前日 ウンチの場合-5
「……さん、兄さん」
聞き慣れた声に呼ばれて、僕は目を覚ます。
真っ先に視界へと飛び込んできたのは、見知らぬ天井。全身に重くのしかかる痛みと、電灯の眩しさに顔を顰めながら、ゆっくりと上体を起こす。
そこは病院のベッドの上であるようだった。壁に掛けられたアナログ時計は、午後七時過ぎを指し示している。
傍らには椅子に腰掛けた妹の姿があって、ともすれば泣き出してしまいそうなほど潤んだ瞳で、こちらを見つめていた。
「僕は、いったい……」
そう呟きかけて、一連の出来事を全て思い出した僕は、思わず叫んでいた。
「あの男たちは!?」
彼女は力なく、首を横に振る。
「わたしが戻ったときには、もう……」
「……クソッ」
僕は小さく吐き捨てた。……終わりだ。あの五百万円がなくては、両親と縁を切るための名分がない。妹に、新たな名前と人生をプレゼントしてやることができない。あともう一歩のところだったのに……。
「ごめんなさい、兄さん」
深く俯いて、妹が言った。
「わたしが、あんな連中と関わりを持ったせいで。妊娠なんてしたせいで……」
「父親は」
彼女の言葉を遮って、僕は尋ねた。
「お腹の子の父親は、誰なんだ」
「……わからない」
「……そうか」
気まずい沈黙が、ふたりの間を流れる。
無限に続くとさえ思えた静寂の後。ふと思い出した様子で、彼女は学生鞄から茶封筒を取り出す。
「……これ、受け取って」
彼女が差し出したそれを手に取り、中を覗く。それぞれに異なる折り目のついた万札が、封筒の中身一杯に敷き詰められていた。
「これは……」
「『仕事』で貯めたお金。治療費を差し引いてあるから、少ししか残ってないけど……」
ざっと数えたところ、その総額は五十万円ほどだろうか。彼女も彼女のほうで、それなりの金額を稼いでいたらしい。
けれど、これまでに彼女が服装に拘ったり、その他の趣味に金を費やしていたりするようなそぶりはなかった。これほどの大金を、使うこともせずに貯金していたとは、彼女はいったい何のために……。
「こいつは、受け取れない」
手に持った茶封筒を突き返すと、彼女は悲痛な表情で、
「どうして……」
「それよりも、聞きたいことがある。何で、身体を売ろうなんて思ったんだ?金に困っていたのなら、いくらでも相談に乗ったのに」
「……実のところ、お金なんてどうでもよかったかもしれない」そう前置くと、震える声で彼女は続けて、
「ただ、わたしの本質を見てほしかった——きっと、それだけのことなの。唯一ベッドの上でだけ、わたしはこの名前から解放された。客はただひたすらに、わたしの身体を愛してくれた。そのことがとても、心地よく思えて……」
「ごめんなさい。兄さんはこんなになるまで、わたしのことを思ってくれていたのに。なのにわたしは、わたしは……」
包帯が巻かれた僕の額に触れて、彼女はとうとう、堪えきれずに泣き出してしまった。
僕は自らの愚かさを悟った。たかが五百万で彼女に新しい人生を与えてやれるなどと、そんなのは思い上がりだった。良き理解者を気取っていても、彼女が抱いている苦悩、その本質の一端も、僕には見えていなかったのだ。
「どうやら僕は、大きな勘違いをしてたみたいだ」
目尻に溜まった涙を拭ってやりながら、こうして彼女と触れ合うのはいつぶりだったろうと、不意に思いつく。「彼女のため」と内心で宣いながら、いちばん肝心な彼女自身の意思が、おざなりになってしまっていた。自分ひとりで、先走り過ぎていた。
「いつか、約束したよな」
他でもない自分自身に言い聞かせるようにして、僕は続ける。
「『必ずふたりで、穏やかに暮らせる場所まで辿りつこう』、って。なのにその約束を、僕の方が破ってしまっていた。自分ひとりで、僕自身とお前のことを救えると思ってたんだ。……まったく、最低の兄さんだよな」
「そんなこと、ない。だって兄さん、いつだってわたしのために傷ついてくれた。わたしこそ、最低の妹だ。兄さんばかりに痛みを背負わせて」
たとえ慰めだとしても、うれしい言葉だった。零れそうになる涙を必死に堰き止めながら、僕は彼女の手を取る。
「だったら、お互いさまだ。僕たち、最低の兄妹だな」
そして、今できる精一杯の気丈な笑みを浮かべる。涙を拭って、彼女も気丈に笑い返してくれた。こんな他愛もないやりとりが、摩耗しきった僕の心には、愛おしく思えて仕方なかった。
「……けれど、このままじゃいられない」
ひとしきり笑い合った後、小さくかぶりを振って、僕は気を取り直す。緩んだ頬を引き締めると、彼女の小さな掌を握って、力強く続けた。
「お前は明日にも、自分ひとりで大抵のことを決められる歳になる。そして、いずれは母親にさえ——だから、お前を大人と見込んでの頼みだ。お前にも手伝ってほしい。ふたりの……否、三人の未来を勝ち取るために」
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