落とした消しゴムひとつとっても(下)
きっと、学校の屋上に寝そべって見上げた空はこんな感じなのだろう。
視界いっぱいに広がる青空には、教室の窓からさっき見たのと同じ、お行儀の良い羊の群れがゆっくりと流れていた。
地面を背に寝転がったまま、ぼんやり思う。
瑠璃子さんもあの雲のように、自由に空を飛ぶことができたなら──なんて。
けれど今の瑠璃子さんは囚われのお姫様。籠の中の鳥。鎖に繋がれた近所のポチ。
さっきから瑠璃子さんの体に巻きつき絡まるこのいやらしくも破廉恥な腕が瑠璃子さんを捕まえて離さないから、瑠璃子さんはその背中に伝わるおぞましい感触に身を縮めてただただ耐えるしかなかった。
本当は瑠璃子さんを束縛するこの両腕を、脱いだ靴下のように摘まんでえいやっと放り投げられたらよかったのだけれど。
でも今この腕を、左右合わせてコーヒーカップを6杯乗せられそうな腕を払い除けるのは、なんとなく躊躇われた。
瑠璃子さんの左隣の窓際の席に座る隣人──髙田くんが瑠璃子さんを助けてくれたということを、瑠璃子さんはなんとなくわかっていたから。
あの謎の発光体がこの町を襲ったとき、それを瑠璃子さんはただ茫然と見つめていた。
まるで生き物のように周りの建物を呑み込んでいくその姿を、他人事のように眺めていた。
「何してる! 早く伏せろ!」
瑠璃子さんの左隣の窓際の席に座る隣人──髙田くんが瑠璃子さんに向かって叫ぶ。
自分がどれほど危険な状況に置かれているか理解できていなかった瑠璃子さんは、それを聞いて初めてなんかちょっとやばいのかもしれないと思ったけれど、でも瑠璃子さんは大人の女性だから「みんなー、慌てるとケガするわよー。こういうときこそ落ち着いて、冷静に、まったり、はんなり──」とかやっているうちに、しびれを切らした髙田くんに押し倒されてしまったのだった。
そして次の瞬間──まさに間一髪だった。教室中を眩い閃光が駆け巡り、仰向けに倒れる瑠璃子さんの視界を覆い尽くしていた。
太陽を肉眼で見たときのような熱を瞳に感じた瑠璃子さんが思わず目を瞑ると、瞼の裏側を黒いアメーバがうにょうにょと泳いでいた。
唐突に瑠璃子さんは思い出す。
瑠璃子さんは小さい頃、この網膜に張り付くうにょうにょを怖れていた。
まるで本物の生き物のように蠢くそれは、実は人の眼の中に住み着く謎生物で、いずれ瑠璃子さんの意識を乗っ取り陽光降り注ぐ明るい場所へ瑠璃子さんを誘導したりするかもしれない。
そして白日の下にまんまと誘き出された日陰者の瑠璃子さんは、身体の自由が利かないままなんの抵抗もできず謎生物の親玉に取って食べられてしまうのだ。
やがて月日が流れ、大人の女性に成長した瑠璃子さんは、それがただの光の残像だと知った。
小さい頃は正体のわからないものに意味もなく怯えていたけれど、今は形あるものほど恐ろしく思える。
どんなに大切に守っているものも、それはある日突然、なんの前触れもなく、無残に、理不尽に、奪われてしまったりするのだから。
それはそれとして、次に瑠璃子さんが目を開けたときにはさっきまで教室の天井があったはずの場所にはすっかり何もなくなっていて、ただ大空だけが広がっていた。
突然のことでびっくりしたけれど、幸い髙田くんの腕がクッションになって頭をぶつけずに済んだし、体のどこも痛くなかった。
だからこの背中の感触は、事故だったんだと、不可抗力なんだと、仕方がなかったんだと、自分に言い聞かせて割り切ることに決めた。
「……行ったみたいだな。残りカスに興味はないらしい」
そう言うと、髙田くんはようやく瑠璃子さんをいやらしくも破廉恥な腕から解放し立ち上がった。
髙田くんの魔の手から逃れた瑠璃子さんも身を起こすと、手早く制服の乱れを正し、髪に手ぐしを通す。
「何、涙目になってるんだ?」
勝手に顔を覗き込んでくる無遠慮な視線から逃れるように、顔を背けた。
表情を隠すためにせっかく整えたばかりの髪を手繰り寄せて、またくしゃっとなる。
「何かあれば遠慮なく言えよ。残ったのは俺たちだけみたいだからな」
無遠慮な髙田くんがどんな感情からそう言ったのか、瑠璃子さんからは窺い知ることができなかった。
それよりも、一体何が起きたの?
クラスの他の子たちはどこ?
何がどうなったのか、まるでわからない。
瑠璃子さんは、さっきまで確かに教室で授業を受けていたはずだった。
それなのに、気がつくと今は見渡す限りの白。建物はおろか山も谷もなく、北海道の大雪原のような風景の真ん中に、髙田くんとたった2人きり。
空だけが、いつもと変わらない青色を湛えていた。
「ここは『虚無の地平』と呼ばれているところだな。まぁ、元々俺たちが通ってた学校が建っていた場所なんだが」
こんな状況でも髙田くんは冷静だった。
ここがどこで、何が起きているのかも理解している風な口振りだ。
「お前も見ただろ。あの、蜘蛛のように這い寄る不気味な光の球体を」
そして髙田くんは語り出した。
「あれが何なのか、正確なことはわかっていない。天変地異の類いか、某国の秘密兵器か、はたまた異世界からの侵略者か」
髙田くんにもわからない──それはつまり、あの未確認発光物体がおはぎの可能性もあるということを意味していた。
窓の向こうに現れた、地平を白く染める光の塊。あれは実は、おはぎだったのかもしれない。
光る、大きな、きなこ味の、おはぎ。
「ただわかっているのは、あの光の中に消えたものは、二度と戻ってこないということだ。人だろうが、物だろうが、金だろうが時間だろうが……存在そのものがなくなって、最初からなかったことになる。人々の記憶の中からも、消える」
おはぎを中心にして四方に伸びた光芒は、脚のようにも羽根ようにも見えたけれど、でもやっぱりお箸だったのだ。
大きなお皿の上にひとつだけ残った最後のおはぎ。それを天上の神々が同時にお箸でつつき合い、取り合いの大喧嘩。光芒と光芒の激しい攻防。
「でも光の外にいた人間からすれば、消えたっていう認識すらないんだ。今や世界中のあちこちにここと同じような空間ができてるってのに、誰もその存在にすら気付かず暮らしてるんだから不思議だよな」
きっとこれまでも、同様の熾烈な争いが繰り広げられてきたのだろう。
あんこのおはぎや黒ごまおはぎも奪い合われ、胃袋に消えた。そして今回いよいよ満を持してきなこのおはぎが登場、一体誰の手に渡るのか、今まさに雌雄を決せんという高視聴率待ったなしの名場面。
一瞬たりとも目が離せない手に箸握るその仁義なき勝負の行方を、瑠璃子さんは涎を飲んで見守るしかない。
「今の俺たちみたいに運よく難を逃れた奴らは、あれをこう呼ぶ。全ての存在を抹消する者──『イレイザー』と」
おはぎのことを考えていたらお腹が鳴ってしまい、咄嗟にお腹を押さえる。
別にお腹は空いていない。だってお昼を食べたばかりだし、むしろ満腹の胃に隙間を作ろうと胃腸が頑張って働いているように感じた。
正直、髙田くんの言っていることは瑠璃子さんにはほとんどが意味不明だったけれど、わからなくてもまぁ問題ないかなと思った。
世の中には、別に知らなくても困らないことなんてたくさんあるのよ。
物理法則が理解できなくたって、水車は回り続けるのだから。
「さて、これからどうするかねぇ」
髙田くんが大きく伸びをする。
「学校も先生も消えちまったし、もう授業どころじゃないよな。いい天気だし、昼寝でもするか」
お前も一緒にどうだ、と髙田くんが言うので、瑠璃子さんは首を横に振った。
本当に学校も先生も消えてもう授業どころではないのなら、瑠璃子さんはすぐにでもおうちに帰りたかった。
さっき気にしないと誓ったばかりなのに、断腸の思いで決意した過去の瑠璃子さん、ごめんなさい。
けれどやっぱり我慢できない。あの感触が未だに瑠璃子さんの体にまとわりついて離れず、それがどんどん広がって徐々に染み込んでくるような、いずれこの体から一生取れなくなるんじゃないかという恐怖に瑠璃子さんは身震いした。
一刻も早くおうちに帰って、全身丸ごと丸々丸洗いしたい。
きっと1回洗ったくらいじゃダメ……最低でも2回、できれば3回は洗わないと、この体に染み付いた穢れを禊ぐことはできないわ。
制服も、そのまま洗濯機で洗っていいものかわからないけれど、それでももう洗濯機に放り込んでおしゃれ着洗いで洗ってしまおう。
「お前の家って何処だよ」
髙田くんが聞いてきたので、かいつまんで瑠璃子さんの個人情報を公開する。
瑠璃子さんのおうちは学校からすぐ近くだ。
校門を出たら右に曲がって、並木道を5分くらい歩くと脇道があるから、そこを入っていくとすぐに瑠璃子さんのおうちが見える。
ちょっと前に流行った歌があるのだけれど、それを口ずさみながら歩くとちょうどいいくらいの距離だった。
まぁ、右も左もわからないこんな景色じゃ、何を目印に歩いたらいいのか全然見当がつかないけれど。
それを聞いた髙田くんはしばらくの間、瑠璃子さんのスカートの裾がタイツに挟まっているのを指摘するべきか黙っておくべきかみたいな微妙な空気を漂わせていたけれど、やがて何かを決心した様子で「じゃあ行こう」と歩き出した。
太陽がこっちにあるから方角がどうとか、また難しいことを呟きながら。
瑠璃子さんは一応スカートの裾を後ろ手に引っ張ると、このよくわからない世界に独り取り残されないよう、慌てて髙田くんの後を追った。
「マジで小石ひとつ転がってないな。何も残らないとは聞いてたが……それだけに、摩擦や反発力があって普通に地面を歩けてるのが面白い。この白いの、材質は何なんだ?」
歩きながら、地面を跳んだり蹴ったりしている髙田くん。
髙田くんの考えていることは本当によくわからない。
それはそんなに大事なことなんだろうか。
今考えないといけないことなんだろうか。
「大体、この辺りじゃないか」
そうこうするうち、ちょっと前に流行った歌を瑠璃子さんが歌い終わる頃合いになり、髙田くんは立ち止まる。
着いた先、そこはやっぱり一面真っ白で、建物はおろか山も谷もなく平面な土地が広がっているだけだった。
苦虫を噛み潰したような、食べた卵焼きが甘くないやつだったときのような表情で、髙田くんは静かに佇む。
「見えるか? これがお前の運命──デスティニーだ」
そう……髙田くんは最初からわかっていたのね。
わかっていたから、瑠璃子さんをここに連れてくるべきか迷った。
いや、瑠璃子さんだって本当はわかっていた。
地平線の彼方まで何も見当たらないこの景色の中に、学校から徒歩5分ちょっとの瑠璃子さんのおうちが残っているはずなんてないんだって。
ここには何もない。瑠璃子さんが毎日湯浴みしていたお風呂も、着替えの服も、全部。
緊張の糸が切れ、今まで我慢していたものが溢れだし、その場に泣き崩れる。
瑠璃子さんは全てを悟った。
あのとき、髙田くんに無理やり押し倒されたときから、こうなる未来はすでに決まっていたのだと。
あの背中から伝わる、クラスメイトがトイレに行ったあとそのまま履いている靴で踏み固めた教室の床板の冷酷無比な感触が忘れられない。
瑠璃子さんは、瑠璃子さんが彼と同じ身分にまで落ちぶれたことを実感した。
もう瑠璃子さんが彼を拒むことなんてできないだろう。
それほどまでに、今の瑠璃子さんはみすぼらしく薄汚れている。
これが、彼を蔑み蔑ろにし軽蔑した女の……日陰の女に相応しい、末路。
これが瑠璃子さんの犯した罪──ギルティに対する罰……罰って英語でなんて言うのかしら。
「小さい頃から慣れ親しんだ家が……大事にしてた宝物も、かけがえのない思い出も、全部まとめて消えちまったんだ。辛いよな……」
髙田くんが、慰めるように瑠璃子さんの頭をそっと撫でる。
この手だって、クラスメイトがトイレに行ったあとそのまま履いている靴で踏み固めた教室の床板の上を転げ回った彼をさっきまで握っていた手じゃないの。
けれど、瑠璃子さんにはもうそれを振りほどく資格なんて、ない。
その必要も、ない。
……唐突に、心が凪いだ。
さっきまでの涙が嘘のように、静まり返った水面に波ひとつ立たない。
そうよ……ここまでくれば一緒よ。
お風呂に入れないのなら、もうどこまで汚れたって同じじゃない。
今ならどろんこ遊びだって笑顔でできる気がする。
お帰りなさい、あなた……お夕飯のおはぎよ。はい、どうぞ。たくさん作ったからいっぱい食べて。ほら、ねぇ……早く食べて、髙田くん。
瑠璃子さんは髙田くんの口の中におはぎを捩じ込んだ。
「……少しは落ち着いたか?」
髙田くんが心配そうに尋ねるので、薄笑いで応える。
「聞いてくれないか。俺はずっと、一つの可能性を考えていた」
すっかり泣き止んだ瑠璃子さんに安心したのか、髙田くんは自分の考えを語り始めた。
「ここら一帯、少なくとも半径5km圏内が世界から消えた。それだけの範囲の"本来あったもの"が突然なかったことにされたんだ」
半径5km、面積25π km²、体積500π/3 km³?の世界が消えた……一体どれだけの人々がこの災厄の犠牲になったのか、瑠璃子さんには想像もつかない。
「この世界は今、多くのパラドックスを抱えている。そしてその矛盾を解消するため、辻褄を合わせる方向へ変化しているはずだ」
言いたいことはなんとなくわかる。
お風呂上がりに食べようと楽しみにしていたプリンが冷蔵庫の中から消えていたら、瑠璃子さんなら絶対怒る。
きっとそういう話をしているのだ。
「行こう、地平線の向こうへ。そこにきっと、お前の新しい居場所があるはずだ」
もし消えたと思っていたプリンが無事に見つかったなら、そのプリンは普通に食べたプリンよりもきっとずっと美味しいプリンだと思う。
「それに、もし仮になかったとしても、俺が作るよ……お前の居場所を」
それが手作りのプリンだったなら、なおのこときっともっとずっと美味しいプリンに違いなかった。
この地平の向こうには、瑠璃子さんが知っているようで、でもやっぱりちょっと違う世界が広がっているのかもしれない。
けれど、どんな世界だって瑠璃子さんは構わない。お風呂と着替えさえあれば。
この先どんな困難が待ち受けていたって、瑠璃子さんは負けない。何度押し倒され、何度穢されようと、瑠璃子さんは立ち上がる。お風呂と着替えさえあれば。
行こう、地平線の向こうへ。そこに瑠璃子さんのお風呂と着替えがあると信じて。
「そういえば……」
思い出したように、髙田くんがポケットから何かを取り出す。
「これ、ちゃんと返せてなかったな」
カップ&ソーサーが3杯は乗せられそうな手つきで差し出されたその手の内には、さっきまで瑠璃子さんの机の上に確かにあった、瑠璃子さんが角を7ヶ所残して大切に使っていた、スリーブに瑠璃子さんの字で『るりこ』と書かれた、瑠璃子さんの消しゴムがあった。
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