第二夜 互いを操る人形劇
一
世の中には世話焼きというかおせっかい焼きというか、やたらと他人の面倒をみたがるタイプの人間がいる。
困っている人や悩んでいる人を見るなり、自分のことは二の次で手を差し伸べるその姿は傍から見ていて実に美しいものに映る――が、実際には事態を余計に悪化させていることも少なくはない。
だってそうだろう? こちらの事情をよく理解していない人間が横から首を突っ込むのだから、余計に場を荒らして回るだけで何もできないはずだ。
例えば、たまには家事を手伝ってやろうと意気込んだ夫とその妻がいたとしよう。夫は、自分が手伝ってやれば妻の負担も減るだろうと妻のことを気遣ってやっているつもりでも、実際は普段まったく家事をしない夫の家事のやり方は雑なもので、かえって仕事が増えて妻はまいってしまうだろう。結局、ここでの夫の行為は自己満足に留まり、妻の足を引っ張る結果に終わってしまうのだ。
もちろん、手伝おうと思ってくれたその気持ちだけで嬉しいという人もいる。
しかし、そんなことを言えるのは余裕のある人間だけで、本当に切羽詰った状況に陥っている人間にとってそんな気遣いはありがた迷惑もいいところだ。
だが、それを言ったところで、今僕の目の前にいる彼女は納得しないだろう。
座頭(ざとう)橋(ばし)瑠璃(るり)――四月の頭にこの学校に教育実習生として配属された、僕とそうたいして年齢の変わらない大学生だ。担当教科は国語。新品のパリッとしたYシャツに手作りの名札をぶら下げて、まだあどけなさの残る笑顔でいつもニコニコと研修に励んでいる。その朗らかな佇まいが生徒にうけ、あっと言う間に彼女は校内の人気者になってしまった。
そんな彼女と僕は今、教師と生徒が対話をする際に使われる特別教室で、五月の暖かな陽気に包まれながら向かい合っていた。
「……初めての教育実習で張り切っているのは分かりますけどね、生徒の悩み事なんて聞いても何にもなりませんよ」
すっかり冷めてしまったお茶を啜りながら、僕は言った。
「そうは言うけど……、私の方からアプローチしなきゃ荻村君、誰にもお家のこと話さないでしょ? ご両親のことを先生方が知ったのはつい最近だって言うし……。心配なの、君のことが」
始まりは僕が篠倉と出会う少し前、座頭橋先生が赴任してから数日が経過したある日のこと。
放課後、家のことについて担任教師に報告しなければならないこと(ここでの報告というのは、定期連絡みたいなものでさしてたいした内容のものではない)があった僕は、職員室へ出向いた。しかし、そのときはたまたま担任教師が不在だったので、代わりに彼女が僕の応対をしたのだった。
僕の異常な家庭環境を心配してなのか、彼女に色々と根掘り葉掘り聞きだされてしまい、それからというもの、彼女はこうして僕の家での様子をしつこく尋ねてくるのだ。
「聞いた話だと、他の生徒にもこういうカウンセリングの真似事をして回ってるみたいじゃないですか。いったい何が目的なんです?」
「目的とか……そういうことじゃないんだけど……、なんて言うのかな? やっぱり生徒とのコミュニケーションは大事だし、困っている子の力になってあげたいから……」
左目を隠してしまっている長い前髪を、彼女は手櫛で梳きながら言う。どうやらそれが彼女の、考え事をしているときのクセらしい。ヘアゴムで短く括っている後ろ髪が、その度にぴょこぴょこと揺れていた。
彼女はしばらく間を開けてから、そして何かを決心したかのように急に真剣な面持ちになって言った。
「……教師の卵としてここにいられるのも少しの間だけ、生徒との仲を深めたって私はすぐにここからいなくなる。私にできることなんて少ない……、生徒の悩みを必ず解決してあげられるわけじゃない……。ううん、むしろ何もできないことの方が多いのかもしない。必要の無いことかもしれない……でも、だからって、それが意味の無いことだとは思わない。なぜかって言われたら説明できないけど、私はそう思うし、そうしたいの」
そして彼女は、「そうは言っても……、結局は私の自己満足なんだけどね」と、自嘲気味に笑った。
「……まぁ別に、僕は昼休みのちょっとのあいだ時間をとられるぐらいのことは別に構いませんけど、そうじゃない奴らも少なからずいると思いますよ。変に熱過ぎるのもウザがられますし、そこは加減を覚えた方がいいかと」
「うーん、そうかなぁ……。那須美君なんかは結構、喜んで私とお話ししてくれたんだけどなぁ……」
……それはあいつに下心があるからで――ん、那須美の悩みか。
あんなに能天気でマイペースな男にでも悩みの一つくらいはあるもんなんだな。
座頭橋先生と話す口実だったのかもしれないけれど……、それだって少なからず今自分の中にあるわだかまりみたいなものを元にしたんだと思う。
あいつの抱えているもの……、少し興味があるかもしれない。
「ちなみに……、那須美が先生に話した悩みって何だったんですか?」
「うーん……、まぁ君になら言っちゃっても構わないかな。君は口が堅そうだし、なにより那須美君の友達だしね」
彼女は少し考える素振りを見せたあと、ゆっくりと話し始めた。
「彼ね、最近昔の夢をよく見るんだって」
「えっ……。夢、ですか……」
「そう、夢。昔の……、那須美君がちょっと色々あった頃の夢を見るんだって。それが嫌にはっきりとしているものだから……、昔のことを思い出して気が滅入ってるみたいなの。最近はそれが怖くて眠る時間もだんだん少なくなってるみたいでね……。とりあえず、それじゃ体に悪いから夜はしっかり眠るようにしなさいって言ったんだけど、今思えばもっと掛けてあげるべき言葉があったんじゃないかなぁ……」
彼女は自分の至らなさを後悔するようにため息を吐くが、〝夢〟という単語が気になった僕はそれに構っていられなかった。
「……ねぇ荻村君。私は何て言ってあげれば良かったんだと思う?」
「さてね、精神科でも進めてあげれば良かったんじゃないですかね。それより僕もう帰っていいですか? これ以上時間をとられてしまうと飯食う時間もなくなりますし」
「あぁ……、そう言えばそっか。ごめんね、長い間引き止めちゃって。この続きはまた今度にしよう」
この続きねぇ……。この流れだと、「どうすれば私は教師らしいことができるのかなぁ~」みたいな、こっちが先生の悩みを聞くようなハメになりかねないだろうな。
「それじゃあ僕は、これで失礼させてもらいます」
僕は軽く会釈したあと、返事を待たずに教室を出た。
二
教室に戻ってすぐ、気になることがあった僕は那須美にあることを尋ねた。
「那須美、ちょっといいか?」
教室の後ろで談笑していた那須美は友人たちに一言断りを入れて、目で教室を出るように僕に合図した。さしてたいした要件でもなかった僕はそれを少し大袈裟だと思いつつも、彼と一緒に黙って教室を出る。
「ん、お前から話かけてくるなんて珍しいな。どうした、なんかあったのか?」
那須美は教室の扉に背をもたれさせながら尋ねた。
「いや、別にたいしたことじゃないんだけどな。今さっき座頭橋先生と話していたら、お前のことが話題に上がってさ。そのときに妙なことを言っていたから少し気になったんだよ」
「妙なこと?」
「なんでも、最近昔の夢をよく見るって先生に相談したらしいじゃないか」
「あぁ……、そのことな。いやまぁ、座頭橋先生と話す口実は何かないもんかなって探していたらたまたまそのことが思い浮かんだからで……、別に深い意味は無いんだよ」
那須美はバツが悪そうにその茶色がかった長髪の頭を掻きながら、はははと乾いた笑いを浮かべる。
なんだ、やっぱり僕が想像していた通りじゃないか。僕の心配はどうやら杞憂だったらしい。
「でもどうして、そんなことをお前が気にするんだ? 他人のことにはいちいち首を出さないし、興味も無いのがお前だろ? らしくないじゃないか」
「酷い言いようだが、まるで反論できないな……」
なぜかと言われれば、それは夢世界での出来事があった所為で、夢というものに対して僕の神経が過敏になっているところからくるものなのだが、それを那須美にバカ正直に説明するわけにもいかない。
どうしたものかと考え倦ねいていると、そこで五時限目開始のチャイムが鳴った。
「あ、やべ。まだ次の授業の準備してなかったわ……。悪いけどこの話はまた今度な!」
そう言って那須美は、慌てて教室の中に戻っていった。
しかし……、那須美はああは言っていたけれど、やっぱり万が一ということもある。念のためにこのことは篠倉に伝えておいた方がいいかもしれないな……。
すると、不意に後ろから肩をつんつんと突かれた。
「あれ、どうしたの荻村君? もう授業、始まってるよ?」
振り返ってみると、教材を持った座頭橋先生がそこにいた。
「……あ、いや、すいません。すぐ戻ります」
僕はそそくさと教室に戻ろうとするのだが、後ろから肩を掴まれギョッとする。
「その前に遅刻届け、取ってきてね」
「……授業の開始時刻に教室にいなかったのは、先生に昼休みの時間を取られてしまった所為でもあるわけですし……、ここは一つ見逃してくれませんかね?」
先生はにっこりと笑って一言。
「ダメ、規則だから」
僕はあきらめて職員室まで遅刻届を取りに行った。
ショートホームルームが終わり放課後。
生徒たちが三々五々に散っていく中、まだ教室に残っている者の姿もちらほらと散見された。
掃除を始めようと机を下げる者、そんなことはお構いなしに友人たちと談笑を続ける者、帰る準備をしていなかったのか今になって鞄に荷物を詰め込む者。そして僕はといえば彼らと同様、ある理由でここを離れることができずにいた。
「やあ、トミシ。少し待たせてしまったかな」
「いや、今終わったとこだよ。ちょうどいいタイミングだった」
「そうか、それなら良かった。じゃあ、行こうか」
そう、僕がショートホームルームを終えてもいまだ教室に残っていた理由は、篠倉美鷹を待っていたからだ。
最近体の調子が良い彼女は、こうして学校に来る頻度が増えた。
だがそうは言っても彼女は完全に回復したわけではないので、突然の事態に対応できるようにと、彼女が一人になる登下校の間は誰かが付いてやることになり、そしてその役目に抜擢されたのがお察しの通りこの僕というわけだ。
しかしこれは、学校側の配慮というわけではない。あくまで篠倉が勝手に言っていることなので、当然無視しても全然構わないのだ。
ただ、彼女が病を抱えていることは紛れもない事実だし、周りに誰もいない状況で彼女が倒れてしまう可能性も無くはない。何より、この前の借りもあるので、とりあえず彼女の言うことに従うことにしたのだった。
「篠倉、ちょっとお前の意見を聞きたいことがあるんだけど……、少しいいか?」
教室を出てから少し経って、僕は思い出したように彼女に尋ねた。
「……私の意見を? 少し意外だな、君でも人の意見を聞くことがあるのか。大抵のことは自分一人で解決してしまおうとするのが荻村富士だと思っていた」
「ちゃかすなよ、真面目な話なんだ。例の……、夢世界に関わることだ」
「あ、ちょっと待ってくれ。少し喉が渇いた」
ちょうど階段を下りきったところで彼女は僕の言葉を遮る。それから彼女は自販機のところまで駆けていき、しばらくの間にらめっこをしたあと、500mlボトルに入ったスポーツドリンクを選んだ。
ゴトン……ゴトンと、ペットボトルが自販機の取り出し口に落ちる。そして篠倉は、二本の内の一本を僕に差し出した。
「ほら、私のおごりだ。いつも付き合ってもらってるお礼に」
「……そういうことならありがたくもらっておくよ」
「で、夢世界に関することとはいったい何だ? また君の夢に夢魔が現れたのか?」
彼女はさっそく喉を潤そうとしてキャップを開けようとするのだが、どうやらきつく閉まっていて開けられないらしい。うーんうーんと唸りながらペットボトルとしばらく格闘していた。
それを見かねた僕は、彼女からペットボトルをかっさらって蓋を開けてやってから、事の顛末を篠倉に伝えた。
「なるほど、話は分かった。つまり君は、那須美君の夢が夢魔に侵されている可能性があると言いたいんだな?」
「そういうことだ。本人は大して気にしていない様子だったし、僕が気を回しすぎているだけなのかもしれないけど、取り返しのつかないことになってからでは遅いからな」
篠倉は靴を履きながら少しの間考えた後、納得したかのように頷いた。
「それならば実際に調べてみる他ないだろう。そのためにはまず、那須美君にもう一度詳しく話を聞く必要があるな」
「わざわざそんなことをしなくてもさ、那須美の夢に行って僕たちが直接調べたらいいんじゃないのか?」
「そうしたいところだが、夢魔の活動がまだ活発化していない現状では、我々が那須美君の夢に出向いたところでしてやれることは何もないんだ。事情をよく把握できていない我々が、彼の夢の中を詮索して回っても得られるものはないだろうからな。それに、本当に彼の夢を夢魔が蝕んでいるのかどうか確信が得られない限り、あまり下手なことはできない」
「なんだ? 迂闊には手を出せない理由でもあるのか?」
「ああ。本来、超明晰の力で外からやってきたものというのは、言ってみれば夢にとってイレギュラーな存在だ。そんな存在が夢の中で好き勝手やってしまえば、当然夢の主に大きな負担が掛かってしまう。それでは夢魔とやっていることが変わらない」
もっとも、夢の主も同様に超明晰の力が扱えるのであれば話は別なのだが、と篠倉は付け足す。
僕たちは会話を続けながら学校を後にする。春の陽光が目に眩しい。
校門を左に曲がってから少し歩くと、高石垣に囲まれた小さなお城がある。その名残なのか、ちょうどそのお城と向かい合うようにして、校門とはまた別に古色蒼然とした大きな門が凛然と構えている。
ちょうどその門をくぐり抜けた辺りで、僕は話を端的にまとめた。
「じゃあ何か? 僕たちが今やらなければいけないことは、夢魔の活動が活発化したときのための準備ってことか?」
「そういうことだ」
篠倉は道端に転がっている小石を蹴って言う。篠倉の蹴った小石はまるででたらめな方向に飛んでいき、車道まで出ていってしまった。
「しかしなぁ……、直接話を聞くって言っても、悪夢になるほどのトラウマを本人が話したがると思うか? 事実、昼休みに話したときははぐらかされたわけだしな」
「そこは君が何とかするしかないだろう。私は那須美君と面識が無いし、友人である君ならば彼も心を許しやすいだろうから」
まぁそれしか方法はないわけだし妥当な判断ではあると思うけど……、簡単に言ってくれるよなぁ……。
しつこいようだが、僕と那須美は友人関係にあるわけでも何でもなく、たまに会話をするぐらいの、ほとんど赤の他人のような関係だ。だから篠倉の言う、心を許しやすいって効果はあまり期待できないだろう。
「……待てよ。この問題、何も僕たちだけで解決しようとしなくてもいいんじゃないか?」
「と言うと?」
「実際問題、僕たちだけで那須美が見ている夢のことを聞き出すのはとてもじゃないが、無理な話だ。僕もお前も、那須美から昔の話を聞き出せるような親しい間柄じゃないからな。だが、それが那須美から相談を受けた人物ならどうだ?」
「なるほど、座頭橋先生に協力を仰ぐのか!」
篠倉は得心いったのか、深く頷き手をポンと叩いた。
「確証はないが、確かにその方法ならうまくいく可能性が高いだろうな。何せ那須美君は、座頭橋先生と話す口実として夢の話を切り出したのだからな。また先生と話すことができるとあれば、喜んで口を開くだろう」
こいつ……、面識もない相手にひどい言い様だな。しかも、本人に悪気が無い分余計にタチが悪い。
「分かっていると思うけど、確信に迫るようなことは僕らの中で留めておく必要があるぞ。座頭橋先生にはあくまで普段通りに那須美と接して欲しいからな」
「確信に迫るようなことと言うのは……、夢世界の話か。まぁ確かに話すわけにはいかないな。夢世界のことをその場で持ち出せば、まず私たちの方に精神科の診断が必要だと思われるのが関の山だ。……おっと、もう図書館まで来てしまったか、話に夢中で気が付かなかったよ。トミシ、送ってくれてありがとう」
篠倉家は、僕がいつも通学に利用している駅を少し先にいったところにある。
学校から篠倉家までの道中に位置するここ市立図書館は、駅からはさほど離れておらず篠倉の家からも近いので、僕たちは決まってそこで別れていた。
とはいえ、僕が来た道を戻ることになるのは避けては通れないことだし、その所為で帰りの電車が一本ずれてしまうことになるので、どうにも面倒な感は否めない。
ここまで篠倉に奉仕してその礼がスポーツドリンク一本では、正直割に合わないと思う。
「この話の続きはそうだな……。うん、また今晩にでもしたらいいか」
篠倉は手を顎にあてがって少し考えたあと、ぴんと指を立てて勝手に納得していた。
「僕の了解も得ずに勝手に決めんなよな……」
眠っている間常に超明晰の状態でいるのは、肉体的にはともかくとして、精神的にはかなりキツイ。何せ、まる一日起きている状態とほとんど変わりないわけだからな。
あれから篠倉にコツを教えてもらって、今では超明晰の力をコントロールして本当の意味での睡眠をとることができるようになったので、多少はマシになったけど。
それでも、自分一人では暇だからと言って、わざわざ篠倉は僕の夢まで出向いて来るので大して意味が無かったりする。
まぁ、篠倉は思う存分体を動かすことが夢世界でしかできないわけだし、その気持ちも分からなくはないけれど、せめて事前に確認ぐらいはとってほしいものだ。
……なんかあれだな、夢と夢を行きかう極めて虚構的でファンタスティックなことなのに、友達の家に遊びに行くみたいなノリで言っている辺り、僕も相当慣れてきてるんだな。
我ながら自分の順応性が怖かったりする。
「さて、私はこれでお暇させてもらうが、何か言っておくことはあるか?」
「そうだな、これからは何の断りもなく僕の夢の中に入ったら違約金もらうから。ジュース一本」
「なっ……! き、君もなかなか言うじゃないか……。わかった……、気をつけよう」
三
夢世界で大体の目論みを立て後日――僕たちは放課後になるのを待って職員室を訪れた。
目的は――言わずもがな、再び那須美の相談役になってもらうことだった。
「失礼します。座頭橋先生は今どちらにいらっしゃいますか?」
僕はすぐ近くにいた頭髪の薄い中年の数学教師(名前忘れた)に尋ねる。
数学教師は僕と篠倉の組み合わせが珍しかったのか僕らをチラッと見比べたあと、愛想よく応対した。
「座頭橋先生だったね。少し待ってなさい、今お呼びするから」
数学教師が職員室に消えていくのを見計らって、篠倉は小声で僕に言う。
「君のような人間でも敬語はちゃんと使えるようだな、安心したぞ」
「あのなぁ……。いくら僕でも、目上の人間や初対面の人間には失礼のないようにするぞ」
「いやぁ……、君はマナーや年功序列といった格式ばったものを毛嫌いするタチだと思っていたからな。はは……、すまんすまん」
誤魔化すように頭をかいて笑う篠倉を見て、僕はため息を吐いてから言ってやった。
「いいか篠倉、教えといてやる。年功序列ってのはな、ある種人間の習性みたいなもんだ。あるいは生態って言ってもいい。とにかく、人間って生き物に初めから備わっている特性なんだよ。アリと一口に言っても女王アリや働きアリに分かれていたり、ライオンはメスしか狩りをしないと一緒なんだよ。自分が働きアリだからって文句たれるアリがいるか?」
「それは極論だと思うが……」
「ちなみにマナーは守らなくてもいい。マナーはあくまでマナーであってルールではないからだ。法的拘束力を持たないものを守る必要はない。それにマナーというものは個々人に差があるし、極めて狭い範囲でしか適用されないからな。あ、この場合の範囲というのはつまり――」
「もういい。分かった。もういいから。十分だ。ほら、きっともうすぐ座頭橋先生が見えるぞ。念のためにもう一度、彼女に話す内容を頭の中で整理しておけ」
「……ま、それもそうだな。慌ててうっかり口滑らしてしてもいけないしな」
彼女の言った通り、それから間もなくして座頭橋先生は現れた。
手にプリントの束を抱えているので、どうやら授業か何かで使用するプリントの印刷をしている最中だったらしい。
「ごめんねー、待たせちゃって。今ちょっと立て込んでてね。ちょっとこの荷物置いてくるから、もう少しだけ待っててね」
「いや、僕たちの方こそお忙しいところをお呼び立てしてすいません」
僕がそう言い終える前に先生は自分の席に行ってしまい、そのついでにどこかの教室の鍵を借りてから戻ってきた。
「とりあえず……ここじゃ他の先生方のお邪魔になるし、いつもの教室に移動しようか」
僕たちが授業で使っている教室の半分もない、この小さな教室。
僕が座頭橋先生と面談するときはいつもこの部屋を使っているので新鮮味はまるでないが、篠倉はもの珍しそうに教室を見回している。
まぁ、無理もない。
主に生徒と教師が面談をする際に使われるこの教室だが、その面談のほとんどが生徒指導だ。つまり何か問題を起こさない限りは、この部屋に入る機会はほとんどない。篠倉のような真面目な生徒ではまずお目に掛かれないだろう。
僕らは教室の真ん中に置いてあるパイプ椅子を引き、僕らと先生が折り畳みテーブルを挟んでちょうど向かい合う形で座った。
「それで私に用事があるのはどっちなのかな? 荻村君? それとも篠倉さん?」
「あれ? 先生、篠倉のことを知っているんですか?」
「当たり前だよ。実習生とはいえ教師だもの。生徒の名前くらいは覚えてなくちゃ」
「へー……、それは殊勝な心がけですね。僕なんかクラスメイト全員の名前を言えるかどうかも怪しいのに」
「それは君がおかしいだけだ。心がけの問題ではない」
……うん、まぁ……そう言われると一言もない。篠倉の言う通りだ。
「……まぁ、用事があるのは僕の方ですかね。篠倉はその付き添いって感じです」
「へー……荻村君が私に相談って……、珍しいこともあるもんだね。明日は傘持ってこないとダメかな?」
「いえ先生、明日の天気は荒れに荒れるでしょうから外出は控えた方がいいかと」
そう言って二人は窓から空模様を窺う。
おい待て。冗談とか皮肉とかじゃなくて大真面目に言ってんのかそれ? ってか篠倉、お前は事情を分かっているだろうが。何、悪ノリして好き勝手言ってくれてんだよ。
「……相談ってのは那須美のことなんですけど……あの後、気になって那須美に直接話を聞いたんですよ」
「那須美君に? ふーん……、それで彼は何か言っていたの?」
「いえ、はぐらかされてしまって、結局詳しい事情を聴くことはできませんでした。でも、そのときの那須美の様子が普通じゃないって言うか……、とにかくいつもと違うような気がしたんです」
「……それで心配になって私のところにきたわけか。でも、それじゃあなんで篠倉さんはここにいるの? 聞いた感じだと、篠倉さんには関係のないことだよね?」
先生は篠倉を不思議そうに見つめながら、もっともな疑問を投げかける。
すると、僕の隣に座っていた篠倉がそれに答えた。
「トミシはあまり人に言いふらすことじゃないっていうのは分かっていたみたいですけど……、それでも自分一人じゃ手に負えないと思ったんでしょうね、私にそのことを話したんですよ。それで私が、そういうことなら座頭橋先生に相談すれば何か力を貸してもらえるかもしれないと助言したんです」
「別に篠倉は付いてこなくてもいいって僕は言ったんですけど、乗りかかった船だから私も付いていくって聞かなくて……、やむなく連れてきたわけです」
先生は前髪をいじりながら少し黙る。
そして得心いったように深く頷いたあと、その口を開いた。
「なるほどねぇ……。ま、だいたい事情は分かりました。荻村君が他人の心配をすることなんて滅多にないことだし、那須美君のことは私も前々からどうにかできないかなって考えてたことだから、私も君たちに協力させてもらうよ」
「ありがとうございます。助かります」
篠倉は丁寧に礼を言って頭を下げた。一応、僕も彼女に倣って頭を下げる。
「とりあえず先生、那須美が先生に話した悩みについてもう一度詳しく聞かせてもらってもいいですか?」
「うん、分かった。えっとね――」
ひとまず、先生が那須美から聞いたことを事細かに話してもらったが、事前に分かっていたこと以外の情報は得られなかった。
やはり僕らが有意義な情報を得るためには、先生をけしかけるほかないらしい。
「……先生、少しお願いがあるんですけどいいですか?」
「いいよ! 言ってごらん!」
座頭橋先生は僕に頼られることがよっぽど嬉しいのか、食い気味でそれを承諾する。
「先生にはもう一度那須美と話をしてもらって、那須美が見た昔の夢について聞き出して欲しいんです」
「那須美君の夢を? どうして?」
「察するに……那須美は多分、ずっと忘れられないようなトラウマを過去に経験したと思うんです。ですから、その過去の出来事を僕たちが知れば、何かそのトラウマを解消させられるような手段が見つかるかなと思いまして。そうすれば、悪夢にうなされるようなことも無くなると思いますし」
「うーん……、確かにそうだね……。よし、分かった! 二人とも大船に乗ったつもりで私に任せなさい!」
座頭橋先生はバンと自分の胸を叩いて強く意気込んだ。
しかし……、先生の性格を鑑みれば二つ返事で僕たちの要望を承諾することは分かっていたが、まさかここまでうまく口車に乗ってくれるとは思わなかった。拍子抜けだ。
「あ、それと先生。一つ注意して欲しいことがあるんですけど、僕たちがこの件に関わっていることは那須美には伝えないでもらえますか? その方が那須美も話しやすいと思いますし」
「確かにそうだね。こういうことはあんまり人には知られたくないことだろうしね……」
と先生はそう呟きながら、しきりに頷いた。
そして彼女はまたぞろ髪をいじりながら少し考えると、神妙な顔つきで僕らに言った。
「うん、だいたい話は分かった。こういうことは早いにこしたことないし、早速明日、那須美君と話してみるよ」
「ありがとうございます」
今度はどちらからともなく、僕らは頭を下げた。
「それじゃあもう暗くなってきたし、私もこのあと行かなきゃいけないところがあるから、今日のところはひとまず解散しよう」
そう言って先生は席を立つと、扉を開けて言外に教室の外に出るように促す。
そして僕らが教室を出るのを待ってから先生は鍵をかけ、扉がしっかりと施錠されているのを確認すると、「また何かあったら先生に相談してね」と、にこっと笑ってそう言った。
ふと、先生が立ち去る寸前、僕は一つ気になったことがあったので先生に質問した。
「このあとの用事って……、会議か何かですか?」
「ううん、そうじゃなくてね。私、実はこの学校の弓道部のOGなの。だから顧問の先生に弓道部員の指導を頼まれちゃって……。市立体育館の弓道場で練習しているらしいから、そこまで行かなくちゃいけないのよ」
「へー……、実習生も大変なんですね」
「まぁ、市の体育館って言っても歩いて行ける距離だし、弓道部の子たちはみんなしっかりしていて私が教えることはほとんど無いから、実際は言うほどでもないんだけどね」
「そうですか。ま、いろいろと大変でしょうけど頑張ってください」
「いやに上から目線だな……」
篠倉が少し呆れ気味に呟くのを聞いて座頭橋先生はふふっと笑うと、僕らに小さく手を振って去っていった。
「……なんだか先生に悪い気がしてきたな」
篠倉は、はぁー……と深くため息をつく。
「あ? 何がだよ?」
「……だって私たちは先生を騙くらかして利用しようとしているわけだろう? 先生の……、一生懸命で、親身になって私たちの話を聞いてくれている姿を見ているとどうにも後ろめたいというか……、寝覚めが悪いんだ」
寝覚めが悪い――その言葉は、今の僕らには少しばかり皮肉的だろう。
「……ま、その気持ちは分かるけどな。僕たちは何も悪いことをしているわけじゃないんだ、そんなこといちいち気にしてたってしょうがないだろ。それに、これはあくまで那須美を救うためにやってることだし、結果的にはそれが座頭橋先生言うところの那須美の悩みをどうにかするってことに繋がるんだから、騙していることにはならないはずだ。違うか?」
「まぁ……、そういう言い方もできなくはないがな……」
口ではそう言いつつもまだ納得がいかないのか、篠倉はばつが悪そうな顔をしていた。
「……とにかく、今僕たちにできることは何もない。明日、座頭橋先生が那須美から夢の話を聞き出すまで、僕たちはおとなしく待っているしかないんだ」
僕は諭すようにそう言うと、「ほら、もう帰るぞ」と篠倉を急かす。
昇降口を出た辺りで、それまでずっと黙っていた篠倉が急に口を開いた。
「……なあトミシ、一つ聞いてもいいか?」
「……何を?」
「これは君が那須美君の話を持ち出してきたときから不思議に思っていたことなんだが……、どうしてそんなに彼のことを気にかけるんだ? 悪いが、君のエゴイズムでミーイズムで独りよがりな性格であれば、彼のことは我関せずで放っておいたはずだと思うのだが?」
悪いが、と一言断っている篠倉だが、辛辣も辛辣、まったく遠慮する様子など窺えなかった。
「それは簡単なことだよ。……僕が――偽善者だからだ」
僕の知らないところで誰がどうなろうと構わないけれど、自分の目の前で他人がどうにかなってしまうのが嫌な――偽善者だ。
四
――結論から言おう。
座頭橋先生を那須美にけしかけ、那須美から過去の出来事ないしは夢の内容を聞き出す作戦は失敗に終わった。少なくとも、座頭橋先生にとっては芳しくない結果となった。
結局、那須美は座頭橋先生にも深いことまでは話そうとしなかったのだ。
上辺だけの、うわっつらの、表層も表層、皮肉の部分でしか語ろうとしなかった。
座頭橋先生はうな垂れた。自分が、もう少し那須美から信頼を勝ち得ているものだと思っていたからだろう。あれだけの大口を叩いておいて、結局事の真意ははぐらかされてしまったことを、先生はひどく悔いていた。
だがしかし、作戦が失敗したからといって、それが何の収益ももたらさなかったかといえば、実はそうでもない。
上辺だけの、うわっつらの、表層も表層、皮肉の部分では、那須美は自分を語った――これはまごうことなき事実なので、そう悲観したことでもないとは篠倉の談だ。
那須美が先生に語ったのは以下の四つ。
一つめは、件の過去にいろいろあった時期というのは、那須美が中学生の頃だということ。
二つめは、そのいろいろというのが、主に人間関係のいざこざであったこと。
三つめは、那須美自身はそのいざこざに直接関わってはいないということ。
四つめは――那須美は今も悪夢にうなされているということだ。
これら四つの要素とだいたいの会話の内容を座頭橋先生から又聞きした篠倉は、那須美の夢の中には夢魔が存在すると決定づけた。
このような曖昧模糊とした根拠のみでその判断に至るのは、いささか早計ではないかと思うかもしれないが、篠倉が言うには、ここで問題なのは那須美が話した四つのうちのどれでもなく、彼が心に抱えているものを吐き出そうとせず自分の中に押し殺していることが一番の危険信号らしい。
言われてみれば、それはもっともなことだった。
例えば僕は自分の心の闇をさらけ出すことで夢魔に打ち勝ったのだから、那須美がその逆のことをすれば、当然、夢魔は活性化し夢は良いように喰い荒らされるというものだ。
つまり、僕たちは那須美から何も情報を引き出すことはできなかったが、逆に何も引き出せないことこそが僕たちを動かすに足る十分なファクターとなったということだ。
――ここまでが今日、つまりは僕と篠倉が座頭橋先生に話を持ちかけた翌日、学校での出来事だ。
そして同日夜、ついに僕と篠倉は那須美の夢に踏み込むこととなった。
ただ、いきなり順番をすっとばして、那須美の夢の中にさあ行こうといってもそうはいくまい。超明晰の力を使って他人の夢の中に移動するのにも、通るべき過程があるのだ。
どこか目的地を決めて旅をするのにも、地図がなければたどり着けないのと同じように。
そこで篠倉は、夢世界を自由に移動したことがない僕にまずその方法を教える必要があると、那須美の夢に行く前に一旦僕の夢で落ち合おうと提案した。
そうだ、悪夢がいなくなったあとの僕の夢の様子については話す機会がなかったので避けてきたが、ここで説明しておこう。
有体に言うと、はっきりと決まったかたちがあるわけではない。夢の様子はその日あった出来事や印象に残っていることなどの影響を色濃く受けて、毎日毎日そのかたちを一変させている。例えば今日で言うと、放課後に座頭橋先生と話した例の特別教室と、学校から帰ってきたあとに読んだ推理小説(よくある、猛吹雪の山中に何人かの人間が閉じ込められる系のやつ)の影響を受けてか、学校とペンションが入り混じったような様相だ。
ちなみに服装は、普段自分がよく着ているものを身に纏っていることが多い。僕の普段の格好は、上が白を基調にしたTシャツに裏地に青いチェック柄の入った黒の上着、下はジーンズを履いていることが多いので、今日もだいたい同じようないでたちだ。篠倉なんかは、戦いやすいようにといつもジャージを着ている(その辺りはある程度融通が利くようだ)。
そしてその、いろんなものが混じりあったぐちゃぐちゃの夢の中、少し開けたロビーのような場所で僕は篠倉から件の説明を受けていた。
「――さて、トミシ。さっそく聞かせてもらうが、君は自分の夢の中から外に出たことはあるか?」
ロビーのカウンターテーブルの上に座っている篠倉は、足をブラブラと遊ばせながら僕にそう問うてきた。
「ない。そもそも外に出る方法から分からない」
「そうか。まぁ、君が思っているより簡単なことだからそう身構える必要もない。楽に考えてくれ――それでまず、自分の夢から外に出る方法だが、これは実に単純だ。自分の夢の境界を越えればそれがそのまま外、すなわち、夢世界の『集合的無意識』の部分に行くことができる。『集合的無意識』がどういったものかは覚えているな?」
集合的無意識……。夢というものの根幹を成す存在で、人々の夢を繋げているものだったか?
……出し抜けにそんな抽象的なもの、というか場所に行くことができると言われても、全くイメージが湧いてこない。
「その辺りはまぁ、あれこれと説明するよりも実際に見た方が話が早いだろうな」
言いながら篠倉はカウンターテーブルから降りると、ぽんと僕の肩を叩いて、「こっちだ」
と僕を誘導した。
黙って篠倉の後を付いて行くと、案内された場所は意外なことに、現地点から目と鼻の先にある玄関口だった。
そう言えば、篠倉が初めて僕の夢に這入ったときもそうだし、普段から篠倉が僕の夢にやってくるときはいつも何かしらの扉みたいなものを通ってきた気がする。
これはたぶんだけど、夢の領域がどこまで広がっていてどこから外に繋がっているかを考えたときに、一番分かりやすいものが扉なのだろう。扉というものは得てして、区切られている場所を行きかうためのものだからな。
篠倉は扉を開けると、先んじて僕の夢から外に出る。慌てて僕も彼女の後に続き、初めて自分の夢以外の夢を見た――
扉の先は――極めて不思議な空間だった。
いや、できることなら僕も、何か絶妙なものに例えてこの空間をうまく言い表したいところなのだが、どうしたものか、まるで言葉が浮かんでこない。
ただ目に見えているもの、感じるものだけを説明するのなら、薄暗い宇宙空間のような開けた場所に、統一性を持たない様々なものが無秩序に浮遊していた。縦や横の感覚は曖昧で、ともすれば自分がどこにいるのか、自分はどっちを向いているのか分からなくなってしまう。
この常に頭を揺さぶられているような感覚、文字通り色眼鏡を通して見ているかのように定まらない視界、ふわっとした浮遊感は、この空間が現実世界のものではないということを再認識できる。
「トミシ、あそこに扉が浮いているのが見えるか?」
言われて篠倉が指を指す方向を見上げると、確かに扉のようなものが有象無象に紛れて星のように浮かんでいる。しかも周りをよく見渡してみると、篠倉が示したもの以外にも、扉が無数に宙に浮いていた。
「あの扉の先が私の夢だ。つまり、私はいつもあそこから君の夢の扉を探して、君の夢の中にお邪魔しているわけだ」
「……それじゃあなんだ? この無数の扉の中から、那須美の夢に繋がっている扉を見つけ出すのか? いくら何でもそれは手間がかかりすぎるだろう……。砂漠の中で一本の針を探すようなもんだ」
「いや、そうではない。砂漠で針を探すと言うよりはそうだな……、ネット検索に近いものがある」
「はぁ? ネット検索?」
「うむ。例えば、インターネットを使って何か調べ物をするとき、君ならばどうする?」
どうするってそりゃあ……、まず検索窓に調べ物のキーワードを入力して、検索に引っかかったものを順に調べていく。そこに細かな違いこそあれど、大多数の人間はこの方法を用いるはずだ。
「そうだな。検索する際にキーワードを指定して、その単語を含むデータを抽出する。これと同じことをすればいい。誰かの夢の中に行きたいのなら、まず頭の中でその誰かに関する情報を挙げていく、夢世界は夢を見ている人間の願いを反映するものだから、その情報に準じたものだけが君の前に現れる。これが超明晰による夢間移動の方法だ。どうだ? 話は理解できたか?」
「うーん……、分かったような分からないような……。とりあえずことの輪郭だけは捉えることができたけど……」
「まぁ、実際に夢間移動さえできてしまえば、細かい理屈などはどうでもいい。超明晰の力を持った者であればさして難しいことでもないだろうし、そう深く考えることはないからとりあえずやってみろ」
「……そうか? お前がそう言うなら……、やってみよう」
僕はそっと目を閉じて、ひとまず頭の中を空っぽにする。
そして篠倉に言われた通り、那須美がどういうやつだったかを一つ一つ思い出していった――
突貫工事のぶっつけ本番で成功するかどうか不安だったのだけれど、どうにかうまくいったらしい。目を開いてみれば、無数にあった扉はいつの間にか一つだけになっていて、僕と扉の間には淡い光を放つ小さな道ができていた。
「あの扉の先が……、那須美の……」
「その通り、あそこを越えればそこはもう那須美君の夢の中だ」
不意に篠倉に肩をぽんと叩かれて、光の道をただぼーっと眺めていた僕は我に返る。
篠倉の方を見てみると、すでに彼女は夢に向かって歩み出していた――と叙すれば、彼女が自身の偉大な夢を叶えるために粉骨砕身するサクセスストーリーがここから繰り広げられそうな勢いだが、決してそうではない。那須美が今見ている夢の中に這入るために、彼の夢の扉まで続く光の道をすでに歩み出していたということだ。
慌てて僕も、篠倉の後を追う。
「うむ、初めてにしてはなかなか上出来じゃないか。前回の検閲のときといい今回といい、君は何でもそつなくこなしてしまうのだな。教えている方としては、それはそれで張り合いが無くていまひとつ面白みに欠けるが」
歩きながら篠倉は、そんなとりとめのないことを言う。
「こんなことに面白みを求められても、僕としては挨拶に困るよ」
ただまぁ……、何というか、僕は篠倉の言うような何でもそつなくこなしてしまうようなタイプの人間ではないから、検閲にしたって夢間移動(篠倉はそう呼んでいたか?)にしたって、一発目に何の不手際もなくできてしまったことは僕自身不思議でならないし、また誤解を恐れずに言えば気持ち悪いまである。
うまく言い表すことができないが……、僕の要領の良さがそうさせるのではなくて、たんに元から知っていたかのような感覚だ。デジャブとは違うんだけど……、そのこと自体に慣れてしまっている――そんな感じ。
「さて、いろいろあったがついに那須美君の夢にたどりついたな」
僕の思考を遮って、篠倉が扉の前で立ち止まって言った。
「ここから先はもう、夢魔がいつ現れてもおかしくはない。気を引き締めていこう」
「……ああ、分かってるよ」
気合を入れ直して、意を決して、覚悟を決めて、僕はドアノブを引いた――
扉を開いたその先には――昇降口があり、廊下があり、教室があり、また、大勢の生徒たちがあった。
「……篠倉、これはいったい……」
「おそらく那須美君がかつて通っていた中学校だろう。考えてみれば、学生は日常のほとんどを学校で過ごしているからな、夢の舞台として選ばれやすいものなのかもしれない。君のときもそうだったし」
「僕が聞いているのはそういうことじゃない……。この……、この薄気味悪い人形の群れは何なんだって聞いているんだよっ……!」
血の気も――感情も――生気もない、自他も曖昧で個すら持たない、ただそこに存在しているだけの、人の形を模した、人の形をしているだけの――人形。
そんなただの人形があちらこちらに散見された。まるでそれが、本来そこにいるはずの生徒たちの代わりであるかのように。
「……まぁ、見たままだろうな。那須美君にとってここの生徒たちは、ただ制服を着ているだけの動くマネキンのような存在だったということだろう。もっとも、ここにある人形たちは動いてすらいないのだが」
言いながら篠倉は、自分の近くにあった人形をバンバンと乱暴に叩く。
いくらか叩いたところでやっと満足したのか、「うむ、やっぱりただの人形だな」と言い放った。
「……人形に象徴される生徒たち、か。何か意味ありげだな」
「そりゃあ、意味ならあるさ。夢は無意識から意識へのメッセージみたいなものだからな」
そういえば、いつか篠倉が、夢とは無意識が意識を補おうと見せるものだと言っていたな。
心の無意識、言ってみればもう一人の自分が、自分自身に語りかけているみたいなことだろうか? だとしたら、こんな暗号文みたいな回りくどい方法ではなくて、もっとはっきりとした意思表示をしてもらいたいものだ。
「とりあえず、だ。この夢のどこかに那須美君は必ずいるはずだ。今は彼を探し出すことこそが最優先事項、いろいろと考え込むのはあとにしよう」
「……そうだな。もたもたしていると、那須美が夢魔に襲われてしまいかねない」
僕らは昇降口をあとにして、まずこの校舎の一階の教室から順に虱潰しに探し回ることにした。
まず一階、職員室・会議室・被服室・視聴覚室・第一音楽室・その他予備教室・中庭と探し回ったが、しかしそこには人形の姿があるだけで、肝心の那須美を見つけることはできなかった。
続いて二階、二階には理科室と第二音楽室、加えて一年生と二年生の教室があった。
僕らはまず、一年一組の教室から順に中を調べていくことにした。
一年一組――
「ここも……、特に変わったところはないな」
入り口から教室をざっと見回してみるが、複数体の人形がある以外には何の変哲もない、至って普通の教室だ。
「……おっ、そうだ。いざというときの為に……、武器を確保しておいた方がいいな」
篠倉は唐突にそんなことを言うと、教室の中に入っていく。そして教室の隅にある掃除用具箱の中から箒を一本取り出すと、それを僕へとそらと渡した。
「……あー、いきなり箒なんか僕に渡してどういうつもりなのかと思ったよ。これに検閲を使えってことか」
「そういうことだ。検閲の力も万能じゃないからな、何も無いところから何かを生み出すことはできない。これから悪夢の中に這入るときは、まず一番に武器の確保を忘れずにすることだ」
「そうだな、覚えておくよ」
一年二組――
この教室にも、特に目立ったものはなかった。
一年三組――
教室の扉を開けると、そこは今までとは少し雰囲気が違っていた。
空気はどこかどんよりとしていて濁っているような気がするし、室内にある人形たちの色はどす黒く、その手には彫刻刀のようなものが握られている。明らかに今までの教室とは性質を異にしていた。
「……気になるな、少し調べてみるか」
そう言って僕が室内に一歩踏み出したその瞬間――部屋の中にあった数体の人形たちが一斉にこちらを向いた。
「っ……!」
僕が手に持っていた箒を刀に変えるのとほぼ同時に、人形たちは僕に跳びかかる。
人形たちの彫刻刀が僕の体に深々と突き刺さるすんでのところで、僕は宙に浮き、後ろへ大きく吹っ飛んだ。どうやら、篠倉が僕の襟を後ろから掴んで引っ張ったらしい。
「……篠倉。こいつらもしかして……」
「夢魔、だな。ひぃ――ふぅ――みぃ――ちょうど十体か。数は決して少なくはないが……、まぁ今の動きを見るにたいした相手ではないだろう。一気に片を付けるぞ」
「簡単に言ってくれるなぁ……。知ってるか? 剣道の試合ってのは必ず一対一でするもんなんだぞ?」
「それなら一対一を十回すればいいだけの話だ! いくぞ!」
そう叫ぶと篠倉は、入り口付近にいた人形を蹴散らしながら、廊下から教室の奥までの距離を助走も無く跳躍した。
先ほど夢魔たちは室内に入った僕を迎撃せんとして跳びかかってきたために、入り口の辺りに集まって団子状態になっている。それを篠倉は跳び越えていったので、ちょうど夢魔の群がりを僕と篠倉が挟み撃ちにするかたちとなった。
「――――――」
篠倉に蹴散らされた夢魔は、ゆっくりと、ぎくしゃくとした動きで体制を立て直すと、ゆらりと僕たちの方へ向き直る。
そして、こきこきと関節が体のパーツのどこかに引っかかるような音を立てながら、後ろから押し出されるようにして三体の夢魔が教室から出てくると、僕の目の前に立ちふさがった。
「……あー、ちょっと分が悪いかもだけど……まぁ仕方ないな」
僕は廊下の壁を背にして、刀を構えて臨戦態勢に移ると、それに反応するように、廊下に出てきた三体のうちの一体が逆手に持った彫刻刀で襲いかかってきた。
僕は落ち着いて――振りかぶった右腕を斬り落とすと、勢い殺さず夢魔の体を頭から真っ二つに両断する。
続いて二体目、今度は彫刻刀を胸の前に構えて突進してきた相手に対して、こちらも迎え突きで応じる。
僕が夢魔の水月に深々と突き刺さった刀を抜こうとする前に、三体目の夢魔が僕を斬り付けようとする予備動作を見せた。僕は姿勢を低くして、二体目の夢魔が突き刺さったままの刀をさながら傘のようにして身を守る。果たして、彫刻刀は僕ではなく沈黙した二体目の夢魔の体を切り裂き、僕はそのまま切っ先を相手の方に向けて、さながら串団子のように三体目の夢魔を穿った。
――いける。狭い地形が功を成してか、壁を背にして後ろをとられないようにすれば、何とかタイマンにもっていくことができる。
相手の獲物である彫刻刀とこちらの刀には大きなリーチの差があるし、一撃必殺で決めることができれば決して敵わない相手ではない。
このまま残り七体の夢魔も僕が片付けて……、や……、
「ん、どうしたトミシ? 私の顔に何か付いているか?」
ろう――と、意気込んで教室内を見てみれば、残りの夢魔はすでに篠倉の手によってジャンクと化していた。
どうやら篠倉にとってこの程度の戦いは、お人形さん遊びにもならないということらしかった。今の今まで調子づいていた自分が素直に恥ずかしい。
「……ともあれ、これで夢魔は全滅させたんだ。この教室に那須美を見つける何か手がかりがないか、ようやく探すことができる」
「あぁそれならもう済ませてしまったよ。この教室にもこれといって気になるものはなかった」
「僕にはお前が本当に恐ろしいよ……」
というか、そこまで早く夢魔を倒してしまっていたのなら、少しくらいは僕の援護してくれていてもよかったのでは?
「さて、ここにはもう用はない。さっさと別の教室を探しにいこう」
篠倉はそう言って、確認のためにもう一度辺りを軽く見回してから教室を出た。
「……そうだな、先を急ごう」
やれやれ……、この調子で行くとこ行くとこに夢魔が現れるんじゃ、先はまだ長そうだな――
「あっ……、え? ……荻村? なんでこんなところに……、あ、いや、夢なんだから誰が出てきてもおかしくはないのか……。いや、でも……、それにしたって……」
――そんな僕の予想とは反して、意外にも那須美は簡単に見つけ出すことができた。
一年生の教室を全て調べ終え、さぁ次は二年生の教室を調べるぞというときに、ここの人形と同じ制服を着た那須美と廊下で遭遇したのだ。
故に見つけ出したと言うよりは邂逅したと言うべきか、とにかく思いもかけないところで偶然ばったりと出くわした。
五
「――いくぞ、ワン――ツー――スリー――ほら、どうだ!」
「うおっ、すげぇ! このスポーツドリンク、そうやって出したのか!」
篠倉は軽く自己紹介を済ませたあと、僕のときとだいたい同じような具合で夢世界のことを那須美に説明した。
さながらマジックのような演出が気に入っていたのか、またぞろ篠倉はスポーツドリンクを使って検閲の力を紹介し、それが今ちょうど終わったところだった。
ただ僕のときは一つ違って、ずっと喋っていて喉が渇いたのか、もしくは連戦が続いた所為で疲れたのか、説明が終わると篠倉はそのスポーツドリンクを自分で飲み干してしまった。
「えーと……、盛り上がっているところ邪魔するようで悪いけど、那須美、結局お前は夢世界の何たるかを理解できたのか?」
一応那須美は、話を真面目に聞いているようには見えたが、ほぉーだとかはぁーだとか曖昧な相槌を打つだけでいまいち理解しきれているかどうか怪しかった。
「あー……、いや、実を言うとさっぱりだ。何となく今いるこの世界は夢だけど夢じゃないってことが分かったくらいで……」
「そのことが理解できているのなら十分だ。君にはただ、夢世界が確かに存在するものだということだけはしっかりと頭に入れておいてほしい」
まー篠倉の言う通りではあるな。細かい理屈をあれこれと考えたところで意味は無いし、かといって夢世界自体の存在を否定されてしまっては、二重の意味で話が進まない。
「うーん……、まぁ突拍子もない話ではあるけど……、今さら信じるなって方が難しいからなぁ……」
那須美は今起きていることを整理しきれていないのか、困ったように頭をボリボリと掻く。
ふと、僕のときのことを思い出して、気になることがあった。
「ところで那須美、お前夢魔を実際に見たことはあるのか?」
「いんや、ない。その所為なのか夢魔のくだりは特によく分からなかった」
……やっぱり、か。
いや、僕の場合はいきなり夢魔が出てきてからのスタートだったから、篠倉の話はすんなり受け入れられるものではなかったにせよ、イメージは掴みとりやすかったし自分自身を無理やり納得させることもできた。何せ、自分の目で確かに見たことなのだから。
しかし那須美の場合はそうではない。
いつもと同じように、いつもと同じような夢を見ている中、突然僕たちが現れてわけの分からない話を聞かされるのだ。これでことの骨子を捉えられるような順応力の高い人間などそうはいないだろう。
であれば、篠倉の説明を理解できなかったのは仕方のないことだし、このまま話を続けて母体の存在を伝えてもやっぱり理解できないだろう。
「……後学のためにも一度見ておいて方がいいかもな」
夢魔に対して何の抵抗も持たない那須美を夢魔と引き合わせるのだから当然それ相応のリスクが伴うのだけれど、しかしどうせ最後には夢魔の母体とは戦うことになるのだし、早いか遅いかだけの違いだ。
そう思ったのはどうやら篠倉も同じだったようで、僕の意見に同調する。
「それなら母体探しも兼ねて那須美君を連れまわるのがいいだろうな。早くに那須美君を見つけてしまったこともあってまだ学校の全てを確認しきれていないし」
「……まぁ妥当だな。そういうことだから那須美、とりあえず今から僕たちがまだ行っていない場所を虱潰しに回っていくから、何があってもいいように心の準備だけはしておけ」
……夢の舞台が中学校だということで那須美はうすうす気が付いているかもしれないが、これから那須美は悪夢を見る原因となったもの――つまりは過去の出来事、過去の自分と向き合わなければならない。
そうなったときのために、冷静に、自分を見失わないように、自分を認められることができるように、僕は暗に那須美に示したのだった。
「どわああああぁぁぁぁぁ?」
「那須美! 頭下げろ!」
自分の頭を両手でかばって伏せる那須美。
僕が振るった刀は那須美の頭の上を通過し、那須美をしつこく追い回していた夢魔を真一文字に斬り裂いた。
「大丈夫か那須美君? どこか怪我はないか?」
「ああ……、まぁなんとか……」
篠倉に支えられてやっとのことで立ち上がる那須美。どうやら精神的にも肉体的にもかなりまいっているらしい。
僕らも夢魔との戦闘で体力をかなり消耗してしまっていたので、この部屋の奥にある応接スペースのソファに座って少し落ち着くことにした。
――そうだ、説明を忘れていたが、僕らは今職員室にいる。
あのあと僕らは、二年生の教室と三年生の教室をそれぞれ回り、最後にもう一度那須美を連れて一階の教室を見て回ることにした。そしてその最後に訪れた職員室に夢魔が現れ、いまだ超明晰の力を得ていない那須美を守りながら戦うことになり、今に至るというわけだ。
「……あれがお前らの言ってた夢魔? だったっけか? 世の中にはあんな得体の知れない化け物がいるんだな……。お前らの言ってたこと……、少しだけ分かったような気がする……。あんなもん……まるっきり悪夢じゃねぇか、見たまんまだよ……」
半ば涙目で怯える那須美。その姿は見ていてとても情けないものだった。
……ひょっとして僕も、夢魔に襲われたときはこんな顔をしていたのだろうか?
そう思って篠倉の方を見ると、何かを察したのか篠倉は苦笑いしつつ顔を逸らしてしまった。
「……まぁ、とにかくだ。これでこの学校の校舎内はあらかた見て回ったし、那須美も夢魔がどういうものかを確認することができた。……あとは母体だけだな」
「母体って……、さっき篠倉さんが言ってたやつか? ……俺の中に初めて根付いた悪夢で……、そっからさっきの奴らが生まれるんだっけ?」
「そうだ。そしてその母体をこのままのさばらせておけば、君はこの先ずっと悪夢にうなされることになる。そうならないためには、何をすればいいか分かるな?」
篠倉が半ば脅すようにそう問うと、実際に自分の目で夢魔を見たことによりことの重大さが伝わったのか、つい先ほどまで口を開いて間抜けな顔をしながら僕たちの話を聞いていた那須美は居住まいを正し、神妙な顔をして答えた。
「……母体を見つけ出して……倒すってことだよな?」
「そういうことだ。やっと分かってきたじゃないか」
僕が言うと、篠倉がそれに続けた。
「そしてそのために那須美君、君にはさしあたってやってもらうことが一つある」
「……やってもらうこと?」
篠倉が意味深に言うので、那須美は訝しげな顔をする。
「ま、そう警戒することでもないさ。ちょっと昔話をしてもらうだけだよ――」
「俺の悪夢のルーツか――ま、二人はもう分かってると思うけど、俺、中学んときにちょっといろいろあってさ、たぶんそれが今こうして俺が悪夢を見ている原因なんだろうな…――」
「中学二年の春? いや夏だったかな? それがいつから始まったことなのかは、正直あんまり覚えてないんだけど、うちのクラスで所謂いじめってやつが流行っててさ、ちょうどそのとき結構仲良かった友達が標的にされちゃったんだよ――」
「中学生ってのはなまじっか知恵が付いてくる頃だからいじめも余計にタチが悪くてさ、そりゃもう陰湿で……、見ていて悲惨だった――」
「……そうさ――俺は見ていたんだ。俺の友達がいじめられているのを傍で見ているだけで……、見て見ぬフリをしていた――」
「面倒ごとに関わりたくなかったし……、自分が同じような目にあうのが怖かった――」
「その友達の体に日に日に増えてく生傷を見て心配するどころか、俺は……次は俺自身がこうなってしまうんじゃないかって自分のことばかり考えていた――」
「不安で不安で仕方がなくて……、できるだけ関わらないようにしているうちにその友達は学校に来なくなった――」
「俺は……、安心した――もうあいつがいじめられている姿を見なくてもいいんだって……、これでもういじめはなくなるって……、そう思ってたけど、そんなことは全然なかった。結局いじめは標的が変わっただけでそのあとも続いた――」
「ほら、いじめの問題ってさ、道徳の授業とかで取り上げられて、いじめられている方にも原因があるとか、見て見ぬフリをしている周りの人間も悪いとか、いやいやいじめている側が百パーセント悪いだろとかの不毛な議論によくなるだろ? でも……、それはきっと見当違いなんだよ――」
「誰が悪いとか悪くないとか……、あえて一つのものに責任を押し付けるとするのなら……それは〝空気〟だと俺は思うんだ――」
「……怖いよなぁ空気って――」
「たぶん最初はその場のノリとか流れでちょっかい出してただけなんだ。でもそれが段々と、なし崩し的にエスカレートしていじめになっていった――」
「いじめに加担している奴らは、自分たちがいったい何をしているのかすら分かっていなかっただろうよ。ただそこにいじめの空気があるから、いじめている奴らはいじめを続けるし、周りで見ている奴らも何も言わない。それがあいつらの……、いや、俺らの暗黙の了解になってしまっていたんだ――」
「――最後に見回りに来たのが職員室ってのはちょうどいいっていうか、まぁよくできた偶然だよな……」
那須美は何か考えるように間を開けてから言うと、辺りをゆっくりと見回す。しばらくすると、彼の視線は職員室のある一点で停止した。
「二人目の標的が決まってしばらくしてから……、俺はやっと決心したんだ。何とか自分なりにできることをしていじめをやめさせようって。今自分ができることは何かって空っぽの頭捻って考えて……、出したアイデアはいじめの記録を帳簿みたいにノートにまとめることだった。笑っちゃうよな、本当にいじめをやめさせたいならそんな回りくどいことしなくても、いじめている奴らに直接モノ申してやればよかったのにさ。……まぁでも、そういう記録をするっていうことが大事だって俺は小耳にしてたんだよ。で、ある程度記録が溜まった頃に当時の担任のところに持ってったんだ。担任にノートを渡したとき俺はやっと安心できた。これで腰の重い先生たちもやっと動いてくれて……いじめはなくなる――そう思ったんだ」
那須美は話ながら立ち上がると、職員室の中心近くにある机のそばまで歩いていった。
そこで徐に机の引き出しを開ける。
「――でも、そうじゃなかった。担任はノートを机の引き出しに閉まって俺を追い返したきり、いじめの話題に触れることはいっさいなかった。俺の前でも……ホームルームでも、たぶん職員会議でも、いじめについて話し合われることは全くなかったんだ」
徐々に――目の前の風景が揺らぎ始める。
空間はぐにゃりと曲がり、学校を形作っていたものが、那須美の担任教諭の机を中心にして台風のように回転し始めた。
「……そうか、一度も開かれなかったんだな。引き出しも、ノートも……」
那須美の手の中には、黒鉛で薄汚れたくしゃくしゃのノートが握られていた。
六
腕がたくさん首がいっぱい、身長が五~六メートルの生き物なーんだ?
正解は、そんなのいるかでイルカでもなければ、ギリシャ神話に登場するヘカトンケイルでもない。今、僕らの目の前に校舎の残骸に混じって立ちつくしている母体だ。
那須美の夢を蝕む悪夢を収束させたその姿は、和人形や西洋人形、マリオネットやパペットなど、それぞれ違う種類の人形たちが無理やりに、ちぐはぐに繕われ、取り繕われている。
ただ、見えない糸のようなもので何かに操られているようにも見えるので、種別としてはどうやら操り人形が正解らしい。
「……お、おい。あれってもしかして……」
那須美が指さした方を見ると、わらわらとまぜこぜになった首や腕の中に那須美にとてもよく似た顔を見つけた。
「……ま、お前の心の闇を体現したものが夢魔だからな、お前に似た姿をしていても不思議じゃない。僕のときもそうだったしな」
僕が言うと、すでに戦闘態勢に入って母体をねめつけている篠倉が、母体から目を外さずにしたまま僕らをたしなめる。
「余計な考察や感想はすまんが後にしてくれ。今回の母体もどうやら手強そうだからな、少しでも気を逸らせば明日の朝日は拝めないと思ったほうがいい」
「……だな。那須美、こいつは僕らが何とかするから、お前はとりあえず僕らの後ろに隠れてやりすごしてろ」
「……だ、大丈夫なのか? あんなのお前らだけで相手するなんて……」
「いいから、どうせお前にはまだ何もできないんだからそこで大人しくしてろ」
何もできない自分が歯がゆいのか、苦渋の表情で引き下がる那須美。僕はそれを見て、ベルトに帯刀していた刀を引き抜いた。
「いくぞトミシ! 気合い入れろ!」
「言われなくとも」
風のように颯爽と地面を駆け抜け一気に母体との間合いを詰める篠倉、かなりの遅れをとりながらも、僕もそのあとに続いた。
母体は無数の腕を大きく振り上げて、先頭を走る篠倉に向かってその拳を振り下ろす。
それを篠倉は難なく躱すと、大きく跳ねて母体の腹を殴り付けた。
篠倉の一撃をもろに受けた母体だが、後ろに一歩二歩とよろめくだけで、ノックダウンとまではいかなかったようだ。
「もう一つおまけだ!」
そう叫ぶと共に、宙に浮いたままの姿勢で蹴りを放つ篠倉。この二撃目にはさすが母体も耐えかねたのか、片膝をついた。
この母体は今まで戦ってきたどの夢魔よりもでかいが、そのぶん死角も大きく、こちらへの攻撃のモーションも大振りになって躱しやすい。篠倉のスピードと小回りを活かして相手を翻弄しつつ、僕が必殺の一撃を急所に叩き込めば決して勝てない相手ではない。
僕は全力で走って母体の懐に入り込むと、刀を大きく振り上げ母体の体を半分に両断した――つもりだった。
気が付いたときには僕の体は地面と激突していて、右半身に強烈な痛みを感じた。
「……くそっ、いったい何がどうなって……」
痛みの走る体を無理やり起こしながら再び母体に意識を戻した僕だったが、目の前に飛んでくる物体に反応することができず、「ぐえっ……!」と変な声が漏れ出てしまった。
「あいたたたた……、ん? おおトミシ、この咄嗟に私を受けとめてくれたのか! さすがだな!」
「いいからどけ! 前見ろ!」
ズンズンと大きな地響きをたてながら僕らの目の前に迫る母体、そして僕らを捉えようとその数本の腕を伸ばしてきた。
なんとか間一髪でそれを避け、僕らは母体との間合いを十分にとって体制を整える。
「……考えてみりゃあ、体がでかけりゃ死角も大きいなんてのは普通の人間にのみ通じる道理だ。……僕らが相手しているのは人間じゃなけりゃ普通でもない」
「えっーと……、全部で首が七本に腕がちょうど十本か。首が多ければそれだけ視野角は増えるし、腕が多ければ文字通り手数が増える。これでは死角も何もあったものではないな」
どうしたもんかなぁ……。篠倉に比べれば、今の僕の身体能力は並みの人間に毛が生えた程度だ。これでは迂闊に母体に近づくことはできない。かといって、篠倉の攻撃は基本的に打撃攻撃しかないから制圧能力はあっても殺傷能力に欠ける。しかもこの場合、相手の体が巨大でタフだからその制圧能力もあまり意味をなさない。
「正直あまりいい手は浮かんでこないけど……、ここはまぁセオリー通りにどちらかが囮になって奴の気を引きつけるべきだろうな」
「となると、囮役は私になるわけだな。……しかしどうだろう? 母体の身長はおおよそ五メートル強、君の身体能力では急所に一撃を加えることは難しいのではないか?」
……しまった、確かにそれを計算に入れ忘れていた。篠倉の言う通りだ。
先ほどは母体がくずおれていたので攻撃のチャンスも巡ってきたが、相手が直立していては僕の斬撃はいくら背伸びしたところで届きようがない。
かといって配役を入れかえれば、先ほど挙げた理由からそれぞれがそれぞれの役割を果たすことができない。……正直、打つ手なしだ。
「くそっ……、こんなときに限って僕の能力はいっさい反応なしなんだよな……」
「ふむ、奇しくも私の忠告通りになってしまったというわけだ」
そういえば、僕が初めて夢魔と戦ったあとにそんなことを言ってたな。
自分がどういう力を持っていて何ができるのか理解しておかないと、次に夢魔と戦うとき苦労するとかなんとか。
一応釈明させてもらうと、篠倉の忠告通り自分の能力がいったいどういうものなのかをはっきりさせなかったのは、決して油断や怠慢ではない。僕の能力は、どうやら篠倉のように目に見えるような変化があるわけではないらしいので、ただ単純に考えても考えてもそれがどういうものか結論づけることができなかったのだ。
つまり何が言いたいかといえば、今この場で僕の能力が覚醒して大逆転するような話の展開には決してなり得ないということだ。
何か弥縫策はないものかと考えを巡らせていると、視界の端に走ってくるものが見えた。
「おーい! 二人とも大丈夫かー?」
……那須美? なんであいつがここに……、危ないから僕らの後ろに隠れていろといっただろうが!
「おい那須美! ここは危ないから下がっておけと――」
「今、結構やばいんだろお前ら。俺にできることがあったら力になるぜ!」
僕の言葉を途中で遮って、那須美はサムアップをして言う。
「ばーか、今のお前にできることなんて一つもねぇよ。だいたい、誰がお前なんかに力を貸して欲しいと頼んだんだ」
……あれ? 確かにそうだ。
僕たちは誰にも助けを求めていないというのに、なぜこいつは僕たちが厳しい状況に置かれていると分かったんだ?
僕と篠倉はあくまで先を見据えて今のままでは厳しいと判断しただけで、傍で見ているぶんにはそこまで差し迫った状況には見えなかったはずだし、那須美がいた場所から僕たちの会話は聞こえなかったはずだ。
「まぁ、そりゃあそうかもしれないけど……、何て言うか、お前が焦ってんのがこっちまで伝わってきたんだよ」
「……なんだそれ? そんなに僕、感情が顔にでるタイプだったのか?」
「いやそうじゃないんだけど、なんだか俺まで焦ってるような気分にさせられたっていうか……、まぁそんなことはどうでもいいだろ。今はあの不気味な化け物を倒すのが先だ。……囮役だっけ? それ、俺にやらせろよ」
……こいつ、囮云々の話まで聞いていたのか。
前述の通り、那須美は僕たちから離れた場所にいたに隠れていたので、僕たちの会話は那須美には聞こえていなかったはずだから、当然囮作戦のこともその限りだと思うんだけど……。
……まぁしかし、那須美がどういった方法で僕たちの考えていることを知り得たのかは分からないが、なんにせよ彼の提案に対する僕の答えは一つだ。
「……無理に決まってんだろ。僕らのように超明晰の力を扱えないお前を、むざむざ母体の前に晒すわけにはいかない」
そう言ってすぐにその場を立ち去ろうとする僕の肩を、那須美は後ろから強く掴んだ。
「……なんだよ?」
僕が那須美に向き直って問うと、彼は言った。
「俺は……、もう見ているだけで何もしないやつにはたりたくねぇんだよ」
「しないのとできないのとでは大きな違いがあるだろ」
「だったらなおさらだ。今俺にできることなんて、あの化け物の気を引き付けるぐらいだからな」
那須美は僕の目をまっすぐに見据えて、こうも続けた。
「……あのときの俺は、ただ傍観しているだけで……友達を助けてやることができなかった。それは昔の俺に、自分の身を呈してまで友達を助ける強さも勇気もなかったからだ。俺はいくら頭空っぽでも、同じことを二度も繰り返すほどバカじゃない。……今ここで俺が囮になることがお前らの助けになるっていうんなら、俺は喜んでこの身を投げ出してやるぜ! 今の俺には――勇気も、強さも、ある?」
「あっ、おい待て那須美!」
何を思ったのかいきなり走り出した那須美。
僕は那須美を止めようと手を伸ばしたのだが、僕の右手が那須美の腕を掴む寸前で一瞬だけ躊躇ってしまった。
「どうしたトミシ、なぜ止めなかった? 君はああいった根性論や精神論が嫌いなタチの人間だと思っていたのだが」
「……それはまぁ、僕自身かなり不思議ではあるんだけど……、まぁ那須美風に言うなら、あいつの気持ちがこっちまで伝わってきたんだよ」
それを聞いて篠倉は目を丸くする。
そして、何がおかしいのかくすっと笑った。
「それはなんとも……、君らしくないことだな」
お前の僕に対するイメージ悪すぎだろ……、僕だって心を動かされるぐらいのことは普通にある、はずだ。たぶん。
「……ほっとけ。そんなことより、母体だ母体。丸腰のやつにあそこまでさせてんだから、さっさと倒して終わらせんぞ」
「だな。では、那須美君が母体の気を逸らしている間に私は奴の後ろをとって隙を作るから、君が母体にとどめを刺してくれ」
「了解」
僕の返事を聞く前に篠倉はすでに走りだし、母体の目に付かないよう大きく迂回して母体の背後に回っていた。
一足先に動き出していた那須美はそれを脇目で確認すると、母体の目の前、瓦礫が積もって山になっている場所に躍り出る。そして自身に注目させるためにか、なんと母体相手に啖呵を切り始めた。
「おいこらそこの木偶人形! よくもまぁ、俺の夢を好き放題にいじくりまわしやがって! てめぇなんか俺が軽くひねって叩いてじゃんけんぽんしてそれから雑巾にしてやる!」
これに業を煮やしたのかは定かではないが、母体は那須美の思惑通り彼にその視線を集中させる。
そして片腕を、つまりは母体の右腕である五本の腕を束ねるようにして後ろに引くと、大きく体を捻って全ての拳を那須美に向けて放った。
「どわああああぁぁぁぁぁ?」
お前の悲鳴はバリエーションがそれしかねぇのかよと言いたくなるような悲鳴を上げながら、大きく後ろに跳んでなんとか母体の攻撃を回避する那須美。
ただ、後先考えずの行動だったので着地は上手くいかず、頭からもろに地面を喰らいごろごろとかなりの距離を転がっていった。
「いってぇ……、危なくぺしゃんこにされるところだったぜ」
いや、お前さ……。お前が立ってた瓦礫の山、結構な高さあったぞ? 地面も細かい破片みたいなもんが結構散らばってたしさ……。そんなところからそんなところに落下して痛いの一言で済むとか、頑丈ってレベル超えてんぞ。
母体はもう一度那須美を狙うように拳を振り上げる。那須美はそれを見て大慌てで立ち上がると、全速力で駆けだした。
地面に拳を叩きつけながら那須美を追い回す母体、その振動に耐えながら、那須美は母体の姿を確認するためにか後ろをしきりに振り向き逃げまどう。
「篠倉さーん? はやく? はやくこいつをどうにかしてくれ?」
さっきまでの威勢はどこへやら、那須美はすがるように叫んだ。
「まかせろ!」
母体のすぐ後ろまで迫っていた篠倉はそう答えると、勢いそのまま跳び上がり、母体が前に進むため右足を一歩前に踏み出そうとした瞬間――その膝関節に水平蹴りを放った。
その凄まじい威力によって母体はまるで膝カックンをくらったかのようにバランスを崩して後ろに大きくのけぞる。篠倉はさらにそこで追い打ちをかけようと、間髪入れずに母体の左足首を両腕で締め上げるようにして抱え、母体が倒れようとしている方向とは逆の方向に左足を大きく引っ張った。
結果、右足が浮いてしまったおかげで全体重を左足に乗せていた母体は、背中から一気に地面へと倒れ込む。
「今だトミシ? とびっきりのやつをくらわしてやれ?」
「分かってるよ!」
僕はすばやく母体の上半身に登り上がると、刀を逆手に持ち、母体の心臓を狙って深々と突き刺した――が、
「……おかしい――妙に手ごたえがない……」
僕が突き下ろした刃は、驚くほど簡単に母体の胸部を通過していった。
まるで体の中に何も詰まっていないような感覚……、綿が詰まった人形を貫いたような感触だった。
――人形。そうだ、こいつ人形だ。心臓も何も……、こいつの体の中には血も肉も全くない。
急いでその場から離れようと刀を突き刺さった刀を抜いた瞬間――僕の体は真横に飛んだ。跳んだのではなく飛んだということが重要だ。僕の体はまさに飛翔し、地面に墜落して、僕は本日二度目となる砂や石の味を体験した。
参ったな……。母体が普通の相手じゃないってことは、文字通り痛感したはずじゃあないか。だというのに……、性懲りも無くまたこうやって地面に突っ伏して情けない……。
首だけを動かして霞む目で前を見ると、目の前には母体が立っていた。少し僕から離れた場所には篠倉が横たわっている。きっとあいつも僕同様、そうとうな深手を負っているに違いない。
「これは……、万事休すってやつだろうな……」
母体は先ほど那須美を狙ったときと同じように五本の腕を束ねて高く上げる。
どうすることもできず、僕はただそっと瞑目した――
……? 変だ。もうとっくに潰されていてもいいころなのに、僕はまだ生きながらえている。
ひょっとしてここはもう死後の世界なのか? それとも、夢から覚めて現実の世界にもどってきたとか……、あるいは――
「あきるめるのまだちょっと早いんじゃないか」
答えはそのどちらでもなかった。
目を開ければ、那須美が、僕の前に仁王立ちして、母体の拳を全身で受け止めていた。
「那須美? お前どうして……?」
「いやさ、なんか俺、超明晰の力が使えるようになったっぽい」
「っぽい、ってお前……」
那須美の言がぞんざいなのでにわかには信じられないが、確かにこいつは母体の攻撃に微動だにしていなかった。まるで地面に縫い付けられているかのように、その場に直立不動でピクリともしていない。
「これ、借りてくぞ」
那須美は僕の傍らに落ちていた刀を拾い上げると、母体に向かって突撃する。
そのまま母体と一人でやりあうつもりなのかと思ったのだが、そんな僕の予想と反して、那須美は母体の股の間をくぐり抜けて走り去る。それに釣られた母体は那須美の方へと振り返り、そのあとを追っていった。どうやら、一旦母体の気を僕から逸らさせたらしい。
「大丈夫かトミシ? まだ動けそうにないか?」
母体が僕から十分に離れたところを見計らって、傍に篠倉が駆け寄ってきた。
「……篠倉? お前の方こそ動いて大丈夫なのか……?」
「私は少し気を失っていただけだ。君ほどダメージは大きくない」
「……そうか。僕もだいぶとマシになってきた……」
言いながら立ち上がろうとすると、篠倉が肩を貸してくれる。まさか、女子に体を支えられる日がくるとは思ってもみなかった。
「なぁ篠倉、那須美のアレって……、やっぱりビジョンだよな?」
「そうだろうな。普通の人間が母体の一撃をもろに喰らって何ともないはずがない。彼のビジョンはおそらく……、他人を庇える強さを持った自分。君がやられそうになっているところを見てそれが目覚めたんだろう。いや、この場合思い描けた。もしくは、浮かんできたと言ったほうが正しいかな」
「他人を庇える強さ、か。それを下手な攻撃は効かない鋼の肉体と解釈するなんて……、夢ってやつは随分と強引だな。とんちじゃねぇだからさ……」
まぁそれについてはたぶん、那須美が思い描いた理想の自分ってのがただ単に誰かを守れる強さを持った自分というだけではなくて、何事にも動じない自分っていうのが少なからずあったんだろう。那須美はきっと、暴力や圧力に屈しない自分になりたかったんだ。
「那須美! 刀ってのは案外扱い方が難しいんだ! 検閲を使ってそいつを扱いやすい武器に変えろ!」
僕がそう叫ぶと、那須美は刀を二度三度振ってから呟くように言った。
「……あー、たしかにそうかもな。俺、剣道なんか体育でしかやったことねぇし。俺でも使いこなせる武器かー……、何があっかな?」
そう考えている間にも、母体はドシンドシンと地面を揺らしながら那須美に接近する。
とうとう目の前までやってきた母体は、今度こそ那須美を仕留めようとその拳を放つ――だが、那須美はそれを片手だけで難なく受け止めた。そして――握った刀を先端に錘と突起のついた金棒のようなものに変化させると、母体の腕を強く殴りつける。
力いっぱいに薙ぎ払われた金棒は母体の腕をひしゃげさせ、まず十本のうちの一本を完全に壊れて使い物にならないようにしてしまった。
「へへっ、俺に金棒ってね。ただの棒なら力入れて殴るだけだし簡単だろ」
単発では攻撃が通じないとみたのか母体は次々と拳を繰り出すが、その連撃を那須美は全て跳ね除け、一本また一本と腕を破壊した。
「無駄だ無駄! なんかよく分かんねぇけど今の俺はとんでもなく頑丈だからな、お前みてぇな木偶人形の攻撃なんて効かねぇぜ!」
那須美はホームラン予告さながらに金棒を母体に向けて余裕を見せる。その鎌首をもたげる不遜な態度は、僕を不安にさせた。
「いいから那須美! さっさとケリをつけろ! さっき篠倉がやったみたいに足を狙ってダウンさせるんだよ!」
「足だな? よっしゃ俺がいますぐこいつを――って、おわっ! 何すんだこいつ!」
母体が那須美の口上を黙って聞いているはずもなく、残った四本の腕を素早く伸ばし那須美の四肢を掴みあげて宙吊りにした。今の那須美はアルファベットで言うならX、四本の腕で掴まれた手足は大きく開かれている。
「あー……、すまん。掴まれて捕まっちまった」
「くそっ……、今助けに行くから待ってろ」
いまだ体中を蝕む痛みに耐えながら僕は無理やり体を動かそうとする。
だが母体はそれよりも先に、那須美の手足をさらに強く握りしめると、それぞれの手足が向いている方向に引っ張り始めた。
「まずい! 母体は、那須美君を力づくで引きちぎるつもりだ!」
僕を支えながら言う篠倉。それを聞いて那須美はあたふたと慌てる。
「……えっ、マジで? ちょっと待って! それはヤバいっておい!」
いくら那須美の防御力がビジョンで強化されているとはいっても、あんなふうに四方から引く力を加えられてはたまらない。那須美の体はメリメリと嫌な音を立て、筋繊維が少しづつちぎれ始めた。
「うわあああぁぁぁぁ? ヤバいヤバいマジ痛いこれは痛いイタイイタイイタイー?」
痛みに悶え、大声で叫ぶ那須美。
だがあいつのリアクションはいつだって大袈裟だし、ビジョンの力もあって少なくとも一瞬で引きちぎられるということはないはずだ。つまりまだ少しの余裕がある、と思う。
「どうするトミシ? このままでは那須美君が……?」
「分かってるって! 今どうするか考えてんだよ!」
僕の体力はほとんど残っていないし、篠倉にしたって、ああは言っていたけどもう限界が近いはずだ。母体に向かってバカ正直に突っ込んでも勝ち目は薄い。それならば、あいつの弱点を見つけて一気に戦いを終わらせてしまう他ないだろう。
弱点……、あの人形の弱点だ。それを探さないといけない。いくつもの人形がキメラのように合成されたあの人形の弱点……、人形? 那須美は母体のことを木偶人形と呼んでいた。木偶人形――すなわち木彫り細工の人形、つまりは木でできている。ぬいぐるみは布を縫って作られるし、編みぐるみは糸を編んで作られるものだ。
木も、布も、糸も、中の綿も、全部――火に弱い。
「おい篠倉、お前手品に使ったペットボトルまだ持ってるか?」
出し抜けにそんなことを聞かれてうろたえながらも、篠倉は答えた。
「……? それならまぁポケットの中に入れてあるが……、夢の中とはいえポイ捨てはよくないから」
お前それずっと持って戦ってたのかよ……。まぁ、結果的はそれが功を成したんだけどさ。
「……まぁいいや。とりあえずそれ、貸してくれ」
「構わないが……、しかし今はそんなことをやっている場合では――」
「篠倉、お前コントロールはいいほうか?」
篠倉の言葉を遮って、僕は問う。
「まぁ、多少は……」
「肩は……、まぁ聞くまでもないか」
僕はペットボトルの蓋を外して、ボトルの部分を布で栓がされた瓶に変えた。ただし、中身はスポーツドリンクではなく――ガソリンだ。
「これ持っててくれ」
「あ、ああ……」
篠倉に瓶を渡してから、今度はキャップをライターに変えた。
「なるほど……、そういうことか。やっと合点がいったぞ。私はこれを母体に投げつければいいんだな?」
「そういうことだ。火ぃ点けたらすぐ投げるんだぞ? いいな?」
そう――ここまでくればもう分かってもらえると思うが、これは簡単な火炎瓶だ。あの巨大な母体を遠距離から燃やす方法としては、これほど優秀な手段は他にないだろう。
僕は篠倉の持った火炎瓶に点火する。
すると、篠倉はすぐさま助走で勢いをつけ、火炎瓶を母体に向かって思いっきりに投擲した。
七
篠倉の投げた火炎瓶は見事に母体の腹部に命中し、母体の体は見る間に焔に包まれた。
「――――――?」
金切り声をあげながら暴れ回る母体。焔はそんな母体を容赦なく赤色に染め上げる。
もはや那須美なんぞに構っていられない母体は、暴れた拍子に那須美を放り投げてしまった。
「どわああああぁぁぁぁぁ? また飛んでる! また飛んでるよ俺!」
僕も篠倉も落下してくる那須美を受け止められるほどの体力は残っておらず、那須美は地面に激突する。もはやこの光景もみなれたものだ。
それでも手ぐらいは貸してやろうと、地面に突き刺さった那須美を引っこ抜いて起こしてやった。
「一応、聞いてやるけど大丈夫か?」
「まぁな……。俺ってほら、頑丈だし」
「……そりゃよかった」
母体はすでに全身が灰となって崩れ落ちていた。それでもなお焔は消えることなく、轟々と燃え続ける。
「……これでよかったのかな?」
「あん? 何がだよ?」
那須美がよく分からないことをぽろっと溢したので僕が問うと、彼は答えた。
「いやさ、篠倉さんが言ってたけど、夢ってのは夢を見ているやつの不満を解消させるために無意識が見せるもんなんだろ? 悪夢も夢のうちなんだから、それがかたちになった夢魔は言ってみればもう一人の自分ってことじゃないか? 俺の顔してたし。だったら、力ずくで解決するよりもっといい手段があったんじゃないかなと思ってさ……」
「君の言うことも一理あるが……、夢魔と意思疎通を図るというのは難しいだろうな。やはり悪夢は悪夢だよ、私たちにとってそれは有害なものでしかない」
まぁ、その点については僕も篠倉と同じ意見だ。
悪夢は、過去のトラウマを乗り越えるために夢が僕たちに与える試練みたいなものだと考えれば、結果的にはその理屈も通らなくはないが……、だからといって悪夢もそう悪いものではないなと思うことはできない。
「それ以前に、だ。その辺の深い事情を理解するにはまだ、私たちは何も知らなさすぎる。君たちが夢世界について知ったのは最近のことだし、私だってそうだ。私が今まで夢世界について語ってきたことは、あくまで様々な書物を読んで自分なりに考えた私見。それでは到底、この世界の全ての摂理を説明付けることなどできはしない」
僕たちは何も知らない、か。確かに、今の僕たちには分からないことが多すぎる。
今、篠倉は自分も夢世界について知ったのは最近だと言った。ってことは、篠倉の夢の中にも夢魔が現れたってことだ。夢魔なんてそうそうお目に掛かれるものじゃないはずなのに、篠倉、僕、那須美と、こうも立て続けに、しかも局部的に現れている。
それだけじゃあない、那須美の悪夢の根源となったものは、那須美が中学生の頃の出来事だ。それがなぜ今になって悪夢になるんだ……?
……ひょっとして、僕らの悪夢は誰かの手によって悪意的にもたらされたもので――というのはやはり考えすぎの邪推で、中二的な陰謀論にすぎないのだろうけど。
「ともあれ、これで一件落着だ。難しいことは後にして、今は事態解決の余韻に浸ろうではないか」
篠倉は笑ってそう言うが、僕としては今すぐにでも目覚めてしまいたい気分だ。僕の悪夢のときも相当疲れたものだが、肉体的な辛さをいえば今回はそれ以上だった。
「まぁ、できることなら俺は今すぐ帰りてぇな……。今日はちょっといろんなことがありすぎて疲れたよ」
那須美は大きなため息を吐きながら地面にへたり込む。その姿を見て篠倉は気を遣ったのか、若干トーンを落として言った。
「……ふむ。では、今日は例の儀式を済ませてお開きとすることにしようか」
例の儀式って言うと……、携帯番号のアレか。こいつスポーツドリンクの手品に加えてあのくだりまで恒例化するつもりかよ。まぁ確かに分かりやすい手段ではあったけどさ……、どうにも使い回し感があるよな。
……篠倉が那須美にモーニングコールか。
……。
「おい那須美。お前の携帯番号教えろ」
「携帯番号? 別に構わねぇけど……」
那須美は怪訝そうな顔をしながらも、僕に携帯番号を教える。
意外に自分の携帯の番号を覚えていない人は多いので、那須美もその限りではないかとも思っていたのだが、どうやらその心配は杞憂だったようだ。たぶん、バイトかなんかの履歴書で自分の携帯番号を書く機会が多いのだろう。
「ってか、俺さ。お前にケー番教えてなかったっけ?」
「……そうだったか? 全く覚えてないけど」
だとしたら、このモーニングコールの手法は使えないということになるが。
「ほら、一年の四月の最初の昼休みにさ、俺、みんなにケー番聞いて回ったことあったじゃん? あんときだよ」
言われて思いだす。確かに、城野高校に入学して間もない頃、ヘラヘラした茶髪が電話番号を聞き回っていたことがあった。
あのときは、なんだこのチャラい男は野郎のケー番なんざいらねぇよボケと倦厭していたものだが、今から思えばあれも中学のときの失敗からきたものなのだろう。クラスの輪から外れる人間を作りたくなかった那須美の……、いらぬおせっかいといったところか。
以前、僕は座頭橋先生のことをおせっかい焼きと評したが、こいつもまたおせっかい焼きといえば真っ先に思いついてもいいほどの男だ。
以前のようにクラスに不和をもたらさないために、那須美はクラスメイトたちを紡いでいた……というのは少し大袈裟かもしれないし、本人に自覚はなかったのかもしれないが、那須美は過去の出来事を乗り越えて積極的に変わろうとしていた。それは僕にはできなかったことだ。
案外、那須美にとって今回の件は蒸し返しでしかなく、全てはもう済んでしまったことで解決も何もなかったのかもしれない。だとしたら、僕の場合はビターエンドだった物語の結末も、那須美の場合はハッピーエンドになるのだろう。
……ただその物語は過去の焼き回しのリメイク作品で、これ以上ないってくらいの茶番劇だけど。
「……加えて言うなら人形劇、か」
その幕はすでに下ろされて、目覚まし時計が新しい朝の開演を告げる。
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