前々日 ウンチの場合-1

 一日の仕事を終え、アパートの駐輪場に原付を停めた僕は、上階で響く怒号を聞いた。


「にやがりやがって!」


 ……半ば条件反射的に、僕は階段を駆け上がっていた。電灯の青白い光に照らされた「301号室」の玄関扉を開け放ち、滑り込むようにして居間に入ると、見慣れた光景が眼前に広がる。


「チンコ、お前なん勝手に人様の財布漁って、保険証持っていっちょんか!」

(以下、訳:『チンコ、おまえは何を勝手に人様の財布を漁って、保険証をもっていったんだ!』)


 畳の上に蹲った妹の背中を、缶ビールを片手に激昂した母が、幾度も繰り返し蹴り付けている。痛みにただ無言で耐え続ける妹の、助けを乞うように潤んだその瞳に、思わず僕は叫んでいた。


「母さん、やめろよ!」


「ウンチ、なんかその言葉遣いは!」


 こちらを振り向いた母は、手に持った缶ビールの中身を、僕に向かって浴びせかける。


「ガキが親に命令するんか、ああ!?」


 前髪から滴って顔じゅうをつたう、目の奥を眩ませるような強烈な香りの液体を拭って、僕は言った。


「それ以上はやめて下さい。……『お仕置き』なら、代わりに僕が」


 真っ赤なルージュが塗られたその唇に、母は歪な笑みを浮かべる。


「……じゃあそこ、ひざまつけ」


 ふらつきながらも立ち上がろうとする妹の手を引き上げてやった後、彼女に代わって、僕はその場に膝をついた。ジーパンの生地越しに、畳に残った彼女の温もりが感じられる。


「でもお前は男やし、もうすぐ十七やきな。蹴りだけじゃあ痛くならんやろ」

(『でもお前は男だし、もうすぐ十七だからな。蹴りだけでは痛くならないだろ』)


 母はそう言って、壁面に立てかけた掃除機を手に取ると、こちらを目掛けて大きく振りかぶった。



 ——僕は全身を硬く強張らせる。歯向かうためでなく、ただひたすら耐えるために。



 強烈な痛みが全身を駆け巡るけれど、この感覚にはもう慣れっこだった。小さい頃から母は、何か機嫌を損なったとき——その原因が僕たち兄妹でなかろうと——「お仕置き」という名目で、掃除機を引っ張り出してきたものだ。なんでも、拳で殴るよりも掃除機を使った方が、自分自身の手が痛くならないからだという。

 

 全身を幾度も幾度も殴りつけられながら、母の理不尽な怒りの波が過ぎ去るのをいつものように待ち受けていると、背後で玄関の扉が開け放たれる。


「おい、なんしよんかカズコ!」


 黒地に金のラインが入ったジャージに身を包んだ、小柄ながらも恰幅のよい影——父が帰宅したのだった。つかつかと母のそばに歩み寄った彼は、ラメ入りのマニキュアが塗られたその手から、無理やりに掃除機を取り上げる。


 化粧の厚く塗られた頬をぶたれて、母はその場に崩れ落ちた。


「……ごめんなさい、あなた」


 先ほどまでの威勢は何処へやら、弱々しく呟く母。……その姿を鋭い眼光で見下ろしながら、父は声を荒らげた。



「掃除機が壊れるやろうが!」



 ——その直後、顔面目掛けて飛んできた鉄拳に、僕は思わず仰向けに倒れ込んだ。


「木刀とか警棒とかあるやろうが、そっちを使え!」


 畳に唾を吐きかけて、父は風呂場へと立ち去っていく。……こうなる予想はしていたし、父に殴られた経験は数えきれないほどあったけれど、それでもこの痛みにだけは、未だ慣れることが出来ずにいる。


 なんだか立ち上がる気力も湧かず、僕は頭上の電灯を見やる。おぼろげな光に群がる蛾でさえも、僕のことを見下して、嘲っているかのようだった。

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