息をつきながらも、芙蓉は答えてやる。

「……つまり、こういうことだ」

 芙蓉は、今回悪夢の影響で欠席したと思われる生徒の名前を、今度は三色ボールペンも使って囲んでいく。それによって、いくつかの名前の塊ができていった。数Aの集合をイメージしてもらえれば分かりやすいと思う。

「今僕は、欠席者たちを、生徒会、実行委員、三年生、二年生といった具合にグループ分けをした。見てもらえれば分かると思うが、三年生が圧倒的に多く、二年生は実行委員の者しか被害を受けていない。これはそのまま、男は三年生との関係が濃く二年生との関わりが薄いということに繋がる。また、数少ない二年生が実行委員だったということからも、男の人物像が推察できる」

「三年生と関わりがあって、二年生と関わりが少ないというのは……、その男自身が三年生だからでしょうね。同様に、男は実行委員でもあった、と」

 野々宮は芙蓉の書いた相関図を手に持って、「ふーむ……」と唸る。

 そんな野々宮を見て篠倉は、急に何かを思いついたようにバッと挙手をした。芙蓉が黙ったまま手のひらで彼女を差し、「言ってみろ」と言外に示す。

「野々宮さんも、悪夢が原因で学校を休んでいた内の一人だ。ということは、野々宮さんも勘定に入れなければならない」

「……ってことはあれか。野々宮は実行委員会にはほとんど参加できていないから、男が実行委員って線は薄れる。そんで代わりに、実行委員とも関わりが持てる『生徒会役員』って属性がプラスされるわけだ」

 言うと、篠倉は頷いた。

「そう。そして、犯人は当然夢魔による影響を受けていないだろうから、学校を欠席していない者ということになる」

 三年生で、生徒会役員。そして、夢魔の被害を受けていない者。

 これらの条件にあてはまるのは――

「……煙草屋光揮――生徒会長か」

 芙蓉は無言でニヤリと微笑むと、心なしか意地の悪い表情を浮かべている会長の似顔絵に、上から大きく黒星を描いた。


 五


 見上げるほどの天井に、見渡すほどに大きな部屋、というかホール。

 僕たちが訪れたのは、どこかのファンタジーに出てきそうな感じの、西洋風のお城だった。

 まるで鏡のような大理石の床に、壁や柱などいたる所に施された煌びやかな装飾。今にも動き出しそうな銅像や、自然の風景をそのまま切り取って持ってきたような絵画。それらのあまりの美しさに、そしてその荘厳さに、僕は思わず息を呑んでしまった。

 だだっ広いエントランスホールを進んでいくと、カツカツカツと、僕らの足音だけがうるさく響き渡る。静謐な空気の漂うこのホールでは、僕らの気配は頗る目立った。

 やがてホールの奥に、馬鹿でかい階段が見えてきた。そしてその途中の踊り場にはこれまた巨大な扉がある。

 開けてその中へと入ってみると、そこは謁見室のようだった。

 入ってまず目に付くのは、入り口からずっと続いている赤い絨毯。その両脇にはものもしい騎士像たちが剣を掲げ並んでいる。それを照らす大きなシャンデリアはまるで光の噴水のようだ。

 そしてその奥にはまた階段があり、それを登った先の頂上に、煌々と光り輝く玉座に足を組んで座り君臨する――煙草屋生徒会長の姿があった。

「……実にいいタイミングだな。ちょうど今、君の夢の中を訪ねてやろうと思っていたところだ」

 学ラン姿の会長は、僕らを高い所から見下ろして呟いた。

 その口調からして、今夜のターゲットはこの僕と決めていたらしい。

「あんたがこの事件の黒幕だったとはな。……おかげで、欠席した実行委員の分の仕事まで回されちまって大変だったんだぞ。どうしてくれんだ」

「無能な部下などいくらいても同じことだ。それなら初めから俺一人で仕事をしてしまった方が早い。そうだろ? ……そこにいる野々宮書記なら、他人に足を引っ張られたときの苛立ちをよく知っているはずだ」

 会長は、座りながら杖のようについていたサーベルで野々宮を差す。

 すると、野々宮はさぞ不愉快そうに顔を歪めた。

「やっぱり……、あなただったんですね。私の夢を壊したのは」

「そうだが? それがどうした?」

「なぜそんなことを……、私があなたに何か恨まれるようなことをしたっていうですか?」

 問われて、会長はニヤッといやらしく笑う。

 僕にはそれが、心底不気味で気持ち悪かった。

「君は見ていてイラつくんだよ。いちいち俺に意見しやがって……、うっとおしい。俺の命令に従わないやつは俺の生徒会にはいらない。だからまず手始めに、君を選んだんだ」

「そんな理由で……、あなたは私の心を抉ったんですか? そのことでどれだけ私が悩んで苦しんできたと思って……」

「何もおかしな話じゃない。誰だって気に入らない人間には近くにいてほしくないだろ?ただ、それは普通の人間にはできないからそうしない。そして、俺にはその手段があったからそうした。その違いだ」

 ふいに、会長は立ち上がる。

 そしてこのファンタジーのような、決してリアルではないまやかしの城を一望して叫んだ。

「……そうだ、俺は選ばれたんだ! だからこそ、俺にはこの力が与えられた! 夢の世界を自由にし、俺の好きなように現実を作り変える力を!」

 会長が、天を衝くようにサーベルを掲げると――部屋中の騎士像たちが一斉に動き出し、会長の前に跪いた。まるで主君に仕える騎士が如くに、騎士たちは剣を納めて頭を垂れる。

 突然のことに僕らは警戒心をあらわにし、武器を構えて戦闘体勢をとるのだが、篠倉だけはいっさい動じずに、会長を真っすぐ睨みつけていた。

「……現実を作り変える? おかしなことを言うな。お前にとって都合の悪い人間をお前の見えないところにやって、お前の住みやすい世界にしているだけのことだ」

「おかしなことを言っているのは君だ。俺は生徒会長だぞ? 城野高校全ての生徒の長だ。我が高校に不要なものを排除していくのは俺の仕事であり特権だ。当然のことじゃないか」

「バーカ勘違いすんな! 生徒会長だからって偉いわけでも何でもねぇ! たまたまお前が立候補したから、みんなそれに付き合ってやってるだけだろうが! 王様にでもなったつもりか!」

 那須美の言葉が癇に障ったのか、会長は渋面を作った。苛立ちがそのまま表情に現れる

が、会長はあくまで冷静を装う。

「……そうだな。俺は王だ。そして俺に刃向うお前ら愚民は――全員処刑だ?」

 会長のその掛け声と共に――騎士像たちはおもむろに立ち上がった。

「うわっ! なんだこいつら? 僕らの方に向かってくるぞ!」

 僕たちを取り囲むように詰め寄ってくる騎士像は、さながら餌に群がる蟻のようだ。

 その圧力に思わず那須美もたじろいでしまった。

「どうやらこの騎士像こそが、例の『甲冑』みたいだな。……いくぞ、みんな」

 僕らは、それぞれ用意していた小物を検閲の力で武器へと変える。こうなることを見越して、予め戦闘の準備をしてきたのだ。

「抵抗するか愚民め……。まぁいい、余興になる程度には足掻いて俺を楽しませてくれよ!」

 会長がサーベルを指揮棒のように振るうと、それを合図に騎士像たちがいっせいに駆け出した。

 その数は、一〇――二〇――三〇弱はいるだろう。それだけの数が、まるで軍隊のように迫ってくる。

 それに真っ向から立ちふさがって、篠倉は腕をぶんぶん振り回して気合いを入れた。

「それじゃあ気合い入れて、やつあたるぞー!」

「あっ、おい待て篠倉!」

 篠倉は、芙蓉に指摘されたことをどうやら開きなおってしまったらしい。そんなことを叫んで、騎士像の群れに突っ込んでいった。

 篠倉は、地面を蹴り大きく跳ねる。体を駒のようにぐるりと捻ると、スラリと長い足を開いて、一番近くの騎士像の頭めがけて薙いだ。騎士像の兜が砕かれ、体ごと吹っ飛んでいく。

 そして空中に浮いたままもう一度、今度は逆足で、別の個体に後ろ回し蹴りを決めた。騎士像の横っ腹に蹴りが炸裂し、そのまま胴体の左半分を持っていってしまう。

 軽やかに地面に着地すると、篠倉は地面に伏せるようにしてしゃがんだ。すると、篠倉を狙っていた騎士像の斬撃が空振り、別の騎士像に直撃する。当然、巻き添えを喰らったほうの騎士像は、半分に両断されてしまった。それから篠倉は、低い姿勢から兎のように跳び上がって、空振った方の騎士像の腹に拳で穴を空けてしまった。

 ――まさに鎧袖一触、一騎当千、獅子奮迅、破竹の勢いで騎士像の軍団を薙ぎ払う篠倉。

ちぎっては投げちぎっては投げの大立ち回りだった。

 その迫力に野々宮も、思わず感嘆の息を漏らしてしまう。

「篠倉さん……、味方ながら恐ろしいくらいの勢いね。何か吹っ切れたようにも見えるわ」

「闘う理由が見つかったからだろ、そりゃあ必死にもなるさ。……僕らも負けてらんないな。篠倉に続くぞ」

「おうよ!」

 那須美が気合いを入れると同時に、僕らもまた走りだした。

 僕らを斬り伏せようと敵意むき出しの群れの中へ、僕らは武器を構えて向かっていく。

「野々宮、お前は下手に突っ込むわけにもいかないだろうから、後ろで援護を頼む。那須美、お前は何も考えずにただ前に出るだけでいい。下手な攻撃はお前にゃいっさい効かねぇんだ。多少大胆に動いたって構わない」

「分かったわ」

「了解!」

 二人は快活に返事をすると、僕が言った通りの行動に移る。

 那須美は騎士像の軍団の中に割って入った。群れの中心に突っ込んだため当然多方向から攻撃が飛んでくるが、ビジョンのおかげで那須美にはまるで通用しない。那須美は五月雨のように襲い掛かる剣閃をまともに受けつつ、金棒を右に左に振り回して騎士像たちを次々に破壊していった。

 野々宮は後ろに下がり、騎士像の手が及ばない安全な位置を見つけて、そこに陣取って弓を射る。僕らが倒し損ねた騎士像の処理や、隙をつかれた場合のフォローをビジョンの力で先回りしてこなしていくのが、野々宮の役割だ。

 そして僕も、篠倉那須美ほどバンバン敵をなぎ倒していくわけではないけれど、一体ずつ確実に切り崩していった。

 ――その中で、僕ははたと気がつく。どうやらこいつら、見かけほどたいして強くはないらしい。

 僕があの『甲冑』と対峙したときは不意をとられたのもあってまともに戦えたとは言いにくいのだが、しかし今改めて戦ってみると、見た目重厚そうな鎧は素人の僕の太刀筋でさえ両断できてしまうし(簡単に、とはいかないが)、騎士像の動きは全く周りが見えていないというか、統率も連携もとれていない。そのためついさっきのような、周りにいる別の騎士像を巻き添えにして攻撃してくることがままある。篠倉という斬り込み隊長もいることだし、数は多いがこのままいけば騎士像の軍団を全滅させることができるだろう。

「……ふん、多少はやるようだな。それでは退屈だろう、少し数を増やしてやる」

 会長がそっと、空中を撫でるように手をかざした。

 すると――今残っている騎士像たちの合間合間に、淡い光の球体が出現した。その光の球体はゆっくりと徐々に数を増やしていき、やがてその一つ一つが蠢くような不気味な動きをし始める。そして――驚くべきことにその光の中から、新たな騎士像が湧き出てきたのだ――

 その数は、初めにこの部屋にあった騎士像たちのざっと倍ほどにもなる。ともすれば、どこか中世の戦場にでも放り出されたのかと錯覚するまであった。

「なっ……? 無限湧きかよっ……! これじゃあキリがないぜ……」

 飽和状態となった謁見室を見渡しながら、那須美が吐き捨てるように呟く。

 その近くにいた篠倉が、騎士像を倒す片手間でそれに反応を送った。

「会長の能力はてっきり物を操る能力か何かだと思っていたが……、どうやら違うらしいな」

 篠倉の言う物を操る能力とはたぶん、無機物であればどんな物でも自分の思うままに操作することができる能力ということだろう。会長はその類の力を使って、部屋にあった騎士像を動かしていたと篠倉は推察したのだ。

 だがそれは、実際とはまるで違っていた。会長は、騎士像の軍を出現させた。それは、元ある物体を操作するのとはわけが違う。かと言って、検閲のように元ある物を造り変えているわけでもない。全く何も無いところから、これだけの大質量を創り出したのだ。

 では、会長のビジョンはいったいどのような性質のものなのかと言えば……それはおそらく、会長に忠実な兵隊を任意の数だけ召喚できる能力だ。  

 会長は常日頃の発言から、部下に不満を持っているふうだった。芙蓉や野々宮と癖のある生徒会メンバーに加え、クラスの出展のこともありなかなか思い通りに動かない実行委員たち。加えて、会長自体が厄介な性格の持ち主だから、同級生らと衝突することも多々あっただろう。我が強く自己陶酔ぎみな会長には、そんな生徒らがたまらなく不愉快だったに違いない。だからこそ自分の命令に忠実で、捨て駒のように扱える奴隷のような家来を欲したのだ。

「……はっ、なかなかどうしてお前も聡いじゃないか。俺の心の内を見透かされているようで癪だが、まさしくその通り。俺のビジョンは、『俺に忠実な騎士を数限りなく従える、王のような自分』だ。その力によって、俺はこいつらを呼び出した」

 王のような自分、か。さっきの那須美の言葉は図らずも正鵠を得ていたというわけだが……、それにしても、聞けば聞くほど身勝手なやつだ。

 それでも超明晰の発動条件は、自分の思い描く理想と現実とのギャップ。つまり王のような自分を理想に持つ会長にとっては、それが超明晰になる条件として十分足り得るというのだから厄介な話だ。

「しかし、僕のビジョンが分かったところでどうにもなるまい。さすがのお前たちも、これだけの兵を前にしては手も足もでないだろうからな」

 王がどうちゃら言う割にはずいぶんと小物クサいセリフだが、やつの言うことは間違っていない。

 この部屋中のどこへ行っても騎士像たちが所狭しと蔓延っているために逃げ場なんてまるで無いし、何より倒した先から復活するのではさっき那須美も言っていたようにキリがない。

 このまま騎士像を延々と倒し続けていくわけにもいかない。ここはやはり、大元である会長自身を叩くしかないだろう。

 そこらじゅうから剣(つるぎ)の雨が飛び交う中、僕は後衛の野々宮に呼びかけた。

「野々宮! そこから矢で会長を狙ってくれ!」

「任せて」

 野々宮はその一言だけ答えると、弓を高く上げて会長に狙いを定めた。

 引き絞られた弦がぎしぎしと音を立てながら軋み、野々宮が手を放つと同時にその緊張が解かれる。

 放たれた矢は会長目掛けて真っすぐ飛んでいく。しかしその矢先、ある一体の騎士像が剣を矢の軌道上に向けて放り投げた。やがて投擲された剣と野々宮の放った矢が垂直に交差し、見事会長を捉えるかとに思えた一射は途中で遮られてしまった。

「惜しかったな。あらゆる意味で狙いは良かったが、如何せん障害物が多いからな。それも意思を持った障害物だ。こいつらの合間を縫って僕を射ち取ることは、いくら『察し』の力を持つ野々宮書記でも難しいはずだ。……残念だが、別の方法を検討するしかないだろうなぁ」

 えらく上から目線で、というか物理的も本当に上から目線なのだが、会長はいやに皮肉めいたアドバイスを僕らに送る。どうでもいいが、こいつは本当に人を煽るのがうまい。現に僕は今、こいつにどうやってこの上ない屈辱を味あわせてやるかそればかり考えている。ぶっちゃけこの状況をどうやって打開するのかとか、このときばかりはどうでもよくなっていた。

「何をぼっーとしているトミシ! 後ろだ!」

「……えっ?」

 ふいに篠倉に声を掛けられて、僕ははっとする。言われて後ろを振り返ってみると、今まさに騎士像が僕を叩き斬ろうとしているところだった。

 間一髪で僕はそれを防御するのだが、あまりの重量差に数メートルほどぶっ飛ばされてしまう。

「――がっ……!」

 背中から地面に叩きつけられ、そのまま地面を転がってからやっとのことで僕の体は静止する。

 致命傷は免れたが、体中に擦り傷や痣ができてしまった。地味な痛みに、僕はしばらく仰向けになったまま立ち上がれない。

「おっといいのか? ここは戦場だ、ゆっくりしている暇などないぞ? ほら、立った立った」

 会長が地面に横たわっている僕を嘲笑いながら、嫌みたらしい言葉を投げかける。……どうでもいいけどこいつ、人を馬鹿にするときが一番楽しそうだ。普段はいつも仏頂面で笑った顔など見たことも無かったし想像もつかなかったが、事ここに限っては満面の嘲笑を浮かべてさぞ愉快そうにしている。

 これではさっき会長が言っていたように、僕らの戦いは会長を楽しませる余興にしかなっていない。……戦いの前に、僕らはあれだけ覚悟を決めてきたんだ。それがただの一発も会長にくらわしてやることもできずにおめおめとやられてしまっては、芙蓉に合わせる顔がない。

 それに、さっきから高みの見物を決め込んでいる会長を引きずり降ろしてぼこぼこにしてやって蹲る会長を足蹴にしてやらなければ、どうしても僕の気が収まらん。そのためには何としてでも、この状況を打開する策を見つけ出さなければならない。

 ――どうする? 野々宮の遠距離攻撃が通じないのであれば、会長の元まで直接行ってやるしかない。となれば、障害となるこのおびただしい数の騎士像を何とかやり過ごすしかないわけだが……。

 とりあえず、このまま地面に横たわっていると危険なので僕は立ち上がろうとするのだが、足元に転がっていた瓦礫(たぶん騎士像の破片か何か)を踏んづけてしまい、バランスを崩して倒れてしまった。何を間抜けなことをやっていると自分で思いながら再び立ち上がろうとするのだが――その拍子に仰向けになった僕は、ある物が目についた。

 天井からぶら下がっている――とても巨大なシャンデリア。目測だが、おそらく半径は十から十五メートルほどはあるだろう。そこそこ広いこのフロアを照らすのには、それほどまでの大きさが必要なのだろうか、とにかくデカかった。

「……あっ、そうだ! それだ! おい野々宮!」

 大声で野々宮の名前を呼び、僕は天上を顎で差す。 

 その合図と、あとは簡単なアイコンタクトだけでたいした説明もしていないのに、野々宮はそれだけで僕の言いたいことを理解してしまったらしい。遠目で、彼女が首肯するのを確認した。

「お願い……届いて……!」

 野々宮が再び矢を放つ。しかし、その軌道は角度がやや付きすぎていて、会長のいる場所から大きくズレてしまっていた。

「はっ、どこを狙って射っている? まるで明後日の方向に飛んでいるぞ」

 それにすっかり油断した会長は、騎士像を使って矢を防ぐことすらしない。かと言って身構えるわけでもなく、余裕の表情で僕らを見下ろしていた。

「……まともに狙いもつけられないほど体力を消耗してしまったか。そろそろ潮時だな。そうやって無駄な足掻きをしていられるのも時間の問題だ」

「いや、それはどうかな?」

「……あぁ?」

 僕が呟くのを聞いて、会長は矢の行方を目で追う。

 視線の先は天井のシャンデリア――会長はその光を手で遮りながら、ぶらぶらと不安定に揺れているシャンデリアをしばらく眺めていた。

「………………まさか」

 ピシッと――亀裂が走るような音がする。見ると、シャンデリアを釣り上げている金具の部分が千切れかけていた。

「今だ篠倉!」

「おうともよ!」

 壁際近くにいた篠倉が、渾身の力で壁を殴打する。そのとてつもない威力で壁には大きな窪みができた。さらに――その振動は壁を伝わって、僅かながら天井にも響く。

 シャンデリアは二度三度左右に大きく揺れそして――騎士像が群がる床へと落ちた。

「ぬおおおっ……!」

 落下の凄まじい衝撃が部屋に伝わり、会長は立ったままではいられずに思わず屈んでしまう。両手で顔を庇い、巻き上がる砂塵や瓦礫から目と頭を守った。

「……ぐっ、おのれ小癪な……!」

 砂煙を振り払いながら会長は立ちあがる。やがて視界が晴れ、辺りを見渡せるようになるのだがもう遅い。そのときにはすでに、

「小癪? 裏からこそこそと卑怯なマネをしていたお前に言われくはないな」

 篠倉が会長の背後を取っていた。

 そのまま篠倉は、会長を後ろから羽交い絞めにする。

「なっ、何……? 止めろクソがっ! 俺に何をする気だ?」

「私はどうもしないさ。……ただ、最後くらいは自分の手で闘ったらどうだと思ってな」

 篠倉は会長を解放すると、ドンと乱暴に背中を突き押した。

 押されて少しバランスを崩しながら、会長が僕の目の前にやって来る。

「……何のつもりだ?」

「僕はこのままお前を切り伏せてやるつもりだったけどな。篠倉のおかげで気が変わったんだよ」

 僕は、そこで拾ったサーベルを会長の前に突き刺した。それから、少し間合いを開けて刀を正眼に構える。

「剣をとれ。煙草谷会長」

 言われて会長は、瞳だけを動かして周囲の状況を確認する。

 しかし、騎士像の軍団はそのほとんどがシャンデリアの下敷きとなっており、わずかに残った残党もすでに那須美や野々宮が処理をした。新たな援軍を呼び出そうにも、篠倉がそれを許さないだろう。彼女であれば、会長がその予備動作を見せてからでも十分に取り押さえることができる。だから下手なことはできないはずだ。

 僕らの言うことに応じるしかない会長は、黙ってサーベルを引き抜いた。

「…………………タイマンであれば俺に勝つことができると? ふん、俺もなめられたもんだな」

 会長はサーベルを前に突き出すようにして、フェンシングのような構えをとる。ただ、本人にその経験が無いためか、どこかぎこちないように見えた。

「……いくぞ荻村。後悔するなよぉ!」

 会長は大きく前に踏み込んで、一度サーベルを持つ腕を縮むように引いてから、大きく前に突き出した――

 やはり会長は、剣術に関してはド素人もいいところだ。

 そりゃあ僕だって部活で剣道を経験したくらいだし、日本刀の扱い方や戦術は少し本で読んだ程度だ。しかしその程度の知識でも、あるのと無いのとでは大違いだ。

 これは以前聞いた話だが、日本剣術の『構え』は洗練され、完成されているものらしい。剣道・剣術には五行の構え(それぞれ高さと位置が違う五つの構え方)というものが存在するが、その中でも特に中段の構え。これはもっとも基本の構え方であり究極の型とされていて、剣道の世界では、基本的にこれ以外の構えをとる意味は無いという達人もいるほどだ。

 では、中段の構えとはどういったものか? 中段の構えは、別名正眼の構えとも言われており、その名の通り切っ先を相手の目に向けて構えることをいう。そうすることにより、相手に威圧感を与え攻め手を鈍らせることができ、また例えどの方向から斬られたとしても攻防一体に応じることができるため、中段の構えは非常に隙の無い型なのだ。

 だから今、会長がやっているように――不用意に攻撃をしかければ、何も考えずにただ突くだけでは、切っ先を少し刃で押さえられるだけで相手の体から突きが逸れていってしまう。

 さらに――サーベルは片手剣だ。片手剣は軽いので素早く振り回すことができ扱いも簡単だが、その分両手剣に比べて斬撃が力不足だし、当前剣を握る力も弱くなる。 だから、上から思いっきり刀身を打ち落としてやれば――会長は簡単にサーベルを手放してしまう――

「……な、何?」

 会長は何が起きたのか理解できなかったのらしい、少しの間、そのままの姿勢で硬直していた。それから間もなくして、足元に転がっているサーベルに気がつくと、何も握ってない右手をただただ呆然と見つめた。

「勝負あり、だな」

 かくして僕らは――虚構の城で虚空の兵を従わす、欺瞞の王を討ち取った。


 六


「………………っち」

 会長は小さく舌打ちをすると、その場にどてっと座り込んでしまった。

 武器を拾い直す様子もなく、かといって不意打ちをしてくるような気配もない。しばしば辺りを見回して逃げ場を探してはいたが、それももうやめてしまった。

 その姿は観念したというよりも、自分の負けが確定してゲームに飽きてしまった子供のようだ。そこに責任はまるで感じられない。自分が敗北した原因を他の何かの所為にして、仕方なかったと、自分はよくやっていたが足を引っ張られたのだと、そう駄々をこねているのだ。

「お前の処分をどうするかはとりあえず置いといて、だ。まずもって聞くことだけ聞かせてもらうぞ」

「……勝手にしろ」

 僕が言うと、会長はこちらを見もせずに答えた。

「今回の集団欠席の案件、黒幕はお前か?」

 会長は全く悪びれる様子も見せずに、即答した。

「そうだが? だったらどうする? 警察にも届け出るか?」

「……てめぇ。さっきから黙って聞いてりゃ……!」

 煽られてキレた那須美が、会長の胸ぐらを掴んで詰め寄る。地べたにだらしなく座っていた会長はほとんど持ち上げられるようになってしまうが、それでもなお、彼は強気な態度を崩さなかった。

「冗談だよ、そう怒るな。……他に聞きたいことがあるんじゃないのか?」

 那須美はもうほとんど殴りかけていたが、僕がそれを「やめとけ那須美」と窘める。それで何とか、すんでのところで思いとどまったようだ。会長を一睨みしてから乱暴に突き放すと、後ろに下がった。

「お前がこの世界……僕たちは夢世界と呼んでいるけれど、それについて知ったのはいつだ? そしてそのきっかけはなんだ?」

「この世界ってのはアレか? 悪夢に出てくる化け物とか俺らが使える力とか……、摂理や法則も含めるのか?」

「もちろんだ」

 会長は、今度は少し間を開けて考える素振りを見せた。

 それは過去の出来事を思い出しているようでもあったし、慎重に言葉を選んでいるようでもあった。

「俺がその、お前らが言う夢世界ってのを知ったのはつい最近だよ。ちょうど文化祭実行委員会が発足した辺りだ。……俺が悪夢を見ることになった原因は何となく予想がつくだろ?」

「……他人が自分の思い通りに動いてくれないことがストレスになったから、じゃないか?」

「そうだ。そして俺の夢の中に夢魔が現れ――今に至るわけだ」

 ん? ちょっと待て。 はしょられすぎちゃいないか? 

 夢魔が現れたってところまでは別にいいとして、その後どうやって超明晰の力を手にして母体を倒したのか、その経緯がちっとも語られていない。今さらわざわざ隠すようなことではないと思うが……一つ考えられるとするならば――

「もしかして、お前を助けたやつがいるのか?」

「……何?」

「いや、ただの勘だけどさ。僕にしても那須美にしても野々宮にしても、誰かしらの協力があって初めて悪夢を乗り越えたわけだろ? そりゃあ篠倉みたいな特殊な例もあるかもしれないけれど、基本的に自分一人の力では夢魔やその母体と闘うことはできないはずだ」

「……特殊な例だと? その言い方だと、その女は初めから超明晰の力を有していたように聞こえるが」

 僕は何げなく言ったつもりだったが、会長にとっては重要なことだったらしい。わざわざ聞き直してきた。

 正直なぜそんなことに関心を示すのか僕にはさっぱり分からなかった。そのおかげで余計に会長への警戒や不信感が強まったが、それと同時に、その理由を知りたいとも思った。   

 だから僕はあえて会長の問いかけに答えてやることで、その反応を窺うことにした。

「……少なくとも僕が篠倉と出会った時点では、な。こいつの話じゃ、悪夢を経験したのはもう随分と前のことらしいが」

 僕は篠倉の方を見て、言外に「そうだったな?」と尋ねる。すると篠倉は頷いてから、僕が言ったことの補足をした。

「私がちょうど中学三年になるくらいだったか……それくらいの時期に、重い病気を患ったんだ。トミシら三人には言ったかもしれないが、そのときの私は馬鹿がつくほどのスポーツ好きでな、それができなくて自暴自棄になってしまい悪夢を見たというわけだ。……まぁ私が特殊だというのは、自分の理想や悪夢の原因がはっきりとしていたからかな。それが明確だったおかげで、割と簡単に超明晰になることができたし母体を倒すこともできた」

 なるほど……。今まで気にしたことはなかったが、言われてみれば確かにそうだ。

 篠倉の場合――自分の心の中にモヤモヤとしたわだかまりがあって何となくすっきりしないとかそういうことではなく、不満の原因は病気の他にないわけだ。病気を治して大好きなスポーツをしたいという理想も常からあっただろうし、例えそうしたくてもできない理由だって十分すぎるくらいに理解していたはずだ。

 とどのつまり篠倉は、当初から超明晰になり得る条件を満たしていた。また、それに付随して母体が出現する条件も満たしていた。だから篠倉にとっては、自分一人で悪夢を乗り越えることなどさして難しいことではなかったのだ。

 何度も言うように今の今まで気にしたことも無かったし、本人もわざわざ言うことではないだろうと思っていたみたいだが、考えてみればそうなのだ。僕らと篠倉では――同じ体験をしていても、その立場や状況、経緯が異なっている。

 ……まぁだからといって、それがどうしたってわけでもないのだが。その事実自体は目からウロコの情報ではあるにはあるんだけれど、会長がそのことに喰いつく意味が分からないし。

 篠倉が超明晰に至るまでのいきさつを聞いて、会長は、何か妙に納得したような表情で鼻を鳴らした。

「ふん……、なるほどそういうことか。これで、なぜあの人ほどの人間が君らみたいなのに出し抜かれてしまったのか得心いった――君らの中に一人、イレギュラーがいたわけだ」

「イレギュラー? どういうことだよ?」

 いや、そこじゃない。今こいつは確かに……、あの人と言った――

「おいお前! さっきから黙って聞いてりゃ意味深に意味分かんねぇことをぶつぶつと……俺らに分かるように話せ!」

 会長の思わせ振りな話し方に苛立ったのか、那須美が再び会長に詰め寄った。それが余計に会長の反骨精神を煽ったのか、はたまた単に面白くなっただけなのか、殊更に不敵な態度をとった。

「まだ分からないのか? とんだ鈍感野郎だな。一周回って笑えてくるぜ」

「なにぃ……? お前、自分の状況が分かってないみてぇだな? お前をどうするかは俺らの手に掛かってんだぜ? あえて物騒な言い方をすれば、お前を生かすも殺すも俺らの勝手ってことだ」 

 那須美が脅すように言って、会長に棍棒を突きつけた。

 しかし会長はつゆほども怯まずに、

「分かってないのは君の方だ――」

 と、寒気がするほどの低い声で言った。

 そして会長はおもむろに立ち上がると、僕の方へとやってくる。

「夢世界で殺された人間がどうなるかも知らずに笑わせる……。いいだろう。いい機会だから君らに教えといてやるぜ」

 会長は僕の肩にぽんと手を乗せると、学ランのポケットから――サバイバルナイフを取り出した。

「危ないトミシ!」

 篠倉が叫んだ。

 その大声で何が起きているのかやっと理解するが、もう遅い。

 目の前でナイフの刀身が妖しく煌めく。限界まで圧縮された時間の中で、僕はその軌道を確かに見てとった。

 生暖かい鮮血がほとばしる。僕はそれを真っ向から浴びながら、その場に呆然と立ち尽くした。

 僕の視線の先には――会長が振るったナイフ。

 そしてそれは――会長自身の腹を突き破っていた――

「うわああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 僕は絶叫した。

 視界の一面に広がる真紅。肌にまとわりつく鉄の臭い。人間の体から不自然に突き出ている異物。その全てが、ただただ恐ろしい。

「い、いいか荻村、殺すってのは……こ、こういうことだ……。お俺が今まで……どうやってあいつらを眠らせてきたか……夢世界で眠るとどうなるか……、その目にしっかりと……焼きつけて……お……け……」

 そう言って会長は、息絶え絶えにナイフを握り直すと、一気に引き抜いた。

 傷口を塞いでいる栓が無くなったため、当然そこから血が鉄砲水のように吹き出す。

「あ……あ……ああ……」

 僕の口は辛うじて音を発するが、それだけだ。声は継ぎはぎで、そこに意味はない。とても言葉になっているとは言い難かった。

 終いには全身の力が抜け、その場に尻もちをついてしまう僕。慌てて篠倉が僕の元へと駆け寄ってきたが、しばらくはそれに気がつかなかった。

「もういいトミシ! 見るんじゃない!」

 篠倉が僕の目を手で無理やり塞ぐ。それにより視覚は遮断されるが、まぶたの裏に赤色が焼き付いて消えない。

「ダ、ダメだ……目をそ、逸らすな……。み、見逃して……しまう……。ひと……が、ひ人が夢を失う……その瞬間……を――」

 笛が鳴るような過呼吸を繰り返しながら、会長は僕に語りかける。しかし、やがてその声も段々と小さく微かなものへと変わっていき、終いには聞こえなくなってしまった。

 会長のいた場所からはまるで気配が感じられない。それは、この世界から彼だけが抜け落ち、また脱落したようでもあった。

「……どうなった? 篠倉、会長はどうなったんだ……?」

「………………」

 それがあまりに不思議で……不気味だったので、僕は僕の代わりに事の成り行きを見守っていた篠倉に尋ねる――が、彼女は黙ったままで答えない。

「……篠倉?」

 再び聞き直すと、口ごもりながら、訥々と篠倉は言った。

「……消えてしまったよ。血の一滴も残さずに……、まるでそこには最初から何もなかったみたいに……消えてしまった」

 目を開くと――目の前から――こつ然と、煙草屋光揮の姿が無くなっていた――


「だああああああぁぁぁぁぁ! ……はぁっ、はぁ……はぁ……」

 跳ねるように跳び起きた僕。

 窓から覗く夜空。枕元の目覚まし時計は午前三時ちょうどを指していた。

「……夢か。はっ、笑っちまうぐらいに嫌な夢だったな」

 僕はもう一度寝転ぶと、ベッドの下辺りにあるコンセントに手をやる。それから、そこに繋がれている充電器のコードを乱暴に引っ張って、携帯を自分の元に寄せた。

 そのまま僕は、篠倉に電話をかける。

 プルルルと呼び出し音が鳴り始めてからたっぷり五コールほど使って、篠倉はやっとこさ電話にでた。

『――トミシか?』

「ああ、僕だ。要件は――まぁ分かってはいると思うけど、会長のことだ」

『……言っとくがトミシ、あれは――』

「わぁーってるよ。実際に起きたことだって言いたいんだろ? 今更そんなこと疑っちゃいねぇよ」

 俺が聞きたかったのは、議論を交したかったのは、あの人についてだ――

「なぁ、篠倉」

『……なんだ?』

「会長、共犯がいるみたいな言い方だったよな?」

『そうだな。君も言っていた通り、会長はその共犯者に助けられて超明晰の力を手にしたのだと私は思う』

「ってことは、実行委員らの夢を襲ったのも全部そいつの差し金で……会長はそそのかされたってことだろうか?」

『それは私には分からないが……』

「――なぁ、篠倉」

 僕は篠倉の言葉を遮って、端的に質問する。

「〝真犯人〟、誰だと思う?」

『………………』

 篠倉は黙ってしまった。

 たぶん彼女も、今回の事件を引き起こした犯人が会長ではないということに、薄々気づいていたのだろう。癇の鋭い彼女のことだ、おそらくあの相関図の件の辺りで。

 確かに実行犯は煙草屋光揮その人だ。しかし今言ったように、計画犯は別にいる。

 会長に超明晰の力を与え、そそのかし、実行委員らを長い眠りにつかせた犯人。そして、僕らの夢を蝕んだ張本人。それはいったい――

『――私は』

 今度は篠倉が、僕の思考を遮って言った。

『……私は、白日芙蓉が怪しいと思う』

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