第五夜    癒えない古傷


 緊張した空気の中、電話の先で、篠倉が息を呑みこむのを感じた。一向に何も言わない僕が、圧力になったのかもしれない。

 白日芙蓉――会長とほぼ同時期に僕の前に現れ、数々の意味深な発言をしてきた人物。なるほど、彼女が犯人なら確かに違和感は無いだろう。

 だがそれではあまりに違和感が無さすぎて、逆に不自然だ。普通に考えて、僕が犯人の立場ならあえて自分が疑われるようなマネはしない。あまつさえ、芙蓉は僕らの背中を後押しするようなことまでしていた。野々宮の家を訪ねるきっかけを与え、図書室での一件では僕らの覚悟を試すようなことまでした。今から思えば、僕らを菅原先輩の元に使わせたのも、僕らに集団欠席という事件の存在を確信させるためだったのかもしれない。

 ――それに。それに僕には、どうしても芙蓉が犯人とは思えない。

 別に庇っているわけじゃなくて、そう思いたくないだけとかそんなことではない。あれだけ不可解な行動をとっていたにも関わらず、芙蓉だけは――彼女はやっていないと、そう断言できるのだ。……理由は全く分からないが。

『だったら君は、いったい誰が真犯人だと考える?』

「そうだな……」

 まず、真犯人が僕ら、つまり荻村富士と那須美誠一に悪夢を見せたということは自明の理だろう。会長は、「なぜあの人ほどの人間が君らみたいなのに出し抜かれてしまったのか――」と、確かそんなふうなことを言っていた。それは逆に言えば、真犯人は僕らに何かしらの危害を加えたということになる。ここ最近で僕らの身に起きた大きな異変や事件といえば悪夢の他にないのだから、僕ら二人に悪夢を見せたのは、会長が言うあの人ということになる。

 その前提を踏まえた上で事の成り行きを、順を追って説明すると――事の始まりは四月、僕の悪夢からだ。真犯人は僕に悪夢を見せたあと、標的を変え、今度は那須美に悪夢を見せる。これが五月の頭。それから間もなくして真犯人は、実行委員会の設立とほぼ同時に会長をそそのかす。それにより、今度は会長がその役目を負うようになり、野々宮扇がその最初の被害者となる。確か五月の中旬から下旬にかけてのことだった。それからしばらくの間、会長は好き放題に実行委員らの夢を荒らして回るという悪行を日々繰り返していたわけだが……、それが僕らの手によって阻止され今現在に至る。

 今現在……、そういえば今日は何日だ?

 ふと気になって、僕は勉強机の上に置いてあるカレンダーを見やる。

 六月の一三……いや、日を跨いだから今日は一四日か。すると明日は一五日――文化祭だ。

『トミシ? どうした?』

 篠倉が、僕の様子を心配そうに窺う。どうやら僕は、しばらく熟考したまま無言だったようだ。

「いや、何でもない。ただ明日の文化祭、どうなんのかなって思ってさ」

『……文化祭か。いろいろありすぎて今の今まですっかり忘れていたよ』

「……だな。僕もだ」

 今日は文化祭の前日。会場設営の日だ。それを取り仕切る会長がああなってしまった今、代理として芙蓉が駆り出されることになるのだろうが……。

「……お前は、あいつが――芙蓉が僕らの夢を蝕んだ張本人で……数多の生徒を植物状態に追いやった犯人だって、そう言うんだな?」

 文化祭の話から出し抜けにそんなことを聞かれて、篠倉は動揺する。少しだけ逡巡したあと、また元の調子を取り戻して彼女は言った。

『……ん、まぁそうだ。彼女以外に、他に怪しい人間も疑わしい人間もいないというのが私の意見だし、仮に那須美君や野々宮さんに聞いたってたぶん同じように答えると思う』

「……そうか。だったら僕が直接本人に確かめてやるよ。今日の放課後、文化祭前日のミーティングがあるだろうからそのあとにでもな」

『なに……? それはさすがにまずいぞ! 今自分で言ったばかりじゃないか! 相手は数多の生徒を植物状態に追いやった――その犯人かもしれないんだぞ!』

 篠倉は時間帯も考えずに、僕の鼓膜が破れんばかりの勢いで怒鳴りつける。そのあまりの大声に、思わず僕は携帯を自分の耳から遠ざけてしまった。

「っ……。……まぁ、たぶん心配はいらないと思う。いくらなんでも、白昼堂々、人目のある中で僕を襲うようなマネはしないだろ。それにだ。確かに夢世界で犯人と接触すれば危険かもしれないが、僕が芙蓉と会うのは現実の世界。つまり、いくらあいつでも僕に手を出すことはできないってことだ」

『そりゃそうかもしれないが……!』

「第一――」

 篠倉が何か言いかけたのを遮って、僕は続ける。

「……第一、僕は芙蓉が犯人だとは思っていない。あくまでその可能性があるってだけで……、僕はその可能性を潰しにいくだけだ。警戒する必要はあっても、敬遠する必要はない」

『………………』

 僕がそこまで言いきると、篠倉は黙りこんでしまった。

 彼女が何か言いたげにしているのが、電話でも伝わってきた。

「大丈夫だ、心配するな。しつこいようだが、いくら何でも学校で事を荒立てるようなことはしないだろうよ」

 僕が念を押してやると、篠倉はやっとのことで口を開いた。

『……ふん、だといいがな。……そもそも、彼女にそれを聞いたところで素直に答えてくれるとも限らないのに……』

 それを言われると……、返す言葉も無い。

 あなたがこの事件の犯人ですか? と直球を投げてやったところでバカ正直に答えるやつなどいないだろう。だが、それでも、相手があの白日芙蓉であれば、茶を濁すようなことはしないと、なぜだかそんな気がするのだ。

 確かにいつものらりくらりと飄々として怪しいやつではあるけれど、僕らが行き詰ったときにはいつもやたら回りくどい方法で背中を押してくれていた。だから今回も、なんだかんだで僕らの手助けをしてくれると、僕はそんな甘い期待をしている。

『……分かった、私の負けだ。君の言う通り、明日、直接本人にこの件に関して問いただそう。ただし、君一人にその役目を負わせるわけにはいかない。何かがあってからでは遅いからな、複数人で行った方が多少は安全だ』

「……悪いけど、それは――」

『……ダメだと言うのか? どうして?』

 篠倉は僕に問う。落ち着いた様子だが、そうはさせまいという気迫のようなものがあった。

「理由は……、悪い、特に無い。そうしないといけない気がするってだけだ。何となくな」

『……それで私が納得すると思うか?』

「……しないだろうな、たぶん」

 篠倉が、大きなため息を吐いたのが分かった。今頃篠倉は、僕をどうやって説得したものかと頭を抱えているに違いない。それは僕も同じだった。

『……良いだろう。どうせ私が渋り続けたところで、君は一人で勝手に済ませてしまうつもりなんだろう? だったらどっちでも同じことだ』

 さすが篠倉。僕のことをよく分かってくれている。だてに親友を自称してないな。

『ただしだ! 何回目のただし分からないが、言っておくぞ! 絶対に危険なマネだけはするなよ! いいな? 約束だ!』

「おう、約束だ」

 それだけ言って、僕は電話を切った。


 次の日――文化祭前日。

 今日は文化祭の準備ということだったが、どこをみても人が少ない。

 前年、この文化祭準備の日だけは普段サボり気味のやつらも一緒になって作業していたし、またやる気のあるやつらもいつも以上に張り切って作業していたはずなのだが……、今年に限ってはまるで活気が感じられなかった。

 僕ら生徒会はその閑散としている校舎を練り歩き、各教室の責任者に出展内容の最終確認をとる。これが芙蓉から言い渡された仕事だった。

 そして、僕が任されたのは三年生のクラスの出展。三年は高校最後の文化祭とあって特に気合いが入っているはずなのだが、彼らの教室がある三階に上がった時点ですでに重苦しい陰鬱とした空気感が伝わってきて察してしまった。

 教室前廊下は、どこもかしこも看板や装飾が半端でまるで廃れたシャッター街だ。とても祭という雰囲気じゃない。責任者への確認とはまた別に、事前にデジカメを渡されて、記録として準備の様子を写真に収めるようにとも言われているが、これを思い出として残すのはちょっと酷だろう。

 僕は各教室を訪ね、芙蓉から任された仕事を遂行する。しかしどの教室も人がまばらで、責任者はほとんどいなかった。だから誰かその辺にいる適当なやつを捉まえて適当に確認を済ませる。本当は細部まで確認して書類にそれを記入しないといけないのだが、相手が自分たちの作業形態を完璧に把握しているとも限らないので、それはこちらで適当に誤魔化しておいた。そのおかげと言っていいとか悪いのか、この仕事を芙蓉に任されてから半時間もしないうちに作業を終えてしまった。

 携帯の時計を見ると、まだ一〇時にもなっていない。少し……というか大分と早いが、ここで切り上げて生徒会に戻るか。そう思って僕は踵を返した。


 一足先に生徒会室に戻ると、室内に人の気配を感じた。

 扉を少しずつ開けて、中を覗くように入室する。中にいたのは、芙蓉だった。会長の机の引き出しを全て開け放し、おそらくそこから引っ張りだしてきたであろう書類を山積みにして、そこに座っていた。

「お前、まだ残ってたのかよ。現場を見て回らなくてもいいのか?」

「残念ながら未だに書類仕事が残っていてな。これが終わっても今度は体育館の会場設営を手伝わなければいけないから、今日はもう無理そうだ」

 この日会長は、やはり学校に来ることはなかった。

 分かっていたこととはいえ、改めて事実を目の当たりにすると結構堪えるものがある。

朝一の会議で芙蓉が生徒会長代理を務めたときは、昨晩の出来事がフラッシュバックして気分が悪かった。……ただまぁ僕らに直接的な影響はそれほど無くて、一番その割を食わされているのはやはり生徒会副会長である芙蓉なのだけれど。だからこそ今こうして、業務に終われているわけだし。

 そんなことを考えていたのが顔に出てしまったのか、芙蓉が作業の手を止めて言ってきた。

「なんだ心配してくれているのか? お前らしくないな」

「してねぇよバカ。……ただ、僕らの所為でそうなってるんだから、少し思う所があるだけだ」

「それを心配っていうんだよ、バカだなぁ」

 芙蓉は呆れたような顔をして、それからクスクスと笑った。

「ま、それほど気遣われたことでもないさ。こういう……人間味のあることをするために私は生徒会に入ったのだから」

 芙蓉は涼しい顔をして言うが、僕にはその意味がさっぱり分からなかった。

 学校に会社に人付き合いに、社会の荒波に呑まれ延々と馬車馬のように働き続けるのが人間だといえば確かにその通りだと僕も思うが。

「まぁそこまで心配してくれているのであれば、それを無碍に返すこともできないしな。一つ、仕事を頼まれてもらおうか」

「またそれか……。お前、最近僕を使うことに何の抵抗も無くなってきたな。まぁ僕もそれが目的で生徒会室に戻ってきたってのはあるけどさ……。何もしていないってのもそれはそれで不安になってくるし」

「だったら別に文句ないじゃないか。黙って僕の言う事を聞いておけ」

 何か釈然としないが、例の約束のこともあるのであまり強くは言えない。もともと、芙蓉の仕事を手伝うという条件を呑んだのはこっちなのだから。

「……まぁいいや。それで? 僕は何をさせてもらえばいいんだ?」

「なに、そう手のかかった仕事でもないさ。ただお使いを頼まれてくれればそれでいい」

「お使い? どっかから備品を借りてくればいいのか?」

「そう。明日僕らが使う椅子とテーブル。これを特別教室から借りてきてほしい。……そうだな、体育館前まで運んでもらおうか。そこまでやってもらえれば、あとは僕がやる」

 ……あぁそういえば、あそこの奥に折り畳みの長卓とパイプ椅子がほったらかしにされていたな。大方、あれを使って明日の本部席をこしらえるつもりなのだろう。

「別に構わないけど……、一度に全部は運べないから、当然何往復かすることになる。それだと手間だから、他に誰か手伝ってくれるとありがたいんだが……」

 具体的には那須美とか。一応女子である篠倉や野々宮に運ばせるわけにもいかないから。

「彼はまだ仕事中だよ。……それに、いくら手間が掛かろうがこれに関しては、お前一人でやってくれた方がいろいろと都合が良い」

 相手もその方が口を割りやすいだろうからな――と、芙蓉は続けた。

「いまいちよく分かんないけど……、要は僕一人でやれってことか。面倒なことこの上ないけれど……、まぁどうせ暇だしやってやるよ」

「悪いな、助かるよ」

 芙蓉の礼を聞き終える前に、僕は生徒会室を立ち去ろうとする。

「待て、最後に言っておくことがある」

 背中越しに呼び止められて、僕は歩を止めて振り返る。すると、いつの間にやら目の前に芙蓉が立っていた。

「これから起こることは君には少々刺激が強いだろうが……、心配はいらないぜ。僕が精いっぱいのフォローをさせてもらう」

「……は?」

 芙蓉がまたしても分からないことを言うので、僕は思わず口を開けて呆けてしまう。

 そんな僕の肩に手を回して、彼女は僕をふわりと包んだ。

「自分のことは自分が一番よく分かる。お前のことを一番分かっているのは……、他でもないこの僕だ」

 それだけ言って、彼女は僕を両手で突き押すと、「さぁ行って来い!」と見送った。


 二


 ――特別教室。

 中に入ろうと取っ手に手を掛けると、室内から物音が聞こえてきた。誰かいるらしい。

「……失礼します」

 断って戸を開けると、中にいたのは座頭橋先生だった。

 見ると彼女は、文化祭関係の備品らしい大小様々な物に埋もれながら、それらを運び出そうとうんうん唸っていた。

「あ、荻村君。ひょっとして手伝いにきてくれたの? いやー助かるなぁ」

「あ、いや別にそういうわけでは……」

「一人で運ぶにはちょっと多いからねー。ちょうど男手がほしいと思ってたところなんだよー」

 先生はにっこりと笑い、足元に散乱している花飾りやら立て看板やらの装飾をぴょんぴょんと跳ねて避けながら僕の傍に来る。

 もうすっかりと僕が手伝う気になってしまっているみたいで、今更断りづらい雰囲気だった。

「このありさま……、まるで倉庫ですね。いくら収納するスペースが確保できないからってこんなところに放置しなくても……」

 床にぽつんと一つだけ転がっている風船を軽く蹴って、僕は言った。

「うーん、別に放置しているわけじゃないんだけどね。他の空き教室は出展で使われるところが多いし、職員室も近いから管理がしやすってことで一旦ここに置かれているんだけど……、まぁ確かにもうちょっと整理はするべきだったかもね」

 先生はたははと苦笑して、頭を掻く。

 もしやとは思うが、先生が「この部屋に適当に放っておいて」とか何とか指示を出したんじゃないだろうな。

「それよりも荻村君。君が進んで人の手伝いをするなんて珍しいね。どういう風の吹き回し?」

 先生はさして悪びれる様子も無く、無邪気な笑顔をたたえて言った。

 どうしてみんな、僕が人の手助けをするなんておかしい何か事情があるからに違いないみたいな体(てい)で話してくるのだろうか? まぁ実際、それが大正解なのだから何も言い返せないのだけれど。

「副会長に頼まれたんですよ。一応、今は僕も生徒会メンバーですからね」

 僕がそう言うと、先生は一瞬考えて、わざとらしくぽんと手を叩いた。

「ああ、あの子ね。白日芙蓉さんだったかしら? 私、あの子とはあんまりおしゃべりしたことがないから思い出すのに時間が掛かっちゃった」

「へー……、それこそ珍しいですね。だって先生、どんな生徒でもあつかま……、もとい積極的に話しかけるのに」

 思わず出かけた本音だったが、先生の気には留まらなかったらしい。

 彼女はいつもの考える素振りを見せてから、ふと残念そうな顔をして僕の問いかけに答える。

「それはそうなんだけど……、何だか近寄りがたいっていうか、逆に向こうが私のことを避けてるような感じがするんだよね」

「はぁ、芙蓉が先生のことを、ですか」

 それは考えもしなかったことだが……、確かに言われてみればそうかもしれない。

 最近になって先生が生徒会の活動に顔を見せるようになったというのにも関わらず、二人が会話をしているところをほとんど見たことがない。事務的なやりとりのためにちょっと会話を交わすぐらいのことはあるはずだし、そうでなくとも先生は自分から積極的に生徒と関わりを持つ人だ。それがそうじゃないということは、芙蓉の方から先生を避けている以外にはやはり考えられない。

 ……しかし、もし仮にそうだとしても、芙蓉がそんなことをする理由が見当たらないような……。

「まぁ……、そうだよね。別にあの子に何かしたってわけでもないし、特に避けられるようなことをした覚えはないんだけど……。そもそも、あの子とは最初からそんな感じだったから、そんなことをする機会も特になかったはずなんだけどなぁ……」

 うーん、知り合ったばかりの頃から避けられていたというのなら、芙蓉にとっては知り合うこと自体も極力回避したい出来事だったのかもしれない。

 あの芙蓉が、そうまでして先生との接触を警戒する理由か……。ますます分からなくなってきたな。

「そう言えば荻村君。君、白日さんに誘われて、生徒会の行事を手伝ってるんだよね? またどうして、そんな気になったの?」

「あぁそれですか。それはまぁ……、いろいろと事情があるんですよ。いろいろとね。説明するのもめんどくさいんであえて言いませんけど」

「えー、何それ。気になる言い方しといて意地が悪いなぁ……」

 先生はそのあとも「ねぇねぇいいじゃん教えてよ」と、しつこく同じ質問を繰り返したが、やっぱり面倒なので僕は適当にはぐらかす。それでも先生には諦める様子が見て取れなかったので、僕は無理やり話題を変えて気を逸らさせることにした。

「それを言うなら先生もですよ。蒸し返すようで悪いですけれど、なんで先生は生徒会の仕事を見学したいだなんて言い出したんですか? 以前、生徒会の仕事に興味があったからとか何とか言ってましたけど、生徒会は各教室から上がってきた出展内容をまとめるのが主な仕事ですし、むしろ裏方作業の事務的内容の仕事の方が多いじゃないですか。それなのにわざわざ――」


「あれ? もしかして、気づいてなかったの?――」


 僕の言葉を、先生が妙に重たい声で遮る。今までの明るい雰囲気と一転して、先生の瞳には暗い影が掛かったような気がした。まるで、彼女の周りだけに、夜の帳が下りたかのように。

 なせだろう……? なぜ先生は急に、いつもの柔らかな物腰から豹変してしまったんだ? 何か僕、先生を怒らせてしまうようなことを言っただろうか?

 動揺する僕は、何とか先生の表情を窺って、その心情を読み取ろうとする。でも、先生は張り付いたような笑顔を僕に向けるだけで、そこには何も感じられなかった。

 先生の今まで見たこともない空っぽの表情に、僕は余計に緊張して、怖ろしくなった。

「気づいてなかったって……、いったい何を……」

 しばらくの間、頭の中がもつれるように混乱していた僕は、やっとのことで呟いた。

 しかし、先生は微笑んだまま何も言わなかった。そしてそれはいつもの温かな微笑みとは違い、まるで温度が感じられない。今にも体が震えだしそうなくらいに、凍てついた微笑みだった。

「……君、まさか本当に私が、生徒たちの力になってあげたいがために彼らの悩みを聞いていたと、そう思っているの?」

「……違うんですか?」

 聞き返すが、先生はそれには答えずに、また別の質問を僕にする。

「私が君と関わるようになってから、君の周りで異変が起き始めたことに、今まで気づかなかったの?」

 教育実習生として、先生がやってきたのは四月。僕が悪夢を見始めたのも――四月。

「私が、君たち――つまり君や那須美君に、野々宮さん、そして煙草屋君の全員と関係があることに、何の疑問も持たなかったの?」

 ――そうだ。それこそが、僕が抱いていた違和感の正体だ。

 僕はあのとき――芙蓉が生徒会の相関図を書き終えたとき、まだ一人、そこに記されていない人物がいることに、実は思考の端で気づいていたのだ。

 生徒会のメンバーに関わりを持った人物を記した相関図――つまりそこには、那須美から相談を受け、野々宮が所属する弓道部のOBであり、生徒会の活動を見学することで煙草屋会長と接触した――座頭橋瑠璃が、他の誰をおいたとしても、まずもって表記されていなければならないのだ。

 そのことに僕は気づいていたはずだった。だのに、彼女が――座頭橋先生がそんなことをするはずがないと、はなからその可能性を否定して、彼女を真犯人の候補から外してしまったのだろう。およそ、無意識のうちに。それだけ僕は、彼女に気を許していたということなのか。

「なぁんだ。私、てっきり荻村君はとっくに気づいているのかと思ってたよ。それに、煙草屋君が君たちに負かされた昨日の今日のこのタイミングだしさ、彼から何か聞かされているんじゃないかなぁとも思ってたんだけど……、どうやら私の早とちりだったらしいね」

 先生が、会長の身に何があったのかを知っている。

 その事実が――僕らの心の弱い部分を利用して、僕らの夢を蝕んだ犯人が座頭橋先生であるいうことを、徹底的に残酷なまでに裏付けていた。

「まぁ、どうせ? いずれは君たちの夢に直接出向くつもりだったし、私の正体がばれるのも時間の問題で、それが早いか遅いかだけの違いなんだけどさ。それでも、こんなかたちでネタ晴らしされちゃって君も興醒めでしょう? ごめんね? 探偵ごっこの邪魔しちゃって」

 先生は、滔々と、捲し立てるような口調でそう言う。

 その言葉の速さに僕の理解は追い付けず、一人取り残されたような気分だった。

「で? どうするの君」

「……どうするって。どうもこうも……」

 脳内がいまだに混雑している僕は、言葉の意味をとくに考えもせずに条件反射でそう答える。

 見兼ねた先生が、補足して言った。

「だから、私が真犯人と分かったのはいいよ? だけど君たちは、どうやってこの一連の事件に片をつけるつもりなのかってこと。煙草谷君のときみたいに、勧善懲悪ってことで悪者はやっつけてしまうの? それとも、優しい優しい座頭橋先生にそんなことはできませんってことで見てみぬフリをしてくれるのかな? ……分かってるよね? 君、そのどちらかを選ばないとダメなんだよ? そりゃあ私的には後者の方がありがたいんだけど、なかなかそういわけにもいかないよね? じゃあどうする? 私を殺す?」

「殺す、だなんて……。だいたい……、夢世界での死がそのまま現実の世界での死を意味するとは――」

「限るんだよねそれが」

 限らない――そう言葉を継ぐつもりだったが、先生に先回りされてしまった。

「確かに君の言う通り、夢世界で死んだからってじゃあ現実世界でも同じような死因で同じように死ぬのかっていうとそうじゃないよ。でもほら、夢の中の自分ってのは自分の意識――つまり自分の精神なんだからさ、それが破壊されればもちろんただじゃすまないよね? 意識が無くなってしまえば、あとは人の形をした肉がそこに残るだけ、それはもう死んだのと同じことじゃない? 君はその目で見たことが無いから分かんないかもしれないけど」

「……自分は見たことがあるとでも言うんですか?」

「もちろんあるよ。もう十年以上も前のことだけどね」

 先生はどこか遠い目をして、それから、前髪を撫でた。いや、前髪をというよりは……その下の肌を、か。

「まぁその話も追々してあげるよ。そうだね、今夜あたりどう? 私の夢に来てみない? きっとビックリすると思うよ」

「……ビックリって、何がですか? もうこれ以上、今更驚かされるようなことはないと思いますけど」

 僕は皮肉を込めてそう言ったつもりだったが、先生はそんなことをまるで歯牙にもかけずに、涼しい顔で返す。

「それを今言ってしまったら台無しじゃん。知りたかったら、直接私の夢に出向くしかないよね。……まぁどうでもいいって言われたらそれまでだけど、でもきっと君は、そうは言わない」

 言い終えると先生は、目を細めて、口角を釣り上げて、また僕に微笑んだ。……いや、それは微笑みというよりも、ただ顔を歪めているだけと言ったほうが的確だろうか。

 僕の全身を、粘ついた何かが絡みつくような感覚が支配した。

「……なぜ、そう言いきれるんですか? 今後、あなたとは関わらないように学校生活を送ることだって、僕にはできるんですよ? 教育実習生という立場でこの学校にいるあなたは、もう何日としない内にこの学校を去る。あなたとやり合う必要もなければ、あなたに怯える必要もない」

 このままでは相手の雰囲気に呑まれてしまうと思った僕は、努めて冷静を装い、やり返す。

 ところが、先生はそんな僕の見え透いた虚勢を、ケタケタと笑い飛ばした。

「乱暴だなぁ君は……。私はただ君をビックリさせたいから、私の夢に招待しただけなのに。何? 私が君を罠にはめようとしているとでも言いたいの?」

「………………」

 僕が無言を以て答えると、先生は人差し指を顎にあてがって空中を見つめる。それから、言った。

「うーん、まぁ半々ってところかな。君とは積もる話もあるし、話をつけなくちゃならない。少なくとも君の言うように、このまま見て見ぬフリでなあなあにするわけにもいかないでしょ? それは、今までずっと人様の問題にわざわざ首を突っ込んできた、君が一番よく分かっているはずだけど」

 それは……、先生の言う通りだった。

 僕らから先生をを避けることはできても、彼女から近づいてくるものはどうしようもない。確かに、いずれ彼女はこの学校を去ることになるが、夢世界を利用すれば僕らと簡単に接触することができる。いつ先生が、僕らの隙を狙って襲撃してくるか分かったものではない。彼女の手によって、僕らがまた悪夢にうなされてしまうようなことになりかねないのだ。

 それを回避するためには、先生と何らかのかたちで決着をつけなければならない。

 逡巡していると、先生が「やれやれ、仕方ないな」と、呆れるように呟いた。

「……そうだね、今日一日だけは待っておいてあげる。君も何かと心の準備が必要だろうから、今日だけは私、受け身でいてあげるよ。私は私の夢で、おとなしくお行儀よく君を待っている。でもそれを過ぎれば、明日になれば――私は君を殺しにいくよ」

 と先生は、無表情で、無感情に、まるで僕がいることなんてすっかり忘れてしまったように、宣告した。

 誤魔化しや脅かしの無いその無味乾燥さが、かえって僕を恐怖させた。

「おっともうこんな時間か。そろそろ行かなくちゃ」

 はたと、先生は腕時計を見て、途端に普段の調子に戻る。

 そして先生は、部屋の隅に置かれていた段ボール箱をよいしょと抱えると、僕の目を見て、いつものやわらかな笑顔を浮かべて、僕に言った。

「それじゃ荻村君、私待ってるから。最期の生徒指導、すっぽかさずにちゃんと受けに来るんだよ」

 閉まった扉を足で器用に開けて、先生は「じゃあねー」と軽い感じで部屋を出て行った。

 僕はと言えば、しばらくその場で突っ立ったまま動けなかった。


 三


 ――夢の中。

 結局、僕は特に考えの無いままに、先生の夢へと繋がる扉を呼び出していた。

 考えの無いままにというか、最初から考えることを放棄していたような気さえする。今ここで思い悩んだところで僕にはどうしようもないという諦念がどうにも拭いきれず、かと言って、このまま事を放っておくわけにはいかないという焦燥感が、僕を行動に移らせた。

 再三言うが、特に考えがあってのことではない。故にこの扉を開けてしまえば、僕の身に何が起きても不思議ではないし、その不測の事態を切り抜ける策があるわけでもないので、明日の朝日が拝めるかどうかも分かったものではない。それでも避けては通れないことだから、有り得もしない僥倖に期待して、どうにか事がうまい具合に収まりますようにと、そうでなくとも最悪の事態だけは回避できますようにと、願う他ないのだ。

 まるで、全く勉強せずに受けたときの中間テストみたいだなと、僕は自嘲気味に笑う。たいしてうまくもないが。

 僕は決心して、というよりも諦め直して、扉を開いた――


 そこは、どこにでもあるような、とは少し言い難い家だった。

 たぶんここは、どこかの家の、おそらく座頭橋先生の家の、二階だろう。それは分かる。

 ただ、そこらじゅうに何かしらの傷跡というか、壁が凹んでいたり和室のふすまが破れていたりところどころ引っ?き傷のようなものがあったり、一番びっくりしたのは浅黒い血の跡のようなものが壁にこびり付いていたことだったが、とにかく異様な雰囲気だった。

 おっかなびっくり廊下を歩き、僕は真っすぐ階段を目指して、速足で駆け下りる。

 一階は、二階よりもさらにひどかった。

 空きっぱなしの扉から少しだけリビングを覗けたのだが、壊れていない物の方が少ないと言ってもいいぐらいだ。木製の小棚にはぽっかりと穴が空き、足の折れた椅子が床に転がっていて、ソファは破れて中の詰め物がはみ出ていた。そして僕が見た限りでは、たぶんこの部屋が一番、壁の汚れや傷が多かった。

 どう考えても、普通に暮らしていてこんなことになるはずがないし、そんな状態のまま放っておくわけがない。……ってことはつまり、この家では、誰も普通に暮らしていなかったということだ。

 思わず鳥肌が立ってきて、僕は早急にこの場所から、この家から立ち去ろうとする。

 玄関に向かい、そこにあったボロボロに履き潰された小さな靴を脇目に、僕は外へと出た。


 ――驚いた。

 こんなことがあるのだろうか。

 玄関の外は――まるっきり現実の世界と何ら変わりのない、いたって普通の住宅街だった。

 見上げれば青い空がどこまでも広がっているし、この家並みはずっと先まで続いていて、探せば僕の家だって城野高だってありそうだ。まるで、僕は夢から覚めてしまい、そのまま寝ぼけた頭で家を出たのかと錯覚を受けるぐらいに、現実世界とそっくりだった。

「やあ、荻村君。来てくれると思っていたよ」

 声の振ってきた方を向くと、はす向かいの家の屋根に、足だけ下ろして座頭橋先生が座っていた。

 手に――何かの腕を握って。

「ああ、これ? 心配しないで、これは夢魔の腕だから。この間からひっきりなしに私の夢の中に出てくるんだよね……、もう随分と前からそんなこと無かったのに。たまに見つけても刃向ってくることなんて一度も無かったし、むしろみんな私の言うことを従順に聞いてくれてペットみたいで可愛かったのになー」

 言って、先生はその腕をまるでゴミか何かのようにぽいっと投げ捨てる。

 夢魔の腕が僕の目の前で、落下と同時に、その赤い血を飛び散らせた。

 普段ならそれが異様なことに思えて騒いでいただろうが、不思議と今は落ち着いていた。      

 顔に血の飛沫がいくらか付着したが、僕は至って冷静にそれを拭うと、周囲の景色の観察に戻った。

 それがかえって目立ってしまったのか、先生はそのときの僕の心の内をあっさりと見破った。

「私の夢がそんなに気になる?」

「……ここは言ってみれば敵陣みたいなもんですよ? 警戒するなって方が無理な話です」

 殊更に語気を強めて、僕は相手に気圧されないように努める。そうでもして自分を奮い立たせないと、今の僕には、先生に完全な敵意を向けることが難しかった。

「ま、それもそうだね。だって私、君を殺すよーって宣言しちゃってるんだから。……うん、確かにそうだ」

 先生は屋根の上からタッと飛び降りると、さっき夢魔の腕を投げ捨てた辺りに、つまり僕のほぼ目の前に着地する。

 そして、先生は出し抜けにこう切り出した。

「私が今見ているこの夢、実は悪夢なんだ」

 ……悪夢? この夢が? 

 確かに、現に夢魔が出現しているわけだからこの夢は悪夢なのかもしれないが……。そもそも先生には悪夢を見る理由が無いはずなのだが。

 だいたい、これが悪夢というのなら――先生は、この世の全てに等しく憎悪を抱いているということになる。

「そう、その通りなんだよ!」

 先生は我が意を得たりとばかりに僕の肩をぽんと叩いた。

 それから大袈裟に両手を開くと、空を見上げて、ほとんど叫ぶように言った。

「私はかつて……ううん、今だって、この現実世界が大っ嫌いなの! 大っ嫌いで仕方がなくて、だから私は夢を見るのが好きだった! 毎晩、眠りの時間だけがたまらなく待ち遠しかった! どうしてだか分かる? 荻村君!」

 先生は不気味なくらい快活にまくし立てるので、そのあまりの気迫に思わず僕はたじろいでしまい、二歩も三歩も後ろに下がる。

 それを見て我に返ったのか、先生は急に落ち着き払って、また普段の調子で語り始めた。

「私、小さい頃からずっと虐待を受けていたの」

 その瞬間――僕には時間が止まったように思えた。

 周囲の時間の流れが硬直し、僕の頭の中で先生の台詞が絶えず反芻される。

 焼け付くように耳に残った『虐待』という言葉の意味を、僕はやっとのことで思い出し、そしてようやく理解した。

「私の親、かなり若い頃に私を生んじゃったらしくてね、親になった喜びよりも煩いの方がずっと大きかったみたいなの。だからか親としての自覚や責任は毛ほども芽生えなかったみたいで、ほとんどネグレクトみたいな状態だった。それでも周囲の人の目があるから完全にほったらかしにされることは無かったんだけど、何か自分たちの気に入らないことがあれば、すぐに八つ当たりされた。殴る蹴るは日常茶飯事だったし、それで泣き喚こうものならもっとひどい目にあわされた。だから私はあいつらの機嫌を損ねないように、いつも家の隅で膝を抱えてじっと座っているようにしていた」

 親の機嫌を損ねないように、ただじっと座っている――自分の気配と存在を殺し、ただ一人きりでぽつんと小さくなって、先生は幼少のころから過ごしてきた。

 それがどんなにつらいことか、いや、ただ一言つらいというだけではあまりに稚拙で不相応だろう。両親に怯えてじっと息を潜めている間、先生は何を考えていたのだろうか?

それを僕程度が代弁するなんて到底できそうにないし、些かおこがましいというものだ。

 先生は僕の隣にやってくると、適当な場所に背中をもたれさせ、なおも続けた。

「ずっとそうしてすごしていたんだけど……、あるとき、小学生の高学年くらいのときかな? それが何だったかさっぱり覚えてないし、もしかしたらさほどたいしたことでもなかったのかもだけど、さすがに我慢ならないことがあってね。それであいつらに反抗したことがあったんだよ。……で、案の定というか予定調和というか、やっぱり二人とも激情してね。気が触れたように怒り狂って、今までは何かあるたびに一発もらう程度だったのが、殺されるんじゃないかってぐらいにぼこぼこにされたよ。父親は私に馬乗りになって殴り続けるし、母親は私の髪を引っ張って引き摺り回すし、それはもうひどかった。そうそう、息が止まる寸前まで首を絞められたりもしたかな。正直、もう何をされていたのかも曖昧なぐらいに意識が朦朧としていたから、それもよく覚えてないんだけど。ただはっきりと、それだけは鮮明に、今でもたまにそのときのことがフラッシュバックするぐらいに覚えていることが一つだけあってね……」

 先生は――顔の左半分を覆い隠している長い前髪をかき上げ、そしてこちらを向き――

「どこから持ってきたのかわざわざ準備したのかよく分かんないけど、風呂桶に入れた熱湯を……私の顔にぶちまけたの」

 と、僕に――火傷でひどくただれた顔を近づけ、まざまざと見せつけた。

 僕は……、僕はそのときどう感じたのか、自分でもよく分からなかった。

 驚いて声も出なかったのか怖くて腰が抜けたのか悲しくて嘆いたのか怒りに震えたのか、あるいはその全てなのか。いろんな感情がないまぜになって、急に何もかもが分からなくなった。

 なぜ僕はこんなところに来てしまったのだろう? ここに来さえしなければ、こんな得体の知れない感情に襲われることもなかっただろうに。今すぐに帰りたい。ただ自分の力では、この人から逃げることはできない。誰でもいいから僕を、この場所から連れ去ってくれ!

「そこから先はもう完全に覚えてない。たぶん、そのまま意識がとんじゃったんだろうね。次に目覚めたのは、病院のベッドの中。それからすぐに知らない大人の人たちがやってきて、私はしばらくの間、両親と離れて暮らすことが伝えられた。間もなく私はそういう特別な子供の面倒を見ている養護施設に引き取られて、ようやくこの苦しみから解放されるのかって、その代償がこの火傷なんだって、やっと包帯がとれてむき出しになった肌をさすりながら、自分を無理やり納得させた。そのときはまだ子供だったし、いつかこんな火傷はすっかり治ってしまうだろうって信じてた。……でも、そうはならなかったし、また別の問題が私の身に降りかかった」

 いたたまれなくなって、僕はその場を逃げるように立ち去ろうとする。

 だが、先生に素早く腕を掴まれてしまい、それは叶わなかった。

「それから身の回りのことがやっと落ち着いて、私は学校生活に復帰したんだけどね。私のこの顔が気味悪いのか、みんなの私を見る目つきが明らかに変わったの。まず初めに、私に関わろうとする子が段々と減ってきて、その次に陰で私の噂をする子が増えてきて、それから私が教室に入るたびにそこかしこからくすくすと小さな笑い声が聞こえてくるようになって、いつの日にか私は、クラスのみんなからいじめを受けていたわ」

 先生の、僕の腕を掴む力が一層強くなる。爪が食い込んで血が滲み、振り払おうとしても傷口が抉れるだけだった。

「……くっ、くくく」

 先生が、ぼくの腕を掴んだまま、もう片方の手で額を押さえて自嘲するように、笑う。

「くくっ――はははは――あははははは!」

 ようやく僕の腕を話すと、先生は抱腹して、その場に崩れ落ちるようにしゃがみこんだ。

 そのおかげで僕は、やっと解放される。腕にはくっきりと爪の跡がつき、肌は内出血で赤紫色に変色していたが、しばらくの間僕はそれに気がつかなかった。

 いまだに狂ったように笑っている先生に、僕は尋ねる。

「……何が、何がおかしいんですか? 先生」

「だってさ、だってこれが笑わずにいられる? 無理やりにでも笑わないと私、気が変になりそうだよ。……いや、もう変になってるのかな」

 先生はゆらりと立ち上がると、真っすぐに僕の方を向いて、一歩二歩と歩み寄ってきた。

「それから私が、君たちの言う超明晰の力を使えるようになるまでに、さほど時間はかからなかったよ。私は私自身の不幸足る所以を理解していたし、その頃の私はいつも、もしも私がこうだったらああだったらって妄想して現実逃避していたからね。自分が何を求めているのかは、わざわざ再確認するまでもなかった」

 先生はシャツのポケットに手を入れる。そしてそこから取り出したのは、カッターナイフ。その刃を僕に見せつけるようにして、チキチキと伸ばした。

「私が夢の世界の仕組みに気がついて、まず初めに何をしたと思う?」

 僕が反応する前に、すぐに先生は喰い気味で答えを言った。

「親をねぇ、殺しにいったの。もちろん現実の世界でそんなことをしたら捕まっちゃうから、夢の世界でだけどね。何とか他人の夢に行く方法を探し出して、そこからさらにあいつらの夢を見つけて、私は二人を殺した。逃げまどうあいつらを執拗に追いかけて、ちょろちょろ動き回られたら面倒だから足の骨を折って、何度も何度も切り裂いて、最後に顔を焼いて殺した。――それはもうっ……、痛快だったよ!」

 体の小刻みな震えを両腕で抱えるようにして抑えて、先生は恍惚の表情を浮かべた。

 火照った体の熱を逃がすように先生は一つ息を吐くと、間を置いてから続ける。

「あいつらが私に乱暴する理由が分かったような気がしたよ。そりゃあこんな感覚一回でも味わってしまったら、癖になって止められないよね」

 ――狂っている。この人は狂っている。きっと度重なる惨苦が、先生をおかしくしてしまったのだろう。先生は頭のネジもたがも、何もかも外れてしまっているんだ。

 僕は今までこんな人と関わり合いになっていただなんて、思い出すだけでも身の毛がよだつ。こんな人とは、先生とは、座頭橋瑠璃という人間とは――間違いなくまともに取り合ってはいけない。でなければ、僕も彼女の両親と同じ目に合わされてしまうだろう――

「あ、そうだ。私がどうやって君たちに悪夢を見せていたか分かる?」

 先生とはぴんと人差し指を立てて、僕に尋ねてきた。

 しかし僕はまるで見当がつかなかったし、これ以上彼女に裏切られるようなことを聞きたくなかった。だから「……いえ」とひとこと言うだけで、他に何も答えない。

 それでも先生は無理やり押し付けるように、その答えを僕に聞かせた。

「あのね、私、ずっと生徒の相談を受けていたでしょう? あれ、二つの意味があってね。一つは生徒の夢の中に行くため。生徒がどんな人物か知っていなくちゃその子の夢の中には這入れないからね。もう一つは、生徒のトラウマを知るため。その子がどこに傷を抱えているのかを知って、それをその子の夢の中で再現するの。例えば君だったら、君が独りになるような空間を作りだしたり、母親の怒鳴り声を聞かせてやったりとか……、要は悪夢の骨組みとなるものを用意すれば、あとは簡単に悪夢ができあがる。煙草屋君がやってたのもこの方法だよ」

 というより私が彼に教えたんだけど、と先生は付け加えた。

「煙草屋君は自分がなまじ優秀な分、思い通りにならなかったときは何でも人の所為にする嫌いがあるからね。それだけ他人に対する不満も大きかったから、すぐに悪夢を見せることができたし、それが逆に使えるかなと思って、彼は特別扱いで私の手駒にすることにしたの。そしたら案の定せっせと働いてくれて、私が手を掛ける必要もなくなっちゃうぐらいだった。……本当に扱いやすい子だったよ彼は。何せ素直で、それ以上にバカだからね」

 先生はそう冷たく言い放つと、大きなため息を吐く。

「……あーあ。教師になれば生徒を使って遊べると思ってたのに、君たちの所為で調子が狂っちゃったよ。……とくに――篠倉美鷹。まさか過去に悪夢を経験した子が、よりにもよって私が研修に来た学校にいるだなんて……思ってもみなかった。とんだ誤算だったよ」

 先生はカッターの刃を伸ばしたり縮めたりを繰り返しながら、憎々しげに呟いた。

 それで今やっと、会長の言っていたことの意味を理解した。

 あの人とは座頭橋先生のことで、イレギュラーとは、悪夢の対処法を知り得ている人間――つまり篠倉のような人間がいたことで、一度悪夢を見せたはずの人間がその悪夢から免れることになるとは想像だにしなかったということだったんだ。

「ほんと……誤算だった。誤算も誤算。誤算誤算誤算誤算誤算…………」

 ――だん! と、先生はいきなりその場で地団駄を踏んで、喚き散らした。

「私と近い境遇だったから君のことは気に入っていたのに……! 特別時間を掛けて長い長い悪夢を見せてあげるつもりだったのに……! それをあの子は無駄にして、しかもそれだけじゃあない! 次は荻村君も一緒になって、私が折角手を掛けてきた悪夢をことごとく台無しにした! その上、何? やっすい友情ごっこまでしてくれちゃってさ。あまりの臭さに鼻が曲がりそうだったよ。臍はもう曲がってるけどね」

 自分で言ったことが可笑しかったのか、先生は愉快そうにニヒヒと笑った。

「おかげで私も、さすがに気分が悪くなっちゃってね。それでこの悪夢だよ。……あれだろうね。今までの凄惨な環境から抜け出そうとしている君が、妬ましかったんだろうね。ほら私、君にとっての篠倉さんたちみたいに、心の拠り所になってくれる人なんていなかったから」

 先生は辺りを見回して、それから僕に目線を移して言った。

「私はね、荻村君。悪夢にうなされていた頃の君の方が、誰も頼れる人がいなかった孤独な君の方が、ずっと素敵だったと思うよ。誰にも心を開かずに、いつも下を向いて生きていた君の方が。どこか割り切ってるっていうか、何もかも目に映る物全てを諦めている感じの瞳が、凄く魅力的だった。……そうだよ、絶対にその方が良かった……」

 先生は俯き気味で何やらぶつぶつと呟いている。何を言っているのかはさっぱり分からないが、これから良くないことが起きるというのはことだけは嫌というほどに理解できてしまった。

「……私がまた、君に悪夢を見せてあげるよ。終わることのない、永遠に覚めない夢を――」

 と、小声でだったが、確かにそう聞き取れた。そしてその言葉を理解した次の瞬間には――先生が、僕に向かって跳び掛かっていた。無論手には、限界まで刃を伸ばしたカッターナイフが握られている。

「っ……!」

 僕は反射的に、腰に帯びていた刀を抜刀する。しかし間に合わず、刃が僕の右腕をかすめた。それでもこの咄嗟だから、直撃を避けただけでも奇跡みたいなもんだ。あともう少しだけでも抜刀が遅かったら、刃が腕の間をすり抜け腹の中心に突き刺さっているところだった。

 腕の傷口を片手で押さえながら、僕は慌てて先生と距離をとる。一方先生はその場でしばらく突っ立って、不思議そうに僕を見つめていた。

「あれ? なんで逃げるの? なんで武器を構えるの? 君まで……、私をいじめるの?」

「ふざけないでください……! あなたが先に僕を……」

 言いかけて、僕は気づいた。

 たいしたことはないが、先生の右手にも、浅い切り傷がついている。たぶん抜刀の拍子に、刀の刃が先生の手に接触したのだろう。いじめるというのは、このことを指していたのか? それにしたって、僕らにした仕打ちを考えてもいくらか大袈裟すぎるような気がするが……。

 そう思ってふと先生の顔を見ると……、なんと彼女の頬には、一筋の涙が伝っていた。

「え? あ、あの……、先生?」

「……たい」

「は?」

「……痛い。痛い、痛い痛い痛い痛い痛いイタいイタいイタいイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ――」

 僕がつけてしまった傷で、先生は何を思い出したのだろうか? 膝をつき、苦痛に顔を歪め、体をぶるぶると震わせて、先生は壊れたラジオのように小さく何度もただただ痛いと繰り返す。

「……はぁ……はぁ……はぁー……」

 過呼吸気味に深呼吸をして、やっと落ち着きを取り戻す先生。

 先生は苦しそうに胸を押さえながら立ち上がると、最後にまた大きく息を吸う。それから虚ろな目で僕を睥睨して、小さく舌打ちをした。

「ほんっと嫌な気分……。痛いし息苦しいし昔のことは思い出すし……、それもこれもみんな君の所為……。おとなしく私のオモチャになっていればよかったのに……、ね!」

 瞬間――地面を弾くように跳躍した先生が、逆手に持ったカッターを僕に向けて襲い掛かった。

 その弾丸のような圧倒的な速さは、篠倉に勝るとも劣らない。おかげで、防御するのがやっとだった。

 鍔迫り合いの状態で張り付いたままでは獲物の長さで圧倒的に不利だから、僕は何とか間合いを作ろうと後ろに下がる。が、それとほぼ同時に先生も詰め寄って来て、さらにその度に僕を切りつけてくるものだから、受け手に回るので精一杯だ。しかも先生は、カッターを順手に逆手に持ち替えて、突いたり切ったりときにはフェイントを織り交ぜて変則的に襲い掛かってくるので、どうにも切り筋が読みにくい。目線は僕の目だけに向けられているし、まるでどこを狙っているのか分からない。それは会長のような単なる素人芸ではなくて、かといって僕のように型にはまった競技としての剣術でもなく、言うなれば相手を痛めつけ殺すことだけを目的とした何でもありの喧嘩殺法だ。全く今更だが、この人は僕を本気で殺しにかかっている。

「あははははは! ねぇ楽しい? 楽しい? 荻村君。 私はすっごい楽しいよ!」

 先生はカッターを振り回しながら、甲高く笑う。

 ……それにしても、よくもそんなにころころと表情を変えられたもんだ。さっきから事あるごとに態度や情調が急変するし、あまりにも精神が不安定だ。普段の先生からでは全く想像もつかなかったことだが、今の先生は、抑鬱と興奮が頻繁にスイッチしている。

 ……とすると、もしかするとそこに付け入る隙があるのかもしれない。人間、精神状態が劇的に変化する瞬間は、集中力が途切れるものだ。自分の様々な感情を整理するのに思考と意識のリソースを割いて、他のことには手が回らなくなるからな。その節目を狙って、僕に注意が向けられていない一瞬の隙に攻撃を仕掛ければ、何とかこちらにも勝機はあるかもしれない。

 ……そんなことをつらつらと考えていると、

「――がっ……!」

 突然、下腹部に強烈な痛みを感じ、後ろによろける。どうやらカッターを持った右手ばかりに気をとられている隙に、左手で鳩尾を殴られたようだ。

「……ダメだよ荻村君、考えすぎるのは君の悪い癖。打開策を見つけるのも大事だけど、今この状況を凌がなくちゃどのみち一緒なんだから。……傷つけあうってことは理屈じゃなくて、もっと衝動的で感覚的なものだよ」

 ……隙だらけなのは、僕の方か。そりゃそうだろうな。だって一番動揺しているのは、様々な感情の整理ができていないのは、この僕なのだから。

 今だってできるだけ今までの先生のことは忘れようとしているのに、どうにも頭から離れない。応戦しようと刀を振り上げても、あの特別教室で無理やり相談をさせられていた日々のことが頭によぎる。力なく、また刀を下ろすことしかできない。

 仕方ないだろ。だって、つい昨日までは先生と普通に接していたんだぜ? 普段と何も変わらず先生の授業を受けて、何げない会話をして、いつもの近況報告をして、それだけだったのに、どうして僕は今先生と刃を交えているんだ?

 ――何度も何度も同じ疑問が繰り返し頭に浮かぶ。

 こちらにも勝機はある。それは間違いない。だがこのよく分からない争いに僕が勝ったとして、どうなるんだろうか? いや正確には、勝つとはどういうことを指すのだろうか? 負ける条件ははっきりしている。僕が先生に殺されることだ。ではそうならないためには、僕が勝つためには、先生を殺さないといけないのだろうか? 僕は昼間先生と別れたときから、再三自分に問うた。もちろん僕は殺されたくはない。しかし、僕に先生を殺すことなんて到底できない。だったら僕は、どうすればいい? いまだ答えは出ない。

「……何? 君、まだ私と闘うことに迷いがあるの?」

 先生は一旦攻撃の手を休めると、僕に、憐れむような呆れるような視線を投げた。

「何のために時間をあげたと思ってるの? 私、言ったよね? 心の準備をしておきなさいって。それなのにまだ踏ん切りがつかないの? だったらなんでここに来たの?」

「………………分かりません」

 まっすぐと僕の目を見る先生とは対照的に、僕は下を向いて、ぼそっと独り言のように呟いた。全身の力が手足の先からどんどん抜けていくような気がして、握っていた刀はもうほとんどぶら下がっているだけにすぎなかった。

 そんな僕に追い打ちをかけるように先生は、つかつかと傍までやってきて、僕をなじった。

「あのさ荻村君、確かに私、君とは話をつけないといけないって言ったよ? でもさ、当然それは、言葉通り話し合いで決着をつけるって意味じゃないよね? それは君も分かってたことでしょ?」

 僕は先生の方を向きもせずに、俯いたまま黙って頷いた。

 それを受けて先生は苦笑する。

「でしょ? じゃあなんでそんな半端な覚悟で私に挑むのさ? まさか君、私が君のことを見逃すとでも思っていたの? ……笑っちゃうね。甘すぎるよ、荻村君」

 吐き捨てるように言って、先生は僕の顔を振り払うように殴った。全身脱力していたこともあり、僕の体は跳ね飛ばされる。

 そして先生はその場に倒れてしまった僕の顎を乱暴に掴むと、無理やり立ち上がらせた。

「いい? 荻村君。私はね、君を自分の手元に置いておきたいの。キレイな箱の中に大事にしまって、ずっと変わらない景色の中ただたださまよう君の姿を、私は眺めていたいのよ。鳥かごの中の鳥みたいにね。だから私が君に手を出さないだなんて、万に一つも有り得ないの」

 先生はそっと僕の顔から手を放すと、僕の体をぎゅっと抱きしめた。そして、耳元で小さな子供に語りかけるように、優しくゆっくりと囁く。

「君にはまた悪夢を見せてあげる。君が一番魅力的だった、あの子たちと出会う前の君の夢を、ずっとずっと見せてあげる。……特別だよ、荻村君。私、他の子にはこんなことは絶対しないんだから――」

 先生はそこまで言って、僕の頭をそっと撫でる。

 名残り惜しそうに手を放すと、僕の肩を強く掴み、もう片方の手を縦に大きく振りかぶった。

「あ――」

 それとほぼ同時に、僕の胸部に焼け付くような鋭い痛みが走った。

 見ると、先生が僕の胸にカッターを突き立てている。体中の熱と共に血液が傷口から漏れ出し、頭の中がしだいに空白で埋め尽くされていく。足に力が入らず倒れそうになった僕を、先生が両手で抱えて支えた。

「……そ、君は特別。君の暗澹とした日々を、悪夢の中でもう一度、永遠に見せてあげるの。それは夢と現実の区別もつかない胡蝶の夢――いつの間にかその夢が君の中での現実になって、現実の世界のことなんてすっかり忘れちゃうだろうね――」

 聞き取れたのは、そこまでだ。それ以降は意識が朦朧として、目を開けていることすらつらくなっていた。

「行ってらっしゃい。荻村君」

 完全に僕の意識がなくなる間際、先生はもう一度僕の体を優しく抱きしめて、たぶんそう言った――


 ――――――――

 ――――

 ――


 ピーピッ――ピーピッ――ピー……。

 目覚まし時計の癇に障る音を、僕は途中で遮った。

 時刻は午前七時ちょうど、朝の身支度を済ませ電車の時刻に間に合わせるには、割とぎりぎりの時間だった。

 僕はベッドから跳ね起きると、急いで顔を洗い歯磨きを済ませ制服に着替えて家を出る。朝食をとるのを忘れてしまったが、学校ではほとんど寝て過ごすだけでたいしてエネルギーも使わないので、さして問題はないはずだ。

 桜並木を小走りで過ぎ去り、僕はバス停まで向かう。走りながらケータイで時刻を確認すると、午前七時一九分。後ろを振り返ると、向こうの方にもうバスが見えていた。

 バスと並走するようなかたちでバス停に到着した僕は、息を整えながら一番後ろの席につく。

 駅まで約一〇分。まだ眠気が残っていたので、僕はこの間少し目を閉じておくことにした。

 バスに揺られながら、僕は昨夜のことを考える。昨夜は、何か大変な夢を見ていたような気がする。僕はそこで絶体絶命のピンチに陥っていたはずだが、そのピンチが何だったかはまるで思い出せない。とりあえず夢を見たことだけは覚えているのだが、その内容はさっぱりだ。だがまぁ忘れてしまったということはたいしたことでもないのだろう。ただでさえ心労が常日頃から多いというのに、そんなくだらないことを思い出そうとして無駄に頭を使う必要も無いだろう。そんなことを考えている暇があれば、今日の小テストの勉強をした方がいくらか有意義だ。

 今日は四月一二日――二限目に倫理の小テストがある。


第六夜    胡蝶の夢


 一


 結露によって真っ白になった窓ガラスの外を、私はただぼーっと見つめていた。

 窓が曇っているので外の様子はほとんど窺えないが、朝から轟々と降り続けている大雨の音だけは私の耳にはっきりと聞こえてくる。

 昨日一昨日からやっと治まりつつあったというのに、文化祭本番がこれでは全く意味が無い。一応、出店のほとんどが校内で出展されるものだし、もともと外のスペースを借りて出展する予定だったものは、急遽旧校舎の一角を使われる運びとなったのでさして影響は出ていないのだけれど、さりとて、こうもじめじめした薄暗い空気が蔓延してはいくらか気分も塞ぎ込んでくるというものだろう。

 私は深いため息をつくと、作業に戻る。

 文化祭一日目、時刻は午前十一時を過ぎた。あともう少しすればランチタイムだというのに、私たち二年二組が出展しているメイド喫茶は実に物寂しい客入りだ。午前九時からの開店だが、いまだ片手で数えられるほどの人数しか客が入っていない。寄せ集めた学校机に安っぽいクロスを敷いて作ったテーブル席は、今現在その全てが空席というほどだった。

 しかしそれはどこの出店も同じようで、そもそも文化祭に出席している人数からして少ないようだ。それほどに校舎は閑散としているし、平生であればそこかしこから聞こえてくるはずの活気溢れたざわめきはどこへやら、雨がアスファルトを打つ音だけが校舎中に響き渡っている。

「はぁー……。何かすっごく憂鬱って感じだ……」

 店内から衝立で仕切られた調理場。そこにある本格的なコーヒーサーバーを適当にいじくって暇を潰していると、同じクラスのある女子生徒が話かけてきた。

「あのっ……、篠倉さん。ちょっといいですか……?」

 ――彼女……確か三橋(みはし)さんと言ったか。客もいないのに大事な機材で遊んでいることを咎めにきたのかと初めは思ったが、どうやらそうではないらしい。彼女は同じく私のクラスメイトである夏(なつ)秋(あき)さんに連れられて、もじもじといじらしく「あの……その……」と言い淀んで、私に何やら話を切り出そうとしていた。

「……えーっと、何か用かな?」

「あっ……す、すいません! えっと……その……それ、似合ってますね……!」

 それ、というのはどうやら私が着ているこの執事服のことを言っているらしい。

 クラスの女子みんな、更に言うと男子さえもがメイド服をもらっていたというのに、私だけがこの執事服を配られたので正直がっかりしていたのだが、そう言ってもらえると私も悪い気はしない。

 というか、別に見た目と性格が男っぽいからといって女子女子している服を着ないとかそういうわけじゃないんだ。ふりふりした夏物のワンピースだって好きだし、もこもこした冬物のカーディガンだって好きだ。……ただちょっと邪魔くさいなとは思うが。

「ほら、言っちゃいなよって! ここで言わなきゃどうすんのさ!」

 もじもじする三橋さんの背中を、彼女とは対照的に陽気な夏秋さんが、バンと叩いて文字通り背中を押す。

 そして彼女はやっとのことで、訥々とではあったが話し始めた。

「あ、あの……篠倉さんは今日、誰かとその……色々と見て回ったりとか……しますか?」

「いや、特に予定は無いが。あまりに人がいない所為で生徒会の記録の仕事も今日のところは免除になっているし。……それがどうかしたのか?」

「あっ……えっとその……、もしよければ……私と文化祭を……」

 言葉尻がやけにもにょもにょして聞き取りにくかったが、どうやら一緒に文化祭を回ろうと誘ってくれているらしい。

 病気の加減でほとんど学校に通えていない私は、今までまともにクラスメイトと交友を持ったことが無い。故にクラスでも浮き気味だったのだが……、そんな私に友好的に接してくれるのは素直に嬉しかった。断る理由も特にないのでそのまま誘いを受けようとも思ったのだが、一つだけ気になることがある。

「……たった今予定が無いといったばかりで申し訳ないんだけれど、ちょっとした用事があることを思い出した。だから……、ごめん。また次の機会に誘ってくれないかな?」

 両手を合わせて深々と謝ると、三橋さんは「うぅ……」と見るからに残念そうな悲しそうな表情になるので余計に罪悪感が増してしまった。

「あちゃー、やっぱ無理だったか。荻村君の存在は大きいねぇ……」

 と、夏秋さんが何やらよく分からないことを、うんうんと頷きながらに呟いた。

「どうしてここでトミシが出てくるんだ?」

 尋ねると、彼女は意味深な微笑みを浮かべた顔を私に寄せて、周りに聞こえないように秘密めかして囁いた。

「篠倉さん。最近、六組の荻村君と付き合ってるってもっぱらの噂だよ?」

「なっ……? 私とトミシが……つ、つき……?」

 驚いて思わず大きな声を出してしまい、クラスにいるみんながこちらを向いた。

 それに気がついた私は急に気恥ずかしくなって、彼女ら二人を教室の隅の方まで連れて行き会話が周囲の人間の耳に入らないようにしてから、話を再開する。

「な、なんでそのような根も葉もない噂が広まっているんだっ……?」

「えー、だって……ねぇ?」

 夏秋さんが三橋さんに流し目を送る。それを受けて三橋さんは、その言葉の先を継いだ。

「だって篠倉さん……、いつも荻村さんの近くにいるから……。登下校も一緒にしているらしいですし、昼休みにはわざわざ六組まで出向いて二人でお昼を食べているそうですし……」

「ちょ、ちょっと待ってくれ! 二人きりというわけではない! 野々宮さんや那須美君も一緒だ!」

「それはそうかもしれませんけど、でも篠倉さんが荻村さんにお弁当を渡しているところを見たっていう人が……。それもほぼ毎日、頻繁に……」

「それはだからまぁその……なんだ。彼の食事がいつも購買やコンビニで買ってきたものだから……、それでは不摂生だろうと思ってのことで……」

「へー、荻村君の食生活まで熟知してるんだ。さっすがー」

 夏秋さんはニシシと笑って、私を肘でこのこのと突っついてきた。

 いやほんと、決して深い意味があるわけじゃないんだ……。ただトミシの家庭はいろいろと複雑で、彼は今ほとんど一人暮らしのような状態だから……、せめて昼食だけでも面倒を見てやらないと不健康だし、それ以上に何だか味気なくて寂しい気がする。だから不肖私がおせっかいを焼いているわけだが……、まさかそれをペラペラとあけすけに説明するわけにもいかないので、私も言葉に窮してしまった。

「ほら、やっぱりそうなんじゃん。そりゃそうだよね、あれだけ二人で一緒にいて何の関係も無いって方がおかしいもん。ねぇ?」

 夏秋さんが同意を求めると、三橋さんが小さくこくこくと頷いた。

「その噂があったから、私てっきり篠倉さんは文化祭を荻村さんと一緒に過ごすものだと思って誘いづらかったんです……」

 ……図星だ、ほとんど正解。これからその約束をしようと思っていたところだ。

「いや、ホント済まないな。せっかく声を掛けてもらったというのに断ってしまって……」

「あっ、すいません! 私別にそういうつもりで言ったわけじゃ……ごめんなさい!」

 彼女は胸の前で手をぶんぶん振って、慌てた様子で弁解した。

 ただ口ではそう言っているものの、露骨に残念そうな表情をしているので、重ねて申し訳なくなってくる。どうしたものかと考え倦ねいていると、夏秋さんが間に割って入ってきた。

「まま、今日のところは諦めて荻村君に譲ってあげようじゃん。来年は受験も絡んでくるし、ある意味素直に文化祭を楽しめるのは今年で最後とも言えなくもないしさ。その最後くらいは彼氏と一緒に、ね?」

 夏秋さんが私に向かって、何やら意味ありげなウィンクをかます。

 だから私とトミシは、そういう……何だろう、男女の関係というのだろうか? そんなものでは全くなくて、親友同士なんだ。私たちの間に夏秋さんが想像しているようなことはいっさい無いし、そもそもトミシは、中高生特有の恋愛脳を毛嫌いしている節がある。

私たちの間に何かあったからといって、それを無理やり恋愛に関連付けするようなことはしないだろう。……つくづく彼は、人の好意に疎いやつだ。

「おっ、そうだ。ところでその荻村君のことなんだけどさ」

 夏秋さんが、急に思い出したように言った。

「さっき私、六組の教室を覗いてきたんだけどさ。どこを探しても荻村君、いなかったんだよね。客足が少ないとはいえ一応自分たちの店の仕事もあるから、まさかそれをほっぽり出してどっかに行ってるってことはないだろうし……、あの子も今日は学校休んでるのかな?」

 そういえば……、確かに今日はトミシの姿を見ていないな。

 いつもはほとんど同じ時間で二人一緒の(これは私が彼に無理やり合わせているからなのだが)登校だというのに、今朝はそうじゃなかったので不思議に思っていたのだ。それに生徒会室に何度か立ち寄ったときも、他二人と顔を合わせることはあってもトミシを見かけることはなかった。頻繁に生徒会室を出入りしているのだから、一度ぐらいは鉢合わせてもいいはずなのだが……。

「トミシのことだし……、どこかでサボっているのかな? 例えば図書館とか」

「あーそりゃないない。だって今図書館は、鍵閉まってて使えないもん」

 む、そういえばそうだったな。

 文化祭の期間中、図書館は、特に利用する者もいないだろうということで閉められているのだ。であれば当然、トミシがそこでサボっていることなど有り得ない。

「それにこの人気(ひとけ)の無さだからね。どこでサボってようがかえって目立ってしまうと思うよ」

「なるほど……、確かにそれは一理あるな。ではトミシは……、一体、どこに行ってしまったんだ……?」

 これが普段なら、ただ体調を崩して学校を休んでいるのだろうなとそれで済ますことができるのだが、何せ昨日あんなことがあったばかりだ。

 昨日――トミシは白日さんに直接アプローチをしかけるようなことを言っていた。そのタイミングで彼が学校を休んでしまうだなんて、嫌でも悪い想像をしてしまうというものだ。トミシが白日さんに直接迫ったことで、追い詰められた彼女がトミシをどうにかしてしまったのだと、そんなことが頭をよぎってしまう。

 ……こうしてはいられない。トミシに限って迂闊なことなどしないはずだとは思うが、何度も言うように相手は数多の生徒を仮死状態に追いやった犯人だ。あまり楽観的に考えるのはよくないだろう。

「……悪い。今すぐに確かめないといけないことができてしまった。済まないが、今日のところはこれでお暇させてもらう。あとはよろしく」

「あっ、ちょっと? 篠倉さん! お店は……?」

「誘ってくれてありがとう! また今度、声を掛けてくれ!」

 三橋さんの制止を押し切って、私はそそくさと教室を出て行く。廊下に出ると、私は脇目もふれずに一目散に走りだした。

 ――現実の世界で全力疾走するのは何年振りだろう。息を吐くたびに鼓動が早くなり、胸の中が圧迫される。汗が体中から迸り、横っ腹はキリキリと痛んでくる。何度もこけそうになって、そのたび足を止めたてしまいたい衝動に駆られるが、ここで走ることを止めては――何だかいけないような気がした。

 ほとんど走ったままの勢いで、私は二年六組の教室の扉を開ける。あまりに乱暴に開けたものだから、室内の生徒がギョッとした目でこちらを見ていたが、そんなことにはお構いなしで私は教室を見渡した。……やはりトミシはいない。

「ちょっとそこの君!」

「えっ、私……ですか?」

 私は一番近くにいた女子生徒を捉まえて、尋ねた。

「今日、荻村トミシはまだ学校に来ていないのか?」

「あっ、はい。たぶん……、少なくとも教室にはまだ……」

「……そうか。助かった、ありがとう!」

 簡単に礼を言うと、それからすぐにこの場所を立ち去り、また走りだした。

 階段を飛び降りるように駆け下りて、私が向かうのは旧校舎。そこに行くためには一度校舎から外に出る必要があるために雨に打たれてしまったが、そんなことに構いはしない。

雨でずぶ濡れになりながら、地面を踏みしめるたびに跳ね飛ぶ泥にまみれながら、なおも私は走り続ける。

 笛のなるような呼気を上げつつも、私はやっとのことで――生徒会室にたどりついた。

「――やあ。今ちょうど、お前を呼ぼうとしていたところだよ。篠倉」

 会長の席に足を組んで座っている白日さんは、私が生徒会室に駆け込むのとほぼ同時にそう言った。

「なかなかどうして愉快な格好をしていることだけは計算外だけど……。ま、とにかくこれで役者はみんな、揃ったわけだ」

 かがんで両膝に手を付き深呼吸を繰り返しながら、私はその声を聞いてようやく顔を上げる。

 見るとそこには、那須美君と野々宮さんの二人が、いつもの席に座っていた。


 二

 

「さて、全員揃ったところでいよいよ話を始めようじゃないか」

 私がふらつく足取りで席につくのを待って、白日さんはそう切り出した。

「待って。篠倉さんはまだ落ち着いて話せるような状態じゃないわ。せめて彼女が呼吸を整えるまでまってあげましょう。それから、体もずぶ濡れだし、一度タオルか何かで拭いてあげた方がいいかも」

「悪い……。そうしてもらえると助かる……」

 暴れ回る心臓を無理やり押えつけ、私は、大きく何度も息を吸う。吐きそうになるのを何とか堪えつつ、私は野々宮さんが自分の鞄から出してくれたタオルで体を拭った。

「……いったい何の話をするつもりか知らんが、その前に聞きたいことがある」

 私は未だに肩で息をしていたが、話ができるぐらいには収まってきたので、尋ねる。

 すると、白日さんは質問を促すように顎で私を指し示して、「聞こうじゃないか」と応じた。

「では単刀直入に聞かせてもらうが――トミシはどこだ?」

「家だよ。あいつは今、自分の家にいる」

 私の問いに間髪入れずに、白日さんは答えた。おかげであとの二人は何が何だか要領を得ていない様子で、私に次いで篠倉さんが質問を重ねた。

「何? 荻村君、今日は学校を休んでいるの?」

「どうやらそういうことらしい。教室にも顔を見せていないそうだ」

 言うと、那須美君が「あー、言われてみればそうかもな」と今日これまでの出来事を思い出しながらに頷いた。そして、急に真剣な面持ちになって続ける。

「……何かあったのか? まさか寝坊ってわけでもないだろうしな……」

「何もなければ学校を休んじゃいないさ」

 白日さんのその言い方はいつもと変わらず皮肉的だったが、しかしそれと同時に、どこか差し迫ったような雰囲気を感じた。

 白日さん自身に焦りの色が見えるということは……、ひょっとして、彼女がトミシに手を出したわけではないのか? 仮に彼女が事を起こしたとして、彼女自身が慌てているというのはいくらなんでもおかしいものな。

 それともそれは白日さんの演技で、こちらを謀ろうとしているのだろうか? オオカミ少年ではないけれど、普段の白日さんの飄々とした態度からでは、そう簡単に見たままを信じることはできない。

 可能性としてはどちらも有り得ることだが……、こればかりは私の思考だけで結論は出まい。やはり直接的な言葉で、本人に確かめた方が良さそうだ。

 ついに我慢できなくなった私は、いっさいの遠回りを排除して、先ほどよりもさらに端的に尋ねた。

「君が、トミシをそのような状態に追いやったわけではないのか?」

「とんでもない。僕がそんなことをして一体、何になる?」

「何になるのかといえばそりゃ何にもならないのだろうが、人間そう損得ばかりで動くものではない。例えば今回狙われた生徒に全員に何かしらの恨みがあったとか、そういう感情的な部分だって動機にはなり得る」

「……どうやら僕はすっかり信用を失ってしまっているようだ。ちょっとお遊びがすぎてしまったかな。……これからは人をからかうということを少しばかり自重した方が良さそうだ」

 白日さんは自嘲気味に笑うと、おもむろに立ち上がる。

 それから私の傍までやって来ると、どこか遠くの方を見るように、いつになく神妙な顔つきで語った。

「これは僕自身のことでもある。……いや、僕自身のことだからな。本当なら僕の手であいつを助けてやりたいところだが、なかなかそういうわけにもいかない事情がある。……だからお願いだ。ここはどうか僕の言うことを信じて、僕の代わりにあいつを助けてやってはくれないか」

 言い終わると――何と彼女らしくもない、白日さんは頭を下げた。

 不意を突かれた私は仰天して、コントみたいに椅子ごと倒れそうにまでなった。

 何ていったって、あの白日さんが他人にものを頼み、あまつさえ頭を垂れたのだ。その光景はもはや不似合を通り越して不自然といった方が相応しいまである。見ているこっちの方が、逆に何だかいたたまれなくなってくる始末だ。

「あの……、まるで話が見えてこないのだけれど。……いったい、荻村君の身に何が起きたの? 彼、無事なのよね?」

 突拍子もない話に加えて突然の予想だにしなかった展開に、さすがの野々宮さんも狼狽を隠せない。それでも何とか話を整理しようと、拙い口調で現状の把握に努める。

「……では余計な説明を省いて事実だけを伝えるが――」

 間を開けて、野々宮さんの質問に白日さんは答えた。

「あいつは例の犯人の手によって、これまでの被害者と同じく悪夢にうなされ昏睡状態に陥っている」

 ガタッ――と、椅子の倒れた音が生徒会室に響いた。

「トミシが昏睡状態? なぜそんな大事なことをもっと早くに言わなかったんだ?」

 私は思わず立ち上がり、ほとんど条件反射で訴えた。

 あとの二人も私と同様に驚愕が隠せないようだ。那須美君が、立ち上がるとはいかないまでも、身を乗り出して白日さんに喰って掛かった。

「おいおいおかしいだろ。荻村はそんじょそこらのやつとは違って身を守る手段があるんだぜ? そう簡単には――」

「だったら、簡単にはいかなかったがあと僅かのところで富士が押し切られてしまった――そういうことだろ」

 那須美君のセリフを最後まで聞こうともせず、白日さんは冷淡に言いきった。

 その様子は、どこか説明をしている時間さえも惜しいように見える。

「……仮にあなたの言っていることが正しいとして、なぜそれをあなたが知っているのかしら?」

 野々宮さんは白日さんに訝しげな視線を送り、もっともな指摘をした。彼女は彼女で、やはり白日さんを疑っていたようだ。その言葉にはいくらか糾弾するような雰囲気があった。

 それはどうやら那須美君も同じだったようで、野々宮さんに続くようなかたちで白日さんを問い詰める。

「……そうだな。夢世界のことを知っているだけでも怪しいってのに、その上誰よりも早くにあいつの異常事態に気がついてる。そんなことは一日中荻村に張り付いてでもいない限り知り得ないはずだし、第一知ったら知ったでなんでお前だけでもあいつを助けてやろうとしなかったんだよ」

 痛いところを突かれて白日さんは頭を掻く。そして少し考えてからため息をつくと、諦めたように話し始めた。

「僕はお前たちとは少し……いや、かなり違うんだ。お前たちが現実の世界で人の手によって生まれたのに対して……、私は少し出所が違う。お前たちとはまた違う力が、僕には備わっている」

 出所が違う。つまり現実世界に対しての――夢世界。

 まるで白日さんが夢世界からやってきた夢の住人みたいな言い方だが……。

「概ねそれで当たっているよ。だけどそれを今詳らかにしたところで完全には頭に入らないだろうし、その時間の余裕も無いからあえて言及は避けるが……、ただ一つだけ分かってほしい。……僕はお前らの味方だ。騙すつもりなど毛頭ないし、まして危害を加えるつもりも全くない。僕は今、一重に富士を助けるためだけに動いているといことをどうか理解してほしい」

 真摯に言われて、僕らはみんな黙ってしまう。

 思えば、彼女を一連の事件の犯人としていたのは全て偏見のようなもので、そこに確たる証拠があるわけではなかった。

 私ははなから彼女を犯人だと決めてかかり、怪しい人間が別にいる可能性すら検討せずに排除してしまっていた。確かに白日さんは普段から思わせぶりな態度で飄々としているものだから誤解を生みやすい。しかしそれ故に私は、犯人の正体を彼女に一点張りして他に気を回していなかった。

 ……ひょっとしたらそれが、今回トミシが足元をすくわれてしまった原因なのかもしれない。私が警戒を怠っていたばかりに、そのしわ寄せがトミシに行ってしまったのだとしたら……。

 私は迂闊だったかもしれない。どうやらここらで考えを一度リセットして、改め直す必要があるようだ。

「……どの道、ここでもたついていたところで何も始まらない。トミシが何やら危険な状態にあるということは変わらぬ事実なのだから、とにもかくにも何か行動を起こさなければどうにもならない。そのためには……、ひとまず信じる信じないは置いといて白日さんの言う通りに動くしかない――と私は考えるのだが……、二人はどうかな?」 

 決して彼女のことを信用するわけではないが、とりあえず白日さんの言うことに耳を貸してみる価値はあるはずだ。

 まずもって私の意見を述べた後(のち)、私は他の二人も意見を聞いてみた。

「どうって言われても……な? そりゃあここでくすぶっているよりかはマシだろうけどさ……」

 那須美君は野々宮さんの方に視線を移して、言外に同意を求める。

 すると野々宮さんは黙って首をコクリと縦に振った。どうやら彼女も、私の意見には

全面的にとまではいかないまでも否定的なようだ。

「――ではこうしよう」

 ふいに、白日さんが彼ら二人の肩を叩いて提案した。

「今から富士の家に行ってみるというのはどうだ? 彼の今の状態をその目で確かめてからでも、判断を下すのは遅くないだろう」

「それはまぁ……、確かにその通りかもね。このまま彼のいないところで議論を進めても、話は一向に進展しないだろうし」

 野々宮さんが合意すると、白日さんはそれに頷いて答える。

 それから、今度は那須美君の顔を覗くようにして尋ねた。

「お前はどうだ?」

「俺は……、二人がそれでいいなら別にいいよ。否定する理由も特に見つからないからな」

 ……ただ――と、那須美君は最後に付け加えた。

「この騒動が一件落着して片が付いたそのときは、お前の知っていること、荻村だけじゃなく俺たちにも話してもらうぜ」

「……ああ、約束しよう」

 それを聞いて、私たちは何も言わずに立ち上がる。言葉にこそ出してはいないが、これから何をするかは全員が理解しているようだった。

「では、行こうか」

 私がそれだけ言うと、あとのみんなもそれに頷き承知した。


 三


 トミシの家に訪れるのは、これで二回目となる。

 いや、最初の一回は夢世界で夢として作られた荻村家だったので、厳密に言えばこれが初めてということになる。

 それ故に荻村家までの道のりを私は把握していなかったし、当然それは那須美君や野々宮さんも同じだったのだけれど、なぜか白日さんだけがそれを知っていた。だから仕方なく道中の案内は白日さんにお願いしたのだが、どうにも釈然としないというか、彼女のまるで迷うことのないすっかり慣れてしまっているような足取りは、まるでそこに足繁く通っているかのようであまりおもしろくなかった。

 そしていざトミシの家に到着してみると――まぁ当たり前なのだが普通の家だった。

 とてもそこで何かが起きているようには見えないし、かつてここで彼の両親の件で様々ないざこざがあったとは思えないような、そんな普通の家だ。

「あの……、今思ったのだけれど……」

 すでに玄関扉の前まであがっている私たち三人に、二歩三歩後ろの少し遠くから野々宮さんが恐縮そうに声を掛けた。

「鍵……誰か持ってるの?」

 言われて、私たちはハッとした。

 そうだよ! 意気込んでトミシの家まで来たものの、玄関が閉まっているんだから中に入れないじゃないか(当たり前だが)。

 まさか昏睡状態にあるというトミシが開錠してくれるわけがないし、だからといって空き巣よろしく窓ガラスを割って侵入するわけにもいくまい。……いや、いざとなればそうするしか他に方法はないのだが、できればそれは避けたい。万が一誰かに見つかってしまったら言い訳のしようもないし、事が済んだあとトミシに何と言われるか分かったものではないからな。

 どうしたものかと尻込みしていると、さっきまで隣にいたはずの白日さんがどこかに消えていることにふと気がついた。

「ここだよ」

 やけに上の方から声がすると思って見上げると、なんと白日さんがいつの間にか下屋の上まで登っていた。

「何をやっているんだ! 危ないぞ! それに誰かに見つかったらどうする!」

 白日さんはまるで私の声が耳に入っていないのか、こちらの方を見向きもしない。

 そのまま手さえもつかずに屋根の上をつかつかと歩いていく。

「驚いた……。彼女、いったいどういう運動神経をしているのかしら……」

「気がついたら屋根の上だもんな……。特に手や足をかけられるような場所もねぇし……、ほんとどうやって上まで登ったんだか」

 野々宮さんや那須美君の驚きをよそに、白日さんは真っすぐと二階の窓のある場所に向かう。そしてそこで歩を止めると、撫でるような手つきで窓ガラスに手を触れた。

「うん、やはり開いているな。富士、昨日は相当気が抜けていたからな。戸締りするのも忘れていたんだ」

 そのままガラガラと窓を開け、部屋の中に入っていく白日さん。それを咎めるため、許可なく勝手に入るなと言いかけてやめた。

 ここで彼女を止めたところで、何がどうなるという話でもない。むしろ、この家の家主であるトミシのためにやっていることなのだから、少しくらいの無作法は目を瞑ってもらう他にない。

「少し待っててくれ。今、玄関の錠を開ける」

 ややあって、階段を駆け下りる音が外まで響き、その少し後に扉がガチャリと開錠された。

 白日さんは扉を開けると、手招きして私たちを迎えた。

「さ、どうぞ。何も無いところだが遠慮なく上がってくれ」

「それは君の言うセリフじゃないだろう……」

「さてどうだろうな? 僕にとってここは我が家も同然だ」

 その言葉に、私はいくらかムッとした。

 ただ私の隣で野々宮さんが不機嫌そうに眉をピクピクしているのを見て、少し冷静になった。

 私は誤魔化すようにコホンと一つ咳払いをすると、靴を脱ぎ、それから一応「失礼します」と断ってから、中へとお邪魔する。

 全員が上がるのを待ってから、白日さんが切り出した。

「では早速で悪いが、富士の部屋へと行こうか。着いて来てくれ」

 先へ先へと急ぐように階段を上ろうとする白日さんのあとを追って、私たちも二階へと上がっていく。

「……前にもこうやって、トミシに案内されながらこの階段を上ったことがあったな。……あれは夢の中での話だが」

 私の独り言を聞いて、最後列の那須美君が言った。

「白日さんと荻村を重ねてんのか? それはいろいろと無理があると思うぞ」

「……だな」

 階段を上りきると、右の方に見覚えのある扉があった。

 白日さんの言う通りであれば、あそこでトミシが――眠っている。

「変にもったいぶる必要も無い。さっさと中に入ろう」

 ドアノブを掴んだあとに白日さんはそう断ると、言葉通りすぐに扉を開いて入室した。

「………………」

 いつか見た部屋とまるっきり同じ内装。そして目の前には、開け放しになった窓とベッドで静かに寝息を立てるトミシの姿があった。

「トミシっ……!」

 私は彼をその目で確認すると、一目散に駆け寄った。そしてベッドの隣に陣取り、しゃがんで彼の顔を上から覗く。

 それはほとんど無意識での行動だったようで、頭に考えるより先に体が動いていた。

 おかげで、先んじて入室していたことによりちょうど私とベッドの間にいた白日さんは、私に無理やり手でどかされ、少々バランスを崩して倒れかけていた。

「おいおい。富士のことが心配なのは分かるけど……、僕を蔑ろにしないでほしいな」

「す、すまない……。トミシのことしか目に入らなくて……」

「それだとまるで僕のことなど眼中にないみたいな言い方だぞ」

「あ、いや決してそういうわけじゃ……」

 口ではそう言っているものの、私の意識はすでにトミシの方に集中していて、白日さんには悪いが彼女のことはあまり気にかけてはいなかった。

 それを察してなのか白日さんは小さくため息をつくと、それ以上の追及はよして生徒会室での話の続きを始める。

「見ての通り、トミシは昨晩からずっとこの状態だ。昨日の午前一二時五二分三七秒から今現在の午後二時四九分までずっと目を覚まさしていない」

「いやでもさ、それぐらいだったら何も、悪夢を見ていない普通の人間でもありそうなもんだぜ? たまたまここ最近の疲労がたたってとか……、そんなことはないのか?」

「ないね」

 那須美君の意見を、またも白日さんは一蹴した。

「言っただろう。僕にはお前たちとはまた別の類の力を持っている。だから、今富士の身に何が起こっているのかが、私には手に取るように分かるんだ。……こいつは間違いなく、悪夢を見ている」

「とてもそうには見えないが……」

 トミシは、相変わらず私の目の前で寝息を立てている。

 その寝顔は穏やかとは言えないが、少なくとも授業中居眠りをしているときよりかはマシな表情に見えた。

「そりゃあ無理な体制で居眠りなんてすれば寝心地も悪いだろうさ。その分、眠りも浅くなる」

「ということは裏を返せば、今の荻村君は眠りが深いということかしら?」

「おっ……、なかなか鋭いじゃないか」

 野々宮さんの何げなく言った一言が、白日さんの核心を突いたらしい。少しばかり意外そうな顔をして、彼女は答えた。

「そうだ。……富士は夢世界に浸透しすぎて、徐々にではあるが……こちら側の世界に戻れなくなりつつある」

「どういう意味だ……?」

 いまいち理解をしかねたようで、那須美君は首を傾げた。

 それを受け白日さんは煩わしそうな顔をしたので、彼と同じ心境だった私が一言断った。

「悪いが、私たちはいきなりこのような事態になって、ただでさえ混乱しているんだ。分かるように説明してほしい」

 言うと、白日さんはため息をつきながら、「やはり伝達というのは難しいな」と困ったように呟いた。

「そうだ、お前ら……明晰夢がどんな夢か当然分かるよな? まさか今更その言葉の意味を知らないだなんて言わせないぞ」

「冗談、自分が夢を見ているってのが分かる夢のことだろ?」

 那須美君が、おいおいバカにするなよみたいなニュアンスで答えた。

「そ、明晰夢とは、今自分が体感しているものが夢だとはっきり認識できる夢のことだ。……では、そうでない場合は?」

「そりゃだから、自分が夢を見ていることに気づいていない至って普通の夢だ」

「間違いない。……じゃあさ、明晰夢の真逆の状態はどうなる?」

「あ? だからそれは今言っただろ。自分が夢を見ていることに気づかない――」

「違うわ」

 那須美君のセリフを最後まで待たずに、野々宮さんが何か気づかされたような顔で彼の返答を否定した。

「たぶん……それは違うくて、明晰夢の反対は――自分が見ている夢を、現実だと思い込むことなのよ」

 なるほどと、私は思った。

 夢を現実と思い込む。すなわちトミシは、夢世界の深いところまで入り込みすぎたせいで、もはや現実と区別がつかないようなリアリティを向こうの世界で感じてしまっているんだ。

 そりゃあ昨日からずっと眠っているわけだ。だってトミシにとって悪夢は現実で、そこから目覚める必要など全くないのだから。

「しかしなぜトミシはこのような状態に……。いったい誰の仕業でこんなことになってしまっているんだ……」

「座頭橋瑠依だよ」

 その答えは――あにはからんや、拍子抜けするほど簡単な一言で、白日さんの口から告げられた。

 一瞬、意味が分からなかった。いきなりこの人は何を言いだすのかと訝しんだ。まるで前後の文脈がおかしいじゃないかとも思った。

 あれ? でもよくよく考えてみると、ちゃんとした受け答えになっているな。

 Q、いったい誰の仕業でこんなことに?

 A、座頭橋瑠依。

 何もおかしなところはない。至って普通の問答だ。ただそれでいくと、これまでの事件は全て座頭橋先生が引き起こしたということになるのだが……?

「だからそう言っているだろう。これまでの事件の全ては座頭橋瑠依が引き起こしたもので、ついで言えばトミシのこのザマもあいつが原因だ」

 白日さん以外のそこにいる全員が、時間が止まったかのように数秒間停止していた。彼女の言葉の意味を脳内で処理するまでに、通常以上に時間を要したのだ。

 私たちは……、いや少なくとも私は、少し混乱してしまった。白日さんがあまりに突飛なことを言うものだから、不意を打たれてしまったのだろう。

 頭の中で同じような内容のことを何度も繰り返し自問自答して、彼女が犯人ではないという根拠をあげつらい反芻した。その度に、とりとめのない、まるで意味のない擁護ばかりが浮かびあがる。

 ――先生がこの事件の犯人? そんなことは絶対にあり得ない。だって彼女は……、明るくて、優しくて、温かくて、和やかで、朗らかで、賢くて、活発的で、親しみ深くて、みんなの人気者で、太陽みたいな人だった。

 だからそんな彼女が――だから……、だからなんだというのだろう? そんなものは全部、私が彼女に抱いていた勝手なイメージだ。それが彼女の潔白を裏付ける証拠になど、なるはずもない。

「座頭橋先生が犯人って……、そんなのおかしいだろ……。だってあの人、そんな素振りは一つも……」

「そりゃそうだろ。わざわざ自分から怪しまれるようなことをする犯人がどこにいる」

 那須美君の途切れ途切れの反論を、白日さんは容赦なくぶった切る。あえてそうすることで、私たちに迷っている暇を与えないようにしているのかもしれない。

 しかしそういった誤魔化しが嫌いな野々宮さんには、それが通じなかった。

「……そこまで言うからには、もちろん証拠はあるんでしょうね? それが事実であれ何であれ、まずは私たちが納得できるような証拠を示してもらえない限りはどうにもならないわ。……荻村君を何らかの方法で助けるにしても、胸のつかえをそのままにして曖昧なまま事を運んでも良い結果にはならないでしょうから」

 白日さんは困った顔をすると、少し俯き気味に考えてからこう言った。

「……だったらお前たちに直接その目で確かめてもらうしかない。篠倉、那須美、僕の手を掴め。野々宮は二人の空いている手を」

「……え? あ、いや……そんなお遊戯みたいなことをしている場合では……」

「いいから。迷いを無くしたいんだろう?」

 半信半疑、私たちは言われた通りに互いの手を握る。全員手を繋ぎ終ると、ちょうど輪の形ができあがった。

「いいか? ゆっくり目を閉じるんだ。心を落ち着かせて、雑念を取り払って、揺れる水面(みなも)にそっと我が身を委ねるように……、ゆっくりと……安らかに……眠ろう――」

 白日さんがそう言い終えるころには、私たちはすでに意識が朦朧としていた。

 思考の数が見る間に減っていくのが自分でも分かるぐらいに、あっさりと、流されるように、私はまどろんだ。


 四

 

 ――ある光景が浮かんだ。

 さながら白黒の無声映画のような、味気なく、混ざりっ気のない映像が、私の目の前で点滅するのだ。

 全く見慣れない家の前で、私は何かを見上げている。

 ――人だ。それもよく知っている。私は今までその人を……『先生』と、そう呼んできた。

 『先生』は私の目の前に下りてくる。私は何もできず、ただそれを見守っていた。

 『先生』は私の傍までやってくる。そして私の隣で、自分の生い立ちを語り始めた。

 『先生』から、私は後ずさる。彼女に何か異様なものを感じて、警戒心からその場を離れようとしたのだ。……しかし逃げられない。

 『先生』が――私にカッターナイフを刺した。胸の傷口から、血と、熱と、思いが、溢れだし、そして――私の視界はぐるっと大きく回転する。

「行ってらっしゃい。荻村君――」

 視界はシャットアウトしてしまったが、その声だけが他の様々なノイズを掻き分け、私の耳へと確かに届いた――

「……あっ」

 目を開けると、そこはついさほどまでと何ら変わりのないトミシの部屋だった。

 何やら体中がだるい。体は重いわ頭痛はするわで、身を起こすのもやっとだった。

 ――ん? 身を起こす? 私はもしかして……眠っていたのか? すると、私が今見た光景は全部……夢?

 そう思って慌てて周りを見回すと、那須美君と野々宮さんもちょうど今起き上がるところだった。

 信じがたいことに、どうやら私たちは、揃いも揃ってみんなでおねんねしていたらしい。

「おっ、やっとお目覚めか」

 白日さんに声を掛けらて、私は初めて、白日さんと手を繋いだままだということに気がついた。というより、私たち全員、つまり白日さんとは直接手を繋いでいない野々宮さんまでもが、眠っている間ずっと隣の人の手を離さなかったらしい。

 野々宮さんもその事実に気づいたみたいで、途端に那須美君から手を放すと、部屋のカーテンで手を拭っていた。

「白日さん……、今のはいったい……何だったの? 夢の中で……、その、荻村君が……座頭橋先生に刺されていたのだけれど……」

 何と、野々宮さんも私と同じ夢を見ていたらしい。もしやと思って那須美君にも確かめたが、私と同様の反応だった。ということはつまり、私たちは皆、全員が同じタイミングで眠りに落ち、全員が同じ夢を見ていたってことだ。

「……その夢は私がお前たちに見せたものだ。昨晩こいつが見ていた夢の記録を、部分部分省略してお前たちの夢へとコピーペーストしたんだよ」

 白日さんはトミシを刺す指を私の頭へスーッと向けて、説明した。

 さすがにそんな話をすぐに信じることができなかった私は、呆れ気味に言う。

「夢の記録って……、そんな馬鹿な話……」

「無いと言えるか? ここまで来て」

 そう言われると……、まぁそうなんだけど。

 これまでずっと夢世界がどうの悪夢がどうのってやってきておいて、今更それを信じないってのも確かに筋が通らない話ではある。

「お前たちが見たものは、間違いなく今から数時間前に富士の夢の中で起きたことだ。……夢の中での富士は、最後にどうなった?」

「先生に刺されて……、それから、視界が真っ暗になったわ……。そのあとは……、何も感じ取れなくなったから分からない……」

「さもありなん。そこでこいつの夢は終わっているからな。それ以降は全て、座頭橋瑠璃が見せている悪夢だ」

 それ以降――つまりはトミシが座頭橋先生に刺された昨日の時点から今のこのときまで、彼は悪夢を見続けている。

 もし白日さんの言っていることが本当で、私たちがそれを信じなければ、トミシは……これからもずっと永遠に悪夢にうなされ続けることになり、二度と目覚めることはない――

「……彼女が、座頭橋先生が真犯人だと知っていたのなら、なぜ君は教えてくれなかったんだ? 彼女が私たち生徒の夢を壊せば、君にも危害が及ぶのだろう?」

 今の話を信じる信じないは別にして、私はただ純粋に疑問に思ったことを尋ねた。

「……そうだな。この問題は……、なるべくお前たち自身の手で解決してほしかったというのが一つだ。あとは……」

「あとは?」

「……私が――自罰的な性格だから、かな」

 言われて少し考えたが、やっぱり意味は分からなかった。

 白日さんが……自罰的? 彼女がそういう性格だということが、私たちに真犯人の正体を頑なに教えなかったこととどう関係しているんだ? ……他罰的な性格だというのならまだしも。

「まぁそんなことは今更どうでもいいよ。……それよりも問題は、本当に荻村が今みたいな目にあってんなら、どうやってあいつを助けるのかだ」

「白日さんのことを信用したの?」

 野々宮さんが那須美君へ、ほぼ反射的にそう言った。

「……完全に信じたわけじゃないけどな。ただ単に俺らは嘘でまかせの幻覚を見たってだけの可能性も、完全には切り捨てられないわけだし」

 ――それでも、と彼は続ける。

「それでもさ、あんなもん見せられちゃあ……、それが真実なのかデタラメなのか、実際にこの目で確かめないといけない気がしてきてな。……だってあの座頭橋先生が、先生と一番関わりの深かった荻村を刺したんだぜ? 確かに今でも信じられないけど、だからってそのまま曖昧なままでほったらかしにできないだろ」

 那須美君が言ったことは……、もっともだった。

 あんな光景を見せつけられてもなお、先生のことを信じるというのならそれでいいだろう。実際、那須美君の言った通り全くのデタラメ映像を見ただけってことも十分すぎるくらいにあり得る話だ。

 でもだからといって、何もしないというのは無責任すぎし、ちょっと……薄情だと思う。

 私たちの信頼する座頭橋先生があらぬ嫌疑にかけられているというのなら、他ならぬ私たちが彼女の無実を証明しなければならない。

「お前はどうだ?」

 白日さんが、那須美君の意見を聞いてより一層悩ましげな顔になった野々宮さんに問うた。

「……ごめんなさい。短期間にいろんなことを知りすぎたせいで、まだ少し混乱気味なの。もう少しだけ時間がほしい……。悠長なのは分かってるけれど、このまま行動に移ったところで身に入らないだろうから……」

 自分の体を抱くようにして腕を組み、野々宮さんは煩悶する。

 無理もない。突然トミシが目を覚まさなくなった上に、その原因を作った人物が身内にいるというのだ。それをすんなりと、事実として受け入れられる方がどうかしている。

 白日さんもそれは承知の上なのか、それを真っ向から否定することはなかった。

「どのみち、富士を悪夢から救出するために動いてもらうのは一人だけだからな。あとの二人はここで待機する他にない。気持ちの整理が必要だと言うのなら、その間にそれを済ませておけばいい」

「一人だけというのは……、どういうことだろうか?」

 今まで誰かの夢に訪れるときは、例えそれが悪夢だったとしても定員が決められているわけではなかった。

 だから一人だけというのが、妙に引っかかったのだ。

「そうだな……。まず、富士が見ている悪夢が、お前たちがこれまで経験してきた悪夢と性質を異にしているということは分かってくれているよな?」

「ああ、まぁ何となくな。悪夢を現実と取り違えるだなんて、今までになかったことだし」

「そう。そしてその今までに例のなかった悪夢は、座頭橋瑠依のビジョンによって作られたものだ」

「ビジョンだって……? 悪夢を作り出すことが? なんでまた。ビジョンってのは自分がなりたい理想の自分じゃなかったのかよ?」

 聞きながら、那須美君は私の方を見る。

「少なくとも私はそう思っていたのだが……、違ったのか?」

「いや、それであってるよ。……ただ、そういった特殊な悪夢を作り出せるからといって、それがそのまま座頭橋瑠依のそうでありたい姿というわけではないけれど。……まぁおそらく、現実の世界で何一つ思い通りにならなかった彼女は、せめて夢世界でぐらいは自分の願ったようになってほしいってことなんじゃないか? もっと言えば、『自分の思った通りに、世界の方から作り変わってくれる能力』みたいな感じだろうか。超明晰の強化版と言えばイメージが掴めやすいかな」

「……すごく簡単に言うけど、それって大変なことじゃないか?」

「そうとも限らないぜ。現に彼女は、自分自身の悪夢を作り変えることはできていなかった。ってことは、彼女のビジョンは決して万能ではないってことになるだろう?」

「そりゃあそうかもしれないが……」

「――とにかくだ。話を元に戻すが、今回富士が見ている悪夢は、通常の方法や手順でもたらされたものではなく、座頭橋瑠依のビジョンによって作られたもの。だからそこは彼女の管理下であり支配下でもあるのだから、そこで何かが起きてしまうと、その全てが彼女に筒抜けになるわけだ。それを避けるために、できるだけ少人数で、かつ目立たないように富士を救出する必要がある。それで一人だけなんだ」

 ……白日さんの話をまとめるとつまり――私たちの誰かが、トミシの見ている悪夢の中に這入る。そして、座頭橋先生に気づかれないようにして、夢の中で直接彼を悪夢から目覚めさせるということか。

「そういうこと。富士は自分が今夢を見ているということに気がづいていない。なら逆に、こいつにそれを気づかせてやればいいんだ」

 言って白日さんは、トミシの頭を軽く小突いた。

 しかし、普段ならそこで文句や皮肉の一つでも返してやるトミシだが、今は反応がない。ためしに体を揺すっても、死んだように眠ったままだった。

 それでも私たちは、白日さんさえもが、トミシの起床に期待して、彼の一呼吸も漏らさぬように黙って彼の反応を窺っていた。

「それは……」

「ん?」

 ややあって、突然口を開いた私に、白日さんは聞き返した。

「それはどうやればいいんだ? 悪夢が座頭橋先生の管理下にあるというのなら、ただいつものように夢から夢へと移動することもできないんだろう?」

 私が言うと、白日さんは目を細める。他の二人は私のセリフに、無言のまま驚いていた。

「僕もお前が適任じゃないかと、そう思っていたよ」

 ふいに、白日さんがふっと小さく笑いながら言った。

「何も適正がどうのって話じゃないさ。ただ、私がそうしたいってだけだ」

「ほう、言ってくれるじゃないか。こいつは期待できそうだぜ、富士」

 眠っているトミシにそう語りかけながら、白日さんは彼の手を取った。そして、私にもう片方の手を差し出す。ついさっき、私たちに昨日のトミシの夢を見せたときのように。

 それで察した私は、黙って彼女の手を握った。

「篠倉さん……」

 野々宮さんが、心配そうな声で私を引き留めた。

「ん、どうした?」

「あなたは怖くないの? その……、何ていうのかしら……。決心とか覚悟とか……、そいうのは……私にはまだできそうにないわ」

「……何だそんなことか。大丈夫、それで当然だよ。私だってそんなものはできてないのだから。だけど私はバカだから、とにかくやってみてから考える方が性にあっているんだよ。……そのバカがヘマをやらかしたときのために、二人が控えてくれているんだ。そうだろう?」

「……ごめんなさい」

 俯き気味に謝る野々宮さん。そんな彼女に向けて、私は快活に笑ってみせた。

「謝らないでほしい。私がやりたくてやっていることだ」

 とは言うものの、私だってやっぱり不安だ。もし救出に失敗してしまえば、私までトミシと同じように昏睡状態になってしまう可能性があると考えると、体が自然に震えてくる。

 座頭橋先生が私に向かって刃を振るうのを、実際にこの目でみて正気でいられる自信もない。はっきり言って、今ここで私が名乗り出たのはほとんど空元気みたいなものだ。

 しかしそうまでしないことには、一向にトミシを助けられない。ここで誰かが先陣を切って、皆を引っ張ってやらねばならないのだ。そしてその役目は、やはりトミシの親友である私以外に相応しい者などいないし、その座を明け渡してやるつもりもない。

 ……これは私の意地だ。空元気を振り絞って、底意地を張って、歯噛みをしながら喰らいついてでも、トミシを助けてやる。それが私の……、〝親友〟である私の責任だ。

「本当にいいんだな?」

「ああ、構わない」

 最後にもう一度念を押す白日さんに、私は努めてはっきりと、重厚にそう言ってやった。

 白日さんはそれに無言で頷き返す。

「……向こうに着いたら、まず初めに富士を探せ。座頭橋瑠依の監視を考えると、そう悠長に構えてられる時間もないからな。富士のいそうな場所を、順序立てて効率的に回っていくんだ」

「トミシのいそうな場所か……。ああ、分かった」

 いよいよ出発のときが来て、その場の空気が一気に緊張する。

 瞑目するその一瞬に目に入ったのは、私を心配そうに見守る野々宮さんと那須美君の姿だった。

「最後にお前に……言っておくことがある」

 すでに意識が朦朧として、完全に思考がシャットアウトする寸前に、白日さんの声が頭の中で反響した。

「富士に夢と現実の区別をつけさせるために、参考にしてほしい。富士のビジョン、つまり彼の理想の自分は――」

 ……なるほど、それで全ての合点がいった。


 五


 ――まず初めに、古ぼけたラジオから漏れるノイズのように雑多な騒音を、私は耳で感じ取った。その騒音はやがて勢いを増して大きくなり、それは人の声が何層にも折り重なってできているものだということに気がつく。

 意識が徐々に冴え渡り、肌や指先に感覚が戻ってくる。恐る恐る目を開けてみると、視界の明るさに思わず目が眩んでしまった。

 目一杯に広がる陽光を片手で防ぎながら周囲の様子を窺うと、そこは――城野高の玄関口だった。

 壁に掛けられた時計を確認すると、朝の八時四○分ちょうど。登校時間のピークを迎えた辺りで、周囲には、まだ寝ぼけているのか眠そうに目を擦っている者や、ちょうど朝練を終えたばかりのテニス部員の姿も見られた。

「……驚いたな。まるっきり……そのままじゃないか」

 赤錆の混じった下駄箱も、設置されたばかりの自販機も、体育館が使えずやむなくここに設置されている卓球台も、全てがそのままだ。下駄箱にはちゃんと私のスペースがあるし、そこには私の上履きもしっかり納まっている。しかもおあつらえ向きなことに、私の格好はいつの間にか制服になっていて、周囲の風景にまるで違和感なく溶け込んでいた。

 ……トミシはこれを現実だと勘違いしたらしいが、それも無理からぬ話だ。何せその話を聞いてこうして彼を救出にやってきた私でさえもが、一瞬戸惑ってしまうぐらいなのだから。

「とりあえず……、トミシを探すか」

 トミシがいそうな場所を頭の中で列挙して、ひとまず私は彼のホームルームである二年六組を訪ねてみることにした。闇雲に探し回るよりも、普段通りであれば彼も登校を終えていることだろうから、彼の教室で待っていた方が得策だと考えたからだ。

 階段を上り二年生の教室前廊下にでると、やっぱりそこはいつもと何も変わらない学校だった。朝のせわしない空気の中、見知った友人同士で談笑している者や、ある教室を覗けば、期限日ギリギリなのか課題に追われてあたふたしている者もいる。一見何げない日常風景に見えるが、一つだけおかしなことがある――日時だ。今確認のために少し覗いた教室では、黒板の日付が四月一二日になっていた。本来であれば今日の日付は六月の一五日であるはずだから……、二か月程度のタイムラグがあることになる。

 なぜ四月一二日なのか。この日付に意味はあるのだろうか? そんなことをつらつらと考えていたが一向に答えは見えてこない。そうこうしているうちに、二年六組の教室に到着してしまった。

 時刻は午前八時四三分。予鈴がなるまであと二分、一時限目の授業が始まるまであと七分――登校時間のギリギリだというのに……、トミシの席には誰も座っていない上に、そこには彼の荷物さえも置かれていない。どういうことかと思って、たまたま近くにいた男子生徒に尋ねてみた。

「ちょっとすまない。トミシを見かけなかっただろうか?」

 声を掛けた生徒は一瞬不思議そうな顔をしたあと、「ああ荻村のことね」とトミシの席を見やった。

「あいつまだ来てないのか。んじゃあたぶん遅刻か何かじゃねぇの? 荻村、ここんとこずっと遅刻ばっかだからな」

 遅刻……か。確かにそれはトミシなら大いに考えられることだが、しかしそれを言うなら、学校自体を休んでいることだって有り得なくはないという話になってくる。トミシが学校の外にいるとなれば、場所を特定することはほぼ不可能だ。そりゃ時間が経てばいずれ学校には登校するのだろうが、その分この悪夢に居座る時間も長くなり、座頭橋先生に私の存在を勘付かれてしまうことに繋がる。それだけは避けたい、というより勘弁してほしい。

 と、そこで予鈴が鳴った。

「あの……。俺、もういいか?」

「ああっ、すまないすまない。ありがとう、助かったよ」

 どうやらずっと私が考えている間、彼の足を止めてしまっていたらしい。彼に礼を言って、私はその場から立ち去ろうとする。

 ――のだが、そこで私はまた気がついてしまった。もうあと五分もしないうちに、一時限目の授業が始まってしまう。この世界は座頭橋先生の作った悪夢らしいから、トミシが来るまでこのまま居座ってもいいのだが……、やっぱりそれはマズいだろう。授業が開始されたというのに他のクラスの生徒が教室にいれば、先生がもちろんそれを指摘するはずだろう。そうなればちょっとした騒ぎを起こすことになり、これもまた座頭橋先生に勘付かれてしまう起因となってしまうだろう。ここは大人しく引き下がるのが賢明だが、かといって自分のクラスに戻って授業を受けるというのも何だかバカみたいな話だ。

 だから、一応授業の終わりの節目節目だけここに戻って確認して、あとは目立たないように校舎内のトミシがいそうな場所を探して回ることにしよう。


 ――それから少しして、私は保健室にいた。私はあらかじめ思い浮かべていた――図書館、特別教室を探して、人目を忍んでまた彼の教室に戻り、そして最後にここを訪れたのだが……、そのどこにもトミシの姿はなかった。トミシは保健室の常連だったらしいから、ひょっとするとここでサボっているんじゃないかと割と期待して訪れたのだが……どうやら的外れだったみたいだ。

 私は誰もいない保健室を意味もなく一周して、そしてベッドにうつ伏せに倒れた。それから声もなく身悶えて、ひっくり返って天を仰ぐ。カーテンの仕切りで切り取られた天井は真っ白でしみ一つ無く、無味乾燥なものだった。

「トミシは今……、いったいどこで何をしているのだろうか……」

 目を瞑って大きなため息をつくと、何だか眠くなってきた。

 夢の中で眠りに落ちることなんてあるのだろうか? いやでも、二度寝なんかしているときには、何度も繰り返し起きる夢を見ることが結構あるし、それと似たようなものなのだろうか? 決してそんな場合ではないことは分かっていたが、あても無くさまようよりは、大人しくしたまま時間の経過を待つほうが良い気がして、私はそのまま睡魔に身を委ねてみた――


「――まさか先客がいたとは、思いもしなかったな、うん」

 聞いたことのある声がして、私はそこに誰かの気配を感じた。しかし起き抜けで頭がぼーっとしていたので、私はすぐには反応ができなかった。

 霞む目を擦りながら、私はその声の主の顔をぼんやりとしばらく見つめてみる。

「あっ、いや……。悪い……起こしちゃったかな……、はは……」

 気まずそうに頭を掻く彼。そんな彼がその場を誤魔化そうと辛うじて発した言葉に、私はほとんど条件反射で返した。

「……んん、君は……?」

「その、えっと、僕は……その、なんだ。気分が悪くて保健室に来てみたら、今さっきたまたま偶然君を見つけてしまっただけで――」

 ――トミシだ。今、私の目の前でたどたどしく喋っているのは、間違いなく荻村富士その人だ。

 彼の姿をこの目で見るのが、私には何だかとんでもなく久しぶりなことの気がして、今にも彼に飛びつきそうになった。しかし、私はすんでのところでそれを思いとどまった。

 それは何故かというと、今のこの光景に――私はデジャブを感じたからだ。

 保健室で眠っていた私と、それに出くわしたトミシ。彼は慌てふためきながら、自分の身の潔白を何とか説明しようとしている。

 ――なぜ四月一二日なのか。その答えが、今やっと分かった。それはこの日が、私とトミシが初めて出会った日であり、彼が悪夢を克服した日だからだ。

 トミシは……、彼が悪夢にうなされていた日々を、夢の中でもう一度繰り返した――それこそが、今の彼が見ている悪夢の正体ということなのか。

 では――本来なら私と出会うことで夢世界の概要を知り、悪夢を克服するすべを得るはずだったトミシが、このまま私と出会わずに、夢世界のことを知ることもなく、この先を過ごしていたらどうなっていたのだろう? 本来なら存在するはずのなかった話なのだから、もう一度悪夢を見始めた頃から、あるいはそれよりもずっと前に戻ってまた最初から同じことの繰り返しになるのか、それとも……その存在するはずのなかった、悪夢に蝕まれ破滅していくまでの道筋を彼はたどることになったのか――考えるだけでも恐ろしい。

「……ん。悪い、少し待っててくれ……。今、顔を洗ってくる……」

 靴下を履き直すことも忘れ、私は一直線に洗面台まで向かう。

 冷たい水をきつけするように顔面に叩きつけると、いくらか頭の中が落ち着いたような気がした。

「……ふぅ。やっと眼が冴えてきた。君、少し聞いてもいいか?」

「あっ、はい。なんでしょう?」

「以前もここでこうして会話をしたことを……、君は覚えているか?」

「……? いや……、悪いけどまるで覚えがないよ。誰かと勘違いしているんじゃないかな」

 ……やっぱりだ。トミシの態度、さっきから妙によそよそしいと思ったら、案の定今までの記憶を失っている。……いや、というよりも、記憶が四月一二日の時点のものに戻っていると言った方が正確か。

 この悪夢のベースは、トミシが夢世界について知る前の日常が元となっている。おそらくトミシと悪夢との繋がりが強い所為で、トミシ自身の記憶にも変化が現れているのだろう。

 ……だから逆説的に言えば、トミシに元の記憶を思い出させることさえできれば、悪夢との繋がりを断ち切れるということになる。白日さんは、トミシがこの悪夢に呑まれてしまっている原因を、彼がこの悪夢のことを現実世界だと思い込んでいるからだと言った。そこでトミシに四月一二日以降の出来事を何でもいいから思い出してもらうことで、彼にこの世界が非現実であるということに気づいてもらうという寸法だ。

 ――そうだ。私たちと過ごした日々は約二か月という短い期間ではあるが、少なくとも私にとっては、これまでのどんな出来事よりも印象深いことだったしとても充実した日々だった。それがそう簡単に消えて無くなるはずがない。例え頭の中の奥底に埋まってしまっていたとしても、何かちょっとしたきっかけをこちらから与えてあげれば、その記憶の断片がふとした拍子にひょっこりと顔を出すはずだ。

 ……よし、それさえ分かれば、あとはやることなど一つだ。

「……お、おい。大丈夫か? さっきからずっとぼーっとしてるけど……」

「いや、平気だ。少し考え事をしていただけだ」

「考え事って……、何か悩みでもあるのか?」

 よく言うよ……。こっちは君のことでずいぶんと思い悩まされているというのに全く……。ま、トミシらしいと言えばらしいけど。

 間を持たせるためにやむなくそう尋ねてきたのだろう。トミシはたいして反応を期待しているようでもなかった。だから私が彼の前に椅子を二つ並べてやると、少し意外そうな顔をした。

「少し、話を聞いてくれるか?」

「……まぁ、いいよ。ちょうど退屈してたところだったし」

 そう言ってトミシは、私が出してやった椅子に座った。

 私に向ける視線からは未だに疑念の色が残っていたが、それでも構わない。以前ここで会話したときのように、最後には私を信じてもらえるのであれば。

「君は……、胡蝶の夢という話を聞いたことはあるか?」

「胡蝶の夢? いや、知らないな」

「胡蝶の夢というのは、中国の説話でな。ある人が、蝶になって宙をひらひらと飛ぶ夢を見たんだ。ところがそれは、人の自分が蝶になった夢を見たのか、それとも蝶の自分が人になった夢を今見ているのか、果たしてそのどちらなのだろうかという話なんだ」

「はーん……、なんだか禅問答みたいな話だな」

 窓の外を見やりながら、適当に答えるトミシ。しかし、全く話を聞いていないというわけでもないらしかった。私がちょっとだけ話すのに間を開けてやると、トミシは「それで?」と続きを促す。

「私がこの話を初めて聞いたのは……、今から二年前だ。あることが原因で塞ぎ込んでいた私は……、あるとき不思議な出来事に遭遇してな。何でもいいからそのことについて調べ回っていたら、小説だったか何だったかでこの説話を目にしたんだ」

「不思議な出来事って……、何だよ?」

 トミシは少し遠慮気味だったが、私に尋ねてきた。

 彼は基本的に知識欲が割とあるタイプだから、こういう話し方をすれば食いついてくるのは分かっていた。

「……少し長くなるけど、それでもいいか?」

「別にいいよ。さっきも言ったけど、ちょうど暇してたところだしな」

「暇って……、今は授業中だろ」

 おかしくて思わず私は苦笑してしまうが、一つ咳払いをして仕切り直す。

 ……これから私が話すのは、今まで何となく言う機会が無くてずっと言いそびれてきた――私の過去だ。


 六


「私は、私が覚えている頃からずっとスポーツが大好きでな。陸上に球技に武道と何でもやったし、自分で言うのもなんだが……そのどれもが将来を期待されるほどの腕前だった。想像できないと思うが、私のことを神童とまで呼ぶ人までいたぐらいだったんだ――」

「それからしばらく経って、中学生になった私は、とうとう部活動に入部するときが来た。私の存在は運動部の人間にはそこそこ有名だったから、自分の想像していた以上にいろんなところから勧誘されたけど、結局私が入部したのは陸上部だった。小さい頃から走ってばかりの子だったからな、私は。だからスポーツの中でも『走る』ことに関したことが、特に長距離走が好きだったんだ――」

「入部してから結果を出すまでに、それほど時間は掛からなかった。地区大会、県大会と、一年の内に総ナメして、しかも大会新記録まで出してやったんだ。……おいおい、そんな意外そうな顔をするなよ。これでも私、結構すごいやつなんだぞ――」

「……そうこうやっているうちに、優勝がごく当たり前のことになってしまってな、顧問も他の教師もみんな、『あいつがいれば大丈夫だろ』みたいな雰囲気になってしまって、同じ部活の仲間でさえもが、『どうせあいつには敵わないから』って練習の手を抜くようになっていったんだ。気がつけば私は、みんなからの良い期待も悪い期待も、一手に引き受けてしまっていた――」

「そんな中、あるとき……私は異変に気がついたんだ。以前は苦も無く走れたはずの距離が、走り終わったあとに軽い息切れを起こしていた。まさか自分限ってそんなはずはと思って、また日を改めて同じコースを走ったんだ。……するとどうだ、以前よりも目に見えて疲れやすくなっている。当然それに伴って、タイムも伸びてくるわけだ――」

「私は自分の体力が衰えているのかと思った。生まれもっての運動神経に胡坐をかいて驕っていた結果、練習を怠っていたのだとそう結論付けて、それからより一層の練習を重ねたんだ――」

「ところが、一向にタイムは縮まらない。それどころか、日に日に体力が落ちていっているのが、自分でもはっきりと分かるぐらいだった。……そうこうしているうちに、大会どころか部内の人間にすら差を付けられてしまってな。今まで先頭を走る人間の気持ちしか知らなかった私が、そのあとを必死に追いかける人間の気持ちをそのとき初めて知ったよ――」

「――で、とうとうある日、中学二年の終わり頃だったかな? その体力の衰えの正体が分かった。……ここまでくれば、だいたい察しはついているだろ? 心臓病だよ。ある朝、日課の朝のマラソンをしていたら、急に倒れてしまってな。たまたま近くに人がいたおかげですぐに病院に運ばれたのはいいが、私はそのまま病院生活を余儀なくされたわけだ――」

「月並みな言葉だが、私は目の前が真っ暗になってしまったよ……。だって医者が言うには――この病が完治するまでは、陸上はおろか二度と激しい運動をしてはいけないということだったからな。……私にはスポーツの才能があったかもしれないが、だからこそ私の人生にはそれ一つだけしかなかったんだ。その掛け替えのないたった一つの誇りを取り上げられて私は……、体の一部をごっそり無くしてしまったようだった――」

「……そう、私にはスポーツしかなかった。私の存在価値などそこにしかなかったんだ。だったその証拠に、私が病気になって運動ができなくなってからはみんな私から興味が失せていったじゃないか。心配するのは最初だけで、じきに私のことを気に掛けるどころか、関わろうとする人間さえもいなくなったじゃないか……。結局のところ、私とみんなを繋ぎ止めていたのは『才能』だったんだ。みんなそれがもの珍しくて、私の傍に寄ってきただけなんだよ。……まるで誘蛾灯だな。灯りが消えてしまえば、それに引き付けられたものは呆気なくどこかへと消えてしまう――」

「――ってな具合で、存在価値も人間関係も失ってしまった私は、しばらく自暴自棄になってしまう。両親はそんな私を哀れに思ってか、何かスポーツの代わりになるもの……例えば小説だとか携帯ゲーム機だとか、そんなものを探し回ってはそれを見舞いに持ってきてくれていたけれど……、到底何もする気にはなれなかった。両親には悪いが、そのときの私には、窓の外の景色を眺めながら、グラウンドを駆ける自分の姿を想像するだけで精一杯だったんだよ――」

「もともと私は落着きのない子どもだったからな、病室でただじっとしているだけの毎日はさすがに堪えたよ。日に日に体が腐っているような気さえしたな。……そのうちに、今自分は悪い夢を見ているんじゃないかって、そう思えてくるんだ。だってそうだろう? ついこの間まで自分は、将来を期待されている未来のトップアスリートだったんだ。少し驕ったことを言えば、病気になる前の私は、中二の内には陸上全種の中学記録を更新しているだろうと思っていた。実際に、それが狙えるほどの実力は十分に持っていたからな。……だというのに、それが今ではどうだ? ちっぽけな病室に閉じ込められて、ただあれやこれやと嘆くだけの、それこそ腐った人間だ。いくらなんでも差がありすぎる――」

「……そう、『差』だ。今までの自分が目標としていた自分の姿と、今現在の自分の姿の『差』こそが、私に新たな変化をもたらした――」

「……気づいたみたいだな。その変化というのが、まさしく先の『不思議な出来事』なんだよ――」

「おそらくその兆候だったのだろう。それからほどなくして私は、自分が陸上の全国大会で活躍している夢を何度も見た。そのときの私にとって、それがどれだけ心の支えになったことか……。もちろん、その分朝目覚めたときの虚無感は計り知れないものだったけど――」

「そしてそれがしばらく続くと、今度は逆に、今の自分を責めるような悪い夢を見始めた。これがまた厄介でな。良い夢よりも、悪い夢の方がずっと意識が鮮明なんだ。私はたった一つの心の支えを奪われた上に、自分で自分を虐げるような悪夢に毎晩うなされ、ついには体だけでなく心まで衰弱していった――」

「――これから先もずっとこんな生活が続くのだろうか? 毎朝自分の悲鳴で目覚め、昼は何もない空虚な病室でただぼんやりと過ごし、夜になればまたうなされる。もううんざりだった。これから先もずっとこのままなら……いっそのこと。そんな考えを持ち始めたころに、ついに事が起きた――」

 静謐な空気の中、トミシが固唾を呑むのが分かった。一見して適当に話を流しているようで、意外に人の話をよく聞くやつだ。

「……で、お前の身に何が起きたんだよ」

「そう慌てるな。別にもったいぶってるわけじゃないんだから」

 トミシが先を急かすので、私は一呼吸置いて喉を休めてから、すぐに話を再開した。

「その日もいつもと同じように眠り、そして夢を見たのだが……、その日の夢は何だか様子がおかしかった。というのも、その夢は――いつもの悪夢なんて比較にならないほどに意識がはっきりとしていた。それが夢だということは分かっているのに、現実と何ら変わりのない感覚に……、私は戸惑ったよ。初めは夢遊病を疑ったりもした。自分は眠ったまま辺りを徘徊していたのかと思った。だが……少しして私は気がついたんだ。今の自分は――いつものようにベッドで大人しくしていなくとも息切れしない。いつもは病院の廊下を歩いて回るだけで疲労していたというのに、今の自分には全くそれがない。試しに走ってみると……、どうだ? 以前と同じ……いや、それ以上の速さで走れるじゃないか! しかもそれだけじゃあないんだ。跳躍力や腕力まで、元の何十倍というレベルまで引き上げられていた! 私は喜びに打ち震えたよ。それが例え夢だと分かっていても、現実と同じように思う存分体を動かすことができるんだ。今の私には、その一時だけで十分すぎるぐらいだった――」

「しかししばらくそうしているうちに、私も段々とその夢のことが疑問に思えてきた。……なぜ今まで悪夢しか見ていなかった私が、急にそんなまともな夢を見たのか? ひょっとしてこの夢は自分にとって何か特別で……例えばそう、未来を暗示しているとか、自分が今成すべきことを暗示しているとか、そういう啓示的なものなんじゃないかと考えたんだ。……えっ、そんなのあるわけないって? まぁそう言ってくれるな、人間自分の理解を超えたものは自分の都合の良いように解釈したがるものだろう? ……それで、だ。好奇心を刺激された私は、その夢を調べてみることにした。しばらくずっと浮かれて走り回っていた私だったが、今一度落ち着いて辺りを観察してみることにしたんだ――」

「するとどうだ? 辺りの風景をよく見てみると、そこは見覚えのあるものだったんだ。……いやそれどころか、今自分がいる場所は、今自分がそこで眠っているはずの病院だった――」

「何を言っているか分からないって? すまない、少しややこしい言い方だったな。だからつまり、その夢の中での私は、普段と変わりなく病院にいたんだ。……ただその病院というのが、これもまた様子が変でな。私の他に誰も人がいないんだ。いや、そりゃあ夢なのだから例えそうだとしても何らおかしくはない。だけれど、現実の病院とまるまる同じということでは決してなかったんだ。……上手く言い表せられないけどな――」

「そしてその夢の中を左見右見しながら進んでいると、私は知らぬ間に自分の病室までたどり着いていた。……病室からは、はっきりと嫌な雰囲気が感じ取れた。何か良くないものがそこで息を潜めていて、まるでその吐息がそこから漏れ出ているようだった。しかし、ここまで来てそれをスルーするわけにもいかない。私はこの夢が自分にとって意味のあるものなのか、例えもしそうならその意味とはいったいどういうものなのかはっきりとさせるために、恐る恐るではあるが覚悟を決めて……病室の扉を開いた――」

「病室には――なんというか……、えらくごちゃごちゃしたのがいたよ……。うーんそうだな、まぁ見たまんま言えば……、二匹の馬が引いている馬車に、男が逆立ちで乗っていたんだ。……そりゃあ意味も分からないだろうよ。そのとき実際にそれを目にした私でさえ、目の前の物体が何なのかまるで把握できなかったのだから――」

「呆気にとられていた私だったが、それでも一つだけはっきりしていることがあった。それは、その物体が自分にとって良くないもので、自分の夢から取り除かないといけないってことだ。……根拠? もちろんそんなものは無いさ、ただの直感だよ。でもそいつを見ていると、何だかこう……嫌な気分になってくるんだ。今までに私が味わった苦い経験を、全て思い出させるような……いや、ようなではなくて、本当にそうだったのかもしれない。

とにかく、そいつが私の夢に悪さをしている存在で――ここ最近、私が悪夢をずっと見続けていた原因なのだと、私は直感した――」

「いきなり目の前に得体の知れない化け物が現れたんだ。これが普通なら慌てふためくなり腰を抜かすなりするところだろうが、そのときの私はそうじゃなかった。それが……、自分に与えられた試練に思えたんだ。……私はな、トミシ。自分の夢にこんなものが出てくるということはとりもなおさず、自分の心の中にそれを飼っているということだと思うんだよ。私の負の感情――嘆き、怒り、焦り、苦しみ、そういったネガティブな思考が、この目の前の化け物を育てているんだと、そんな考えが頭に浮かんだ次の瞬間には、私は拳を握っていた――」

「もちろん、私は今自分が体験している諸々の出来事を夢だと分かっていた。分かっていたが……、でもそうじゃない。実際に、現実に起きているかどうかはたいして問題ではないんだ。自分の中で区切りをつけて、過去と決別し、きっかけを作り出すことが、これからの自分を変えることに繋がる――要はけじめってやつだな。全部、気持ちの問題なんだよ――」

「それからは本当に早かったよ。化け物が私の動きに反応する前に、事は終わった。自分でもどうやって化け物をやっつけたのかいまいち覚えていないくらいに、私は化け物を一瞬で倒してしまったんだ。……それだけ夢中だったとも言えるな――」

「そして――気がつくと私は、ベッドから転がり落ちていた。……どうやら朝を迎えたらしい。目覚めるとそこはいつも通りの殺風景な病室だった――」

「そんな体勢だったにも関わらず、その日は久々に爽快な目覚めだったよ。実に清々しく起床することができた。何というか……、私の目に映る世界の見え方がまるで変った気がして……、その普段とのあまりの違いに、自分はまだ夢を見ているんじゃないかと錯覚するぐらいだ。……そんな気分は、私が初めてこの病室で目覚めたとき以来だった――」

「やはり病は気からというのは本当なんだろうな。それからというもの、病状が少しずつ落ち着いていってな。もちろん、依然として激しい運動は止められてこそいたが、何とか退院できるぐらいには快復して、復学も果たすことができた。……それもこれも、あの日おかしな夢を見てから全てが上がり調子……まぁ元鞘と言った方が正しいのかもしれないが、とにかく私は、あれ以来いろんなことを取り戻しつつある。もはや私は、それを単なる偶然で済ますことができなかった――」

「そのときだよ、胡蝶の夢の話を聞いたのは。何でもいいから『夢』について散々調べ回っていたときに、小説か何かで見かけたんだったっけな? 正直曖昧だけど、今から思えば……、あとにも先にも私の人生にしつこく付きまとってくる言葉だと思うよ――」

「なぁトミシ――」

 突然呼びかけられて驚いたのか、トミシの肩が小さく跳ねた。

 それから――トミシは気がついたようだ。たった今初めて会ったはずの私が、自分の名前を知っているということに。

「……私にとっての人生の転機は三つある。一つ目は、私が病に倒れたとき。二つ目は、あの不思議な夢を見たとき。そして三つ目は――トミシ、君に出会ったあの瞬間だ――」

 ベッドの方を見ると、今でもあのときのことが思い出される。

 その日私のクラスは、体育の授業だった。確か他のクラスと合同で一緒にバスケットボールをするはずだったが、当然私ができるわけない。みんなが楽しくバスケをしているのを、私はただ指を咥えて見ているだけというのがおもしろくなくて、ふてくされた私は体調が悪いと嘘を吐いて保健室で眠った。そしてその憂さ晴らしのために、私は超明晰を使って夢の中で体を動かしていたのだ。

 ……そしてそこに――トミシが現れた。

「……僕ら、以前どこかで会ったことあるっけ?」

「あるよ。現実の世界で、だがね」

 答えると、トミシはその意味を測りかねたのか少し言葉に窮した。

「……今までの話の流れでいくと、今僕がここでこうしているのは全部夢だって言っているように聞こえるんだけど」

「それで合ってるよ」

 言うと、トミシは少し顔を歪めた。それから、ため息交じりにやれやれと頭を掻く。

「わざわざそんな馬鹿げた話をするために、今まで長々と……」

「馬鹿げてなんていないし、私は戯れでこんなことを言っているわけじゃない。私は君を悪夢から助けてやろうと至って真剣だ」

「悪夢ねぇ……。まぁお前の話じゃないけど、確かに僕も最近悪夢にうなされることは多々あるよ。でもだからといって……、現実と夢がごっちゃになるほど錯乱しているわけじゃない。……僕が今までどうして過ごしてきたのかは、僕が一番よく覚えている。それが全部夢だなんて、現実には無かったことだなんて、そんなの有り得ないよ」

 覚えている――か。今の彼には、随分と皮肉なセリフだ。

 私と出会ってからのこと――那須美君に野々宮さんに白日さん、そして――私のことも。みんなでそれぞれの苦悩を共有して、その思いを分かち合ったというのに……、今のトミシはそれを何一つ覚えちゃいない。彼の記憶は、以前のつらい日々を送っていた頃の記憶で塗りつぶされてしまっている。

「……もうそろそろ授業も終わりだ。これくらいにして教室に戻ろう」

 トミシが椅子から立ち上がるのとほぼ同時に、授業終了の予鈴が鳴った。

 彼はすでに保健室の扉の方に体を向けていて、この場から立ち去ろうしている。……何とか引き止めなければ。この機を逃せば、いつまたトミシとの会話の機会を得られるか分かったものではない。

 私は咄嗟に、トミシの腕を掴んだ。するとトミシは立ち止まり、首だけこちらに向けて億劫そうに言う。

「なんだよ……。まだ何か?」

「……本当にいいのか?」

「は?」

 トミシは振り返り、聞き返した。

「ここから先は、君が悪夢を克服できなかったルートだ。私と出会いはしたが、悪夢を乗り越える手段を得られず、そのままずっと悪夢に自分の夢と精神を喰い荒らされる――そんな未来を、君は望んでいるのか?」

「また訳の分からないことを……、そういうオカルティックな話はよそでしてくれ。僕じゃ相手できそうにない」

 トミシが無理やり手を振り解こうとするが、私は決して離さない。

 私がこの手を離してしまえば、トミシは二度とこちらの世界に帰って来られないような気がして、自然と手に力が入ってしまったのだ。

「……痛いって」

「痛いのは私も同じだよ、トミシ」

 君が傷つけば、私も傷つくんだ。君が心に傷を負えば、私の胸も痛くなる。

「いいかトミシ。この世界は、君がもっとも忌み嫌っているはずの欺瞞の世界だ。この学校もそこらの生徒も、世界そのものが――全部、偽物なんだ。現実とは違うんだよ。いい加減……、目を覚ましてくれ!」

 私はトミシの前に回って行く手を遮ると、半ば懇願するように、身振り手振りでトミシにすがりついた。

 しかし彼は黙って首を横に振るだけで、そっと私の肩に触れそこから除けた。

 そして去り際――

「……欺瞞でもいい。もう面倒事はうんざりなんだ。僕以外のもの全てが紛い物っていうなら、別にそれでも構わないよ。孤独な方が……、楽でいいからな」

 ――その言葉に、私の胸が熱くなった。その熱がたちまち体を登り、雫となってこぼれ落ちる。気がつくと私は――トミシの頬をぶっていた。

 体を仰け反らせて、その場にストンと尻もちをつくトミシ。一瞬、何が起きたのか分からなかったのか、私の顔をまじまじと見た。

 そして、トミシは気づく。

「お前……、その顔……」

 私の顔に指差しながら、トミシは自分の頬を軽く触れる。私の――赤く腫れた頬と比べているようだった。

「……これはトミシ、君のビジョンだ。君と思いを分かち、痛みを共にする――つまり、〝絆〟こそが君の理想で、君のもっとも求めているものなんだよ」

 トミシが自分の母体と闘ったとき――彼は初めて扱うはずの検閲の力を、いとも簡単にものにしてみせた。それは彼が、私と『慣れ』を共有したからだ。

 那須美君の母体に苦戦していたとき――彼がそれを察知したのは、ビジョンによってトミシの焦りが那須美君に伝わったからだ。

 トミシが煙草屋会長の作り出した甲冑に襲われていたとき――野々宮さんが駆け付けたのは、彼の危機感を遠くにいる彼女が感じ取ったからだ。

 トミシと私たちとの絆は……いつだって私たちを繋ぎ止めてくれていた。それが面倒だなんて、独りの方が良かっただなんて、彼だけには言ってほしくない。私の一番の親友の――トミシだけには。

「君は今、欺瞞でもいいと言った。もう面倒事はうんざりだとも。なるほど、確かにここにずっといれば、また以前の状態に戻るだけでこれ以上悪くなることはないだろう。誰かに裏切られることも、傷つけられることも無くなる。……しかし私はごめんだ。それが吉夢にしろ悪夢にしろ、嘘であることには変わりない。いくら夢の世界で自分の思うまま運動することができても、私にとってそれは現実じゃないんだ」

 頭に血が上り頬は腫れてその上をつーっと涙が伝う、今の私の顔はきっとぐしゃぐしゃで、とても見れたものじゃないだろう。そんな私からトミシは、具合が悪そうに目を逸らした。

 だから私は中腰になって、トミシの顔を覗くようにして彼の目線を追いかけた。

 そしてそっと、手を差し出す。

「……ついさっきな、久しぶりに現実の世界で走ったんだ。息切れ、動悸、胸痛、走り終わったあとの私はまるで身が焼かれているような思いだったが――心地よかったよ、やっぱり」

 ――いつだったか、夢から覚めない人間などいないと、そんな話をした覚えがある。

 誰しもが、いつかは現実と向き合わないといけないときがくるのだ。いつまでも夢にうつつを抜かしてはいられない。……きっと今が、そのときなんだろう。

 ――僕は、篠倉美鷹の手をとった。

「……なぁ篠倉」

「なんだ? トミシ」

「僕と……親友になってくれるか?」

 言うと、篠倉はにっこり笑って倒れた僕を引き上げる。さらに空いている左手も彼女に捕まって、僕は無理やり彼女に引き寄せられた。

 僕と篠倉との間に、距離なんて無いに等しい。それほどまでに僕らは接近していた。

「君が独りでそう思う分には問題ないよ、勝手にしてくれ」

 意地悪くニヤリと笑って、篠倉は得意げに答えた。

 思わず僕も笑ってしまう。……誰だよ、そんな捻くれたこと言ったやつは。

「……さ、戻ろうか。ぐずぐずしていると、あの人に見つかってしまう」

「だな。こんなとこでサボってんの見られたら、一発で生徒指導だ」

 

 ――トミシが正気を取り戻すのと同時に、この嘘の世界は崩れ落ちる。空が割れ、地は歪み、全ては過去のものとなって、いずれ忘却へと消える。

 悪夢とは忘れられない過去、断ち切れない鎖。鎖はじわじわと人を引き戻し、巻き戻す。そしてその人を過去へと立ち止まらせて、今度は枷に変わるのだ。

 あと一人……、過去の鎖に囚われた人がいる――

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