夢負い人は無我夢中
@syatan
第一夜 韋駄天は虚ろの部屋に
いったいいつからだろう?
私が現実と向き合わなくなったのは。
夜が訪れることが待ち遠しくなったのは。
夜が訪れ床に就き、夢を見て、魅せられる。今ではそれだけが私の心の支えだ。
夢の世界は心地いい。だって私は夢の世界の神様だから。
なんでも私の思い通りになって、みんなが私の言うことをきく。
騒ぐことしか脳がないガキも、自己保身に必死な年寄りも、憎たらしい『あいつら』もそこにはいない、私だけの世界。
だから私は夢が好き。
私が中心で回っているこの世界が好き。
だから私は目覚まし時計が嫌い。
私を夢の世界から、けたたましい音で連れ戻す目覚まし時計が嫌い。
それに私は朝が嫌い。
布団から出て、着替えて、部屋のドアを開ければ、そこが私の世界じゃないことに気がつくから。
だけど私が一番嫌いなのは、『あいつら』でも、目覚まし時計でも朝でもない。
私が一番嫌いなのは、私を嫌うリアルの世界。
第一夜 韋駄天は虚ろの部屋に
一
気がつくと僕は、大きな真っ白の部屋に閉じ込められていた。
扉も窓も無いただ白いだけの鎖された空間。当然その部屋からでることはできない。
なぜだか学ランを着ている僕は、その何もない部屋でたった一人きりだった。
ふと、部屋の外から何かが聞こえてくることに気がついた。なんだろうと壁に近づいて耳を澄ませてみると、それは誰かの怒鳴り声だった。
その怒鳴り声を聞いていると、なんだか段々としんどくなってきて、何もかもが面倒になってくる。だから僕はその声を聞くことをやめた。
しばらく経つと、今度は怒鳴り声とは別に、なんだか楽しそうな声がそこかしこから聞こえてきた。
数人で大笑いしたり、ささやき合ったりしているような声が聞こえてくる。
ただ、その楽しそうな声はあくまで部屋の外から聞こえてくるものなので、どうしようもなく僕には関係のないことだ。
僕はただ一人、部屋の真ん中で耳と目を塞いで膝を抱えた。
部屋の外から聞こえてくる声が、この何もない部屋が、僕にはただ空恐ろしい――
機械的なチャイムの音で目が覚める。倫理教師の深沢先生の姿はすでに見当たらない。彼の几帳面な板書が黒板に残っているだけだ。
「……またこの夢かよ。いい加減うっとうしいな……」
目覚めの気分は最悪だった。無茶な体勢で眠っていた所為か、体の節々が痛いし足が痺れてしまっている。喉はカラカラに乾いて気持ち悪いし、教室の蛍光灯がやけに眩しい。
「次の授業は……体育か、クソ面倒だな……」
なんか頭痛いし体もだるいしで運動をする気分になれない。仕方ないから次の授業はバックれさせてもらうことにしよう。
僕は目が光に慣れるのを待って席を立ち、教室から出て行こうとする。
すると、たまたま近くにいた一人の、妙に制服を着崩している男子が僕に声を掛けてきた。
「ちょっ……荻村。次の授業、体育だぞ。着替えなくてもいいのか?」
彼の名前は那須(なす)美(み)誠一(せいいち)。彼とは高一の頃からの付き合いで……、つまりはそれほど長い付き合いをしているわけではない。だから、それほど彼のことを知っているわけではないので、残念ながら僕には彼の紹介をすることができない。
僕が彼について知っていることと言えば、彼が何かと他人の世話を焼こうとする人間だということぐらいだ。
「……なんか体だるいから、保健室行ってくるわ。那須美、このこと先生に伝えといてくれ」
「ん、分かった。お大事にな」
僕はその言葉を聞き終える前に教室を出た。
そのまま真っすぐ保健室に行く気にもなれず、僕は昇降口にある自販機の前で立ち止まった。
お茶やスポーツドリンク、炭酸飲料がある中から気に入っているコーヒーを選び、一服してから保健室に向かう。その頃にはもうとっくに始業のチャイムは鳴り終えていた。
クラスメイトたちは今頃、体育館で準備運動をしていることだろう。
「失礼しまーす……」
控えめに扉を開けて保健室に入る僕。
中には誰の姿も見たらない。どうやら保健医は留守のようだ。
部屋を空けているのであれば、どうして部屋を開けているのかと疑問に思いながら僕は、手前のソファに腰掛けようとして、やめる。
手持無沙汰になって僕は保健室の中を一周した。
特に何があるわけでもなく、必要最低限の備品しか置かれていない殺風景な部屋だ。
自然と、僕の足は窓の前で止まる。向かい側に見える体育館が気になったからだ。
もうとっくに準備運動は終わっているだろう、今日は何をするんだっけ?
前回の体育の授業の内容を思い出す前に、体育館から微かに聞こえてくるボールの弾む音と、シューズが床を擦る音とで僕は気がつく。
そうだ、今日はバスケをするんだった。休んで正解だな、今の僕にはあんなに激しい運動はできそうもない。
「……当たり前だけど、僕がいなくても授業は勝手に進むしバスケもできるんだよなぁ……」
まぁ、それは当たり前のことなんだけど、そんな当たり前のことに僕は一抹の寂しさを感じた。
「……そういやここ保健室だっけ。ベッド、勝手に使わしてもらうか……」
部屋の隅にあるベッドはカーテンで仕切られている。しばらくの間そこに横になっていようと思って、僕はそのカーテンをやや大雑把に開けたのだが――
「……すぅ――……すぅ――」
細かな寝息と共に、清潔感溢れる少女が現れたのだった。
「………………まさか先客がいたとは、思いもしなかったな、うん」
僕は咄嗟のことに頭が真っ白になって、そんな当たり前の感想が口をついて出てきた。
凛とした顔立ちにスラッとした手足、女子にしては高めの身長にボーイッシュなショートカットと、その辺の女子高生とは少し違った印象を受ける。
セーラー服よりもジャージが似合いそうな、少女というよりは少年という感じの子だった。
「……ん」
「あっ、いや……。悪い……起こしちゃったかな……、はは……」
「……んん、君は……?」
彼女は目を擦りながら、僕を不思議そうに見つめる。
「その、えっと、僕は……その、なんだ。気分が悪くて保健室に来てみたら、今さっきたまたま偶然君を見つけてしまっただけで……。その、別に……君に何かしようとしていたわけでは……」
全力で僕が怪しくないことを説明しようとしたのだが、その言葉が余計に僕を怪しくしてしまっていた。
「……ん。悪い、少し待っててくれ……。今、顔を洗ってくる……」
「……あ、そうか。ごめん、気が利かなくて……」
彼女はベッドから起き上がると、乱れた制服を整えようとも、靴下や上履きを履き直そうともせず、裸足のまま保健室の洗面台で顔を洗った。
その姿に僕は何かフェチ的なものを感じたが、当然それを口に出すことはできない。
仕方がないので僕は黙ってその姿を見つめていた。
「……ふぅ。やっと目が冴えてきた……。君、少し聞いてもいいか?」
「あっ、はい。なんでしょう?」
彼女のやたら男らしい口調に自然と敬語になってしまう僕。いや、単にビビッていただけかもしれない。
「ここはどこだ?」
「どこって……保健室だけど」
「だろうな、では今何時だ?」
「一〇時四七分、三限目の途中だけど……」
なんだこの子は? 未来からタイムスリップでもしてきたのか? そのうち西暦とか聞いてきそうな勢いだ。
「あ、いや悪い。別に未来からやって来たとか記憶喪失だとか、そういうことではないんだ。今のはただの確認、忘れてくれ」
「はぁ……、よく分からんけど……そう言うなら……」
「私の名前は篠倉(しのくら)美(み)鷹(たか)。ここ県立城野学園高校の二年生で部活は帰宅部、よろしく!」
彼女は快活にそう言って、僕に右手を差し出した。
うおっ、初対面の人間にはとりあえず自己紹介とかコミュ力高いなおい。僕には到底マネできない、しようとも思わないけど。
まぁだからと言って、それに答えないほど僕もあまのじゃくではない。
少しの緊張と羞恥を覚えながら、彼女の差し出した右手にぎこちなく応じる。
「僕の名前は……荻村(おぎむら)富士(とみし)だ。よろしく」
僕の自己紹介を受けて篠倉はうむと頷くと、近くから椅子を引っ張ってきて腰掛ける。それを見て、僕もとりあえず落ち着こうと手前の椅子に座った。
篠倉がこの椅子を使わずにわざわざ別の椅子を運んできた理由は、僕のことを気遣ってだろうか?
「……ふむ、トミシとはまた変わった名前だな。どのような漢字を当てるんだ?」
「富士山の富士でトミシだ。富士山のように大きな人間になって欲しいんだとさ」
「なるほど、山高きが故に貴からずとも言うがな」
人の名前の由来に水を差すようなことを言うなよ……。まぁ、それについては僕も昔から思っていたことではあるけどさ……。
「……ってか、僕と同じ学年なのか。あまり見ない顔だから気がつかなかった。学科が違うからか?」
ここ県立城野学園高校は普通科と理数科に別れている。僕は普通科の方の生徒なので、理数科の生徒と一緒に授業を受けるということは滅多にない。
とはいえ、教室は同じ階の同じ廊下に沿って位置しているので、顔を合わせることがあってもおかしくはないはずなのだけれど……。
「や、私も普通科なのだが……、体が弱くてな。一応、学校に籍を置いてはいるのだが、滅多に登校していないんだ。今日は珍しく無理をして学校に来てみたのだが……、見ての通りこのザマだよ」
と、彼女は自虐気味に笑う。
「しかし意外だな。病弱な女の子というよりは……、見た目スポーツマンって感じだけど」
「数年前まではそうだったんだけどな。以前、結構な難病を患ってしまって……。今では入退院の繰り返し、過度な運動も医者に止められている」
やべっ……、地雷踏んだわ。
今からでも危険物取扱者の資格とかとった方がいいかな、僕。
「君の方はなんというか……、眠そうな顔をしている以外は普通だな。あ、それと襟足の寝癖も」
初対面の人間にいきなり失礼なやつだなおい……。
ってか、この襟足はもともとだ。寝癖じゃない。
ついでに言うと、眠そうな顔というのもさっきまで居眠りをしていたからというわけではなく、もともとの顔つきだったりする。
「ところで君の方はいったいここで何をしているんだ? まだ三限の途中なのだろう? 授業に出なくてもいいのか?」
……まぁ、そうだろうな。あれから気分も落ち着いて、さして体調が悪いわけでもない。
傍から見れば、僕のことはただのサボりとしか思えないだろう。
「こう言うと少しガキっぽいかもしれないけど……、授業中にちょっと悪い夢を見てな。気分が悪くなったんで保健室に休みにきたんだ」
と、僕は軽い気持ちで言ったのが、彼女の方は神妙な顔つきでいたって真面目に僕の話を聞いていた。
「まず授業中になぜ夢を見ることになるのか甚だ疑問ではあるが……悪い夢、か。……ふむ、どのような夢だったのか聞いても構わないか?」
「あぁ……、まあ別に大丈夫だけど。聞いても別に、何もおもしろいことはないと思うぞ?」
「構わない。是非、話してみてくれ」
僕はついさっきみた夢の内容を、彼女にありのままに伝えた。
「――と、だいだいそんな感じだ。なんか……アレだな。実際、言葉にしてみると……、たいしたことでもなかった……、かもな」
「いや、そんなことはない。夢というものは決して客観的な事実に基づいて考察するものではないし、夢の中には自分自身にしか感じ取れない部分が確実にある。素人判断は危険だ」
「……夢分析か、あのフロイトとかユングとかで有名な。その口ぶりからするとかなり詳しいみたいだけど」
ちなみに夢分析とは、有り体に言えば自分の夢が自分にとって何を意味するものかを心理学的側面から解釈することだ。夢を解釈する方法として、フロイトの自由連想法やユングの提唱する拡充法などがある(もっともフロイト言うところの夢分析と、ユングの言う夢分析とでは若干意味合いが違ってくるのだが)。
「夢については以前、というかもう何年も昔のことなのだが、力を入れて勉強したことがあってな。心理学的なことはもちろん、神話なんかについても造詣が深い。とは言っても、実際に夢分析が行えるほどではないのだが」
そう言う篠倉はなんだか得意げそうだ。よほど、夢のことについては自信があるらしい。
「なら聞くけど、篠倉先生的には僕の夢をどう考えるんだ?」
「う、うむ。そうだな、夢の中で感じたことについてもう一度聞かせてもらってもいいか?」
『先生』という言葉に気をよくした篠倉は、ふふんと、またぞろ得意げな顔をして言った。
「だからまぁ、面倒とか……しんどいとか、一番感じたのは空恐ろしさ? みたいなものかな……、よく分からんけど」
「ほう……、ただ単純に怖いだとか不気味だとか、そういうことではなく空恐ろしさを感じたわけか……。なるほど……うむ、私は段々と君のことが分かってきた気がするぞ」
彼女は顎に手をやって、いかにもな様相でしきりに頷く。僕の夢について何か思うところがあるらしい。
「……え、終わり? もっと具体的に、僕の見た夢にどういう意味があるのかは教えてくれたりしないの?」
「まぁ待て。今ここでその全てを説明しても仕方がないだろう。それに今はまだ、悪夢を見ないようにする方法が何かあるわけでもないことだしな」
「……なんだよ。お前が夢について詳しいって言うから聞いたんだろうが」
僕は自分の夢について何か知ることができると思っていたので、思わず語気が強くなってしまう。そんな僕の気持ちを余所に、篠倉はこうも続けた。
「まだぼんやりとしかイメージが掴めていないということだ。いくら私でも、精神科医並みの診断ができるというわけではない。そこを勘違いしないでくれ」
「……そうか、ま、そうだろうな。僕自身、自分の夢のことについて何も分かっていないというのに、今日会ったばかりの、それも一介の女子高生になんとかしろって言う方がおかしな話か……。や、悪かったな。こう見えても僕、眠るたびに見る悪夢に結構まいってたんだ。だからちょっと……余裕が無いんだよ、いろいろとさ……」
伏し目がちにため息を吐く僕を見て、篠倉は何を思ったのか急に立ち上がる。
そして彼女はそのまま僕の方へとやって来て、いきなり僕の背中をバンと叩いてこう言った。
「なに、大丈夫だ! そう気落ちするようなことでもない。私がなんとかしてやろう」
「……? いい方法はないんじゃなかったのか?」
「そう、さっきも言った通り、今この場で私が君にしてやれることは何もない。だが機が熟せば、具体的には……そうだな、今夜にでも君を助けてやれるかもしない」
「は? 今夜? お前がうちに来て、眠っている僕に直接何かするってことか?」
「うん……まぁ……、そういうことになるのかな。君が想像しているものとは少し違うだろうが。実際に君の家にお邪魔するわけではないのだし」
この子はいったい何を言っているのだろうか? さっきから結構な感じでわけの分からない、それこそ変人扱いされても仕方がないようなことばかり口走っている。
彼女、ひょっとしてひょっとすると、相当頭がアレな女の子なのだろうか?
「……不得要領といったような顔をしているな。まぁ無理に今、理解しようとする必要もない。どのみち今夜には分かることだ」
言いながら彼女は自分の寝ていたベッドをきれいに整える。
靴下と上履きを履き直し身支度を整えると、彼女はうむと満足げに頷いた。
「よし、それでは……私はそろそろお暇させてもらうことにしよう。いや、有意義な時間を過ごせて楽しかった。礼を言うぞ」
「……あぁ、まぁこっちも……いい暇つぶしにはなったよ。楽しかったかどうかは微妙なところだけどな」
「ははっ、そうかそうか! それは私としても重畳の至りだよ、うん」
と、僕の素直じゃない態度がおかしかったのか彼女は、僕の背中をバンバン叩きながら快活に笑う。
その溌剌たる笑みは、見れば見るほど彼女が病弱だということを忘れさせる。
それほどまでに凄絶で、堂々としたものだった。
「……それじゃ、私はこれで失礼する。また今夜な、トミシ!」
そう言って彼女は保健室を去って行った。
なんだか嵐のような女の子だったなぁ、とそんな呑気なことを考えつつ僕も保健室を後にしたのだった。
「……ってか、いきなり下の名前かよ……。馴れ馴れしいなおい」
……や、別にいいんだけどさ。
二
カレンダーの日付が変わりこの田舎町が静寂に包まれる頃、僕は今朝起き上がったときからずっとそのままの、ぐちゃぐちゃに放り出されているベッドの布団を整えながら考え事をしていた。
結局、篠倉が言っていたことはなんだったのだろう? 今晩にでも君を助けてやるとは言っていたが、未だに何も起きる気配はない。
しょうもない嘘をつくようなタイプの人間には見えなかったし、正直、期待していた自分もいたのだけれど……。やはり、彼女にからかわれていただけなのだろうか?
あれこれ考えていても仕方がないし、怖い夢を見てしまうからという理由で睡眠を取らないわけにもいかない。僕は諦めて床に就くことにした。
カーテンを閉めて部屋の電気を消し、目覚まし時計のアラームの時刻を合わせる。たったそれだけのことが億劫に感じた。
布団の中に入って今日の出来事をあれこれ思い出しているうちに、僕の意識は揺らぎ始める。そのまま深い深い意識の墓場に、僕は身を落としたのだった。
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だんだんと脳が覚醒し、視界が広がってくる。
やはり今夜も変わりない、いつも通り夢の世界で目覚めることになったらしい。
意識はやけに鮮明で、曖昧さや不分明なものはそこにはない。
頬を抓るとしっかりと痛みを感じるし、試しに自分の指を喉の奥に突っ込むとはっきりとした不快感を覚え、せき込む。やはりこの感覚は本物だ。ただ、視界はどこか霞みがかったようだし、体が少し重いような気がする。さすがに、現実とまるっきり同じとまではいかないらしい。
そう言えば、このリアリティは篠倉に説明していなかったな。最近はそれが当たり前だったからとりわけ言う必要もないと勝手に思いこんでいたらしい。
そんなことをぼーっと考えながら辺りを見回してみると、一つだけ、いつもとは違うものがあった。
扉だ――
いつもはただ白くてだだっ広いだけの部屋だったのに、今日はそこに扉がある。
それもどこかで見たような、たった今、ついさっき見たような扉だ。
僕は恐る恐るその扉に近づき、ドアノブを握る。
扉の外からはいつもの狂ったような怒鳴り声が聞こえる。おそらくこの扉の向こうにその元凶がいるのだろう。
おそらく篠倉美鷹に影響されてだろうが、ここで先に進まなければこの悪夢にいつまでもいいように弄ばれるだけだと思った僕は、得も言われぬ精神的苦痛にその身を苛まれながらも、意を決して扉を開けたのだった。
扉の先は、僕がよく知っている光景だった。
見慣れたL字の廊下。この部屋の他にある二つの部屋も見慣れている。
L字のちょうど窪みの部分にある一階へ繋がる階段、その先に広がる光景もまた、僕はよく知っていた。
僕は自分が寝ぼけているのかと思ってもとの部屋へ引き返すことを試みるが、例の白くて大きい部屋の扉は開かない。壁にそのままドアノブがくっ付いているかのようだ。
どうやらもう後戻りはできないらしい、僕は再び覚悟を決めて声のする方へと向かう。
声は階段を下りた先、一階のリビングから聞こえてくる。
リビングは玄関を挟んで和室と向かい合っている。もっと言うと、例の部屋の真下がリビングだった。僕はリビングの扉の前まで来て、そこで歩を止める。
ドアノブを握ろうとする手に力が入らない。体が小刻みに震えているのが自分でも分かった。僕は自分の拳を力強く握りしめて手の感覚を確かめる。そしてゆっくりと息を吐き、一気に扉を開けた。
「………………なんだよ、これ……」
僕は一瞬、自分の見たものを理解できなかった。
自分がよく知っている、いや、知らないはずがないこの我が家で、そこにはたった一つ自分が知り得ないもの、何者とも認知できないものが存在していたからだ。
オオカミのような毛むくじゃらの下半身、そこから不自然に突き出た人間のような上半身、影のようにどす黒い肌、そして頭部に不気味な仮面をつけたそれは、部屋の中を四つ足でのっそりと這い回っていた。
どうやら、件の声の正体はこいつだったようだ。まるでうわ言のように怒鳴り声やはしゃぎ声を上げている。
僕が悲鳴を上げる前にその得体の知れないものはこちらに気づき、ひたひたと気味の悪い音を立てながらこちらに這い寄ってきた。
「……あっ……あああっ……!」
僕は恐怖で頭が真っ白になりながらも、なんとかその場から走り去ることができた。
リビングから飛び出して真っすぐ玄関に向かう僕。
玄関扉を開こうとするのだが、開かない。
そのままパニックになって扉をガチャガチャと乱暴にゆする。しばらくしてから、扉が施錠されたままだということに気がついた。
「クソッ……! 夢のクセに随分とご丁寧だな……!」
僕は玄関の錠を慌てて外すのだが、その間にも、嫌な物が近づくのを背中で感じる。
二つ目の錠を外し終えてから確認のために後ろを振り返ると、化け物の顔がすぐそこにあった。
まるで海底のように深くて暗い瞳が、仮面を通して僕を覗く。
僕は腰を抜かしてへたり込み、その暗い瞳に呑みこまれることを覚悟した――
瞬間――僕の頭上を風が吹き抜けた。
それとほぼ同時に目の前の化け物は吹っ飛び、目の前に赤いジャージ姿の清潔感溢れる少女が、すたっとしなやかに着地した。
「や、待たせたな!」
「……篠倉? お前、どうしてここに……。ってか、どうやって……」
篠倉美鷹が――玄関扉を外側から跳び蹴りで突き破ってきたのだ。そしてそのまま跳び蹴りが化け物に直撃し、僕を窮地から救った。
「いやだな、もう忘れたのか? 言っただろう? 私が今晩にでもなんとかしてやると」
「……夢じゃないよな」
僕のそんなベタな確認を、篠倉は「いや、夢だぞ」と笑った。
「ま、質疑応答はまた後でだ。とにかく今はこいつをなんとかしよう」
篠倉は化け物を前に怯むことなく、ステップを踏みながら悠々と構える。
「お、おい、やめろ篠倉! 危ないだろ!」
「なあに、心配するな。そこに座ってよぉく見ておけ」
僕の忠告をよそに、篠倉は徒競走のクラウチングスタートの姿勢を取る。
「トミシ、合図をしてくれ」
「……は? 合図?」
「そうだ、合図だ。よーいの後にドンだ」
「……いやまぁ、それは分かるんだけど……。なんだってこんなときに……」
「その方が気分が出るからだっ! いいから早く!」
その鬼のような気迫にビビった僕は、咄嗟に右手を挙げ、ドンの掛け声とともに思い切り振りおろした。
合図とほぼ同時に、彼女が踏みしめていた床は炸裂し、彼女はミサイルのように飛び出した。彼女の突きだした右手が、のっしりと立ち上がると半獣の化け物の横腹を穿つ。黒板を引っ?いたような断末魔を上げ、化け物は再び吹っ飛んだ。
「キアアアアアアァァァァァオオオオオオオオォォォォ?」
攻撃されたことにより、化け物はついに激高する。
腹を半分見せるように壁にめり込んだ化け物は、無理やりに壁を破壊し脱出する。
そして仮面からはみ出すほどの大口を開け、彼女に向かって大きく跳躍した。
だが彼女は体操選手のように体を反らしてそれを躱し、ブリッジをするような姿勢で化け物に蹴りを食らわした。
下腹部に凄まじい衝撃を受けた化け物は、一瞬、空中で停止する。
そのまま自由落下に移る前に、彼女は化け物の首根っこを掴み床に叩きつけた。
その一撃がよほど強烈だったのか、床、というかもう地面にめり込んだ化け物はそのままピクリとも動かず、完全に沈黙した――
ここまで、一〇秒にも満たない出来事だった。
「……ふぅ。ま、こんなものかな」
篠倉はさしてたいしたことでもなかったかのように、手をパンパンと払ってからそう一言。
僕はというと、そんな彼女の姿をただ間抜けに口を開けて見ていた。
「いろいろ聞きたいことはあるとは思うが……、ひとまずここから移動しよう」
「移動って……、どこに?」
「あそこだよ」
篠倉が指で示したのは玄関の先だった。
玄関は彼女が破壊しために開け放たれていて、その先に長い廊下が覗いていた。
玄関の先には、本来なら庭が広がっているはずだった。もっと言えば、家の中から出るのだから必ずしもその先は外であるはずだし、そうでないといけない。
だがしかし、実際には扉の先は外でなく中。中から中へと繋がっていて、じゃあいったい何の中なのかと言えば、それは僕らの通う県立城野学園高校の校舎だった。
「なんか見たようなところだと思ったら……、今度は学校かよ。いったい何がどうなってんだ……」
「ふむ、そうだな。君を連れて無暗やたらに動き回るのも危険だし、とりあえずそこの教室に入って落ち着こう」
篠倉は僕にそう提案するのだが、今起きていることにいまだ理解が追い付かない僕は、その場でぼーっと立ちつくすことしかできない。
それを見かねた篠倉は、「やれやれ……、仕方ないな」と僕の手を取ろうとする。
彼女の手が僕の手に触れたところで僕はやっと我に返り、「……あ、いや、すまん。もう大丈夫だから」みたいなことを言って、なんとか女の子にリードされるような情けない事態は避けることができた。
教室に入ると、彼女は適当な椅子を引いてそこに腰掛ける。
それに続いて僕も適当な椅子に、彼女から少し離れた場所に座ろうとすると、彼女は自分の隣の席の椅子をポンポンと叩いた。
「何をしている? そこでは話がしづらいだろう?」
篠倉があまりにも無邪気な笑顔でそう言うので僕も断ることができなくなってしまい、無言で彼女が示した席へと座った。
すると彼女は満足げに頷き、ようやく話を始める。
「さて、まず何から話したものかな……。まぁそうだな、この世界のことから説明しておくか」
「この世界ってのは……、夢の中の世界ってことか?」
「そうだ、面倒だから今後は『夢世界』と呼称することにする」
夢世界……、単に『夢』と言うだけじゃ説明できないことがあるってことか?
「ああっと……、その前に『意識』と『無意識』にも触れておかないといけないな……。人に『夢世界』のような抽象的なものを説明するというのは……、存外、骨が折れるものだな」
彼女は説明が煩わしいのか、どうしたものかと頭を掻く。
「……では、まず人の心の構造について、『意識』・『無意識』について説明しよう」
「その辺のことなら、以前本で読んだことはあるぞ。確か……、人の心の構造は、二層に分けられるんだよな?」
「ほう、聞いたことぐらいはあるか。それなら、私も説明がしやすい」
一般に精神分析学(心理学の一種)では、『意識』とは本人が認識している表面の部分で、『無意識』とは普段本人の認識できない部分のこと言い、『意識』に比べて『無意識』は巨大で心の大部分を占めるとされている。
人の心はまさに氷山のように、水面上に出ている部分と水面下に隠れて見えない部分で構成されているのだ。
「でも、『意識』が普段表に出ている自分だってことはなんとなく分かるけど、『無意識』って言われてもいまいちイメージが掴めないな」
「なるほど……。ふむ、では君は何か言い間違いだとか、書き間違いだとかのミスをしたことはあるか?」
「ミス? そりゃまぁ、生きてりゃミスなんていくらでもするだろうけど」
「『無意識』がよく分かる例は大きく分けて三つある、そのうちの一つがそういった行動ミスだ。ここでの『無意識』とは、言うなれば記憶のプール。過去に起きた出来事、しかし自分がすでに忘れてしまった出来事が原因で、人間は日常生活で些細なミスをしてしまうわけだ」
彼女が言うには、そういった記憶の積み重ねが『無意識』を成長させ、ひいては心を育てることに繋がる。それを『個人的無意識』というらしい。
逆に言えば、『無意識』は初めから完全なものが備わっているわけではなくて、年齢を重ねるごとに肥大化していくものだとか。
「他の二つは一つ目に比べて分かりやすい。二重人格や統合失調症に代表されるような精神的疾患は、実は『無意識』の働きかけによるものだ」
精神疾患――その言葉にはよく聞き覚えがあった。
それはもう、嫌というほどに。
「ではなぜ、『無意識』がそのような働きかけをするのか? 答えは単純。『無意識』には
心のバランスをとる役割があるのだ」
「心のバランスをとる……。つまり、『意識』がなんらかのダメージを受けたときに、『無意識』がそれらの働きかけをするってことか?」
「君は理解が早いな、まさしくその通りだ。『意識』が感情を抑圧したときや必要以上の無理をしたとき、『無意識』はそれを止めるストッパーになるわけだ。その結果、精神疾患などの症状が出たりするのだ」
なるほどストッパーか……、言い得て妙だ。
彼女によると、『無意識』は記憶によって育まれ『意識』の補佐をする役割を持っている。どうやらそういうことらしい。
「三つ目は夢だ。夢もまた、『無意識』が『意識』を補おうと見せるものなのだ」
夢が『無意識』によって作られている――今までだらだらと続けていた心理学の話はここに繋がるのか……。
「やっとこさ夢の話がでてきて安心したところ生憎だが、まだ心理学の話は終わっていないぞ」
「ぐ……、まだ続くのかこの話」
「まぁ、そう言うな。精神分析学と『夢世界』は切っても切り離せない関係にあるのだ。さて、夢が『無意識』が見せるものだということはひとまず頭の隅に置いておくとして、次に『集合的無意識』の話をしよう」
「集合的無意識? これまた聞き慣れない小難しい単語が出てきたな」
「これは精神分析学がもっとも栄えた時代にユングという精神科医が唱えたのだがな、神話や宗教だとか、そういったものには頻繁に似たような話がでてくることがあるだろう? それら共通点にユングは着目したんだ。そして彼は、意識と無意識とはまた別に、もっと根底の部分に人間の行動・判断・思想・印象に影響を与えるものが存在すると考えた。それが『集合的無意識』だ。これは先ほど紹介した『個人的無意識』と対になるものだ」
「じゃあ……、例えば赤色に温かい印象を持ったり青色には冷たい印象を持ったりする……、色のイメージなんかもそれに起因しているのか?」
「そうだな。色に対して皆が一様に同じような印象を受けているわけだから……、その類のものだろう。言ってみれば、『集合的無意識』とは人々が共有するある種の価値観のようなものだな」
人間は価値観を共有している――そんなことは今まで一度も考えたことがなかった。
僕の周りにいる人間は……みんな僕とは本当の意味で分かり合うことはできない、ずっとそんなふうに思っていたからだ。
「この『集合的無意識』は『無意識』の土台となる。『無意識』が記憶の積み重ねで育まれるものなのに対して、『集合的無意識』は人が生まれたそのときから存在するのだ」
「つまり、今までの話を簡単にまとめると、人の心は『意識』・『無意識』の二層によって構成されていて、『個人的無意識』が『集合的無意識』の上に積み重なって『無意識』ができているってことか?」
「ま、平たく言えばそんなところだ。……さて、心の構造についてはひとまずこれで終わりだ。意識にしろ無意識にしろ、細分化すればもっと説明するべきところはあるのだが、あまり脱線しすぎてもいけないしな。今はあくまで、夢に関ってくるものだけを順を追って解説するぞ」
まぁ、確かに彼女の言う通り、僕は心理学に興味があるわけでもなんでもないので早いところ本題に入ってほしい。
いい加減、まるで何かの講義を受けているようなこの会話を終わらせたい。
長いこと堅い椅子に座り過ぎている所為で、ケツと椅子がくっ付いてしまいそうだ。
「ここからがいよいよお待ちかねの本題、私が勉強した心理学の話ではなく、私なりに考察してみたこの世界についての話をしよう――『集合的無意識』について今ざっくりと説明したが、これが『夢世界』に大きく関わってくる。と言うのも、人々の夢は、実はこの『集合的無意識』によって有機的に繋がっているからだ」
「夢が……、繋がっている? おいおい……、冗談はよしてくれよ。それだと、全世界の人間が毎晩同じ夢を見ているということになるぞ」
「そういうことだ。だからこそ私は今この場にいる」
「すまん……、さっぱり分からん。つまり、どういうことなんだ?」
「まず、夢を構成するプロセスを説明しよう。最初に『意識』がなんらかの不満を感じる。それを受け取った『無意識』が不満を充足させるために夢を作り出すのだが、その過程でまず、人々が共有する価値観である『集合的無意識』で夢が作り出される。その上に『個人的無意識』が彩りを加えて、最終的に夢が完成するのだ」
「じゃあ何か? 夢ってのは、各々によって様々なアレンジが加えられるけども、根っこの部分では同じものってことか」
「うむ。そして君の言うその根っこの部分をたどれば、自分の夢から他人の夢に移動することが可能なのだ。言ってみれば、星間移動ならぬ夢間移動だな。『集合的無意識』という世界の中に夢という領域が無数に存在し、それらをまとめて『夢世界』と呼ぶと言えば、イメージしやすいだろうか」
「……じゃあ行こうと思えば、誰が誰の夢にでも行くことができるのか?」
「残念だが、そいつは無理な話だ。『夢世界』を自由に行き来するには、ある条件が必要不可欠なのだ」
条件? Suica的なものが必要だったりするのか? メロンとか。
「その条件こそがこの世界でもっとも重要となってくるもの――『超明晰』だ」
「……『超明晰』? 明晰夢の仲間かなんかか?」
「これは私の造語なのだがな。簡単に言えば、明晰夢のワンランク上の状態のことだ」
ワンランク上……、明晰夢以上に意識がはっきりとした夢ということだろうか?
「そもそも夢というものは、現実での不満を充足させるために『無意識』がみせる空想なのだ。お腹が減っているときに満腹になる夢を見たりすることがあるだろう? あれがいい例だ。このように自分の理想と現実世界に大きな摩擦が生じた場合、『夢世界』と自分との繋がりが濃くなり、より意識が鮮明となる。その極限状態が『超明晰』なのだ」
「じゃあ、お前もその『超明晰』とかいう状態なのか?」
「その通りだ。そしてこの『超明晰』の状態では、『夢世界』を自由に移動できる以外に他に二つの能力を扱うことができる」
「能力? おいおい……、急にSFチックになってきたな……」
「まぁ、聞け。理想と現実のギャップが大きくなると、現実を補う夢の力も比例的に大きくなり、夢の世界での自分は自分が思い描く理想の力を得ることになる。私はその力を『ビジョン』と呼んでいる」
自分が思い描く理想の力――『ビジョン』……か。僕の思い描く理想とは……、いったいなんだろうか? 想像もつかない。
「先刻、私が中学のときに患った病のせいで運動ができなくなったという話をしただろう? 本当は思いっきり体を動かしたいのに現実の私ではそれができない、そのジレンマが私を『超明晰』の状態にした。そして現実世界での不満を解消させるため、夢は私に身体能力を爆発的に向上させる能力を与えた」
「じゃあ、さっきの化け物と戦っていたときに使っていたのが……」
「うむ、それこそが私の『ビジョン』だ。そして二つ目の能力なのだが――」
「ちょっと待ってくれ。いろいろと初めて聞く単語ばっかりで……、頭が混乱してきた。少し整理をさせてくれ……」
そう言って眉根を押さえる僕を見て、篠倉は僕に500mlボトルのスポーツドリンクを差し出した。
「これで少し喉を潤すといい。喋り付かれて喉も乾いてしまっているだろうからな。頭も冷えてちょうどいいリフレッシュになるだろう」
「あ、悪いな……いただくよ。……って、あれ? お前これ、どっから持ってきたんだ?」
「うむ、君は本当に私が求めている通りの反応をしてくれて助かる。今説明するから、それでも飲んで少し待っておいてくれ」
篠倉は自分が座っている席の机の中をガサゴソといじくり回し、その中から筆箱のようなものを取り出して僕の目の前に持ってきた。
「いくぞ、ワン――ツー――スリー――ほら、どうだ!」
すると彼女が持っていた筆箱は、一瞬にして彼女の手の中でスポーツドリンクに姿を変えた。
「なっ、おまっ……、それどうやって……!」
「これこそが二つ目の能力、『検閲』だ。これはフロイトの夢分析の用語から名前を借りたのだが――」
「名前の由来とかはどうでもいい。いったいどんな原理なのか説明してくれ」
「むぅ……、そうか? 君がそう言うならそうしよう……。と言っても、原理と言うほどのことでもない。夢の中に出てくるものを自分の思い通りに変化させる能力というだけだ。それも、あまり大きなものには変化させることはできない。手で持てる程度の大きさの物を、同じくらいの大きさの物に変化させるぐらいだ。ま、この能力を上手く使うことができれば、『夢魔』との戦闘がかなり楽になる。しかし私の場合は『ビジョン』の性質上、物を使って戦うことがないので滅多にこの能力を使う機会はないのだが」
「ちょっ……、ちょっと待ってくれ。またぞろ聞き慣れない単語がでてきたな……。『夢魔』ってのは……なんだ?」
「おっと、まだ説明していなかったな。『夢魔』とは先ほど私が戦っていた化け物、悪夢から生まれるものだ。現存する夢の世界を攻撃して破壊し、夢の主がもっとも忌み嫌う存在を夢の中に作り出す、それがまた悪夢となる。しかもタチの悪いことに、『夢魔』が作り出した悪夢からまた『夢魔』が生まれ、以降それがループすることになる」
「……ってことは、今僕が見ているこの世界は『夢魔』によって作り出されたものってことなのか……?」
「そうだ。君がもっとも忌み嫌う世界を、君は今悪夢を通して見ているのだ」
「でも……、お前がさっきその『夢魔』とやらを倒したじゃないか。それなのに僕はまだ、悪夢を見続けている。それっておかしくないか?」
「さっきのは、言うなれば雑魚。母体が作り出した悪夢から生まれたものだ。君が悪夢から逃れるためには、その母体を倒す必要がある」
「その母体はどこにいるんだ?」
「知らん」
「……は? どういうことだ?」
「だから知らん。どこにいるのか、てんで見当もつかない」
そんなにはっきり言われると……、いっそ清々しい気さえしてくるな……。
「だから、これから私と探しにいこう。君が悪夢から逃れるために。君自身の心の闇を知るために」
三
「何度も言うけど……、しつこいことを承知で言うけど、本当に夢みたいな話だな……」
一通り話を聞き終えてから、僕はそんなことをぼそっと溢す。
「だから夢なんだって。いくら荒唐無稽な話に聞こえても、現実の世界で起きていることではなくとも、夢の中での出来事ではあっても、夢想ではないんだ」
ま、私も夢世界に最初に気づいたときは自分の頭がおかしくなったんじゃないかと疑ったが、と彼女は付け足す。
「さて、いつまでもここで油を売っていても仕方がない。母体を探しに行くぞ」
「ちょっと待てよ。この世界にはあんな化け物があちこちにいるんだろ? そんな中をあてもなく探し回るのか?」
そりゃ篠倉はあいつらと戦える術(すべ)を持っているのかもしれないけど、あいにく僕はそんな奇妙な力を持ち合わせていない。
さっきの話を聞く限り、こちらの世界との繋がりの強い人間がこちらの世界で殺されてしまうと、おそらく現実の世界にも影響がでるということは自明の理だろう。つまりは、僕がこちらの世界でなんらかの被害を受けた場合、現実の世界でも同じことが起きてしまう可能性が高い。
いくら篠倉が僕のことを守ってくれるとは言え、それではあまりにも危険だ。
「待て待て、確かに私には見当もつかないと言ったが、全くあてが無いわけでもないんだ」
「……どういうことだ?」
「そもそも母体というものは、一番初めに君の夢の中に根付いた悪夢のこと。つまり、君が悪夢を見ることになったきっかけを探せば、自ずと母体にたどり着くことになる。もっと言えば、君が君自身の抱える心の闇を理解することが、とりもなおさず母体を探すことになるわけだ」
「悪夢を見ることになった……、きっかけ……」
「そうだ。君が抱える心の闇は――君だけが知っている、君はすでに知っている、ただ、君はまだそれを理解していないだけだ」
「……心当たりは……ない、わけじゃ……ない……」
それを聞いて篠倉は黙って立ち上がると、そのまま教室の外で僕を待つ。それは言外に、僕に案内しろと告げているようだった。
僕は少しの間だけ考えたあと、教室を出て、律儀に扉を閉め直してから言った。
「……こっちだ」
僕は、僕が毎日足しげく通っている、二の六の教室へと案内した。
「君は六組だったのか。私のクラスは二組だから……、なるほど、滅多に会う機会が無いわけだ」
と、彼女は教室の室名札を見上げて言う。
「……とにかく中に入ろう」
僕にとっては、すっかりお馴染みとなった教室。しかし中の様子はと言えば、いつもとは少し違っていた。
「なんだこの教室は? 机が一つしかないじゃないか。本当にここが君のクラスなのか?」
「……表に二の六って書いてあんの見たろ。ここは確かに僕のクラスだよ」
そしてこの教室にたった一つ残された、廊下側左端後ろから二番目のこの席こそが、確かに僕の席だった。
「……どうしてこの教室には机が一つしか無いのだろうな? それも、意味深なことに残っているのは君の席だ」
そう言いながら、篠倉は僕の席の椅子ではなく、机の上にピョンと跳び乗って座った。
「……ここには僕一人しかいないからだろうな」
「君一人? いやいやそんなことはないだろう。現実の世界の『二の六』にはクラスメイトたちがいるはずだ」
「……いないのと一緒だよ、あんなの」
「……? どういうことだ?」
彼女の問いに答える前に、僕は教室にあるたった一つの椅子に座る。そして、少し間を置いてから言った。
「……友達ってさ、どこから友達って言うんだろうな」
「……ん、それはまぁ……、確かに難しい命題だな。私も昔はよく考えたものだ」
「僕は他人と付き合うことは得意じゃないけど……、そんな僕にも友人がいないわけじゃない、教室で話をするくらいの奴はいるんだ。でも、それって僕である必要はあるのか? たったそれだけのことなら……、僕じゃなくてもいくらでも代わりがいる。結局さ、友達ってのは付き合ってるうちに一緒にいることが多くなっただけの……、たったそれだけの関係なんだよ。だから……、そこにはたぶん、信頼も絆もなんにもないんだ。そんな関係なんて、あっても無くても同じことだろ? 別にクラスの奴となんかあったってわけじゃないぜ? でもさ、ときどき思うんだ――僕には僕のことを認めてくれる、信頼してくれる……、そんな奴が一人もいない。友人はいても親友がいないんだ」
「今どきの高校生なんて得てしてそんなものじゃないか?」
「……どうだろうな、その辺は僕にも分かんないよ。ただ、昔から僕にはそんなふうに考えるクセがあってさ、高校に上がる頃にはそんな見せかけだけの関係が虚しく思えてきたんだよ」
「だからこの教室には……、君以外の人間がいないのか……」
「……そういうことだろうな」
あるいは、この教室には僕しか存在しないのではなく、僕が、僕だけがたった一人とり取り残されているのかもしれない。欺瞞に満ち満ちたこの空っぽの教室に、がんじがらめに縛られているのかもしれない。
「……これは保健室で会ったときから感じていたことだが……、君は随分と孤独に対して敏感で、ひどく臆病なのだな。……何か理由でもあるのか?」
……理由――僕が孤独に怯える理由。それはおそらく……、ここにはないのだろう。
この場所はあくまで、特に孤独を感じる場所の一つだというだけだ。
「……やっぱり、僕の悪夢のルーツはここにはないよ。僕のトラウマって言うのかな……、それを感じる場所はもっと別にある」
「と言うと?」
「……僕の家だよ」
結局、とんぼ返りすることにはなってしまったが、僕の鬱積の主たる原因はここ以外に考えられなかった。
本来なら自宅というものはもっとも落ち着ける場所であり、心の休まる場所であるはずだ。しかし僕の場合は、それとは少し趣を異にする。
確かに、僕も自分の部屋は一番落ち着ける場所だし、なんなら学校に行かずにずっと部屋にこもっていたいと思うまである。
だが同時に自宅というものは、もっとも自分の境遇について、自分の置かれている立場について考える場所でもある。
だってそうだろう? 自室なんかは、特にやることもなく手持無沙汰になることが他に比べて極めて多い場所だし、風呂に入ってるときとか、夜寝る前とか、とにかく自宅と言う場所には考え事をする機会に溢れている。
僕にはそれが嫌で嫌で仕方がない。自分がどれだけ他人と違う境遇で生まれ、異質な環境で育ったか自覚するからだ。
「……さて、こうしてまた君の家に戻って来たわけだが……、何か気づいたことはあるか?」
篠倉は、リビングに置いてある何をするためのものかよく分からないインテリアをいじくり回しながら僕に問う。
「……そうだな、今まで見ないフリをしてきたことが……、なんとなく分かってきた気がする」
「だったら、それを思い思いに吐き出してみるといい。一人で頭の中に留めておくのと、口に出してみるのとでは理解の度合いが断然変わってくるものだ」
分かってるよ……。ここまできてひた隠しにしていても……、それは誰も得しないだろうし、誰も得心しないだろう。僕には今まで感じてきたわだかまりを、洗いざらいに告白する義務がある。
「……篠倉、家族って……どういうものだと思う?」
「家族? 幸せなときでも、辛いときでも、いつでも一緒にいるのが家族というものだろう。私も病のことがあるからな……、家族にはいつも支えられてばかりだ」
「ま、普通はそうなんだろうな。でも僕の場合は……、ちょっと特殊なんだよ。うちの親、再婚でさ、僕と父親には血の繋がりがないんだよ。まぁ、それだけなら今日び珍しいことでもなんでもないんだけど、それに加えて、実の母親の方はヒステリーがひどくて……、被害妄想の強い人間なんだ。だから僕が小さいときから二人の間には喧嘩が絶えなかったよ。二人とも自分のことばっかりで……、僕のことなんか目に見えてないみたいだった」
「………………」
「おまけに父親には借金癖があってな、借金を作ってはその返済に明け暮れての繰り返しだよ。まぁ、僕が直接それについて被害を受けたことはないんだけど……、母親の方はどうにも苦労していたらしい、借金は最終的に債務整理かなんかで片付いたみたいだけど、母親は頭がおかしくなってな。家事とかは普通にこなせるんだけど、たまに幻聴が起こるみたいで……、毎日毎日よく分からないことを一生懸命怒鳴ってたよ」
「……怒鳴っていたということは、ご母堂は回復されたのか?」
「さあな、母親はなんか病院みたいなとこに連れて行かれたし、父親も家を出て行ってそれっきり連絡をとってないから、母親がどうなっているのかは知らないよ。そんな状態でも、父親は血の繋がらない僕に生活費を送ってくれるんだから律儀だと思うけどな」
「君のご尊父が本当に律儀だったのなら、そんなことにはなっていないだろう……」
「……ま、そんなわけでさ、父親とは血が繋がっていないから遠慮してしまうところがあるし、僕はもともと話がまともに通じないようなタイプの人間が嫌いだったから、母親とも会話をしなかった。その結果……というよりは、荻村家が出来上がった当初から、よくドラマや漫画で見るような家族の団らんはこの家にはいっさい存在しなかったのさ」
「……友人関係を欺瞞と言い切り……家族のことでさえまるで他人のように語る――君に……、頼れるような人間はいたのか?」
「まさか、学校でも家でもなんでも僕は基本的に独りだよ。それに、他人に自分の不幸自慢をしたところでどうにもならないだろう? 痛々しいまである」
「っ……?」
僕のそのセリフがよっぽど衝撃的だったのか、篠倉にとってよほど受け入れ難いものだったのか、あるいはその両方だったのか、彼女はひどく顔を歪ませた。
「……確かに、相談したところでなんの解決にもならないかもしれないが――」
彼女の言葉を僕は遮る。
「いや分かるよ、お前の言いたいことも分かる、ご高説ごもっともだ。お前は運動もできなくなるくらいの難病を抱えているんだ、僕なんかとは比べ物にならないほどさんざん苦労してきただろうし、努力もしてきただろう。もちろんそれはお前一人では乗り越えられないものだと思うし、他人の支えがあってこそ今のお前がいるんだと思う。でもそれは篠倉、お前であったからこそのものだ――お前と僕は違う」
「……違わないよ、同じ……同じ人間だ――」
「……まぁ、そうだな、お前と僕では考え方も根性も……、何もかも全く違うのかもしれないけれど……、せめてそれくらいは一緒であって欲しいと僕も思うよ」
あとはまぁ……、無条件に他人を信じることができる彼女の愚直さは――素直に羨ましい。
「……あのさ篠倉、悪夢を見るきっかけとなった場所に母体は現れるんだったよな?」
「そうだ。夢の主が現実の世界で忌み嫌う場所が悪夢となり、その中に必ず存在する、悪夢を見る引き金となった場所に母体は現れる」
「ならやっぱり……、この場所に母体はいないよ。僕はリビングにいることはほとんどないから……、きっかけと言うにはちょっとな」
「しかし、この家でも学校でもないとなると……、他にもう場所はないぞ? 君は知らないと思うが、学校の外はそのまま君の夢の領域の外だ。私はそこから君の夢にお邪魔させてもらったわけだからな、間違いはない」
「違う違う、この場所にいないとは言ったけど、この家にいないといったわけじゃないだろう? 夢魔はあくまでこの家にいるんだよ、たぶんな」
「この家というと……、一階はもうあらかた見て回ったし……」
「二階、だな。篠倉、着いて来てくれ」
「……ああ」
僕は篠倉を先導するかたちで階段を上る。つい、何時間か前に降りたばかりの階段だ(この世界に時間の概念が存在するのかどうかは分かりかねるが)。
……そう言えば、初めて自分の家に女の子を招待したことになるのか。
状況が状況だけにたいして喜べないけれど、そう思えば少しは気持ちが楽かもしれない。
そんなことを考えつつ、僕らはある扉の前で歩を止める。
なるほど、この扉、どうりで見たような気がするわけだ。あの白い部屋の中にいたときは気づかなかったが外に出てみて初めて分かった。これは、僕の部屋の扉だ。
「篠倉、ここだ。僕が夢の中でいつも目を覚ます場所、僕の部屋に母体はいる」
「君の部屋にか……。ふむ、喜べトミシ。私は男子の部屋に入るのは初めてだぞ」
「あっそ、そりゃ夢にまでみたようなあざといシチュエーションだが、残念だけどこれは夢だ」
篠倉と似たようなことを考えていた自分に苦笑いをしつつ、僕はドアノブを握る。
さっきとは打って変わって、ドアノブの感覚は軽かった。
「……入るぞ」
扉を開けた先は、僕の部屋だった。
ベッド、テーブル、ノートパソコン、クローゼット、本棚、マンガ、テレビ、家庭用ゲーム機、オーディオ、勉強机、その全てが、寸分違わず僕の部屋と同じように置かれている……と言うより、僕の部屋だけ切り取ってそのまま持ってきたかのような正確さだ。
「ここ……、さっきまでいつもの白い部屋だったはずなんだけど」
「これは憶測に過ぎないが、おそらく君が君自身の心の闇を理解していくことで、抽象的に比喩的にイメージされていたものが、はっきりと明確なものにイメージされたのだろう。いや、イメージと言うよりは、夢世界に具現化されたと言った方がこの場合的確かもしれんな。……まぁ、なんにせよ君のやることに変わりはない。今まで通り君の鬱積を、思う存分吐き出すといい」
彼女は真っすぐな瞳で僕を見据える、まるで僕の背負っているもの全てを自分が受け止めてやろうと言わんばかりに。
きっと彼女の瞳が真実を見澄まし誠を見出すものならば、僕の瞳は嘘を見極め欺瞞を見下すものなのだろう。なんとなく、そんな気がした。
「……家に帰って、やることも特になくて……、この部屋で一人のときによく感じるんだ。……ああ、自分は不幸なんだって――」
「実はさ、さっき話したこと以外にもツいてなかったというか、運が悪かったとか……そういうこと結構多いんだよ――」
「だからさ、マンガとかゲームとかドラマとかさ、そういうハッピーエンドっていうか、『辛いこともあったけど、基本的には楽しい毎日で後から思い返せばそれなりに充実してました』みたいなストーリーを部屋で一人で見てるとさ、最後にはどうしても自分と比べてしまって……単純に、羨ましいって思うんだよな――」
「まぁ作り話だってことは僕にも分かってんだけど、あっちはみんな幸せみんなと幸せで、かたやこっちは僕一人がただただ不幸なんだ。どうにも卑屈な気分になってくるよな――」「あっちの世界ではうるさいくらいに笑ってバカ騒ぎしてんのに、こっちの世界で聞こえてくんのは母親のうわ言だけだ、それも二階の僕の部屋まで届くような怒鳴り声だぜ? 朝早くでも夜遅くでも関係ない……、こっちの頭がおかしくなりそうだった――」
「なんせ母親がいなくなってからも、しばらくは怒鳴り声が頭から離れなかったくらいだからな――」
「でさ、特にキツイのは寝る前なんだよな。部屋が真っ暗な中で……、ずっとそれが聞こえてくるんだ――」
「毎日毎日それが続いて、でもこんなことはたぶん有り触れたことで誰でも経験してるようなことなんだろうな、って自分に言い聞かせて……そんなあるとき、まだ母親が家にいたときだ。我慢しきれなくなって言ったんだ。いい加減うるさいから黙ってくれってな、そしたらなんて言ったと思う?」
篠倉は黙ったまま、無言をもって応えた。
「『殺される……、黙っていると殺されるから……』、確かそんな感じだったかな。それでようやく自分の母親は異常で、自分の育った環境も異常で、今までこれが普通のことだと思ってた自分も異常で、そんな状況でも誰にも頼れない自分が……、孤独だってことに気づいた。それからだよ、悪夢を見始めたのはな――」
「……じゃあ、君が悪夢をみることになったきっかけは……」
「……この部屋だろうな。部屋の扉を閉めることで自分も閉ざして、でも現実から目を逸らすことはできなくて……、絵空事に羨望する。そんなこの部屋が――僕の『悪夢』だ」
四
家具が――窓が――扉が――壁が――床が――天井が――この部屋が――家が――学校が――僕の夢に巣食っていた悪夢が――吸い込まれるように交わって、ブラックホールのような渦を作り、悪夢の切れ端である我が家や校舎の残骸を僅かに残しながら、僕の本来の夢の姿があらわとなる。
それと同時に僕の意識はより鮮明になり、霞が晴れ視界が開けた。
感覚はもはや現実となんら変わりはない、一瞬、目が覚めたのかとも思ったくらいだ。
そうか、これが篠倉の言っていた――
「その通り、その状態こそが『超明晰』だ」
彼女は悪夢の渦に呑まれてしまわないように、足を大きく開いて踏ん張りながら言う。
「君に心の闇を自覚させる意図は二つあった。一つは夢魔の母体を見つけるため、もう一つは君を超明晰の状態にすることだ。そもそも超明晰になるには、自分の理想と現実のギャップ、その大きさを自覚する必要があった。だから君に心の闇を吐き出させたのだ」
「しかし、僕を超明晰にする必要性は……」
「その答えは簡単だ。……私一人じゃ――母体には敵いっこないからだ」
僕の悪夢は収束を続け、やがて一つの形に収まる。
それはまるで人のような、獣のような、だがしかし、リビングにいた夢魔とは似ても似つかない、不気味な仮面を着けた〝僕〟だった。
「僕が……、立ってる……」
「……くるぞ? 構えろ?」
彼女に言われて眼前の敵に意識を向けようとしたときには、すでに母体は目の前から姿を消し、僕に向かって大きく跳躍していた。
振り上げられた母体の右腕が僕の上半身に炸裂する寸前、篠倉が僕を突き飛ばしてくれたおかげで直撃は免れる――が、
「っ……!」
「篠倉! 大丈夫か?」
「何、大したことはない。急に無理な体制をとった所為で……、少し足を挫いただけだ。それよりも君は自分の身を守ることに専念しろ」
彼女はそう言って果敢に母体に向かっていくが、先刻の戦いのときほどの俊敏さはそこにはなく、非常に戦い辛そうだ。
その一方で母体は攻撃の手を緩めることを知らず、辺りを縦横無尽に駆け回って篠倉に襲い掛かる。母体の戦い方はヒット&アウェイ、攻撃しては間合いを取っての繰り返しで、俊敏性を失った今の篠倉には頗る厄介だった。加えて、母体の引っ?くような攻撃はその一撃で地面が抉れるほど、直撃すればいくら篠倉といえども無事では済まないだろう。
しかし篠倉と言えば防戦一方で、相手の攻撃をギリギリ避けるくらいのことしかできていない。このままだと、ジリ貧でいずれは――
「……くっ、ちょこまかとうっとうしいことだ……」
篠倉は吐き捨てるようにそう言うと、構えを解き、その場に棒立ちで立ちつくしてしまった。
「おい篠倉! 諦めるにはまだ――」
母体がその一瞬の隙を見逃すはずもなく、僕がそう叫ぶ前に母体は彼女に飛び掛った。
しかし篠倉はいたって冷静に相手の手首をすばやく右の手刀で切り上げると、相手の両足の間に自分の左足を踏み込み相手と直角になるように潜り込む、そしてそのまま姿勢を十分に低くして相手を腰の上に乗せるように投げ飛ばした。
超明晰の力で身体能力が底上げされているだけあってその威力は絶大で、地面に大きな穴ができてしまった。
「っ……無構えからの腰投げか……、お前合気道の素養もあったんだな……。正直……、あのままやられるんじゃないかと思ってヒヤッとしたぞ……」
「くるな! この程度でやられるような相手じゃない!」
「へっ……?」
僕が彼女のもとに駆け寄った瞬間、母体は僕に気を取られてしまっていた篠倉を跳ね飛ばした。
「あ……篠倉っ!」
「くっ……、足を捻った所為で踏ん張りが甘かったらしいな……」
母体の一撃をもろにくらってしまった篠倉は、息も絶え絶えに短かい呼吸を繰り返し、地面に横たわったまま起き上がろうとしない。
急所に当たらなかったおかげでなんとかまだ意識は残っているが、痛みの所為で立ち上がることができないらしい。
「……こうなったら……トミシ、君が戦うしかない」
「……ぼ、僕が? 戦うたってどうやって……、まだ能力の使い方も分からないってのに……」
僕があたふたともたついている間、敵が攻撃の手を休めてくれるはずもなく、母体は両腕を大きく開いて走り出す。
ヤバい――戦い慣れしている篠倉でさえ一撃でやられてしまったんだ、僕なんか指先だけで粉々だ……どうする――
ふと、学ランの左ポケットに篠倉から貰ったスポーツドリンクのペットボトルが入っていたことを思い出す。
僕は咄嗟にペットボトルをしっかり握りしめると、さながら居合抜きのように相手に向かって振り抜いた――
特に考えがあったわけじゃあない、と言うか、考えるよりも先に体が動いていたので、そのままペットボトルがぺちんと間抜けな音をたてて母体の体に当たったあと、僕の体に大きな穴が空いて篠倉が泣き叫ぶみたいな展開になりかねなかったわけだが、しかしそうにはならず、あにはからんや僕の決死の一振りは殴りかかろうとする母体の左腕を切断した。
そして僕の右手には――澄み渡る白の刃の真剣が握られていた。
「『検閲』だ……、ペットボトルを検閲で真剣に変えてしまったんだ……」
篠倉は苦しそうに息を吐きながら立ち上がって言う。立つことができるくらいには回復したみたいだが、足元はふらついている。
「……アイツは僕が倒すから、篠倉はそこで休んでろ」
「剣術の心得があるのか?」
「もともと剣道部だったんだよ。これでも高一までは結構強かったんだぜ? 一人暮らしするようになってからは、家事をしないといけないから剣道部はやめちゃったけどな」
僕は刀をしっかりと握り直し正眼に構える。それを見た母体は、のっそりとした落ち着いた動きで切断された左腕を拾い上げた。
よくマンガで見るみたいに……、腕を切断箇所にくっ付けて繋ぎ直すのだろうか?
そんな僕の予想とは裏腹に、切断された左腕は母体の手の中で不気味に蠢き、やがて黒い刃を持った刀に形を変えた。
「……お、お前も同じことができるんだな……」
「………………」
母体は黙って僕と同様に刀を構える。
「……化け物のクセに、武士道が分かってるじゃないか」
僕と相手の間合いはちょうど九歩、そこから一歩二歩、地面を足の指先で掴むようにしてじりじりと間を詰める。
そして三歩目、ちょうど切っ先が触れ合った瞬間、母体は腕を素早く振り上げた。
刀の切っ先は弧を描くようにして僕に襲い掛かる。先手を取られた僕はそれを防御することぐらいしかできず、鍔迫り合いになる。
刀と刀がギチギチと嫌な音を立て組み合う。母体の力が異常なまでに強いので、刃が顔面スレスレのところまできている。少しでも気を抜いてしまえば、その瞬間に頭が真っ二つになることだろう。
……力では敵いっこない、なら……無理に逆らおうとせず、相手の力を利用すればいい。
僕は体を左に逸らし刀身を右下に下げ相手を捌く。そしてそのまま右手を返して、大きく後ろに下がりながら右袈裟に切り下ろす、ところが母体は上体を反らすことでそれを難なく躱し、素早く後ろに引いて間合いを取る。
……右腕しかないんだから左胴がガラ空きだ。でも左薙ぎは腕の動きが大きいから隙ができる、その瞬間を狙われたら一巻の終わりだ。
だったら――答えは自然と一つになってくる。
切っ先を合わせたまま僕らはお互いに睨み合う(もっとも、相手の方は仮面を着けているので目線をどこに置いているのかは分からないが)。
一秒がとても長い時間に感じ、額に嫌な汗が伝わる。本来なら、今この瞬間にも勝負を捨てて逃げ出したいくらいの恐怖を感じるはずなのだが、不思議と今の自分には余裕があった。
再び一足一刀の間合い(一歩踏み込めば相手に刀が届く距離)に刀を合わせてから二十秒ほどが経過したとき、あいての足元がピクリと動くのが分かった、……きた。
母体は力強く足を踏みだし僕に斬りかかる。その太刀筋は真っすぐに正中線を走り、まるで稲妻のような迫力と勢いで僕に向かって落ちてきた。
僕はそれを真っ向から受け止め――衝撃に耐えつつ刀を右に返し――左足を後ろに大きく開いて――相手の左胴を薙いだ――
「………………は……はは……、勝っちゃったよ……おい……」
僕の刀は――見事に母体の体を真一文字に両断していた。
五
「………………」
母体の上半身と下半身はそれぞれ陸に上がった魚のようにバタバタともがくが、しかし決して声を上げない。やがて母体の動きは止まり、最後には霧のように消えてしまった。
「トミシ! 怪我はないか?」
母体が完全に消え去るのを見て、篠倉はおぼつかない足取りで僕の方へやってくる。
「僕の方はなんともないけど……篠倉、お前は大丈夫なのか?」
「ああ、もう平気だ。夢世界では自然治癒能力が上がるんだ、夢が夢を見ている人間の補佐をするからな。見ている夢が悪夢となれば話は別だが……」
篠倉の言う通り、確かにさっきよりも傷口が塞がっているように感じるが、それでも全快とまではいかないらしく、篠倉は肩で息をしている。
「……これで悪夢にうなされることも無くなるのか?」
「そうだ、これで君の夢を蝕むものは完全に消え去った。これからは枕を高くして眠れることだろう」
「……そうか。いや、お前には随分と世話になったな」
「私は何もしていないよ。超明晰の力が開花したのも母体を倒したのも、君が一人でやったことだ」
篠倉はそう言うが、彼女がいてくれなかったら今頃僕どうなっていたか分かったものではない。篠倉には本当に助けられた。怪我をさせてしまったお詫びの意味も込めて、彼女にはまたいずれ何らかの形でお礼をしよう。
「それにしても……、君にはまだ検閲の使い方は教えていなかったというのに、あの土壇場でよく母体を倒すことができたな」
「なんか頭の中にイメージが湧いてきたんだよ。んで、気づいたときにはもう体が勝手に動いてた。案外、それが僕の超明晰の能力だったりするのかもな。自分がそのとき何をすればいいか分かる能力とか」
「……ふむ、私にはまた違った別の能力に思えるが……」
結局、篠倉にも僕の能力がどういったものなのかは判断できなかった。自分がどういう力を持っていて何ができるのか理解しておかないと、今後夢魔と戦ったときに困ることになるのは自分だと彼女は言う。
だが、それは取り越し苦労にすぎないことだ。こんな奇怪なできごとはそう何度も、というか、もう二度と経験することはないだろうからな。
「……やっぱり信じられないな。今でも盛大な夢オチなんじゃないかと思えてくる」
「よし、じゃあ私が現実の世界でそうではなかったということを証明してやる。そのためには……、そうだな、君の携帯の番号を教えてくれ」
「は? 番号? 別に構わないけど……、なんでまた……」
僕には彼女がいったい何をするのか皆目見当がつかなかったが、別に教えて困ることも無かったので口頭で僕の携帯番号を伝えた。
「……よし、覚えた。これで君が朝目覚めたときには、夢世界が実在するものだと確信できることだろう」
「……? よく分かんないけど……、携帯の番号を教えたくらいでいちいち大袈裟な奴だな」
「……よし、それじゃあ君の悪夢のついては解決したことだし、私は一足先に目覚めることにするよ。トミシ、また明日な!」
「え、何? そんな軽いノリで起きれるもんなの?」
僕の質問に答えることもなくそのまま篠倉はスーッと消えてしまい、あとには僕一人が取り残された。
「……えっ、どうすんのこれ? どうやって起きんの?」
しばらくその場をうろうろしていると、周囲に聞き覚えのある曲が流れ始めた――
――――――――
――――
――
――けたたましい電子音で目が覚める僕。
もう朝なのかと思って時計を見てみるとまだ六時にもなっておらず、目覚まし時計のアラームを合わせた時間より一時間も早かった。
目覚まし時計が鳴っているわけではないのなら、ではいったい音の発信源は何なのかと寝ぼけ眼で辺りを見回してみると、スマホのディスプレイに見慣れない番号が表示されているのが見えた。
「――あ……うあ……、何……? 電話? ……もしもし」
『おはようトミシ! どうだ、昨晩はよく眠れたか?』
あー、なるほどな……。夢世界で僕の番号を聞いたのは、僕にモーニングコールをするためだったのか。夢の中でしか教えていないはずの番号を篠倉が知っているのだから、その存在を僕は認めざるを得ない――そういうことなんだろう、うまく考えたものだ。
「……あまり寝た気がしないよ。感覚としては一晩中起きていたようなもんだからな……」
『まぁ、そうだろうな。しばらくはその状態が続くとは思うが……、そのうちに慣れてくるから心配するな』
「……だったら、いいんだけどな。……あ、それとあと、夢から覚めるにはどうしたらいいんだ? その辺の説明を受けていなかったから……、お前が電話を掛けてくれなかったら一生寝たきりだったぞ」
『よく考えてみろ。電話で起きることができるということは、外部の刺激、つまりは目覚まし時計で普通に目覚めることができるということだろう?』
「あー……、言われてみればそうだな。ってことは、お前が夢世界から消えたときのアレは単に目覚ましで起きただけの話だったのか」
『そういうことだ。それに、別に私が電話を掛けていなかったとしても一生寝たきりの状態になっていたということはない。眠りから覚めないような人間はいないからな』
眠りから覚めないような人間はいない――夢から覚めないような人間はいない。
きっと誰しも、現実と向き合わないといけないときがくるのだ。いつまでも夢の世界にうつつを抜かしてはいられない。
「……それはそうと、色々と迷惑掛けて悪かったな。改めて礼を言わせてくれ」
『だから私は何もしていないと……、ん、そうだな。礼と言うのなら一つ頼みごとを聞いてくれるか?』
「あぁ、まぁ……、僕にできることならなんだってするよ」
『よし、なら私と〝親友〟になってくれ』
「……は? しんゆう? しんゆうって……、親しい友って書くやつか?」
『そうだ、親しい友って書くやつだ』
「……なんでまた僕なんかと」
『特に深い理由はない。心から信頼し合える親友に憧れているようなことを君は言っていたし、私は私で病気のことがあって同年代に親しい仲の人間はあまりいないからな』
「………………それは僕に同情して言っているのか? 僕の心の闇に触れてしまったから――」
『うーん……、まぁそれもあるな。見て見ぬフリはできないし……、君のその、厭人癖がありながら孤独に臆病だというややこしい性格もなんとかしてあげたい』
「だったら――」
『でもそれ以上に、私が、個人的に君といると楽しいからっていう思いの方が強いな』
彼女は恥ずかしげもなく、そんなことを堂々と言う。
電話の先で満面の笑みを浮かべているところが簡単に想像できた。
「……僕には親友がいたことがないから分かんないけど、親友ってそういう契約みたいなもの交してなるもんじゃないだろ……」
『そうか? なら、君が言っていたように互いが互いを信頼し合って認め合えば親友なのか? だったら、私はすでに君のことを信頼しているし、評価もしているから親友の条件はクリアしていると思うのだが……、君の方はどうだ?』
「あ……いや、僕は……その、はぁ……分かったよ……。お前が一人でそう思う分には問題ない、勝手にしてくれ」
『そうか! だったらトミシ、君と私は今日から親友だ! 今後ともよしなに』
「あー……うん、面倒だからそういうことでいいよ……」
『それじゃあトミシ、私はそろそろ学校に行かないといけないから……、失礼するぞ。また学校で会おう』
「……おう、またな」
あいつ今日も学校に来るのか……、夢とは違って現実では体が弱いんだからあんまり無理すんなよな……。
電話を切って、まだ自分が布団からも出ていないことに気がついた。とりあえず学校に行く準備をしようと顔を洗うために洗面台に向かったのだが、そこで自分の顔が紅潮していることに気が付く。僕はそれをごまかすように、やや乱暴に顔を洗った。
身支度を終えてから簡単に朝食を済ませ、僕は家を出る。
門扉の前で、僕はなんとなく気になって家の方を振り返った。
色々あったけれど、結局何も解決していない。夢魔を倒したところで父親が家に戻ってくるわけでもないし、母親の病気が治るわけでもない。悪夢を見ることがなくなるというだけの話で、現状に何がしかの変化があるわけでもない。
つまりこれは――僕の夢物語は――ハッピーエンドでもなんでもないんだ。
ただ――押し付けがましく一方的に強要されたものではあるけれど、僕にはどうやら親友というものができたらしい。
だったらハッピーエンドとはいかないまでも、ビターエンドくらいには思ってもいいのかな? 僕は柄にもなくそんなことを思った。
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