聞き漏らした会話ひとつとっても(下)

 尿意って、どうしてトイレに入った瞬間、急速に膨れ上がるんだろう。


 旧校舎1階の女子トイレに入った瞬間、思い出したかのように主張しだす欲求に、瑠璃子さんは内腿を擦り合わせた。


 突き当たりにひとつしかない経血を固めたような窓ガラスからは、おびただしい熱量がじゅるじゅるとなだれ込み、トイレの臭気をより鮮明に浮き立たせる。


 きっと、それはベルを鳴らすと涎を垂らす犬のように体が覚えてしまっているからなのだろう。

 もうすぐ解放されるという期待、あるいは油断から、体が反応してしまうのだ。


 瑠璃子さんは前屈姿勢のまま、よろよろと奥に進む。


 それにしたって個室に入るまで待ってくれればいいのに、こうやってその大分手前のあたりからダムが放流する準備を始めるのは困りものだと思う。

 たまにちょっと慣れてない複雑な構造の服を着てたりすると、それを脱ぐ時間が加味されてなくて一触即発のやんごとなき状況に陥ってしまったりする。

 それに今みたいな順番待ちのときだって、その待ち時間が考慮されて然るべきだというのに、そんな配慮の欠片もない。


 そう……今、瑠璃子さんの前に立ち並ぶ個室の全ては、扉が固く閉ざされていた。

 まるで瑠璃子さんを拒絶するかのように立ちはだかる古めかしい木の板たちに、瑠璃子さんはなす術なく立ち尽くす。


 瑠璃子さんは絶望していた。


 旧校舎の、それも放課後のトイレがこんなに人気だなんて迂闊だった。

 しかも辺りはしんと静まり返り、これはきっとあれよ、「お先にどうぞ」状態に違いないわ。

 音を聞かれたくないから自分は周りが終わってからしようという魂胆が見え見えよ。

 そうやってみんながみんな、考える人のポーズのまま息を潜めて、地獄の我慢比べ大会に突入してしまったのよ。


 ここは地獄、まさに地獄。夕日暮れなずむ逢魔が刻、瑠璃子さんが開いたのは女子トイレの扉ではなく地獄の門だったのだ。


 今からでも上の階のトイレに行く?


 けれど果たして、今の瑠璃子さんが階段を上ることができるだろうか。

 前屈姿勢のまま内腿を擦り合わせて12段の階段を上りきれるのだろうか。


 いやもしかしたら謎の怪奇現象で13段に増えているかもしれない。

 12段でも多いのに、今ならもう1段プレゼントみたいな余計なサービスをされてしまうかもしれない。


 人の限界というものは意外と目に見えてわかりやすいもので、跳び箱7段は跳べても8段は跳べなかったりする。

 だから13段目で限界を迎えてしまうことだってあるかもしれないのだ。

 そしてその最後の1段を越えられないまま、瑠璃子さんはとても大事なものを失ってしまうに違いない。

 覆水は盆に帰らず濁流となり、瑠璃子さんを翻弄することだろう。


 だから今はただ、耐えるのよ。

 ここで、この我慢地獄の脱落者が出るのを祈り、待つの。


 ──こうして、望むと望まざるとに拘わらず、瑠璃子さんもこの地獄の耐久レースの参加者となってしまったのだった。




 何分、何時間経っただろうか。いや、もしかしたらほんの数秒だったかもしれない。


 体感なので正確な時間はわからないけれど、ともかく瑠璃子さんがいよいよそろそろもはやこれまでと腹を括る気になりかけたそのとき……きぃっと軋む音が響き、3番目の個室の扉がついに開いた。


 「よっ、待ってました!」


 揚幕を開き颯爽と登場した役者に掛けるような歓声が、思わず洩れ出てしまいそうになる。

 それほどまでに瑠璃子さんは待ち望んでいたのだ。彼の者の到来を。


 貴女は最初に脱落したことを恥じるかもしれない。けれど大丈夫、大丈夫よ。

 お尻を出した子1等賞、素敵じゃない。他の誰もが蔑もうと、瑠璃子さんは貴女を讃えるわ。

 ありがとう、そしてさようなら。夕焼け小焼けでまた明日、また明日。


 瑠璃子さんは下腹部に余計な刺激を与えないよう細心の注意を払いながら、開いた扉にゆっくりと歩み寄った。


 ……しかしふと妙な違和感を覚え、立ち止まる。


 何かがおかしい。何かを忘れているような気がする。


 そう思いを巡らせていると、ふいに開いた扉から青白い手が、すーっと伸びる。


 ……そうだ、音だ。水を流す音が、全く聞こえてこない。

 もしかして……この子、流してない?


 一拍置いて覗かせた少女の顔は、長く伸びた前髪でほとんどが隠れていて、表情が見えない。

 幽かに見えた唇は紫に染まり血の気がなく、生気を全く感じられなかった。


 それはともかくとして、お願いだから気づいて、戻って。回れ右してレバーを引いて。お水を流して。ジャーッと流して。


 けれど少女の歩みは止まらず、ひゅーどろどろどろと露わになったその姿は得体の知れない赤茶けた染みだらけの制服に正体不明の液体をぽたぽたと滴らせていた。


 待って待って、どういうアクロバティックな用の足し方をしたらそんな大惨事になるの。というかその水は何なの、どこから出てきた何の水溶液なの。


 少女は瑠璃子さんの存在に気がつくとゆっくりと体の向きを変え、ひたっ……ひたっ……とこちらに近付いてくる。


 ムリムリ、ダメ、絶対。こっちに来ないで、どうしよう、逃げなきゃ。


 このままじゃ大変なことになる……本能がそう伝えているのに、瑠璃子さんの体はあまりの尿意に足がすくんで動かない。


 やめてやめてっ、来ないでっ。


 少女が、その絶対洗っていなさそうな、色々付いてそうな手を瑠璃子さんに伸ばしてくる。


 もう、ダメ……っ。


 瑠璃子さんが今日も全身丸洗いを覚悟した、そのときだった。


 人型をした紙が1枚、目の前をひらりと舞った。


 紙は少女の腕に貼り付くと、たちまち発光し、鋭い紫電を放つ。

 少女はその衝撃に怯み、手を引っ込めて後退る。


 今のは何? 一体、何が起こったの……?


「やれやれ、今日はオフの日だというのに」


 全く状況が掴めず茫然とする瑠璃子さんの背後から、どこか聞き慣れた声が響く。


 この声は、まさか──


「俺は世界各地の怪異を解決して回る、謎の妖怪ハンター。先祖はかの高明な安倍晴明に弟子入りを志願したこともあるという、先祖代々、父の代より受け継がれる陰陽師の家系の長男!」


 振り返るとそこには、烏帽子を被り(でも着ているのは学校の制服)両手で印を結ぶ、瑠璃子さんと同じくらいの年頃の謎の男の子──髙田くんがいた。

 髙田くんは女子トイレの入り口で、扉が勝手に閉まらないよう足で押さえながら鋭い眼光で少女を真っ直ぐ見据える。


「強力な妖気を察知して駆け付けてみれば……ふむ。AAAランクの怪異『トイレの耳無し花子さん』か」


 少女がキシャーッと威嚇する。まるで、突如女子トイレに現れた男の子をひどく警戒しているようだった。


「少々厄介な相手だが……まぁ、マニュアル通りにやれば問題ないだろう」


 髙田くんは臆することなく女子トイレへと踏み入り、瑠璃子さんの前へと歩み出る。

 そして両手に先ほどの人型の紙を構えると、宣言した。 


「花子さん……お前は、この俺が滅する!」


 そんな、まさかこんなことが……本当にいるなんて……本当にこの女の子が、あの噂の──




   『トイレの耳無し花子さん』


 今は昔、旧校舎が新校舎だったころ、この学校には花子さんという生徒がいた。

 花子さんはそのおとなしい性格が災いし、入学早々いじめの標的となる。


 毎日繰り返される暴力。物を隠されたり壊されたりすることもしばしば。

 けれど花子さんにとって一番つらいのは、絶え間なく囁かれる周囲の悪口だった。


「あいつほんとキモいよねー」


「マジうざいわー」


「ちょべりばっ」


 常に誰かが自分を悪く言っている──花子さんの心は、次第に病んでいった。


 そんなときだった。事件が起こったのは。


「ちょっと髙田ぁー、こいつアンタのこと好きなんだってさー」


「付き合っちゃえばー? キャハハッ」


「ちょべりばっ」


 わざと教室中に響くよう大声を出すいじめっ子たち。


 それは花子さんにとって、知られてはいけない秘密だった。もし知られたら、自分だけでなく相手の男の子にも迷惑をかけてしまうから。

 伝わらなくてもいい。ただ遠くから眺めていれば、それでよかったのだ。


 なのに知られてしまった。よりにもよって、あのいじめっ子たちに。


 花子さんが不安そうに見つめる先、左隣の窓際の席に座る男の子──髙田くんは言った。


「は? 何それ、意味わかんねぇ。ありえないし」


「だよねー! こんなやつに好きとか言われても迷惑なだけだよねー!」


 クラス全員の視線が集まる中、自分の身を守るために髙田くんはそう答えるしかなかったのかもしれない。


 けれどその言葉に淡い恋心さえも打ち砕かれ、花子さんは思う。

 どうして自分がこんな目に……どうしてこんなにつらい思いをしなければならないのだろう……と。


「もう、誰の声も聞きたくない……もういっそ、こんな耳なくなってしまえばいいんだ!」


 明くる朝、1階の女子トイレには、血溜まりの中横たわる花子さんの姿があった。

 発見されたときすでに息はなく、鋭利な刃物で切り落としたかのように花子さんの遺体からは両耳がなくなっていた。


 以来、旧校舎1階の女子トイレには、血塗れで佇む耳のない少女の霊が現れるようになったという話だ。




 狭い女子トイレ内に雷鳴が轟き、少女の雄叫びが木霊する。


 瑠璃子さんが物思いに耽っているうちに、いつのまにか二人の戦いが始まっていた。

 人型の紙が女子トイレ中を無数に飛び交い、花子さんがそれを猫がじゃれるように叩き落とす。


「花子さんは耳が聞こえない分、目力が強力だ。奴と目が合えばたちまち金縛りに遭い、体が動かなくなるだろう。だが……」


 髙田くんは制服のポケットから次々と例の紙を取り出し、頭上に放り投げていく。

 紙は二次関数の頂点に達したあたりから物理法則に逆らい独りでに動き出し、花子さん目掛けて飛んでいった。


「こうやって式神で遠距離から攻撃し続ければ、奴と目が合うことはない。俺は近眼だからな」


 本当に花子さんに耳がないのか気になった瑠璃子さんは改めてよく確認してみたが、髪に隠れて見えなかった。


 花子さんは式札を振りほどこうともがくが、謎の液体で湿った体に貼り付いた和紙は水分を吸い、ぺたりくっ付きなかなかはがれない。


「吹き荒べ『強風』! 爆ぜろ『火星』!」


 髙田くんが、人の指がそんな角度で曲がるのかと思わせる印を高速で結んでいく。

 すると式札が神風特攻隊のように花子さん目掛け次々と飛びかかり、貼り付くと同時に小さな爆炎を立ち上らせていく。


「ふむ。湿気で思ったより火力が出ないか……だが、それもマニュアル通り。ちなみに、煙探知機を『強風』で無効化するのもマニュアル通りだ」


 煙の中から再び姿を現した花子さんは、さっきまでストレートだった髪がスパイラルパーマになっていた。


「充分効いているな。このまま弱らせていけば難なく……む?」


 ポケットに手を入れた髙田くんの動きが、急にぴたりと止まる。

 そしてしばらくごそごそしたかと思うと、ポケットの生地をびろーんと裏返して呟いた。


「紙切れだと……? しまった、さっきヤギに餌を与え過ぎたか」


 髙田くんは舌打ちをすると烏帽子に手を掛け、中から手早く予備の式札を取り出した。


 しかしそれが僅かな隙となった。


 花子さんが不思議な妖術で操るトイレットペーパーが、一足早く髙田くんの腕を縛り上げ、そのまま全身をぐるぐる巻きのミイラにしてしまった。


「しまった! この学校のトイレットペーパーは、そこら辺に売っている安物よりも遥かに固く、肌触りが悪い! くそぅ、これでは動けん!」


 大変、髙田くんがやられちゃう。


 もしここで髙田くんが倒れれば、次は瑠璃子さんの番だ。

 そうなれば今度こそ全身丸洗いを覚悟しなければならない。


 そんなのは嫌……どうか誰か、誰でもいいから瑠璃子さんを助けてっ。


 ──そのときだった。


「メェエエエッ!(助太刀いたしますぞ!)」


 女子トイレの扉を蹴破り、さっきどこかで見たような一頭のヤギが乱入してきた。


「おぉっ、山羊之助か! いいところに来てくれた!」


 ヤギは髙田くんにつかつかと歩み寄ると、一噛みでトイレットペーパーを食い破る。


「ンメッ! ンメェッ!(この程度の紙に苦戦するとは、まだまだですな)」


「へへっ、紙の扱いじゃやっぱアンタにゃ敵わねぇな」


 旧知の仲のように、和気あいあいキャッキャウフフする1人と1匹。

 自由になった両腕でヤギをひとしきり撫で回した髙田くんは花子さんに向き直り、改めて式札を構えた。


「さて、花子さん……ここからは俺たち二人が相手……ここからが本気の戦いだ。覚悟するがいい!」


 多勢に無勢、明らかに不利な状況に花子さんがたじろぐ。


 そんな、1人の女の子相手に寄ってたかってだなんて……これじゃまるで、いじめじゃない。


 その様子を客観的に見ていた瑠璃子さんは、居ても立ってもいられない尿意のことも忘れ、髙田くんの前に飛び出した。


「……何のつもりだ?」


 瑠璃子さんにだって、いっそ耳が聞こえなければよかったのにと思うことくらいある。

 なんで聞いてなかったんだと罵られ、それなら最初から聞こえなかったほうがまだマシだったと思った。

 身体測定の聴力検査で異常なしと言われ落胆した日もあった。


「そこをどけ! そいつは、危険だ!」


 だからちょっぴり瑠璃子さんにもわかるの、貴女の気持ちが。

 大丈夫……瑠璃子さんは、貴女の味方よっ。


 振り返り肩越しに見た花子さんの頬には、全身を濡らす正体不明の液体とはまた違う、清らかな一条の雫。


(ありが……と…………)


 水に流したトイレットペーパーのように、花子さんの体が女子トイレの空気に溶け、次第に消えてゆく。


「メメッ! ンメーッ、ィエアッ!(馬鹿なっ! AAAランクの怪異が、自ら成仏しただと?!)」


「ふむ……お前の心の叫びが届き、花子さんの魂を救ったという訳か」


 髙田くんが遠い目で、女子トイレの天井を見上げ呟く。


「俺は、効率的かつ事務的に解決することばかりに囚われ、父と同じ過ちを繰り返そうとしていたのかもしれないな」


「メェ……(先代の髙田殿は後悔しておりました。自分の過ちにより、ひとつの怪異を生み出してしまったことを。その償いのため妖怪ハンターとなり各地の怪異を解決して回っておられたのですが、やはり彼女のことが忘れられず……そんなときでしたなぁ、ワタクシが先代と出会ったのは。あれは、そう、雨降りしきる月夜の──)」


「だがお前のお陰で、こうして父の無念を晴らすことができた。ありがとう……父に代わり、礼を言う」


 髙田くんが瑠璃子さんに向かって深々と礼をすると、烏帽子が遮断機のように下りた。

 ヤギも髙田くんに頭を掴まれ、遅れてお辞儀する。


 彼らにどんな事情があったのか、詳しくは瑠璃子さんにはわからない。

 けれど、長く続いたしがらみから解放され笑い合う彼らを見ていると、本当によかったと思えた。


「──さて、俺たちはそろそろ失礼するよ。この学校の怪異はまだ6つ残っている。今、36協定に違反していることが知れたら動き辛くなるからな」


 だからくれぐれも今日見たことは内密に──そう言い残すと、謎の妖怪ハンター髙田くんは旧校舎1階の女子トイレから去っていった。




 言われるまでもなく、今日ここで起こったことは、きっとお墓の下まで持っていくことになるだろう。

 真実を話したところで、誰も信じてはくれないだろうから。


 それに──


「ちなみに朝礼でも言ってたが、ここのトイレ使えないぞ」


 帰ったはずの髙田くんがまた女子トイレにひょっこり顔を出し、入り口の扉の貼り紙を指差した。

 そこには、『水道管工事中につき使用禁止』の文字。


 つまりここには、最初から用を足している人などいなかったのだ。

 個室の扉が全て閉められているのも、物音ひとつしないのも、そういうことだったのだ。


「普通、こういう工事って休校のときにやらないか? 何かよっぽど急な事情があったか……俺は先日のおはぎが関係していると思うんだが──お前はどう思う?」


 忘れかけた尿意が怒涛の如く押し寄せてきて、今の瑠璃子さんにそれを考える余裕はなかった。




 ──今日ここで起こったことは、きっとお墓の下まで持っていくことになるだろう。

 真実を話したところで、誰も信じてはくれないだろうから。


 それに、たった今、髙田くんに秘密にしてほしい用件が瑠璃子さんにもできたから。

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