7 スケッチブック



パタパタとはしたない音を立てながら旧校舎の階段を駆け上がる。



『信じられない』

そんなことは少しも思わなかった。

理解していなかったはずがないのだ。

それが現実なのだから。


それでも、理解することと受け入れることは違う。

必死に目を逸らして、自分が傷つかないように足掻いて、

私だけのぐちゃぐちゃな世界に、理玖先輩のことも孝介先輩のことも巻き込んでいた。


勢いよく美術室の扉を開ける。

その部屋の中で、いつものように理玖先輩が丸椅子に座りながらスケッチブックに鉛筆を滑らせていた。



「来るなっつったろ。」



こちらに見向きもしない。

代わりに吐き捨てられた言葉に熱もない。


現実を目の当たりにしても、私はまだ淡い世界を期待して手を伸ばす。

それを制するかの如く、理玖先輩は言葉を続ける。



「死んだのは俺だ。孝介じゃない。」



薄い瞳が私を捉えた。




「辛いか。豊永。」




理玖先輩の姿が滲む。

それは先輩が幻像だからではない。


私は泣いていた。




「なんで……何で死んだんですか!この前までここに居たくせに!それが当たり前だったのに…!」



私は本当に情けない人間だ。

そんなことを言っても仕方がないと分かっていながら、身勝手な台詞ばかりが音になる。

私の乱れた呼吸と嗚咽だけが教室に響く。



「なら孝介が死んでいたら、お前はそれで良かったのか。」



相変わらず熱のない言葉。

だけど、濁りもない。

理玖先輩の言葉が、私の心にストンと落ちる。



「豊永はそんな奴じゃないだろ。孝介が死んでるってアホみたいに思い込んでた時だって、辛そうにしてたくせに。」



椅子から降りて、私に近付く。



「何で俺に執着してくれてるのかは知らないが、お前にとって幸せな世界は、俺の代わりに誰かが死んでいた世界なんかじゃない。」



分かっていた。

理玖先輩の死から目を逸らし続けても、私の心は救われない。

幸せな日常が戻ってくるはずがない。



ならば何故、それでも私はこの嘘の世界を描き続けようとした?




__バスケ部のマネージャーはいつでも大歓迎だよ!


いつの日か、孝介先輩が私に言った。

きっと孝介先輩は冗談のつもりで、私だって冗談だろうって理解して、遠慮しますなんて気取って答えた。

今思えば、それが全ての答えだったように思う。


理玖先輩はいっつも仏頂面で、何考えてるのか分からないし。

節約節制とうるさいし、素直じゃないし怒ると怖いし、気の利いた言葉だって貰ったこともない。


それでも私は、美術室で理玖先輩と過ごしている時間が幸せだった。

真っ直ぐスケッチブックと向き合っているその横顔に憧れた。




「…私、理玖先輩が好きです。」




校内に予鈴が響き渡る。


涙を拭えば、もうその先に理玖先輩はいなかった。


彼が持っていたはずのスケッチブックも、棚に片づけられたまま。


埃と油絵具の中で、私は時間も忘れて泣き続けた。




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