当日 ウンチの場合-1

「なんか、これは」


 差し出した封筒を手に取って、母は問うた。


「全部で八十万、入っています」


 午前零時、蛍光灯の薄ぼんやりとした光に照らされた、アパートの居間。畳張りの床にひざまづいた僕は、意を決し、深々と頭を下げる。


「お願いします。そのお金で、僕たちと縁を切って下さい」


「……なんち?」

(訳:『何だって?』)


 声音に怒気を滲ませる母。背筋を撫でる悪寒に耐えながら、額を畳に密着させたまま、僕は続ける。


「妹と僕の養育費は、何年かけてでも全てお返しします。だから……今後一切、僕たち兄妹に関わらないで下さい」


 

 いっときの沈黙。



 ——その後、獣を思わせる野太い怒号と共に、鳩尾に衝撃が走った。


 こみ上げた胃酸で、喉元が灼けるように熱い。全身の生傷が一斉に脈打ち、思い出したかのように流れ込んできた痛みに、のたうちながら唸り声を上げることしかできない。


 髪の毛を掴まれ、無理やりその場に立たされた僕は、絆創膏越しに頬を幾度も打たれた。ひとまず塞がりかけていた切り傷が再び開き、流れ出た血液が、顎を伝って足元に滴る。


「生意気な!クソガキが!」


 鬼の形相で必死に平手を振るいながら、母は絶叫した。


「これっぽっちのはした金で!絶縁とか!許すと思っちょんか!ああ!?」

(『これっぽっちのはした金で!絶縁など!許すと思っているのか!ああ!?』)


 やはり、あの五百万円さえあれば——僕は自らの非力を悔やんだ。アパートを出た後、娯楽のために費やそうと取っておいた三十万円と、妹が貯金していた五十万円。兄妹が持ち得る全ての金を注ぎ込んだのだが、それもこの女の強欲さの前では、たかが「はした金」に過ぎないらしい。

 

「兄さん……」


 か細い声で、妹が呟いた。僕の隣でひざまづき、こちらの様子を心配そうに見上げている彼女に向かって、母は下卑た笑みを浮かべる。


「なんか?そんなにウンチが心配なら、今度はお前が……」


「おい、カズコ!」


 そう呼ばれて、母は振り返った。……その背後、小型テレビの前に陣取って寛いでいる父が、空になった酒瓶を高く掲げている。


「ビール持ってこい」


「はい、いますぐに。ア・ナ・タ?」


 猫撫で声でそう言った母は、そそくさと居間を立ち去ろうとする。


 これは、かなりの長丁場になりそうだ。壁面に身を持たせて、僕は深く嘆息する。……あの女の中で八十万円が「はした金」という認識である以上、ここから先は根比べでしかない。僕が暴力に音を上げるのが先か、母の心が折れるのが先か。


 出来ればそれが、妹に飛び火さえしなければ良いのだが——ひとり思案していた僕は、矢庭に耳へと飛び込んできた声に、思わず目を剥いた。



「……あんたら、まるで豚ね」



「あ?」


「……なんつった?」


 殆ど同時に振り向いた両親の視線の先には、力強い様子で立ち上がった、妹の姿があった。


「前から言ってやりたかった。あんたらはまるで、強欲を溜め込んで醜く太った豚だって」


 日頃あんなに気弱だった妹が、いったいどうしてしまったというのか。怒りに見開かれた彼女の瞳に、これまでにない胸騒ぎを覚える。


「……やめろ。むやみに挑発するんじゃない」


 そんな忠告も虚しく、彼女は続けて、


「ムカつく奴は、それが自分の子供だろうと、容赦なく殴りつける。しかも、そうして理不尽に暴力をふるった相手に、恥ずかしげもなく酒代をせびる」


「……うるせえ」


 ドスの効いた声で、父が吐き捨てた。


「ヤりたいときにヤって、眠りたいときに眠る。知り合いの笑いが取りたいからって、子供にロクでもない名前をつける……。たった今だってそう。兄さんが大事な話をしてるのもお構いなしに、酒なんて飲んだくれてるじゃない」


「それ以上喋ると承知しねえぞ」


「あんたら、何ひとつ我慢することなく、周囲の人間のことなんて一切考えないで、生きたいように生きている。人間らしい理性なんてありはしない、ただひたすらに欲望を貪る、醜い家畜——まったくおめでたい人生よね、はたから見ると、ものすごくみすぼらしいことを除けば」


「黙れよ、クソガキ……」


 ついに怒りを爆発させ、父は立ち上がる。仁王立ちする妹のそばへと歩み寄り、そして——。


「にやがんなああああああ」


 ——あろうことか、妹の下腹部を思い切り蹴り上げた。


 ドス、と、腹の底から響く衝撃。風にまかれた木葉のように宙を舞う、彼女の華奢な身体。眼前を流れる地獄絵図に、しばらくの間、僕は息をすることさえ忘れていた。


 アリの大群を夢中で踏みつける少年と似た、父の邪悪な笑顔。それを見守る、母の無感動な瞳。腹の底から湧き上がる、怒りと悲しみがないまぜとなった衝動に、思わず叫んだ。


「やめろおおおおおおおおお」

 

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