瑠璃子さんの妄想は止まらない
橘 綾雨
落とした消しゴムひとつとっても(上)
たとえば瑠璃子さんは今、目の前に差し出された消しゴムを受け取るべきか否かを本気で悩んでいる。
太陽が西にやんわり傾き、誰もが気怠い空気に包まれる教室の中。東向きの窓から覗く青空には、お行儀の良い羊の群れがゆっくりと流れていた。
そんな、こよなく平和な風景画を背景に、瑠璃子さんの左隣の窓際の席に座る隣人──髙田くんは、ただ静かに瑠璃子さんの次の行動を待っている。
その右手に握られているのは、さっきまで瑠璃子さんの机の上に確かにあった、瑠璃子さんが角を7ヶ所残して大切に使っていた、スリーブに瑠璃子さんの字で『るりこ』と書かれた、つまり明らかに紛れもなくどう見ても瑠璃子さんの消しゴムなのだった。
それがなんの因果か神の悪戯か、瑠璃子さんの手元を離れ、紆余曲折あったりなかったりして瑠璃子さんの左隣の窓際の席に座る隣人──髙田くんの手に渡り、カップ&ソーサーを腕に3杯は乗せられそうな手つきによって、今まさに瑠璃子さんの元へ帰還を果たそうとしている。
瑠璃子さんは知っている。この場合の所有権は瑠璃子さんにあるはずだから、瑠璃子さんはその所有者たる義務を全うしなければならない。
いや拾った人が1割もらえる法則が適用されるなら厳密にいうと一部は瑠璃子さんの所有物ではないのかもしれないけれど、でも四捨五入すればほぼ瑠璃子さんのものだからとりあえず瑠璃子さんのものとして話を進めるなら、瑠璃子さんが次に取るべき行動は決まっている。
ごく普通の一般的で平均的な日本人の感覚なら、それはすなわち「ありがとう(はぁと」と柔らかく微笑み手を伸ばすも不意に指先が触れ合い思わず手を引っ込めて頬を赤く染め恥じらいつつもおずおずと受け取りなんなら少し前屈みで上目遣いに小さな胸の谷間をチラつかせたりすることだ。
これがもしアメリカ人なら「ワォッ、センキューやさしいジャパニーズボーイ!」とハグしてチューして受け取って終わりだろう。瑠璃子さん英語が得意じゃないから"やさしい"の英単語が出てこなかったけれども。
ちなみに瑠璃子さんは国産100%の純日本人で長い黒髪が特徴のこけしのような女の子で、アメリカ要素はゼロなので不本意ながら「ありがとう(はぁと」以下略の方を実行せざるを得ないのだけれど、そのために必要な度胸も覚悟も心意気も今の瑠璃子さんは残念ながら持ち合わせていなかった。
なら、ここで所有権を放棄する?
瑠璃子さんのものではないと言ってしまう?
いいえ、そんなことをしたら不法投棄と見なされ瑠璃子さんは現行犯逮捕されてしまうに違いないわ。
薄暗い独房に監禁拘束されムチで叩かれる日々。
面会室で再会した両親とアクリル板越しに手を重ね、交わす言葉。
「瑠璃子……貴女なんてことしたの!」
「この親不幸モンがっ! けしからんっ!」
「パパ……ママ……瑠璃子さんは取り返しのつかないことをしてしまいました……ごめんなさい……ごめんなさい……っ!」
ただ謝ることしかできない瑠璃子さん。
心と体と世間体に一生癒えない深い傷を負った瑠璃子さん。
嗚呼、なんて可哀想な瑠璃子さん。
そんな瑠璃子さんの苦悩を、瑠璃子さんの左隣の窓際の席に座る隣人──髙田くんは理解してくれるだろうか?
伸ばされた右腕の上にはカップ&ソーサーが3つ。手前からブラックコーヒー、お砂糖いっぱいのミルクコーヒー、よくわからないコーヒー。
髙田くんは先ほどと全く同じ姿勢のまま、絵画の中に溶け込むようにじっと佇む。
題名『コーヒー男』。
瑠璃子さんはお砂糖いっぱいのミルクコーヒーを手に取り一口飲むと、コーヒー男の腕の上へとカップを戻す。
……一旦落ち着こう。落ち着いて、もう一度よく考えてみるの。
コーヒー男のその掌の中には、相変わらず瑠璃子さんの消しゴムが存在していた。
彼との出逢いは、そんな特別なものではなかった。
何が起こるわけでもないなんの変哲もない世の中の、どこにでもあるごくありふれた日常の1コマで、瑠璃子さんは彼を見つけた。
かっこいいとかかわいいとか見目麗しいとかそういった特別な印象は全くなくて、ごくごく平凡な姿形だった彼をそのときの瑠璃子さんは無味無臭な表情で見ていたと思う。
けれど彼のそういうなんでもない雰囲気が、瑠璃子さんにとっては安らぎだった。
高望みしない代わりに絶対裏切られない。そう瑠璃子さんに思わせた。
実際、彼は瑠璃子さんの期待に応えていたし、瑠璃子さんもそれで満足だった。
──あのときまでは。
先に彼を裏切ったのは瑠璃子さんの方だった。
彼を信じる瑠璃子さんを、彼も信じていただろう。
それなのに、そんな彼を瑠璃子さんは蹴り飛ばしたのだ。
共に死地を潜り抜けた背中を預ける戦友にいきなり銃で撃たれたような、あるいはお風呂上がりに食べようと楽しみにしていたプリンが冷蔵庫の中から消えていたときのような、信じられないものを見るような目で瑠璃子さんを凝視しているであろう彼を、瑠璃子さんは直視できない。
違う、こんなはずじゃ、そんなつもりじゃなかったの……だって、そう、ほら机の死角になっていて見えなかったのっ。
瑠璃子さんは床に横たわる彼に手を差し伸べようとしただけで、でもちょっと脚の位置をずらしたときに爪先がぶつかってしまって、それがまさかこんなに勢いを付けて転がっていってしまうだなんて……でもわざとではないもの、不可抗力だもの、運が悪かっただけだもの。
だから瑠璃子さんは悪くない、瑠璃子さんはいい子、瑠璃子さんは賢い子。
けれど髙田くんはそんな瑠璃子さんを嘲笑うかのように、自分の足下に転がってきた彼を拾い上げると瑠璃子さんの眼前に突きつけてきた。
「目を逸らすな。よく見ろ、これがお前の罪──ギルティだ!」
さっきまで瑠璃子さんの机の上に確かにあった、瑠璃子さんが角を7ヶ所残して大切に使っていた、スリーブに瑠璃子さんの字で『るりこ』と書かれた彼。
けれどその表面は今や黒く薄汚れていて、クラスメイトがトイレに行ったあとそのまま履いている靴で踏み固めた教室の床板の上を転げ回ったことを如実に物語っている。
やめて……それ以上、見せつけないで……っ。
身勝手で理不尽な考えだというのはわかっている。
でもただ床に落ちただけならまだしも、クラスメイトがトイレに行ったあとそのまま履いている靴で踏み固めた教室の床板の上を転げ回った彼に、瑠璃子さんはもう触れることすらできない。
この世の穢れを一身に背負いみすぼらしい姿に変わり果てた彼を、もはや瑠璃子さんは受け入れることができなかった。
ごめんなさい、『るりこ』の消しゴム。けれど貴方はもう、瑠璃子さんの消しゴムではないの。
こんな身勝手な瑠璃子さんを許して……いいえ、許してくれなくたっていいわ。瑠璃子さんは一生この業を背負って生きていく。
だからどうか、瑠璃子さんの前からいなくなって……もうこれ以上、瑠璃子さんを苦しめないで……っ。
消しゴムを持つ髙田くんの指先が、近くの道路を4トントラックが通り過ぎたかのように幽かに揺れ動いていた。
髙田くんの心にもまた、迷いが生じているのかもしれない。
この消しゴムは本当に、目の前の少女──国産100%の純日本人で長い黒髪が特徴のこけしのような女の子のものなのか?……と。
そうよ。『るりこ』の消しゴムが瑠璃子さんの消しゴムだとは限らない。そんな確証は、今の髙田くんにはないはずよ。
"るりこ(ruriko)"をアナグラム変換すると"クロワール(kuroir)"となり、つまり『るりこ』の消しゴムは(たぶんフランス人の)クロワールさんの消しゴムという可能性だって十分ありえる。
問題はこのクラスに(たぶんフランス生まれの)クロワールさんがいたかどうかという点だけれど、瑠璃子さんの記憶では確かこのクラスに(たぶんフランス育ちの)クロワールさんはいない。
瑠璃子さんは人の名前と顔を覚えるのがめっぽう苦手だけれど、横文字の人がいればちょっとは記憶に残っているはずだから(たぶんフランス国籍の)クロワールさんはここにはいないのだ。
ならなぜここに(たぶんフランス語ペラペラの)クロワールさんの消しゴムが?
まさかこの(たぶん毎日フランスパン食べてる)クロワールさんの消しゴムは、何処かから空間転移でもしてきたというの……?
「いや、その設定には無理があるな。古典的なSFに見られる従来のワープ航法の技術は、現在では実現不可能だと言われているからだ」
髙田くんの冷ややかな視線が、瑠璃子さんにそう釘を刺す。
……そうね、この『るりこ』の消しゴムはやっぱり瑠璃子さんの消しゴム。そう考えるのが妥当だと認めざるを得ないわ。
でもだからといって、瑠璃子さんにこれ以上どうしろというの?
もういっそ、何か大きな事件が起こって消しゴムどころの騒ぎではなくなってしまえばいいのに。
校庭に野生の鹿が乱入するとか、担任教師とクラスの子が付き合ってたことが発覚するとか、もしくは──
何処かに逃げ場はないかと目を泳がせた瑠璃子さんは、そこでようやく周囲の変化に気付く。
さとうきび畑のようにざわつく室内。
これから抜き打ちテストがあると発表されたかのように落ち着きのないクラスメイトたち。
一人の生徒が窓の向こうを指差す。
それに呼応し、数名の生徒が窓際に駆け寄る。
手に持つスマホを外に向け、写真を撮る、撮る。
何かが、本当に起きているようだった。
窓の外に、一体何が……まさか鹿? 鹿なの?
野生の鹿なら瑠璃子さんも見たい。
けれどそんなことではしゃぐなんてはしたない真似、瑠璃子さんにはできない。
瑠璃子さんは大人な女性だから、「全くもう、鹿ごときで……みんな子どもなんだから。ウフフ」と澄ましていなければならないのだ。
髙田くんだって、そのほうが魅力的だと思うでしょう?
「そんなまさか……なんでアレがここに!」
ちらり横目で見た瑠璃子さんの左隣の窓際の席に座る隣人──髙田くんは、右腕の上に並ぶコーヒーが溢れるのも構わず遠心力で肉体と魂が分離しそうな勢いで振り返り、意中の女生徒が担任教師と逢い引きしている現場を目撃してしまったかのような、あるいはお風呂上がりに食べようと楽しみにしていたプリンが冷蔵庫の中から消えていたときのような、驚愕の表情で窓の外を見つめていた。
やっぱり髙田くんも気になっていたのね……鹿が。
いいのよ、いいの。仕方がないわ、鹿がいたんだもの。瑠璃子さんだって本当は気になって気になって仕様がないんだもの。
「そうさ、人の好奇心は抑えられない。だから我慢する必要なんてないんだ」
髙田くんの右斜め45℃の後ろ姿が、そう瑠璃子さんに訴えかけてくるようだった。
「さぁ、早くこっちに来てごらん。一緒に見ようじゃないか、窓の外の本物の野生の鹿のなんか凄くいい感じの姿を」
ありがとう、髙田くん……こんな瑠璃子さんを誘ってくれて。
でもやっぱり、瑠璃子さんは行けないよ。
だって瑠璃子さんは日陰の女……日の当たるそちら側は、眩しすぎてとても目を開けていられないもの。
だから瑠璃子さんはここでいいの。
ここから「全くもう、鹿ごときで……みんな子どもなんだから。ウフフ」と興味のない素振りでみんなの様子を眺めているわ。
そしてあわよくばその肩越しに、ちらっとでも見えたらいいなー……なんて。
けれど瑠璃子さんのそんな淡い期待は、儚くも脆く崩れ去った。
なぜなら、そこにいたのは鹿ではなかったのだから。
みんな、校庭よりもずっと遠くを見ている。
その肩越しにあわよくちらっと見えてしまった何かを、なんと形容したらいいのか。
先ほど"いた"とは言ったものの、あれが生き物なのかすらわからない。
髙田くんがプリンを食べ損ねたことを悔しがるかのように、クラスメイトがトイレに行ったあとそのまま履いている靴で踏み固めた教室の床板の上を転げ回った消しゴムを、ぎゅっと握りしめる。
その目線の先には、地平を白く染める光の塊。それを中心として四方に伸びる光芒は、脚のようでもあり、羽根のようでもあった。
何が起きているかなんて、瑠璃子さんにはわからない。
それでも間違いなく、もはや消しゴムどころの騒ぎではないという確信があった。
だって、校庭に野生の鹿が乱入するとか、担任教師とクラスの子が付き合ってたことが発覚するとかよりも、よっぽど凄い事件の予感がするのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます