前日 ウンチの場合-2
しばしの間、僕は立ち尽くした——どうして、僕の妹が。若い男たちに連れられて、平日の昼下がりに街を出歩いているというのだ。
本来なら、彼女は未だ学校に居るはずの時間帯ではないか。それとも、学校をサボってまで男遊びに興じているというのか?彼女に限って、まさか……。
兎に角。妹をこれ以上、あの得体の知れない男たちと一緒にしておくわけにはいかない。……彼女を呼び止めようとした僕は、しかしすんでのところで、それを躊躇った。頬にかかった髪を掻き上げた、その隙に露わとなった彼女の横顔が、ひどく思い詰めたものに見えたからだ。
彼女のあんな表情を目にするのは、「あのとき」以来だ——背筋を悪寒が撫でるのを感じた。
何か、妹の身にただならぬことが起きようとしている。直感で、そう感じ取った。彼女の置かれた状況を確かめなければ。彼女の後を追って、僕は幅の狭い裏路地へと入る。
妹と二人の男たちは、路地の中ほどで立ち止まり、何やら相談事を始めたようだった。壁面に設置された空調の室外機に身を隠した僕は、彼女と男たちの会話に、耳をそばだてる。
「……ですから、もうこの仕事を続けることはできません。ごめんなさい」
妹が言った。彼女が深々と頭を下げたその先には、スカジャンを羽織った伊達男の姿がある。縫い付けられたような微笑を浮かべたまま、男は口を開いた。
「前から思ってたんだけどさ、君って結構、いや、かなり図々しいよね。約束に背いて裏引きやっといて、孕んだから辞めさせてくれって」
——僕は一瞬、男の言葉の意味が理解できなかった。「裏引き」、「孕んだ」?何を言っているんだ、この男は。それではまるで、僕の妹が……。
そういえば、と、不意に思いつく。妹の口数が途端に減ったのは、いつのことだったっけ。思春期特有の反抗の現れとばかり思っていたが、もしもそれに、何か他の理由があったのなら?
学校が放課となって、僕が夜遅くにアパートへと帰り着くまでの間、彼女はいったいどう過ごしていたのだろう。昨日だって、母の財布から保険証を抜き取る危険を冒してまで、彼女は何がしたかったのだろう。
冷や汗が額をつたう。……いやいや、あり得ない、あり得ないだろう。僕は妹をそんなふうに育てた覚えはない。彼女に限って、僕の妹に限って。
内心で繰り返しているうちに、気がついた。……僕はいったい、彼女の何を知っているというのだ。一日のうち、彼女とまともに会話するのは筆談での数言だけ。僕が仕事に出かけている間の彼女の姿や、学校での彼女の姿を、僕はまるで知らないではないか。
これまで僕は、彼女のどこを見て、何を分かっているつもりでいたんだ?
「兎に角、キミはうちの稼ぎ頭だからさ。いきなり辞めるなんて言われても、認めるわけにはいかないよ」
やめてくれ、これ以上は聞きたくない——晩夏の蒸し暑さの中でさえ全身は小刻みに震えて、喘ぐような呼吸が、その激しさを増していく。僅かに残った理性で吐息を押し殺しながら、これ以上聞けば必ず後悔すると理解しても尚、二人の遣り取りに、僕は必死で耳を傾け続けた。
「……そもそも、なんで裏引きなんてしようと思ったの?」
スカジャン男の問いかけに、妹は俯く。
「この仕事をしていること、母にバレて。一週間で三十万稼いで来い、って言うんです。自分たちの頃は、それくらい楽勝だったって。それで……」
また、あいつのせいか——僕は唇を噛み締めた。いつだってそうだ、肝心なところでいつも、あいつらに邪魔をされる。苦労して何かを手に入れたその端から、あいつらに根こそぎ奪われる。
「これ以上仕事を続けたって、両親の酒代になるだけなんです。だから……辞めさせてください」
妹はそう言い残して、男のもとを立ち去ろうとする。盗み聞きしているところを彼女に見つからないよう、室外機の裏で小さく身を屈めた、そのときだった。
「ちょっと待ってよ。……芹沢チンコちゃん」
スカジャン男の呼びかけに、僕と妹は、ほとんど同時に身を硬くした。
「いい名前だよね、生まれながらの淫売って感じがして」
「どうして、わたしの名前を……」
震える声で、妹が尋ねる。
「そりゃあ、うちは客商売だからね。いざというときの責任の所在は、はっきりさせておかないと」
このままでは、彼女がまずい。本能でそう感じ取った。……けれど、彼女を連れてここから逃げ出そうにも、まるで金縛りにあったかのように身体が動かない。
「ねえ、チンコちゃん。そこまでうちを辞めたいのなら……。最後のお願い、いいかな?」
徐に歩み寄る男に、妹は身動いだ。建物の隙間から差し込む逆光の影に覆われたその顔が、いつかふたりで観た、特撮番組の怪人を思わせる。
「実は、キミのこと。一度客として買ってみたいって、前々から思ってたんだ。結構好みのタイプなんだよ」
陰影のベールが取り払われ、顕となった表情は。獲物を前にした獰猛な獣を思わせる、あまりにも歪な笑みだった。
「まあ、仕事納めってことでさ。頑張って僕のこと、気持ちよくしてよ」
抱き寄せようと両手を伸ばす男を押し除けて、妹は咄嗟に、大通りへと向かって走り出した。……直後、道中の小石につまづいて、前方へとつんのめるようにして体勢を崩してしまう。
アスファルトの上に転んだ彼女と、物陰で身を潜める僕とで、思いがけず目が合った。
助けを求めるような、或いはとうに諦めがついたかのように、ぼんやりと潤んだ虚ろな瞳——僕は気づいた。これではまるで、「あのとき」と同じじゃないか。
彼女を助けなければ。頭ではそう分かっていても、それを実行に移すことは叶わない。……とどのつまりは怖いのだ。どう考えたって堅気とは思えない、大人の男と対峙するのが。あのとき奮った勇気はいったい、
「妊婦が無理しちゃあいけないよ、お腹の子供に障るだろう?」
立ち上がらんとする妹の背中に馬乗りとなったスカジャン男は、彼女の首根っこを地面へと押し付ける。
粘液混じりの、咳き込むような呼吸に紛れた、絞り出すような呟きを聞いた。
「助け、て……」
「ハッ」と、思わず息を呑んだ。
僕はいったい、何を勘違いしていたのだろう。必ず「ふたり」で、穏やかに暮らせる場所までたどり着く。彼女とそう約束したのは、他でもない、僕自身ではないか。
何を僕だけ、自分勝手に助かろうとしていたのだろう。……辺りに捨て置かれた、萎れたコスモスの横たわる植木鉢を手に取り、意を決すると、物陰を飛び出した。
「うおおおおああああ!」
突然の出来事に驚いた様子で、飛び出さんばかりに目を剥くスカジャン男。その脳天目掛けて、植木鉢を思い切り振り下ろす。
ゴン、と頭蓋越しに灰白質を揺らす、確かな手応え。続く、アスファルト上で植木鉢が砕け散る鋭い音で、男は地面に深く突っ伏した。
「おい、逃げるぞ!」
地面に蹲って咳き込んでいる妹に手を貸しながら、僕は言った。
「ごめんなさい。兄さん、わたし……」
「話は後だ、早くっ」
虚ろな表情の彼女を肩に担いで、ようやく裏路地を抜け出そうとした、そのとき。文字通り「後ろ髪を引かれる」感覚で、僕らは背後へと引き戻される。
アスファルトで背中を強打した僕は、そのまま襟首を掴まれ、軽々と持ち上げられて壁際に思い切り押しつけられる。胸元に食い込んで離れない巨大な手の持ち主は、先ほどから姿の見えなかった、ふたり組の片割れだった。
このままでは共倒れだ。彼女だけでも、この場所から逃がさなければ——喉元を圧迫され、呼吸するので精一杯な中でも、僕はなんとか声を絞り出す。
「逃げろっ」
「でも、兄さんが……」
「早く!」
「ごめん」一瞬の逡巡の後、後ろめたさを振り払うようにして、妹は走り出した。
「テツヤ、どうする?後を追うか」
後ろを振り返って、大男が問うた。その視線の先には、額から血を流しながらも立ち上がる、スカジャン男の姿がある。
「それよりもこいつだ。シンジ……」
先程までのニヒルな笑みは最早そこになく、寒気がするほどに冷徹な眼差しで、男は告げた。
「ヤれ」
彼の合図で、大男は拳を振り上げる。
きっと大丈夫だ、痛みには慣れている。なるだけ耐えて、彼女が逃げる時間を稼がなければ——眼前に迫る鉄拳を見据えながら、僕は全身を硬く強張らせた。
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