うんちんこ
高城乃雄
前々日 チンコの場合
「チンコさーん」
静寂に満ちた待合室が、俄かにどよめいた。文庫本の頁を繰る手を止めて、わたしは顔を上げる。
「芹沢チンコさーん。いらっしゃいますか〜」
その口許の微細な動揺は、吊り上がる口角を必死に押し留めようとする拮抗の証だろうか——受付窓口のそばに立った看護師が、震える声で呼びかけていた。
ひとつ大きなため息をついて、わたしは席から立ち上がった。周囲の視線が、一斉にわたしのセーラー服へと突き刺さるのを感じる。
「チンコさんですね。診察室にどうぞ〜」
しつこいほどに繰り返し確認するあたり、この女も意地が悪い。いくつもの押し殺すような笑い声を聞きながら、小さく舌打ちをする。……周囲から向けられた嫌味な笑みが視界に入らないよう、深く俯いたまま、看護師の促す方へと歩み出た。
この程度の屈辱には、もう慣れっこだ——それでも耐え難い羞恥に全身を強張らせながら、わたしは自らに言い聞かせる。何のことはない、いつものようやればいい。
「チンコ」なんて、まるで小学生の冗談みたいな名前と付き合いながら生きていくコツは、ただひとつ。ひたすら屈辱に堪える、それしかあり得ない。好奇の視線にいちいち目くじらを立てていてはキリがないから、じっと押し黙ったまま、周囲の興味が他へと移ろうのを待つのだ。
「ねえねえ、おねえちゃん」
背後から、矢庭に声をかけられた。振り向くと、待合席に腰掛けて両足を前後に振り回す、幼稚園児の姿がある。
「おねえちゃん、へんななまえ〜。わたししってるんだよ、ちんこって、おとこのこについてるやつでしょ〜。なのになんで、おんなのこがちんこってなまえなの〜。なんでぇ〜、なんでぇ〜?」
「こ〜らやめなさい、お姉さんに失礼でしょ〜
あくまで穏やかに娘を窘める母親の、こちらを見上げた嘲りのまなざし。
訳も知らぬ娘の、無邪気な笑顔。堪えきれず、わたしは吐き捨てていた。
「……黙れよ、クソガキ」
直後、切れ長な園児の瞳がはっと見開かれ、尻すぼみの目尻に涙が溜まっていく。下膨れの顔が醜く歪められ、とうとう娘は泣き出してしまった。
「ちょっと、なんてこと言うの!この子はまだ五歳なんですよ!」
園児の母親がヒステリックに叫ぶのを背に、絶句する看護師の横をすり抜け、診察室の扉に手をかける。
「……仕方ないわ。チンコなんて名付ける親の子だもの、しつけがなってないのよ」
開いた扉を、後ろ手で閉める直前。なかなか泣き止もうとしない娘にそう言い聞かせる、母親の囁きを聞いた。
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