前日 ウンチの場合-1
「今まで、ありがとうございました」
「はいはい。……そこに給料袋置いてあるから、忘れず持って帰ってね」
手元の新聞に目を向けたまま、小柄の老人は、無感動に言った。
* * *
「今まで、ありがとうございました」
「ただでさえ人手が足りないこの時期に退職とは、礼儀がなってないね。育ちが知れるよ」
簡易座椅子の上で踏ん反り返って、作業着姿の男が言った。
「巫山戯るのは名前だけにしてくれないか?」
* * *
「今まで、ありがとうございました」
「いやあ〜正直助かるよ、実を言うとさあ……」
ストライプの制服に身を包んだ巨漢が、油ぎった顔に屈託ない笑みを浮かべた。
「レジに立ってる君の名前が下品過ぎる、って苦情も多かったからね」
* * *
中学を卒業してからこれまで続けてきた仕事を、今日ですべて辞めた。それぞれ異なるベクトルで無神経な上司たちの下を離れ、晴れて僕も無職という訳だ。
午前二時半起床、両親を起こさないようにアパートを出て、三時から六時まで新聞の配達。そのまま土木作業の事務所に向かい、午後五時まで道路の舗装工事。事務所のシャワーで汗を流し、五時半から十時までコンビニバイト。十時半に帰宅、十一時に就寝……。思い返してみれば、随分とヘヴィな日常を過ごしてきたものだ。
しかし、そうした苦労や忍耐も、ようやくもって報われようとしている。……窓口から差し出された札束たちをボストンバッグに詰め込みながら、僕は確かな達成感を噛み締めていた。
「ありがとうございました」
訝しむような表情の受付に背を向けて、僕は銀行を出る。ピークを過ぎ、多少は人通りもまばらになった広場に突き立つ時計は、午後三時前を指し示していた。
事あるごとに酒代をせびってくる両親の目を盗んで、やっとこさ貯めた五百万円を無くしてしまわないよう、ボストンバッグをかたく抱き寄せる。……これは、言うなれば「手切金」だ。両親と僕たち兄妹との間で、親子の縁を切るための。
子供を出産し、大学卒業まで育てるのにかかる養育費は、一人あたりおよそ一六五◯万円ほど。公立の小中学校に進学した場合、そのうえ五五◯万円ほどが加算され、合計で二二◯◯万円にまで達すると言われている。
けれどそれは、世間一般の家庭における話。僕たち兄妹は、両親から小遣いなんて貰ったためしはないし、誕生日プレゼントを買ってもらった覚えもない。衣服や制服に関しても、両親が知り合いから譲り受けたというお下がりばかりで、僕や妹だけの所有物と呼べるものは殆どなかった。
それらにまつわる費用を差し引きし、さらには年齢を考慮に入れて、僕と妹がここまで育つのに両親が費やしただろう費用の総額を概算した。中学卒業後に就職し、現在十六歳九ヶ月の僕については、およそ一三◯◯万円。中学三年生の妹の場合、一二◯◯万円。ふたり合わせて、二五◯◯万円。
頭の痛くなるような金額だが、僕はこれを、何年かけてでも両親に返すつもりでいる。いま手元にある五百万円は、あくまでその前金に過ぎない。
たしかに僕は両親を憎んでいるけれど、彼らが僕たちのために、これだけの大金を費やしてくれたことも事実だ。だからせめて、彼らと血の繋がった子供としての義理を通して、その上で一切の縁を切る。……大人たちが僕らを見捨てたと知った、四年前のあの日から、虎視眈々と描き続けてきた計画だった。
明日は妹の、十五歳の誕生日だ。それに際して、両親の同意なしでの改名手続きも解禁される。一刻も早く彼女を、両親と名前の呪縛から解放してやりたい。そのための五百万円だった。
——この二年間、身を削り、他の全てを犠牲にしてまで稼いだこの金で。僕は明日、兄妹の新たな名前、そして新たな人生を、両親から買い取る。
思えばこれまで、長い戦いだった。けれど明日からは、あのアパートを、或いはこの街を出て、新しい人生を始められるんだ。僕らが「ウンチ」と「チンコ」だった頃を、だれひとり知る者のいない場所で。そう思うと、ふだん頭痛と筋肉痛で鉛のように重い身体が、羽毛のように軽かった。
とはいえ、日付が変わるまでは、未だ九時間ほどの猶予がある。ネットカフェでひと休みしようと、近道の裏通りに差し掛かった、そのとき——そこにあるはずのない影を前に、思わず足取りを止めた。
いかにも不良然とした男ふたり組に両脇を固められた、小柄の少女。セーラー服に身を包んだその姿は、いまさら見まごうことなどありえない、妹そのものだったのだ。
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