第9話『亀裂』

その日は、朝からひどく嫌な予感がした。



普段はうるさいまでに喚き散らしている羽虫たちの声が全く聞こえない。

氷岩みたいな分厚い灰色の雨雲が空に覆い被さっている。

空気が冷たく、やけに透き通っていて逆に背筋が震える。


魔核を取り込んだ事で研ぎ澄まされた感覚器官が、これから世界に起こりうる何らかの異常を俺に分からせた。


「……」


「くふあぁぁ……んぅ、あれ、どうしたのさ。変な顔で外見て」


「いや真顔だし。あと何でそんなに眠そうなんだ」


ぶかぶかのパジャマに身を包んだスティルシアが、瞼を擦りながら居間に入ってきた。

大きなあくびをしていてとても眠たそうだ。


「昨日は遅くまで君のツイッターできのこの山派どもと喧嘩してたからね!」


「人のアカウントで何してんだお前」


こいつ、夜いつもスマホ借りにくると思ったらそんな事してたのか。迷惑でしかない。

スティルシアの手からスマホを奪い取り、ツイッターを確認する。プチ炎上していた。


ダイレクトメッセージを見ればきのこの山派のアカウントから何件か殺害予告されている。

お菓子界隈シビア過ぎるだろ。


「はあ……パソコンの方でお前用のアカウント作ってやるから、ネットで暴れるならそっちでやれ」


「えぇ、他人の名義で引っ掻き回す方が楽しいから要らないよ!?」


「実はまあまあ性格悪いよなお前」


それからスティルシアは、『今日はエヴァのDVD見直すかなー』と言いながらソファに寝転がってしまった。


……最近、こいつのニート化が激しい。いやあまり外に出れない以上は仕方がないんだけど。健康に悪いから少しは動いて欲しい。


『太るぞ』とか注意しても全く効果無いし。

自らの容姿に頓着が無いのだろう。今も、めくれた服のすそからほっそりした白いお腹が見えている。


どうにかガツンと言葉で衝撃を与えて、この生活態度を改善させられないものか。


「……お前、前の世界で言われて傷付いた言葉とかあるか?」


「うーん? 老害とかかなー?」


「リアルなのやめろ」


ごろごろしながら、生気の無い声でスティルシアはそう言った。


嫌な記憶を思い出したのだろうか、目からハイライトが消えている。


この見た目で老害って言われるとかこいつ異世界でどんな扱いされてたんだよ。

俺は溜め息を吐きながらテレビのリモコンを取り、電源をつけた。


……ゴブリン事件から一週間。

世間では復興ムードが色濃く、今やっているニュースでも徐々に元に戻りつつある街並みが映し出されている。


俺は、それを見て顔をしかめた。

……きっとすぐに、『次』が来るからだ。

ゴブリンより更に強い何かに、また崩される。


まるでさいの河原だと思った。いくら頑張って崩れた文明を直しても、異世界から捨てられてくる廃棄物モンスターにすぐ壊されてしまう。


「……何様だよ、クソが」


「……え、ご、ごめんね?」


「いやお前じゃないよ……モンスターの事だ」


「そ、そっか、そうだよね。君はそんな事言わないもんね……」


びくっ、として謝ってきたスティルシアに否定する。

……駄目だ。考えれば考える程、気が滅入ってしまう。とりあえず朝飯でも作ろう。


「スティルシア、何食べーー」


『×××××』


何食べたい、と聞こうとした時、俺の携帯からけたたましいサイレンが鳴り響いた。


なんだと思いながらポケットから取り出して画面を確認する。

画面にはデカデカと『緊急警報』の文字が記されていた。


「っ……!」


勢いよくカーテンを開けて、窓から空を確認する。


ーーそこにあったのは、街の方を中心に黒くひび割れた空。前とは違いこちらの方にまで亀裂が広がっている。

前回の『黒いオーロラ』よりかなり規模が大きい。


それから、スマホに遅れてテレビの方でも緊急速報が始まった。

ローカル局のアナウンサーが『外にいらっしゃる方はお近くの学校などにーー』と注意喚起しているその後ろで、何体ものが見えた。


「ぁ、あ……」


ーー蝙蝠の羽が生えた巨大なトカゲ、とでも形容すべきだろうか。


中天を羽ばたき、口に紅炎を溜める姿はまるでお伽噺のドラゴンだった。

いや、実際にそうなのかもしれない。


「……ワイバーンだ」


テレビを覗き込みながら、スティルシアがそう言った。


「……どのぐらい強いんだ?」


「うーん……この世界の感覚で言うなら、たぶん第一次大戦時の戦闘機と同じぐらいは強いよ」


「ピンと来ねぇな……」


画面内に映っている限りでも四体は居る。全体的にはもっと多いだろう。


しかし旧式の戦闘機程度の戦闘能力なら、きっと現代兵器を持ってすれば対処できなくもない。

俺は、少し安堵しながら溜め息を吐こうとーー


「待って、ワイバーンだけじゃない」


「は……?」


そう言われて、スティルシアの指差す先を見る。

そして気がついた。天を舞うワイバーンを見ていたせいで分からなかったが、上空より悲惨なのはむしろ地上だった。


象みたいな皮膚を持った一つ目の巨人。


獅子の頭、蛇の尾を持った獣。


手足を滅茶苦茶に動かしながら疾走する腐乱した老人。


担いだ大剣で易々とワイバーンを狩る黒い騎士鎧。


ビルを喰らう形容しがたい姿の巨大な軟体生物。

それらが街で暴れ回っていた。


その様はさながら、怪物どもの百鬼夜行。

パッと目に付いただけでこれだ。実際にはもっと種類がいるだろう。


「おい!? どうなってんだよ……! 送られてくるモンスターは一種類ずつの筈じゃ……!?」


「こんな一気に、おかしい……奴らは焦ってるのか……? でも、なぜ……」


「スティルシア!?」


「ぁ、あぁ、ごめんね、ちょっと考え事してた」



顎に手を当て思考に耽っていたスティルシアの肩を揺すり、現実に引き戻す。


なんで、なんで、なんで。無数の疑問符に脳を支配され、俺は混乱の極地にあった。


「見た感じ……龍種とか魔族とか、上位種のモンスターはまだ送って来てないっぽいね……でもそれ以外はほぼ居るよ。この星の人類はもう駄目かもね……これから上位の奴らも来るだろうし」


「駄目、って……」


「けど、君の事は私が絶対に守るから。モンスターを全て駆逐するなんて私には無理だけど、この場所だけは必ず守り抜くよ」


にへら、と笑ってスティルシアが言った。


それでも状況が呑み込めず唖然としていると、またスマホが鳴り響く。

今度は警報じゃない。着信だ。……バンダイから。


「無事か!?」


『……い、今、ロッカーに隠れてる……っ! あまり、大きい声を出さないでくれ……!』


電話の向こうで、バンダイが絞り出すような声で言った。


「どういう状況だ……?」


『先週の騒動で吾のアパートが駄目になってな……か、家族で、"神の存在証明"の施設に住ませて貰っていたのだが、突然怪物どもが侵入してきて……は、はは、それで、こんなホラーゲームのモブみたいな状況になってるわけだ』


半ば諦めたような声で、バンダイが笑った。


「い、今から行くから……! 建物の場所教えろ!」


携帯を耳に当てたまま靴をつっかけ、スティルシアに『留守番してろ』と言う。


……汗臭くてキモオタでどうしようも無い奴だが、友達だ。見捨てる事なんて出来ない。


「え、私も行った方が……」


「そしたら誰がこの家守るんだ」


「で、でも、君が死んじゃうかもしれないでしょ」


「……この家は、俺なんかの命よりもずっと大切なんだよ。とにかくモンスターが来たら追っ払ってくれ!」


「ぁ……」


裾を掴んできたスティルシアの手を振り払い、自転車に乗って走り出す。


……間に合うと良いが。いや、そもそも間に合ったとして俺があの地獄で生き残れるのか。


まあ……考えても仕方がない。

今は走る事だけ考えよう。

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