宮本武蔵

鷹山トシキ

第1話

 宮本武蔵は、『五輪書』には13歳で初めて新当流の有馬喜兵衛と決闘し勝利し、16歳で但馬国の秋山という強力な兵法者に勝利し、以来29歳までに60余回の勝負を行い、すべてに勝利したと記述される。


 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父の新免無二が関ヶ原の戦い以前に東軍の黒田家に仕官していたことを証明する黒田家の文書が存在することから、父と共に当時豊前国を領していた黒田如水に従い東軍として九州で戦った可能性が高い。


『五輪書』には21歳の頃に[注釈 10]、京都で天下の兵法者(吉岡一門と考えられる) と数度戦ったが全てに勝利した旨の記述がある。この内容は吉川英治『宮本武蔵』をはじめ多くの著名な文芸作品の題材とされている。


 武蔵が行った勝負の中で最も広く知られているものは、俗に「巌流島の決闘」といわれるものである。これは慶長年間に豊前小倉藩領(現在は山口県下関市域)の舟島(巌流島)で、岩流なる兵法者と戦ったとされるものである。この内容は江戸時代より現代に至るまで芝居、浄瑠璃、浮世絵、小説、映像作品など様々な大衆文芸作品の題材となっている。


 大坂の陣では水野勝成の客将として徳川方に参陣し、勝成の嫡子・勝重付で活躍したことが数々の資料から裏付けられている。


 その後、姫路藩主・本多忠刻と交流を持ちながら活動。明石では町割(都市計画)を行い、姫路・明石等の城や寺院の作庭(本松寺、円珠院、雲晴寺)を行っている。この時期、神道夢想流開祖・夢想権之助と明石で試合を行ったことが伝えられている。


 元和の初めの頃、水野家臣・中川志摩助の三男・三木之助を養子とし、姫路藩主・本多忠刻に出仕させる。


 寛永元年(1624年)、尾張国に立ち寄った際、円明流を指導する。その後も尾張藩家老・寺尾直政の要請に弟子の竹村与右衛門を推薦し尾張藩に円明流が伝えられる。以後、尾張藩および近隣の美濃高須藩には複数派の円明流が興隆する。


 寛永3年(1626年)播磨の地侍・田原久光の次男・伊織を新たに養子とし、宮本伊織貞次として明石藩主・小笠原忠真に出仕させる。


 寛永期、吉原遊廓の開祖・庄司甚右衛門が記した『青楼年暦考』に、寛永15年(1638年)の島原の乱へ武蔵が出陣する際の物語が語られ、直前まで江戸に滞在していたことが伝えられている。同様の内容は庄司道恕斎勝富が享保5年(1720年)に記した『洞房語園』にもあり、吉原名主の並木源左衛門、山田三之丞が宮本武蔵の弟子であった旨が記されている。これらの史料に書かれた内容は隆慶一郎などの文芸作品の題材となっている。


 島原の乱では、小倉藩主となっていた小笠原忠真に従い伊織も出陣、武蔵も忠真の甥である中津藩主・小笠原長次の後見として出陣している。乱後に延岡藩主の有馬直純に宛てた武蔵の書状に一揆軍の投石によって負傷したことを伝えている。また、小倉滞在中に忠真の命で宝蔵院流槍術の高田又兵衛と試合したことが伝えられている。


 寛永17年(1640年)熊本藩主・細川忠利に客分として招かれ熊本に移る。7人扶持18石に合力米300石が支給され、熊本城東部に隣接する千葉城に屋敷が与えられ、鷹狩り[注釈 17]が許されるなど客分としては破格の待遇で迎えられる。同じく客分の足利義輝遺児・足利道鑑と共に忠利に従い山鹿温泉に招かれるなど重んじられている。翌年に忠利が急死したあとも2代藩主・細川光尚によりこれまでと同じように毎年300石の合力米が支給され賓客として処遇された。『武公伝』は武蔵直弟子であった士水(山本源五左衛門)の直話として、藩士がこぞって武蔵門下に入ったことを伝えている。この頃余暇に製作した画や工芸などの作品が今に伝えられている。


 寛永20年(1643年)、熊本市近郊の金峰山にある岩戸・霊巌洞で『五輪書』の執筆を始める。

 武蔵は数々の決闘を思い返していた。


 武蔵は京に上り「扶桑第一之兵術」の吉岡一門と戦った。吉岡家は代々足利将軍家の師範で、「扶桑第一兵術者」の号であった。足利義昭の時に新免無二を召して吉岡と兵術の試合をさせた。三度の約束で、吉岡が一度、新免が二度勝利した。それにより、新免無二は「日下無双兵法術者」の号を賜った。このこともあって、武蔵は京で吉岡と戦ったのである。

 最初に吉岡家の当主である吉岡清十郎と洛外蓮台野で戦った。武蔵は木刀の一撃で清十郎を破った。予め一撃で勝負を決する約束だったので命を奪わなかった。清十郎の弟子は彼を板にのせて帰り、治療の後、清十郎は回復したが、兵術をやめ出家した。


 その後、吉岡伝七郎と洛外で戦った。伝七郎の五尺の木刀を、その場で武蔵が奪いそれで撃ち倒した。伝七郎は死亡した。


 そこで、吉岡の門弟は秘かに図り、兵術では武蔵に勝てないので、吉岡亦七郎と洛外下松で勝負をするということにして、門下生数百人に弓矢などを持たせ、武蔵を殺害しようとした。武蔵はそのことを知ったが、弟子に傍らから見ているように命じた後、一人で打ち破った。

 この一連の戦いにより、吉岡家は滅び絶えた。


 清十郎との試合当日、武蔵は病になったと断りを入れたが、幾度も試合の要求が来た。竹輿に乗って試合場に到着した武蔵を出迎え、病気の具合を聞く為に覗き込んだ清十郎を武蔵は木刀で倒した。清十郎は後に回復したが、兵術を捨てて出家した。

伝七郎は洛外で五尺の木刀を用いて武蔵に立ち向かったが、木刀を奪われ撲殺された。


 又七郎は、洛外下り松のあたりに鎗・薙刀・弓矢で武装した門人数百人を集めて出向いた武蔵側にも十数人門人がおり、若武者の一人が武蔵の前に立つが弓矢で負傷した。これを見た武蔵は門人達を先に退却させ、自らが殿となって、数百人の敵を打払いつつ退却した。武蔵は寺に逃げ込み、寺伝いに退却し、行方をくらませた。与力同心がその場に駆けつけ、その場を収めた。

 この事がきっかけで吉岡家は断絶した。

 又七郎はまだガキだった。


 武蔵に従いたいという弟子に対して、集団同士の戦闘は公儀が禁ずるところであると断った。清十郎・伝七郎のときは、遅れたことで勝利したので、今回は逆のことをやることにした。下松に行く途中に八幡社の前を通ったとき、普段はやらない勝利祈願をしようとしたが止めた。まだ夜のうちに下松に来て松陰に隠れていた。清十郎の子である又七郎が門弟数十人を連れてやってきた。「武蔵待得タリ」と叫びながら現れ、又七郎を斬り殺した。門弟が斬り付け、また、半弓で射られ矢が武蔵の袖に刺さったが、進んで追崩したため門弟は狼狽し縦横に走散し、勝利を得た。


 武蔵は慶長17年(1612年)4月のことを思い返していた。

 岩流と名乗る兵術の達人が武蔵に真剣勝負を申し込んだ。武蔵は、貴方は真剣を使用して構わないが自分は木刀を使用すると言い、堅く勝負の約束を交わした。 長門と豊前の国境の海上に舟嶋という島があり、両者が対峙した。岩流は三尺の真剣を使い生命を賭け技術を尽くしたが、武蔵は電光より早い木刀の一撃で相手を殺した。以降俗に舟嶋を岩流嶋と称するようになった。


 巖流小次郎は富田勢源の家人で、常に勢源の打太刀を勤め三尺の太刀を扱えるようになり、18歳で自流を立て巖流と号した。その後、小倉城主の細川忠興に気に入られ小倉に留まった。

 慶長17年に京より武蔵が父・無二の縁で細川家の家老・松井興長を訪ね小次郎との勝負を願い出た。興長は武蔵を屋敷に留め、御家老中寄合で忠興公に伝わり、向島(舟島)で勝負をすることになった。勝負の日、島に近づくことは固く禁じられた。


 勝負の前日、興長から武蔵に、勝負の許可と、明日は小次郎は細川家の船、武蔵は松井家の船で島に渡るように伝えられた。武蔵は喜んだが、すぐに小倉を去った。皆は滞在中に巖流の凄さを知った武蔵が逃げたのだと噂した。武蔵は下関の問屋・小林太郎右衛門の許に移っていた。興長には、興長への迷惑を理由に小倉を去ったと伝えた。


 試合当日、勝負の時刻を知らせる飛脚が小倉から度々訪れても武蔵は遅くまで寝ていた。やっと起きて、朝食を喰った後、武蔵は、太郎右衛門から艫を貰い削り木刀を作った。その後、太郎右衛門の家奴(村屋勘八郎)を漕ぎ手として舟で島に向かった。


 待たされた小次郎は武蔵の姿を見ると憤然として「汝後レタリ(来るのが遅い!)」と言った。木刀を持って武蔵が汀より来ると小次郎は三尺の刀を抜き鞘を水中に投げ捨てた。武蔵は「小次郎負タリ勝ハ何ゾ其鞘ヲ捨ント(小次郎、敗れたり。勝つつもりならば大事な鞘を捨てはしないはずだ。)」と語った。小次郎は怒って武蔵の眉間を打ち、武蔵の鉢巻が切れた。同時に武蔵も木刀を小次郎の頭にぶつけた。倒れた小次郎に近づいた武蔵に小次郎が切りかかり、武蔵の膝上の袷衣の裾を切った。武蔵の木刀が小次郎の脇下を打ち骨が折れた小次郎は気絶した。


 武蔵は手で小次郎の口鼻を蓋って死活を窺った後、検使に一礼し、舟に乗って帰路に着き半弓で射かけられたが捕まらなかった。

「いろいろなことがあったな……」

 

 

 

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宮本武蔵 鷹山トシキ @1982

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