第三夜 蛇寄せの嚆矢
一
五月も中旬に差し掛かり、久しぶりの雨がこの町を包んだ。
その雨音はしとしとというよりはざーざーといった感じで、いつもならはっきりと聞こえてくる吹奏楽部の無秩序な旋律も打ち消されている。
放課後――僕は雨が地面を打つ様子を窓から眺めながら、いつもの特別教室である人物のお説教を受けていた。
「荻村君、今日はなんでここに呼び出されたか分かってるよね?」
座頭橋先生の声音はいつもとは違い、ややトーンが低かった。
同様に、僕のテンションもこの雨のおかげで頗る低い。
「あー……、たぶん進路調査票のことですかね?」
僕は窓の外に向けていた視線を、目の前に座っている先生に移して答える。
先生は無言で頷くと、諭すように僕に言った。
「君以外の調査票はもうみんな出そろってるの。難しいことだから本当はもっとゆっくり考えてって言いたいところなんだけど、もうとっくに期限も過ぎちゃってるし、これ以上遅くなると進路主任の先生にご迷惑をおかけすることになるから……」
言われてみれば、進路調査票を配られてからもう軽く二週間は経っているな。
それだけの時間が経過しているのであれば、逆にもううやむやにしてしまってもいいんじゃないかという気さえしてくる。
さすがにそういうわけにもいかないので、先ほど座頭橋先生から再び渡された進路調査票の空欄をなんとか埋めようと頭を捻るのだが、不思議なことに全く何も浮かんでこない。
「まだ二年の五月で受験までは期間があるし、今はそう難しく考えなくてもいいんだよ。とりあえず、県内の無難な国立にしておけばいいんじゃないかな?」
そう、城野学園高校は進学校なので、進路といえば無条件で進学ということになる。
しかし僕の場合はその特殊な家庭環境から、国立にしろ私立にしろ、学費や受験勉強に掛かる費用を捻出することが難しい。父親に連絡がつかないこともないので、その費用について相談することもできなくはないが……、何だかそれは憚られる。
もちろん進学校だからといって就職が許されていないというわけではないのだろうが、さりとて就職となった場合、誰からも就活についてのアドバイスを受けることができない。
就職について何の知識もない僕が、単身で仕事を探したところでうまくいくはずがないというのは分かりきっていることだから、これについてもいまいち決め兼ねる。
僕の進む路はどの路にも大きな壁が立ち塞がっていて、八方塞がりだ。そんな状況でさっさと進路を決めろと急かされても、こちらとしてはどうしようもない。
僕がシャーペンでトントンと机を突っついているのを見て、先生は困ったようにため息をつく。それから僕にこんなことを言った。
「荻村君には将来の夢ってある?」
「夢、ですか?」
「そう、夢。ただ単にどこの大学に行くのだとか、どこの会社に就職するのだとかじゃなくて、自分の夢を叶えるための道のりが進路ってことだと私は思うの。だから、荻村君の将来の夢を一度考えてみればいいんじゃないかな?」
……将来の夢、か。
そんなこと今までに一度も考えたことはなかった、ってことも実はない。僕だって小学生くらいの頃には、自分の夢やこうなりたいっていう将来像みたいなものがあった。
でも、段々と大人に近づくにつれて現実を知っていって、そんなものは空想的なファンタジーに過ぎないと思い知らされた。学校の教科に『現実』って科目があったら余裕で学年トップの成績を叩きだせたていたことだろう。
それに今の僕には、夢を語って前に進めるほどの余裕はない。今このときをしっかりと踏みしめて踏ん張って生きることが精いっぱいで、前を見ることすらできない。
「……やっぱり今すぐに結論を出すのは難しいですね。今はとりあえず近場の大学に進学ってことにしておいて……、あとから変更するってのは構いませんかね?」
「大丈夫だよ。進路調査はこの一回限りじゃないからね。三学期にまた調査するらしいし、最終的に進路を決めるのは三年になってからだから。それでも生徒が進路についてどの程度の意識を持っているか確認しておきたいから、やっぱり進路調査票は提出してもらわないと困るんだけどね」
「そっすか。んじゃまぁ、適当に県内の国立大学書いて出しましょうかね」
僕は殴り書きで調査票に大学名を書いてから先生に手渡す。先生はそれを受け取ると、クリアファイルにしまった。
「そうだ。話は変わるけど荻村君。最近、那須美君と仲いいよね? あれから何かあったの?」
あれからというのは、那須美のことについて先生に相談したときのことを指しているのだろうか?
まさかバカ正直に夢世界のことを話すわけにもいかないので、僕は適当に話を誤魔化す。
「いや別に何があったってわけじゃあないんですけれど……、でもまぁ例の悪夢については一応解決したらしいですよ。それでやっと肩の荷がおりてほっとしてるんじゃないですかね?」
「……ふーん。そっかぁ……、解決したのかぁ……」
先生は前髪を弄りながら呟く。
そして、笑って僕にこう言った。
「昔何があったのかはよく知らないけど……、あの子、ずいぶん思い詰めていたみたいだし、これで私も一安心だよ」
「ま、那須美の悩みの種だったのはただの悪夢ですからね。そんなものは時間が経てば勝手に解決することです。先生はいちいち大袈裟なんですよ。その所為で僕もいらぬおせっかいを焼くはめになってしまったんですから……」
実際は全くそんなことはないのだが、しかしこうでも言っておかないと先生の言及を避けることができないので、まぁそこは勘弁してほしいものだ。
ともあれ、当初の目的であった進路調査票の提出は済ませたのだ。雑談に興じるつもりは毛頭ないし、これ以上この教室に拘束される筋合もない。
僕は教室の壁に掛けられている時計をチラリと一瞥し、言外に帰宅を促した。
「……それじゃあ、調査票も出してもらえたことだし今日はもう帰ってもらっても構わないけど……、今後はこんなことがないようにしてください。提出物はきちんと期限日までに提出する、いいね?」
「努力します」
僕はそう一言だけ告げると、鞄を抱えて早々に教室を出た。
二
教室を出て少し先に行ったところにある渡り廊下。そこの窓に肘をついて外を眺めている一人の少女がいた。
最初は篠倉が教室の外でずっと僕を待っていてくれたのかと思ったが、すぐにそうではないことに気がつく。篠倉は今日、定期健診で学校を休んでいる。
それによく見てみると、その少女は篠倉とは全く似ていなかった。
首元まで伸ばされた髪には寝癖がついており、二重のたれ目が彼女を実際の年齢より幼く見せている。何より彼女の気怠そうな雰囲気は、篠倉と言うよりはまるで――いや、さすがにそれは彼女に対して失礼か。
こんなところで何をしているのか気にならないこともないが、だからと言って知らない生徒に声を掛けるというのもおかしな話なので、黙ってその横を通り過ぎようとする――と、不意に彼女が口を開いた。
「――人の夢とはこの雨のように儚いものだ。人の心にひとしきり降り注ぐと間もなくやみ、現実という日差しが後に残った水たまりを干上がらせてしまう。泡沫の夢とはよくいったものだな。お前が将来の夢について路頭に迷うのも無理はない」
「別に路頭には迷ってねぇよ。進路を迷ってんだよ僕は。……ってかなんだお前、僕と先生の会話を盗み聞きしていたのか?」
「もっともお前の場合は雨でも晴れでもなく、深い霧のようなものが心を覆い尽くしているのだろうが。ふふふ……、まさに五里夢中というわけだ」
だめだこいつ……、こっちの話をちっとも聞いてねぇ。
これは真面目に反応するだけ時間の無駄だ。こんな痛い子はほっといてさっさと家に帰ろう。
僕は軽く会釈をしてその場から立ち去ろうとしたのだが、彼女は壁にもたれ掛ったまま僕の行く手を片手で遮った。
そして、飄々と言う。
「おいおいちょっと待ってくれよ、釣れない奴だな。もうちょっと僕の話に付き合ってくれたっていいだろう。そうやって人の話を聞かないのはお前の悪い癖だぜ?」
「……お前が僕の何を知っているんだよ。いいからそこをどいてくれ」
僕が彼女の手を払いのけようとした瞬間――ふわっと、僕の鼻腔を甘い香りがくすぐった。僕の肩には真っ白な手が添えられ、蠱惑的な小さな唇が僕の耳元までそっと寄せられる。そして――零れるような囁き声が、僕の脳髄を舐めた。
「――知っているよ」
「っ……!」
それに驚いた僕は、両手で彼女を突き放してしまう。
けれど彼女は、そんなことはいっさいお構いなしだ。僕との間に開いた距離を一歩一歩詰めながら、なおも続ける。
「二年六組、荻村富士。お前のことを僕はよぉく知っている。お前はどうだ? 僕のことを知っているか?」
「………………」
僕はその問いに無言をもって答えた。
「そうか、なら教えてやる。僕の名前は白日(しらくさ)芙蓉(ふよう)。生徒会副会長を務めているお前と同じ二年生だ。よろしくな」
「……生徒会副会長? その割に僕はお前のことを見たことも聞いたこともないぞ」
「そりゃそうさ。お前は選挙演説の時間、保健室で居眠りをしていたからな。投票も信任投票だったから適当にまるつけて終わりだ。僕のことを覚えていないのも無理はない。……仕方がないとは言わないがね」
……確かに僕は生徒会役員選挙があった日、演説を黙って聞いているのが億劫だったので、体がだるいとか何とか言って集会をバックレた。
しかし、なぜそれをこの白日とかいうのが知っているんだ? こいつは生徒会副会長らしいが、それならばこいつも他の役員と同様、集会で演説をしていたはずだ。故に、彼女には僕が保健室でさぼっていたことを知るすべはない。
「……お前、いったい何者なんだ?」
僕が問うと、彼女は手を顎にやって少し考えたあと、不気味な微笑みを浮かべて言った。
「その問いに答えるのは簡単だが、それでは少しばかり情緒に欠けるというものだ。……そうだな、僕の頼みごとを一つ聞いてくれれば何でも好きな質問に答えてやるがどうだ?」
何でも? いや待て、それはあれか? 法律や条例に引っかからない範囲でなら何でもという意味か? それとも言葉通りの意味での何でも、すなわちセクハラまがいのことまで何でもお聞きしちゃってもよろしいということなのか? 前者と後者では大きく話が変わってくるし、あとから話が違うということになってもいけない。それだけははっきりさせておかなければ……。
いやそうじゃない。確かさっきまで真面目な話をしていたはずだ。ここらで閑話休題といこう。
僕は一つ咳払いをしてから、彼女に尋ねる。
「……で、お前のその頼みごとってのは何なんだよ? それを言わずに交渉のテーブルにつこうってのはフェアじゃないぞ」
「おっと、こいつは失礼した。僕はどうにも人に頼るということが苦手でな。ま、許してくれ」
白日はそう言って僕の肩をぽんと叩く。どうでもいいけど、初対面のくせにさっきから馴れ馴れしい。馴れ馴れしいと言えば篠倉や那須美もそうなのだろうけど、彼女らとはまた違った種類の馴れ馴れしさだ。
「それで僕の頼みごとというのはだな、有体に言えば生徒会行事のことだ」
「生徒会行事? なんでそんなものをわざわざ初対面の僕に頼むんだよ。お前ら生徒会で勝手にやればいいじゃないか」
「それがそうもいかない事情がある。来月、この学校で何があるかお前は知っているか?」
来月っていうと六月だな。去年の六月頃の学校行事といえば確か……。
「……文化祭か」
ここ県立城野学園高校では、六月の中頃、地元自治体や有志団体の力を借りて三日間に及ぶ大規模な文化祭が開かれる。
全てのクラスがみな一様に模擬店を出展し、体育館では有志団体のバンド演奏やサッカー部による漫才大会S1グランプリが開かれる。また、一般客の参加も認められているので、当日は人でごった返すことになりうるさいくらいの賑わいを見せる。
まさに、城野高校きっての一大イベントというわけだ。
「それで文化祭を運営するにあたって人手が必要ってことなのか? でもそれだったら、実行委員が各クラスから一人ずつ集められるはずだろ? 何も、わざわざ僕が手伝う必要はないんじゃないか?」
「まぁ、お前の言う通り実行委員は実行委員でまた別に集められる、が――問題は生徒会役員の方にあるんだよ」
「……なんだよ、生徒会のやつらが揃いも揃って役立たずとかそんなか?」
白日のいちいち回りくどい物言いについイライラしてしまい語気が強くなってしまうが、彼女はそんな僕の様子などどこ吹く風にそのままの調子でのたまう。
「いや、そういうわけじゃない。生徒会役員の一人が、最近学校を休みがちになってしまっていてな。生徒会に一人、欠員が出ているのさ。その穴埋めをお前にはしてもらいたい」
なるほどな、そういうわけか。
いくら実行委員が集められると言っても、この文化祭は生徒会が主体となって運営されるものだから、そこに欠員がでると指示系統の一角が麻痺をすることになる。そうなると、当然他の役員にその分の負担が掛かるわけで、生徒会はてんてこまいになるはずだ。
指示以外の業務も然りだ。特に地元自治体や有志団体など関係各所への打診は人手が少ないとなかなか進めることができなくなる。全体を把握することが困難になり、対応が遅れるからだ。
パッと思いついただけでもこれだけある。文化祭運営のため、実行委員以外にも協力を募る理由としては十分すぎるだろう。
だがしかし、それで僕が手助けをしてやる理由にはならない。
ならないのだが……。
「お前が今、何を考えているのか当ててやろう」
彼女は、人差し指を僕の額にあてがって言った。
「その顔は、この僕がわざわざ手助けをしてやる理由はないとか何とか、そんなことを考えている顔だ」
……これだ。この知ったような口が、僕の判断を狂わせる。
「……お前の頼みごとを聞けば、どんな質問にでも答えると言ったよな?」
「ああ、言ったよ」
「……分かったよ。お前の頼みごと、聞いてやる。生徒会でも何でも手伝ってやるよ。ただし、無事に文化祭が終わったそのときにはお前が何者なのか答えてもらうぞ」
「いいよ。約束しよう」
白日はさして驚く様子も見せずに、僕がそう答えることを分かっていたかのように、ただクスリといたずらっぽく笑うだけだった。
僕らの教室がある校舎から一旦外に出たところにある、文化部の部室が集まった古臭い木造建築の、湿気の所為かどこか重苦しい空気が漂う旧校舎。そこの入り口近くにある生徒会室へと、僕は白日に連れられてやってきた。
彼女はノックも無しに生徒会室の扉を開くと、ずかずかとその中に入っていった。
「何をしているんだ? 遠慮はいらないから、さっさと入れ」
白日に促され、僕は「失礼しまーす……」と軽く挨拶をしてから中に入った。
生徒会室は、僕が想像していたものよりずっと殺風景なものだった。普通教室ほどの大きさの部屋には無駄な物がいっさい無く、非常にさっぱりとしている。
部屋の角にはスケジュールの書かれたホワイトボードがあり、その隣には様々な備品が収納されている大きな棚と役員それぞれのロッカーがあった。部屋の中心にある折りたたみ式の長机を四つ組み合わせて作られた長卓には、生徒会役員と思われる三年の男子生徒が二人いたが、どうやらこちらに気づけるほどの余裕はないようだ。一人は書類整理、もう一人は電卓を使って必要経費の計算に追われていた。
そして何よりこの部屋に入って真っ先に目についたのが、生徒会室の上座に位置するデスクでパソコンを使っている、メガネをかけたオールバックの男子生徒だった。
「会長、つい先日から欠席している書記の代理を連れてきたぞ。文化祭が終わるまでの一か月間、ここで僕らの手伝いをしてくれるそうだ」
「ども、荻村富士です。よろしくお願いします」
白日にそう紹介されてまさか黙っているわけにもいかないので、とりあえず僕は名を名乗る。するとその男子生徒はこちらへと視線を向けて、目を細め僕を見分するようなしぐさを見せた。
「……ふん。そう言えばそんな話もあったな。俺一人いれば全て事足りるというのに……」
男子生徒は不服そうにそんなことを呟くと、パソコンをパタリと閉じて、今度は白日の方を向いてから言った。
「副会長、目上の者と話すときには必ず敬語を使えと何度言わせれば気が済むんだ? 学生のうちはそれで通用するかもしれんが、社会に出ればそうはいかない。関係各所へのご挨拶のときにはそのようなことが無いように肝に銘じておけ」
「努力しよう」
白日の態度に苛立ったのか、彼の左目の目じりがピクッと動く。
自覚があるかどうかは分からないが、どうやら彼は感情が表情にでやすいタイプの人間らしかった。
「……まぁいい。おい、荻村とかいったな」
中指でメガネをくいっと押し上げながら、男子生徒は僕を睨む。
「俺は生徒会長の煙草谷光揮(たばこやみつき)だ。まぁ初対面とはいえ、俺は君が一年の頃からずっと生徒会長を務めているからな。一応、俺のことは知ってはいるはずだ」
いや知らん。初めて見た顔だ。
「最初に断っておくが、君には他の役員と同様に仕事をしてもらう。いくら経験が無いからといって、できないやらない分からないは許さないからそのつもりでいろ」
えー……。好意で手伝ってやるのに何なのその扱い? いくらなんでも真っ黒すぎるでしょ。ブラック企業の方が、給与が出るだけまだマシなレベル。
とは言え、ここまできて今更断るわけにもいくまい。とりあえず、今のところは首を縦に振っておこう。
嫌な仕事を断る権利すらないなんて学校ってのはつくづく社会の縮図だよなぁ……。
「さて、本来であれば早速君の働きぶりを見せてもらうところなのだが……、残念ながらすでに日も傾いて完全下校の時間が近づいている。そういうわけで今日はもう帰ってくれても結構だ。明日、放課後に定期ミーティングが開かれるからそのときにまた来てくれ」
言われて窓の方を見てみると、分厚い雲の所為でほとんど真っ暗だった。大雨で視界も悪いし、さっさと帰った方が無難だろう。
「そっすね。ここに残っていても仕方がないし、僕はお先に失礼します」
生徒会室から立ち去ろうとしたそのとき、壁に掛けられたある写真が目に付いた。
生徒会役員一同が写っている写真、そこに見覚えのある人物がいた。
「煙草谷先輩、帰る前に一つだけ質問してもいいですか?」
「……なんだ? 手短に頼むぞ」
「欠席している生徒会役員って……、この人ですか?」
僕はその写真に写っている一人の女子生徒を指さして尋ねる。
「ああ、そうだ。君らと同じ二年の、野々宮(ののみや)扇(おうぎ)という人物だ。なんだ? 彼女と知り合いなのか?」
「ええまぁ……中学が一緒だったんで」
艶やかな黒髪をうなじの辺りで一本に束ねた、釣り目で涼しい顔立ちの女子生徒。
間違いない、彼女だ。
あいつ……、生徒会に入ってたのか。確かに昔から人に頼られるタイプの人間ではあったが……。
「聞きたいことというのはそれだけか?」
「あっ、はい……。すいません変なこと聞いちゃって。失礼します」
あまり長居しても先輩たちに悪いので、僕は今度こそ生徒会室を後にした。
「彼女のことが気になるみたいだな?」
扉を開けてすぐそこに、不敵な笑みを浮かべた白日が僕を覗いていた。
「……白日っ! お前いつの間に……」
「お前が写真に気をとられている隙にだよ。驚かしてやろうと思ってな」
口元を押さえながらけたけたと笑う白日。
彼女が楽しそうで僕は何よりです……。
「気になるっていうかまぁ……、アレだ。あいつ、中学んときからずっと弓道やってたからな。高校でも弓道部に入ったと思ってたんだよ」
「いや、お前の言う通り彼女は確かに弓道部に入部している。しかも、そこの部長を務めているそうだ」
「ん? なんだこの高校、生徒会と部活を兼ね持っても大丈夫だったのか? 今まで生徒会になんて興味がなかったから知らなかった」
「一応、兼部を禁止している校則はない。ただ、部活動と生徒会を両立させることは難しいからな、それが許されないような風潮はある。現に、彼女は部活動内で風当りが強いそうだ。教師陣からの評判は良いんだけどな。彼女、成績は優秀だし」
「ふーん……。ま、ちょっと気になっただけで別にどうでもいいんだけどな。……それじゃあ白日、僕もう帰るから。また明日、生徒会でな」
僕は白日にそう告げて、さっさと帰路につこうと白日に背を向ける。すると白日は、くるりと僕の目の前に回り込んでまたぞろ不気味に微笑んだ。
「ここまで付き合ってくれたお礼に、お前に少しヒントをあげよう」
……ヒント?
「彼女がここ最近学校を休んでいる理由――それはな、『不眠症』だ」
「……え? おい! お前今、何て……」
僕は白日に問い詰めようと詰め寄るのだが、それを彼女はするりと躱して言う。
「そうだ。これから僕のことは白日じゃなくて芙蓉と呼んでもいいぜ。お前に苗字で呼ばれるのは……、なんだか心地が悪いからな」
彼女はそれだけ言うと、てててと廊下を駆けていった。
あとに残された僕は、消化しきれずに胃酸が喉を逆流したときのような不快感に苛まれていた。
三
昨日からずっと考えを巡らして、巡らしたけど何もまとまらなかった翌日の昼休み。
まわりのやつらがさっさと弁当を用意している中、僕は机にうな垂れてぼけっーと昨日のことを思い出していた。
進路のこと――白日芙蓉のこと――生徒会のこと――野々宮扇のこと。いろいろありすぎた所為で、様々な感情が頭の中で交錯して中々結論には至らない。
……こういうときは、少し落ち着いて整理した方がいい。結局、今の自分が真っ先に考えないといけないことは何なんだ? まずそれを検討しよう。自分にとっての優先順位をそれぞれに付けていくんだ。
まず進路についてだが、それについては今考えても答えが出る気がしないし、今すぐに結論を出す必要も無い。よって保留。
そして白日芙蓉についてだが、彼女には謎が多すぎるから考えたところでどうにもならない。だから、生徒会の業務を手伝えば僕の質問に何でも答えるという提案に乗ったわけだしな。とりあえず保留。
では、今から放課後の生徒会のミーティングに備えるというのはどうだろうか? いや、それも他二つと似たようなものだ。なぜなら僕は、生徒会業務をするにあたっての何の資料ももらっていなければ、自分が何をすればいいのかさえ教えてもらっていない。これでは備えようにも備えようがないので、ぶっつけ本番でミーティングに挑むしかない。これも保留。
では野々宮扇についてはどうだろう?
野々宮扇――偶然にも中学の三年間ずっと同じクラスだった女子生徒。僕の記憶では確か、野々宮は三年間続けて委員長を務めていた。ただ前にも言った通り、人から頼られることが多いタイプの人間だったので、自分から立候補したというよりは周りのやつらに煽動されて仕方なく委員長になった――そんな感じだった。
教師陣からの評判が良いと白日は言っていたが、今回も人に勧められて生徒会役員に立候補したのだろうか?
「しかし、不眠症ねぇ……。あいつにもやっぱりストレスみたいなもんがあんのかな?」
僕は手元にあったシャープペンシルをクルクル回しながら視線を宙に投げる。
するとちょうど教室に、小さな手提げかばんを後ろ手に隠すようにして持った女子生徒が入ってくるのが見えた。……うん、まぁ篠倉なんだけどね。
篠倉は教室をざっと見渡して僕を見つけると、大袈裟に右手を振ってこちらへ寄って来る。そのおかげで僕は教室中のみんなの視線を独り占めしてしまった。
ははは、人気者だなー僕。んなわけない。
「や、トミシ。一日ぶりだな」
言いながら、篠倉は開いている椅子を傍まで持ってきてそこに座る。
「何お前、突然どうしたの?」
「トミシ、昨日一日私がいなくてさぞ退屈していたことだろう」
「いや別に……、割とそんなことはなかったけどな」
逆に昨日はいろいろとありすぎて、あっという間に時間が過ぎていったような気さえする。
「まーた、強がっちゃって。君にとって、親友の私がいない学校生活など灰を噛みしめるように空虚なものだろう? まったく、素直じゃないんだからなぁ君は」
え、何こいつ。ウザいこわい。
定期健診とはこんなにも人を変えてしまうものなのか……。更生施設か何か?
「で、そんな君に少しサプライズを用意したんだが……、これだ」
篠倉はそう言って手提げかばんをドンと机の上に置くと、その中から可愛らしい包みを出した。
「実を言うと、検診は午前中に終わってしまってな。その後何もすることが無くて暇だったんで、久々に料理をしてみたんだ。それで君がいつも購買でお昼を買っていることを思い出して、弁当を作ってきたというわけだ」
言われて包を開けてみると、確かにお弁当が入っていた。
……使い捨ての折箱だったが。
「これなら相手に弁当箱を洗わせる気遣いをさせなくて済むしな。軽いし大きいから実用性にも富んでいる」
いやお前確かに実用性はあるかもしれないけどさ……。その分他の、色気や情緒はカケラも感じないよな……。いや別にいいんだけどさ。
「ま、箱の話はどうでもいいさ。問題は中身だ。さ、早速食べてみてくれ」
「お、おう。そんじゃまぁ……、いただきます」
僕は弁当箱からいったい何が出てくるのかと内心恐ろしかったが、意外にもその中身は見栄えのいいものだった。
玉子焼きに鶏の唐揚げとオーソドックスなものに加え、ミニトマトの中身を少しだけくり抜いてそこに小さく刻んだチーズとレタスを入れたサラダ、ツナと水菜の和風パスタや、ハムで巻いたポテトサラダと、見た目にも鮮やかで実に手の込んだものだった。
おかずを作るのに夢中になっていたのか、心なしかご飯のスペースが少なくなっているのも、まぁ彼女らしいといえば彼女らしい。ホント、これで弁当箱が折箱じゃなければ完璧なんだけどなぁ……。
僕はまず、弁当のおかずの中でも割と好きな玉子焼きに箸を伸ばす。
これは僕の持論だが、その人の料理の腕はその人が作った玉子焼きを食べれば分かる。 いや、僕は別に料理ができるってわけじゃないから分かんないんけど。何となくね。
「……うん、まぁ普通にうまいな。家庭的な味で良いと思う」
「ふふん、だろう? 私は小さなときからずっと母さんに料理を教わっていたからな、かなりの腕前だと自負している」
篠倉は得意げにそう言うが、おそらく上手くできているかどうか内心では不安だったのだろう、机の下で小さくガッツポーズをするのが見えた。
「……ってか、アレだ。ジロジロ見られてると食いにくいんだよ。お前もさっさと食え」
ただでさえ衆目の中一つの机で一緒に飯食ってもういろいろとヤバいというのに……、弁当の味が分からなくなるだろうが。
「ああ、すまんすまん。何しろ、家族以外の人に私の料理を食べてもらったのが初めてだったから……。それじゃ、私もいただくとするか」
篠倉が自分の分の弁当箱を開けるのとほぼ同時に、購買に昼食を買いに行っていた那須美が菓子パンをいくつか抱えて戻ってきた。
那須美は教室に入るなり僕らを見て驚いたような顔を浮かべ、こちらへ寄ってくる。
「おーっす、篠倉さん。健診、お疲れ様」
「おっ、那須美君じゃないか。一日ぶりだな」
那須美は僕の隣の席に座ると、そこに買ってきたパンを広げる。
……どうやら、僕らと昼食を共にするつもりでいるらしい。
「お前らが仲良いのは知ってたけどさ、昼メシ一緒に食ってんのは珍しいよな。なに? 二人ってそういう関係だったの?」
那須美は僕に向かって出し抜けにそんなことを言うと、ニヤニヤと意味ありげな笑みを浮かべる。
そういう関係ってどういう関係だよ。
「お前が考えてるようなことじゃねぇよバカ。あと勝手にそこ座んな」
僕はイラついて、那須美が座っている椅子を軽く蹴る。
那須美はそれをズリ戻しながら、「悪い、冗談だって」と平謝りした。
「珍しいといえば荻村、お前、今日は弁当なんだな。ちょっともらってもいいか?」
「嫌だ」
「いいじゃんか別によー。一口、一口だけだからさ、な?」
「無理だ」
「そこまで頑なに拒否らなくてもいいだろ……」
にべもなく僕がそう言うので、那須美は若干引き気味に苦い顔をする。そして、しばらく小声でぶつくさ文句を言ったあと、思い出したように話題を変えた。
「そいやさ、駅の近くに新しいラーメン屋ができたらしいんだよ。放課後にみんなでよってかない?」
メシ食ってるときにメシの話すんのかお前は……。
「せっかく誘ってもらったところ申し訳ないが、私はあまり脂っこいものはダメなんだ。体を壊してからどうも食が細くてな」
「あー……、それなら仕方ねぇな。や、聞いた俺が悪かった!」
篠倉がきまり悪そうに断るのを見て、那須美は少し大袈裟に弁解する。
それから一つ咳払いをして、ついでとばかりに今度は僕に対して尋ねる。
「お前は大丈夫だよな? 放課後、どうせいつもみたいに暇してるんだろ?」
「悪いな。僕は今日、放課後に生徒会の仕事がある」
「「生徒会?」」
篠倉と那須美は声を合わせて驚くと、しばらく互いの顔を見合わせた。
「いやいやいや、その断り方は少し苦しいんじゃないか? あまり学校に出ていない私でも生徒会メンバーは把握しているし、第一、君はそういう委員会に参加するようなタイプじゃないだろう? 生徒会なんて言ってみれば慈善事業のようなものだ。そんな何の利益にもならない、無駄に体力を消費するだけの活動に……君が? ふっ、ありえないな」
どうやら篠倉は、那須美の誘いを断るために僕が嘘をついたのだと思っているらしい。ぶんぶん手を振って、僕が言ったことを否定した。
「それが案外、慈善事業ってわけでもないんだよ。……まぁ確かに、上手いこと乗せられたって感じはするけどな」
「……? 私には君が何を言っているのかさっぱりだ」
「ま、お前には関係のないことだから気にすんな。……あっ、そうだ。そういうわけでしばらくの間は家まで送ってやることができないから」
僕の突き放すような言い方が気に入らなかったのか、篠倉はむっーとふくれる。
すると、その様子を横から面白がって見物していた那須美が、篠倉にぼそぼそと耳打ちをした。
「――で、――だから、―――ってのはどうだ?」
「……ふむ、なるほどな。うん、確かにそれは良いアイデアだ」
篠倉はうんうんと大きく頷きながら那須美の話を聞いている。
僕はそんな二人に訝しげな視線を送り、那須美に一言いってやった。
「……あんまり篠倉に余計なこと吹き込むなよ、那須美」
「あー、分かってる分かってる。心配すんなって。別に何にも企んじゃいないからさ。な? 篠倉さん」
「おう!」
そう返事をする篠倉は何だかやる気に満ち溢れているというか……、何だかバックに轟々と燃え盛る炎が見えてきそうな勢いだった。
四
時刻は午後四時一〇分――掃除終了のチャイムが鳴り、僕は掃除場所の生徒指導室前からさっさと引き上げる。それはこの後に用事が控えているからというより、場所が場所なのであまり長いこと居座る気にはなれないからだ。生徒指導の先生に捕まってしまえば、掃除の甘さを指摘される可能性も無くは無い。……なにそれ姑か何か?
そのまま教室に戻ることなく僕は生徒会室に直行する。
外に出て、旧校舎に続く道を歩いていると、弓道部の連中が少し開けた場所で、所謂ゴム弓と呼ばれる物を使って練習している風景が目に付いた。
しばらく立ち止まって眺めていると、ある不自然な点に気がつく。
と言うのも彼ら、武道場で弓を使って練習をしていない辺りおそらく新入部員と思われるが、指導をしている人間が見当たらないのだ。
彼らは十人ほどで練習をしているのだが、それを取りまとめている者さえもいない。彼らは互いにアドバイスをするわけでもなく、個人が個人の思うように練習をしているし、挙句の果てには、練習に飽きてしまって他の部員たちとお喋りをしている者がいる始末だ。
これでは弓道部の崩壊は目に見えているようなものだ。何せ、あと二年後にはこいつらが部を受け継ぐわけだからな。その頃までに今の体制を見直さなければ、部の存続さえ危ういだろう。現部長の苦労が忍ばれる。
そう言えば……、今の弓道部の部長って野々宮だったな。あいつはここしばらくの間ずっと学校を休んでいるらしいし、それが原因で部内の統率が乱れているのだろうか?
「……おっと、いけない。今はそんなことより生徒会だ」
弓道部の内情なんて所詮僕には関係の無いことだしな。
気を取り直して、僕はまた歩み始める。
彼らが練習していた場所からすぐのところにある入り口から旧校舎の中に入り、廊下に響き渡る吹奏楽部の笛の音に耳を傾けながら僕は生徒会室を訪ねた。
昨日見たばかりの扉を、コンコンコンと――三回ノックする。
すると、中から女性の声で、「どうぞ」と一言。
「失礼します」
僕は律儀にも礼をしながら室内に入ったのだが、中にいた人物はそれにぞんざいに答えた。
「お、やっときたな。待ちかねたぞ」
生徒会室にただ一人、白日芙蓉は会長のデスクの上に脚を組んで座っていた。
「待ってろ。今、茶を入れてやるから」
言って、彼女はデスクから跳び降りた。
「僕はお前のその不遜な態度にツッコミを入れた方がいいのか?」
「おいおい、面白いことを言うな。僕は何もウケを狙ってやったわけじゃないさ。言ってみればそうだな……、今のは僕の会長に対するささやかな反抗だ」
はーん……、こいつもそういう感情をも持つことがあるんだな。いつも飄々とした振る舞いをするもんだから、あまり他人のすることを気にしないタチなのかと思っていた。
ま、あの会長ならそれも分からなくはないな。あの人、周りの人間に対してかなり高圧的だし。
「緑茶と紅茶とコーヒーがあるが、どうする?」
「あー……、じゃ、紅茶で」
「ちょうどいい、僕も紅茶の気分だ。コーヒーは少し苦手だからな」
彼女は、戸棚からティーポットと四つのカップを取り出し、慣れた手つきでティーポットに紅茶の葉と電気ケトルの熱湯を注いだ。
「そう言えば……、今日はお前一人か? 他の役員はどうしたんだよ」
「会議室で実行委員たちとミーティング中だよ。ちなみに、今日はもう生徒会室には戻ってこない」
「……は? おいおいちょっと待ってくれ。確かにミーティングとは聞いていたけれど、会議室で、それも実行委員を交えての会議とは一言も……」
「部外者のお前にいきなり重要な生徒会業務を任せられるわけないだろ。分を弁えろ」
ポットの中をティースプーンで軽く混ぜながら、彼女は言い放つ。
「いや、だってさ……。あの会長、僕には他の役員と同様に仕事をしてもらうとも言ってたぜ?」
「それはアレだ。経験が無いことを言い訳に仕事を断ることはできないって意味だ。早い話が、『俺の命令には絶対服従』ってことだな」
……つまりなんだ、あの野郎は僕のことを都合の良い雑用係と思ってるということか?
あのクソメガネ……、自分を王様か何かと勘違いしてるんじゃないか? 一度、僕が分からせてやる必要があるらしいな……。
「……まぁいいや。それじゃあ何だ。今日の僕の仕事は、文化祭開催に向けての議論をすることではなく、簡単な雑務整理ってことか?」
「そういうことだな。もっと具体的に言えば、各模擬店の企画書類の審査だ。受理したものには生徒会許可印を押捺し、非受理のものは再提出させる。お前の言う通り、猿でもできる簡単な仕事だよ」
「なるほどな。じゃあお前は、その猿の飼育委員に選ばれたってわけだ」
「選ばれたわけではない、僕から申し出たんだ。僕がお前を生徒会に連れてきたんだからな、最後まで責任を持って面倒をみるのは当然だよ」
コ、コイツ……ああ言えばこう言いやがって……、ホント可愛げがないな。減らず口は友達減らすぞ。
思わず苦い顔をする僕はお構いなしに、白日はティーカップに紅茶を注いでいく。そしてそのそれぞれを、またぞろスプーンで軽くかき混ぜた。
「……それよりお前。さっきから気になってたんだけどさ、ティーカップ多いぞ。何杯飲ませる気だよ。胃液まで紅茶になるぞ」
「いや何、そこで見ている客人たちにもふるまってやろうと思ったのさ」
ふふふと笑って、彼女は窓の外に視線を送る。
つられて僕も外を見てみると、窓枠の下から頭だけ出して、見慣れた顔がこちらを覗いていた。しかも二人だ。
「何やってんだお前ら……」
二人は不意に声を掛けられて驚いたのか、ビクッと肩を震わせてからモグラのように頭を引っ込めた。
「そこにいるのはもう分かってんだよ。大人しく出て来い」
僕が言うと、篠倉と那須美の二人はそーっと遠慮気味にまた頭を出した。
二人は誤魔化すように乾いた笑みを浮かべてこちらを見る。
僕は小さくため息を吐いてから、彼女らに再び問うた。
「お前らそこで何してんだ?」
「あー……まぁ何と言うか……、な? 散歩……、とか?」
「そうそう散歩だ! 散歩で偶然! たまたま! 期せずして! 生徒会室前を通りかかって君を見かけたのだ!」
口をついて出た那須美の嘘に、篠倉が大きく首を縦に振って同調した。
「……とりあえず、そこじゃなんだからこっちまで上がってこい」
「違うんだトミシ! 私は那須美君にそそのかされたんだ! 私は悪くない!」
生徒会室に入るなり、いきなり仲間を売る篠倉。
その姿にさすがの那須美も、ただただ目を丸くするだけだった。
「お前さっきは偶然とか何とか言ってたじゃねぇか……」
顔がマジだから本気で言ってんのかギャグで言ってんのか分かんないし……。
とりあえず言い訳して自分の無罪を主張するとか小学生かよ……。良い意味でも悪い意味でも……、本当に子どもみたいなやつだな、こいつ。
「なんか腑に落ちねぇけど……、だいたい篠倉さんの言う通りだ。や、悪かった! 冷やかすつもりは無ければ二人の間を邪魔するつもりも無かった。もちろん悪気なんてさらさら無かったんだ! この通り! 許してくれ!」
まくし立てるように謝罪の言葉を並べる那須美。
そうまでされると、言葉の裏に何か別の意味を孕んでいるような気もしなくはない。
「……お前、何か勘違いしてないか? 白日とは別にそういう関係じゃ――」
「白日、じゃないだろ? 芙蓉と呼べと言ったはずだ」
僕が言い切る前に白日……もとい、芙蓉が割って入ってきた。
篠倉はそれを聞いて、むっとした表情で拗ねたように言う。
「……まぁ彼女が生徒会役員だということは知っている。生徒会副会長の白日芙蓉さんだろ? 生徒会役員は人目に触れる機会が特別多いからな、知らない方が不思議なくらいだ」
俺は知らなかったけどな……。
「だが私は、君がいったいどういう成り行きで生徒会業務を手伝うことになったのか不思議でならない。話を聞いている限りだと、生徒会というよりは彼女個人が君に手助けを頼んだらしいということは察しがつくが……、私に分かるのはそれぐらいだ」
「あ、それは俺も思った。さっき篠倉さんも言ってたけどお前は面倒事を自分から引きくけるようなタイプじゃないし、誰かの推薦ってのも考えられないからなぁ……」
篠倉と那須美はもっともな疑問を僕にぶつける。
正直に言ってしまうのも何だか憚られるしどう答えようか考え倦んでいると、意外にもそれに答えたのは芙蓉だった。
「生徒会役員の一人が、最近、学校を休みがちになっててな。その穴埋めをしてくれる人間を探していたらたまたま富士が目に留まった。聞けば彼は、その役員――野々宮扇という女子生徒なのだがな、彼女と中学が同じで知らない仲じゃないとのことだった。知り合いであれば業務の引き継ぎを円滑に行うことができるし、彼女も安心して後を任せることができる。そう考えた僕は、ちょうどいいから富士に手伝いをお願いすることにしたんだよ」
芙蓉は滔々と、もっともらしい嘘をつく。一応、僕との取引のことは伏せておいてくれるそうだ。
まさかそれは違うぞと否定して話をややこしくするわけにもいかないので、白日の嘘に僕も便乗する。
「そういうことだ。お前らが何を邪推しているのか知らないけど、決してそんなことはないから安心しろ」
篠倉はそれでもまだ納得がいかないのか、眉をひそめてこちらをじっと見つめる。
僕はつい目を逸らしそうになってしまうが、それを見兼ねた芙蓉が横から助け舟を出してくれた。
「そうだ。提案なんだが……、お前たちも富士と一緒に生徒会の手助けをしてくれないか? 一人より三人いてくれた方がこちらとしては心強いし……、どうだろう? いい暇つぶしにはなると思うよ」
それを聞いて篠倉は少し考えてから白日に問う。
「そうすることによって生まれる私にとってのメリットは何だ?」
「そう言われると返答に困るが……、そうだな、お前たちに放課後のたまり場とおいしい紅茶を提供できる。あとセットで富士の小粋なトークが付いて来る」
なんで僕がそんなホストみたいなマネをしなくちゃいけないんだよ。なに? ティーカップでシャンパンタワーでも作るの?
「ふむ、魅力的な提案だな。欲を言えば茶請けも欲しいところだが」
「お望みとあらばご用意しようじゃないか。何、茶菓子代くらい会費をちょろまかせばいくらでも捻出できる」
「であれば文句ない。私も体が良くないので不定期になるかもしれないが、それでよければ協力しようじゃないか」
……自分へのリターンをしっかりと要求する辺り、意外とちゃっかりしている篠倉だった。
昼休みに慈善事業が云々と言っていたが、あれは案外、篠倉自身がボランティアをしない人間だったから信じられなかったのかもしれない。
芙蓉は助かると一言だけ篠倉に礼を言うと、一応那須美にも確認をとった。
「お前もそういうことでいいか?」
「……あっ、俺? 俺はその……、事務作業みたいなのは苦手だから……できるだけ避けたいって言うか……」
もごもごとはっきりしない態度がうっとうしかったので、僕はバッサリ言ってやった。
「お前は問答無用で強制労働だよ。篠倉にいらんこと吹き込んだ罰だ」
「あー……、まぁそうなるよなー……うん。返す言葉もない」
そう言ってため息を吐く那須美を見て了解と受け取ったのか、白日は会長のデスクに置かれていたプリントの束を手に取った。
「よし、それじゃあ二人の助力の合意も得られたし、さっそく業務に移るとしようか」
芙蓉からそれぞれ五枚ほどずつプリントを受けとって、僕たちは企画書類の審査に取り掛かった。
あれから一五分ほど経って、作業にも段々と慣れてきた僕らは、着々と審査を済ませていった。
「一年五組はやきそばの模擬店か。ありがちで新鮮味の欠片もないけど、ま、出展としては問題ないな」
「そうだな。ただ、火を通す料理を扱う模擬店は保健所の許可が必要だ。これは一年五組に限ったことではないが、キッチン担当者には検便検査を受けるようにおって指示をだそう」
そう言って芙蓉は手元にあるノートに、『1‐5 検便検査の必要あり』とメモ書きした。
「おっ、三年二組はお化け屋敷かー。何て言うか、これぞ文化祭って感じだよなー」
隣に座っていた那須美が書類を見ながらそう呟いたので、僕も三年二組の企画書類を横から覗いてみる。
「……使用資材は大量の段ボールと机に、発砲スチロール、遮光カーテン、毛布、マネキン、血糊、ペットボトル……エトセトラ。えらく多いな。机はある程度学校で貸し出せるし、段ボールや発泡スチロールはスーパーなんかでタダで貰えるとして、それ以外はどうするつもりなんだろうなこれ。クラス全員でカンパでもすんのかな?」
高校生にもなって、しかも受験が控えているこの時期にこんなくだらないことに金を使うなんて馬鹿らしくはないのだろうか? そりゃあ、提案者やそれを煽った連中は言い出しっぺなんだからノリノリかもしれないけれど、僕みたいに教室の隅でことの成り行きを黙って見守る系男子にとってはこれほどおもしろくない話もない。
だったら最初から話し合いに参加しろよってか? でもアレだろ? 「僕、こんなことなんかにお金使いたくないし……」って言ったら言ったで空気が読めないだの何だの散々に言われちゃうんだろ? みんな盛り上がってんのに僕一人でその空気を壊すわけにはいかないから、僕はその様子を黙って白眼視で見守ってんだよ。で結果、僕はなけなしの生活費から金を払うことになる。それっておかしくね? これが流行りのone for allってやつ?
「まぁ確かに全員が全員お化け屋敷に賛成というわけではなかっただろうからな、君の言わんとしていることも分かる。が、思い出をたかだか数百円程度で買うことできると考えれば、これほど安い買い物は無い」
そんなことを言って、篠倉は那須美に、「どれ、私にも見せてくれ」と一言断ってから三年二組の企画書類を受け取り、目を通す。
「……ふむ。これもだいたいは問題ないが、入り口付近に注意書きを掲示するように指示した方が良いな。特に入場者にはスタッフの案内に必ず従うようにさせなければ、真っ暗な室内では何かしらのアクシデントが発生してしまうことも十分に考えられる」
「なるほど、確かにそうかもしれないな。三年二組の代表者には後日、その旨を伝えておこう」
篠倉の指摘を受けて、芙蓉は再びノートにメモ書きをする。
これはさっき芙蓉が一年五組の件についてメモしていたときにも何となく思ったことだけれど、彼女はの字は――いつもどこかで見ているような慣れ親しんだ感じがした。
あれからまた少し経って――作業もそのほとんどが終わり、未審査の企画書類は片手で数えられるほどとなった。
そのおかげで余裕ができたのか、那須美は片手間にこんなことを言った。
「そういやさ、今休んでるっていう書記の人って、なんで学校休んでるわけ?」
その唐突な質問で、全員の目が那須美に集中した。机にしなだれるようにして書類を読んでいた那須美はギョッとして、居住まいを正してから皆に言う。
「あ、いやさ、もう何週間も学校に来てないし、この先いつ学校に来れるようになるかも分からないんだろ、その子。だからこそ俺らみたいな助っ人が必要だったわけで」
それを聞いて白日はなぜだか意味深な微笑をたたえ、ゆっくりと腕を組んで尋ねる。
「ふふ……そうだな、お前の言う通りだ。それで? 出し抜けになぜそんなことを?」
どうやら芙蓉は、その質問を待ちかねていたらしい。
全てが予定調和とばかりに、やれやれやっとかと言わんばかりに、あらかじめ用意していたかのような返答をする。
「だってアレじゃん、そう何日も休むようなことって限られてんだろ? 長い間入院するような病気や怪我とかさ。こんなこと言いたかないけど、不登校ってのもあり得なくは無いしな……」
那須美は言いながら何かを思い出しているのか、語尾はどんどんと弱まっていく。どうやら、野々宮を昔の友人と重ね合わせているらしかった。
「不登校ねぇ……。ま、お前の考えているようなことはないと思うが、しかしどうだろうな? 人間関係に起因するものと言えばそうなのかな?」
芙蓉は楽しそうにくすくす笑いながら首をかしげる。
そして、何かを期待するようにこちらへ流し目を送った。
「……あいつが学校を休んでいる理由は不眠症だって、しらく……芙蓉、お前が言ったんだろ。それが何で人間関係云々の話になるんだよ」
僕が言うと、今度は口を押えてくくくと含み笑いをする芙蓉。どうやら僕はまた、彼女が予想した通りの反応をとってしまったらしい。
「不眠症? なんだ、野々宮さんはそんなことで学校を休んでいるのか?」
意外な顔をして、そう言ったのは篠倉。
自分が行きたくても行けない学校を、その程度の理由で休んでしまうことが理解できないらしい。
「いくら何でも、寝不足ですんごい眠いから今日は学校休みまーす、ってそんなレベルの話じゃないだろ。学校を連日休んでいるからには、それなりに逼迫した事情があるはずだ」
少し大袈裟かもしれないが、睡眠をとることができずに衰弱して、彼女は学校に行くような余裕がないとも考えられなくはない。たかが不眠症と言ってしまうにはいささか早計だ。
何より――『不眠症』というのがどうにも引っかかる。
彼女はいったいどのような理由で、夜眠れなくなってしまったのだろうか?
「そりゃあストレスとか、生活習慣の乱れ……例えば昼夜が逆転してしまっているとか、普通に考えるならその辺りだろうな」
「体内のホルモンバランスの乱れが不眠症を引き起こすとも聞いたことがあるぞ」
那須美と篠倉は、次々と野々宮が不眠症を患っている原因をあげつらっていく。何やら致死性家族性不眠症とかいう聞き慣れない病名もでてきたが、いまいちピンとこないというか、どうにも話の焦点がずれているような気がする。
――はたとある考えが思い浮かぶ。
そもそも野々宮は眠れないのではなくて、眠りたくないないんじゃないか?
「眠れない理由じゃなくて眠りたくない理由、か。どこかでそんなことを聞いた覚えがあるな」
篠倉の呟きを聞いて、僕は「……あっ」と頭を上げた。
「……那須美。お前、座頭橋先生にこう相談してたよな? 悪夢が怖くて眠る時間が段々と少なってきているって……」
「したけどそれがどうし――って、あっ……!」
僕と、篠倉と、那須美の呟きが――重なった。
「「「――悪夢だ」」」
そんな僕らの様子を愉快そうに眺めていた芙蓉は、満足げに頷いて、企画書類の中からある一枚を僕らに手渡した。
「そこまで気になるなら、ほら。お前たちで確かめてきたらどうだ? ちょうどいいタイミングだしな」
何がいいタイミングだ。これも全部……、お前の思惑通りなんだろう。
五
時計の短針はすでに真下を指し、空の果てでは藍と真紅が混ざっている。昨日の大雨の所為だろうか? もう五月だというのに冷たい風が肌を撫で、僕はぶるっと身を震わせた。
いつもならこの時間帯にはすでに家に帰宅している頃だが、今日は違う。僕は電車を降りると帰路から外れ、とある人物の家を目指していた。
「弓道部の出展は茶店か。普通こういうのは茶道部がやるもんなんじゃないか? ……まぁこの学校に茶道部なんて無いけどな」
僕はそんなことをぽろっと溢しながら、手元の空白だらけの企画書類に目を落とす。先ほど芙蓉から、僕たちが預かり受けたものだ。
見ると、弓道部の企画書類には大雑把な企画内容は記されているのだが、必要資材や経費、段取りなどの細部にいたってはそのほとんどが無記入だった。そのくせ、責任者の欄にははっきりと、野々宮扇と記されている。
この書類の空白部分を埋めさせろと、芙蓉は僕らを使わしたわけだ。
「一応、期限日までに提出しなければいけないという意識はあったようだが……、これではまるで意味がないな。いかに弓道部の連中が野々宮さん一人に頼り切りになっていたか……、それがよく分かる」
「弓道部のみんなは、『あー、それかー……どうだったかなー……』みたいな微妙な反応するだけだったもんな。野々宮扇さんだっけ? あれじゃあ相当苦労してるはずだぜ」
篠倉は呆れるように嘆息し、那須美は苦く笑う。
那須美の言う通り、あのあと二年生が練習している市立体育館を訪ねたのだが、彼ら弓道部員の反応は芳しいものではなかった。もっとも、僕は事前に新入部員の練習風景を目にしていたので、はなから期待はしていなかったのだけど。
「……ふむ。白日さんに聞いた住所だと……この辺りのはずなんだが、何か目印になるようなものはないかな?」
篠倉はスマートフォンに表示されている地図を何度も確認しながら、背伸びをするようにして辺りをキョロキョロと見渡す。
そして、すぐ正面にあった、少し広めの公園に隣接している公民館を指さした。
「アレだ。あのすぐ近くに野々宮さんの家はあるらしい」
「なんだ。もう、すぐそこまで来てるじゃん。さっさと行こうぜ、なんだか雲行きも怪しくなってきたしな。
那須美が言うので空を見上げてみると、確かに雲が厚くなりつつあった。
生憎僕らは誰一人として傘を持ち合わせていない。したがって、ここで雨に降られてしまうとみんなしてずぶ濡れになってしまうので、こいつの言う通り急いだ方が賢明だろう。
どこか遠くの方で風がごろごろと鳴るのを聞きながら、僕たちは真っすぐ野々宮の家に向かった。
「えーっと……、野々宮……野々宮……野々宮っと」
篠倉は野々宮の住所が書かれた紙と家々の表札を交互に見比べながら、指で差すようにして一つずつ確かめていく。
すると、丁寧に手入れされた少し広めの庭のある家で立ち止まった。
それは特に変わりだてのしない、二階建ての白い家だった。
「おっ、ここだここだ。ここが野々宮さんのお家で間違いない」
最後にもう一度だけ住所を確認して、篠倉は僕らにそう告げる。
言われてしばらくの間、僕は野々宮家の佇まいを眺める。確かにここは野々宮の家なんだろうけど……、何だかインターホンを押すのが躊躇われる。
人づてに聞いた住所だからいまいち自信が持てなかったというのもあるし、ましてや篠倉たちは野々宮とは赤の他人だし、僕だって知り合いと言えるかどうかさえ怪しい仲だ。いきなりどんな顔して野々宮と会えばいいのか分からなかった。
しかし、そんな僕の躊躇いをいっさい忖度しないのが篠倉だった。
「? 何をぼーっとしているんだ? 君が押さないなら私が押すぞ」
「あっ、おい! まだ心の準備が……」
ピンポーンと、ねばつくような機械的な音が、ゆっくりとやや長めに響く。
少し待っても、反応はない。
「たぶん留守なんじゃね? ほら、車止まってねぇしさ」
那須美の言う通り、駐車スペースには車が止まっていなかった。しかし、体調の悪い娘を無理やり連れまわしているとも考えにくい。家の人が仕事か何かで家を出ていて、野々宮自身は留守番をしているというのが自然だろう。
何より、夢世界でのこともあってつい忘れてしまいそうになるが、体が悪いのは篠倉も同じだ。その篠倉をここまで付き合わせておいて、簡単に引き返すわけにはいかない。
玄関扉を門扉から少し覗き、少し待ってから今度は僕がインターホンを押した。
応答は無い。
僕ははぁと息を吐いて、篠倉の方を見る。篠倉は、僕の隣でしゃがみこんでいた。
どうやら、庭に咲いているカスミソウが気になったらしい。柵の隙間から覗き込むようにして眺めていた。
その様子を見て僕は少し顔が綻ぶ。これで誰も出なかったら仕方が無い。今日のところはもう帰ろう、そう思って――僕は三回目のチャイムを鳴らした。
――ザザッと音が走り、スピーカーから気配を感じた。
『………………はい』
少し間隔を空けて、女性のくぐもった声が聞こえてきた。
突然のことに驚く僕ら。カスミソウを見つめていた篠倉も、黙って立ち上がる。
そして篠倉は僕の肩を肘で小突き、君が応答しろと言外に示した。うんざりしながら後ろにいる那須美を見やると、すでに門扉から引き下がっていたので、どうやら僕が応じる他ないらしい。
僕は観念して、一つ咳払いをしてから応えた。
「あのー……、すいません。城野高生徒会の荻村富士という者ですが、野々宮扇さんはいらっしゃいますか?」
正確に言うと僕は生徒会役員ではないのだけれど、便宜上そう名乗る。
『……今出るから、少し待っていてちょうだい』
女性は確かにそう言ったはずなのだが、家の中から少しの物音も聞こえてこない。
少し心配になって門扉から首を出して中を覗こうとした瞬間――ガチャコン? と大きな音を立てて玄関が開き、慌てた僕は亀のように首を引っ込める。
そしてまた、そーっと首を出して玄関の方を覗いてみると――野々宮扇がそこにいた。
少しだぼついた白のカーディガンに黒のキャロット、そのどちらもルームウェアのようだったので、彼女が今日一日ずっと家にいたことが窺える。
だぼっと開かれた胸元から覗いている肌は病的なまでに青白く、まるで生気が感じられない。もともと涼しい顔立ちをしている所為か、さながら雪女のようだ。加えて目元には大きなくまができているので、何というかもう……これでもかというほどに彼女が憔悴しきっているということが伝わってくる。
つい先日、生徒会室で見た写真の野々宮とは……まるで別人みたいだ。
「………………」
野々宮は門扉の前まで出てくると、少し高い位置から、沈黙を守ったまま僕を一瞥する。それから僕の隣に立っている二人に目線を移して、また僕を、その鋭い三白眼がねめつけた。
「あなた一人で尋ねてきたのかと思えばぞろぞろと……、いったい何の御用かしら?」
その冷たい刃のような語気に、僕の背筋はぞっと氷つきそうになる。寝不足で気が立っているのだろうか? いや、以前からこんな感じだったかもしれない。
「あー……まず、僕のこと覚えてる?」
「覚えてるも何も……、同じ高校でしょう? バカにしないで荻村君」
いや、別に何も、お前の記憶能力を疑ったわけじゃないんだ。単に僕は影が薄くて忘れられやすい存在だから……、いやよそう。
「ま、覚えてくれてんだったらそれでいいんだ。こいつらは僕の……」
何だか友人と言ってしまうのも気恥ずかしいので、
「知り――「親友だ?」
知り合い、と――そう答える前に篠倉が被せてきた。胸を張って嬉しそうに主張する篠倉を見て、僕は眉根を押さえてため息を漏らす。
「……このバカが篠倉美鷹。で、あっちの男子が那須美誠一だ」
よろしくと快活に笑って手を差し出す篠倉。さしもの野々宮も篠倉の雰囲気に呑まれてしまったのか、黙って握手に応じた。
同様に那須美も野々宮に握手を求めるのだが、そちらは無視をされる。
「……それで、結局あなたたちは何をしに私の家を訪ねてきたの?」
野々宮は腕組みをして指でトントンと腕を叩きながら、若干イラつき気味に問う。
「まぁ順を追って話すと……、僕たちさ、芙蓉に生徒会の手伝いをさせられてんだよ。お前が学校休んでるから人手が足りなくてさ、その穴埋めだ」
言うと、それまで高圧的に僕を睨みつけていた野々宮の視線が逃げるように逸らされた。
「……そう。それであなた、さっき城野高校生徒会の――と名乗ったのね。てっきり新手の詐欺か何かだと思ったわ」
……少し引っかかるけど、まぁ野々宮の言う通りだ。
いくら同じ学校とはいえ、中学以来全く付き合いのない男子がいきなり家を訪ねてきたんだ。不審に思わない方がおかしい。少し引っかかるけど。
「……まぁ事情はだいたい把握したわ。あなたたちは今日、私から生徒会役員書記の引き継ぎ作業を行うためにやってきたのね」
「ま、それもあるんだけどな。主題はこっちだ」
そう言って僕は、制服の横ポケットに折りたたんで入れていた件の書類を取り出した。
怪訝そうに見つめていた野々宮だったが、その書類の文面を見てすぐに気づいた。
「それ……弓道部の企画書類よね、文化祭で出展するものを生徒会に報告する……」
「そうだ。見て分かる通り、この企画書類はそのほとんど無記入で白紙もいいところ。このままでは当然出展は認められないから、責任者のお前にお鉢が回ってきたわけだ」
「……そう。それで……、他の弓道部員の子たちには確認したの?」
企画書類を受け取った野々宮は、その文面に再び目を通しながらに問う。
「……したはしたけど、何ていうか……微妙な反応だったよな?」
後ろを振り返って、一緒に弓道部を訪ねた二人に同意を求めると、那須美が大袈裟に首肯して言った。
「こっちがいろいろ質問しても、あいつら曖昧なこと言って誤魔化すだけだったし……、奥の方でくすくす笑ってるやつもいたもんな。とても真面目に考えてるようには見えなかった」
「……そうでしょうね。あの子たちはその場のノリと、こうなったら楽しいという願望だけで物事を決めてしまうから……。それで後のことは全て私に任せっきり。今回のお茶屋のこともそれに然りよ」
野々宮はうんざりするように額を押さえると、「いつものことよ」と、吐き捨てるように呟いた。
ポツリと――頭の上で冷たいものが跳ねた。
「……雨か」
篠倉は手で受け皿を作り、空を仰ぐ。釣られて僕も空を見上げると、さっきまで夕焼け色に染まっていた空がいつの間にか雲に覆われて、辺りはすっかり薄暗くなっていた。
「……夕立ね。この様子だとじきに本降りになると思うけど……、あなたたち大丈夫なの?」
「大丈夫って何が?」
聞くと、野々宮は呆れるようにため息をついて言った。
「そこの二人のことよ。あなたの家は近所だから構わないかもしれないけれど、二人はわざわざこんなところまで寄り道してきたわけでしょう?」
「まぁ、そうなるな。篠倉に至っては家が学校の近くにあるから、とんぼ返りすることになるし」
自分で言って気づいた。
今から篠倉を帰すとなると、大雨の中家路をたどらせることになる。虚弱体質の篠倉が長時間雨に打たれてしまえば、体調を崩してしまうことは目に見えている。
どうするか考えているうちに、雨粒はどんどん大きくなって、その感覚はどんどん短くなっていく。
「……仕方ないわね。このままここで立ち話をするわけにもいかないし、雨がやむまでうちで雨宿りしていきなさい。その間に企画書類への記入も済ませるわ」
「ありがとう、助かるよ」
彼女の言葉に甘えさせてもらい、僕たちは野々宮家にお邪魔させてもらった。
野々宮家の玄関はベージュやクリーム色が基調の広々とした空間だったが、今日は曇っていて光が十分に届かない所為か、少しだけ暗い印象を受ける。
「すまない。タオルを貸してもらえないだろうか? さすがに濡れたままでお宅にあがらせてもらうのはちょっとな……」
雨に晒されたのはほんの少しの間だけだったので言うほど濡れてはいなかったのだけれど、篠倉の下着を浮かせるぐらいには濡れていた。ピンクだ。
辺りを二度三度見回すフリをして、さりげなく流し目で篠倉を見る僕。そしてゴミを見るような目で僕を見る野々宮。全然さりげなくなかった。
「だったらそうね。そのままの姿で風邪を引いてもらっては困るし……、シャワーを貸すから浴びてきなさい。その間に制服も洗濯してしまって乾燥器にかけてしまいましょう。着替えは私のジャージを貸してあげるから」
「……そうだな。それなら悪い、そうしてもらえるかな?」
済まなそうに手を合わせる篠倉を見て野々宮は無言で頷く。
「それじゃあ私は体を拭くタオルを持ってくるから、少しだけ待っていてちょうだい」
野々宮はそう言って体を翻すのだが、ふと立ち止まってこちらを向き直した。
「荻村君、彼女に上着を貸してあげるくらいしてあげたら?」
彼女の去り際、そんなことを突然言われてビクッと体を跳ねらせる僕。当の本人の篠倉はといえば、キョトンと不思議な顔をして僕を見つめている。
篠倉の下着はあいかわらず、柔らかく女性的なピンク色を主張していた。
「……篠倉、とりあえず今はこれ羽織っとけ」
「ん……」
僕は自分の着ている学ランを脱いで、篠倉に着せてやる。
すると篠倉は、学ランの襟元に頭を潜らせるようにして鼻をすんすんとひくつかせた。
「うーん、アレだな。君のニオイがするな。さっき庭に咲いていたカスミソウのような……、地味だけど優しい香りだ」
「………………そうか」
僕が顔を逸らすと、篠倉が僕の顔を覗き込んで、「なんだ、寒いのか?」と一言。
確かに雨が降っていることもあってシャツ一枚ではなかなか寒いが、頭を冷やすにはちょうどよかった。
篠倉を浴室に連れていったあと、僕たちが案内されたのは少し大人な雰囲気の漂うリビングだった。対面式のキッチンと一緒になったリビングには、モノクロのローテーブルにクリーム色のソファが二つL字に置かれていて、その前で大きめの薄型テレビが存在感を放っている。
他には食卓テーブルにチェストが二つ置かれているくらいで、よく言えばシック、悪く言えば簡素なイメージを受ける部屋だった。
「適当に掛けてもらって構わないわ」
言われて、僕と那須美はソファに並んで腰掛ける。野々宮は座らずに、そのままキッチンへと向かった。
「今、コーヒーを入れてくるわ。あなたたちも雨にあたって冷えたでしょうから」
「あ、僕が代わりに入れ……て、って……行っちゃったよ」
「野々宮さん、疲れ切っているはずなのになー……。これから企画書類の始末をお願いするわけだけど……、なんか申し訳ないな……」
那須美は先ほど借りたタオルで頭をわしわしと拭いながら、キッチンでお湯を沸かす野々宮の姿を眺める。
確かに、さっきから野々宮の手を煩わせてばかりで申し訳が立たない。だがしかし、これも野々宮の『不眠症』を解決するためのことなので、彼女にはもうしばらく我慢してもらう他ないだろう。
しばらくすると、キッチンからコーヒーの渋い香りが漂ってきた。
人数分の小洒落たコーヒーカップとスプーン、そして砂糖の入った小瓶、ミルクピッチャーが乗った盆を、野々宮が運んでくる。
「どうぞ。インスタントで悪いけど」
僕は軽く礼を言うと、入れてもらったコーヒーに角砂糖を二個とミルクを少し入れてかき混ぜる。
「お前、意外とお子ちゃま舌なんだな」
那須美が半笑いでちゃかしてきた。
「……悪いかよ。僕はコーヒーのえぐみがあんまり得意じゃないんだ」
「あら、それならそうと言ってくれれば違うものを出したのだけど……。恥ずかしくて言いづらかったのかしら?」
野々宮はコーヒーを飲んで口元を隠すのだが、その皮肉めいた笑みは隠しきれていない。
どうして僕の周りの女子はみんなして辛辣なやつばかりなのだろう?
「そんなことはどうでもいいから、遅くならないうちに早いとこそいつを処理してしまおう」
僕はすっかり甘ったるくなったコーヒーを一口あおり、机の上に置かれた企画書類を顎で指す。
それを受けて野々宮は、「そうだったわね」と書類を自分の方に引き寄せた。
「心配しなくても、大まかな方針は弓道部の中でお茶屋の企画が上がったときからある程度考えてはいたことだし、この書類を埋めるのにさほど時間はかからないわ」
そう言って、野々宮はいつの間にか襟元に下げていた赤色のメガネをかけた。
「ペン、貸してくれるかしら?」
「おう」
僕は鞄から筆箱を取り出し、野々宮にそれをまるまる貸してやる。
「妙に軽いと思ったら……、シャーペンと三色ボールペンに赤のサインペン。それに消しゴムしか入っていないのね……。これだけであなたの授業態度が目に浮かぶようだわ……」
たぶん野々宮の想像は間違っていると思う。なぜなら、僕は授業中ノートをいっさいとらないので、その四つの筆記用具さえも使っていないからだ。
「老婆心で言わせてもらうけれど、授業くらいちゃんと聞いていなさいよ。あとで痛い目を見ることになっても誰も助けてくれないわ」
そりゃもっともな話だ。ご高説痛み入る。
頂きました貴重なご意見は今後の弊社のサービスの参考とさせていただきます。
「野々宮さんってさ、いつもそんな感じなわけ?」
那須美が、出し抜けによく分からないことを質問した。
「……そんな感じって?」
案の定、訝しげな顔をして聞き返す野々宮。
「いやさ、文化祭で茶店を出そうって言いだしたのは野々宮さんじゃないんだろう? それなのに面倒なことは全部押し付けられて……、言葉が悪いけど、貧乏くじ引かされてるって言うかさ……」
「貧乏くじ……」
野々宮は文字を書く手を止めて、那須美が言った言葉を繰り返す。
「確かにそうかもしれないわね。弓道部の部長も生徒会役員も……、私がやりたくてやっていることじゃないし……」
やはりそうだったか。
前にも言ったが、こいつは自分から進んで人の前に立つようなタイプの人間ではない。しかし、他人からそういった役割に斡旋されることが多いので、仕方なくそれを引き受けているだけなのだ。
「ま、それだけ他人から信頼されてるってことだと思えば、案外悪いことでもないんじゃないか?」
「そう? 信頼と期待はまったくの別物だと思うけど。いえ、この場合は期待と言うよりも……、依存と言った方が正しいかしらね」
自嘲気味に笑う野々宮に、僕は何も言えなくなってしまう。
依存――確かに今の弓道部は、野々宮に依存している。彼女抜きでは自分たちが言いだした文化祭企画について議論することもできず、練習や後輩の指導すらまともに執り行うことができない。練習も大会も議論もその他諸々……全て野々宮頼りなんだ。
言ってみれば、野々宮は弓道部のマザーコンピューターだ。あらゆる機関に指令をだす核がやられてしまえば、中枢部分以外の場所まで途端に瓦解してしまう。
「顧問が部員たちに指導することはないのか? さすがに、何もしないでただ傍観しているだけということはないはずだ」
僕の言葉を、野々宮は一蹴する。
「顧問の先生は弓道を経験したことがないのよ。おまけに、弓道部の顧問を受け持つのは今年が初めてときているわ」
ああ、なるほど。それじゃあ生徒たちに遠慮してしまって、まともに指導することなんてできないだろうな。
「でも最近は教育実習の先生が練習にいらっしゃるからまだマシな方ね」
教育実習って……、ああ座頭橋先生のことか。そう言えば以前、うちの弓道部のOBだと言っていたな。
でも確かあのときは、弓道部の子たちはみんなしっかりしていると、そう言っていたはずだが?
「それはそうね……、たぶんその頃はまだ私が学校を休んでいなかったからじゃないかしら? 自分で言うのもなんだけど、私さえいればあの子たちはまともに練習できるから」
「ああなるほど……。その頃はまだ不眠症じゃなかったんだな」
「……何よあなた。私が学校を休んでいる理由……、知っているの?」
野々宮は眉根を寄せて、あからさまに不快そうな視線をこちらに送る。気の所為か、さっきよりも僕との距離が遠のいているような気がする。
「……それも芙蓉から聞いたんだよ。別にお前の身辺調査をしたとかそんなことはないから安心しろ」
「そう……、白日さんから。変ね。私、不眠症のことは身内以外の誰にも話していないのだけれど」
「そんなこと言われても実際に芙蓉がそう言ってたんだから仕方がないだろ」
怪訝そうな表情のまま野々宮は那須美の方を見て、言外に言葉の真偽を尋ねる。
慌てて那須美は、大袈裟に首を縦に振った。
「……まぁいいわ。ただの不眠症で学校を休んでいるなんてみっともないから、本当は誰にも知られたくなかったのだけれど……」
「まぁそう思ってしまうのも分からなくはないな。現に僕たちだって初めは、不眠症で学校を休むってのがいまいちイメージできなかったから」
だからこそこうして今、野々宮の家を訪れているのだ。
――そうだ。僕たちには生徒会の仕事の他に、もう一つ大事な要件があった。
僕は残っているコーヒーを一気に飲み干してから、ずっと気になっていたことを野々宮に問う。
「バレてしまったついでに一つ教えてほしいんだけどさ、不眠症になった理由って何かあんの?」
聞くと、野々宮は「っ……」と息を詰まらせて、それから目を伏せた。
「今、知られたくないって言ったばかりなのに……、あなたって案外いじわるなのね……」
「そう言わずに話してみろよ。ひょっとしたらお前の力になってやれるかもしれないだろ?」
僕は精いっぱい頼りになるふうを努めたのだが、野々宮は僕の空になったカップに視線を落としながら、にべもなく言い放った。
「……興味本位でそんな無責任なことを言っているのなら、私、さすがに怒るわよ」
「まさか。僕がそんな理由でこんなことを聞くような人間じゃないってのは、お前もよく知ってるだろ? なぜなら僕は、基本的に他人に興味を示さないからだ」
「そう言われると……、確かにそうね。あなた、自分以外の人間なんて背景ぐらいにしか思っていなさそうだし」
「何か引っかかる言い方だが確かにそうだ。したがって、今回僕がわざわざ他人事であり面倒事に首を突っ込むのは、興味本位でも何でもなく、何か特別な事情があるからということになる」
「特別な事情って?」
「話すと長くなるが……、簡単に言うと、だ。僕も那須美も――お前と似たような経験をしたことがある」
その言葉に驚いたのか、野々宮はコーヒーを飲もうとした手を止める。
それを好機と捉えたのか、那須美が僕に加勢した。
「俺もつい最近まで、まともに眠ることができなかったんだよ。野々宮さんほどひどくはなかったけどな」
「………………」
野々宮は顎に手をやって考えるようなしぐさを見せたあと、黙って僕の方を見た。どうやら、お前はどうなんだと言いたいらしい。
「僕もだいたい似たような感じだ。少し大袈裟に言えば、以前、眠ることに怯えていた時期があった」
僕らは二人とも眠れないつらさを知っているし、それ以上に、悪夢にうなされるつらさをよく知っている。だからもし野々宮の不眠症が悪夢に起因するものだというのなら、夢魔を倒し悪夢を乗り越えた僕らが手を差し伸べてやらなければいけない。
それが知ってしまった僕らの責任というものだろう。
僕の知らないところで誰がどうなっても構わない。だけれど、一度知ってしまった以上、黙って見過ごすことはできない。これは以前、篠倉に聞かれたときにも少し触れたことだが。
「……そう。あなたたちも……」
それだけ言うと、再び野々宮は黙りこんだ。沈黙が続き、聞こえてくるのは外の雨音と時計の針の音だけ。
しきりに僕と野々宮の目線がかち合う。そのたび野々宮の口は開きかけるが、出かけた言葉はため息と共に呑みこまれた。
淀んだ空気が息を詰まらせる。
ふいに、僕の肩がぽんと軽く叩かれた。
「心配しなくともこの男、案外頼りになるぞ。私が保障する」
まるで暗い海の中のような静けさを破ったのは、やはり篠倉だった。
なぜだかさっき僕が貸してやった学ランを、いまだにジャージの上から羽織っている。
「つらいことがあるなら吐き出してしまわないとな。呑みこんだ言葉は腹の中でわだかまりに変わってしまうから」
にっと笑いかける篠倉に釣られて、野々宮もふっと破顔した。
リビングにはふんわりとした石鹸の匂いと、新しく入れ直したコーヒーの香ばしさが漂っていた。
頭の中を整理する間、間をもたせるように篠倉にコーヒーを差し出してから、野々宮はようやくそのまごつく口を開いた。
「今から二週間ほど前……、五月の頭あたりからかしら。その頃から私、悪い夢を見るようになったの……」
案の定というか、もはや予定調和ではあるのだけれど、やはりこの件に関しても悪夢が携わっていた。
「悪い夢とは、具体的にはどのような夢なのだ?」
篠倉は伏し目がちの野々宮に目線を合わせて、隣から軽く覗き込むようにして問う。
「夢の中の私は――いつも体育館の中にいるの。そこには蛇みたいな黒いものがたくさんいて……、それがずっと追いかけてくる。私はその蛇から逃げまどいながら、出口を求めてさまよっているわ……」
蛇みたいな黒いものとはおそらく……夢魔のことだろう。体育館は学校の体育館のことだろうか? だとしたら、体育館には遮蔽物なんていっさい無いのだから、さまよえるほど入り組んではいないし、夢魔から逃げ切れるはずもないのだが。
まぁいずれにしろ、夢魔が自身を狙って襲い掛かってくるというのだからさほど時間は残されていない。今夜中にでも、夢魔退治に踏み込む必要がある。
念のため、僕はもう一つ確認をとる。
「野々宮。その夢の中では、妙に意識がはっきりしているなんてことはあるか?」
「……そうね。今もこうしてはっきり覚えているくらいだから……」
意識がはっきりとしている――つまり、明晰夢。
これはもう間違いない、ビンゴだ。
「あの……、やはりこんなことが治療に繋がるとは思えないのだけれど……」
不安げな面持ちでそう訴える野々宮を、篠倉がなだめる。
「そんなことはない。精神医学の治療は、そのほとんどが患者との対話によって成されている。さっきも言ったが、ストレスを表に出さずため込むことは危険だ。だから、患者には内に留めたものを吐き出さる。実に理にかなった立派な治療法だ」
「それは専門的な知識を有した由緒正しい精神科医の元に行われているからでしょ? あなたたちはただの学生じゃない」
「そうかな? 案外そうとも言えないかもしれないぞ」
ふっふっふと不敵な笑みをたたえる篠倉。真面目な野々宮は、そんな篠倉の言葉を真に受けて少し考えるようなしぐさを見せた。
「僕らは僕らでできることがあるってことだよ。あんまり深く考えんな」
ふと気になって、僕は部屋の時計を見やった。
時刻はすでに午後七時を大きく回っていた。ある程度ことは済ませたし、これ以上長居をする必要もないだろう。
「とりあえず、今はそれだけ話してくれれば十分だ。それで僕らも行動に移ることができる」
「行動って……、あなたたちは何をするつもりなの?」
「それはあとで分かるよ。具体的には今夜、な。……あっ、そうだ。気が進まないかもしれないが、何があっても今夜だけは必ず寝ろよ」
「できることならそれは避けたいのだけれど……、何かそうしないといけない理由でもあるの?」
「それもあとで分かるよ。お前が僕らを信じてくれさえすれば、な」
野々宮は不安と不審がないまぜになったような複雑な表情をする。
「だったらあれだ。篠倉」
「ん? なんだ?」
手持無沙汰だったのか、篠倉は僕の筆箱からシャーペンを二本勝手に取り出して、クリップの部分を引っ掛けて遊んでいた。人の物で何やってんだ、こいつは。
「……お前、今日野々宮ん家に泊まってやれ」
「……えっ?」
その提案に、野々宮は珍しく小さく声を上げて驚いた。
「藪から棒になぜそんなことを……」
「なぜってそりゃあ単純に、独りで寝るより誰か傍にいてくれた方がお前も心強いんじゃないかと思ってな」
「っ……! バカにしないで。私は小さな子供じゃないのよ」
「嫌なのか?」
眉を八の字にしてしゅんと落ち込む篠倉。
野々宮は慌てて両手を胸の前で大袈裟に振って、「そうじゃないのよ」と弁解した。
「私は別に構わないのだけれど……その……、篠倉さんの方が気を遣ってしまって落ち着かないかもと思って……。ほら、私たち、今日知り合ったばかりなのだし」
「そんな奥ゆかしい女じゃねぇよ篠倉は。そうだな?」
「ああ! 私はそのような小さいことをいちいち気に掛けるような狭量な人間ではないぞ!」
……僕は、篠倉はもっと図太くて馴れ馴れしいやつだってことが言いたかったんだが……。なんでもポジティブに変換できる日本語ってすごい!
「……まぁ確かに、こんな時間に女の子を一人で帰らせるのは不用心にもほどがあるわね」
「だろ? それに言いそびれていたが、篠倉はこう見えて病弱なんだ。そんなやつにとって、雨で冷えきってしまった外は体に堪える」
野々宮は掃出し窓から外の様子をチラリと一目する。雨はすでにやみ始めていたが、風の勢いが先ほどよりも少し増している。日もとっくに落ちてしまっているし、外気温はそうとう低いはずだ。
「……仕方ないわね。寒さが体に障ってはいけないし……、特別よ」
「わーい、やったー! お泊りだー!」
「今のうちにご家族の方に連絡しておきなさい。遅くなると心配されるだろうから」
バ……、もとい無邪気にはしゃぐ篠倉を、野々宮は柔らかい表情でたしなめる。まるで実の親子のようだった。
「……んじゃ、話もまとまったことだし僕らはそろそろお暇させてもらおうかな」
「そうだな。もういい時間だし、あんまり長居してもあれだから」
僕と那須美はテーブルの上を片付けて身支度を済ませるのだが、あと一つ、何か忘れているような気がした。
「あぁそうだ、篠倉。僕らはもう帰るから、学ラン、返してくれ」
「ああ……、そういえばそうだったな」
篠倉は羽織っていた学ランをのそのそと脱ぎ、何だか名残惜しそうに抱え込む。
……え、なに困る。いろいろ血迷いそうになるからそんな顔しないでほしい。
「男子の制服が珍しいのも分かるけど……、な? 僕、上はその一着しか持ってないし」
僕が頭をわしわしと掻きながら言うと、篠倉はそっと控えめに僕の学ランを差し出した。
それを受け取ると、僕らは立ち上がり玄関に向かう。その途中で、僕は学ランを羽織り直した。
「……それじゃ、野々宮。篠倉のこと、よろしく頼んだぞ」
「ええ、それは分かってるわ。だけど……」
段々と声が小さくなっていくので語尾が聞き取りにくかったが、野々宮の言わんとしていることは十分に伝わってきた。
「……悪夢のことなら心配すんな。僕らが必ず何とかしてやるから。信じろ」
それだけ言うと、僕は軽く手を挙げて会釈をしてから野々宮家を早々に出た。
「なぁ荻村」
「……あんだよ?」
玄関先で那須美が、雲に覆われて星一つ見えない夜空を見上げながら聞いてきた。
「篠倉さんが羽織ってた学ラン、どんな感じだ?」
僕は那須美を殴った。
夜一二時――自宅。
僕は歯磨きをしながらさっきまでのことを思い出す。
僕は家に帰ってから一度、篠倉と那須美の二人に電話をかけた。何時ごろに就寝して、どこで落ち合うかを確認するためだ。加えて篠倉には、野々宮をなるべく不安にさせないように努めてくれとも頼んだ。野々宮の悪夢に対する恐怖心を拭い去らなければ、このあとの展開に支障をきたすかもしれないと思ってのことだ。
篠倉は二つ返事で「任しておけ!」と応えたが、あのテンションだと疲れ切って野々宮よりも先に眠ってしまうのではないかと心配になる。
歯磨きを終えると、僕は自分の部屋に向かう。
途中、二階の物置に使っている部屋から毛布を一枚だけ取り出した。ここ最近は暖かい日が続いていたのでタオルケット一枚で眠っていたのだが、今日はそれだけだとかなり厳しい。
タオルケットの上に毛布を敷き整えてから、僕は電気を消して床に就く。
あいつらは今頃どうしているだろう?
篠倉は野々宮とうまくやれているだろうか?
那須美は僕の言ったことちゃんと覚えているだろうか?
野々宮はやっぱり悪夢を恐れてしまって、眠れないなんてことはないだろうか?
くどいようだが、野々宮に夢を見てもらわない限りは、僕たちは何も手出しすることができない。彼女には、たった一日、今日だけは我慢をしてもらう必要がある。
そんなことをつらつら考えているうちに、ゆるやかな波に揺られるような、心地よい眠気が押し寄せてきた――
六
集合的無意識――人々の無意識の土台であり、夢の根幹。そして、人々の夢を繋いでいるもの。
事ここに至っては、やはりいつまで経っても慣れる気がしない。
縦にも横にも限りが無い空間に、まるで脈略の無いものが存在しているこの混沌とした光景は、いつ見ても気分が悪くなってくる。
そう思ったのはどうやら僕だけではなかったようで、隣にいた篠倉と那須美の二人も同調した。
「私はこの空間を行きかうようになってからずいぶん経つが……、君と同じで全く慣れないな。ここに長い間居座っていると、なんだか酔ったような感覚に襲われる」
「俺は今日が初めてだけど……、だいたい二人と似たような感想だな。なんか、幻覚でも見せられてんじゃないかって思えてくる」
……ま、僕らが見ているのは夢、すなわち夢幻なわけだからな。那須美の言っていることはあながち間違いでもないだろう。
「いつまでも幻に捉まっていても仕方がない。さっさと夢魔を倒して、野々宮を悪夢から解放しよう」
僕は瞑目して、野々宮のことを頭に思い浮かべる。
弓道――生徒会――優等生――なんか怖いやつ……等々、それらのことを数珠つなぎに列挙して、野々宮扇を『検索』する。すると、例によって目の間には光の道が出来上がり、その道がある一枚の扉を示した。
「それじゃあ行きますか」
先に説明していた所為か、さして驚く様子も見せずに那須美が歩み始めた。僕と篠倉も、黙ってそのあとについて行くのだが、何だか那須美に先導されているようで癪だった。
那須美は先に扉の前までたどり着くと、何の前振りもなくいきなり扉を開けた。
「おいちょっと待て那須美! そこから先はもう野々宮の悪夢なんだぞ! もうちょっと慎重にみんなで足並み揃えてだな……」
「どうせ最後には夢魔と戦わなくちゃなんねぇんだ。いくら慎重になったところでそう変わんねぇよ」
先んじて野々宮の悪夢に這入る那須美。僕と篠倉はそれを追うように、扉の先へと進んだ。
「おい那須美! ここじゃあいつ危険な目にあってもおかしくないんだから、軽率な行動は慎め!」
扉を開けるなり、僕はそう大声で怒鳴る。しかし那須美の耳には、そんな僕の叱責はいっさい入っていなかったようだ。キョロキョロと辺りを見回して、へぇー……と長い息を漏らしていた。
「ここが野々宮さんの夢の中か。他人の夢は初めてだからよく分かんねぇけど……、意外と普通、なのか?」
扉の先は、どこか公共施設のような場所のエントランスだった。
ロビーに入る自動ドアの前には、各団体の活動予定が掲示されたボードが立っている。
ロビーは凸型になっており、左と右に繋がる通路が上がり框によって仕切られていた。
入り口のすぐ左に受付窓口があり、カウンターから来客を覗けるようになっている。向かって左側の通路と右側の通路には多目的ホールや市民交流室といったいくつかの部屋があり、上り框の先には階段、そしてその正面奥に大きな両開きの扉が二つ隣りあっていた。
あの扉の先には長方形の大きな体育館があり、これまたバカでかいスライディングウォールによって、第一道場、第二道場と仕切られている。
なぜ僕が、まだ調べてもいないのにこの場所について詳しいかといえば――
「ってか普通も何も、ここ市立体育館じゃないか。確か正式な名称は、市立武道交流館だっけか。一年のときに何回か部活で来たことがあるから、よく覚えているよ」
そういうわけだった。
なるほど……。野々宮が言っていた体育館とはうちの高校の体育館ではなく、ここのことを指していたのか。
「私も何度か来たことがあるな。確かここの二階には……、弓道場があったはずだ」
篠倉の言葉で思い出す。確か、弓道部はここの弓道場で練習していると、いつだったか座頭橋先生が言っていた。
「ともあれ、まずは野々宮を探し出すことが先決だ。一通り野々宮のいそうな場所を探して回ろう」
コクリと頷く二人を一瞥してから、僕は歩きだす。
まずはそうだな、武道場あたりを探してみるか。
ロビーの奥にある二つの武道場。両方とも天井は吹き抜けになっており、二階の観客席から試合を眺めることができるように作られている。また床に特殊なユニットがあり、ねじで木枠を床に固定しそこに畳を敷き詰めることで柔道をすることができる。
先ほども少し触れたが、加えてこの武道場にはスライディングウォールを収納すれば一つの大きな会場になるというギミックもあり、市立にしてはなかなか凝った作りになっているのだ。
「へー……、懐かしいな。ここの体育館、建物自体がキレイだから私は結構好きだったよ」
篠倉が、道場の扉を撫でながら呟いた。
「僕らが小学生ぐらいのとき建てられた体育館だからな、そりゃキレイなはずだよ」
それこそ、築ウン十年の古ぼけた僕らの高校とは比べ物にならない。
うちの校舎、ホント汚いからな……。クーラーはかび臭いし武道場は雨漏りすることがあるし、旧校舎に至っては虫が湧くこともある。そのクセに、なまじ偏差値が高いおかげで授業やテストはなかなかにハードだ。
キツイ汚いくさいでマジ3K。転職、もとい転校を考えた方がいいかもしれない。
「ま、とにかく武道場の中に入ってみようぜ」
那須美が武道場の扉を開け、中に入る。しかし僕は、そのまま中へ入るのを少し躊躇ってしまった。
「武道場の中に土足で上がるのはさすがに……、マズイかな?」
篠倉はこちらを向いて、少し困った表情で僕に尋ねる。
どうやら彼女も、土足で武道場に上がり込むことに抵抗があるようだ。
「おいおい篠倉さん、ここは夢の中だぜ? そんなこといちいち気にする必要なんてないだろ?」
一足先にずかずか武道場へと入ってしまった那須美は、扉の敷居を隔てて僕らを諭す。
「分かってるよ。ただ、武道をやっている人間はみんな、『道場を大切に扱うようにしろ』ってくどいほど教えられるからな。それがクセになってんだ」
「……ふーん。そんなもんなのか」
たいして興味無さげに、那須美は適当な相槌を打つ。
那須美は武道経験者ではないのでそれはもっともなことなのだが、そこまで無関心だとちょっと悲しい。
「確かに、何かあったときに素早く移動できるように靴は履いておいた方がいいか……。では失礼して、土足で上がらせてもらうことにしよう」
篠倉は扉の前で一礼してから第一道場に上がる。一礼は武道場に入るときの作法なのだが、那須美の言ったようにこれは夢だ。そこまで畏まる必要もないかなと思い、僕は礼をせずにそのまま中へ入った。
「いやぁ、こうして久しぶりに見てみると……、ずいぶんと大きなものだなぁ!」
篠倉は手をいっぱいに広げてくるりと回りながら、武道場を見渡す。
たかが武道場がそんなに嬉しいのかと思ったが……考えてみれば、篠倉は病によって彼女の大好きな運動を取り上げられてしまい、ここを訪れたくてもそれができない状況なんだ。
そんな篠倉にとって――擬似的にではあるが馴染みの体育館で体を動かせられるというのは、例えそれが悪夢でも感慨深いものなのだろう。
「……ま、その有り余るテンションは夢魔にでもぶつけてやれ」
「ああ!」
気合十分にシャドーボクシングをする篠倉。
僕はそんな篠倉を尻目に、道場の下座にある倉庫へと向かった。
「あっ、おい荻村、どこいくんだよ。一人で勝手に動き回るのは危険だぞ」
それをお前が言えた口か、那須美。
「……武器の調達だよ」
武道場向かって左下端の倉庫には、マットや柔道用の畳、折り畳み式の長机や掃除用具が収納されている。そこを探せば、武器として使えるものがいくつかあるはずだ。
僕は倉庫の重い扉の取っ手に手を掛け、両手で強く引っ張る。金属製のローラーがレールと擦れ、キキィーと嫌な音が静謐な武道場に響き渡った。
「那須美、お前も来い。いくらお前のビジョンでも体一つで戦うことは無理だろうからな」
「わーってるよ。そう急かすなって」
那須美は適当に返事をすると、こちらに駆け寄ってくる。よく分からんけど何だかその姿にイラッときたので、倉庫で見つけたモップを投げつけてやった。
「痛ってぇ! 何すんだよお前!」
「悪い、わざとだ」
「知ってるよ!」
ぶつくさ文句や罵倒を浴びせる那須美を無視して、僕は自分の分のモップを手にとり刀へと変える。
刀を何度も握り直して手に馴染ませていると、視界の端に、何か長くてうねったものが映った。
「なんだあれ? ロープか?」
そう思ったのだが、何しろ暗くてよく見えないのだ。
近づいてよく目を凝らしてみると、そのロープのようなものは、とぐろを巻いて、黒い鱗を不気味にテカらせて、赤い舌をチロチロと出していた――
「……へびだ」
繰り返すが、蛇だ。それもサイズが尋常じゃない。
とぐろを巻いているので全長はよく分からないが、胴回りが人のウエスト以上はある。なぜロープなんかと見間違えたのか、疑問に思えてくるほどの大きさだった。
「………………」
突然のことで混乱し、しばらく蛇と見つめ合う。
まさに灰吹きから蛇が出たと言ったところだが、とりあえず音を立てずに静かにして、急に動き出さなければなんとかなるだろう。
そう思っていた、のだが――
「おーいトミシ! 見てくれ、ムーンサルトキックだー!」
篠倉が倉庫の中のマットに大技をかます。倉庫内の物がガラガラガッシャーン? とんでもない音を立て、雪崩のように急激に崩れさった。
これが麻雀なら役満だ。大量の点棒が篠倉の懐に入っていることだろう。
だが僕はその場の光景を見て思い直す。
これは麻雀じゃなくて……、スロットだ。今まで隠れていた幼蛇の大群が、マットの影や隙間から、まるでスロットから溢れるコインのようにわらわらと現れた。
「うわああああああ? なんだこれはー?」
さしもの篠倉も、さながら波のように押し寄せる蛇の大群に仰天する。
あまりのことに腰を抜かしたのか、篠倉はその場と呆然と立ち尽くしてしまった。
「おい篠倉! 気をしっかり持て! こんなところで気絶したら大変なことになるぞ!」
僕は篠倉の両脇を後ろから抱えながら、足元に蔓延る蛇の大群を蹴散らし倉庫から脱出する。
「なんだどうした? そんなに慌てて何かあったのか?」
金棒をバットのようにスイングしていた那須美が、すっとんきょうに聞いてくる。
「夢魔だよ夢魔! 倉庫の中に蛇の形をした夢魔がいたんだ、それもちっこいのが何匹も……!」
「夢魔? ……って、うわっ……ホントだ。きめぇ……」
見ると、まるでダムの放流のように、倉庫が大量の幼蛇を吐き出している。倉庫内はもはや蛇で埋め尽くされていて床が見えない。
「篠倉! おい篠倉、しっかりしろ! ……ダメだこいつ、気ぃ失ってる」
僕は篠倉の頬をペチペチと叩いてやるのだが、まるで反応がない。
「……仕方ない。篠倉はとりあえずどっかその辺に寝かしておいて、僕らだけで夢魔を始末するか」
「えっ、何? こいつら一匹ずつ駆除していくわけ? さすがにそれは……」
げっ……とうんざりしたような顔をする那須美。
「違ぇよ。たぶん、こいつらの方は放っておいてもどうにかなる。まだ幼くて臆病だからそれほど害も無い。ただ……、あいつはそうはいかないだろうな」
言いながら、僕は倉庫の奥を指さす。
倉庫には、赤い目を爛々と光らせた巨大な蛇が鎮座していた。
「あー……、そういうことね」
「そういうことだ」
蛇のようなしつこさとよく言うからな。このまま僕らを見逃してくれはしないだろう。
蛇の夢魔は、鎌首をもたげながらこちらへぬるりと這い寄る。
一見するととろくさい動きだが、蛇が獲物を捕らえるときの速さたるや尋常ではない。
対して僕らは速さに関してはまるで普通の人間と変わらない。唯一、蛇の速さに対抗できるのは篠倉だが、肝心の彼女は気絶してしまっている。
決して良い状況とは言い難かった。
「どうすんだ荻村。あんなでっかいのに咬まれたらひとたまりもないぞ。ましてや毒蛇だったら……」
「……まぁ、ただじゃ済まないだろうな。こんなところに血清なんてないし」
もちろん検閲の力で血清を作り出してしまうという手もあるにはある。……が、夢魔の毒にそれが通じるとは限らないし、第一僕は血清というものがどういう物かいまいちイメージできないので、ちゃんとしたものが出来上がるかどうかさえも分からない。
となれば最悪の状況を考えて、あの夢魔に咬まれてしまえばそれで終わりと、そう思って行動した方が良さそうだ。
――そうさ、咬まれなければ問題ない。幸いなことに、それが可能なやつが今ここにいる。
「那須美。お前、あの夢魔に突っ込め」
「……は?」
那須美は僕の言った言葉の意味がよく分からなかったのか、間抜けな顔をしてこちらを向いた。
「だから、お前があの夢魔の気を引き付けろって言ってんだよ。お前のそのビジョンで強化された体なら、例え咬まれたとしても牙なんて通らないはずだ。無論、毒の心配もいらない」
「いやいやいやちょっと待てくれよ! それって俺に囮をやれって言ってんの?」
「だからそう言ってるだろ。なんだ? 何か不満なことでもあるのか? お前自分の悪夢のときはよろこんで囮役を買って出たじゃないか」
「いやそうだけど! 万が一のこともあるだろが!」
「なんだお前、ビビってんのか?」
「そりゃビビるだろ! 大蛇だぞ、大蛇! しかも毒蛇! でかい! ヤバい! こわい!」
お前、前回蛇なんかよりよっぽど不気味なもん相手にしてたけどそれは構わないのか。
ひょっとしてこいつ、爬虫類とかが苦手なタイプのやつか?
冗談交じりにそんなことを考えたのだが、案外間違ってもいなかったらしい。那須美は足元に先ほど倉庫から逃げ出した幼蛇が近づくたび、小さく悲鳴を上げていた。
気の毒だが……いやそれほど気の毒でもないが、これも野々宮のため。那須美には犠牲になってもらうしかない。
僕は那須美に心の中で詫びてから、一芝居打つ。
「……ま、考えてみればそりゃそうか」
「……お?」
那須美は眉をピクリと引くつかせて聞き直す。
「今回の件はお前にとっては他人事だもんな。いくらお前でも他人を、それも今日たまたま偶然成り行きで知り合ったような全くの赤の他人を、命張って助けてやることなんて到底できないよなぁ……。や、頼んだ僕がバカだったよ」
「っ……! このやろう言わせておけば……!」
ことさら挑発的に言ってやると那須美は、顔を真っ赤にし、肩をプルプルと震わせ、ギシギシと歯ぎしりをする。那須美は直情的なタイプだからかなり分かりやすい、効果覿面といった様相だ。
ただここで喧嘩をしたってしょうがないことはこいつも分かっているのか、那須美は黙ってやり場のない怒りを抑えつける。
「いやー……お前、あれだけ意気込んでたから少しはやってくれるかなと思ったんだけど……。とんだ期待外れだったな――」
その一言で、那須美の中で何かが弾けたらしかった。
「そこで黙って見てろやクソヤロォォォォォ?」
那須美はそう叫びながら思いっきり地団駄を踏むと、まるで猛牛のように鼻息を荒くして夢魔に突っ込んでいった。
……が、その勢いも虚しく、あっさりと夢魔に捕まる那須美。あっと言う間にぐるぐると巻きつかれ、パクリと頭から咬みつかれてしまった。
しかし、どうやら出血はしていないようなので、幸いというか狙い通りというか、那須美の体に大蛇の牙が突き刺さりはしなかったみたいだ。
「――? ――――――? ―――?」
那須美は必死に叫んで助けを乞うが、もう半分ほど呑みこまれてしまっているのでもはや何を言っているのかはほとんど聞き取れない。何か誰かの悪口を言っていたような気もするが、それはたぶん気の所為だ。
「那須美ー、今助けてやるからなー」
おそらく今那須美の頭があると思われる大蛇の腹部分に顔を近づけて、語りかけるようにして言ってやる。
誤って那須美まで傷つけてしまわぬように彼の頭を避け、僕は夢魔の首より少し下の部分に刀をあてがった。大蛇は獲物を上手く呑みこもうと首の一部を支点にして那須美を持ち上げるように頭を少し浮かせているので、その視点は夢魔の体と那須美の体が接触していない。
僕は刀を上段に構え、ゆっくりと大きく息を吸う。ギチギチと音がするほど刀を強く握りしめ、それから一気に振り下ろした――
七
「ったく……、冗談抜きでマジで死ぬかと思ったぜ……」
ロビーと第二道場を繋ぐ細い通路。その途中にある小さな給湯室で、那須美は夢魔のよだれでベタベタになった頭を洗いながら呟いた。
「別にあのまま丸呑みされたってよかったんだぜ。赤ずきんよろしく、腹掻っ捌いて助けてやれたんだからな」
ついでに言っておくと、那須美を呑みこんでしまえばその分夢魔の動きは鈍くなって隙だらけになっていただろうから、那須美を助けてやれる可能性は十分にあった。
「いやそれはそうかもしれないけどさ……、気持ちの問題だろ……。俺、蛇に喰われてたんだぞ?」
「まぁその結果、夢魔は無事倒せたしお前も助かったんだからいいじゃないか。終わりよければすべてよし、これでこの話は終わりだ」
僕は無理やり話を打ち切る。那須美はまだ何か言いたそうにしていたが、今後那須美を、このような無茶な囮作戦には使わないという条件で黙らせた。
「……ん、ううん……、あ……れ? 蛇はどうなった……?」
給湯室の壁にもたれさせて寝かしていた、篠倉が目を覚ました。
どうやら倒れた際に頭を打ってしまったらしい、篠倉は、後頭部の辺りをしきりに触っては痛みに顔を歪ませている。
「これから野々宮さんを助けにいくっていうときに……、面倒を掛けてすまなかったな……」
「まぁあんな状況を目の当りにしたら卒倒してもおかしくは無いからな、気にするな」
「そうか……、そう言ってくれると助かる」
篠倉はゆっくりと立ち上がり、大きく深呼吸をする。それから自分の顔をパンと叩いて気合いを入れた。
「あの、倉庫の奥にいたバカでかい蛇はどうしたんだ?」
「ああお前……、あの夢魔に気づいてたんだな。……安心しろ。あの蛇型の夢魔は僕らだけで何とかなったよ」
「そうか、それならよかった。倒れるときにチラッと見えたぐらいだが、それでもハンパではない大きさだったからな。少し心配になったんだ」
言って、篠倉は胸を撫で下ろす。その横で那須美が、何だか釈然としなさそうな顔をしていたが、僕は気づかないフリをした。
「お前こそ大丈夫か? 頭以外にもどっか怪我している場所とか、気分が優れないとかそういうことはないのか?」
「うーん特には無いが……強いて言えば、蛇が少しトラウマになったくらいかな……」
篠倉はげんなりとして言う。
まさに、蛇に咬まれて朽ち縄に怖じるといったところか。
「……さて、じゃあそろそろ休憩は終わりにするか。篠倉の目も覚めたことだしな」
「えー……、もう出発するのかー……。俺だってかなり精神的にまいってんだぜ?」
探索の再開を渋る那須美。
『だって』を強調している辺り、篠倉との扱いの差に何か思うところあるらしい。
「そうしてやりたいのはやまやまだけどな。こうしている間にも野々宮が夢魔に襲われているかもしれないんだ。ゆっくりしている時間は無い」
僕がそう窘めると、那須美は「あー……、そういやそうだったな……」と頭を掻きながら呟く。びしょ濡れになっている髪をかき上げて、那須美は言った。
「……それじゃ、うかうかしてらんないな。行こうぜ」
やはりなんだかんだ言っても、他人のピンチには弱い那須美だった。
僕らは給湯室を出て、その足ですぐそばの第二道場を調べる。
第一道場とシンメトリーになるように作られている第二道場。ここにも蛇型の夢魔がいるだけで、野々宮の姿はどこにも見当たらなかった。
「いったいどこで何してんだろうな野々宮さんは……」
第二道場にいた夢魔の最後の一体を倒し、那須美は夢魔の頭を砕いた金棒を担ぎ上げながらやれやれとばかりに呟いた。二、三匹と連戦が続いたためか、少し疲れたような表情をしている。
「まぁ、一口に探すと言っても野々宮の居場所はまるで見当もつかないからな。面倒だけど、この体育館を順に回って虱潰しにしていくしかない」
ただ、野々宮の方も動き回っているかもしれないので、行き違いになってしまうということも有り得なくはないのだが……。
「いや、それはないと思うぞ」
篠倉がきっぱりとその可能性を否定した。
「……どうして?」
僕が聞くと、篠倉は得意げに胸を張った。
「こうなることを見越して、寝る前、野々宮さんにひとこと言っておいたんだ。夢の中ではあまり動き回らないように、とな」
「あぁ、そういうことか。それはナイスアドリブだった篠倉。よくやってくれたな」
その言葉に調子を良くしたのか、篠倉の体は一層反り返る。もうなんか反り返りすぎてブリッジのような姿勢になっていた。
ふと――さかさまになった視界に何かを見つけたのか、篠倉は突然ハッとする。
「……ふふ、どうやら私のファインプレーはそれだけではないらしいぞ」
「……? どういうことだよ?」
篠倉は、くるっと姿勢を元に戻して二階の観客席の辺りを指さした。
彼女の示した先を見てみる。観客席の左側、ここの倉庫の真上にあたる位置の壁に、一つの扉があった。
「……あんなところに部屋なんてあったっけ?」
その扉は、本来ならデッドスペースになっているであろう場所に設置されている。
しかも扉の外観が他とは少し違うというか、なんとなく小汚い印象を受けた。まるで長年使い古されてきたかのような年季の入り具合は、この場所の内装にはひどく馴染まない。
この体育館の佇まいとはミスマッチな扉が、何の脈絡もなく突飛な場所に存在するその光景――それは極めて異質なもので、違和感が凄まじかった。海の上に木造建築の平屋が建てられているかのような不調和だ。
「……ま、調べてみる価値はあるか。他にあても無いしな」
もう一度あの不自然な扉に目をやって、僕らはその場から立ち去った。
扉――目の前には、妙に年季の入った古い扉。
そこには、ピンクの丸い文字で『女子弓道部』と書かれていた。
ああ、そうか。このやたら年季の入った古い扉、弓道部の部室の扉だったのか。
何だか妙に納得がいって、一人で頷く僕。そう言えば、僕の夢のときもこんなことがあったな。つくづく僕は、扉というものに縁がある。
少しいびつな形をしているドアノブを握り、僕は他の二人に視線を送る。二人が首肯するのを確認してから、僕は扉を開けた――
扉を開けると、まさしくそこは弓道部の部室だった。
長方形の部室には、ロッカーと胴着の掛けられたハンガーラックがそれぞれ壁際に設置されており、小さな本棚には雑誌やマンガが並べられ、その上には制汗剤や手鏡などの小物が置かれている。
そしてその奥には、小さなソファに膝を抱えて座っている、野々宮の姿が確かにあった――
「あ、あなたたち……。なぜ……この場所に……」
野々宮は僕らを見て愕然とした表情を浮かべるが、すぐに冷静さを取り戻してぼそっと呟く。
「そうよね……。これは夢だもの、きっと荻村君の印象が(悪い意味で)強すぎて……、それで夢にまで出てきたんだわ……」
僕らはホラー映画か何かかよ……。ってか、夢の中まで僕に悪態をつかないと気が済まんのかお前は。
「おおおお、野々宮さん! やっと見つけたぞー!」
後から入ってきた篠倉が、野々宮の元に駆け寄った。
「いったい何が……どうなってるの……?」
跳びかかるような勢いで抱きつく篠倉に、野々宮はおろおろと困惑する。
「おお! 弓道着姿も似合っているな! 白の胴着が眩しいぞ!」
「分かったから……、少し離れてちょうだい……」
篠倉の言うように、野々宮は白の胴着と黒の袴に身を包んでいる。
和装をあまり見慣れていない所為か、那須美が野々宮の弓道着姿をねばついた視線でチラチラ見ていてキモいヤバい。
僕の冷ややかな視線に気がついたのか、那須美はわざとらしく咳払いをして茶を濁す。
「……それより篠倉さん。例の話、しなくてもいいのか?」
「……む。そうだったな、すっかり忘れていたよ」
那須美に言われて篠倉は、そっと野々宮から離れる。それから野々宮の隣に座り直して、
「いいか野々宮さん。これから話すのは、紛れもない真実だ。現実ではないが、事実だ。夢ではあるが、夢想ではない」
と、いつか聞いたようなことを言って話を切り出した――
――すっかり恒例行事となった一連の流れを終え、篠倉は満足げに息を漏らす。それとは対照的に、野々宮はというと終始難しい顔をして一言も話さなかった。
「……ま、俺も最初にこの話を聞いたときは信じられなかったんだけどさ、妙に現実味があって……って、ああ、現実ではないのか。そうじゃなくてつまり……、理にかなってるっていうかその……」
「黙って」
フォローに入る那須美を野々宮は一蹴し、あごに手をやり目を伏せて、考える。
それから僕らの顔をなぞるように一瞥したあと、ゆっくりと口を開いた。
「つまり……、こういうことかしら。私たちが現実の世界で不満やストレスを感じると『夢魔』という化け物が生まれて、夢魔が夢を作り変えてしまう。その改変されてしまった夢が、私たちが今いるこの場所……つまり、『悪夢』。そしてその悪魔から解放されるためには、夢魔の大本である『母体』を倒すしかない」
「まぁ、かいつまんで言えばそういうことになる」
もっともその辺りは僕らにも分かっていないことが多いので、はっきりとしたことは言えない。特に夢魔の成り立ちについては推論と言うよりも想像と言った方が正しいくらいで、実際のところ夢魔が何をきっかけにして僕らの夢に現れたのかは謎だ。
少し間をおいてから、野々宮は続ける。
「……あなたたちの言っていることが正しいと証明できる物や方法は?」
「あるにはある……が、今すぐには提示できない。……だけど、お前が今自分で言った通り、悪夢から解放されたいのなら無条件で僕たちを信用する他ない」
少し脅すような言い方になってしまうが、仕方ない。ここで僕らを信じてもらえなければ、あとで困ったことになるのは野々宮だ。
悪夢による弊害は計り知れない。それは、僕らが夢魔に夢を侵された人の末路をいまだ知り得ていないということでもあるのだが、それだけに先の見えないトンネルを進んでいくような怖さがある。
「……そう。荻村君の言い回しは夢の中でもズルいままね。……いじわる」
野々宮は僕の瞳をじっと見つめて静かに言う。
ソファに座っている野々宮よりも立っている僕の視線の方が高いので、彼女のそのセリフは上目使いになり、ちょっとドキリとしてしまう。
おかげで話し出すタイミングを逃してしまい、それをきっかけにしてこの場に長い沈黙が訪れた。
幾ばくか経って、そうだな、具体的には篠倉がジッと座っていられなくなる辺り……つまりはそれほど時間は経過していないのだが――その沈黙を破ったのは意外にも野々宮だった。
「……いいわ。あなたたちに騙されてあげる」
「本当か?」
がばっと立ち上がり、体制的にも気持ち的にもぐっと前のめりになる篠倉。それを軽くあしらいながら、野々宮は続ける。
「ここであなたたちを疑っても何も始まらないでしょう? 悪夢から解放される可能性が少しだってあるなら、私はそれに賭けてみるわ」
じっと、野々宮は部室の扉を見据える。野々宮がその先に何を見ているのか僕には分からないけれど、ただ一つだけ確かなことは――彼女が現実と戦う覚悟を決めたということだ。
「……私の悪夢のルーツ、だったわね」
野々宮は立ち上がると、先んじて扉の方に向かう。そこはさすがの野々宮だ。これからすることも、先ほど篠倉が話した内容だけで理解したらしい。
ふと野々宮は扉を半分だけ引いたところで止まり、揺れるような不安定な声が僕の耳朶を打った。
「私のこと……、ちゃんと守ってくれるのよね……?」
こちらを振り返りもせずに言ったのでそれが誰に向けられた言葉か分からなかったが、でしゃばりを承知で僕は答えた。
「……当たり前だ」
「当たり前だ!」
「あたりめぇだ!」
三つの声が重なって、僕らは顔を見合わせる。野々宮が小さく微笑むような気配を感じた。
「……そ」
片手で目を擦りながらそれだけ言って、野々宮は先に部室を出ていってしまった。
僕たちが向かったのは――ちょうど一階ロビーの真上にあたる場所に位置する弓道場だった。
昔、外から中の様子を少しだけ覗いたことがあるが、こうして改めて見てみるとけっこう広い。
これは野々宮から聞いた話だが、射場から的場までちょうど二八メートルあるらしく、こんな広いスペースが体育館の中に納まってしまうのかと驚いた。矢道に人工芝が敷かれているのは、途中で落ちた矢に傷が付かないようにするためのクッションだそうだ。
だが上座に日章旗が飾られているところは他の武道と変わらないようで、入室の前に一礼をするといった作法も共通していた。
「おー……、ここが弓道場か。前にテレビか何かで見たことあるけど……、そのまんまだな」
「当たり前でしょ……、どこの道場もちゃんとしたルールに沿って作られているのだから。道場によって的場が遠かったり、審判席や看的所が無かったりなんてことはないわ」
ツッコまれて那須美は「……看的所ってなんだ?」と首を捻っていたが、野々宮はそんな那須美を放って、射位――つまりは矢を放つ地点へと立った。
「……薄々気がついているとは思うけど、私が悪夢を見ることになった嚆矢はたぶん……弓道部のことよ」
野々宮は足構えを作り、そこに何かを思い出すように、前方の的を見据える。
それから、胸につかえたものを静かに吐き出した。
「……私、昔から人に過大評価されることが得意だったの――」
「自分で言うのも何だけど……、意外だって思うでしょ? でもそうだったの――」
「テストの成績は良い方ではあったけれど上位ではなかったし、弓道だってベスト8までは入賞したことだってあるけれど、それ以上はない。いつも中途半端だったの……私って――」
「それでもまとめ役にされてしまうことが多かったのはたぶん……、割と物事をよく考える方だったからかしらね。それに、そこで自分の考えたことをはっきり言えてしまう性格だったから……。要するに、察しが悪くて空気の読めない……無神経な人間ってことよ、私は――」
「クラスの委員長ぐらいならそれでも良かったのかもしれないわ、あれは誰でもできる雑務を任されているだけだから。……でも、過大評価されたのはそれだけじゃなかった――」
「荻村君は知っていると思うけど、毎年五月の頭ごろに県大会があるでしょ? ……そう、三年生の引退試合の大事な大会。私――その団体メンバーに選ばれてしまったの――」
「と言っても、三年の一人が怪我をしたからその補員として選ばれただけなのだけれど……、それでも良く思わなかった人もいたらしいわ。二年の中には私より大会でいい結果を残せている子も少なくはなかったしね。直接口には出さないものの、いろいろ不満はあったみたい――」
「……でもバカな私は、やっと自分の実力が正当に認められたと舞い上がって、そのことに気がつかなかったの。まして自分の所為で部内の空気が悪くなっているなんて……、考えもしなかったわ。それがいけなかった――」
「うちの弓道部は指導者がいないから、部員がお互いにつどつどアドバイスをしながら練習をするの。それでさっきも言ったと思うけれど、私は理屈屋だから……自分の考えを相手に押し付けるようなことも多かった。それがレギュラー選抜をきっかけにますます顕著になってね、部内の空気はどんどん悪化していったわ――」
「そんなピリピリしたムードの中、ついに大会を迎えた弓道部はあと一つ勝てば全国というところまで進んだ――」
「……勝てば全国、負ければ引退。先輩の高校最後になるかもしれない大事な試合で……、私の矢は全く的にあたらなかった――」
「何が原因かは分からない。緊張の所為かもしれないし、コンディションが悪かったのかもしれない。練習では的中させられていたものが、本番になって全くあたらなかったの――」
「結果――うちの弓道部は僅差で敗退。その僅差は私が外した分だったわ――」
見ると、ここの審判席の奥にはトーナメント表が貼ってあった。城野高という文字から伸びた赤い線は、まるでそこでせき止められてしまったかのように途中で途絶えてしまっている。
「大会って……、この道場で開かれたのか」
僕が呟くと、野々宮がこちらを向いてそれに答えた。
「そうよ。大会が開かれたのも――大泣きする私を先輩が慰めてくれたのも――それに嫌らしい視線を投げられたのも――同輩に嫌味を言われながら練習をしたのも……全部ここ――」
野々宮は両拳を持ち上げ、徒手のままエアで弓を構える。そしてゆっくりと、肩の震えを誤魔化すように、弦を引き絞った。
「大会が終わって程なくしてから、顧問はみんなの前で私に言ったわ――野々宮に部を任せる、これからはお前が弓道部をしょって立つんだって。失敗を取り戻すチャンスを与えられたことに私は正直嬉しかったし、来年こそは優勝して先輩たちの悲願を果たそうとやる気にもなった。だけど……、みんなの顔をふと見たら、私のそんな感情は一気に冷めてしまったわ……」
そのとき部員たちがどのような表情をしていたのか、野々宮は深く語らなかった。しかし、それは想像に難くない。
部員たちの表情は、妬みや僻みによってひどく歪んでいたことだろう。それこそ、蛇のように。
「そのとき私は初めて思ったの――私に足りないものは、実力でも土壇場の集中力でも何でもない、空気を読むことなんだって。……私は今までずっと、独りで練習してきたのよ。誰の意見も聞かずに――誰の気持ちも考えずに――たった独りでがむしゃらに……」
野々宮は一度深呼吸をしてから、ゆっくり狙いを定めて、掴んだ空(くう)を解き放つ。
それと同時に、透明の矢に空間が引き裂かれるようにして――視界が大きく歪んだ。
八
――瞬間、視界が傾いた。
いや、そうじゃない。急に足場が水面になって、僕の体が沈んでしまったのだ。
しかし、あまりに突然のことで僕は頭が真っ白になり何もできなかった。水面を掴むようにして必死にもがくが、僕の体は全く浮上しない。
水が肺の中に侵入し、胸がしめつけるように痛む。水面が遠く、暗闇が僕を誘う。
ついに酸欠で意識が朦朧とし始めたそのとき――脳裏の端に、優雅に泳ぐまるで人魚のようなものを見た――
「――がぁぁぁぁっ! ごほっ、げぇっ……!」
気がつけば、僕は篠倉に支えられて陸地に上がっていた。
彼女に背中を擦られながら、僕は四つん這いになって必死に息を吸う。せき込むたび、口から飲みこんだ水がこぼれた。
「がっ、げほっ……! はぁはぁ……! いったい……何がどうなって……。僕……今溺れてたのか……?」
激しくむせながらも何とか冷静さを取り戻す僕。おかげでやっと周りが見えてきた。
「落ち着いたか?」
篠倉が心配そうに僕の顔を覗き込む。どうやら、溺れた僕を助けてくれたのは篠倉だったようだ。篠倉は僕と同様全身ずぶ濡れになり、前髪が顔を隠すように垂れ落ちていた。
「まじで……助かった……。ありがとな……」
僕はふらつく足で立ち上がる。
見渡せば、辺りは一面――水水水。広がる景色は海そのもので、そのど真ん中にある鉄筋コンクリートの瓦礫の島に僕らはいる。まるで、島流しにでもあったような気分だ。
「おーい! 大丈夫か荻村ぁー!」
遠くの方から、那須美が野々宮を連れて駆け寄って来る。どうやらあの二人は、不測の事態にも適切に応じることができたらしい。つまるところ、溺れたのは僕一人だけだったということだ。……情けない話だが。
「僕のことなら大丈夫だ。それより……母体だよ。母体はどこにいるんだ……?」
いくら探しても、母体の姿が一向に見当たらない。今までの母体は悪夢が崩れると共にその姿を現していたが……、今回はその限りではないのだろうか?
――と、そこで野々宮が、
「右から……来る……」
唐突に、まるで自分の意志とは関係なく自動的に口が動いたように、ぼそっと虚ろに呟いた。
「え? 野々宮。お前、今何か言っ――」
聞き返す暇も無く、僕の右前方の水面が破裂した――蛇が、跳ねたのだ。
「……ウミヘビ、だ」
豪快に水を巻き上げて飛び跳ねたウミヘビは、僕らの頭上を越えて着水する。飛び散った水が滝のように僕らに降り注いだ。
「……おい。見たか今の……」
那須美が青ざめた表情で、すがるように僕の肩を小さくゆする。
無理も無い。今僕らが見たウミヘビは、先ほど倉庫に現れたそれとは比べ物にならないほど巨大だった。巻き上げられた水に紛れてよく見えなかったが、頭だけでも那須美なんか一気に五人は呑みこめるんじゃないかという大きさで、まるでクジラのように大きい。
もはやウミヘビというより……、リヴァイアサンだ。
「あんなものと戦うのか……、俺たち……」
半ば絶望したような表情で呟く那須美。開いた口からそのまま魂が抜けていきそうなツラだったが、それをちゃかす気にはなれなかった。
「それだけじゃあない。相手はデカい上に水中にいるからな、私たちの攻撃をどうやって母体にあてるのかという問題もある。……そうとう手強い相手だぞ、アレは」
……篠倉の言う通りだ。母体が水中に潜んでいる限り、僕たちは手出しをすることができない。水中は、呼吸ができない、動きが鈍くなる、加えて上下左右から敵が襲ってくる可能性があるので視界の確保もままならない……、この三重苦だしな。界ア駄科けジを負わせることができるかはまた話が別だけど、な……
……というかそもそも、ただでさえ彼我の体躯には比べ物にならないほどの差があるというのに、わざわざ相手の土俵で戦うなんてことは自殺行為だ。
となると、やはり――
「さっきみたいに母体が飛び跳ねた瞬間を狙うしかないな。……その一瞬に母体を倒せるほどのダメージを負わせられるかどうかは話が別だけど」
半ば投げやりに言って、僕は先ほど母体が着水した辺りを見やる。
水面が少し――揺れていた。
「……また来るわ――正面から、今度は私たちを狙って」
「……へ?」
出し抜けに、野々宮は僕が見ていた場所よりももっと前を指さした。見ると、水面を引き裂くように水しぶきがVの字に上がっている。
何かが――こちらに向かっているみたいだった。
「ヤバいっ……! 母体がこっちに突進してくるぞ!」
僕らは急いでその場から離れようとするのだが、野々宮だけはぼっーとしてしまって動かない。さっきから野々宮の様子が少し変で気になるが声をかけてやってる暇もないので、僕は彼女の手を引いて、それから走り出した。
地面が激しく揺れ、瓦礫を砕く大きな音が鳴り響く。振り返れば、砂礫が舞い上がって砂嵐のようになっていた。きっと母体が、勢いそのままに陸に上がって這いずったのだろう。何という推進力だろうか。
母体は、またぞろ水しぶきを上げて水中へと帰っていく。地面には小さな亀裂が走り、水しぶきと砂礫も相まって、辺りはまるで大災害にでもあったかのようなありさまだ。
「はぁはぁっ……はぁ……。どうする荻村……、こんなんじゃいつまでたっても母体を倒すことなんてできないぞ……」
全力疾走で乱れた呼吸を整えながら、那須美は「くそっ……!」と地団駄を踏む。何もできないこの状況、そして自分が歯痒いらしい。
「……僕らだけの力でこの状況を打開するのは少し厳しいな。……おい野々宮」
呼ばれてやっと我に返ったのか、野々宮は僕に握られた手をさっと引っ込める。そしてその手を庇うようにしながら、顔を伏せて邪険に答えた。
「……何よ?」
「お前、さっきから様子が少し変だよな? どうかしたのか?」
「……別に何でもないわよ。ただ……」
「ただ、何だ?」
「……さっきから、あのバケモノのしようとしていることが分かるのよ。どこから来るのか、何をしかけてくのか、頭の中に一瞬だけよぎるような……そんな感覚」
野々宮が言うのを聞いて、僕を含めた他三人は顔を見合わせて確信する。
間違いない……、ビジョンだ。まさかと思って聞いてみたが、やはり野々宮にも超明晰の力が目覚めていた。
――ふと、それであることを思いついた僕は、野々宮に確認する。
「それは……、相手の行動を先読みできるということか?」
「……たぶん、そういうことだと思う……はっきりしないけれど」
「そうか……、よし分かった――」
これで何とか……、活路が見出せそうだ。
僕は帯刀していた刀を抜きとる。さらにベルトに引っ掛けたままの鞘も抜いてしまい、まず刀の方を野々宮に差し出した。
「『検閲』の話はさっきしたよな? これ、それぞれ弓と矢に変えてくれ」
まさか自分にお鉢が回ってくるとは思っていなかったのか、急に言われて野々宮は当惑した。
「無理よ……。私にはそんな妙な力、使えっこないわ」
「お前のその予知みたいな能力は間違いなくビジョンによるものだ。ビジョンが使えて検閲が使えないなんてことは絶対にない」
「でも……、その検閲って荻村君にもできるんでしょ? だったらあなたがやればいいじゃない……。わざわざ私がやる必要は……」
「僕は弓矢なんて触ったこともないからな、うまくイメージできない。だから、弓矢に慣れ親しんだお前にやってもらうしかない」
「でも……」
「……これはお前の悪夢だ。お前がケリつけないでどうする」
強い語気のまま、僕は続ける。
「夢世界のことを知ってからいろいろ僕なりに考えたんだけどな。僕が思うに、悪夢ってのは今まで自分が現実から目を逸らしてきた代償みたいなもんだ。それを誰か他人に解決してもらおうなんてのは筋に合わない。僕らができるのはその手伝いぐらいで……、畢竟ケジメをつけなきゃならないのはお前なんだよ、野々宮」
その言葉が効いたのか、野々宮は黙ってしまった。俯いて表情は分からないが、頬からぽろっと涙の粒が落ちた。仮にも女の子に少し言い過ぎてしまったかと思ったが、……そこが野々宮扇の違うところだった。
野々宮は顔を真っ赤にして俯き、唇を噛み、手を強く握って、それから目をゴシゴシと擦る。そして一度落ち着くために深く息を吸ってから、野々宮は言った。
「……そう、ね。これは私の問題だもの、あなたたちに頼ってばかりじゃいけない。私が現実と向き合うために、私は悪夢と決別する必要がある。……覚悟が足りなかったわ、私」
――ああ、今はっきりと分かった。野々宮がリーダー役として推薦される、その理由が。
野々宮は――誰に対しても平等で正直だ。相手と自分の立場はいかなる場合においても対等で、どちらか一方を贔屓することも卑下することもない。自分が正しければそれは決して曲げないし、間違っていれば素直に非を認め相手の意見を尊重する。当然のことのようだが、それができる人間はほとんどいない。
野々宮は、リーダーにもっとも必要なのは実力だと勘違いしているのだろうが、実はそうではない。平等で正直であること、すなわち「正義」を地で行く人間こそが、もっとも長にふさわしいのだ。それこそが、今まで野々宮がリーダーとして選ばれてきた理由――決して過大評価などではない。
「……やってみるわ」
僕の目を真っすぐに見つめて、野々宮は手を差し出す。僕はその手をとるように、野々宮の覚悟に応えた――
真剣に触れるのが初めてだからか、野々宮はたどたどしい手つきで刀を受け取る。
責任の重みをそこに感じたのか、どこか緊張しているようにも見えた。
「大丈夫だ野々宮さん! 俺にだってできたんだ、野々宮さんにできないわけがない!」
横から心配そうに見ていた那須美が、耐えかねて、野々宮に声をかけた。そのおかげで緊張が少し解れたのか、野々宮はニッコリと微笑む。
「そう言われると……、確かにそうね。何だか急にたいしたことでもないように思えてきたわ。ありがとう那須美君」
「……お、おう。そりゃよかったぜ……うん。……何だか釈然としないけど」
僕らに見守られる中、野々宮は刀をもう一度強く握り直す。そして見えない何かに祈るように、野々宮はゆっくりと目を閉じた――
しばらく経ってからおそるおそる目を開ける――すると、野々宮の真っ白な手の中で、刀は見事に和弓に変わっていた。
「すごい……。これが……検閲……」
「悪いけど関心している暇はない。次はこっちの鞘だ」
「ええ……、やってみるわ」
一度成功して自信がついた野々宮は、今度はすぐに鞘を矢に変える。僕が追加で那須美の金棒を渡しても躊躇うことなく、同様に矢に変えた。
どうやら、野々宮はこれからやることをすでに理解しているらしい。二本の矢はどちらも競技用の矢ではなく、矢尻が鋭く尖ったものになっていた。
「……本当に大丈夫なのか?」
篠倉が顔を寄せてきて、野々宮には聞こえないぐらいの声でそっと僕に耳打ちした。
「君は野々宮さんが母体を討つことに期待しているのだろうが、そう上手くはいかないと思うぞ。足場は決してよくないし、矢も二本しかない。あまつさえ、動きまわる的を一瞬のタイミングを計って狙い射つことなんて、そうそうできることではないだろう。というか、普通に無理だと私は思う」
確かに篠倉の言うことはもっともだ。それだけの悪条件の中、矢を的中させることは師範代クラスの人間にだって難しい。ましてや野々宮は、ただの高校生。部活レベルの弓道で、決して強い選手というわけでもない。奇跡でも起きない限り、野々宮の矢が母体を捉えることはないだろう。
だがしかし、それはあくまで現実世界での話。夢の中では――そのような道理は通用しない。
「大丈夫だ、勝算はある。確実ではないけれど、これが最善手なはずだ」
「ならいいんだが……」
僕と篠倉の見守る先には、なるべく足元が平坦になるように、転がっている瓦礫をどけている野々宮がいた。那須美も一緒になって、それを手伝っている。
「ちょっといいか?」
作業が終わるのを待って、僕は野々宮に話しかけた。
「……何かしら?」
野々宮はこちらを向かずに、揺れる水面を見つめながら返す。
遠くの方で大きな波が立ち始めている。どうやら、もうそれほど時間は残されていないらしい。
「さっきはああ言ったけど……、こんな責任重大なことをお前一人に任せてしまって、すまないと思ってる。本当なら僕も最後まで手助けしてやりたいんだ。だけど今は……、お前に頼るしかない状況だからな」
言うと、野々宮は呆れたように苦笑する。
「あら、本当にさっきと言っていることが全く違うわね。もっと自分の言葉に自信を持った方がいいと思うのだけれど」
そして、「……ま、それが悪いことだとは私は思わないけれどね」と――優しく微笑みながら、ぽつりと小さく呟いた。
野々宮の意外な言葉と表情に、僕の心臓が小さく跳ねる。
一瞬自分が何を野々宮に言いたかったのか忘れそうになってしまったが、慌てて思い出して、その鼓動を誤魔化すように僕は言った。
「いろいろと心配なことはあるだろうし、ひょっとしてダメで元々みたいな諦めの気持ちもあるのかもしれないが……安心しろ、お前の矢は必ずあたる」
「……そ。どうしてそう言いきれるのか分からないけれど……。ま、やってみるわ」
野々宮は両足を大きく開いて構えをとり、重心を腰に置きそこに上体を乗せる。さらに丹田に力を加え呼吸のリズムを整えると、全身のブレが消える。素人目にも、美しい立ち姿に映った。
「……来る」
野々宮が呟くと同時に、遠くの水面が逆巻き始めた。やがてそれは渦となり、水上に浮かぶ瓦礫をまるで蛇のように呑みこんでいく。
「……あなたの言葉、信じるわよ」
呼吸と共に矢が引かれ、大きくしなる弓。そしてゆっくりと、野々宮は目を瞑った――
「野々宮さん? それはさすがにマズ――もごっ……!」
僕は、驚く那須美の口を無理やり押えて黙らせた。本人がそれで落ち着けるというのなら、僕らが口を挟む必要はない。
その場は静謐な空気に包まれ、ただ波の音だけが辺りに響き渡る。
ふと、空気がわずかに震えたような気がした――
「射ちますっ……!」
矢が野々宮の手元を離れるとほぼ同時に、母体が――渦の中心から母体大きくくねらせて、まるで天へ昇るように現れた。
矢の軌道、母体の頭、それら二つが見事に重なって、野々宮の放った矢は母体の眼を穿ち、脳髄を引き裂き、頭の反対側の皮膚から飛び出した――
「やった!」
的中を確認して、思わず僕は感嘆の声をあげる。しかし野々宮はと言えばそんな僕には目もくれず、さっと二射目の矢を継いだ。
「シャァァァァァァァァァァ!」
本来、声帯の無いはずの蛇が悲鳴をあげながら、水面を蹴散らして悶える。
その所為で余計に波が立ち、水が跳ね上がる。母体が暴れまわるのも相まって、そうとう狙いをつけにくいはずだ。
だが野々宮は、
「あなたがさっき言ったことの意味、やっと分かったわ」
妙に落ち着き払って、また目を瞑り、そして矢を放った――
放たれた矢は、行く手を阻む波の網目を通り抜け、母体のもう一方の眼を確かに貫いた。
まるで矢の通り道が見えているかのような素晴らしい射に――僕はただ息を呑むだけだった。
「そうよ、見えたの。矢の通り道がね」
母体が天に腹を向けて沈んでいくのを見ながら、野々宮はそっと弓をおろした。
九
翌日、昼休み――
僕の机は、購買の菓子パンと二つの弁当箱に占領されてしまっていた。
「いやぁそれにしても……、昨日は大変だったな。なんかまだ疲れが体に残ってる気がするわ……」
那須美はさっきからずっとこの調子でグチばかりだ。だが、それは無理も無い。
聞くところによると那須美は、朝起きると自分の体に毛布がぐるぐると巻き付いていたと言うのだから、寝覚めはさぞ悪かったことだろう。
「私も……、しばらく蛇のことが忘れられそうにないな……。夢にでも出てきそうだ……」
「ま、夢に出てきた結果があの夢魔なんだけどな」
言って僕は、購買で買ってきたパックのオレンジジュースに口をつける。
ふと、あることが気になって僕は、ストローを咥えながら呟いた。
「……なんでそれが蛇だったんだろうな?」
「あ? どういう意味だ?」
那須美が、「いきなり何言ってのお前大丈夫?」みたいな感じで聞き返した。正直、軽く殴ってやろうかと思った。
「篠倉。前にお前、夢は無意識から意識へのメッセージみたいなもんだって言ってたろ?」
「ああ、確かに言ったが……それがどうかしたのか?」
篠倉は僕の言いたいことが分からなかったのか、首を捻る。
「夢魔だって一応は夢の一部なんだ、何か意味があってもおかしくないと思わないか?」「それはまぁ……、そうだな。確かに」
今までそんなことは考えたこともなかったと、篠倉は頭を捻る。すると、那須美が横からちゃかすように口を挟んできた。
「俺は蛇っていうと、なんとなく性格の悪い女のイメージがあるぜ」
「……性格の悪い女、か」
確かに蛇には、女の嫉妬のイメージがついてまわることが多い。怪談や妖怪関連の逸話には、そんな話をいくつも聞いたことがある。
例えば――蛇帯。これは女の嫉妬心が帯に憑りつきやがて蛇のようになると言われている妖怪だ。
「蛇帯と言えばこんな一節があるな。人帯を藉きて眠れば蛇を夢む――早い話、枕元に帯を敷いて眠っちゃうと蛇の夢を見るよということだ」
「へー……。篠倉さん、よくそんなこと知ってんな」
篠倉の話を聞いて、那須美が感心するように言った。
そういや以前篠倉は、夢について関わるものを片っ端から調べまわったことがあるんだったな。おそらくその中に蛇帯の話もあったんだろう。
「妬める女の三重の帯は、七重にまはる毒蛇ともなりぬべし――おそらく他の弓道部員たちは、野々宮さんに嫉妬していたのだろうな。先生や先輩からの信頼、それだけは実力や成績だけでは決して手に入らないものだから」
弓道部員たちの嫉妬心が、野々宮さんの夢の中に蛇を生んだのだと、篠倉は続ける。
蛇――すなわち邪(じゃ)。蛇帯とはそのまま、邪体のことだ。
「……俺らの夢魔も、何か意味があったりするのかな?」
「さぁ……、どうだろうな」
那須美の悪夢も僕の悪夢も、篠倉だって過去に僕らと同じように悪夢を見たんだろうけど、それはもう全部終わってしまったことだ。今さら考えたって仕方がない。
そう思って僕は話を切り上げようとしたのだが、
「……ん? おい荻村。なんか呼ばれてるみたいだぞ」
と那須美が、教室の扉辺りを顎で指した。
見ると、クラスメイトの女子が控えめに手招きをしている。
「……僕?」
「君以外に誰がいるんだ。早く行ってあげろ」
篠倉に言われて慌てて駆け寄ると、その女子生徒は扉の外をちょいちょいと小さく指差した。
「荻村君にお客さん」
「僕に? いったい誰が……」
廊下の方を覗くと、そこに立っていたのは野々宮扇だった。
野々宮は確かめるように僕を一瞥したあと、その女子生徒に「ありがとう。助かったわ」と礼を言って、それからまた僕の方へと視線を戻す。見定めるようなその鋭い眼光に、僕は思わずたじろいでしまう。
「……よ、よう。その後、調子はどうだ……?」
その後も何もあれからまだ一日も経過していないのだが、そんな言葉が口をついて出た。
野々宮はなぜだか安心するようにため息をつくと、それに答える。
「全快とはいかないけれど……、以前よりも体が軽くなったような気がするわ。あと一週間もすれば、元の調子を取り戻せると思う」
「別にあと一日休んだところでそうたいして変わんないだろ。てっきり僕は今日一日ゆっくり体を休めて、また明日から学校生活に戻るもんだとばかり思っていたけどな」
「そのつもりだったのだけれどね。どうしても一つ確認しておきたいことがあって」
確認しておきたいことってのは……、やっぱり夢世界のことだろうな。
「そのことなら篠倉が説明しなかったか?」
今回は電話をするまでもなく篠倉が野々宮の家に泊まっていたので、昨夜見た夢の話を野々宮と共有するだけで十分だと思っていたのだが、そうではなかったのだろうか?
「ええ。朝、篠倉さんからいきなり核心に迫るようなことを聞かされて驚いたわ。でもそれだけだとただの偶然や当てずっぽうということも有り得なくはないから、あなたたちにも確認をとっておきたいと思ったのよ。……ま、その感じだと昨日の出来事は単なる夢だってことはなさそうだけれど」
「……何て言うかお前、すっげぇ頑固なやつだな」
言うと野々宮は、「よく言われるわ」と鼻を鳴らした。や、そんなことで得意げになられても困るんだけど。
ふと思い立ったように、野々宮が尋ねてきた。
「……そう言えばあなた、あのとき私が絶対に矢を外さない確信めいたものがあったようだけれど……それはなぜかしら?」
「それはアレだ。お前、自分のことを空気が読めない人間だと言ってたろ? 察しが悪いとか何とか。それって裏を返せば、お前はそういう人間になりたかったってことなんじゃないかと思ってな」
「……それってつまり、どういうこと?」
「ビジョンだよ、ビジョン。ビジョンは自分が思い描く理想の力だって篠倉が説明したろ? お前のその理想ってのが、察する力なんだよ」
野々宮は自分のことを――空気の読めない、察しの悪い人間だと自嘲していた。それは裏を返せば、自分が周りの空気に敏感な人間だったならこうはなっていなかっただろうという後悔の表れだ。
自分の意地を頑として貫く野々宮は、他人の意思を理解できる人間になりたかったのだ。だから野々宮のビジョンは――察する力なんだ、と僕は思う。
「相手がどこから来るのかどこにどのタイミングで射てば矢があたるのか察せるんだから、外れるわけがないだろ?」
野々宮は僕の推論、っていかほぼただの勘みたいなもんでこじつけもいいところだったのだけれど、それを聞いてしばらく考える。
それから、納得したように頷いて言った。
「ダメ、そんなオカルトじみたことはいくら考えても私には理解できそうにないわ。そんな無駄なことに時間をさくより、弓道部の改革に頭を使った方がよほど有意義ね」
野々宮らしいその言い様に、僕はちょっと笑ってしまう。
僕にも夢世界の摂理についてはいまいちよく分からないが、野々宮扇のことは少し分かった気がした。
「……とは言うものの、弓道部の立て直しに加えて生徒会の仕事もあるし、放課後のことを考えると気が滅入るわね……」
「や、弓道部のことなら心配はいらないと思うぞ」
「……?」
野々宮がキョトンとした顔を浮かべてまた分からなさそうにするので、僕は言ってやった。
「これはさっき篠倉と話しているときに思いついたことなんだけど……。お前、星座については詳しいか?」
「まぁ人並みには……」
「じゃあ、蛇つかい座のアスクレピオスの話は聞いたことあるか?」
「ええ、知っているわ。確か死人を蘇らせるほどの医術を持った彼は、ゼウスに罰を受けて星になったのよね? その星が蛇つかい座で、蛇はアスクレピオスの化身、または象徴と伝えられてるようになったとか……」
「そうだ。そしてアスクレピオスをそこまで育てあげたのが、他でもないケイローン、つまりいて座なんだよ。要するにだ、何が言いたいかと言えば……」
さっきも言ったように、これはただの思いつきのこじつけなのだけれど――少しでも野々宮の肩の荷がおりればと思って、僕は続けた。
「射手(いて)のお前が蛇の部員たちを立派に育てあげるってことだよ」
僕が無理やりそう締めくくると、野々宮の表情がくすっと綻んだ。
「……何それ、ただの屁理屈じゃない。しかも、その理屈でいくと弓道部の子たち、最後には星になっちゃうし」
野々宮はおかしそうにそう言ってから、教室の中に入っていく。
さっきから気になっていたが、野々宮はずっと後ろ手に弁当袋を下げていたので、たぶん最初から篠倉たちといっしょに弁当を食べるつもりで来たのだろう。
「まぁでも……嫌いじゃないわよ、そういうの」
――野々宮とのすれ違い際、そんな言葉が耳に残された。
これはあとで気づいたことだけれど、野々宮の弁当箱の中身は――僕が篠倉から渡された弁当のおかずと同じものだった。
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