第380話 日は沈み夜が来て
「ふむ、魔法も無しにこんなところから落ちればひとたまりもないのう。」
ナレアさんが崖の淵に座り、下を覗き込みながら言う。
「そうですね。母さんからは随分余裕があるって言われましたけど、空中に放り出された時はもう完全に諦めていましたね。」
「その状態で余裕があると言われるケイはやはりおかしいのじゃ。」
ナレアさんがカラカラ笑いながらこちらを見る。
「状況の変化に頭が追い付いていなかっただけですよ。」
何せあの時は体の痛みに耐えながらの歩行、しかもいつ振りなのか分からない運動でへとへとに疲れていた。
そこに突然攻撃されたのだ。
そもそも矢が自分の方に向かってくる状況なんて、元の世界で考えればありえない状況だ。
まだ鉛玉が飛んでくる方が遭遇する可能性が高い気がする。
いや、どっちも全力で遠慮したい状況だけど。
とりあえずそんな人生初体験な上にアザルの話す言葉は全く分からない言語だ。
一体何が起こっているのか分からない状況からの滑落、そして紐無しバンジーだ。
混乱して思考停止しても仕方ないと思う。
「確か御母堂から聞いた話では......御母堂が崖から飛び出したことに対して身を案じて、その後は随分とどうでもいいことを考えていたと聞いておるのじゃ。」
「......まぁ、そうだったかもしれませんね。」
「ケイは不思議な奴じゃ。」
「最終的にそこに戻るのですか?」
「ほほ。しかし、そうとしか言いようがないのじゃ。少なくとも死が目の前に迫っておる状況で、そんな暢気に構えられる奴はいないのじゃ。」
「暢気だったわけじゃないのですが......許容量を超えて思考が止まっていただけですよ。」
「まぁ、そういう時に頭が真っ白になって動けなくなる者はおるが......ケイの場合、頭は通常通り働いておるじゃろ?」
ナレアさんが笑いながらこちらを見てくる。
俺はナレアさんの横に腰をかけながら曖昧に笑う。
そんな特別おかしなことってわけじゃないと思うのだけど......。
「極限状態にありながら平常通りの思考が出来るのは十分おかしい事なのじゃ。例えばじゃ、ケイは戦闘が始まる前は腰が引けておるのに、いざ戦闘が始まったら容赦ない苛烈な攻め方をしてくるのじゃぞ?擬態と言うならまだしも、どちらも本心からの行動じゃぞ?おかし過ぎるじゃろ。」
「まぁ......それに関しては......始まる前って色々な可能性を考えて縮こまってしまうというか......いざ始まってしまえば動く以外に道はないですし......。」
「なるほどのう......つまりケイを倒そうと思ったら、実力行使に出ずに重圧を与え続けて精神的に押し潰していくのがいいというわけじゃな。」
ナレアさんが笑顔でとんでもないことを言いだす。
......笑顔でそんなことを言われると色々と決意が萎えそうなのだけど。
「そういう胃に穴の開きそうな攻め方は勘弁してもらいたいですね。」
「ふむ?ケイは真綿でじわじわ締められるようにされると腹に穴が開くのかの?」
「......あぁ、そうですね。僕に限らず精神的に攻められると穴が開きますよ。偶に緊張とかでお腹が痛くなる人とかいませんか?あれの強烈な物だと思ってもらえれば。」
「なるほど......あの者達は腹に穴が開きそうになっておるのか......。」
ナレアさんが......恐らくお腹を押さえながら呻いている人を思い出しながら呟く。
ナレアさんに引っ掻き回されて大変な事になった人達ですかね......?
そんなことを考えた次の瞬間、ナレアさんが俺の目を見つめつつ口元だけで笑う。
「随分なことを言うではないか。のう?ケイ。」
「いや......何も言っていませんよ。」
俺はナレアさんから視線を逸らしつつ答える。
この心の中を読まれるの......本当に何とかならない物だろうか?
いっそのこと常に幻惑魔法を身に纏うか......?
「それで読まれなければ良いのう。」
「......それって壁の向こうから僕の考えている事が分かるって言っていませんか?」
姿が見えようが見えまいが関係ないってことだよね......?
そんな読心術ある......?
俺は若干肩を落としながら俺は顔を正面に向ける。
視線の先ではゆっくりと日が沈んで行こうとしていた。
この世界でも太陽は東から登り西に沈んでいく。
眼下の森が赤く染め上げられていて、燃えているとは言わないが......森全体が紅葉しているように見える。
今俺達がいるのは断崖絶壁の端っこ......魔法が無ければとてもじゃないがこんなところで暢気に喋ってはいられないだろう。
「......眩しいですね。」
「ほほ、そうじゃな。じゃが、綺麗じゃ。この場所より西には、龍王国にあったような大きな山は無いし広々としたものじゃな。」
夕日を正面から見ているので俺もナレアさんも若干目を細めているが、何故か眼前の光景に引き付けられて目を逸らすことが出来ない。
そんな俺達の視線の先で、目に見えて夕日が地平線の向こうへと姿を隠していく。
まさに、刻一刻と言った感じで変化していく眼前の風景に言葉も無く見入っていた。
やがて日が完全に隠れ眼下の赤かった森は黒く変化していく。
俺は幻惑魔法によって明かりを作り出して俺達の周りに浮かべた。
明かりは強い物ではなく、柔らかく俺達の周りを照らす。
「なんか、こうやってゆっくりと風景を見たのは久しぶりな気がします。」
「ふむ、そうじゃったかな?」
「えぇ。というか、ナレアさんと二人でこうしてのんびりするのは初めてかもしれません。」
「む......確かにそうじゃな。」
眼下に広がる森は暗いけど、空には星が見え始め少し明るさが戻って来た気がする。
元の世界に比べて星が多すぎるね。
いや、星の光を飲み込むほどの明かりが地上にはないし、空気も綺麗だからより多くの星明りが見えるのだろう。
日が地平の向こうに消え代わりに星明かりが地上を照らす。
神域だからなのか、それともこの世界だからなのか、今この風景を見ているのが俺一人ではないからなのか......理由は分からないけど、目の前に広がる風景がとても幻想的なものに映る。
非常に心地の良い空間だ。
隣にいるナレアさんも、ゆったりとした様子で目の前にいる風景を楽しんでいるように感じられる。
「......星が凄く沢山見えますね。」
「ふむ?ケイにはそう見えるのかの?」
いつもの様な好奇心を覗かせワクワクしたような感じではなく、落ち着いた様子でナレアさんが問いかけてくる。
「そうですね......僕が元居た場所では、こんなに多くの星は見えませんでしたから。街明かりが強すぎて星の光が地上まで届かないのですよ。」
「凄まじい世界じゃな。夜であっても昼のような感じなのか?」
「そうですね......勿論場所にもよると思いますが、少なくとも僕の住んでいた街では真夜中であっても道を歩くのに不自由しませんでした。」
「それらを作るのに、一体どれだけの金を投じたのじゃろうな。」
「あはは、その辺は分かりませんね......でも人は勝手なもので、自分達でそれだけ便利な世界にしておきながら、こういう風景に憧れるのですよ。」
「確かにこの風景には価値があると思うが......なるほどのう、無い物を求めるということじゃな?」
「そうですね......人は自分にない物を求め続けていると思います。」
「......そうじゃな。」
そこでなんとなく会話が途切れた。
俺は視線を空に向ける。
そこにはとてもではないけど数えきれないくらいの星が......いっそ賑やかといわんばかりに輝いていた。
この世界にも星座とかってあるのだろうか?
森を出る前に母さんから常に真北にある星を教えてもらったけど......この世界においての北極星だね。
まぁ......星が多すぎて俺はすぐ見失っちゃうのだけど......。
「ナレアさんは......求めているものはありますか?」
俺は空からナレアさんへと視線を移す。
「......それは、遺跡や知識......それら以外ということかの?」
「そうですね。その辺は僕も十分理解しているつもりなので、それ以外でお願いします。」
「そうじゃな......今すぐに思いつくのは......一つ、あるのじゃ。」
「聞いてもいいですか?」
「......ケイには教えぬのじゃ。」
そう言って俺から視線を逸らすナレアさんは微妙に赤くなっているような......。
「ケイにはあるのかの?」
俺から視線を逸らしたまま、何故か口を尖らせながらナレアさんが聞いてきた。
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