蛇樂子(じゃらくし)

ユカタン聖人

第1話

 蛇樂子(じゃらくし)

 室井宗馬むろいそうまは異様な音に叩き起こされた。どうやら、電車が急停車した時に出る車輪と線路の摩擦音だったようだ。今まで電車の発する音に叩き起こされることなど無かったが、この異常な音は彼の部屋に大きく響き渡った。

 室井は寝癖でボサボサな髪の毛を気にすることもなく窓から首を突き出した。線路沿いに位置するアパートの二階からは駅のホームの様子を覗くことができる。初夏の休日、各駅停車しか止まらないような駅なので人並みは疎らだったのだが、ホームの一点に人が集まっていることから人身事故だというのが推測できた。

「事故かな、縁起悪いな」

 彼はそうぼやきながら首を窓から引っ込めると、ローテーブルに置いてあった携帯電話を取る。彼は割れ目もヒビも入っていない携帯を少し弄ると、高校時代の級友に電話をかけた。

「もしもし?」

「もしもし、宗馬か?どうかしたか」

 携帯のマイクから高く、少しかすれた声が反応した。室井は通話をスピーカーにして会話を始める。

「多分駅で事故あったぽくて」

「マジかよ。電車止まっちゃった感じ?」

 室井が困った口調で説明すると、級友は少し驚いた声で応えた。

「多分止まってるから途中まで歩いてくわ。待ち合わせ一時間くらい遅らせてもらってもいい?」

「まぁ俺は一日空いてるから、全然オッケーだぞい」

「すまん、マジ感謝する」

「気にすんなって、けど本当に感謝してんならジュース奢ってくれてもいいよな?」

「考えとくよ」

「冗談だわ、流石に俺もそこまで金欠じゃないし」

 級友は陽気な口調で冗談を交えた。室井はそれに微笑しながら狭苦しいキッチンの棚を漁っている。

「じゃあそういうことだから、マジごめんな」

「了解、じゃあな」

 室井は電話を切り、食パン二枚にジャムをつけただけの質素な朝食を済ませると、支度をして早々と家を出て行った。

 駅に行くと案の定電車は止まっていたので、室井は仕方なく徒歩で級友との集合場所を目指すことにした。彼とは四つ先の大きな駅で会うことになっている。電車に乗ればすぐ着いてしまうが、歩いて行くとなると決して近いわけではない。三十分程度はかかってしまうだろう。それに加えて初夏の暑さと天候の不安定さが備わるのだから、実に困ったものだ。と、そんな事を胸中でぼやいていた。

 しばらくは線路沿いを進んでいくため、真っ直ぐな道が続く。同じ距離でも真っ直ぐな道が続くのと、曲がりくねりの多い道だと、前者の方が体感距離が長く感じることがある。最低でも室井はその類の人間だった。400mトラックを一周するよりも100mトラックを4周走った方が楽に感じるタイプだ。室井は歩きながら考える。到着点が見えていれば真っ直ぐな長い道も辛くないのか、何事も結果が見えていれば楽なのかと。もしくは結果が見えない事に意味があるのか。いや、結果が見える道の方が楽ならば、楽に感じるのは曲がりくねった道ではなく、真っ直ぐ長い道の方なのではないか。答えのでない疑問について、一人で矛盾を見つけ探りを入れて、議論をしているうちに、真っ直ぐ長い道にも少しずつ終わりが見えてきた。

 三つ目の駅を少し通り過ぎたところからは線路沿いではなく細街路を進んでいく。さっきまで歩いていた道は広く、かつ背の高い建物が無かったため道に影が落ちなかったのだが、細い路だと道路のほとんどを陰が覆っていて涼しく感じた。

 目的地の駅には予定していた時刻よりも早く着いてしまいそうだった。しかも三十分ほど。細街路に入ってからは、無意識に足の進みが速くなっていたのかもしれない。これも到着点が見えているか否かの違いなのだろうか。いや、そんなことで三十分も誤差は生まれないだろう。

 彼は不可解に感じたが、それについて考え込むのは後回しにして、少しの間暇を潰せるような場所を探す事にした。朝食が適当だったので喫茶店が理想だったが、もっと駅の近くに進まないとありそうにない。室井はひとまず細い路地を出ようと考え、少し大きな道路に向かって進んだ。住宅街に連なる家の並びに、見たことのない建物が一つ、建っている。

 神社だ。決して大きいものではないが、朱色と言うには少し明るい色をしていて、太陽の強い光を鈍く反射している鳥居が二十段弱の短い石段の前に構えている。室井は普段神社巡りなどはしないし、神社に出向くのも初詣を含めても多くて年に二回程度だったが、彼は異質な空気感を出している、その神社の中に立ち入ろうと思った。彼はこんな場所に神社が建っていたのかという疑問を片手に、道路を突っ切って鳥居の前に足を運ぶ。

 鳥居を近くで見ると、少し暗めの典型的な朱色のそれだということに気付いたが、それは綺麗に漆が塗られており、美しかった。手触りは滑らかで、ささくれや凹みもない。

 室井はその鳥居を眺めながらゆっくりと石段を一段一段登る。短い石段を登り切ると、賽銭箱があり、その先には木造の本殿が見えた。比較的新しそうな鳥居と違い、かつて金色だったであろう留め具は、金属の光沢を失っており、箱自体も塗装が剥げて粗い木目が曝け出されていた。本殿も築五、六十年くらいの建物に見える年季が入っている。本殿の前には石畳が敷かれており、左に手水舎、右には開けた土地がある。空き地には椅子を広げた二人の老人が碁を嗜んでいた。室井の存在に気付いた老人の一人が彼に向かって会釈する。室井は挨拶を返すと、本殿のほうに近づいていった。

 賽銭箱の前に立つと、財布の中から五十円玉を取り出した。本来は五円玉が理想でも、あいにく五十円玉と五百円玉しか持っていなかったので仕方ない。室井はひょいと軽くその五十円玉を投げると、賽銭箱は小気味良い音を立てる。その後の礼拝のやり方は覚えていなかったので、適当な回数手を叩いて一回だけ深く頭を下げた。何かを祈ったわけでは無かったが、せっかく珍しい場所に神社を見つけたのだから拝まないのは失礼だろうと考えたわけである。

 本殿で拝み終えた室井が帰ろうと背後を振り向いた時には、既に二人の老人の姿は見当たらなかった。帰ったにしては物音一つ感じなかったし、あの老人なら自分に挨拶をしたはずだ。室井は不思議に思う。今日はやけに謎めいたことが多いと。

「お早う。」

 斜め後ろから聞こえた声に室井は背筋を凍らせる。平坦な冷たい声だった。背後を振り向くとそこには喪服を着た男がいた。身長が高く細身だが、顔立ちは綺麗で後ろに流している髪がよく似合っている。大体二十代後半に見えるその男は室井の反応を見るとすぐさま謝罪の言葉を放つ。

「失敬、突然の挨拶で驚かしてしまったな。」

「あ、いえ、気にしないでください。今日は何かと不思議な出来事が多くて」

「ほう。」

 室井が少し焦った口調で彼に説明すると、彼は興味深そうに反応した。

「少し話を聞いてもよろしいか。人が体験した奇妙な話が好きでね。」

 見知らぬ人に自分の体験談を話す奇妙な状況に室井は動揺したものの、少し時間があったので首を縦に振ると、男は表情一つ変えないままベンチに腰をかけた。それに釣られて室井も彼の隣に座り、それまで起きた怪奇な出来事を彼に語る。

 全てを語り終えても尚、彼は表情を微塵も変えない。そして少し黙り込んでから、立ち上がって言った。

「実に面白い話を聞かせてもらった、ありがとう。」

 礼を言われるほどの話では無かったが、感謝されると室井は少し照れ、はにかんだ。

 すると男は自分の鞄の中から小物入れのようなの木箱を取り出した。

「それは」

 室井は男に中身を訊こうとするが不思議と声が出ない。

「君は到着点が見えている道の方が楽だと感じるのは何故か、何事も結果が見えていれば楽なのか、と言ったな。」

 彼はそう室井に問いかけた。室井は黙ったままうなづくと、男は話を続ける。

「これをやろう。」

 男は室井に箱を受け渡そうとしたが彼は反射的に腕を引いた。

「いえ、別にそこまで思い悩んでいるようなことじゃないので大丈夫です」

 しかし男は押し気味に室井に箱を渡して来た。彼は室井の手を取り箱を乗せると、彼の近くでささやいた。

「これが答えを導く羅針盤になるかもしれない。」

 室井がその言葉に一瞬気を取られている隙に、男は室井のそばから離れた。謎めいた箱をもらったことに対して全く嬉しくも無かったが、室井は仕方なく感謝の言葉を探す。

「ありがとうございます、僕そろそろ友人との約束の時間なので」

 そう言って室井は神社を後にしようとする。その時、喪服の男は先ほど以上に冷たく、真剣な声で言った。

「人間が生きる上で対価、と言うものは付き物だ。忘れるな、高価なものにはそれ相応の値段を払わないといけない。」

 彼はそう言うと、本殿のほうに戻って行ってしまった。室井は男の唐突な発言を頭の中で繰り返しながら、腕を組みながら石段を降り、神社を後にした。

                 * 

 神社で上手く時間を潰せた室井は、待ち合わせ時間の3分ほど前に駅につき級友と合流した。                  

 級友と彼はその後数時間ほど街を歩き回って書店や服屋などを見て回り、他愛のない、普通の会話を楽しんでいた。室井は彼に神社や喪服の男のこと、彼に貰った箱のことなどは一切話さなかった。

 二人が駅前で解散したのはもう日が暮れた後で、今朝事故で止まっていた電車も多少遅れながらも運行していた。室井はまた神社の道を通るか迷ったが、結局は電車に乗って帰る事にした。

 家に到着してもまだ、室井はあの時神主が放った言葉について考えている。「対価」「到着点」

「羅針盤」。言葉が彼の頭の中を過っていたその時、室井はハッと思い出した。彼はさっきまで持って歩いていた手提げ鞄を自分の方に引き寄せると、中身をかき回すように漁る。室井は鞄の中から木箱を取り出し、テーブルの上に置いた。喪服の男に「贈り物」として貰ったこの木箱には、白と紅色で二つ巴の家紋が彫られていて、どこか高価な印象を受ける。神社にあった鳥居のような光沢感はないが、きれいに磨かれており、すべすべした手触りだった。(羅針盤になるかもしれない、か)

 室井は木箱に傷をつけないように蓋を開けると、木材のほのかな香りがする。薄い包装紙の中に、鈍い銀色の懐中時計が入っていた。箱と中身とのギャップには軽く違和感を覚えたが、それには漢字で壱から拾弐と時間が黒色で記されており、陸の字が記されている少し上に小さく紋が刻まれている。針は全く動いておらず、銀色のヒンジや蓋の部分は光沢を失い、明らかに年季が入っていた。(何だこれ、ガラクタなのか高価なものなのか)

 彼は小さい時計の細かい部分まで至るところを調べた。案の定、ほとんどの部分は普通の壊れたガラクタの懐中時計だ。一点を除いては。室井が箱に時計の品番か何か、せめて製造地が特定できる紙か何かあるか確認していた時、箱の底面に赤い紙が貼ってある事に気づいた。その紙には、古臭いカタカナで何やら注意書きのようなものが書いてある。多少時間がかかったが、なんとか読み解くことが出来た。

 注意書きの内容は以下の通り。


 壱・コノ時計ハ刻ヲ測ルタメノモノデハナイ。蛇樂子じゃらくしノ力ヲ借リ、時ヲ巻戻ス力得タリ。

 弐・鈕ヲ廻シ短針ガ壱周スルゴトニ拾弐時間刻ヲ巻戻ス。

 参・刻の巻戻シニ限界アリ。肆拾捌時間迄。

 肆・巻戻シデ起キタ事柄ハ上書キサレル。


 紙には五つ目の項目があったが、何故か破かれていて、解読不能な状態にある。

 とてもじゃないが信じがたい事が記されいる注意書きを何度も読み直したが、やがてこんな嘘くさいものは有り得ないと結論づけ、時計を箱の中にしまった。常識的に考えたらこの反応は妥当だろう。(もう、今日は色々と疲れた。寝よう)

 室井は部屋の壁に沿って置いてあるテレビをつけると、そのまま布団の中に潜り込んだ。

 *

「朝、七時のニュースです」

 昨夜つけっぱなしにしていたテレビの音が、室井を目覚めさせた。意識が完全に覚醒しきっていない彼はしばらくぼんやりと液晶を眺めていたが、少し経ってようやく起き上がって朝の支度を始めた。(俺、寝落ちしたのか)

 酒も飲んでいないのに、何だか二日酔いのような倦怠感に襲われた室井は洗面台で顔を洗う。冷水が自分の神経を研ぎ澄まし、完全に意識を覚醒させたその時、テレビで気にになるニュースが流れた。

「昨日午前、斧白おのしろ駅にて高校三年の女子生徒が電車に轢かれ死亡しました」

 室井はそれを聞いた瞬間急いでテレビの方に駆け寄る。昨日電車が止まった、あの事故についてだった。ニュースは続いた。テレビの画面には駅が映されていた他に、彼女の顔写真も公開されていた。元気そうなその笑顔が室井の色褪せていた思い出を鮮明に呼び起こした。

 それは彼がまだ小学生だった頃の話だ。小さな住宅街に住み、公立の小学校に通う彼は幼なじみの少女と仲が良かった。元々は親同士の仲が良かっただけだったのだが、幼稚園からの仲となると、それなりに親しい関係になっていた。室井の中では喜怒哀楽が激しく、少し男勝りだったような記憶が強く残っている。

 ある冬の日、彼女は電車に轢かれて死んだ。室井は彼女と途中まで帰路を共にしていたのだが、別れた後に駅のホームで並んでいたところで人混みに押し出されて線路に落ちたそうだ。彼女の親はその後うつ病を患い、今も病院で療養している、という話を室井は母から聞いていた。

 室井はその少女の親が、小学校の卒業式に彼女の遺影を抱えながら出席していたのをはっきりと思い出す。涙を流す親の姿と相反するように、彼女の遺影は微笑んでいた。ニュースの女子生徒のように。そして当時少年だった自分がその光景を見て感じた無力感を、ニュースをみた室井は身体の奥底から感じたのだ。

(こういう人を助けることのできる力さえあれば)

 その時、彼は思い出す。忘れようとしていた昨日の神社での出来事を。あの神主の意味深な発言、そして彼に貰った嘘くさい「巻き戻し時計」のことを。

 もし、もしこの時計が本当に時を巻き戻せるなら、本当に動くなら。室井は考えた。興味本位でも、自分がその時に駅で轢かれた少女を救えば、自分は他人から褒め称えられるだろう。

 賭けではあったが、室井には特に損をする要素がなかった。「巻き戻し」が成功しなかったら、自分はその時こそ全てを忘れれば良いし、「巻き戻し」が成功したのであれば、死んでしまった女子高生を救う事ができる。

 室井はこんなSF染みたことをいまだに信じてはいなかったし、説明書に書いてあった「蛇樂子」がどのようなものなのか理解してなかったが、人の命がかかっている以上やってみる価値を見出した。見出してしまったのだ。

 すぐさま「巻き戻し」をしようとした室井だったが、ある事に気がついた。彼女がはねられた正確な時刻と位置が分からないのだ。電車の急停車音で起きた彼も、正確な時間は覚えていない。携帯を開いた室井はインターネットを必死で検索する。ニュースは正確な時間を書いておらず、使い物にならなかった。インターネット掲示板にもほとんど有力な情報はない。しかし、掲示コメント欄の一番下に気になるコメントがあった。投稿時刻は十時十五分。室井が目覚めたのも大体同時刻だった。

「ハンドルネーム『ミリオンブリッジ』。午前十時八分。〇〇駅二番ホーム、八番降車口にて女子学生が轢かれた。目撃。」

 そう書いてあった。おそらく、正しい情報だろう。(十時八分二番ホーム八番、十時八分二番ホーム八番)室井は頭の中で暗唱し続ける。頭の中から邪魔な情報を取り除き、その一つに全ての集中力を割き、彼は箱の中から時計を取り出し、反時計回りにゆっくり鈕を回した。長針が動き出す。冷や汗が額から頬を伝っていく。遅れて短針がゆっくりと動き出した。一周。緊張感が高まり、室井は唾を飲む。ゆっくりと、さらにゆっくりと短針は二周目を回り切りそうだ。

「カチッ」

 六月十九日午前七時三十二分、時計が音を立てたそのその瞬間、室井は頭上から激しい重圧に襲われ、床に思いっきり倒れた。

「うぐっ!」

               *

 彼は布団の中にいた。真っ先に携帯を取ろうとするが、頭は蛇に締め付けられてるように痛く、体はうまく動かない。辛うじて携帯をとって、時間を見る。六月十八日午前七時三十二分。成功していた。信じられない事実だが、どこをどう見ても室井はきっかり一日「巻き戻し」をしている。

 昨日の寝間着を着て、布団の中に入っていたのだ。ほとんどは正真正銘昨日の状態だ。

 ただ、昨日この時間には無かった「巻き戻し時計」だけがローテーブルの上に箱と共に置かれていた。

 室井はまだ痛みの残る身体を起き上がらせ、時計と箱を確認する。時計の方は何一つ問題なかったが、箱の方に見たことのない傷が刻まれていた。小刀か何かで刻まれている跡がくっきりと残っているが、全くもって心当たりはない。しかし、時を「巻き戻す」ことも出来ている今、そんな物は目にも止まらないちっぽけな矛盾に思えてきてしまった。

「とりあえず、第一段階は成功か」

 室井は台所の棚から頭痛薬を取り出し、疑問げに呟く。頭痛はひどくこれだとろくに動けないというレベルだったが、頭痛薬を飲んで三十分が経った頃にはすっかり治ってしまった。

 小さいポーチに携帯、財布、そして箱に綺麗に入っている懐中時計を入れ、駅へと向かった室井は、再度状況を確認する。(十時八分、二番ホームの八番降車口、女子高生か)

 現在の時刻は朝八時三十分。通勤ラッシュもちょうど終わりに近づいた時間帯、斧白駅のホームのベンチに座った室井は気を引き締めながらそれらしき女子高生がホームにやってくるのをひたすら待つ。ホームにアナウンスが流れ、電車がやって来ては去って行く。小さい駅ではあるものの、人の流れが目敏い勢いで行き来し、電話越しに話す声や足音などが聴こえる。そのような音を断ち切るように室井は神経を尖らせその時を待った。

 人の流れが少し減った頃、女子生徒がやってきた。室井はホームにさがっている液晶を確認する。ちょうど十時一分を回ったところだ。(来たか)

 室井は八番降車口に向かうと、怪しまれないように女子生徒の後ろに並ぶ。彼女は自分が線路に落ちるのは勿論、電車に轢かれることなども知らない様子で音楽を聴いていた。室井は今まで感じて来なかったような奇怪な緊張感を覚え、冷や汗をたらす。それは室井の額を通り過ぎ、頬を伝って顎に流れて行った。室井は自分の手で拭い、周囲を見渡すと誰もが普通に電車を待っている。これから起きる事やその「結果」を知らずに。室井の中の使命感は、その覚悟は計り知れないものになっていた。自分だけが知っている悪しき「結果」を、幸せな方向に変える。その意思は強かった。

 「二番ホームに電車が通過いたします」

 アナウンスがホームに響き渡る。室井はいつ前に並んでいる女子生徒がバランスを崩してもホームの方向に引っ張り戻せるよう構えた。電車は室井の左側から、勢いを止める事なく駅に入ってこようとしている。

 室井の知っている「結果」の通り、女子高生はバランスを崩した。上半身が線路に向かって、引き寄せられるように倒れたが、室井は彼女の二の腕を掴み、勢いよく引っぱった。

 ホームに倒れた女子高生は命のない操り人形のような紅色の虚な目をしていたが、突然生気を取り戻したように室井に目を合わせる。少女を救った室井は今まで感じたことのない達成感と快感を覚えた。

「ありがとうござ・・・」

 彼女が感謝の言葉を言い切ろうとしたその瞬間、室井の左側から大量の液体が飛び散ってきた。反射的に目を閉じていた室井は液体を拭う。水ではないという事は触った感触から分かった。嫌な予感が身体中を襲う。

 それでも室井は目を開いた。見つめていた手には紅の血が付いている。手だけではない。全身に血を浴びていた。一連の事件を追うように駅のホームには女の悲鳴が響きわたり、ホームにいる人々が一点に集まった。隣の九番降車口に。

 電車は昨日叩き起こされた時のと全く同じ、あの嫌な急ブレーキ音を出しながら止まった。完全なる不幸のサインだ。室井の頭の中は真っ白になっていた。

「な、」

 言葉がろくに出ない。彼は腰の力が完全に抜け、座り込んでしまった。なぜ、彼女を救ったはずなのに、別の人が轢かれるんだ。なぜ、干渉しなかった人間が巻き込まれ、「結果」が勝手に変わったのか。自分が変えた「結果」で関係ない人間が巻き込まれたことに対する罪悪感と疑問が湧き出てくるのと同時に、室井はまたもう一度「巻き戻し」を行う事を考えた。

 室井は砂漠で倒れそうになっていた冒険者がオアシスを見つけたかのように、その小さな希望に縋り付いたのだ。立ち上がり、血だらけになってしまったポーチの中から木箱を取り出す。なぜか綺麗な状態の箱に、室井の手についていた固まりきっていない赤黒い血が張りつく。短い「巻き戻し」ができる確証はなかったが、室井はその震える手で時計を手に取り、鈕を回す。1時間だけ。彼は短針を1時間分だけ巻き戻し、重圧に耐える準備をする。重圧は軽いものだったが、室井の精神的、身体的ショックは大きかった。

「うっ」

 午前十時十二分、「巻き戻し」は発動した。


 きっかり1時間前、室井は自分が座っていたベンチにいた。長時間ではなく短時間の「巻き戻し」はどうやら可能らしい。しかし二度も「巻き戻し」を行い、それに加えて死人の血を大量に浴びたこともあって身体的にも精神的にも負荷がかかっており、彼はすぐに駅の手洗い場に駆け込んだ。アンモニアの臭気の強い手洗い場の個室トイレに入ると、室井はすぐさま嘔吐する。我慢していたものが全て出た感覚だ。室井は倦怠感を感じていたが、それごときで辞めなかった。辞める事はできなかった、と言う方が適切かもしれない。絶対に誰も死なない「結果」を見つけてやるという使命感と、自分が上書きしてしまった「結果」を塗り直さないといけないという責任感の裏に、あの少女を助けた時に一瞬感じたあの達成感。様々な感情が彼の中を複雑に入りくんでいく中、室井は立ち上がり、電車のホームへと向かう。

 室井は一度ベンチに腰をかけ、自分のポーチから時計を入れる木箱を出してみる。一度目の「巻き戻し」の後に付いていた傷は、一つ数を増やしていた。

 問題の八番降車口にはあの女子高生が音楽を聴きながら電車を待っていて、九番降車口には中年の男が一人、携帯をいじりながらボーッと電車を待っているだけだった。時刻は十時一分。

 室井に1回目ほどのプレッシャーや緊張感がなかったのは、九番降車口の男が絶対に倒れるという絶対的「結果」が見えていたからだ。

 室井にとって聞くのは二回目のアナウンスが流れ、人々は少しずつ電車に乗る準備を始める。室井は女子生徒の後ろに立つが、変化は無く、倒れることもなかった。予想外の展開にも素早く反応した彼は、急いで隣の九番降車口に並び直す。

 電車が来たその時、中年の男はあの女子生徒が倒れたのと同じように線路にむかって落ちそうにになったが、室井はそれを必死に引っ張って何とかホームの方に引き上げた。彼は男をホームのなるべく内側に押すと、電車を警戒し、周りを見渡す。

 しかし、全く同じことが、また違う人間で起きた。「結果」の詳細事項は変わったが、人が一人、電車に轢かれて死んだという本質は全くもって変わらなかった。

 室井はまたもや違う人間が轢かれたことによりも、なぜあの女子生徒が倒れなかったのかを考えた。「上書き」だ。前の世界での出来事は上書きされる。と説明書に書いてあってことを思い出した。(今あの男を助けたのが上書きされたのだから、助ければいいのは、今轢かれた人だけなのか)

 室井はすぐさま時計を手に取り、「巻き戻し」を発動させる。彼の身体中には重圧が、室井の心には使命感がのしかかった。

 しかし、何回「巻き戻し」をしても、何も変わらなかった。毎回毎回、全然違う、無関係の人間が電車に轢かれていく。同じなのは、皆倒れる時、瞳が紅色に変色し、意識があるのか否か分からないような虚ろな目をしていたことだけで、室井は違うパターンの同じ「結果」を幾度も見て、そしてその度に「巻き戻し」を使った。やがて、室井は変えるべき「結果」よりも人を助けた時の一瞬の快感に依存し、そのためにひたすら「巻き戻し」を行った。

                *

 実際の時間でどれだけ経ったのか、室井には分からなかった。幾度も繰り返した「巻き戻し」の重圧にも慣れてしまい、身体的、精神的疲労が積み重なっていた。時計を入れる木箱にはもう空きが無いぐらいの量の傷が実に七十六個、彫り込まれていた。

 そして、七十七回目のアナウンス。室井は、前回轢かれた人をひたすら引き上げて、一瞬の達成感を噛み締めることしか出来ない。出来ることはそれだけなのだ。その快感もやがては薄れきって尽きていくだろう。それまで彼はひたすら人を助けては、また別の人が殺されるのを見続ける。

 室井は三番降車口に走り、前回の上書きで電車に轢かれた女の後ろに並ぶ。女は倒れたが、それは彼にとって何度も見た光景。彼は疲労を噛み締めながら、女を引っ張った。女はホームの中央に座り込むが、室井はそんなこと気にせず周りを見渡す。まるで姿を消した敵を向かい打つように。(次は、次は、どこから来るんだ)

 予想外の展開だ。驚くべき事に、誰も倒れない。室井は必死に左右を見回すが、誰一人倒れる気配すらなく、それぞれのことをしている。室井は立ち上がった。彼はゆっくりと、ホームの中央へと向かい、歩き出す。(俺は、俺はやったのか?誰も、死なない「結果」を創り出したのか)

 今まで感じた一瞬の快感よりも大きな達成感を噛みしめようとしていたその瞬間だった。室井の耳元に異様な爆音が流れる。耳元で黒板を爪で引っ掻いた、そういう音だ。

「うあっ」

 反射的に耳を塞いだが、音は絶えず鳴り響く。その一瞬、ほんの一瞬、室井の身体は自我を失った。足の力が抜け、何もかもが真っ白になる。

 室井は倒れたのだ。落ちたのだ。綺麗なくらい一直線に、線路に向かって落ちていった。

                *

 紅の壁に金色の柱や装飾が施される部屋の前に、室井は立っていた。部屋の中央には金色の龍があしらわれている立派な赤い長机と、偉い社長が座っているような革製の椅子が置いてある。紅色の壁には東洋の要素が部屋の色々な場所に見られ、それは地獄を連想させるようなものだった。(死んだのか、俺は)

 室井は自分が死んだのかということを考えると、背中に身の毛が弥立つ感覚を覚えた。

「室井宗馬、か。ご苦労だったな。」

 それは聞き覚えのある冷たく単調な声だった。彼はすぐさま振り向いたがそこには誰も居ない。室井が正面に視点を戻すと、そこにはあの神社で出会った喪服の男が革の椅子に腰掛けていた。

「一体何者なんだアンタは。俺は死んだのかよ、おい!」

 室井は神主に強めの口調で訊く。しかし神主は微塵も表情を変えずに言葉を返した。

「私の名前は万人橋。万人橋聖まんにんばしひじり。このような者だ。」

 万人橋と名乗った男はそう応えると室井に向かって名刺を投げる。室井はそれを掴もうとするが、その名刺は彼を避けるように軌道を変えて彼が立っているすぐ横に落ちた。名刺は美しい和紙に墨と筆で、名前が書いてあり、その下に「呪術師」と記してある。室井は少し警戒心を高めたが、そんなことも気にも止めずに万人橋は話を続ける。

「君は死んでいない。今はまだな。」

「どういう事だ」

「君の『対価』の話だ。」

 万人橋は当たり前のようにそう言い放ったが、室井はよく理解していなかった。彼が唯一覚えていたのは万人橋が依然同じことを言っていた事くらいだ。どうやら万人橋は室井が自分の指す「対価」が一体何なのか理解していないことを察し、少し艶のある黒色のネクタイを締め直す。

「それにしても君の行動は正直予想外のものだったよ。」

「何のことなんだ一体」

 室井の口からはさっきから疑問の言葉しか出ていない。思考の整理ができていないのにも関わらず、万人橋が意味深な発言を一方的にしているからだろう。勿論、室井の様子を気にすることもなく、彼は話を続けた。

「超常的能力を手に入れた人間は、大体利己的な理由や目的で能力を乱用する。皆そうだった。君は例外だったがな。ごく普通の学生である君に少女一人を助けるために時間の概念をねじ曲げる行為を行える程の正義感があったとは、とてもじゃ無いが想像の域を超えていた。感激だ。」

 万人橋は室井のことを褒めているようだったが、全く変わらない表情と、冷たく緩急のない機械のような声のせいで全く本心だとは思えず、もはや皮肉のようにも聞こえてくる。

 室井は『対価』について、気になっていた。彼にとっては自分の生死に直接関わる事柄なのだから当たり前だ。しかしいくら経っても万人橋がちゃんとした説明をしないので、室井は少しずつ苛立ちを覚える。

「そんなことどうでも良いんだ。とにかくその『対価』ってのが何なのかを教えろよ」

 室井が焦った口調で問い詰めても、万人橋は椅子に座ったままその感情のない顔を微塵も変化させなかった。彼は机の上を眺めていたが、やがて室井と目を合わせて言った。

「まず『対価』とは、君があの巻き戻し時計の力を使った時のものだ。箱の底に書いてあったと思うが、あの時計の能力は俗に言う悪魔に近い存在である『蛇樂子』から力を借りていて、それを使ったからにはその『対価』をそいつに払わなければならない。要は、悪魔のような存在と契約を結ぶということだ。説明書の五つ目が破れていただろう、あそこには『蛇樂子』との契約について詳しく書いてあった。」

 万人橋は平然とそう説明したが、室井は説明なく彼に「巻き戻し時計」を渡されて、駄目元で使った身である。彼だって『蛇樂子』など、名前からして物騒な存在と契約を結ばなければいけないと知っていたら絶対にその時計を使わなかっただろう。

「おい、ちょっと待て。何であんたが勝手に俺に渡して来た時計の『対価』とやらを俺が払わねぇといけないんだよ。しかも、契約の話なんて全く言っていなかっただろう。」

 室井は万人橋に強気の態度で詰め寄るが、彼は依然人形のような無表情を保ったままだ。

 それが室井にとってだんだん憎たらしく思えてきた。万人橋は問いかけてきた室井に答える。

「それは君が時計を使ったからだ。時計の能力を応用して、一度経験した『結果』を自分が好きなように上書きしようとして、運命といたちごっこを演じたのは君だからだ。それはどんな理由があれど変わらないし、変えようとしても、奴は認めないだろう。」

 万人橋の正論じみた返しに室井は逆反論を思いつかない。それをも気にせず、万人橋の方は勝手に話を進めた。

「『対価』は基本的に能力の使用回数で決まるところがある。しかし、『蛇樂子』は相当傲慢で欲深い。大体最初は君の命を欲しがるだろう。しかし案ずるな。奴らとの契約で一番重要なのは、交渉だ。値切るように少しずつ『対価』を減らしていけば、なんとかなるだろう。」

 彼が経験者のように事柄を説明した。その単調な声も感情が見えない顔にも、室井は少しずつ怒りを募らせており、拳を強く握っていた。

 紅い部屋の中央は、大きく開いており、テーブルや椅子などの家具が全く置いていない。いかにも窺わしい仮面や置物、水石などもあるが、それはすべて壁に引っ掛けられたり、壁に沿った紅色の棚に置いてあった。床には曼荼羅まんだらのような円形模様があしらわれており、怪異的な神秘さを出している。

 万人橋は、室井に『対価』の説明を終えると、腰を上げて部屋の中央に向かった。

「これから『蛇樂子』を呼び起こす。そこからは君の仕事だ。もう一度言うが奴は欲深く、賢い。絶対に一度目二度目で契約を結ぶな。」

 彼は室井に注意を促すが室井は半分程しか聞いておらず、突然万人橋に話しかけた。

「待て。俺は納得してねぇぞ。何で俺がそんなのと交渉するんだ?なんでお前はこうなる事を分かって置きながら俺にあんなもの・・・」

「黙れ。騒いだら術式が組めない。邪魔をするような発言をするんだったら私は今ここで君をなぶり殺しにしてもいい。」

 万人橋のその言葉は今まで以上に冷酷で残酷なものだった。理不尽に対しての怒りが限界に達していた室井までその背筋の凍りつく言葉には返事は出ない。彼の目の色は変わっていた。この男の「殺す」と言う言葉は、脅しではなく、宣言のように聞こえる。身の危険を感じた室井はただただ立ち尽くすことしか出来なかった。

 室井に対して強く言葉をぶつけた万人橋は平常心を保つよう、少し乱れてしまった髪の毛を整えた。そして床にあしらわれている模様に沿って小さい札を貼っていく。札には部屋の色とおなじ紅で、見た事ないような文字が直筆で書いてあった。これを二十枚ほど貼り付けると、今度は

 壁に引っ掛けられている仮面の中から、如何にも強面そうなものを下ろし、ふだに囲まれている中に放り込んだ。

 その仮面は石のように角が立っておりゴツゴツしていて粗く、鬼のような顔形が彫り込んでてある。仮面の額には万人橋が周りに並べた札と似たものが貼ってあった。

 すると万人橋は仮面の位置を確認し、机の方に戻って何かを取り出して来たのだ。

「スレッジハンマー?」

 室井はその巨大な道具の突然なる登場に疑問と驚きを混ぜてつぶやく。万人橋は自分の背丈の6割ほどを占める大きさのその鈍器を、仮面の前に担ぎ出した。

「おい、出すぞ。気を付けろ。」

 万人橋はそう言い捨てながらスレッジハンマーを大きく振りかぶり、勢いよく仮面の中心目掛けて振り下ろす。ハンマーの尖った角が命中した石の仮面は跡形の残らない程に粉砕され、細かい破片が円の周りにばらけた。

 すると何の前兆もなく、万人橋の置いた札が一枚ずつゆっくりと宙に浮き始める。札同士の間隔は全て均等に保たれており、すぐに彼の置いた二十数枚の札が全て規則よく宙に浮いている状態になっていた。室井は神秘的かつ怪異的なそれを眺めていたが、札が右回りにゆっくり回転し始めたことに気づく。回転はみるみるうちに速くなっていき、止まる様子は皆無だった。

 凄まじい速度で回り続ける無数の札を前に、万人橋は古代語のような言語を詠唱し始める。

「アンカラ・アンカラ。モイバドゥ・ハラキマノス=ダンモロナス。」

 謎の古代語のフレーズを、万人橋は幾度も繰り返し詠唱している。どの時代のどこの言葉かも見当がつかないような強い癖を持つその言葉の発音はだいぶ滑稽で室井は必死に平常心を保とうとした。

 やがて、彼が十四回詠唱し終わったその刹那、札が一つまた一つと、橙色の火柱を立てながら勢い良く燃え盛る。炎の燃え盛る札は少しずつ塵と化し、まるで人がホウキでかき集めたかのように綺麗に積み重なっていた。

 積もっている塵が動きだした。自我を持ち、自らを人の形に模っている。それはやがて美しい女性の形となり、室井と万人橋の前に立ちはだかっていた。最初は灰色がかっていた肌も、雪のように白く変わり、黒い装束を身に纏っている。

 室井は魔抜けたように突っ立っているのみだったが、万人橋が彼の一歩前に足を進めて彼女の前にひざまづいた。

「『苑灰蛇樂子』よ。彼が其方様と契約を結ぶべく現れしものであります。」

 万人橋が苑灰蛇樂子にそう告げると、彼は室井に視線を向けた。何か言え、のサインだと受け取った室井は立ったまま、蛇樂子に話しかける。

「俺の名前は室井。室井宗馬だ。アンタの呪力がかかった時計をこの男にもらって、半分見当違いで使った男だ。言えよ。アンタの求める『対価』はなんだ」

 強気な口調で言葉を放った室井だったが、心内では感じたことのない恐怖を噛み締めていた。

 そんな彼を見た蛇樂子は少しにやけながら室井に話しかけた。

「ほう。貴様は余の存在を知った上で跪かんのか。それにその話し方、気に入った。貴様の『対価』は貴様の命と、この男の命さ。」

 やはり蛇樂子は欲深い。そんな彼女の条件を聞いて尚、室井は一切引き下がらなかった。

「高すぎるな、そりゃ無理だな。もっと下げろ」

 室井はわざとらしい余裕さを蛇樂子に見せつけるように言ったが、それを聞いた蛇樂子はまたも得意のにやけ顔をして返した。

「まぁ、貴様はこの契約を知らずに呪力を使ったのだから、それを貴様の命で払うのは余の趣味には合わん。余が貴様を気に入ったのが幸運だったな。貴様の命は取らんでおこう。だが、余はそこにいる男の命が欲しい。貴様に何も言わぬまま呪力が憑いておる道具を渡す程中身の腐った魂は今に見た事がなく、実に興味深い」

 室井は自分が難しい状況に置かれたのをいち早く理解する。確かに室井はほぼ万人橋に騙されて能力を使い、蛇樂子と契約を結ばなければいけないところまで追い込まれたのだが、彼の中でそれと蛇樂子に万人橋の命を引き渡すことは、全く割に合わないと感じていた。しかしそれに対して万人橋が突然口を挟んできた。

「良いだろう。」

 彼は跪くのをやめると、それだけを相変わらず冷たく生気のない声で言った。

「お前、ふざけるんじゃねぇ」

「いや、ふざけてなどいない。これは私が望む事だ。蛇樂子に命を引き渡す事が、私の真の目的なのかもしれないのだから。それで君の命が助かるのならそれで良いだろう。」

 彼のその言葉を聞いて、何か思い出した様に蛇樂子が付け加えた。

「付け加えるようで悪いが、自害したその男の魂は要らぬ。貴様がその男を始末しなければならないぞ。貴様の殺めた男の魂。それが余の呈する『対価』の最低額だ」

 蛇樂子はそう伝えると、室井に一本の短刀を渡す。刀身に写っている彼の表情は窮地に陥った人間の顔をしていた。それを一歩引いた場所から部外者のように眺めている蛇樂子が、室井には本物の悪魔に見えている。

「さぁ、やれ。すぐに終わる。」

 万人橋は室井の前に突っ立ったまま、彼に言った。しかし室井はそんな言葉を聞くわけもなく、やがて床に腰を下ろしてか細い声をあげながら泣き出してしまった。その見苦しいほど追い詰められ絶望に堕ちた姿を眺めながら、蛇樂子は嘲笑うような笑みを浮かべている。

「俺には、そんなこと、」

 室井は何度も小声で呪文のように唱え続けており、蛇樂子は未だに彼の無様な姿を見てニタニタと笑みを浮かべていた。その状況をしばらくは黙って見ていた万人橋だったが、突然室井の方に近づいた。

「あの日の駅で、君が何度も『巻き戻し』をしても、別の人が落ちてあの電車に轢かれ続けたのは何故か言っていなかったな。」

 しゃがみ込んでいた室井は鼻をすすりながら万人橋の顔を見上げた。

「何でなんだ、教えろよ」

「言わなくても今教えてやる。あれは、全て俺が仕組んだことなのだ。私はあの駅に操作結界を貼った。私が張った結界の力で一人一人操り、線路に倒れさせたのだよ。」

 室井の頭の中は真っ白になった。自分は抗えぬ運命と闘っていたわけでなく、万人橋にまんまと騙され操られていたのだ。室井はそれを否定しようとするが、全て筋が通っている。一つの矛盾もなく、綺麗さっぱりと。さらなる絶望と怒りに心を蝕まれている室井に追撃を加えるように万人橋は話を続けた。

「君が助けた人は皆死んだ魚のような眼をしていただろう。それは私の術式の効果だ。かかった人間は一時的に自我を失う。君が電車に轢かれた時にも、術をかけたはずだったのだが、君の愚かな執念が邪魔をしてな。まぁ、結局は君も同じように轢かれたから何の問題もないのだがな。」

「最初の学生もお前がやったのか」

 室井は恐る恐る訊いた。彼の中では大事な何かがすでに壊れかけている。そんなこともお構いなしに万人橋は応えた。

「あぁ、勿論だ。その時点で計画は開始してた。俺が悪魔になる最終計画は。俺が今までこの手で殺めた人間は皆様々な呪術を使って殺してきた。そこに引っかかっている仮面は全て、私が自己中心的な世の中の塵供を私の更なる成長のために殺す時に使った物さ。私は蛇樂子なんぞに食われる魂ではない。蛇樂子を超える悪魔になるのだ。そして君がそのファイナルピースなんだ。」

 万人橋は初めてその生気を失った表情と口調を崩し、狂気の笑みを纏って大声で笑い出した。

「ふ、ふふ、フハハッ!」

 万人橋の歓喜の笑みは部屋中を響き渡る。蛇樂子は依然同じように二人の会話の行く末を観察していた。

「お前は悪魔になれない」

 室井は小声で呟く。万人橋はそれを聞くとさらに大きな声を出して狂乱の笑い声を発した。

「お前のようなドグサレ如きに、俺を殺す覚悟はないだろう!クズは黙ってそこの悪魔に命を引き渡してろ!」

 しかしその言葉を聞きもしないように室井は立ち上がり、蛇樂子に渡された短刀を手に取る。

 万人橋は余裕の表情で室井と目を合わようとしたが、室井の目線は違うところを見ていた。万人橋は室井の目線の方を見るがそこには何もない。

「どうした?ついに頭の方がイカれちまったのか?あぁ?」

 万人橋の挑発するような言葉は、もはや数分前の彼と別の人間のように見違えている。

 室井が動いた。動いたと言っても、彼は蛇樂子に貰った短刀を思いっきり万人橋の顔に向かって投げつけた。

「んなっ!」

 万人橋が少々動揺した隙に彼の裏に回った室井は、壁に沿ってある棚の中から一際大きい辞書を取り出し万人橋の後頭部を殴る。死角から攻撃を喰らった万人橋はなす術なく、勢いよく床に倒れた。

 非力な万人橋が見上げた先には、室井が立っている。血が滴り、分厚い紙の束が赤く染まった辞書を持った彼は、大きく振りかぶって万人橋の手を殴った。

「うぐああぁ!」

 叫ぶ万人橋の指は不自然な方向に折れ、手の甲が潰れている。室井は大声を上げて唸る彼の方に召喚の儀式に使われたスレッジハンマーを引きずって来た。

「お、おい、や、やめろ。」

 万人橋は痛みを堪えて彼に命乞いをするが、室井にはただの雑音としてしか聞こえていない。

「償え」

 残酷な言葉を吐くように放った室井は鉄の鈍器を大きく振り上げた。部屋の壁と同じ紅の血液が、万人橋の大きな悲鳴と共に飛び散る。室井は大量に返り血を浴びていたが、それを気にすることもなく、蛇樂子に話しかけた。

「『対価』は払っただろう」

「そうだな、貴様のことはあの日の駅に帰してやろう。現世に余のことを口外しても、誰一人信じぬだろうが、念のため注意しておけ。誰かに話した暁には、本当に死ぬからな」

 蛇樂子は室井にそう伝えると、彼の手を自分の額に当てて一言唱える。

「回帰」

                *

「二番ホームに電車が通過いたします」

 すっかり聴き慣れたアナウンスを聞いて、室井は自分があの時の駅にいることに気がついた。万人橋の返り血を浴びたばかりの彼だったが、頬を摩っても血はついていない。彼は自分が現世に戻って来たことを確認すると、ホームの階段を登って行った。

 早々と歩き出した彼の背後で女が悲鳴を上げる。ざわめきに包まれるホームに背を向けて歩く室井の顔には、どこかで見たような狂気あふれる笑みが浮かんでいた。



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蛇樂子(じゃらくし) ユカタン聖人 @yukatan_saint

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