聞き漏らした会話ひとつとっても(上)
たとえば瑠璃子さんは今、なんの脈絡もなく投げ掛けられた問いにどう答えるべきかを本気で悩んでいる。
棚の上に並ぶ石膏でできた胸から上だけの男たちは夕日に赤く染まり、まるでサウナの中テレビを観ているような仏頂面で瑠璃子さんを見下ろしていた。
そんな胸から上だけ男たちと同化するように、瑠璃子さんの向かいの廊下側の席に座る隣人──髙田くんは西日を顔面に受け、ただ静かに瑠璃子さんの次の行動を待っている。
胸から上だけ男Aが厳かに言う。
「瑠璃子くん、何か言ったらどうだね。黙っていても君の立場が悪くなるだけだぞ」
胸から上だけ男Bがそれに同調する。
「そうだぞ」
胸から上だけ男Cがさらに捲し立てる。
「瑠璃子くん、あぁ瑠璃子くん、瑠璃子くん」
手に持つ木槌を叩き、瑠璃子さんの向かいの廊下側の席に座る隣人──髙田くんが言った。
「どうやら、ついにお前を裁く時が来たようだな……審判──ジャッジメントだ!」
窓から射し込む遠赤外線は瑠璃子さんの後頭部にも容赦なく突き刺さり、魔女裁判で断罪された女性を火炙りにするかのように長い黒髪をさらに黒くこんがりふっくら焼き上げる。
どうして……どうしてこんなことに……
窓の外では、ラインダンス部の活気溢れる掛け声がやけに大きく響いていた。
この日、瑠璃子さんは美術の課題が終わらず、放課後に独り美術室で居残り作業をしていた。
いや独りじゃなかった、髙田くんもいた。
単純に作業の遅い瑠璃子さんと違い、瑠璃子さんの向かいの廊下側の席に座る隣人──髙田くんは自分の作品にまだ納得がいかないという風で、瑠璃子さんからしたらもうそれで完成で良いんじゃないかと思われる作品に、さらに取ったり付けたりを繰り返しているのだった。
意外と凝り性なんだと感心しつつ、居残りが1人じゃなくて良かったと内心ほっとする。
なぜならここ、旧校舎1階の西側に位置するこの特別教室──美術室には、出るという噂があるからだ。
どの学校にもあるように、瑠璃子さんの通うこの学校にも七不思議は存在する。
トイレの耳無し花子さん、音楽室で夜に浮くピアノなどなど。ちょっと7つ全部は今ぱっと出てこないけれど。
その7つの怪談の中でも一際異彩を放つ怪異の舞台となるのがここ、美術室。
その怪談の名は──
『美術室のリズリサ』
これは友だちから聞いた話なのだけれど……瑠璃子さんに友だちと呼べる存在がいたかどうかはちょっと定かではないけれど、とりあえず友だちから聞いた話なのだけれど……
ある日、学校に忘れ物をしたその子──ここでは仮に園子さんと名付け、以降はその名で呼ぶ──彼女は、夜の学校へと忍び込もうとしていた。
宿題を机の中に置き忘れて帰ってきてしまったことを、お風呂に入っているときに思い出したからだ。
もし明日宿題を提出しなかったら、生徒指導室に呼び出されお尻ペンペンの刑に処されてしまう。
その恐怖が、彼女を夜の学校に不法侵入するという愚行に走らせたのだった。
彼女は忍装束を身にまとうと、暗闇に溶け込むよう慎重に行動を開始する。
このスニーキングミッションは命に代えても成功させてみせる。そう心に誓って。
でも今のご時世、何かと物騒なので校内へと続く扉はどこも施錠されており、潜入することは結局できなかった。残念。
ちなみに、校門はニンジャジャンプでひらり飛び越えたみたい。
それでも諦めきれず、どこかに鍵を閉め忘れた窓なんぞないかとしばらく校舎の周りをうろうろするも、やっぱりそんなものはなく。
そうして旧校舎の裏手まで来てしまった彼女は、美術室から明かりが外に漏れ出ていることに気が付いた。
まさか美術の女教師、伊達牧子(本名)がこんな時間まで学校に残っているとでもいうのだろうか。
額に嫌な汗が滲む。
ここで見つかったら不法侵入の罪に問われ、もはやお尻ペンペンどころでは済まされないだろう。
きっと縄で縛られ、ギザギザした石の上に漬け物石を持って正座させられるか、天井に吊るされ赤いろうそくをポタポタされてしまう。
だが、折角ここまで来て手ぶらで帰るわけにはいかない。
彼女は意を決して、窓からこっそり中の様子を窺った。すると、そこには……
そのとき彼女は、見てはいけないものを見てしまった。
美術室の中には、確かに女教師伊達牧子(独身)がいた。
しかし、ただの女教師伊達牧子(年齢不詳)ではなかった。
そこにいたのはなんと、リズリサに身を包んだ女教師伊達牧子(趣味:秘境巡り)だったのだ。
よほど恐ろしい光景だったのだろう。
以来、彼女はリズリサを着ることを頑なに拒んだという。
──とかいうことを考えていた瑠璃子さんは、いつからか髙田くんが話しかけてきていたことに、全然全くこれっぽっちも気が付いていなかったのだった。
聞いていなかったのなら聞き返せばいいじゃない。そう考える人もいるだろう。
けれど、もし聞き返した上で、さらにそれを聞き取り損なうようなことがあれば……
そんなこと滅多にあることじゃないと思われるかもしれない。
けれど、瑠璃子さんが何度そういう経験をしてきたことか。
そしてそうやって二度、三度と繰り返し聞き返す内にきっと、耳の遠いおばあちゃんごっこをしていると思われてしまうのだ。
「真面目に話す気がないならお前とはもう一生話さないもんねっ、ふーんだっ」
待って、違うのっ。人と話すのは苦手、できれば構わずそっとしておいてほしい瑠璃子さんではあるけれど、そんな姑息な手段で避けようとしたりなんてしないわ。
だって、必要なとき話せる人がいないのは困るもの。授業で聞き逃した部分を後で聞いたりとかもできなくなってしまうのは、本当に困ってしまうものっ。
だからこそ今まで必要最低限の人付き合いは頑張ってきたのに、それも無駄になってしまうなんてあんまりだわ。
というか大体ね、瑠璃子さんがちゃんと聞く準備してないところをいきなり話し出すなんて卑怯よ、反則よ。
瑠璃子さんに話があるときは、まず瑠璃子さんに話があるって宣言してほしい。
そうすればカクテルパーティ効果で意識が向いて、瑠璃子さんだってちゃんと集中して話聞けるようになるもん。
そんな、常日頃からいつ何時誰に話しかけられても一字一句逃すことなく聞き取れるよう神経を研ぎ澄ませておくなんて、そんなの土台無理な話なのよ。
けれどそんな文句を長い人生の中で出会う人、話す人全員に言っていては切りがない。
それよりも今は、どうすればこの危機を脱することができるのかを考えなければ……
「──お前はどう思う?」
髙田くんは、最後にそう言ったように聞こえた。
かろうじて聞き取れたその部分だけを頼りに、瑠璃子さんは文脈を読み取ることを試みる。
髙田くんは今、瑠璃子さんに意見を求めてる。けれど一体何に対して?
美術室で木槌片手に美術の課題に取り組んでいる今この状況、やはり自分の作品を評価してほしいということだろうか。
改めて髙田くんの作品を観る。
なるほど授業で習った技法を随所に取り入れ基本に忠実、しかしながらそのデザイン性は独創的で革新的、シュールレアリスムを思わせる作風の中に現代風刺を匂わせ浮世絵へのリスペクトすら感じさせるが、何故か見つめていると3回見たら死ぬ呪いに掛かったような焦燥感に駆られる。
つまり一言で表すと、何を表現したいのかよくわからなかった。
「ぁ、うんっ、すごくいいと思うよ! 瑠璃子さんには難しすぎて、うまくは説明できないけれどっ」
この辺りが落としどころだろうか。
相手を誉めて持ち上げつつも、これ以上深くは突っ込んでくれるなという意思表示。
髙田くんがこの作品に対する感想を求めているのだとすれば、確かにこれが模範解答であるように思える。
けれどやっぱり、本当に髙田くんがそういう話題を振っていたという確信が持てない。
それは髙田くんが、作品を瑠璃子さんの方に180度回転させて見せてくれていないからだ。
こういう場合、紳士でダンディな殿方なら瑠璃子さんが見やすいように向きを調節してくれるはずだ。
いや、でも髙田くんが紳士でダンディな殿方かと改めて聞かれるとそうでもないような気がしてきたので、やっぱり瑠璃子さんの考えすぎかもしれない。
いやいや、でもやっぱり髙田くんが急におはぎの話をしだす可能性も捨てきれない。
「俺はおはぎの中にあんこを入れる奴は邪道だと思ってるんだが……お前はどう思う?」
わかる、わかるわ、その気持ち。
日本の伝統的和菓子おはぎの本来の姿を後世に語り継いでゆくには、中のあんこはどうしたって邪魔になるわよね。
でもごめんなさい、瑠璃子さんはおいしければ正直どっちでもいいの……
それに、やっぱりおはぎの話でもなくて、シャープペンシルのお尻に付いた消しゴムの話をしていたのかもしれない。
「あれはシャーペンの芯を入れる部分のキャップの役割を担うものであって、消しゴムではない。磨り減って取り外し辛くなると芯を補充するとき僅かなタイムラグが生じるから使うべきではないと俺は考えるが……お前はどう思う?」
そうよ、そうなのよ、あれはやっぱり綺麗に残しておきたいわよね。
貸したペンがちょっと使われて返ってきた日には、もうその人とは一生口利いてやるもんかって思うものね。
それにどうせあれで消そうとしたって、うまく消えっこないんだから。
でもでも、髙田くんがそういう話を自分から振る姿はあまり見たことがないような気がする。
そうなるとやっぱり、最初の直感を信じて髙田くんの作品を礼賛するべき?
混乱し迷走する瑠璃子さんに、胸から上だけ男A~Cが順繰りに問い詰める。
「さぁ瑠璃子くん……髙田くんが話していたのは、自分の美術作品についてかな?」
「それともおはぎかな?」
「シャーペンの消しゴムかな?」
一体どれ? どれが正解なの……っ?
「ここで優しい俺から、お前にヒントをやろう」
髙田くんが指を鳴らすと、1体の芸術が爆発した。
断末魔の叫びを残して砕けた胸から上だけ男Cの中からは、ヤギが顔を覗かせている。
「この通り、俺の後ろの3体の胸像の内、1体はヤギだったわけだ」
髙田くんが口角を吊り上げにやりと笑う。
「そして残り2体の内、もう1体もヤギだ。それでもお前は自身の最初の選択を信じるか? 今ならまだ選び直すことができるぞ」
瑠璃子さんは知っている。こういう場合は選択肢を変えた方がお得なのだ。
理屈はともかく確率の世界では、3択問題でヤギを見たら選び直せ──そういうジンクスめいた何かが存在すると聞いたことがある。
けれど、そのことはもちろん髙田くんも知っているはず。
知っていて、あえて瑠璃子さんを間違った方に誘導しようという魂胆かもしれない。
とすると、瑠璃子さんはやっぱりこのまま選択を変えるべきではない?
……なんという高度な心理戦。
けれど負けるわけにはいかない。瑠璃子さんの今後の学校生活がこの一戦に掛かっているのだから。
「さぁ、どうする? さぁ、さぁ、さぁ!」
髙田くんが、実演販売の人のように強気な姿勢で瑠璃子さんを捲し立てる。
瑠璃子さんは、瑠璃子さんは一体どうすれば……
考えに考え抜いた末、瑠璃子さんが辿り着いた答えは──
瑠璃紺の格子を落とす朱色の廊下を、瑠璃子さんは独り歩く。
窓の外からは、ラインダンス部の活気溢れる掛け声がやけに大きく響いてくる。
瑠璃子さんは今、お花畑へと向かっている。そう、お花を摘むために。
髙田くんには、話の続きは戻ってからと伝えてある。
これで考えをまとめる猶予ができた。
卑怯者と罵られようと構わない。これが瑠璃子さんのやり方だ。
けれどあまりゆっくりもしていられない。
ここで時間を掛けすぎると、大きい方のお花を摘んでいると思われてしまう。
それは乙女にとって、あってはならないこと。
というか実は本当にさっきからずっと催していて、それを我慢していたせいで思考が鈍って正解を導きだすことができなかったのかもしれない。
この先の秘密の花園で身も心もすっきりリフレッシュすれば頭の中も冴え渡り、おのずと最適解が見えてくるはずよ。
だから待っていなさい。これ以上、髙田くんの好きにはさせないわっ。
けれどこの行動が後にあんな事態を引き起こしてしまうなんて、瑠璃子さんは夢にも思っていなかった。
このときの瑠璃子さんはうっかりすっかりぽっかり失念していたのだ。
瑠璃子さんの向かう先、この廊下の一番奥……旧校舎1階の女子トイレが、もうひとつの七不思議『トイレの耳無し花子さん』の舞台であるということを。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます