お風呂に入ることひとつとっても(上)

 たとえば瑠璃子さんは今、入浴中に地震などの大災害に襲われたらどうするべきかを本気で悩んでいる。


 目の前の小さな浴槽に湛えられた豊かなお湯には垢の一片たりとも浮いておらず、立ち上る湯気に混じり僅かに漂う幼げなカルキ臭は、このお風呂が一番風呂だという福音を瑠璃子さんに告げていた。 


 瑠璃子さんはその様子に満足すると、服を脱ぐため一旦お風呂場を後にする。

 この、一見無駄に思える確認作業こそが重要なのだ。

 これを怠りいきなり入場し、お湯を溜め忘れていただとかお湯じゃなくて水だったとかいうことになれば、瑠璃子さんは湯船に浸かることもできず寒空の下、裸一貫で路頭に迷うことになってしまう。


 そうなれば風邪を引き、数日間の長きに渡りお風呂場への立ち入り自体を禁じられてしまうかもしれない。

 体を洗うことができず不浄の存在となった瑠璃子さんを、皆避けて通ることだろう。




 脱衣場へと降り立った瑠璃子さんは、サイハイソックスのゴムを、指の腹で上から下へ丁寧に転がしていく。

 ももからくるぶしへと丸まる靴下。それはやがて皺ひとつない綺麗なドーナツとなり、どこか誇らしげに佇んでいた。明日はなんだかいいことがありそう──そんな気配すら漂わせて。


 でもそのままだとしっかり洗えないので、ちゃんと伸ばしてから洗濯機に放り込んだ。


 ブラウスのボタンに手をかけ、服を脱ぎながら尚も瑠璃子さんは考察を続ける。


 ひと度すっぽんぽんになってしまえば、お風呂を出るまで瑠璃子さんは無防備。

 身を守るものは何もなく、逃げようにも肢体を隠す布切れはタオル1枚きり。とても危険な状態だ。


 けれど瑠璃子さんにとってお風呂は癒し。入ることは避けられない。

 この世に生まれ落ちた瞬間から刻一刻と汚れゆくこの体、その呪われし運命から瑠璃子さんを唯一解き放つことのできる聖なる儀式……それがお風呂なのだ。


 できることなら心行くまで長風呂したい。

 全身の皮膚がふやけ、体中の血液が頭に上るまで湯に浸かりたい。


 けれどお風呂に入っている時間が長ければ長いほどその身を危険に晒す矛盾。

 何も備えずにお風呂に入るのは、自殺行為と言っても過言ではなかった。


 とはいえ、このまま脱衣場で手をこまねいていても問題を先送りにするだけで埒が明かない。

 諸々の所作は割愛するけれども、すでに生まれたままの姿となっていた瑠璃子さんは、意を決して浴室へと突入するのだった。




 けぶる室内は視界が悪く、どこに何が潜んでいるかわからない。

 窓の外、換気扇の中、あるいは鏡を覗き込む瑠璃子さんの後ろ?

 それは瑠璃子さんの白く透き通る玉のお肌を狙う変質者かもしれないし、どこからか拾ってきてしまったAAAランクの怨霊かもしれない。


 瑠璃子さんは慎重に辺りの気配を窺いながらかけ湯をし、髪を予洗いしてお団子にまとめると湯に入った。

 肩まで浸かったところで、自然と口からため息が漏れる。


 瑠璃子さんが一番風呂にこだわる理由は、何も他の人が浸かったお湯を使いたくないからという理由だけではない。

 これは防災対策として、とても重要なことなのだ。


 もし今この瞬間に地震が起きて生き埋めになるようなことでもあれば、救助されるまでの数日間、もしかしたらこの浴槽のお湯だけを飲み水として生き抜かなければならなくなるかもしれない。

 そうなったとき、このお湯が瑠璃子さんの出汁のみで取れた瑠璃子汁ならまだ妥協して飲むこともできよう。

 それが、先に誰かが入ったお湯だとしたらどうだ。

 何から取れたかもわからない深い味わいを奏でるきゃのこ汁を飲み下す勇気が、それが瑠璃子さんの体に吸収されこの身の一部となることを許容する覚悟が、果たして瑠璃子さんにあるだろうか。

 そうやって、命の瀬戸際で恥を捨て生きるか尊厳を守り死ぬかを悩むうち、きっと瑠璃子さんの意識は次第に薄れていってしまうのだ。

 そして次に目覚めたとき、瑠璃子さんは噂のイケメンすぎる救命士の腕の中にいたりするかもしれない。




 今、瑠璃子さんのすぐ目の前には、噂のイケメンすぎる救命士の整いすぎたご尊顔。

 二人の唇と唇の間には一本の銀糸が橋を架け、艶かしくも艶やかに艶めいている。


「ようやく気が付いたかい、眠り姫」


 噂のイケメンすぎる救命士が口を開くと同時に途切れた細糸は、名残惜しそうに瑠璃子さんの口角を濡らす。


「君はお風呂の中すっぽんぽんで倒れているところを助けられたんだ。この私──噂のイケメンすぎる救命士の、人工呼吸によって」


 糸はすでに切れているはずなのに、それはまるで口から体内に入り込み瑠璃子さんの心臓を締め上げるかのように心を縛る。

 胸が苦しい。自然と息が荒くなり、エサを求める鯉のように口を開く。


「王子様のキスで目が覚めるって、本当なのね」


 お風呂のお湯はもうすっかり冷めていて本当は寒いはずなのに、体の奥がどんどん熱くなる。

 乱れる呼吸を隠そうと息を止めたら、また意識が飛びそうになった。


「ねぇ、王子様……瑠璃子さん、裸を見られたのも、唇を奪われたのも、貴方が初めてよ」


 瑠璃子さんの身を焦がす情欲の火が、体内の酸素を急速に奪ってゆく。

 自分で吸い込むだけじゃ、全然足りない。

 彼の唇がほしい。また口移しで直接吹き込んでほしい。


「責任、取ってくださいますか?」


 火照る体がどうにもならなくて、犬のように舌を出して喘ぐ。

 そんな瑠璃子さんに噂のイケメンすぎる救命士は優しく微笑むと、そっとおとがいに触れ静かに囁いた。


「──気道、確保」


 瑠璃子さんの気持ちに応えるように、瑠璃子さんの心を包み込むように、穏やかで力強い人工呼吸が始まる。

 初めて感じるその唇の感触に、瑠璃子さんは身を委ねた。


 ──そのあとのことはよく覚えていない。ただ確かなのは、彼の優しさとその温もりだけ。


「嗚呼、私は今日この時、君を救うために救急救命士になったのかもしれない」


 噂のイケメンすぎる救命士は、救助犬が首から下げている樽から一輪の薔薇を取り出すと、それを瑠璃子さんに差し出す。

 ピンク色の可憐な薔薇の、その名前は──


「君は私の『ワイフ・オブ・バス』だ。結婚しよう」


 瓦礫に囲まれたお風呂場で、噂のイケメンすぎる救命士が瑠璃子さんにそう告白した。




 ──なんて人生設計を立てていたら、トリートメントをつけていたはずの髪が泡立ち始めて、間違えてシャンプーを使っていたことに気付く。

 諸々の所作は割愛するけれど、湯に浸かりしっかり体を温めた瑠璃子さんは、すでにシャンプーを終えトリートメントで自慢の黒髪のケアをしている真っ只中だった。


 全く、考えごとをしながらだとすぐこれだから困ったものね。

 まぁ、この前みたいに間違えてトリートメントを顔に塗りたくったときよりかは全然ダメージが少ないけれども。

 あのときはしばらく落ち込んだもの。


 シャンプーを洗い流し、もう一度トリートメントをつけ直す。


 というかシャンプーとトリートメントのパッケージって、どうしてみんな同じような見た目してるのかしら。

 何度間違えて買ってしまったかわからないじゃないの。

 さぁ入れ替えるぞってときになって違うのを買ってきたことに気付いて、仕方なく底のほうに残っているのを水で薄めて使うのよ。

 そして今度こそ間違えないぞって、買ってきたのがまた違うやつで、要らないストックが2つ並んでしまったり。

 そこまでくると瑠璃子さんは思うの。間違えたのは実は瑠璃子さんじゃなくて店員さんのほうだったんじゃないかって。

 見た目が似すぎてるせいで、店員さんも間違えて陳列しちゃったんじゃないかって。




 そんなこんなで、諸々の所作は割愛するけれど、全身を洗い終えた瑠璃子さんは再び肩まで湯船に浸かり、本日二度目のため息をついた。


 しばしば体をどこから洗うかということが議論になるけれど、瑠璃子さんは基本的に上から順番に洗うことにしている。

 上から順番に汚れを落とす。お掃除のときと

考え方は同じだ。

 あと下から洗って変な臭いが体に移ったら嫌だし。


 それはそれとして、ここまでくれば何かしらの天変地異が起きても、全身泡だらけのまま逃げ惑うという最悪のパターンだけは避けられる。

 結局のところ、最もリスクの高い体を洗っている時間帯をいかに素早く通過するかがお風呂の鍵を握っているのではないか。


 避難所にタオルは? 服は? ドライヤーは、化粧水は──まだまだ考えたらきりがないけれど、あとはもうその場のノリでなんとかするしかない。

 瑠璃子さんがこれまでお風呂に入るたび重ねてきたあらゆる事態を想定したシミュレーションは、それを可能にしてくれることだろう。


 けれど瑠璃子さんひとりでできることに限界を感じているのもまた事実。

 いざというときには噂のイケメン救命士に頼る他ないのだ。


 さて、名残惜しいけれどそろそろお風呂を出なければ本当に地震が来るかもしれない。

 後ろ髪引かれる想いを胸に、瑠璃子さんは十まで数えて本日のお風呂を締めくくることにした。


 瑠璃子さんはゆっくりと時間をかけて十を数え終えると、立ちくらみを起こさないよう静かに立ち上がる。


 ──と、そのときだった。


 突然、宙に光る文字のようなものが次々と浮かび上がり、瑠璃子さんの体を包むように取り囲む。

 そして魔方陣のような紋様を形作ると、さらに輝きを増した。


 これは一体、何? 何が起きているの?


 文字のようなものは、触れようとしても指先がすり抜けてしまう。


 やがて辺りには湯気が立ち込め、いや最初から湯気は立ち込めていたけれど、それよりももっと立ち込めて自分の手足がどこにあるかすら見えなくなる。

 紋様の放つ光は湯気に当たり乱反射し、周囲を妖しく照らした。


 その尋常ならざる現象に、瑠璃子さんは今一度湯船に浸かり直した。

 慌ててはいけない。まずは体を冷やさないように、けれど頭は冷静に、落ち着いて状況を把握するのだ。


 そうして注意深く様子を窺っていると、ほどなくして湯気が晴れてくる。

 それに続き、不思議な紋様も消えていった。


 今のは一体、何だったのか。


 正体はわからないが、瑠璃子さんは何事もなく平穏な毎日に戻ってこれたのだろうか。


 ──いや、そうではなかった。


 次の瞬間、瑠璃子さんは今までに見たことのない光景を目の当たりにする。


 瑠璃子さんが今浸かっているのは、先ほどまで浸かっていた自宅の浴槽に相違ない。

 それなのに瑠璃子さんは今、自宅のお風呂よりも遥かに広い空間の只中にいた。


 どうして……瑠璃子さんはついさっきまで、自宅でアビバノンノンしていたはずなのに。


 ゴシック様式の……いや、バロック様式? 正直よくわからない西洋風の華美な装飾を施されたなんとか様式の広間の中央にぽつんと、小さな浴槽に浸かる瑠璃子さん。

 周囲には謎の技術で浮遊する光る球体がいくつも並び、それが光源となり室内を照らしている。

 とりあえず瑠璃子さんは、これをマリック様式と呼ぶことにした。


 室内には無数の人の気配。

 警戒して辺りを見回すと、黒いローブに身を包んだ男かも女かも両性類かもわからない集団が、瑠璃子さんを取り囲むように遠巻きに見つめていた。


 ここはどこで、彼らは誰で、瑠璃子さんに何をするつもりなのだろう。

 貞操の危機を覚えた瑠璃子さんは、なるべく体を深く沈め、浴槽の縁に隠れるようにして身を守る。


「おぉっ! 成功だ!」


 すると不意に、どこか聞き覚えのある若い男の声が木霊する。


「召還の儀式により、ついに異世界より聖女様がご降臨されたのだ!」


 黒ローブ集団の中から現れた高級なくるみ割り人形みたいな服のその男──髙田くんは、欧米人のような大袈裟な振る舞いで演説する。


「今、この国は魔王の脅威に晒されている! だがもう安心だ! 伝説の通り、こうして聖女様は現れた! ここにおわす聖女様が必ずや魔王を討ち果たし、この国を平和へと導いてくれよう!」


 これはなんのどっきり大作戦だろう。


 浴槽の縁から顔だけ出して、瑠璃子さんは一部始終を注視する。


 というかまずは服がほしい。


「聖女様、よくぞ我らの求めに応じてくださいました。私はこの国の第3か4くらいの王子、タッカーダ・クン・トゥナリオセキオ」


 髙田くんが瑠璃子さんに恭しく一礼する。


 いや、応じたつもり全くないし。


 というかまずは服がほしい。


「お察しの通り、この国は今まさに滅亡の危機に瀕しております。聖女様、どうか我らをお救いください」


 いやお察ししてないし、瑠璃子さんみたいな日陰者はどちらかというと闇属性で魔王側だと思うのだけれど。


 というかまずは服がほしい。


「さぁ、皆の者! 宴の準備だ! 歓迎の宴で、聖女様にこの国最高のおもてなしをしてさしあげるのだ!」


 髙田くんが号令をかけると、周囲の黒ローブ集団が瑠璃子さんを浴槽ごと担ぎ上げる。


 いや宴は嬉しいし、やぶさかではないのだけれど、それよりも……ね?


「では行きましょう、聖女様! わっしょい! わっしょい! わっはっはっ!」




 ──こうして裸のまま何処かへと連れ去られた瑠璃子さんの、どっきり異世界大冒険の幕が開いたのだった。

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