前々日 ウンチの場合-2
何処かの誰かさん曰く。どれだけ用心深い人物だろうと、一生につき一度は、必ず失敗を犯すものだという。逆立ちしたって挽回することの叶わない、取り返しのつかない失敗というやつを。
僕らにとっての「取り返しのつかない失敗」は、きっと、この両親のもとに生まれてきたことだろう。
「ウンチ」と「チンコ」、それが僕たち兄妹の名前。あだ名だとか漢字の読み違えというわけではなく、戸籍に登録されている名前が、まさしく「ウンチ」と「チンコ」なのだ。
同窓会の席でのウケ狙いという、軽率この上ない動機でこの名前を提案した母に、父もこれまた軽率に同調したのだった。「細っこい役人が出生届を書き換えるよう文句を言ってきたけれど、俺が表に出てガンを飛ばすと、すぐ引っ込んでいった」——父がよく、武勇伝のようにして語っていたのを覚えている。
つまるところ、両親にはいわゆる「ネグレクト」、さらに突っ込んで言えば「虐待」の気があった。毎晩六時頃、カーオーディオの重低音で両親の帰宅を知ると、幼い僕たちは身を寄せ合って震えたものだ。仕事から帰って来たとき、彼らは決まって不機嫌で、洗面所で手を洗うよりも先に、僕らを殴りつけるから。自宅にいて心休まることなど、ただの一瞬もあり得なかった。
では自宅の外、両親の目の届かない場所でなら安心できたのかといえば、決してそういう訳ではない。
小学校では、入学したその日からいじめにあった。何しろ「うんち」「ちんこ」「おしっこ」「おっぱい」なんて単語を目にするだけで抱腹絶倒するお年頃、善悪の分別がつかない子供たちが僕を迫害の対象とするのは、当然の帰結だったのだろう。
"僕の名前はウンチ 私の名前はチンコ
二人合わせてウンチンコ 君と僕とでウンチンコ"
同級生たちはよく、二つ下の学年にいる妹と僕とを取り囲んでは、そんな替え歌を大合唱した。給食時間のリクエスト放送で、同級生たちが録音した「ウンチンコの唄」の音源が、全校で流されたことさえある。流石に実現はしなかったけれど、合唱コンクールの課題曲に選出されかけたこともあった。……日々エスカレートするいじめに耐えかねて、担任に相談してみても、子供同士の他愛ないじゃれあいだと決めつけて、まともに取り合ってはくれなかった。
小学校高学年から中学時代にかけては、周囲の精神年齢が高くなったためか、目に見える形のいじめはなくなった。その代わりに、無視をされるようになった。理不尽な扱いにはもう慣れっこだったから、特に何も思うことはなかったけれど、二つ下の学年にいる妹が同じ目に合っているのを見るのは、兄として辛いところがあった。
——中学に入学して最初の夏、妹をアパートから連れ出して、近くの交番に駆け込んだことがある。両親からの虐待や学校での諸々について、然るべき相手に相談すれば、大人たちが僕らを守ってくれると考えたのだ。
けれど、そうはならなかった。警官の手で無理やりアパートまで連れ戻された僕たちは、両親の酒のアテに、夜通し殴られ続けた。……後日、玄関に飾られている集合写真の中に、父の隣で満面の笑みを浮かべる、あの警官によく似た姿を見つけたのだった。
それ以降も、両親のもとから逃れようとする試みは、尽く失敗に終わった。児童相談所も青少年相談センターも、最初はそれらしい綺麗事を並べ立てるけれど、両親の素性を明かした途端、逃げるようにして話を切り上げていった。
行政や大人たち全てに見捨てられ、歳を重ねて尚、両親の支配から脱することも叶わず。僕らは今日も、カビくさく狭苦しい押し入れの中で、ボロの毛布にくるまっている。
ギシギシギシギシギシギシギシ。
生まれてこの方、夜は満足に眠れたためしなどなかった。瞳を閉じ、枕に頭を預けてみても、襖の向こう側から聴こえる畳の軋みや両親の荒い息遣い、嬌声や水音が、せめて穏やかな夢を見ることさえ許してくれない。
……気色悪い。今すぐこの襖を蹴破って、酒とセックスのことしか頭にないこの蛮族どもを、蛮族らしく一糸纏わぬ姿のまま、窓から外に放り出してやりたい。それができるほどの勇気があれば、今のこの状況はありえないのだけれど。
自らの不甲斐なさに唇を噛み締めていると、パサリ、と微かな物音がした。暗がりの中で目を凝らして見ると、ちぎり取られたメモ用紙の欠片が、枕元に落ちているのがわかった。
『起きてる?』
印刷されたものかと見まごうほどに達筆なそれは、他でもない妹の筆跡だった。傍に置いた鞄の中からボールペンを取り出した僕は、その下に返答を書き足す。
『起きてるよ』
頭上を覆う木板の端、わずかに空いた隙間から、その向こう側にいる妹へとメモ用紙を差し入れる。……幼い頃、両親が事に及んでいる最中に話し声を聴かれて、真冬のベランダに一晩じゅう締め出された経験があったから、夜中の間はこの方法でやり取りをするようにしていた。
『兄さんはこんな家、早く出て行っちゃえばいいのに。もう働いてるんだし』
『お前のことを放っておけない。今日の一件なんていい例だ。僕の帰りが少し遅れたってだけで、もうあんな様子だったじゃないか』
『ありがとう、助けてくれたことには感謝してる。けどわたしだって、兄さんのことが心配』
『僕のことは気にしなくていい。それに、約束しただろう。この家を出るときは、ふたり一緒でだ』
——そうだ、僕らは確かに約束した。四年前のあの日、いざ交番に駆け込まんとする直前。僕たち兄妹はどちらか片方を見捨てるようなことはしない、必ずふたりで、穏やかに暮らせる場所までたどり着くんだ、と。
『ごめん、迷惑かける。……おやすみ』
一連の会話に終止符を打って、妹は睡眠への格闘を再開したようだった。受け取ったメモ用紙をジーパンのポケットに入れて、僕もまた、瞳を閉じる。
今更になって、約束を破るなんて出来る筈がない。ようやくゴールが見えてきた。これまで失敗続きだったけれど、今年こそは、お前に最高のバースデー・プレゼントを渡してやれそうなんだ——内心呟いて、僕はかたく拳を握った。
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